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江戸無血開城

2020年6月26日 (金)

神にならなかった鉄舟・・・その九

明治神宮外苑に建つ聖徳記念絵画館は、平成23年(2011)に重要文化財に指定され、この絵画館の中に80点の壁画(縦3メートル・、横2.7メートル)が整然と並んでいる。
そのひとつが、山岡鉄舟が重要な役割を担った江戸無血開城をテーマに画家・結城素明が描いた『江戸開城談判』である。
絵画館の内部空間は、中央の大広間から左右両翼に回廊がのび、正面向って右翼側(東側)の第一画室と第二画室に日本画40点、左翼側(西側)の第三画室と第四画室に洋画40点が並んで展示されているのであるから、「美術館」と称されてもよいと思われる。
しかし、ここはあくまでも絵画館なのである。それは成り立ちの特異性にある。通常、美術館や博物館はコレクションが存在しており、その収蔵ほかを担う建物として社会的に要求されたという性格が存在する。

だが、聖徳記念絵画館は施設を建設しようと決定した時、まだ展示する絵画を持たず、これから制作しようという手順で進められたものであるから、美術館や博物館とは、その成り立ちの性格が異なる。それゆえに絵画館に位置付けられるのである。
『明治聖徳記念学会紀要復刊第11号』(林洋子氏論文 平成6年4月)は以下のように絵画館の絵についてこう酷評する。
≪これらは決して同時代のベストメンバーらによって描かれたのではなく、芸術の領域から離脱したような「紙芝居」のような作品が大半となっている≫
林氏は美術品とは認められない作品が並ぶと主張する。しかし、この絵画館の壁画は「とても無視できない歴史画」と認識せざるを得ない。
それを指摘しているのが川井知子氏の『明治神宮聖徳記念絵画館研究』(哲学会誌第21号平成9年11月学習院大学哲学会)である。
≪自らの史料的価値を標榜した絵画館目論見は、成功しているといってよいだろう。「壁画」は、視覚的メディアを通じて、絵画館の外へと拡散、増殖し、各所で機能していくことになるのである。「壁画」の拡散は、師範学校で使用される国定国史教科書の挿図として用いられことに始まる。そして現在でも、「壁画」は多くの書物に「史料」として、あるいは「史料」と見まがうような形で掲載されている≫
≪絵画館の「壁画」は、教科書をはじめとした、日常的に、不特定多数の人々に触れるメディアによって、「作られた歴史」から、「疑うべくもない正史」となってきたのであり、今後も「史料」として用いられる限り、「正史」として振る舞い続けるであろう≫
その通りで、『江戸開城談判』も教科書に掲載され、「正史」として扱われているのが現実実態である。

もう少し聖徳記念絵画館の特徴について検討してみたい。
角田拓朗氏は『聖徳記念絵画館の美術史上の存在意義再考』(『神園(かみぞの)』 第15号 平成28年5月明治神宮国際神道文化研究所)において以下のように述べている。
≪当時の展示施設と比較したとき、絵画館は美術館というよりはむしろ明治後半に隆盛を見せたパノラマ館に類似することが容易に想像されよう≫
≪大画面絵図、建築空間内での一覧性といった特徴がパノラマ館にはあり、明治30年代の日本で流行した理由は、特に日清日露戦争などスペクタクルを現前化することにあった。その主要な担い手のひとりが、壁画画題考証図を描いた二世五姓田芳柳だったことも奇妙な縁である≫
このように聖徳記念絵画館の特徴は、ギャラリー機能を持つ絵画館であり、明治後半に隆盛を見せたパノラマ館に類似するというのだ。

では角田氏が「奇妙な縁」という二世五姓田芳柳が、画題に応じた『下絵』と『画題考証図』の描き手となった背景要因には何があったのだろうか。
これについては横田洋一氏が『明治天皇事績をめぐって--二世五姓田芳柳と岸田劉生』(「近代画説・明治美術学会誌」平成12年12月)で以下のように述べている。
≪二世芳柳を絵画館の嘱託にするに当たっては明治美術会の出品以来、彼が歴史画に長けていたこと、パノラマなどで大型のドラマ性の強い作品を制作していたこと、特に明治44年農商務省の嘱託として英国に渡り、日英博覧会で日本の古代より現代に至る風俗変遷図を描いたことなどが採用の要因となったと見るのは当然であるが、最も強い要因として「天皇像を描き続けた一門の伝統を受け継ぐ二世芳柳」をあげたい≫
この芳柳一門の伝統については以下のように述べている。
≪聖徳記念絵画館と二世五姓田芳柳との結びつきの主たる要因はいわゆる五姓田派が明治7年の初代五姓田芳柳の「明治天皇像」以来、天皇像を描き続けたことにある≫
≪初代芳柳が描き、五姓田義松(長男)も皇后を描き、五姓田勇子(渡辺幽香・娘)も父の模写であるが天皇像を描いた五姓田一門、その一門の誉れ高い正統な方法を二世は完璧に受け継いだ。昭和になっても明治天皇及びその一代記を描き続けた。昭和六年の二世芳柳の個展にも明治大帝の御一代記を出品している。さらに芳柳は明治天皇事績画だけの作品で関西方面を巡覧する展覧会をおこなっているというから、かつて芳柳・義松親子が浅草奥山でおこなった油絵見せ物興行に相通じるところをまだ持ち続けていた≫

ところで、横田氏の論文タイトルに『岸田劉生』とあるのはどういう意味なのか。論文には、岸田劉生が黒田清輝から会合を希望する手紙を受け取り(大正12年2月)、黒田が壁画制作画家の選定に参画しているので、自分が壁画制作を頼まれると思いこみ、勇んで黒田との会合に行ったところ、早稲田大学講堂の寄付金を集めるための展覧会に絵を提供してくれ、ということだったのでがっかりしたということが書かれている。
なお、岸田は二世芳柳に対して「江戸の旅絵師のやり方の延長線上にある」と述べていたという。自分の画風とは対極に位置するという感覚を持っていたのだろう。

ここで聖徳記念絵画館壁画『江戸開城談判』が描かれるもとになった『下絵』と『画題考証図』を紹介したい。
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『下絵』画題「無記名」 画家名「二世五姓田芳柳」 所蔵「茨城県近代美術館」

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『画題考証図』 『明治神宮叢書第20巻図録編』 発行者 明治神宮社務所

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画題名『江戸開城談判』 画家名 結城素明 所蔵 聖徳記念絵画館
 
なお、二世五姓田芳柳は絵画館の壁画をもう1点制作している。80点のうち50番目の『枢密院憲法会議』で、奉納者は公爵伊藤博邦である。
 二世五姓田芳柳についてもう少し詳しく触れていくことが壁画全体への理解につながると考えるので、以下、角田氏の『聖徳記念絵画館の美術史上の存在意義再考』を参照して見ていきたい。
 ≪元治元年(1864)、現在の茨城県坂東市沓掛に生まれた倉持佐蔵の六男として生まれた子之吉がのちの二世芳柳である。明治十一年(1878)に上京、程なくして当時浅草に本拠地を構えていた五姓田工房に入門したと考えられる。すぐにその素質を一門の頭領だった初代五姓田芳柳(1827—92)に見出されたのだろう、入門からわずか二年後には養嗣子として迎えられ、五姓田芳雄と氏名を改めた≫
 ≪初代芳柳は幕末に独学に近しいかたちで技術を身につけ、明治初頭の横浜で工房を設け、西洋画の雰囲気に似せた作風を得意とした。近世絵画までには積極的に描き込まれなかった陰影を用いることで、現実再現性を重視する描写、つまり西洋絵画を模した作風で人気を博した。しかし彼が用いた画材は、現在でいうところの日本画である。当時も洋画元祖のように宣伝していたが、現実には油彩画や水彩画などの洋画を描いたわけでない≫
 実際は日本画でありながら洋画技術を取り入れたというのである。
 ≪それを教授したのが、初代芳柳の次男、二世芳柳の義兄にあたる義松(1855—1915)だった。義松はわずか十歳で横浜居留地に住んでいたイギリス人報道画家チャールズ・ワーグマンに入門。その当時、日本国内で西洋絵画を西洋人から直接学ぶ機会を得た一人だった。さらに師の手ほどきをうけたのち自然を手本とし、またたくまに西洋人と同等の技量を身につけ、明治4年には横浜居留地の外国人向けに制作販売を開始しているほどだ≫
このように五姓田派の後継者として明治20年代以降活動したのが二世芳柳で、工房自体は初代芳柳が明治25年に没した後は実質的に解体したが、初代五姓田芳柳が「明治天皇像」を描き、以降も天皇像を描き続け、長男・義松も皇后を描き、娘の渡辺幽香も父の模写であるが天皇像を描くという、その一門の誉れ高い正統な方法を二世芳柳は完璧に受け継ぐことで、下絵と画題考証図の制作担当として選定されたと思われる。
さらに推測できるのは、パノラマ的大画面の制作に秀でていたこと、当時の洋画界を二分した白馬会と太平洋美術会に属さず、トモエ会という同人組織ともいうべき小規模な集団で活動していたことも選定の理由と思われる。
つまり、二世五姓田芳柳の画界での孤立性。これが絵画館の最終的に開設出来た一因ではないかと角田氏は強調する。
さらに、一人の画家に一任したということにより、一貫性を保ち、一定の成果を得ることが出来たのだともいう。
この二世五姓田芳柳が描いたパノラマ絵が、日本赤十字社東京支部(東京都新宿区大久保1丁目2番15号)の1階に展示されているということを知った。
それは『芸術新潮』(新潮社)の平成2年(1990)11月号の記事を読み、日本赤十字社に問い合わせしたところ、同社の東京支部に掲示されていると連絡をいただいたからである。
『芸術新潮』には以下のように書かれている。
≪大震災の悪夢にただ逃げまどう群衆、そして救難に奔走する日赤救護班・・・。今回の「日本赤十字社所蔵絵画展」は、同社の創立百周年(昭和52年)に画家有志から寄贈された現代絵画を中心とした展覧会(9月22日~10月21日 東京ステーションギャラリー)。
だが、会場で最も異彩を放っていたのは、おそらく大正期から同社が秘蔵する二世五姓田芳流のこの大作だった≫
≪明治以来の「パノラマ」の大画面を思わせる生々しく徹底した情景描写は、周囲の現代画を圧していた。二世五姓田芳流は日赤特別社員で同社委嘱の絵も多いという≫
そこで早速、日本赤十字社東京支部にお伺いした。1階正面入り口から入ると、広いロビーの向かい壁に大きな額に入った絵が飾られている。許可をいただき筆者が撮影した。

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 額の下部に≪大正15年フィラデルフィア開催米国独立百年記念展覧会出品「関東大震災当時の宮城前本社東京支部臨時救護所の模様」五姓田芳柳氏 画≫と記されている。252.5cm×317.5cmの大きさ。臨場感あって迫力がある。『芸術新潮』の記事通りである。
二世五姓田芳柳と日本赤十字社との関係について、同社にお聞きすると二世の義父である一世が幕末・明治の医学者・松本良順と親交があって、その関係で赤十字社4代社長、石黒忠悳氏ともつながりがあったという。また二世は日赤特別社員であったため、絵画の制作を何度か依頼した。その作品のひとつがロビーに飾られたパノラマ絵である。
東京都支部1階ロビーに展示された理由は、それまで長らく日本赤十字社の本社(東京・港区芝大門)に置かれていたが、平成3年(1991)東京都支部が新築され、展示場所として相応しいということで修復の上展示されたものだという。

聖徳記念絵画館壁画『江戸開城談判』が描かれた背景に、二世五姓田芳柳がしっかり存在している。もう少し二世について検討を続けたい。

2020年1月25日 (土)

神にならなかった鉄舟・・・その五

鉄舟の弟子である松岡萬(よろず)が、静岡県磐田市大原の水神社境内に松岡神社として祀られており、さらに藤枝市岡部町にも松岡神社が存在していることは前号で述べた。
この二つの地で神様として祀られる要因背景は、磐田市の方が大池の干拓阻止であり、岡部町の方は山林所有権の争いで、いずれも静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡が住民有利に解決したからであった。
この松岡がその後、鉄舟とともに手賀沼(千葉県北部、利根川水系)の開墾を計画したという事実がある。筆者が主宰する「山岡鉄舟研究会」の2018年11月例会で、北村豊洋氏が次のように発表したので紹介したい。
≪鉄舟は約束の十年で宮内庁を辞した。そして谷中に全生庵を建立し駿河久能寺を再建したのは明治十六年である。廃仏毀釈でお寺が荒れており、お寺の再建、仏教の復活に精を出し仏教中興の恩人と言われた頃である。
この年の十月に、鉄舟は石坂周造、松岡萬と相談して、僧侶ら十五名と「手賀沼開拓願い」を千葉県に出している。驚きである。鉄舟の音頭で「教田院」を設立して手賀沼の新田開発を進め、米二万石を目論む利益を広く庶民に還元すると伴に、僧侶の学資に充てるという計画であった。
「教田院」とは耳慣れない言葉であるが、福を生じる田の意味で、三宝などをさす「福田(ふくでん)」という語が仏教用語としてあり、廃仏希釈後の仏教復興の為の社会施設「福田会」というのが明治十二年にできているので、それをヒントの名前かもしれないが推測の域をでない。(三谷和夫氏説)いずれにしろ、この地域にかつてなかった新しい開発の波が来たのである。
「手賀沼開墾願い」が千葉県令に提出されたと同じ「官有地拝借開墾願い(成田市立図書館蔵)」に発起人含め十五名の署名があり、三谷和夫氏の『明治前期・手賀沼開墾の二潮流(我孫子市史研究六)』に詳しく書かれている。
明治十六年十月二十日の郵便報知新聞に次の記事がある。
「手賀沼を埋め、田畑となさんとの計は、去る享保年度に起こり、田沼意次がこれに着手し、得るところの田五百町歩に過ぎずしてやむ。維新後、華族の中にその業を継がんと実施に臨み、測量に着手せし者多かりしが、沼の沿岸三十九ヵ村の漁民が、その産を失わんことを憂い、大いに不服を唱え、すでに竹やりむしろ旗の暴挙にも及ばんとする模様ありしをもって、企画皆中止となりしが、今度、山岡鉄舟氏が更にその開墾を発起し、仏教拡張の為、教田院を設けんとの企画を石坂周造氏が賛成し、去る七月中、石坂氏がまずその地に向かい、沿岸の各村吏を招集して説き、ついに三十九ヵ村調印して承諾の旨を表したるより、八宗の僧侶と結合し、かつ華族衆を同盟に加え……、同県下の不二講中より惣代をもって、埋め立て人夫十一万二千二百人の見積もりをもって、人足を無賃にて寄付する旨を、石坂氏まで申し出しという」
 開拓に反対していた地元の人達の賛同を得ている。開拓の人夫まで無償で出すという。これはいったいどういうことか。

実はこの頃、明治維新功労者の叙勲運動が盛んになり、猫も杓子も自薦に励んでいた。しかし鉄舟は勲章を二回も辞退している。さらに、勅使として鉄舟の自宅まで勲章を持参してきた井上馨に対して啖呵を切って帰らせた事も評論新聞はかき立てた。だから民衆はよく知っているのだ。俄か華族と鉄舟とは違うということを。明治十五年六月二十七日の「雪の世話新聞」記事にある。
 「この頃聞くところによれば、奏任官以上にして多年奉職の人でさえあれば、別に著名なる勲功なきも、その職務勉励の簾にて、相当の勲章を授与さるるや‥…、山岡宮内小輔は、年来の奉職中涓(けん)滴(てき)の勲功もなきに、かかる貴き物を賜る聖恩は感ずるにも余りあるが、これをおぶるは大いに恥ずる所あれば、右勲章は返納仕りたしとて辞退致されし趣きに聞く」
 俄か華族の言う事は信用しないが、土木のプロでもない鉄舟の提案する「手賀沼開拓願い」なら信用する民衆の心理を、十月二十日の郵便報知新聞記事は伝えている。明治十四年の政変(北海道開拓払い下げ問題等)の二年後のことである、住民は分かっているのだ。無私無欲がなせる説得力である。まさに鉄舟の人間力であろう。
しかし、「手賀沼開拓」は「水を制してこそできる事業」であり、明治初期の技術や当時の人力では無理である。進展はしなかった。鉄舟とて測量計測して始めからわかっていたのではなかろうか。手賀沼は江戸から一番近い湖沼として、昔から江戸商人達の新田開発意欲を誘っては失敗していた。だから今回も、名も知れぬ「山師」達の身勝手な参入を防ぎ「手賀沼」を守る為に、そして下総がこれ以上「東京の飛び地」にならないように、あえて前に立つ行為に出たのではないか。筆者はそう推察する。
庶民ファーストなのである。庶民に寄り添い真剣で骨のある姿が、偉ぶる事なく自然体で庶民に伝わるから、わざわざ自慢してホラを吹く必要はない。同じ江戸っ子でも勝海舟と違うところである≫
この北村氏の発表にあるように松岡は下総でも活躍しているので、松岡が神様として祀られていることに異論はないが、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。

