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トピックス

2018年9月26日 (水)

シンポジウム「彰義隊の上野戦争-明治150年に考える」

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連絡先:、shogitai18@gmail.com(シンポジウム問合せアドレス)

2018年6月25日 (月)

山岡鉄舟研究会発行資料が参照・引用されました

水野靖夫氏が記述作成され、2016年2月例会でご発表された『英国公文書などから読み解く江戸無血開城の真事実』が、原田伊織著『虚像の西郷隆盛 虚構の明治150年・明治維新という過ち・完結編』 (講談社文庫)の第四章7項「江戸城無血開城という美談」の338・339頁に、下記のように参照・引用されました。

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水野靖夫氏に感謝申し上げるとともに、山岡鉄舟研究会の存在意義と活動状況が、認識されたものと判断いたします。

2017年4月 2日 (日)

富岡製糸場への夢の道が実現・・・山岡鉄舟研究会員・高橋育郎氏

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富岡製糸場への夢の道始まりは、2015年(平27)5月。習志野市谷津「生涯青春の会」でのこと。
 絹の研究家・松本信孝氏から絹の話を伺い、目から鱗の落ちる思いがした。
 彼はそのとき、絹製品を売り込むために音楽とコラボしたいといわれた。共感を得た私は早速、作詞した。するとすかさず筑波の「農業生物資源研究所」から、光る蚕が成功したので、最先端技術の先取りの意味で、歌詞に「光る」を入れてほしいとアドバイスがあった。
 そこで出来たのが、童謡「光るお蚕さん」とシャンソン「虹のハンカチーフ」である。
 作曲は、童謡が習志野市在住、童謡協会の高橋知子さん。シャンソンはシャンソン・カンツォーネ協会の中山エミさんが当り、歌っていただいた。そこで、童謡はお琴の伴奏がいいということで、JR技術畑のトップクラスの高松さんにお願いして、日高さとみさんにおせわになった。それぞれCD録音したころ、昨年5月に六本木ヒルズのメイ・ウシヤマ学園で第1回サミットがひかれ、この2曲を聞いてもらったのが今日に繋がった。
 富岡製糸場への招聘通知は、初めに京丹後市商工振興課長から。続いて主催の経済産業省関東経済産業局からであった。
 3月17日当日、松本氏と一緒に出掛けた。上野から久々の新幹線で高崎まで、そこで上信電鉄乗り換えて上州富岡駅で下車し、徒歩11分の製糸場へ入った。正門の目の前は赤煉瓦の東置繭所であり、奥には西置繭所があり、この二つの建物は昨年国宝になった。その東置繭所で14時半から「絹のみち未来サミット~絹のみちから絹の国へ~」シンポジウムが始まった。
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 先ずは挨拶からで、主催者の関東経済産業局長。開催地富岡市長。そして関係自治体(出席71名)と続き、「絹のみち」プロジェクトの概要説明。そして成果のプレゼンテーションに入った。
 第1部が信州シルクロード岡谷蚕糸博物館館長。上武絹の道、日本シルクロード、広域スタンプラリーの説明。
 第2部は、各地のモノづくりの取り組みとして、新潟県五泉市の絹織物と各地の染色加工との連携による新たなものづくり。先進企業7社連携による新たなアパレルブランドの創設。産地間連携による伝統的絹織物「銘仙」の新たな展開。産官連携・結城市中心によるおみやげ物開発。                        
 さらには、各地に広がる未来に向けた絹のみちの取り組みを、京丹後市市長はじめ地元富岡市長や前橋市長らが、こぞって手を結び日本の絹文化復興に意気盛んなところをアピールしました。
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 そして、17時15分からは会場を近くのホテルに移して交流会となった。ステージには
スクリーンが張られ、「光るお蚕さん」と「虹のハンカチーフ」が紹介されて、CDによって歌が流された。私は松本氏と二人、ステージに立ち、絹製品のことや歌にまつわる話などコメントし、動画になった。歌詞は200部配られた。
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養蚕業を国の基幹産業に押し上げ、絹の伝統文化を世界に発信しようとの意気込みが十分に見て取れた。

2016年10月 6日 (木)