 幕末三舟と称されるのは勝海舟と、山岡鉄舟、高橋泥舟であるが、この中で銅像が広く公共の地で建立されているのは海舟のみである。(鉄舟銅像は静岡市の鉄舟寺に松本検氏が個人で贈呈されたものがある)
 勝海舟の銅像は、東京都墨田区区役所に隣接する、区役所前うるおい広場の緑地内に、文政6年(1823)生まれの海舟、生誕180年ということで平成15年(2003)に建立された。
 墨田区のホームページに以下のように書かれている。
≪勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
  勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
  この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
  平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山﨑昇≫
筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で≪墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である≫と述べた。
この発言背景には、上記ホームページにある「今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄」として海舟を高く評価認識しているからであるが、しかし、 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか、と山岡鉄舟研究会ではかねがね指摘している。

東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸から東京へ」の中で「江戸無血開城をめぐるおもな動き」を解説しているが、そこでは鉄舟の役割が、海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。これでは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。
そこで2018年4月24日に江戸東京博物館に以下の問い合わせを行った。この件は2016年10月にも同館の学芸員に対し、同様の指摘をしたのだが「今後の検討課題」という回答であったので、改めて、水野靖夫氏の著書『勝海舟の罠』(毎日ワンズ)が出版されたのを機に、江戸東京博物館を管轄する東京都生活文化局を通じて尋ねてみた。
≪江戸無血開城についてお尋ね
1. 東京都江戸東京博物館で常設展示されている「江戸無血開城」に関わる解説では、慶応4年3月13日、14日の「西郷隆盛と勝海舟」会談で「江戸無血開城」が決定されたと掲示され、映像説明でもなされています。
2. 山岡鉄舟研究会・主任研究員である水野靖夫氏出版の『勝海舟の罠・第3章』では、「江戸無血開城」は慶応4年3月9日の「西郷隆盛と山岡鉄舟」駿府談判で実質的になされたと、各史料を検討した結果判断しており、当会でも同様に認識しております。
3. 公共博物館である東京都江戸東京博物館のお立場から、「江戸無血開城」は「上記1であるのか、または2であるのか」についてお尋ねを致したく、よろしくご検討の程お願いいたします≫

これに対して2018年5月31日に以下の回答が届いた。
≪「2018年4月24日付」でいただきました当館常設展示「江戸から東京へ」コーナーへのご質問につき、回答いたします。
当館の常設展示は、公立の博物館としての立場から、とくに学校で使用される教科書の記述に基づき、展示内容を構成しております。江戸無血開城については、高等学校のいずれの教科書でも言及がありますが、このうち7種類の教科書に西郷隆盛と勝海舟の交渉について記載があります。
また、高等学校の副読本として東京都教育委員会が発行している『江戸から東京へ』(平成23年度版)でも、「4月、江戸城総攻撃を前に旧幕臣勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の会談が三田の薩摩藩邸でおこなわれ、江戸城は無血開城された」とあります。
 これらの記述に基づき、当館常設展示では、「西郷隆盛と勝海舟」の交渉によって江戸無血開城が行なわれたという趣旨の解説をしております≫
ということで、江戸東京博物館は教科書通りで展示していることがわかったが、今年のノーベル賞 本庶佑氏が10月2日の記者会見で次のように述べていた。
≪研究者に必要な要素について問われた場面では、「一番重要なのは何かを知りたいという好奇心。教科書に書いてあること、文字になっていることを信じない、疑いを持つこと」と答え、有名な論文雑誌も疑う対象の例外ではないと強調。「自分の目で物を見る、そして納得する。そこまで諦めない」と述べ、多くの後進が研究の道を志すことを期待したい≫
この発言は真理を突いていると思う。歴史博物館は過去の史実を究明し、それを一般人に教える場所としての義務を負っている。ならば、異論が提出された場合、教科書に記載されているから、その通りとした、という回答はいかがなものか。館内に掲載したものに対して、自ら検討し、自信を持つ内容の掲示をすべきでないか。教科書の丸写しであったならば、博物館と学芸員の名が廃るのではないか、そのように思っているが、これについては今後も追及していきたいと思っている。

海舟銅像は、能勢妙見山東京別院(墨田区本所4-6-14)の山門先にもある。海舟が天保2年(1831)九歳の時に犬に急所を咬まれた際に全快を祈願し父小吉がここで水ごりをしたとも伝えられ、勝海舟翁の銅像が建てられている。
胸像の下には次のように刻まれた銘盤がはめ込まれている。
「勝海舟翁之像 勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和49年5月12日」
大怪我を負った海舟が妙見大士の御利生により九死に一生を得たという話は『夢酔独言』(勝小吉・勝部真長 講談社)に書かれている。
≪岡野へ引越してから段々脚気もよくなってきてから、二月めにか、息子が九つの年、御殿から下ったが、本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七郎三郎が用人の所へやったが、或日けいこにゆく道にて、病犬に出合てきん玉をくわれた。
其時は、花町の仕事師八五郎といふ者が内に上て、いろいろ世話をして呉た。おれは内に寝ていたが、知らせて来たから、飛んで八五郎が所へいった。
息子は蒲団を積で夫に寄かゝっていたから、前をまくって見たら玉が下りていた故、幸ひ外科の成田といふがきているから、「命は助かるか」と尋ねたら、六(むず)ケ(か)敷(しく)いふから、先(まず)息子をひどくしかってやったら、夫で気がしっかりした容子故に、かごがで内へ連てきて、篠田といふ外科を地主が呼で頼んだから、きづ口を縫ったが、医者が振へているから、おれが刀を抜て、枕元に立て置て、りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、漸々縫て仕舞たから、容子を聞いたら、「命は今晩にも受合はできぬ」といったから、内中のやつは泣ゐてばかりいる故、思ふさま小言をいって、たゝきちらして、其晩から水をあびて、金比羅(能勢妙見の間違いと思われる)へ毎晩はだか参りをして、祈った。
始終おれがだゐて寝て、外の者には手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともな手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともなゐから、病人はかんびよや(ママ)うがかんじんだよ≫
『夢酔独言』を書いたのは勝小吉、海舟の父親であるが、ここで勝家について少し補足したい。参照するのは『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪時代劇などでは江戸っ子の旗本として描かれる勝海舟だが、代々の武士というわけでなく、江戸に長いという家でもない。
曽祖父の銀一は越後の貧しい農家に生れた盲人で江戸に出てから、金貸し業を営み成功した。当時は、幕府による一種の福祉政策で盲人に金貸し業を許可していたからである。銀一は金で御家人株を買うと、九男の平蔵を武士にした。さらに平蔵の息子の小吉が旗本「勝」に養子入りし、勝子吉となる。この子吉の長男が勝麟太郎、後の海舟である。ゆえに武士としては三代目で、身分も低い。だが、時代は幕末の混乱期。赤貧洗うが如き生活をしていた勝だが、次第に出世を遂げていく。貧しさの中でも蘭学を学び、オランダ語を習得して、書物を通じて諸外国の事情に明るかったことが幸いしたのだ。
ペリー来航という国難にあたって、幕府は身分を問わず、町人階級に至るまで、意見書を募集したが、この時、勝が提出した海防論が上役たちの目に留まった。長崎の海軍伝習所に派遣され、その後、米国へも渡って、さらに見聞を深めた。勝の先見的な考えは幕府側、官軍側の双方から認められ、戊辰戦争の際には調整役として大役を果たし、維新後も伯爵に取り立てられるのである≫

海舟の墓は、東京都大田区の洗足池の畔に「勝海舟夫妻墓所」(大田区指定史跡)としてあり、そこの掲示板に次の説明がある。
「勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、「洗足軒」と名づけました(今の大森第六中学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました」
ここで気づくのは、能勢妙見山東京別院の海舟銅像が昭和49年建立であり、大田区洗足池畔の勝海舟夫妻墓所が大田区指定史跡に認定されたのも同じ昭和49年である。
どちらも同じ昭和49年という背景説明は簡単である。NHKが勝海舟を12作目の大河ドラマとして、子母沢寛の同名小説を原作に取り上げたことと無関係でないだろう。
主人公の勝海舟役は渡哲也でスタートしたが、渡が肋膜炎に倒れて降板、渡が第9回まで務めた後に異例の主役交代となり、第10回以降は松方弘樹が引き継いだので話題となったこともあり、最高視聴率は30.9%、年間平均視聴率は24.2%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)という好評を博したドラマであった。
大田区指定史跡説明掲示板で、さらに気づくのは、「妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています」というところ。
普通の感覚では夫婦である以上、最初から夫の隣に葬られるのではないだろうか。どうして民子は最初に青山墓地だったのか。どのような理由で洗足池に葬られるようになったのか。大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であった。このところを次回でもう少し詳しく続けたい。

 

2016年10月 6日 (木)

「江戸無血開城」論考(4)江戸焦土作戦

「江戸無血開城」論考(4)江戸焦土作戦
                                                                          水野靖夫

【1.「江戸焦土作戦」とは何か】
 勝海舟が、慶応4年3月13・14日の西郷隆盛との会談に備え巡らした様々な策の一つとして、「江戸焦土作戦」(以下「焦土作戦」)なるものがある。
  これは勝が、火消し・ヤクザなどの親分のところを回って金を渡し、官軍が進撃して来たら、子分を使って市街を焼き払い焦土と化し、その進撃を食い止めるよう命じ、同時に大小の船を用意し、市民を房総に避難させる準備もした、というものである。これにより西郷に「圧力」をかけ、官軍の江戸総攻撃を中止させようとした策である。
 この策が実際に実行できるか、実行した場合に、官軍を窮地に陥れ、かつ船で江戸中の市民を避難させるという所期の目的が達成できるか、といった実現の可能性には触れない。テレビで火の燃え広がる様子をコンピューターでシミュレーションして見せたが、実現の可能性を証明するのは容易ではなく、主観に陥る恐れがあり、何よりも無意味である。
 西郷との会談のための策という以上、重要なのはこの「焦土作戦」が、有効であったか否かである。すなわち西郷をして、慶喜の処分を軽減し、江戸攻撃を中止に追い込むことができたか、さらには徳川の降伏条件の緩和に役立ったかという点である。これを証明する史料があるかを検証する。

【2.「焦土作戦」が記載された史料】
 そもそも「焦土作戦」は、どのような史料に書かれているのか。これは勝のかなり個人的な策であり、まず勝自身が書いた『海舟日記』『解難録』に記述されている。さらに後年の海舟の談話で語られている。これらを順次検討する。

 まず海舟の書いた『海舟日記』と『解難録』にはどのように記録されているのであろうか。
(1)『海舟日記』(慶応四戊辰日記)
 「焦土作戦」は、『海舟日記』の慶応4年3月10日に書かれており出所が明確である。この日は山岡鉄舟が西郷との会談を終え、江戸に戻り復命した日である。この日の海舟の日記には、そのことで鉄舟を絶賛している。主君の恭順の真をよく官軍側に納得させたこと、法親王(天台座主輪王寺宮入道公現親王)始め多くの者が嘆願に向かったにもかかわらず誰一人成功しなかったが、鉄舟だけが降伏条件の書付を持参して帰った、とその沈勇・識見を賞賛している。さらにその降伏条件の全内容が記されている。
   そして大久保一翁始め重臣が降伏条件緩和の歎願を検討し、官軍参謀に訴えようとしているが、自分には考えがある、と言って「焦土作戦」について記載している。その要旨は以下の通り。
   ○官軍は15日に江戸城を攻撃するらしい。
   ○官軍は3道から、市街地を焼き、その退路を断ちながら進軍してきているらしい。
   ○当方の嘆願が聞き入れられず、官軍が攻め寄せて来れば、江戸は灰燼と化し、無辜の死者は百万に達するであろう。
   ○もし官軍がそのような暴挙に出るなら、こちらも黙ってはいない。こちらから先んじて市街を焼き、江戸を焦土と化し、進軍を妨げてみせよう。この決意を持って官軍に対応するつもりだ。百万の民を救えないなら、自らこれを殺そうと決心した。

少々長くなったが、日記に勝がどのように書いているかを見た。徳川の嘆願が受け入れられず、官軍が進撃して来るなら、江戸を自ら焦土と化して戦う決心をした、と述べている。

(2)『解難録』
『解難録』でも「33.一火策」「32.府下鼎沸(ていふつ) 乾父(おやぶん)使用」と出所が明確になっている。
『解難録』は、明治17年に旧稿を整理したもので、旧稿は主として幕末維新期に書かれた「解難の書」によって構成されている。つまり『解難録』は幕末維新の頃、海舟日記とほぼ同じ時期に勝海舟の手によって記録されたものである。
  この中の「33 一火策」の項に「江戸焦土作戦のことが詳しく書かれている。要旨は以下の通り。
   ○官軍は3月15日に江戸城を攻撃すると決定している。自分は出掛けて行き西郷と交渉する。
  ○自分は密かに無頼や鳶を使って江戸の治安を維持している。
 ○もし西郷が、自分の言い分を聞かずに江戸城を攻撃するなら、大人しく降伏はしない。
  ○もし江戸に進軍して来るなら、無頼や鳶に命令し、市街を焼き、進退を立ち切り、焦土と化す。民を殺すのは官軍の側であって、自分ではない。
  ○これはロシアがナポレオンを苦しめた策である。
 ○自分の策はこれとは違う。こうすれば1日で焦土となって戦いは終わり、それによりむしろ無辜の民の死は少なくて済むであろうと思う。
  ○官軍の伊知地(正治)(東山道先鋒、総督府参謀)という者は、火を放って退路を断ち進軍して来ると聞いた。少数で多数に勝つ戦法である。伊知地は豪傑である。
  ○自分は火付け道具を密かに用意したが、不要となり品川の海に捨てた。そのため、後に新政府より嫌疑をかけられた。
  ○西郷は度量が大きく、とても自分は及ばない。西郷の仕事を手伝わされる羽目になるのもやむを得ない。
  ○大火が発生した場合、庶民を避難させるため船の用意をさせた。
  ○幸いにして、江戸攻撃は中止となり、「焦土作戦」は徒労に終わった
     (幸にして無事を保ち、此策終(つい)に徒労となる
  ○「焦土作戦」を笑う者もいるし、自分も愚策とは思う。
  ○しかしこうして自分の精神を活発にしておかなければ、西郷との交渉を貫徹することは出来なかった。

なお、『解難録』のこの「33 一火策」の前の「32 府下鼎沸(ていふつ)、乾父(おやぶん)使用」という項の内容は以下の通りである。
官軍が迫り、江戸市中は逃げ出す者で混乱に陥った。自分は、無頼の徒が、強奪・放火をすることを恐れ、火消し・博徒などのうち名望のある親分35~36名に金を渡し、自分が指図するまでは妄りに騒ぎ回るなと諭した。皆、自分から直接談判を受けたことに感激し、快諾した。こうした無頼の徒に対して、その義侠心に訴え服せしめた。
ここには、江戸市中の治安の維持が書かれており、次の「火策」については記されていないが、その布石であったことは明らかである。

 『解難録』の「焦土作戦」に関する記載内容を紹介したが、ここには、西郷にこの策が伝わった、伝わって西郷が臆して江戸攻撃を中止した、降伏条件に付き譲歩したとは書かれていてない。それどころか、「江戸攻撃は中止となり、『焦土作戦』は徒労に終わった」と、述べている。「焦土作戦」により江戸攻撃が中止になったのではない。その逆で、別の理由で江戸攻撃が中止になったのであり、その結果「焦土作戦」は不要になったと言っているのである。
ただ最後にこの様にイザとなれば戦うぞという、強い気持ちで臨まなければ、交渉は成功しないと記しているに過ぎない。

以上の『海舟日記』『解難録』は勝自身の手になるものだが、この他に勝の談話をまとめたものがある。『氷川清話』(吉本襄編)と『海舟座談』(『海舟余波』の改訂版)(巌本善治編)である。『海舟日記』等はその事実が発生した時点で書かれたものであるが、『氷川清話』等の方は、それから30年程後の、勝晩年の談話である。そのため記憶が不確かになっている面もあり、また関係者が没してしまった後のため、勝一流の自慢話が混じっている。
一般的に、自分のことは過大評価し、他人のことは逆に過小評価するものである。まして政敵、ライバル、手柄争いの相手などは、時に酷評することがある。まして対象者がすでに没している場合は反論がないので一層増幅される可能性がある。特に勝の場合は、敵も多く、一流の毒舌家でもあり、特にその傾向がみられる。こうしたことも踏まえ、この両談話の「焦土作戦」に関連すると思われる箇所を見てみたい。

(1)『氷川清話』(角川文庫 1972年)
 『氷川清話』の「理屈と体験について」の中の「無学な人ほど真実」という項に以下のように書かれている(173~174頁)。
   ○へたな政論を聞くよりも、無学文盲の徒を相手に話す方が大いにましだ。(後略)
  ○新門の辰(五郎)などはずいぶん物の分かった男で、金や威光にはびくともせず、ただ意気ずくで交際するのだから、同じ交際するにも力があったよ。
  ○官軍が江戸城へ押し寄せて来たころには、(中略)いわゆるならずものの糾合にとりかかった。(中略)四つ手駕籠に乗って、あの仲間で親分といわれるやつどもを尋ねてまわったが、骨が折れるとはいうものの、なかなかおもしろかったよ。
  ○「貴様らの顔をみこんで頼むことがある。しかし、貴様らは金の力やお上の威光で動く人ではないから、この勝が自分でわざわざやってきた」と一言いうと、「へえ、わかりました。この顔がご入用なら、いつでもご用にたてます」というふうで(後略)
  ○官軍が江戸へはいって、しばらく無政府の有様であったときにも、火つけや盗賊が割り合いに少なかったのは、おれがあらかじめこんな仲間のやつを取り入れておいたからだよ。
   以上である。ここでは「焦土作戦」には直接触れていない。単にならず者の親分と交際があり、江戸開城の頃、彼らを利用して江戸市中の治安維持に努めた、と誇っているだけである。この部分の表題は「無学な人ほど真実」である。

(2)『海舟座談』(『勝海舟全集 20「勝海舟語録」』)(講談社 1972年)
 『勝海舟全集 20「勝海舟語録」』に『海舟座談』が収録されている。
   その「明治30年3月27日」の談話に以下の記載がある(73~74頁)。
   ○町人以上は、皆騒ぎはしない。それ以下のものが騒ぎ出しては如何ともしようがない。(中略) 遊人などが仕方がないのだ。それを鎮めるのに、骨が折れたのだ。
  ○えたの頭に金次郎、吉原では金兵衛、新門の辰。この辺で権二。赤坂の薬鑵(やかん)の八。今加藤。清水の次郎長(後略)
  ○女では八百松の姉。橋本。深川のお今。松井町の松吉。
  ○剣術の師匠をした頃は、本所のきり店〔下級の娼家〕の後ろにいた。鉄棒引(かなぼうひき)(夜警)などに弟子があった。それで下情に明るい。言葉もぞんざいだ。
  ○あの親分子分の間柄を御覧ナ。何んでアンナに服しているのだい。精神の感激というものじゃないか。
  以上の部分には、「焦土作戦」に触れた箇所はない。下々の者との付き合いがあり、下情に通じていたこと、そして幕末の治安の維持にこれらの者を利用した、と語っているだけである。
 唯一「焦土作戦」を匂わせる箇所は「明治31年11月30日」の談話にある(218頁)。以下その部分を全文引用する。
  ≪ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ。西郷の尻馬にのって、明治の功臣もなにもあるものか。自分が元勲だと思うから、コウなったのだ。
  江戸の明け渡しの時は、スッカリ準備してあったのサ。イヤだと言やあ、仕方がない。あっちが無辜の民を殺す前に、コチラから焼打のつもりサ。爆裂弾でもたいそうなものだったよ。あとで、品川沖へ棄てるのが骨サ。治まってから、西郷と話して、「あの時は、ひどい目にあわせてやろうと思ってた」と言ったら、西郷め、「アハハ、その手は食わんつもりでした」と言ったよ。ナアニ、おれのほうよりか西郷はひどい目にあったよ。勝に欺されたのだといって、ソレハソレハひどい目にあったよ。≫
  ここには「焼打」という表現が見える。しかしそれよりも注目すべきは西郷とのやり取りである。「ひどい目」とは「焦土作戦」のことであろう。このやり取りからは、江戸開城時の二人の会談でこの話題は出なかったことが読み取れる。またこの「焦土作戦」を知った西郷が江戸攻撃を中止した、などということはなかったことが読み取れない。もし二人の会談にこの話が出ていれば、勝は≪ひどい目にあわせてやろうと思ってた≫とは言わないし、西郷も≪その手は食わんつもりでした≫とは言わない。

  ≪ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ≫と言うくらいの勝であるから、もし「焦土作戦」が功を奏し、それにより西郷から何らかの譲歩を引き出したというのであれば、「ナアニ、どうしてもオレのいうことを聞かんなら、江戸に火をつけるゾ、と脅してやったヨ。そしたら、西郷のヤツ、勝さん、それは困る、と言ってオレの出した条件は全て呑んだよ。そして自分一存では決められないから、と言って、翌日京都にスッ飛んで行ったヨ」くらいのことは言ったであろう。しかし『氷川清話』にも『海舟座談』にも、「焦土作戦」が西郷に対し功を奏したという自慢話は語られていない。

【3.学者の見方】
  学者は「焦土作戦」についてどのように書いているであろうか。勝海舟の主な研究家の記述を検証する。
(1)江藤淳 『海舟余波 わが読史余滴』(文春文庫 1974年)
 江藤淳は『海舟日記』『解難録』『氷川清話』の他に伊藤仁太郎の『幕末の海舟先生』を引用して、勝は、火消人足・博徒、魚河岸・青物市場の若い衆に、≪肩に錦切を付けている官軍を見つけしだい、応接無用、有無をいわさず片っ端から斬ってしまえ≫ ≪「官軍の兵士ならかまわぬから、どしどし斬ってしまえ。あばれ放題あばれろ≫(163~164頁)とけしかけた、と言っている。そしてまた≪この講談調の逸話はなかなか面白いが、面白すぎて……≫(165頁)とも言っている。いずれにしても江藤は「焦土作戦」の内容を引用しているだけで、西郷との会談に、具体的にどのような効果があったのかには触れていない。「焦土作戦」の中身については、出典を明らかにして解説しているが、その効果については、西郷との交渉を前に、勝の精神を活発ならしめた、という以外に、なんら具体的効果というものを、出典を示して説明してはいない。

(2)勝部真長 『勝海舟』(PHP研究所 1992年)
 勝部真長は『海舟日記』『解難録』の内容を紹介し、「焦土作戦」によりナポレオンがロシアで大敗した様子、火消しの親分新門辰五郎の人と為りなどを紹介している。
 そして≪江戸無血開城となって、海舟の「一火策」はムダになった。(中略)もし談判破裂のときは打つ手がある、という自信がこちらにあればこそ、気迫がこもり、相手を圧倒することができたのである。その意味で決してムダではなかった≫と述べている。さらに≪海舟も「日記」に、「小拙、此の両日は全力を以てす」と書いている。およそ外交談判というものは、気迫である。ただ理路整然と言葉を並べるだけでは、相手を承服させることはできない、というのが海舟の信念である≫(181~182頁)と記述している。
 しかし勝部は、「焦土作戦」が西郷に対する「圧力」となって、西郷の江戸攻撃を断念させたとは書いていない。

(3)松浦玲 『勝海舟 維新前夜の群像3』(中公新書 1968年)
         『勝海舟』(筑摩書房 2010年)

 松浦玲氏は、『勝海舟 維新前夜の群像3』では『海舟日記』『解難録』の「焦土作戦」を紹介しているが、これより約40年後に書かれた『勝海舟』では「焦土作戦」には全く触れていない。前者は200頁足らずの新書であり、後者は900頁に及ぶ大部の単行本である。多くの勝海舟研究書に紹介され、小説・児童書・マンガにも書かれ、さらにテレビでも取り上げられている「焦土作戦」を、勝海舟研究の大家の松浦氏はなぜその決定版ともいうべき『勝海舟』に書かなかったのであろうか。9歳の時犬に睾丸を噛まれたという事件は書いているにもかかわらず、「焦土作戦」は書いていないのである。
 その理由は、勝が実際に工作したのは事実であり、面白い話ではあるが、西郷・勝会談に対しては何の効果もなく、歴史的には無用な事実だと判断したから省いたのではなかろうか。もし「焦土作戦」が「江戸無血開城」に何らかの影響を与えたのであれば、松浦氏がそれに触れないはずはない。「川中島の合戦」が、物語としては面白いが、歴史の流れから見れば一局地戦に過ぎず、歴史的重要性が小さいため、ほとんどの歴史教科書に取り上げられていないのと同じであろう。

【4.小説・児童書・マンガの記述】
「焦土作戦」が面白い話題のためか、小説等でも取り上げられる。しかしそれが西郷の知るところとなり、そのために西郷が江戸攻撃を中止した、と書いているものはない。

(1)『江戸開城』(海音寺潮五郎 新潮文庫)(1987年)
 海音寺潮五郎は『解難録』『海舟座談』を引用して、勝が、火消しの頭などに放火を依頼したり、房総の漁師らに船を出して江戸の市民らを救うよう依頼したりした、と記している。
 また渡辺清左衛門(清)が後年史談会で語った追憶談で、勝の西郷への訴えを次のように引用している。≪一口に旗本八万騎と申しますが、このほかに伝習隊その他の近年とり立ての兵も莫大な数があります。(中略)今日では慶喜といえども、命令を出しましても、その通りに従わせることは出来ない形勢なのです。だのに官軍では明日兵を動かして江戸城を総攻撃しようとなさる。必ず何らかの変動がおこり、慶喜の精神が水泡に帰するばかりでなく、江戸はいうまでもなく、天下の大動乱となることは明らかであります≫(150頁)と。
 そして海音寺は≪勝のことばの最後のくだりは、実におそろしい威迫に満ちたことばであった。そうなった場合には、勝の命令一下、江戸中のナラズモノらがそれぞれに放火して。官軍を江戸の町とともに灰燼にしてしまうということを言っているのである。はたして西郷にそれが読み取れたかどうか、西郷は依然にこにこして聞いているだけである≫(150~151頁)と続けている。
 海音寺は、「官軍が無理やり攻撃を仕掛けてくれば天下は大動乱になる」ということは、「勝が手配したナラズモノが江戸中に放火すること」だと言っている。そしてこれを西郷が読み取ったかどうか、と言っている。勝は「焦土作戦」のことを西郷に明言はしておらず、ましてや「天下が大動乱となる」という勝の言葉から、西郷が「焦土作戦」を想像してこれを恐れ、江戸攻撃を中止したかは疑問である、と海音寺は言っているのである。言葉を変えれば、海音寺は、勝が「焦土作戦」で西郷に「圧力」をかけ、江戸攻撃を中止させた史料などない、と言っているに等しい。
 
(2)『勝海舟 私に帰せず』(下)(津本陽 潮出版社)(2003年)
 津本陽氏は『解難録』『海舟座談』の要点を引用し、新門辰五郎・清水の次郎長らに江戸の治安維持から放火まで頼んだこと、また信太(しのだ)歌之助(元講武所柔術教授方)らに頼んで江戸市民の房総への避難のため、船を用意させたことなどが書かれている(214頁)。
 こうした「焦土作戦」準備の内容については触れられているが、これが西郷に伝わり、それによって西郷が江戸攻撃を中止したとは、一言も書いてない。

(3)『江戸を戦火からすくった男 勝海舟』(安永貞夫 講談社 火の鳥伝記文庫)(1985年)(児童書)
 勝海舟が、町火消し「を」組の頭・新門辰五郎を訪ね、江戸に火をつけること、そして避難する人たちを助けるためありったけの船を集めることを依頼することが書かれている。しかし江戸の町に放火する理由についての説明はない。まして西郷との交渉に、この話は一切出てこない。江戸城明け渡しの後で、お礼に町火消に金を配った後日談だけが書かれている。

 マンガを2件紹介する。絵はそのまま掲載できないので、当該部分の解説文とセリフのみを紹介する。いずれも勝が火消しやヤクザの親分に放火を依頼する場面だけで、西郷への「圧力」など描かれてはいない。
 

 (1)『勝海舟』(学研まんが人物日本史)(監修 樋口清之、まんが ムロタニツネ象)(学習研究社)(1984年)(127~128頁)
 勝「よしっ! 江戸中の火消しと、やくざの親分のところを回ってくれ! 急げ!!」
 勝「談判が決裂したときは、江戸の町を火の海にして、官軍と戦うつもりだ。放火に協力してくれ!!」
 親分たち「幕府のヘッポコ役人なら聞きやしませんが、勝先生のお頼みとあれば、なんでもやりやすぜ! 官軍を江戸の火であぶってやりまさあ!」
  親分たち「江戸をいちばん愛している勝先生が……、その江戸に火をつけろとおっしゃるんですからね。われわれ江戸っ子の意気を、みせてやりまさあ。」
  さらに、房総に船を集めて、江戸の大火が見えたら、すぐ江戸川にこぎ入れて難民を救えるように、手配をしました。
  船頭「勝先生、いつでも動かせますぜ。」
 勝「ありがとうよ。」

 (2)『勝海舟』(コミック版 日本の歴史 幕末・維新人物伝)(企画・構成・監修 加来耕三 原作 水谷俊樹、作画 中島健志)(ポプラ社)(2013年)(96~96頁)
   一方その頃海舟は江戸火消しの元締め新門辰五郎宅にいた。
   勝「アンタに頼みがある 新政府軍が江戸に入ったら町に火をかけてもらいてぇんだ」
   辰五郎「ええっ! 旦那 あっしらは火消しですぜ 火をかけろだなんて……」
   勝「どのみち戦になりゃ燃えちまうんだ! だったら少しでも進軍を遅らせて 和平交渉に持ち込むのが狙いよ」
  辰五郎「江戸の町民はどうするんで?」
  勝「抜かりはねぇ その前に漁船を使って房総へ避難させるさ」
  勝「頼む! これができるのは火の扱いを熟知しているアンタしかいねぇんだ!」
  辰五郎「……承知しやした! でもそうならないことを祈っておりやすぜ 勝の旦那」 

【5.テレビ放映】
  「焦土作戦」をテレビではどのように扱っているであろうか。
(1)BS-日本テレビ「片岡愛之助の歴史捜査」
  BS-日本テレビ「片岡愛之助の歴史捜査」はサブタイトルが「江戸無血開城の真相と江戸焦土作戦に迫る!」で、「焦土作戦」を重視した構成になっている。「新政府軍は金を持っていなかったので、江戸の物資を当てにしていた。その新政府軍に打撃を与えるため、火消・博徒に金を渡して江戸中に火をつけ焦土と化すよう協力を依頼した」と述べている。そして江戸博のマイクロフィルムから「戊辰以来会計荒増」を探し出し、慶応4年2月、「15日 江城官軍侵撃に門生その他間謀焼討手当」として250両(現在の価値で2500万円)が記録されていることを紹介している。
  また実際に江戸の町火消が一斉に火を放ったらどのように燃え広がるか、コンピューターによりシミュレーションを行っている。
 「これが西郷に届くかどうかということですよね」と解説しながら、どのようにして届けたか、届いたか否かについては、述べていない。「作戦の噂を相手が知れば当然ひるむからプレッシャーになった、この情報だけでも十分交渉の切り札になった」と解説している。しかし西郷にプレッシャーになったことを示す史料などはなく、西郷がどのように反応したかについては何も語っていない。「交渉の切り札になった」というのは、飽くまで番組解説者の推測に過ぎない。

(2)BS-TBSの「THE歴史列伝」
  BS-TBSの「THE歴史列伝」も似たような内容である。江戸の町に火をつける依頼のため、江戸の町を仕切る強者たち(とび職・テキ屋・ヤクザの大親分・火消し)を自宅に呼び寄せた、と言っている。一方、火の海となって混乱する江戸の町から住民たちを救うため、江戸中から避難準備船を集め、そのために2千数百万両(2億5千万円)かかり、これがほとんど勝の自腹だったと言っている。
  また次のようにも言っている。「わざとうわさが広まるようにした。分かった相手が当然ひるむ。江戸の町には新政府軍のスパイみたいな存在が入り込んでいた」と。しかしスパイがいたとしても、それが西郷に伝わり、西郷がひるんで、江戸総攻撃をためらったなどという史料はない。「分かった相手が当然ひるむ」というのは、日本テレビと同様に、解説者の何等根拠のない憶測に過ぎない。
 
  両番組に共通しているのは、「作戦を知れば当然ひるむはず」という点である。しかし両番組とも、西郷がこれを知ったという事実はおろか、ひるんだという事実も語ってはいない。西郷がこれを知った、そしてひるんだということを示す史料などないのである。

【6.結論】
「焦土作戦」は、勝が西郷隆盛との会談を成功させるために取った「工作」であるというが、果たしてそうであろうか。このような準備をしたことは事実であるが、これが勝の「工作」として西郷に対し効果があったのであろうか。結論は否である。
その理由は「工作」として実効があったと主張する以上、この策が西郷に対する「圧力」となったという史料がなければならない。その「圧力」によって西郷が江戸総攻撃を中止し、慶喜の処分等降伏条件の緩和に応じたという史料がなければならない。しかし西郷が勝の準備したこの策を恐れ譲歩した、などという史料はない。何よりも勝自身が書いた『海舟日記』『解難録』に、この策が西郷にプレッシャーを与えたなどと記されていない。それどころか、『解難録』に「幸にして無事を保ち、此策終(つい)に徒労となる」と書いているように、「焦土作戦」は徒労に終わったのである。つまり勝の「焦土作戦」という工作は、西郷・勝会談には何の影響も与えなかったと勝自らが書いているのである。
もしこの策が功を奏していたのであれば、放談録である『氷川清話』や『海舟座談』に勝の自慢話が載っているはずである。しかしそれがない。
また「焦土作戦」を扱った著書やマンガ、テレビ番組などは、いずれも「焦土作戦」の準備の実態、特に火消しやヤクザの親分に勝が放火を頼んだことを紹介するばかりで、西郷に対し「圧力」となったということは一言も述べていない。特に勝海舟研究の大家である松浦玲氏の集大成ともいうべき『勝海舟』(筑摩書房)に、この「焦土作戦」が全く触れられていないということは、幕末・維新史においてほとんど歴史的価値がないと解釈されたものと思われる。