山本紀久雄の講演・いわき市の天田愚庵顕彰会(愚庵会)

2016102()、福島県いわき市の天田愚庵顕彰会(愚庵会)主催の「縁・講演会」(会場・いわき市生涯学習プラザ大会議室4)にて、山岡鉄舟研究会の山本紀久雄会長が講演いたしました。

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講演内容は、山本会長が月刊ベルダ誌で連載中の「山岡鉄舟が影響を与えた人物…天田愚庵編」で取り上げ検討してきたもので、講演ストーリーは

 

1. 愚庵はいわき市が生んだ偉人であり

2. 愚庵を理解するためには

3. 愚庵の若き時代の奔放な生き方と

4. 最期にみせた素晴らしい逝き方

5. その格差に注視すべきだが

6. それには鉄舟が大きく影響しており

7. そこに磐城平における戊辰戦争発端要因が絡んでいる

 

と述べ、その戊辰戦争発端要因への探求スタートは、磐城平藩の第5代藩主安藤信正(鶴翁)明治元年10月、戊辰戦争後、東京で謹慎、そのときに平藩家老・年寄に寄せた書(上妻又四郎著『磐城三藩の戊辰戦争』参照)に、

「此の度の大事件畢竟我等不行届より生じ候儀にて其の方共も容易ならざる辛苦致させ気の毒の至りに候、去り乍ら彼の砌りの事情に止むを得ざる場合もこれ有り候儀は其の方共も能く心得候筈、今更是非得失の論議は其れ必ず無用にて候」とあり、

 

さらに「磐城の戊辰戦争は旧幕府を脱走した遊撃隊の人見勝太郎・伊庭八郎によって始められたのである。人見が仙台藩・古田山三郎の要請によって平潟奪回の軍事行動を起こしたという史料は見当たらなかった。この軍事行動は、人見勝太郎や伊庭八郎と請西藩主林昌之助らのある意味で勝手な単独行動から始まったのである。史料を丹念にたどるならば、磐城三藩の戊辰戦争は明らかに巻き込まれて始まったのである」と同書は結論づけ、

 

従って「前藩主安藤鶴翁の手紙にあった戦争の敗北に至る経緯が『止むを得ざる場合これ有り候』という言葉は事実を伝えているとしか言いようがないのである」としている。

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 この「磐城の戊辰戦争」を始めた旧幕府遊撃隊の人見勝太郎・伊庭八郎には、彼らの脱走を止めるべく、鉄舟が箱根路に出向き、説得したが、失敗し、それが「磐城の戊辰戦争」となって愚庵の父母妹が行方不明、以後、愚庵が20年もに渡る捜索行動に結びついていく。

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                                         (いわき市愚庵・いおり)

 

鉄舟は、明治5年、愚庵と始めて会った際、愚庵が訴え告げる「父母の所在を尋ねんこと是のみ一生の宿願に候」を耳にしたとき、禅修行で鍛え抜いた身、その顔貌には出さなかったが、胸中、湧き上がる自責の念を感じざるを得なかった

 

箱根・御殿場に赴き、戦いを止めるよう遊撃隊を説得したが出来ず、その結果が、今、眼前にいる五郎に、痛ましい苦しみと、真の悲しみ、強い覚悟というべき決意を与えている。

 

鉄舟は、愚庵と会った明治5年から8年後、師の滴水和尚から印可を受けるが、既に、この頃から師家としての心境に達しており、晩年には「世間は吾が有、衆生は吾が児」、即ち「世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるものは、すべて自分の子供である」という境地に達していた。

 

このように宇宙界のすべての現象が我が身と直結しているという、空恐ろしいまでの心境となったほどであるから、まして自らが関与した箱根・御殿場の説得失敗に連なる五郎に対しては、深く想いを新たにした。

 

そのような境地にある鉄舟、五郎が語る父母妹捜索話に、深い悔恨を持つとともに、五郎の脳細胞奥底に隠れている潜在的な「ある特別な才能」を一瞬にして見抜き、このときから格別の感情を抱き、特別な想いを持ったと解説し、講演を締めくくった。




山本紀久雄会長の講演・江戸東京博物館友の会セミナー

164回 江戸東京博物館友の会セミナー(平成2814日)