2016年10月 4日 (火)

「江戸無血開城」論考(3)「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)

「江戸無血開城」論考(3)「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)
                                                                                        水野靖夫

この「木梨・渡辺ルート」ついては萩原延壽の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)に詳しく分析されているが、前論考の「サトウ・ルート」に関連し、勝海舟の工作があったか否かに論及する。

【1.「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)とは何か】
 先ず「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)とは何かである。
 江戸総攻撃の直前、東征軍先鋒総督参謀の木梨精一郎と渡辺清は、横浜のイギリス公使館を訪れ、江戸総攻撃による負傷者を看護するため、病院の提供を依頼した。その時パークスは木梨らに次のことを語った。
(1)すでに徳川慶喜は恭順していると聞く。いずれの国も恭順すなわち降参している者に戦争を仕掛けるということはない。それは国際法(国際世論のこと)に違反している。
(2) 戦争を始める場合その国の政府は、外国人居留地の領事に連絡し警護の兵を出さなければならないが、何の連絡もなくどうなっているのか分からない。仕方なく我が海軍兵を上陸させて居留地を護らせている。日本は無政府の国と言わざるを得ない。

パークスよりこう告げられた木梨・渡辺は、明日江戸攻撃は出来ない、早く大総督より各国領事に命令を出さねばならないと考え、木梨は駿府の大総督府へ、渡辺は品川の西郷隆盛のところへ走った。渡辺が西郷のところに報告に来たのが14日の午後2時、正に勝との第2回目の会談の直前であり、西郷に言われて会談に同席した。以上は、渡辺の書いた『江城攻撃中止始末』の内容である。

【2.木梨・渡辺はいつパークスと面会したか】
  実は木梨・渡辺がパークスに面会したのはいつなのか、その日にちには諸説ある。萩原は『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で、①「復古擥(らん)要(よう)」②「戊辰中立顛末1」③「横浜情実」④「岩倉家蔵書類」そして前記の⑤「江城攻撃中止始末」の5つの記録を挙げ、次のように述べている。

  パークスは情勢が分からないので、情報収集のため13日午後にラットラー号を大阪に派遣した。このことについて、①②③は「昨日」と書いている。すなわちこの3つは、面会日は13日と言っているが、実は14日である。13日を昨日と言うことは、面会日は14日ということになる。④はもともと面会日を14日と言っている。⑤は、面会日については書いてないが、ラットラー号の派遣(13日)を「先達て」と言っているので、面会日は必然的に14日以降ということになる。以上より面会日は14日である。

 ラットラー号が13日に派遣されたことは、次の、パークスがスタンレー外相に送った3月17日の報告書(①資料)とそれに添付されたスタンホープ大佐の報告書(②資料)に記載されている。

  ① 資料 3月17日(西暦4月9日)付スタンレー外相当て報告書

1
Then Majesty’s Ship “Rattler” was accordingly
despatched on the 5th Instant with the
accompanying Despatch which Mr. Mitford ……
そして、女王陛下の船「ラットラー号」がそのため同月(4月)5日(和暦3月13日)に派遣された。

  ② 資料 3月13日(西暦4月5日)付スタンホープ大佐のパークス当て報告書
  これは前記①の添付資料。
    ②―1 冒頭部分

2
                               H.M.S. ”Ocean” at
                                            5April,1868                                          
Sir,
   I have the honor to acknowledge
the receipt of Four Excellency’s letter of   

   ②―2 後半部分

3
F.E. that I have ordered the “Rattler”  
to perform this service and for Baron
Brin to be received for a passage
in accordance with F.E’s request.
 
   ②―3 最後の部分

4
   The“Rattler” will proceed this   
afternoon.
(signed)Chandos S. Stanhope
                               Captain and  
                               Senior Naval Officer

 ②資料の冒頭部分(②―1)は、「女王陛下の船(H.M.S. : Her Majesty’s Ship)「オーシャン号」の艦上にて、4月5日1868年」と、この報告書の作成日が書かれている。そして報告書の後半部分(②―2)には「私は“ラットラー号”にこの任務の遂行と、4か国の公使館(F.E. Four Exellencies)の要請に基づきブラン男爵の便乗を認めることを命じた」、最後の部分(②―3)には「“ラットラー号”は本日(4月5日〔和暦3月13日〕)午後(兵庫に)向かうでしょう」と書かれており、スタンホープ大佐の署名がある。この報告書は「控え」であるため、署名がされているということを表示している。  

 さらに萩原は、①②④は面会が終わったのは「夕刻」と書いている、と述べている。14日の夕刻とは、西郷・勝会談の終わった時刻である。パークスとの面会は横浜、西郷・勝会談は品川。①②④に基づく限り、パークスの話は、会談前の西郷に伝えられなかったと言える。

 残るは③⑤であるが、③はラットラー号の記述より面会日は14日ということになるが、時刻は不明である。

 多くの識者が引用する⑤「江城攻撃中止始末」について検討を加えてみたい。「江城攻撃中止始末」は渡辺清が明治30年(1897)に史談会で語った談話であり、日付に誤りと思われる箇所がある。史談会速記録より、日付に関連する部分を拾ってみると次の通りである。
 (1)≪14日に江城を攻撃する≫ ➡ 実際の江戸城攻撃予定は15日
 

 (2)≪12日に藤澤驛に着た。所が木梨精一郎が大総督の命を承けたといふて此に來た。……横濱に参り英の「パークス」に逢ふて……清ハ木梨と同道して急に横濱に参った。……「パークス」は幸ひ在邸で面會しました≫ ➡ 萩原の言う通り、いつ横浜に行きパークスに会ったかは書いてないが、このまま読めば12日に木梨が来て直ぐにパークスに会いに行ったとすれば、面会日は12日ということになる。
 

 (3)≪それ故先達て自費を以て船一艘を雇て兎も角兵庫に使いして、彼處まで行けば大抵様子が判るだらうと思ふて聞きにやった位である≫ ➡ これはラットラー号のことであろう。「自費で船を雇って」というのも間違いだろうが、それは30年も後の渡辺の記憶の曖昧さで仕方ないとして、「先達て」に拘れば、13日が「先達て」ということは、今日は14日以降ということになる。つまり面会日は14日となる。
 

 (4)≪品川に行き此事を西郷に告ぐべしと……品川に着したのは午後二時頃であった……勝安房が急に自分に逢ひたいといひ込んでおる。之ハ必ず明日の戦争を止めて呉れといふじゃらう≫ ➡ 勝が面会を求めているとなれば、この日は13日になる。しかし明日の戦争という表現は、江戸城攻撃が15日であるから、今日は14日ということになる。しかし渡辺は江戸城攻撃は14日と言っているので、そうであるとすれば今日は13日ということになる。
 

 (5)≪君も一所に行たらどうかい……其時西郷と一緒に出たは村田新八、中村半次郎、清はほんの付け物のやうにして其席に出ました≫ ➡ この後の会談の様子は、13日のものではなく、14日の会談内容であるので、この日は14日ということになる。

 萩原は『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で≪日付を明示していないが、前後の文脈から推して、3月12日(陽暦4月4日)か3月13日である≫(24頁)と言っている。確かに文脈だけから判断すれば、その通りかもしれない。12日に藤沢に着き、直ぐに木梨と一緒にパークスに会いに行ったとすれば、渡辺がパークスに会ったのは12日ということになる。また江戸城攻撃予定は14日と言っているから、明日の戦争という表現から、今日が13日であることを意味する。そうすれば萩原の言う通り、文脈からはパークスに会ったのは12日か13日、ということになる。
 

 しかし、江戸城攻撃予定が15日、ラットラー号派遣が13日、西郷と勝の2回目の会談が14日という、動かせない歴史的事実を踏まえて読めば、渡辺がパークスに会ったのは14日ということになる。萩原ほどの学者がなぜ≪日付を明示していないが、前後の文脈から推して、3月12日(陽暦4月4日)か3月13日である≫と類推したのか、甚だ疑問である。
 

 なお、パークスのスタンレー外相当て3月17日付報告書に,「御門の軍の士官」“an officer of the Mikado’s army”がやってきたので、これに横浜の自衛策を伝え、御門の兵が隊列から離れ横浜をうろつくことがないよう伝え、了解を得た、と記録されている。この士官は、内容から木梨達と推測されるが、その名も、訪ねてきた日付も書かれていない。

以上まとめると以下のようになる。
 (1)多くの記録が示しているように、木梨・パークスの面会終了が、西郷勝会談の終了とほぼ同時であれば、西郷に対する「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)は時間的にあり得ないことになる。

 (2)「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)があったと言えるのは、渡辺の「江城攻撃中止始末」に基づく場合である。これについては次のことが言える。
 

 (ア)西郷にとって勝との会談時にこれが「圧力」となったか否かは、推測の域を出ない。既述のように萩原は『遠い崖』(7巻「江戸開城」)の中でこれを否定している。西郷が自派の説得に利用したという記録はあるが、勝との会談で圧力となったことを西郷自身が語った記録はない。
 渡辺は≪西郷も成る程惡かったと、「パークス」の談話を聞て愕然として居りましたが、暫くしていハくそれハ却て幸であった≫と言った、と述べている。萩原は、すでに江戸攻撃を中止することを決めていた西郷が、「愕然」としたのは、冒頭で述べた(1)「恭順している慶喜を攻撃するのは国際法違反」と言われたからではなく、(2)「領事に連絡しないのは無政府の国」と言われたからである、と述べている。そして「却て幸」と言ったのは、自派の強硬派を説得する材料になると考えたからであると解釈している。事実江戸城攻撃中止命令を聞いた板垣退助が西郷に抗議しに来たとき、このパークスの話をしたところ、≪板垣もなる程仕方がない。それなら異存を云うこともない。それでハ明日の攻撃ハ止めましやう≫と言って大人しく引き下がった、と述べている。

 (イ) パークスの立場から考えると、彼が官軍側の江戸攻撃は好ましくないと考えていた としても、パークス自ら積極的に西郷に圧力をかけてはいない。その理由は2つある。
  ①  木梨たちがパークスのところにやって来たのはパークスにとっては偶然であり、
両者の接触はパークスの意思によるものではない。
  ②  パークスが、官軍側の実質的な責任者が西郷であることを知ったのは17日以降
である。それは、8月号の「ハモンド・ペーパー」ですでに述べた通りである。

 (ウ)これが西郷との会談のための勝の事前工作であったか否かは、以下の理由により
あり得ない。
  ①  6月号と7月号で既に論じた(「パークスの圧力」(サトウ・ルート))により、勝は事前にサトウに会っていない。
  ② 横浜での木梨・渡辺とパークスの面会時、サトウは江戸に居てこの面会に同席していない。
  ③  面会に同席したサトウ以外の者が、横浜から馬を飛ばし、渡辺が西郷に知らせた
  と同時に、すでに薩摩屋敷に来ている勝に知らせることなどあり得ない。
  ④ そもそもこの面会は、木梨・渡辺の方からパークスを訪ねたものであるから、あらかじめパークスに「圧力」を要請しておいても、それが西郷に伝わるという保証はない。
 
【3.テレビ放映】
 例によって、テレビ報道はこの「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)をどのように扱っているか見てみよう。BS-TBS2015年11月13日の「THE 歴史列伝」の「江戸無血開城 勝海舟」は以下のように解説している。≪実は、すでに薩長にはイギリス公使から「戦争をやめるべき」という強い抗議が来ていて、西郷はすでに強硬策を取れない状況になっていたのだ。勝の水面下での工作が効いたと言われている≫。余りはっきり述べていないが、イギリス公使からの強い抗議が、「勝の水面下の工作」と言っている。

 BS-日本テレビ2015年12月10日「歴史捜査」の「幕末のネゴシエーター勝海舟」
は、さらに明確に述べている。≪パークスは、慶喜公は抵抗していないのに戦争とは何事か、と非難。新政府軍の行動は国際的なルールに違反しており、江戸で戦争になれば、イギリスの駐留地を守るため、軍を動かすことを匂わせたのだ。このことはその日のうちに西郷にも伝わったと言われている。パークスは勝とサトウの意思を汲み取り圧力を掛けたと考えられるのだ≫と。つまりパークスはサトウを通じ事前に勝から言われていたため、木梨たちが訪ねてきたとき、その「意思を汲み取り圧力をかけた」と言っている。いずれの番組も、「パークスの圧力」(木梨・渡辺ルート)は勝の工作と主張している。

【4.学者・作家の説】
 以上を踏まえて、学者・作家の説をいくつか見てみよう。
 (1)田中惣五郎 『勝海舟』  既論考の「サトウ・ルート」で紹介したように、田中は3月9日にサトウと勝が会っていると誤った解釈をしている。そのため、木梨がパークスを訪問した時の事情を西郷に報告したとき、≪この事情(木梨の報告)に直面し、勝の口添が利いたためでもあったらう≫と言っているが、勝の口添など、この時点で届いているはずはない。≪4月5日大久保(利通)へあて、「横浜より薩道(さとう)(アーネスト・サトウ)、書面を以て、英国公使面会致したく候間、是非立寄りくれ候様申し来たり候につき、駿府へ到着の日に相達し候故,定めて勝などよりも外国人へ手を入れ……」≫と書いてあるが、西郷が「勝の外国人への手入れ」があるかと想像し、パークスに説明に行ったのは3月の28日である。勝がパークスを訪問したのはその前日27日である。いずれも西郷が京都に行き朝廷の最終決裁を得た20日以降の話である。

 (2)江藤淳 『海舟余波』 ≪ところで勝安房守は、おそらく事前に木梨・パークス会談がおこなわれることを知っていたものと思われる。3月13日の西郷との第一次会談を儀礼的なものにとどめ、本会談を翌日に持ち越したのは、並行しておこなわれている木梨・パークス会談の結果をたしかめてから西郷との談判にあたろうとしたためにちがいないからである≫。これは、「サトウ・ルート」で既述したように、3月9日に勝がサトウに会っていると錯覚しているために起こった誤った論理構成である。

 (3)石井孝 『戊辰戦争論』 ≪おそらく、13日パークスと木梨との会見が行われるのを知っていた勝は、西郷との本格的な会見を14日にのばしたのであろう≫。これも江藤淳と同様誤った解釈である。

 (4)海音寺潮五郎 『江戸開城』 ≪渡辺清左衛門が品川に着いたのは午後2時ごろであった。すぐ西郷の陣屋に行き、パークスとの応対のことを報告した≫。渡辺清(清左衛門)が西郷に、勝との会談前にパークスの要請を伝えていることが記されているが、サトウと勝が会ったのは≪最も確実には3月20日以後ということになる≫と、『サトウ回想録』を正しく読み取っており、そこには勝の工作が入り込んではいないことを示している。

 (5)高野澄(きよし) 『勝海舟』 ≪パークスは、恭順を表明している慶喜を攻撃するのは賛成できないことを西郷に通告してあった。西郷はこのことを海舟に知らせてはいないが、おそらく海舟のほうは、パークスの書記官アーネスト・サトウを通じて知っていたであろう≫。パークスはいつ西郷に通告したと言うのであろうか。せいぜい14日の勝との会談の直前しかあり得ない。ましてそれを勝がサトウから聞いて知っていたというのは、全く荒唐無稽の話である。

 (6)勝部真長(みたけ) 『勝海舟』 まず≪渡辺が品川の藩邸に西郷のもとに駆けつけたのが、「午後2時頃」というのは、翌14日のことであろうと思われる≫と記載している。また≪しかるに最近、萩原延壽氏がアーネスト・サトウの日記に基づいて考証されているところによると(同氏『遠い崖』朝日新聞夕刊808回)、渡辺のパークス発言の報告が西郷に届いたのは、14日の西郷・勝会談の後であろう、ということである≫、≪この辺が、やはり歴史の謎である≫と述べている。すなわち渡辺が西郷に知らせたのが、勝との会談の前であるか後であるかについて、渡辺とサトウのそれぞれの回想録に、相違があると言っているのである。しかし続けて≪勝のほうも、西郷との会談の前には、まだパークスとは会っていないし、パークスが慶喜助命に有利な発言を第三者の立場からしていることは知らずにいたようである。勝がイギリス公使館と連絡が取れたのは、21日になってからである≫と述べており、勝の工作はあり得ないことを主張している。 

 (7)加来耕三 『勝海舟 行蔵は我にあり』 既論考の「サトウ・ルート」で勝が西郷との会談前にサトウと会っていたという説を支持していると書いたが、さらに次のように書いている。≪とすれば、海舟、西郷ともにそんなことは素知らぬ顔の大芝居ということになる。が、それとて共に互いを信頼頼し合える、大人としての間柄であったこその演出であったろう≫。すなわち勝は、直接口には出さず、腹芸で西郷に「パークスの圧力」をかけたと言っている。