           山岡鉄舟の人間力

講師 山本 紀久雄(山岡鉄舟研究会会長

 

一転、和平路線をとった徳川幕府

慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで破れた15代将軍慶喜は大坂城を6日抜け出し、11日夜半品川沖に着き、12日江戸城に入りました。江戸城では、錦の御旗を掲げた官軍と戦うか、和平を結ぶか大評定が続きます。和平を唱えるハト派の勝海舟に対し、武闘派の小栗上野介や榎本武揚などのタカ派が一時主流となりましたが、その後一転、徳川幕府は和平路線をとります。もしこのとき、武闘派の言うなりに戦いに進んでいたら、大きな戦争となり江戸城の無血開城は無かったでしょう。これが1月の15日のことでした。

どうやら勝を苦手としていた慶喜ですが、今は勝に頼るしかなく、官軍との和平を彼に託しました。最初は西郷隆盛を知っている勝が自ら和平交渉に行こうと提案しますが、万一勝を失ってはもう後がない、と慶喜に拒否されます。その後は、和宮や天璋院、さらに上野の輪王寺宮まで担ぎ出して和平を求めますが、いい結論は得られませんでした。誰か西郷と渡り合える者はいないか・・・、このような複雑な場面で登場してきたのが、全く無名の山岡鉄舟でした。

駿府への出立

そのとき33歳だった鉄舟は、謹慎していた慶喜を警護するために寛永寺周辺を見回る警備兵にすぎませんでした。彼を推薦したのは鉄舟の妻の兄、槍の名人の髙橋泥舟(でいしゅう)でした。

 慶喜公に一度も会ったこともない鉄舟でしたが、二心将軍と呼ばれていた慶喜に、状況が変わったら、また方針を変えるのではないか、と詰問しています。結果、慶喜から間違いなく別心無しという言質(げんち)をとった鉄舟はこの使命は絶対に成功させると自分を追い込んだことでしょう。しかし、一体どうやったらいいのか分からなかった鉄舟は、多くの幕閣などを訪ねて助力・相談を請いますが、誰も相手にしてくれませんでした。

 そうして、最後に訪ねたのが勝海舟でした。虎尾(こび)の会で清河八郎と付き合っていた鉄舟を危険人物と警戒していた勝でしたが、自宅に訪ねてきた鉄舟と会うことになります。鉄舟に会った海舟は日記に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」と書いています。この日が3月5日です。勝は鉄舟が駿府にいる西郷との交渉に行くことを了解し、薩摩藩邸焼き討ち時に捉えられ、海舟邸に預かっていた、同じく虎尾の会で鉄舟と仲間だった益満(ますみつ)休之助と一緒に、鉄舟は官軍でいっぱいの東海道を駿府に向かいました。が、途中休之助は鉄舟のあまりの速足のせいもあってか腹痛を起こし落伍、箱根の山からは全くの一人旅となりました。

西郷、鉄舟会見

箱根の山を逃げ隠れしながら西に向かった鉄舟は、あの侠客清水次郎長の世話になって駿府に辿り着きます。

 そして東征軍の西郷との会見が3月9日。和平への道は、ただ一つのことにかかっていました。イノチ、慶喜の命です。

あとは東征軍の言いなりでしたが、これだけは譲れません。ところが西郷は、これは朝命で、慶喜公は備前藩に預ける、の一点張りです。この時点で備前藩は官軍側になっており、そこへ移すことは即、死を意味しました。

鉄舟は武士道精神に基づき鋭く反論しました。「もし、あなたの君主島津公が同じ立場に立たされたら、あなたは殿様を敵方に渡しますか?」それを聞いた西郷は暫し沈黙したあと応えました。「分かりました。慶喜公のことは拙者が預かりもうす」と。この一言で江戸城の無血開城が決まったのでした。西郷は鉄舟という人間像のなかに無類の侍魂を見出したのです。後日3月1314日の西郷と勝の会談はあとの段取りの確認であり、事務手続きみたいなものでした。その際、西郷が勝に述べたという記録が残っています。「徳川さんはえらいおタカラをお持ちですね」「???」「命も、金も、名誉もいらぬ。ああいう人でなくては天下の大業は成し遂げられません」と。