 (8)津本陽 『勝海舟 私に帰せず』 ≪3月14日の会見のときの様子を、麟太郎は記している。……麟太郎は、西郷がパークスから牽制をうけていることを知っていた≫(麟太郎は勝海舟のこと)。「パークスの圧力」をどのように利用したかには触れてはいないが、勝が西郷との会見に臨んだ時点で、西郷に「パークスの圧力」がかかっていることを知っていたと解釈している。

 (9)松浦玲 『勝海舟』 詳しく論じられているので少し詳細に紹介する。既論考の「サトウ・ルート」で述べたように萩原の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)を引用し、勝工作説を否定している。ここでは、渡辺のパークス面談結果の西郷への報告が、西郷・勝会談の前か後かについてどのように記述しているか見てみたい。≪萩原の判断は渡辺が西郷に報告したのは西郷・勝会談の後だろうとの『仮説』に傾く。私の判断は、渡辺が西郷・勝の会談に同席したという方に傾く。横浜と田町が共に夕刻という必ずしも確定的ではない制約よりも、渡辺の談話が持つ臨場感を採りたい≫と述べている。確定的ではない時間的制約より談話の臨場感を優先するというのである。「講釈師、見てきたような嘘をつき」とはよく言われることであり、渡辺自身も≪記録もありませぬから概略しか覺へて居りませぬ≫と言っているように、30年も前の記憶などかなり曖昧である。

 (10)星亮一 『勝海舟と明治維新の舞台裏』 ≪江戸で戦争を起こすべきにあらずという意見は、駐日公使パークスからも寄せられていた≫。しかし「サトウ・ルート」で述べたように、勝が事前にパークスに会って依頼し、同意を得た、と星氏は主張している。

 こう見ると、いずれも渡辺が西郷・勝会談前に西郷にパークスの意向を伝えた、と述べている。すなわち渡辺の「江城攻撃中止始末」に則った説を展開している。(6)勝部真長と(9)松浦玲の両氏は、渡辺の報告が西郷・勝会談前に西郷にもたらされたか否か両論あることに触れている。しかし勝が、西郷との会談に臨む前に、サトウを通じてパークスに働きかけたという勝工作説を取っているのは(1)田中惣五郎、(2)江藤淳、(3)石井孝、(5)高野澄、(7)加来耕三、(8)津本陽、(10)星亮一の7氏で、(2)江藤淳、(3)石井孝の両氏に至っては、勝が木梨・渡辺とパークスが会うことを事前に知っているがゆえに、本格的な会議を14日に引き延ばしたと主張している。勝工作説を否定しているのは(4)海音寺潮五郎、(6)勝部真長、(9)松浦玲の3氏のみである。

 歴史の真実は多数決という訳にはいかない。飽くまで史実に基づいて判断しなければならない。しかし、多数の間違った説があると、後世、それを読んだ多くの人が、そのまま誤った説を信じて伝えることになる。特に著名な学者や作家などの説となるとなおさらである。中々間違った通説・俗説が改まらない所以である。

【5.結論】
 「木梨・渡辺ルート」は既論考の「サトウ・ルート」とも密接に関連している。学者のほとんどは渡辺清の談話「江城攻撃中止始末」を採用して、西郷・勝会談の直前に、渡辺がパークスの意向を西郷に伝えたとしている。しかしたとえそれが西郷に伝わっていたとしても、勝には時間的に伝わる可能性はない。事前に勝が知っていた、まして勝が工作したとするためには、当然勝とサトウが事前に会っていなければならないが、それは8月19日の論考(2)「パークスの圧力」(サトウ・ルート)により完全に否定されている。

2016年8月19日 (金)

「江戸無血開城」論考 (2)「パークスの圧力」(サトウ・ルート)

江戸城無血開城」論考(2)「パークスの圧力」(サトウ・ルート)

                                                水野靖夫

【1.パークスの圧力】

山岡鉄舟が道筋を付けた「江戸無血開城」。これに関しては、イギリス公使ハリー・パークス卿が西郷隆盛に、江戸総攻撃を止めるよう説いた、という説がある。その内容は「既に恭順(降伏)している徳川慶喜を攻めること、まして命にかかわる厳刑を課すことは、国際法(国際世論のこと)に違反している。

だから江戸総攻撃(戦争)は止めるべきである」というものである。そしてこれが慶応4年3月13・14日の西郷と勝海舟の会談において、西郷に対する「圧力」となり、「江戸無血開城」の大きな決め手となったというのである。これが「パークスの圧力」と呼ばれているものである。

この「パークスの圧力」については次の2つの経路がある。

(1)勝海舟が、13・14日の西郷との会談以前に、通訳官のアーネスト・サトウに会い、サトウを通じてパークスに工作し、西郷に圧力をかけた。(サトウ・ルート)

(2)木梨精一郎・渡辺清がイギリス公使館を訪れ、江戸城攻撃の際の負傷兵のために、病院の世話を依頼した際に、パークスから上述した内容を告げられ、これが西郷・勝会談の直前に西郷に伝えられ、西郷にとって圧力となった。(木梨・渡辺ルート)

まず(1)の「サトウ・ルート」を考察する。すなわち、勝は西郷との会談(13・14日)以前にサトウに会い、パークスから西郷に圧力を加えるよう依頼したのであろうか。勝がこの工作をしたとするならば、勝は西郷・勝会談前にサトウに会っていなければならない。

そこで勝がこの会談前にサトウに会ったか否かを検討する訳であるが、結論だけを述べたのでは、本論考が諸説の中の一見解になってしまう。そこで世間に流布されている諸説を点検し、なぜそのような説が流布しているのかを解明しておきたい。
【2.「江戸無血開城」のテレビ放映】
まず前回5月20日の「(1)山岡鉄舟は、勝海舟の使いだったのか」と同様、テレビ番組の放映内容を見てみたい。
(1)THE歴史列伝」BS-TBS 2015年11月13日「江戸無血開城 勝海舟」
(2)「片岡愛之助の歴史捜査」BS-日本テレビ 2015年12月10日「幕末のネゴシエーター勝海舟」

の2つである。

まず(1)の「THE 歴史列伝」では「戦争になれば貿易が出来ない状態になり、イギリスは不利益を被るから、パークスは西郷に、江戸攻撃を中止するよう働きかけた」と言っている。ただしパークスが西郷に「いつ」働きかけたかは述べていない。また勝からの工作ではなく、パークス自らの考えであるかのように述べている。

これに対し(2)の「片岡愛之助の歴史捜査」では、サトウの著書『一外交官の見た明治維新』(岩波新書)(以下『サトウ回想録』と呼ぶ)に≪私(サトウ)の入手した情報の主な出所は勝安房守であった≫、≪私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた≫と書いてあると紹介。

また『海舟日記』に≪英吉利人来訪≫と書いてあると紹介し、「勝はサトウとたびたび会っていたようだ」「サトウと接触して、江戸無血開城という形で決着を付けたいというメッセージを、サトウを通じてパークスに伝えた」「イギリスを通じて西郷にプレッシャーをかける、これが西郷を追い詰める一手だった」と解説している。ここでは『サトウ回想録』『海舟日記』を根拠に、勝は西郷との会談前にサトウに会い、パークスを通じ西郷に圧力をかけるよう働きかけたと主張している。

【3.識者の見解】

「パークスの圧力」について、学者・作家・評論家等の識者はどのように考えているであろうか。主な説を年代順に列挙すると次のようになる。

(1)1940年 田中惣五郎 『勝海舟』 ≪山岡と西郷の表立った堂々たる会見、勝とサトウの忍びやかの會見、それが同じ日に行はれたのであった≫。田中はそう指摘しつつ、『サトウ回想録』の第31章冒頭部分を引用している。

(2)1974年 江藤淳 『海舟余波』 ≪鉄舟山岡鉄太郎が、駿府に到着して西郷吉之助と会見したのは、3月9日のことであった。……しかし、この同じ日、江戸でひそかにおこなわれていたもうひとつの重要な会談については、人は意外と知るところが少ないのである。

それは軍事取扱勝安房守義邦と、英国公使館通訳官アーネスト・サトウとの秘密会談である。サトウはそのメモアールに記している。「3月31日(和暦3月8日)に私は(以下略)」≫。(以下略)の部分は『サトウ回想録』第31章冒頭部分である。メモアールは回想録のこと。

(3)1974年 石井孝 『勝海舟』 ≪9日には江戸に出た。サトウは、江戸ではもっぱら海舟と接触している。彼は人目をひくのを避けるため、暮夜ひそかに海舟を訪問することにしていた。

このようなわけで、パークス・木梨会談の内容もただちに海舟に報告されていたであろう≫。≪おそらく、13日パークスと木梨との会談が行われるのを知っていた海舟は、西郷との本格的な会見を14日にのばしたのであろう≫。

1975年 石井孝 『明治維新の舞台裏』 ≪パークスに同行して兵庫から横浜に帰った翌日の3月9日、サトウは江戸に出て来たそれ以来彼は、暮夜ひそかに勝を訪れていたという。そういうわけで、サトウを介して勝とパークスの間には、意思の疎通があったと思われる≫。

(4)1987年 海音寺潮五郎 『江戸開城』 ≪こんな時、サトウは主として勝から情報を得ることにしていたと、『維新日本外交秘録』(※)に書いているが、この時は当座勝の家には行かなかったようである。勝からもらったと思われるような情報も全然書いていない。

この時点で、サトウが勝のところへ行ったのは、彼が3月20日から3日がかりでまた江戸に出た時からであったようだ。それはすでに勝と西郷との間に2回の会見があってからである≫。海音寺は前出3氏とは異なり、西郷・勝会談以前の勝・サトウの面会を否定している。(※)『一外交官の見た明治維新』の前身。昭和13年に文部省の維新史料編纂事務局で翻訳。

(5)1989年 高野きよし
 『勝海舟』 ≪西郷はこのことを海舟に知らせてはいないが、おそらく海舟のほうは、パークスの書記官アーネスト・サトウを通じて知っていたであろう≫。高野氏は勝とサトウの間に事前の面会・情報交換があったことを肯定的に捉えている。

(6)1992年 勝部長(みたけ

『勝海舟』 ≪勝のほうも、西郷との会談前には、まだパークスとは会っていないし、パークスが慶喜助命に有利な発言を第三者にしていることは知らずにいたようである。勝がイギリス公使館側と連絡が取れたのは、21日になってからである。

通訳のアーネスト・サトウがやってきて話しこんだ≫と、勝部も、勝は西郷との会談以前にはサトウと会っていないとしている。なお文中に萩原延壽の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)(これについては【9.萩原延壽の『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』】で説明する)に触れている部分がある。

(7)1998年 加来耕三 『勝海舟 行蔵は我にあり』 ≪一説には、西郷はこの一件をひた隠しにしていたものの、一方の海舟はこの話を、かねて親交のあったアーネスト・サトウ(英国公使館員)を通じて聞いていたという≫。

ここでいう「この一件」とは別途論考する「木梨・渡辺ルート」のことであるが、それを勝がサトウから聞いていたということは、サトウが1回目の江戸派遣時に勝に会っていなければあり得ない話である。加来氏は「一説には」と断りながらも、勝が西郷との会談前にサトウと会っていたことを否定はしていない。

それどころか≪とすれば、海舟、西郷ともそんなことは素知らぬ顔の大芝居ということになる≫と自説の補強の一助にしている。

(8)2003年 津本陽 『勝海舟 私に帰せず』 ≪麟太郎は、横浜のイギリス公使パークスの意向を伝える通訳アーネスト・サトウとしばしば会っていた『一外交官の見た明治維新』に、サトウは次のように述べている≫。ここで津本氏は『サトウ回想録』第31章冒頭部分を引用している。麟太郎は勝海舟のこと。

(9)2010年 松浦玲 『勝海舟』 ≪パークスのところに勝安房の工作が届いていたのではないかという憶測もあった。勝安房守工作説は『江戸開城』(萩原延壽『遠い崖』7)で明瞭に否定された。パークスはサトウを江戸に送って情報収集に努めさせたにも拘わらず、この時点では勝安房守に接触できていない

したがって逆の接触もあり得ない≫。ここでいう「この時点」とは、サトウの1回目の江戸派遣時、西郷・勝会談前のことである。

(10)2011年 星亮一 『勝海舟と明治維新の舞台裏』 ≪早速、駐日英国公使ハリー・パークスに働きかけ、江戸攻撃をやめさせることをしなければならない。パークスを訪ね、同意を得た。……こうしておいて海舟は、西郷に書簡を送ったとされる≫。星氏は、勝が西郷との会談前に、サトウどころか直接パークスに会い、江戸攻撃中止を働きかけたと言っている。

以上のように、(1)田中惣五郎、(2)江藤淳の両氏は、『サトウ回想録』第31章冒頭を引いて、サトウの1回目の江戸派遣日の3月9日に、すぐに勝を訪ねたと書いている。

(3)石井孝、(5)高野澄、(7)加来耕三、(8)津本陽の各氏はいずれも、勝は西郷との会談以前にサトウに会い、パークスの意向を知っていたと記している。(10)星亮一氏に至っては、勝が西郷との会談以前にパークスに会って江戸攻撃中止を働きかけたとまで書いている。

これに対し(4)海音寺潮五郎、(6)勝部真長、(9)松浦玲の3氏は、西郷・勝会談以前の勝・サトウの面会を否定している。海音寺は、両者が会ったのは20日以降、勝部も21日以降と述べている。勝部と松浦両氏は、萩原延壽の『遠い崖』に触れている。

 【4.『サトウ回想録』の記述】

それでは『サトウ回想録』にはどのように書かれているのであろうか。少し長いが、第31章冒頭を引用する(資料②190頁)。(日付は西暦で書いてあるが、煩雑さを避けるためすべて和暦で表示する。以下同じ)。

≪3月8日に私は長官と一緒に横浜に帰着し、3月9日には江戸へ出て、同地の情勢を探ったのである。

私は野口と日本人護衛6名を江戸へ連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であった勝安房守であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた。

官軍の先鋒はすでに江戸の近郊に達し、前衛部隊は品川、新宿、板橋などに入っていた。(以下略)≫。いうまでもなく勝安房守とは勝海舟のことである。

この記述から、ほとんどの学者・作家・評論家等の識者は3月9日にサトウが江戸に派遣されてすぐに勝に会ったと解釈したのである。

『サトウ回想録』は≪これが16日の情報であった≫(資料②191頁)として、その後に2回目の江戸派遣がおこなわれたことを記す。

20日に、3日泊まりでまた江戸へ出かけて見ると、慶喜に申し渡される条件は受諾可能なものと思われたせいか、市中は前よりも平静になっていた。(以下略)≫

そして西郷・勝会談の内容などが詳しく述べられている。

サトウは2回江戸に派遣されている。そしてパークス公使に対する報告書(Memorandum(以下Mと略す)の1回目を16日に出し、その後22日に2回目の報告書を提出しているのだが、後者についての記載は『サトウ回想録』にはない。

横浜開港資料館で入手した1回目の報告書(手書き)が資料①である。最後に西暦1868年4月8日(慶応4年3月16日)の日付とサトウの名前が記されている。ただし「手書き」と言っても、複写機のない時代であり、必ず控えを取るため公使館員が筆写するであろうから、必ずしも「自筆」とは限らない。

この筆跡もサトウの日記の筆跡とは違うようである。署名の左に(Signed)とわざわざ書いてあるのは、原本はここにサトウの署名があることを表しているものと思われる。

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〔資料① サトウの手書きの報告書(Memorandum)1頁と4頁〕

ここでポイントは、西郷・勝会談がおこなわれた13・14日以前に、サトウと勝は本当に会っていたかどうかである。もし会っていなければ、勝はサトウに「パークスの圧力」をかけてもらうよう依頼することは不可能だからである。

『サトウ回想録』の読者がほとんど皆、この会談前にサトウと勝が会ったと勘違いしたのは、サトウの1回目の江戸派遣の箇所に「情報源は勝安房守」「暗くなってから勝を訪問」と書かれているからである。

実は『サトウ回想録』は飽くまでも「回想録」であって「日記」ではない。サトウは同書の序文で≪日記のほとんどを写したが、パークス卿あての手紙などを書き足した≫と記している。そしてさらに重要なことは、サトウ自身が言っているように、この重要な時期に日記を付けていなかったことである。

そのことを第30章(下巻185~186頁)で次のように述べている。

≪私の日記には、これから5月半ばまで少しも記入がない。(中略)私は長官と日本高官との間の通訳や文書の翻訳にきわめて多忙な日を送ったので、日記の方にはとんと手がまわらなかった≫。ここでサトウの言う「これから5月半ば」は西暦であり、和暦に換算すると、日記の空白3月1日から4月22日となる。

 この間に、「5日の東征軍大総督有栖川宮駿府到着、9日の鉄舟・西郷談判、13・14日の西郷・勝会談、4月11日の江戸城明け渡し、徳川慶喜水戸へ出立」という明治維新の大きな出来事があったのだが、サトウは日記に書いていないのだ。

サトウは日記という記録なしで、自分が書いたパークスへの報告書などを基に、54年前のことを思い出しながら『サトウ回想録』を書いたことになる。『サトウ回想録』は慶応4年(1868)から54年後の大正10年(1921)に執筆された。