明治天皇との17年

明治天皇は日本のもっとも偉大な統治者であった、ということに異論はなかろうと思いますが、その天皇を扶育した人が侍従として36歳から53歳まで終生仕えた鉄舟でした。

 

 鉄舟の厳しい禅修業を宮城で見ていた天皇はそこから学び、自分を磨いていったと思われます。京都の公家社会で女官たちに囲まれて育った天皇と、赤貧洗うがごとしの生活をしてきた鉄舟、境遇が違い過ぎる2人でしたが、ともに大酒飲みでした。2人でお酒を酌み交わしながら、天皇は世の中のこと社会のこと世界のことを身に付けていったことと思います。

 

 東征軍参謀として明治維新を実質的に成し遂げたのは西郷隆盛であり、明治の45年間に日本を冠たる列強に築きあげ、大正、昭和、平成とつなぎ、今の日本を先進国に位置づけた始まりは明治天皇の治世であり、その偉大なる2人と深く関係を築いたのは山岡鉄舟で、人間を鍛え続けると「こうなり得るという実態・境地実像」を遺したのが鉄舟です。

 我々はこの世に生を受け、一人一人が意義ある存在として今ここにいる。鉄舟は自らの奥底深く存在する意義を、厳しい修行で到達した境地から発揮させ業績を遺しました。厳しい修行を課せられない我々が、鉄舟から学ぶとするならば、自らの生きる意義を再確認することではないでしょうか。それが現代的な意味での鉄舟の教えと思います。意義を探し、求め、それを見つけた人は素晴らしい人生を送れるのだと、鉄舟は語っているのです。  参加者156人。

2016年4月22日 (金)

「山岡鉄舟と飛騨」北村豊洋氏著が岐阜新聞で紹介される

北村豊洋氏著書「山岡鉄舟と飛騨」が、2016年4月14日岐阜新聞に掲載されましたので、ご案内いたします。

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2015年4月29日 (水)

山崎一穎跡見学園理事長、日経新聞に

2015年2月例会にてご発表いただいた山崎一穎跡見学園理事長が、日経新聞に登場されましたのでご紹介します。

(記事タイトル)

森鴎外の「舞姫」 自筆原稿を購入 跡見学園女子大・・・日本経済新聞2015年4月29日記事

 跡見学園女子大(東京・文京)は28日、文豪、森鴎外(1862~1922年)の代表作「舞姫」の自筆原稿を購入したと発表した。早ければ今秋にも文京区立森鴎外記念館で公開する。デジタル資料としてウェブ上で公開することも検討している。

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(跡見学園女子大が購入した「舞姫」自筆原稿 )

 自筆原稿からはヒロインの年齢を実年齢から架空の「十六、七」に書き直した跡が確認できる。山崎一穎跡見学園理事長は「恋人への複雑な思いなど、鴎外の心の動きが読み取れる」と話している。

2015年4月 2日 (木)

「白河口の戦い記念碑」の建設にご協力を

2015年の山岡鉄舟研究会例会では「天田愚庵」をとりあげ、鉄舟が愚庵に与えた影響について検討していますが、その過程で「江戸無血開城が鉄舟の駿府駆け」により成り立ち、東海道筋では大規模な戦乱が起きなかったのに、東北の地では、何故に「奥羽越列藩同盟」が結成され戦いがなされたのか。

という疑問から様々な角度から研究しておりますが、この度、福島県白河市で「白河口の戦い記念碑」を建設することについて協力を求められました。

調べて参りますと「白河口の戦い」がまさに戊辰戦争における要の場所であったことがわかり、この地で千名もの戦死者が犠牲となっており、その霊を慰めることに意義があると感じましたので、当会のホームページで皆さんにお伝えし、皆さんのご協力をお願いいたしたく思っております。

記念碑建設委員会からの呼びかけと、チラシを掲示いたしますので、よろしくお願い申し上げます。

ご協力いただける方は、次のお問い合わせ先にご連絡のほどお願いいたします。  

TEL・FAX  0248-21-9395 携帯080-1803-2268 締め切りは5月末ですImg_20150402_0003

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2014年10月 8日 (水)