1回目の江戸派遣時に勝がサトウと会ってパークスに協力を依頼したか否かを解明するには、サトウのパークスへの1回目の報告書に、そのことが書いてあるかを調べればよい。

ほとんどの識者は「3月9日にサトウが江戸に派遣されてすぐに勝に会ったと解釈している」と書いたが、その理由は第31章冒頭の部分が「日記」をもとにした記述であると勘違いし、報告書(M)の文章とも同じだと思い込んだからであろう。

そこでこの部分を、サトウのパークスへの報告書(M)転記部分と、サトウの記憶による地の記述部分とに分けて考えてみたいと思う。

〔1〕1回目の江戸派遣(慶応4年3月9日)

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〔資料② 『サトウ回想録』第31章冒頭(下巻190~191頁)〕

推理を働かせると、資料②190頁1行目の≪私は長官と一緒に横浜に帰着し≫」という書き方は、パークスへの報告書(M)としての文章表現ではではない。それに続く≪護衛6名≫云々も報告書(M)に書くような内容とは思われない。

そして肝心の≪情報源は勝安房守≫はまだしも、≪暗くなってから訪問≫は、どちらかと言えば報告書(M)に書くような内容とは思われず、もし勝に会っていたなら、いつ会ったか、どのような情報を得たかを書くはずである。

したがってこれも報告書(M)の記載内容ではないと思われる。この点は極めて重要なポイントである。

その後の≪官軍の先鋒は……≫(実線で囲んだ部分)は明らかに報告内容と思われる。191頁の1回目報告(M)の最後と思われる≪大砲をおろして、官軍の手に引き渡された≫はいかにも報告書的書き方である。

その後(実線で囲んだ部分の次)の≪これが16日の情報であった≫は報告書の文章らしくない。

ここまで、すなわち1回目の江戸派遣の記述で推測されるのは次の4点である。

(1)≪情報源は勝安房守≫≪暗くなって訪問≫は報告書の文章ではなく、サトウの回顧による地の文である。

(2)≪官軍の先鋒は……≫から≪大砲をおろして、官軍の手に引き渡された≫までが、1回目の報告書の内容である(実線で囲んだ部分)。

(3)1回目の報告書(M)は3月16日に書かれた。

(4)1回目の報告書(M)には、西郷・勝会談の内容や、江戸攻撃中止などが書かれていない。ましてや「パークスの圧力」と思われる内容については全く記載がない。

(5)以上とは少々異なるが、「小さい方の薩摩屋敷は2月14日(原文は西暦3月7日)に同藩の少数兵士の手に返り、薩摩と長州の小部隊が大手を振って江戸市中を闊歩していた」といる部分は、この時点ではまだ官軍は江戸を闊歩していなかったこと、またこの前後の文が3月上旬の事実であることから、違和感のある文章である。しかし煩雑になるのでこの件は本節の最終部分で述べることにする。

以上から分かるのは、サトウは1回目の派遣時には勝に会っていないということである。会っていれば、必ず報告書に書くはずである。13・14日の西郷・勝会談についても把握していなかった。把握していれば、最低限会談が行われたことぐらいは書くはずである。

以上は『サトウ回想録』を、少し注意深く読めば分かることである。

 これらのことから、勝は13・14日の西郷との会談前にサトウには会っておらず、パークスへの工作はしていないことが分かる。

 

〔2〕2回目の江戸派遣(慶応4年3月20日〔正しくは19日〕)

 資料②『サトウ回想録』191頁の≪これが3月16日の情報であった。20日に、3日泊まりでまた江戸へ出かけて見ると……≫という表現も報告書(M)の文章とは思えない。ただこれに続く≪今や徳川軍の総裁となった勝は……≫以降は明らかに報告書(M)の文章表現である。

その中には、勝と大久保一翁とが官軍との談判に当たることになった、と勝がサトウに語ったと書いている。つまりサトウは≪3月20日に3日泊まりで出かけた≫2回目の江戸派遣時に勝と会っているのである。その際に勝から聞いた西郷との会談内容も詳しく書かれている。

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〔資料③ 『サトウ回想録』第31章冒頭(下巻192~193頁)〕

さらに、いわゆる「パークスの圧力」もこの2回目の派遣時のくだりに記載されている。しかも報告書(M)の記述(実線で囲った部分)と地の文の両方にまたがって記されている。すなわち資料③192頁に≪勝はまたハリー・パークス卿に、天皇の政府に対する卿の勢力を利用して、こうした災いを未然に防いでもらいたいと頼み、長官も再三この件で尽力した。

特に、西郷が4月6日にパークス卿を横浜にたずねた時には、卿は西郷に向かって、慶喜とその一派に対して過酷な処分、特に体刑を持って(ママ)むならば、ヨーロッパ諸国の輿論はその非を鳴らして、新政府の評判を傷つけることになろうと警告した。西郷は……と語った≫とある。

ここで注意したいのは長官も再三この件で尽力したというのは、サトウが長官に対して書く文章の表現ではないということである≪未然に防いでもらいたいと頼み≫までが報告書(M)の記述であり、≪長官も再三この件で尽力した≫からが地の文である。

もう一つ分かることは、この部分は報告書の内容どころか、サトウが江戸を去り横浜に帰った後の内容である。なぜならサトウは「20日に3日泊まりで江戸に出た」と書いている。ということは23日に横浜に帰っていることになる。

ところが、192頁には4月6日(3月28日の間違い)に西郷がパークスを訪ねてきたことも記載されている。4月6日が間違いであることは、『海舟日記』やこの時期の西郷の動向から判明できる。いずれにしても、サトウの横浜帰還後のことである。

それではもうすでに報告書の内容記載は終わっているのかと思うと、そうではない。実はどこまでが2回目の報告書の記載内容であるのか判然としないのである。しかしこれに続く段落で≪勝が話した中で≫≪大体勝の意見では≫(資料③193頁太線部分)といった表現を含む部分があり、これは明らかに報告書の記述と思われ、この辺りまでが2回目の報告書と推測される。

ここまでで分かることは以下の6点である。

(1)2回目の江戸派遣は3月20日(※)である。

(2)3月21日にサトウは勝に会っている。

(3)この時、サトウは西郷・勝会談の情報を得た。

(4)江戸には3泊したので、23日(※)に横浜に帰り、パークスに報告したことになる。

(5)いわゆる「パークスの圧力」は、2回目の江戸派遣時の出来事である。

(6)パークスが西郷に会ったのは、4月6日(正しくは3月28日)である。いずれにしても、サトウが横浜に戻った後である。

 (※)について解説したい。サトウの2回目の派遣日は実は3月20日ではない。それはパークスの本国スタンレー外相への報告書作成日から推察できる。サトウ報告書(M)と、パークスから本国への報告書(いずれも横浜開港資料館史料)作成日付は、資料④で分かる通り、いずれも3月22日(西暦4月14日)である。

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〔資料④ 左は2回目のサトウの報告書(M)、右は2回目のパークスの報告書。いずれも4月14日付〕

もしサトウが23日に横浜に帰りパークスに報告したとすると、パークスは22日付のスタンレー外相当ての報告書を書くことはできない。サトウは22日に横浜に帰り報告したのである。江戸に3泊した後、22日に横浜に戻ったことから逆算すると、江戸に来たのは19日ということになる。サトウは江戸滞在期間を1日思い違いしたものであろう。

後述の【7.ハモンド外務次官当て半公信】で詳しく述べるが、パークスがハモンド外務次官に送った4月14日(和暦3月22日)付報告書に、“I sent Satow back to Yedo on 11th ……”(私は11日〔和暦3月19日〕サトウを再び江戸に派遣した)と書かれている資料⑧。このことからもサトウは、20日ではなく19日に江戸に派遣されたことが確認できる。

 以上から、サトウは1回目の江戸派遣時、つまり西郷・勝会談の前には、勝と会っておらず、この会談の情報を得ていなかったこと、「パークスの圧力」も存在しなかったことが一層明らかである。

 ここで、「〔1〕1回目の江戸派遣」で煩雑になるため敢えて後回しにした、(5)の「2月14日(原文は西暦3月7日)」について説明する。

英語の原文を見ないと解明できない記述が『サトウ回想録』にある。その記述とは≪イギリス公使館の間近にある、小さい方の薩摩屋敷は、2月14日に同藩の少数兵士の手に返り、薩摩と長州の小部隊が大手を振って江戸市中を闊歩(かっぽ)していた≫という部分である(資料②190頁実線枠内)

2月14日には、まだ薩摩・長州の官軍は江戸に到着しておらず、江戸市中を闊歩などしていなかった。この僅か2行ほどの短い1文だけが2月中旬のことで、その前後の文(官軍先鋒が品川・新宿・板橋に到着したこと、大総督有栖川宮が沼津に滞在していること)が3月前半の内容というのも文脈として不自然である。しかしこの部分をいくら読んでもこの不自然さは解けない。

この謎は、サトウの報告書原文“Memorandum”を読んで初めて解けたのである。実はこの「2月14日」は原文では“yesterday”となっている(資料⑤左)。この「昨日」とは、報告書作成日(3月16日)の前日、「3月15日」である。3月15日であれば、西郷・勝会談(13,14日)の翌日であり、話の辻褄(つじつま)が合う。

このたった2行の短文には、3月15日の薩摩藩邸近辺の状況が書いてあるにもかかわらず、その直前の13、14日に行われた勝・西郷会談のことが全く書かれていないのである。

サトウがこの近辺に居なかったのかというとそうではない。≪イギリス公使館の間近にある、小さい方の薩摩屋敷≫とあるように、公使館と薩摩屋敷は至近距離にあった。そして≪護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた≫とあるように、サトウは江戸に住む家を持っており、それは当然公使館のそばであったであろうから、薩摩藩邸の近くでもあったと思われる。

そしてその薩摩藩邸で西郷・勝の会談が行われたのである。会談は秘密裏に行われ気付かなかったのかというとそうではない。薩摩屋敷の近傍には官軍の兵が屯集して殺気陰々としており、会談後勝が門を出ようとしたときどっと押し寄せてきた、と勝は言っている。

また会談中に徳川軍の脱走兵とおぼしき50人程の軍装した者が、藩邸の後ろの海に小舟7~8艘で近付いて来て、藩邸内が一時騒然となった、と鉄舟は書いている。こうしてみると、会談はひっそりと隠密裏に静寂の中で行われた訳ではない。

もしマル秘会談なので、勝がサトウに会談のことを伝えなかったとするなら、それこそこの会談前に勝がサトウに「パークスの圧力」を依頼したなどという話はあり得ないことになる。

こうしたことを考え合わせると、このたった2行の短文からも、勝・西郷会談前には「パークスの圧力」(サトウ・ルート)が存在しなかったことが分かる。

実はサトウの報告書(M)(資料⑤左側)に書かれた“yesterday”が『サトウ回想録』に「昨日」ではなく「3月7日」(和暦2月14日)と書かれているのは(資料②190頁)、訳者の間違いかと思ったのであるが、そうではなくサトウ自身の記憶違いであった。

それは『サトウ回想録』の原文“A Diplomat in Japan”には“on March 7”と書いてあるからである(資料⑤右側)。“yesterday”は3月15日、西暦4月7日であるから、サトウは“on April 7”と書くべきであったのだが、何を勘違いしたのか“on March 7”と1か月間違えてかいてしまった。

後述する萩原延壽の『遠い崖』を見てみると「昨日(4月7日・陰暦3月15日)」と書かれている。萩原は“Memorandum”の“yesterday”を見て一応「昨日」と書いたが、これを正しく解釈し、サトウの記憶違いを正していると思われる。

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〔資料⑤ 左コピーがサトウ報告書(M)の“yesterday”。右は“A Diplomat In Japan”の“on March 7と書かれた部分〕

【5.サトウの報告書“Memorandum”と『サトウ回想録』の比較】

こんなクイズを解く様な七面倒臭い遠回りを敢えてしたのには理由がある。それは前にも書いたように、多くの識者が「勝は西郷との会談の前にサトウに会い、『パークスの圧力』を工作した」と誤認している原因を究明したかったからである。

サトウのパークスへの報告書(M)と『サトウ回想録』とを比較してみると、以下のことが分かる。

(1)『サトウ回想録』190頁冒頭部分の、地の分であると推測した部分は、サトウの報告書に書かれていない。≪情報源は勝安房守≫≪暗くなってから訪問≫も同様で、報告書(M)に書かれていない。

(2)3月16日に書かれた1回目の報告書(M)には、サトウと勝が会ったことは書かれていない。西郷・勝会談の内容はおろか、会談のあったことすら書かれていない。「パークスの圧力」の記載もない。

(3)些細な点であるが、191頁中程の≪これが16日の情報であった≫は、サトウの報告書()の最後の署名のところに書かれた作成日で、ここまでが1回目の報告書()の内容である(資料①)。

(4)2回目の報告書(M)に、サトウが勝に会ったこと、西郷・勝会談の詳しい内容が書かれている。

(5)いわゆる「パークスの圧力」についても具体的に書かれている。しかも既に指摘した通り、≪長官も再三この件で尽力した。……西郷は……と語った≫は地の文である。

(6)『サトウ回想録』のどこまでが2回目の報告書()の内容であるかが分かる。それは、資料③193頁の直線で囲った部分の最後の3行に≪大体勝の意見では、自分と大久保一翁とが二人の生命をねらう徳川方の激情家の凶手を免れることさえできれば、事態を円満にまとめることができるだろうというのであった≫という文言があり、これが2回目の報告書(M)の最後である。かつ確かに勝から情報を収集したことが分かる。

『サトウ回想録』の直線で囲った枠の中が、サトウの報告書(M)の転記部分である。

サトウの報告書(M)と『サトウ回想録』とを比較して見てきたが、実は第31章冒頭の1回目江戸派遣時のくだりには、サトウが勝を「訪問した」とは書いてない。「訪問することにしていた」と書いてある(資料②190頁)。『サトウ回想録』の原本“A Diplomat In Japan”には“used to visit”と書いてある(資料⑤右側)。

used to”は過去の習慣(よく……したものだ)を表す用法である。つまりここに書かれている「訪問」は、1回目の派遣時に訪問したというような特定の事実ではなく、この時期にサトウがおこなっていた情報収集の方針・やり方一般を言っているのである。

重要なポイントなので、敢えて繰り返すと、多くの読者はこの「訪問することにしていた」という表現をあまり頓着せず、単に「訪問した」と読んで、サトウは1回目の派遣時に勝を訪問したと思い込んでしまったのである。

 

【6.パークスのスタンレー外相当て報告書】

1回目のサトウの報告書()(資料①)を添付したパークスのスタンレー外相あての報告書(1868年4月9日、慶応4年3月17日)(資料⑥)の内容からも、勝が西郷との会談前にサトウに会っていないことが確認できる。

これには、“I have just been informed on reliable authority”「私が信頼できる筋から入手した情報」として、慶喜への降伏条件7項目が書かれている。萩原延壽は後述する『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で、≪サトウが報告書を書き終えたのちに何処かで聞き込みそれをパークスに伝えたのであろう≫(54)と推測しているが、そうではあるまい。

もしそうであれば、パークスは「サトウが信頼できる筋から得た情報」と書くであろう。報告書の文面から判断する限り、これはパークスがサトウ以外の者から聞いた情報であり、かなり正確だが、なぜか肝心の慶喜の処分内容が実際と異なっている。

慶喜への降伏条件の1つとして“surrender of the Taikun into the hands of four daimios named by the Mikado”と記されており、御門の指名する「4大名」へ預ける、と訳せる。しかし実際に示された条件、勝にもたらされた条件は「備前藩」へのお預けである。

パークスがどこから入手したか、なぜ慶喜の処分内容が異なるのかは不明であるが、もし勝からの情報であれば、「4大名」ではなく「備前藩」のはずであるから、いずれにしてもこれはサトウが勝から得てパークスに報告した情報でないことは明らかである。

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〔資料⑥ パークス公使のスタンレー外相当て報告書慶応4年3月17日1頁と2頁〕

【7.ハモンド外務次官当て半公信】

「パークス公使がハモンド外務次官当てに送った半公信」(以下「ハモンド・ペーパー」と呼ぶ)から、勝海舟がサトウに「パークスの圧力」を工作した事実のないことを証明する。取り上げるのは「慶応4年3月17日(1868年4月9日)付と慶応4年3月22日(1868年4月14日)付の「ハモンド・ペーパー」である。

ちなみに当時、駐日イギリス公使館とイギリス外務省の間でやり取りされる外交文書は、横浜と欧州を結ぶ定期航路によって運ばれていた。その航路にはイギリス便(P&O社)と、フランス便(帝国郵船MIMsessageries Imperial〕)があり、イギリス便(P&O)が月2回、フランス便(MI)が月1回航行していた。つまり平均月3回の定期便があったことになる。

上記「ハモンド・ペーパー」はそれぞれ3月17日のイギリス便、3月22日のフランス便で送られたものである

〔資料⑦「ハモンド・ペーパー」 慶応4年3月17日(1868年4月9日)〕

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〔資料⑦-1 冒頭部分〕 〔資料⑦-2 最後の部分 〕

発信地“Yokohama”、半公信“Private”     “Harry S. Park”の署名がある。

そして発信日“April 9.1868”が見られる。

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〔資料⑦-3 触りの部分 〕                       〔資料⑦-4 触りの部分⑦-3の続き〕 

【触りの部分】

We have, I think, secured the safety of Yokohama and can afford to watch the progress of events at Yedo.  It is very desirable, however, we should have responsible Japanese authorities to communicate with. And those probably only exist on the Mikado’s side. All the men of the old administration appear to have suffered an entire collapse.