山岡鉄舟印存掛け軸の解読

山岡鉄舟印存掛け軸を「人生のこころの標を刻する77種の印」冊子としデジブック化いたしました。

http://bushi-do.lolipop.jp/Tesyuu_booklet/HTML5/pc.html#/page/1


山岡鉄舟研究会は毎月第三水曜日に例会を開催しておりまして、2014年4月の例会発表は、この冊子2ページ写真の「山岡鉄舟居士印存、山本玄峰老師題字『神如誠至』の掛け軸(紙本水墨・ 緞子裂・ 象牙軸) 昭和30年9月上浣(注・上旬) 全生庵主玄(げん)實(じつ)識」につき、会員の木下雄次郎氏が「鉄舟、人生のこころの標を刻する77種の印」として解読し解説を行いました。

ご存知の通り印刻されている漢字の解読は難しく、特に、戦前に印刻されたものは旧漢字でもあり厄介で、その中でも鉄舟印は、その書の難解さと同じく読み解くのは極めて困難ですが、それに木下氏が挑戦し、そこに山本紀久雄が補足解説したものであります。

よく知られていますように、難解ではありますが鉄舟書の解読は行われています。だが、鉄舟印の解読はほとんどなされておらず、おそらくは木下氏解読が本邦初で、これは画期的なことではないかと思います。

木下氏の長年にわたる書画骨董に対する蒐集活動で培った見識、とりわけ鉄舟書に対する高い関心が、常人では難しい作業を可能にしたと推察しております。

また、この掛け軸は山本玄峰老師が題字して、数多くの鉄舟印から選んだのでありますから、この掛け軸には何かのストーリーが隠されているはずです。
闇雲に全生庵第五世玄實師が鉄舟印を押したわけではなく、何かの一貫したストーリーがあって、その印の位置を決めているはずであり、その物語解読につきましては山本紀久雄が挑戦しております。

皆様からご忌憚ないご見解を賜れば幸甚でございます。

2014年7月29日 (火)

生涯現役と武士道・高橋育郎氏の実践事例

生涯現役と武士道

                   高橋育郎

 「童謡に生涯現役の夢かけて」は、平成4年春、行動人のための月刊誌が懸賞論文を募集したときに応募。入選したものです。

 表彰式に臨んで私の夢は、更にふくらみ、そして何とその年の12月、夢の第一歩が現実になって動きはじめました。

 今に続く「心のふるさとを歌う会」です。きっかけは、ライフ・ベンチャー・クラブ(LVC生涯現役実践道場)で、ここは、異業種交流の場でもあったことから、さまざまな人との出会いの中、励まし助け合い新規事業などが生まれて行きました。

 私の場合、直接のきっかけは、月例セミナーの中で、代表のさしがねから「みんなで歌いましょう」の時間を設けてくれたことで、半年ほどたったころ、生活余暇開発士の方が、ここだけでは勿体ないので外部に持ち出してやってみてはどうかと、都の施設を借りてくれて、おかげさまで、ここを根城に始めることができました。

 会を始めると、童謡のことで知りたいことができたので、童謡協会へ電話したところ、私の活動や過去の実績が知られ、一カ月後の5年一月に、憧れの童謡協会の入会の夢も果たせたのです。

 ここで人生が大きく転換したことを実感しました。童謡の作詞、作曲に打ち込み、「生涯現役音頭」を代表に依頼され作ったところから、関東一円で始まった生涯現役の会へ歌の指導や講師として呼ばれるようになり、更には生涯学習センターなどからも声がかかり、講師の道が開かれ、歌の活動が本格稼働して、大きな生き甲斐になりました。

 平成11年でしたか。山岡鉄舟の会が埼玉県小川町で始まり、LVCで出会った山本紀久雄氏に誘われて出かけました。しかし、小川町はあまりにも遠く、とても通えないということで、山本氏は自ら東京で会を立ち上げました。「山岡鉄舟研究会」です。私はすぐに賛同して入会しました。

 ところで、私が生涯現役に出会ったのは、全くの偶然からでした。

 そもそも私は昭和28年、国鉄に入社しました。文字通りのマンモス企業で将来は安泰でした。ただし、私に課せられた運命は、組織の中にあって、かなり厳しいものがあり、組織の中でも最先端の職場を回っていました。昭和39年、東海道新幹線開業前年にPRの仕事に就き。そのあと旅客輸送の仕事、そして43年、東京~千葉間の快速線線路増設工事に伴う駅舎の全面改良の計画担当。ここでは、ほとんど一人で遂行という前代未聞の体験で、過労死寸前までの苦労を背負いました。55年に千葉駅の改良に入ってほぼ完了した時点で、この仕事から解放され、団体旅行のお手伝いをすることになりましたが、これは私の歌好きが知られたことによりました。

 団体旅行の添乗員を体験したところで、私はすぐに「団体旅行音頭」を作詞して管理局へ提案し、それがJTBの手に渡り、「シャンシャンいい旅夢の旅」になってキング・レコードから全国発売されました。この実績がその後の人生に大きく影響しました。

 このころから国鉄は経営改善が叫ばれ、崖っぷちに立たされ、増収対策に汗水を流しながら喘いでいましたが、ついに分割民営化へと転がり込んでいきました。

 ここで私の最後のご奉仕は、千葉でお別れ国鉄グッズ、お座敷電車を走らせるとき、局長から要請されて「なのはな号音頭」を作詞、クラウンから発売されたことでした。

 そして、62年春にJRに移行しますが、このとき52歳以上の管理者は、辞めるか関連企業へ転出するかの二者択一を迫られたのです。私は、このとき高架下会社の役職に就くことになりましたが、第二の人生は、自分の好きな道を歩きたいと、組織を離れ人生冒険の道に飛び出してしまいました。国鉄が穏当でいたら、私はこうした冒険はしないで、平穏な道を歩んでいたと思います。

さて、好きな道とは歌の道です。たいした素養があるわけではないので大変な冒険でした。ところがここで運命的出会いがあったのです。それが人生冒険、ライフ・ベンチャー・クラブの生涯現役実践道場でした。

 

ここでは、それぞれ自分の得意技に磨きをかけて、世のため人のため働きかけること、知識に終わらず、実践こそ価値があると教えられ、更に能力開発、人間の計り知れない能力のあることを教えられたのです。私は勇気を得ました。

 さて、山岡鉄舟は剣、禅、書の人として知られています。

 ところで、学校では、ついに一度たりとも鉄舟の事は教えられずに過ぎました。小学校では、江戸無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の功績と教えられました。それほどに影の存在でした。知ったのはNHK大河ドラマ「最後の将軍」で、ここで鉄舟が静岡で官軍の将、西郷と談判する。そこまでの道中と会談の場面があって、鉄舟の存在を知ったのです。入会した2年くらい前のことでした。しかし、入会し鉄舟を知ってからは、汲めども尽きない魅力、奥深さに取りつかれてしまいました。

 鉄舟もまた生涯現役の人だと思うようになりました。幼い時から培った信念を曲げることなく精進に励み、自己を確立して行き、最後の最後、死を直前にした時、人払いをして、一人静かに皇居に向かいひれ伏すかのように倒れたのです。明治天皇を尊崇してのことだったのですね。武士道を貫いた潔さに、生涯現役の生きざまを見せつけられ、鉄舟の常人にはない物凄さを感じました。

 ここまで邪念なく自己を完遂させられたら、これこそ本物の生涯現役であろう。

 私は「童謡に生涯現役の夢かけて」を書いたころは、このように凄まじい生涯現役を知りませんでしたから、鉄舟を知った今は根本から自分を見直さなければいけないと思いました。そういえばマズローの人間幸福度の五段階のうち最高位は、自己確立。すなわち自分の持っている能力の全開だと教えられました。

 そういえば数年前、山本氏から「心錦の山岡鉄舟」のわらべ歌が、明治の初めに歌われていたことを教えられ、同じ題の詞を書いたことを思い出しました。

 私は今頃になって、生涯現役精神は武士道精神に通ずるものであることを知りました。

 自分の信念を貫き通す潔さですね。  (以上)