我々は、横浜の安全が確保されたことにより、江戸における事態の進展を見守る余裕ができた、と考えます。しかし、我々が連絡を取る日本当局の責任者とのパイプを持っておくことが非常に望ましいのですが、それは多分御門の側にしかいないでしょう。旧政権(幕府)の当局者は皆、全面的崩壊に苦しんでいるように見えます。

 〔資料⑧ 「ハモンド・ペーパー」 慶応4年3月22日(1868年4月9日)〕

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〔資料⑧-1 1頁目 発信日April 14 〔資料⑧-2 2頁目 〕(和暦3月22日)〕

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〔資料⑧-3 最終5頁目(パークスの署名)〕

Private

Yokohama

April 14, 1868

Dear Sir

 I send this note by the French Mail, but our own will follow in from days time. And there is no change whatsoever in the situation since I wrote you last on the 9th Inst.

While a negotiation is being nominally conducted with a high Mikado’s Envoy

and the Ex-Tycoon, the real business is being carried on by men in the less prominent position.

I have found out who these are, Kats Awano Kami on the part of the latter & Saigo on the part of the Mikado. I know both men rather intimately, and I sent Satow back to Yedo on the 11th to open communication with Katzs. 

半公信

                              横浜

                              1868年4月14日

親愛なる閣下(ハモンド外務次官のこと)

私はこの報告書をフランス便(*)で送りますが、数日後には我がイギリス便(*)が続いて出るでしょう。

名目上の交渉は、御門の側のしかるべき高官と前将軍との間で行われるものでありますが、実質的な交渉は、その下の地位にある人物によって行われます

①私は、その人物が誰であるか、後者の側は勝安房守(勝海舟)であり、御門の側は西郷(隆盛)であることが分かりました。私はこの両者をかなりよく知っております。そこで私は②11日(和暦3月19日)に、③勝と情報交換を開始するため④サトウを再度江戸へ送り返しました

 この2通の「ハモンド・ペーパー」から以下のことが明らかになる。

 実質的な交渉の責任者が誰であるかが分かった

「ハモンド・ペーパー」(3月17日付)には、連絡を取る日本当局の責任者について、≪それは多分御門の側にしかいないであろう≫と書いてある。つまり317日時点では、パークスは、旧幕府側には連絡を取るべき相手はいない、と思っていたのである。言葉を変えれば、勝は未だ交渉の相手とは見做されていなかったということである。

ところがその次の「ハモンド・ペーパー」(3月22日付)には、旧幕府側にも連絡を取るべき相手がいて、それが勝安房守(勝海舟)であることが分かったと言っている。

 2回目のサトウの江戸派遣日はやはり19日だった

そして旧幕府側の交渉相手が勝ということが分かったので、サトウを再度19日に江戸に派遣したのである。すなわち旧幕府側の交渉相手が勝だと分かったのは、17以降19日以前ということが分かる。

なお、サトウの2回目の江戸派遣が、実は『サトウ回想録』に書かれている3月20日ではなく、その前日の19日“on the 11th(西暦4月11日)”であることは、すでに【4.『サトウ回想録』〔2〕2回目江戸派遣】で述べた。

 勝との情報交換を「開始」するためサトウを派遣した

to open communication with Katzs”「勝との情報交換を開始するため」という表現は、今回の江戸派遣で初めて勝と接触することを意味している。もちろんパークスは勝を(西郷も)よく知っているとは言っているが、それは以前勝がもっと下の地位のときのことであり、交渉の責任者、キーマンとしての勝ではない。

ここでの“open”は文字通り「開始する」という意味である。サトウが1回目の派遣時に勝と会っていれば、“open”「開始する」などという表現は使わない。「勝を再度訪問するため」“to visit again”や「西郷・勝会談の情報を聞き出すために」“get the information”というような言い方をするはずである。萩原も『遠い崖』(7巻「江戸開城」)で≪勝とイギリス側との接触が始まるのは、このときからである≫(56)と述べている。

④ サトウを再度江戸に「送り返した」

また“sent Satow back to Yedo”と“again”ではなく“back”を使っている点も見逃せない。この当時イギリス公使館は横浜と高輪泉岳寺前とにあった。後者は、横浜では江戸の情報を入手するには不便なため設置された第二義的なものであり、サトウは江戸に住居を持ってはいたが、常駐場所は飽くまでも横浜であった。となれば、サトウは江戸へ「再度送り出される」のであって、「送り返される」のではないはずである。

パークスは、1回目の派遣時にサトウが、西郷・勝会談がおこなわれていたにもかかわらず、その情報を掴んでこなかったため、敢えて「江戸へ送り返した」という表現を使ったのではないだろうか。サトウは1回目の派遣時には情報収集に失敗したのである。そのことについてパークスは不満があったと思われる。

萩原は、1回目の派遣を終えサトウが帰った後、2回目の派遣をする前の状況を、≪サトウにしては物足りない感をいだかせる江戸での情報探索をおえて≫(53)、≪パークスにしてみれば、旧知の西郷と勝のふたりが和戦の鍵をにぎっていることを、なぜもっと早く知りえなかったかと言う悔いがあったかもしれない≫(56)と表現している。 

この“back”という単語には、パークスが、多分サトウもそうであろうが、1回目の江戸派遣時には勝がキーマンであることを知らず、それゆえ、勝に会わず重大な情報を得られなかった無念さが滲み出ているように思えるのである。

さて以上から、「2回目の派遣時に初めて会った」ということと、「1回目の派遣時には会わなかった」ということは、事実は同じであっても、意味合いが違う。後者は、だからパークスは無念であったのであり、そしてなお重要なことだが、勝はサトウに「パークスの圧力」を工作することができなかった、ことを証明しているのである。

 

【8.『海舟日記』のサトウ訪問日】

【2.「江戸無血開城」のテレビ放映】で触れたように、『海舟日記』(慶応四戊辰日記)に≪廿一日 英吉利(いぎりす)人来訪。我が心裡を話す。彼義(よしと称すと書かれている。別の『海舟日記』(幕末日記)には≪廿一日 英人サトウ来訪≫とサトウの名が明記されている。もし勝が21日以前にサトウに会っていれば、日記にそのことが載っているはずであるが、この時期の『海舟日記』には、これ以前にサトウと会ったという記述はない。このことからも勝がサトウに会ったのは21日が初めてであることが分かる。

ところがBS-日本テレビの「片岡愛之助の歴史捜査」では、『海舟日記』の「英吉利人来訪」の記述にスポットライトを当て、勝はサトウと接触し、「パークスの圧力」工作により西郷にプレッシャーをかけた、と解説している。しかし「廿一日」のところにはスポットライトを当てず、これには言及しなかった。これに気付かなかったのであれば、杜撰としか言いようがない。

しかし、もしここにスポットライトを当てると、視聴者がサトウと勝の密会が西郷・勝会談の後であることに気付き、勝が西郷に対し工作をしたという論理構成が破綻してしまうことを懸念したのであれば、これは歴史を歪曲して伝えようとしたとしか思えない。この点をテレビ局にメールで質問したが、回答はない。

 

【9.萩原延壽の『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』】

実はこの辺りの事情は歴史家の萩原延壽が記した『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の第7巻「江戸開城」に詳しく書かれている。萩原は、サトウがパークスに提出した3月16日の報告書には、西郷・勝会談のことも、江戸攻撃の延期のことも書かれていないと明確に指摘している。

この『遠い崖』は、萩原が1976年から90年まで14年の歳月をかけ、アーネスト・サトウの生涯を追いかけ、朝日新聞に連載した労作である。現在では全14巻の文庫本として容易に入手できる。にもかかわらず『サトウ回想録』に比べるとあまり読まれていないようである。萩原が『遠い崖』の「江戸開城」を朝日新聞に書いたのは1981年8月6日~9月17日である。

したがって【3.識者の見解】の著作で朝日新聞に「江戸開城」が掲載される以前に書かれたものは、『遠い崖』を参照できなかったと同情はする。87年に『江戸開城』を著した海音寺潮五郎は、萩原の連載を読んでいたかどうかは不明だが、『サトウ回想録』をきちんと解読して妥当な判断を下している。

「パークスの圧力」を論じる識者の多くは、『サトウ回想録』第31章冒頭部分を基に見解を述べているが、その読み方は浅いと言わざるを得ない。これだけでもじっくり読めば、勝が西郷との会談前に「パークスの圧力」を工作したとは推測できないはずである。少なくとも勝の工作に疑問を持つのが自然であろう。

にもかかわらず、なぜかいとも安易に工作したと論じている。『遠い崖』を読めば、サトウのパークスへの報告書の現物を調べずとも、勝が西郷との会談以前に「パークスの圧力」工作をしなかったことは容易に判断できるはずである。

 

【10.「パークスの圧力」――サトウ2回目の江戸派遣以降】

以上より、西郷・勝会談以前には「パークスの圧力」はなかったことが判明したが、それでは会談以降はどうであったか考察しておきたい。

先ず時系列的に一覧を見て頂きたい。

   9日  鉄舟・西郷会談(駿府) 基本合意(慶喜の備前藩お預けは撤回、

                   処分は保留し西郷に一任)

  13日  西郷・勝会談(第1回) 静閑院宮(和宮)の件のみ

  14日  西郷・勝会談(第2回) 正式合意。嘆願(慶喜は水戸で謹慎。

                          その他条件の緩和交渉)

  20日  西郷、京都着。評議。  最終決定

  21日  サトウ・勝 面談

  27日  パークス・勝 面談

  28日  パークス・西郷 面談

確かに、いわゆる「パークスの圧力」という事実はあったが、勝が働きかけた「サトウ・ルート」という内容の圧力は、勝・西郷会談以降のことである。降伏条件合意後も、朝廷の最終決定を仰ぐまでは確定しない。旧幕府側の嘆願とは、新政府側の条件の緩和であり、正に条件交渉である。いかに西郷が最高実力者であっても、勝手に決める訳にはいかない。

そこで勝との会談で旧幕府側の嘆願内容を確認し、急ぎそれを京都に持ち帰り朝廷の裁可を得たのである。結果4月11日江戸城明け渡し、慶喜の水戸出立となった。

この間、いかなる不測の事態が起こらぬとも限らず、条件交渉中の旧幕府側としては、少しでも客観情勢を有利にしておきたい、と考えたのは当然である。その過程で、いわゆる「パークスの圧力」を利用しようとした事実はあった。

一方西郷も、自派内の強硬派を説得するのに「パークスの圧力」を利用した事実はある(『遠い崖』)。またパークスの側にも戦争は回避したい、という希望があった。

ただ、前記の時期的な流れを見れば、20日に朝議が決した時点で結論は出ており、したがっていわゆる「パークスの圧力」は効力を失っている。3月21日以降に勝や西郷がサトウやパークスに会う以前に、既に事は決していた訳である。

11.結論】

『サトウ回想録』を丹念に読めば、サトウが最初に江戸に派遣された時には勝に会っていないことが分かる。少なくとも疑念が湧くはずである。さらにサトウのパークスへの報告書()、パークスのスタンレー外相当ての報告書、ハモンド事務次官当ての半公信で確認すればなお確実である。さらに『海舟日記』からも裏が取れる。萩原延壽の『遠い崖』(7巻「江戸開城」)を読めばそれが一層明確に理解できる。

サトウが『サトウ回想録』で「情報源は勝安房」「暗くなって訪問」を、第31章の冒頭の3月9日に江戸に出たという部分に書かず、20日に再度江戸に派遣された際の部分に書けば、多くの人がこのような錯覚をせずに済んだのである。サトウにすればそんなことは些細なことで、どうでもよいことであったであろうが……。

いずれにしても、勝は、西郷・勝会談以前にアーネスト・サトウに会ってはおらず、したがって西郷との会談において、サトウを介してイギリス公使パークスから西郷に、慶喜の助命、江戸総攻撃中止の圧力をかけてもらうという工作はできなかった。すなわち勝は、西郷との会談において「パークスの圧力」を利用することはできなかった、というのが結論である。

横浜開港資料館で入手した史料は、外国人特有のクセのある手書きであり、しかも黒ずんでほとんど判読困難な部分を含むコピーあったが、この解読と翻訳には、語学が堪能な我が畏友・相原正和氏に多大なるご協力を頂いた。ここに改めて深甚の謝意を表したい。

2016年5月20日 (金)

江戸無血開城」論考 (1)山岡鉄舟は、勝海舟の使いだったのか

「江戸無血開城」論考
(1) 山岡鉄舟は、勝海舟の使いだったのか

                                                                                                水野靖夫

【1.「江戸無血開城」勝海舟功績論の原因】

「江戸無血開城」は、江戸の薩摩藩邸において、江戸総攻撃を目指して進撃して来る新政府軍の参謀・西郷隆盛と、旧幕府の軍事取扱・勝海舟とが会談を行い実現したと言われている。もちろん会談が行われたのは事実であるが、この会談によって全てが決した訳ではない。にもかかわらず、一般にこの会談が過当に評価されている原因は次の3点にあるのではないだろうか。

(1))明治14年、政府の賞勲局が、維新の際の功績を調査した際、鉄舟は、勝との手柄争いになるのを嫌い、「江戸無血開城」の功績を勝に譲り、報告書を提出しなかった。

(2)「江戸無血開城」の関係者がほとんど亡くなった後に書かれた(明治31年)、勝の口述筆記である『氷川清話』が流布し、これに「江戸無血開城」が西郷と勝の談笑の間に決まったように書かれている。「西郷は、おれが出したわずか一本の手紙で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは…」「さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった」と、鉄舟の西郷説得の模様などには一言も触れていない。なお、別の談話筆記である『海舟余波』では「ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ」と、自分ひとりの手柄の如く述べている。

(3)昭和10年に結城素明が描いた、西郷と勝の2人が対座している「江戸開城談判」(明治神宮の聖徳記念絵画館)が、教科書にも載るほど有名になっている。この絵には、会談に参加した鉄舟が描かれていない。これは飽くまで絵であって写真ではない。

実はこの西郷・勝会談に先立って、幕臣山岡鉄舟が直接徳川慶喜の命令を受け、進撃して来る新政府軍の中を突破して駿府まで出向き、西郷と直談判したのである。慶喜の恭順の真(まこと)を説き、慶喜の処分の譲歩を確約した上で、西郷・勝会談のお膳立てをしたのである。

新政府軍の主な指導者たちは、慶喜の恭順が真実であるならば助命することは合意していた。しかし官軍に対する旧幕府側の抵抗もあり、静閑院宮(和宮)などの徳川家からの嘆願も要領を得ず、慶喜の恭順が本物であるか確信が持てなかった。一方旧幕府側も、慶喜の助命嘆願など色々手は尽くすが、新政府軍は江戸を目指して進軍して来るため、手詰まり状態で、勝も途方に暮れていた。そこに突然、直接慶喜の命を受けた鉄舟がやって来て、駿府に談判に出掛けると告げたのである。そして勝が身柄を預かっていた薩摩藩士の益満休之助を連れて駿府へ向かったのである。

【2.勝海舟の指示・命令ではない根拠】

 それでは、鉄舟が「勝海舟の指示・命令」で駿府の西郷に談判に行ったことが、歴史的事実ではないことは、なぜ分かるのか。それは、慶応4年3月5日、鉄舟が駿府に行く前に勝のところを訪ねたとき、両者はお互いを知らなかったからである。そのことは鉄舟も勝も共に述べている。以下の3書にそのことが書かれているので、その触りを紹介する。

 『海舟日記』5日 旗下山岡鉄太郎に逢ふ。一見、其為人(そのひととなり)に感ず。同人申旨あり、益満生を同伴して駿府に行き、参謀西郷氏江談ぜむと云。我れ是を良とし、言上を経て、其事を執せしむ。西郷氏江一書を寄す。

 『氷川清話』……花々しく最後の一戦をやるばかりだと、こう決心した。それで山岡鉄太
郎が静岡へ行って、西郷に会うというから、おれは一通の手紙をあずけて西郷へ送った。山岡という男は、名前ばかりはかねて聞いたが、会ったのはこの時が初めてだった。それも大久保一翁などが、山岡はおれを殺す考えだから用心せよといって、ちょっとも会わせなかったのだが、……

 『談判筆記』……1,2の重臣に謀れども、其事決して成り難しとて肯(がえん)ぜず。当時軍事総裁、勝安房は、余素より知己ならずと雖も、曾て其胆力あるを聞く。故に往て之を安房に謀る。安房は余が粗暴の聞こえあるを以て、少しく不信の色あり。

『海舟日記』は正に勝自身が書いたものである。未だ「江戸無血開城」の歴史的評価も固まらない時点の日記であるから、そこで述べられたことの信憑性は高い。

『氷川清話』は前述のように、『海舟日記』に比べればその信頼度は低いが、それでも鉄舟ではなく、勝自身が述べているのである。しかも大久保一翁が「鉄舟は勝を殺す考えだ」とまで言っている。勝がうっかり口を滑らせて、「初対面」であり大久保一翁が注意したことなどを調子に乗って喋ってしまったのかもしれない。しかしすでに世に出ている『海舟日記』に「初対面」であることを書いてしまっているので、今さら「おれが、鉄舟の胆力・交渉能力を見込んで、使いにやったのサ」などと言えなくなってしまったのかもしれない。

『談判筆記』とは『慶應戊辰駿府に於いて西郷隆盛氏と談判筆記』のことで、鉄舟の直筆の書である。前述の通り、鉄舟が賞勲局の求めに応じず、報告書を提出しなかったため、岩倉具視が「手柄は勝に譲るとしても、正しい歴史の記録は残しておくのが責任であるから」と言って、岩倉個人に提出するよう求めた。それに応じて鉄舟自身が書いたのが、ここに言う『談判筆記』である。これが書かれた経緯については『正宗鍛刀記』に書かれている。

これらを見れば、鉄舟と勝とはこの時点では、互いに相手を知らなかったことは明白である。もちろん同じ旗本であるから、名前や顔くらいは知っていたかもしれないが、慶応4年の頃は身分も相当違い、話をしたこともなかったであろう。まして『氷川清話』で言うように、勝は「鉄舟はおれを殺す考えだ」と聞かされていたので、用心していたことであろう。このころの勝は、主戦派の幕臣から薩長の回し者・裏切者として暗殺される危険が大いにあったからである。

【3.「江戸無血開城」テレビ放映】

さて、「江戸無血開城」の話には、一般に、また俗論では、この鉄舟が全く出てこないか、出てきても、せいぜい勝海舟の命令で駿府に出掛けた、もしくは西郷・勝会談の露払いとして、である。

昨年、「江戸無血開城」について、たまたま2ヵ月連続で2つのテレビ放映があった。
(1)TBS(BS) 2015年11月13日 THE歴史列伝 江戸無血開城 勝海舟
(2)日本テレビ(BS) 2015年12月10日 片岡愛之助の歴史捜査 幕末のネゴシエーター勝海舟

である。

何か新しい発見があるとか、新しい切り口から論ぜられるのかと思ったが、いずれも全く期待外れであった。誤った、もしくは根拠に乏しい俗論を、さも目新しい論点ででもあるかの如く語っている。大学教授や評論家のコメントを交えているが、何とも情けない話だ。本考察は、これらテレビ番組の批判が目的ではないが、いわゆる俗論の代表的な内容なので、折に触れ参考にしながら検討を加えようと思う。

(1)TBSの「THE歴史列伝」では、「勝は益満を介して信頼する旧幕臣山岡鉄舟を西郷の下に使わせることにする」と説明している。この説明では、勝が鉄舟に命令して西郷との談判に行かせたことになる。どこのどんな史料に、この時点で勝が鉄舟を「信頼していた」などと書いてあるのだろうか。鉄舟は自分を「殺しに来るかもしれない」と思っていたのに。鉄舟は慶喜の命令を直接受けて駿府に行ったのであるから、このTBSの説明は誤りである。
 また、
(2)日本テレビの「片岡愛之助の歴史捜査」でも、「勝は静岡・駿府にいる西郷に使者を送った。勝の代理人に立ったのは幕臣で剣術の達人山岡鉄太郎こと山岡鉄舟」と、鉄舟を使者にしたのは勝であると誤った解説をしている。鉄舟は勝の「代理人」として西郷のところに行ったのではない。当初徳川慶喜は、高橋泥舟に駿府に行くことを命じたが、泥舟が行ってしまうと、謹慎している慶喜を護り、かつ旗本の暴発を抑える者がいなくなってしまう。そこで泥舟は義弟の鉄舟を慶喜に推薦したのである。
 いずれにしても勝はこの時点で手詰まり状態に陥っており、途方に暮れていたのである。そこに偶然、降って湧いたかのように、慶喜の命を受けた鉄舟がやって来たのである。
 この点を両テレビ局に質問したが、回答はない。

【4.識者の解釈】

 識者はその著書にどのように書いているであろうか。

(1)田中惣五郎 『勝海舟』  ≪輪王寺宮にすすめて、使者とする運動をしたのも彼(鉄舟)であり、いよいよたまり兼ねて、自ら使者に立つ気になったのである≫。≪勝が行けぬときまった時から、勝の頭には、益満とこれに配すべき人物が去来して居たであらうし、大慈院守護の精鋭隊頭山岡の申出が、この期待の人物と合致して、直ちに使者として出発することとなり≫。駿府への使者は、鉄舟自身の発案であり、勝への申出である、と述べている。田中の説は、輪王寺宮の件はさておき、使者は鉄舟からの申出であって、勝の指示・命令ではない。

(2)江藤淳 『海舟余波』  『海舟日記』の≪旗本山岡鉄太郎に逢ふ。一見その人と為りに感ず≫。≪また後年彼(勝)は回想して「おれもこれまで山岡のことは、名だけは聞いてゐたけれども、いまだその心事がしれんから」と述べている≫。つまりこのとき鉄舟と勝とは初対面であった、と言っている。

(3)石井孝 『勝海舟』(吉川弘文館) ≪徳川政権の実権者となった海舟がやった第一の大きな仕事は、山岡鉄太郎(鉄舟)の駿府派遣である≫。それに続く文で≪3月5日、海舟山岡に会い、「一見、其の人と為りに感」じた。山岡は「益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむ」といったので≫と、鉄舟を派遣したと言いながら、両者は初対面で、鉄舟の方が勝を訪ねてきたと解釈している。しかし『明治維新の舞台裏』(岩波新書75年)では≪徳川政権の「軍事取扱」として軍事上の実権を掌握した勝は、駿府の西郷のもとへ使者として山岡鉄太郎(鉄舟)を派遣した≫と、勝の意思で派遣したかのような言い回しをしている。

(4)海音寺潮五郎 『江戸開城』 鉄舟が勝を訪ねて行ったときのことを≪勝の人物の評判はかねてから聞いているが、面識はない。面会を乞うと、勝家の人々は不安がって取次ごうとしない≫と表現している。

(5)高野澄(きよし) 『勝海舟』 ≪はじめて見る山岡の顔だが、名前ぐらいは知っていた≫。

(6)勝部真長(みたけ) 『勝海舟』(PHP研究所) ≪3月5日、旗本・山岡鉄太郎(号・鉄舟)が訪ねてきた。初対面である。 「一見、その人となりに感ず」と勝が「日記」に書いている≫。そして鉄舟が西郷隆盛と談判した経緯が、鉄舟の自書である前述の『談判筆記』をそのまま引用して詳しく述べている。さらに児童用の『勝海舟 世界伝記文庫22』(国土社)には≪3月5日、山岡鉄太郎が訪ねてきて、3人の中の一人、益満休之助を貸してほしいといった≫、≪このとき、山岡と海舟は初対面でした≫と記しており、益満を駿府に同行したいと申し出たのは鉄舟の方であると言っている。

(7)加来耕三 『勝海舟 行蔵は我にあり』 「豪胆・山岡鉄舟」の章の副題に『海舟日記』の≪旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人と為りに感ず。同人申す旨あり、益満(休之助)生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷(隆盛)に談ぜんという≫を書いている。にもかかわらず、≪海舟は山岡に益満休之助をつけて駿府に派遣し、西郷隆盛に面会を求めることとした≫と副題の『海舟日記』とは矛盾した内容を述べている。益満同伴については、鉄舟の依頼と勝の提案との両説があるものの、駿府行きは鉄舟からの事前連絡であり、勝の指図ではない。加来氏の企画・構成・監修による児童マンガ『コミック版 日本の歴史34 勝海舟』には、何の前置きもなく、いきなり勝が鉄舟と対坐し≪山岡さんよ、慶喜公に仕える者同士、いっしょにこの難局を乗り越えちゃあくれねぇかね?≫≪俺の手紙を駿府にいる西郷さんに渡して欲しいんだ≫と言うコマがある。完全に勝が鉄舟に駿府行きを依頼している。

(8)津本陽 『勝海舟 私に帰せず』 ≪そこで鉄太郎は思いついた。「当時軍事総裁勝安房は、いままで会ったことはないが、胆略ある人物と聞いていたので、さっそく赤坂元氷川の勝宅に至り、事の急を告げ、面会を求めた……」。さらに山岡鉄太郎は、勝との会見につき、つぎのように記す。「安房は余と初面識で、疑心を抱いているのか、容易に答えようとしない」≫。

(9)松浦玲 『勝海舟 維新前夜の群像3』(中公新書) ≪海舟は山岡とは初対面であったが、一見しただけで感心し、使者の役をまかせた≫。

(10)星亮一 『勝海舟と明治維新の舞台裏』 ≪山岡が、海舟の書簡をたずさえ、薩摩藩士・益満休之助を同伴して江戸を出発したのは、3月6日である≫。勝の指示か否かには触れていない。

 以上、(10)星亮一氏だけが、勝の命令による派遣か否か不明で、他は全て鉄舟と勝は初対面だと言っている。(1)田中惣五郎は、鉄舟自らの発案で駿府に出掛けたと解釈している。(3)石井孝と(7)加来耕三の両氏だけは、勝の派遣と言っている。初対面の者に、しかも危険人物で自分を殺しに来るかもしれないと注意されている人間に、どうしてこのような重要な任務を託せると言うのであろうか。

【5.結論】

鉄舟は勝海舟の命令で、その使いとして駿府の西郷に談判に行ったのではない。そのことは、鉄舟と勝は、お互いに相手を知らなかったという、確実な複数の史料から明らかである。このような大役を見ず知らずの、ましてや自分を殺しに来るかもしれない人物に託すはずがない。

勝は、自分の考えで鉄舟を駿府に派遣したのではない。鉄舟の方からの申出に対し、賛同・容認をしたのである。もし、鉄舟は権限もなく、ただ頼まれて西郷との談判に行っただけである、と言うなら、鉄舟に命令を下したのは徳川慶喜である。したがって「江戸無血開城」は徳川慶喜の功績ということになる。まして抗戦か恭順か紛糾したとき恭順の断を下したのは慶喜である。

これは解釈の問題ではなく、歴史の真実である。もし勝が命じて鉄舟を派遣したとするなら、以前より両者が知己であった、もしくは誰かが鉄舟を勝に紹介した、そして勝が西郷との交渉役は鉄舟が適任だとして鉄舟に会い駿府行きを命じた、という史料が必要である。にもかかわらず、学者等の識者の中には、そうした根拠も示さず、勝が鉄舟を派遣したと主張する者がいるのは理解に苦しむ。テレビ番組に至っては、もう無神経というか、杜撰としか言いようがない。

それでは改めて、勝海舟は何をしたのか。慶喜の備前藩お預けの撤回・処分保留、条件受諾による江戸攻撃中止・徳川家名存続という、鉄舟と西郷の重要な交渉結果を「追認」したのである。では勝は、西郷との会談で何を交渉したのか。西郷が処分留保とした慶喜の水戸謹慎、城明け渡し、軍艦・武器の引き渡し、城中の幕臣の撤退等に関し、「条件交渉」を行ったのである。基本的な「重要事項」は鉄舟・西郷の交渉で合意しており、勝は少しでも徳川方に有利となるよう「条件緩和」の交渉をしたのである。西郷としても、一介の旗本鉄舟との合意だけでは、また軍事取扱という最高責任者勝との面会・確認なしでは、京都の朝廷を説得は出来なかったのである。

                                                    以上

2014年2月16日 (日)

江戸無血開城までの史実経緯

江戸無血開城までの史実経緯について

1. 慶応4年(1868)正月2日に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れ、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に1月12日に戻った。

2. 江戸城では恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾したが、慶喜は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。

3. しかし、薩摩・長州を中心とした官軍は、総勢5万人といわれる兵力を結集し、朝敵徳川慶喜の居城江戸城を攻めるべく、続々と京都を下っていた。

4. この状況下において、慶喜は恭順の意を正確に官軍に伝え、かつ、江戸を戦火から防ぐべく、一介の旗本山岡鐡太郎(=山岡鉄舟、以下「鉄舟」と略する)に、江戸から駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官であった西郷隆盛と会見・交渉することを命じた。

5. この時、幕府の対官軍交渉は手詰っていた。静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず、官軍先鋒は品川まで迫っていた。最後の奇策としての鉄舟投入であった。

6. 鉄舟は明治15年3月に岩倉具視と三条実美賞勲局総裁の求めに応じ「慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記」を提出した。その中で慶喜から命を受け、始めて海舟を訪ねた経緯を次のように記している。(参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)
「余は、国家百万の生霊に代り。生を捨るは素より余が欲する所なりと。心中青天白日の如く。一点の曇りなき赤心を。一二の重臣に計れども。其事決して成り難しとして肯ぜず。当時軍事総裁勝安房は。余素より知己ならずと雖も。曾て其胆略あるを聞く。故に行て是を安房に計る」

7. 海舟はこの鉄舟の訪問を「慶応四戊辰日記・3月5日」に
「旗本山岡鉄太郎に逢ふ。一見、其人となりに感ず。同人申旨あり、益満生を同伴して駿府に行き、参謀西郷氏に談ぜむと云。我れ是を良とし、言上を経て、其事を執せしむ。西郷氏に一書を寄す」
と記している。(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)

8. 慶応4年3月9日の西郷と鉄舟の駿府会見で「江戸総攻撃を取り止めさせる」交渉の模様を「慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記」で、西郷から以下の五箇条の条件が出されたと記している。(参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)
     1.城を明け渡す事。
      2.城中の人数を向島へ移す事。
      3.兵器を渡す事。
      4.軍艦を渡す事。
      5.徳川慶喜を備前へ預る事。
鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れなかった。以下のように強く反論している。
「余曰主人慶喜を独り備前へ預る事。決して相成らざる事なり。如何となれば。此場に至り徳川恩顧の家士。決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き。空しく数万の生命を絶つ。是王師のなす所にあらず。されば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰。朝命なり。
余曰。たとひ朝命なりと雖も。拙者に於て決して承伏せざるなりと断言す。
西郷氏又強いて、朝命なりと云ふ。
余曰然らば先生と余と。其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公。若し誤りて朝敵の汚名を受け。官軍征討の日に当り。其君恭順謹慎の時に及んで。先生余が任に居り。主家の為め尽力するに。主人慶喜の如き御処置の 朝命あらば。先生其命を奉戴し。速かに其君を差出し。安閑として傍観する事。君臣の情。先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鐡太郎決して忍ぶ事能はざる所なりと激論せり。西郷氏黙然暫くありて曰く。先生の説尤も然り。然らば即徳川慶喜殿の事に於ては。吉之助屹と引受け取計ふべし。先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」

Photo

 (静岡駅近くの西郷・鉄舟会見碑)

9. ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

10. そのことを海舟は「慶応四戊辰日記・3月10日」に次のように記している。
「山岡氏帰東。駿府にて西郷氏に面談。君上之御意を達し、且 総督府の御内書、御処置之箇条書を乞ふて帰れり。嗚呼山岡氏沈勇にして、其識高く、能く 君上之英意を演説して残すところなし、尤以て敬服するに堪たり」(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)

11.また、鉄舟も前記「慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記」で次のように記している。(参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)
「益満と共に馬上談じ。急ぎ江戸城に帰り。即ち大総督宮より御下げの五ヶ条。西郷氏と約せし云々を。詳かに参政大久保一翁勝安房等に示す。両氏其他の重臣。官軍徳川の間。事情貫徹せし事を喜べり。旧主徳川慶喜の欣喜言語を以て云ふべからず」と述べ、早速に江戸市中に高札を立てて布告した。その大意は「大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接相済。恭順謹慎実効相立候上は。寛典の御処置相成候に付。市中一同動揺不致。家業可致との高札を」であり、これにより江戸市民はようやく一安心できたのであった。

12.3月9日の会見から4日後の慶応4年3月13日
海舟と西郷の第一回会談が芝高輪の薩摩屋敷で行われたことが、「慶応四戊辰日記・3月13日」記載されている。(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)

また、以下の見解は一般に認識されている内容である。(参考資料「南洲翁遺訓」)
海舟と西郷はすでに面識があり、会談後2人は愛宕山に登った。そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った。この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたが、これは正に鉄舟の武士道精神真髄を示したものであった。

13.JR田町駅近く、都営浅草線三田駅を上がったところ、第一京浜と日比谷通り交差点近くのビルの前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地 西郷吉之助書」と書かれた石碑が立っている。その石碑の下前面、向かって左側に「この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である・・・。」と書かれ、石碑の下前面、向かって右側に高輪邉繒圖が描かれている。

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(田町駅近くの石碑と西郷と海舟の会見銅板)

14.結論的には、「慶応四戊辰日記・3月14日」(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)に記されたように、慶応4年3月14日の西郷・勝会見(鉄舟同席・参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)で正式に「江戸無血開城」が決まったといえるが、その前段階で鉄舟の駿府行きがあって、この日を迎えたのである。
                                                  以上