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鉄舟研究

2022年3月31日 (木)

聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪 ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編・・・

聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪  ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編・・・

山岡鉄舟研究会

山本紀久雄

明治神宮外苑の聖徳記念絵画館は、明治天皇と昭憲皇太后の事蹟を日本画・洋画各40点ずつで示す美術館であり、ここに「江戸開城談判」壁画が掲示されている。

この「江戸開城談判」壁画、西郷と海舟が対峙している構図で描かれていて、海舟の大刀は左脇に配置されている。いわば「戦う構図」で描かれている。武士が対面する場合、通常の作法に従えば「大刀の位置は右脇」である。

何故に左脇に描かれたのか。その検討をした結果を以下に記したい。

(参照 『江戸無血開城、通説を覆す』一枚の絵に隠されたを読み解く 山本紀久雄著 KKベストブック)

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編 その一

  1. 吉本襄『合冊 海舟先生 氷川清話』の「合冊序言」

吉本襄の明治35年版の合冊本『海舟先生 氷川清話』は、最初に「合冊序言」があり、以下のように記している。

《勝先生は、必ずしも哲学者にあらず、而も哲学者たるの頭脳あり。必ずしも経世家にあらず、而も経世家たるの事業あり。必ずしも君子にあらず、詩人にあらず、而も君子たり詩人たるの性格と襟懐とあり。旧幕府の名士たりし同時に、明治の逸民たり。眼の人たりしと同時に、手の人たり。而して先生の世に在るや、必ずしも大政に参与せずして、政治家の為に其の方針を指示し、必ずしも実務に当らずして、実業家の為めに、其の正路を示し、必ずしも文芸に長ずるにあらずして、文学家の為めに説き、必ずしも宗教に通ずるにあらずして、宗教家の為めに喩し、必ずしも教育に関せざる者の如くにして、青年子弟の為めに訓戒し、国民は社会の木鐸として之を仰ぎ、知らず識らざるの間に、先生の感化を蒙りたりき。是れ実に先生が、一世の達人たる所以にして、国民が今日に至るまで、其の遺徳を追懐して止まざる所以なり》

 

《先生は氷の如き頭脳に、火の如き感情を有し、炬の如き眼光に、海の如き度量を有したり。而して其の意志は堅実に、其の智慮は明達に、其の精神は正大に、大事に糊塗せず、小事も滲漏せず。其の言ふ所は行ふ所にして、行ふ所は其の言ふ所なり。故に先生の言、時ありて熱罵と為り、冷嘲と為り、危言と為り、痛語と為り、政治に、経済に、軍事に、宗教に、文学に、社会に、一切の時事問題にして、先生胸底の琴線に触るゝ時は、一種警醒的教訓と為りて、社会の隅より隅に反響せざるは莫し。其の何故ぞや。先生の言論は、渾て是れ至誠惻怛熱血の迸る所にして、真知を局外に求め、禅機を手中に弄する者あれば也。予が玆に『氷川清話』を撰刊したるは、先生が社会的教訓を世に紹介せむが為めなり》

吉本はなかなかの文章家であると感じる。

次に、海舟による江戸無血開城ストーリーを声高々と謳いあげる。

《戊辰の役、官軍東征の途に上るや、幕臣或は邀へ戦はんと欲するものあり、江戸の人心恟々たり。然れども将軍固より戦意なきを以て、先生に命じて之に処する策を講ぜしむ。先生、命を奉じて、危難の際に処して動かず。総督宮、駿府に至らせたまふに及び、上野の輪王寺宮駿府に至り、将軍恭順の状を陳じて、寛典の所置を講ふ。総督宮、謝罪の実なきを以て、未だ之を許し給はず。先生また山岡鉄舟等を遣はして之を請ふ。既にして官軍の先鋒品川に至り、将に江戸城に入らむとす。是に於て、先生自ら赴きて、参謀西郷隆盛に面し、将軍の旨を縷陳して、百方其の調停に尽力す。隆盛之を容れて、直ちに進襲中止の命を下し、状を総督の宮に啓す。之によりて官軍一刃を動かさずして、江戸城に入ることを得、王政復古の大業、平和の間に成就す。先生が絶倫の大手柄は、実にこの時を以て天下に顕はれたり》

文中の「先生」とは海舟のことだ。つまり、江戸開城はすべてを海舟の「絶倫の大手柄」であると絶賛しているのである。

特に、「先生自ら赴きて、参謀西郷隆盛に面し、将軍の旨を縷陳して、百方其の調停に尽力す。隆盛之を容れて、直ちに進襲中止の命を下し、状を総督の宮に啓す。之によりて官軍一刃を動かさずして、江戸城に入ることを得、王政復古の大業、平和の間に成就す」の記述、これが今日まで伝わっている海舟神話の本体であり、『尋常小学校修身書 例話原據と其解説』(東洋図書 1929)の「九 勝安房」でも、『氷川清話』の「戊辰の役」からはじまり「絶倫の大手柄」という文言が掲載され、小学校でも教え込まれているのであるから、多くの一般の人々も信じ込んでいると推察できる。 

したがって、聖徳記念絵画館の壁画作成に関与した人物たちも、この吉本が記した合冊本『海舟先生 氷川清話』の「合冊序言」によって、江戸無血開城は海舟によってすべて成された偉業だと信じるか、思い込んでいたのであろう。

 聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の作成に実務的に関与した明治神宮奉賛会理事・水上浩躬は昭和7年に死去していたのであるから、当然に吉本説を採っていたと考えられる。 

また、二世五姓田芳柳は昭和18年に死去、浅野長勲も昭和12年に死去、結城素明は昭和32年、浅野長武は昭和44年死去しているので、いずれも講談社による『氷川清話』出版以前であるから、海舟が「すべてをひとりで行った」と理解していた可能性が高い。

考えてみると、海舟が「一人で成した」という説に対して異論が出始めたのは最近のことなのである。

現在の「江戸無血開城の真実」の史実解釈について、『江戸無血開城 本当の功労者は誰か?』(岩下哲典 吉川弘文館 2018)と、『定説の検証「江戸無血開城」の真実』(水野靖夫 ブイツーソリューション 2021)に詳しいので参考にしていただきたい。

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編 その二

  1. 海舟の大刀の位置は武士の作法からしておかしい

聖徳記念絵画館の認識を証明するテレビ番組が、BS11の2019年3月3日『壮麗な美術館で日本の歴史を辿る「聖徳記念絵画館」(東京・明治神宮外苑)』というタイトルで放映された。

このBS11のテレビ番組では、聖徳記念絵画館の学芸員が、「この壁画は緊迫した場面を表現しています。それは刀の置き方でわかります。通常は右側ですが、これは左です。この会談が決裂したらどうなるのか。その時は……。という海舟の決意を伝えているものです」と語ったように「通常は右側」が妥当な大刀の位置ではないだろうか。

 左に置くのは「戦う姿勢」を意味していると思われても仕方ない。

しかし、この壁画の慶応4年3月14日の薩摩屋敷での西郷と海舟の対面場面は、すでにみてきたように「緊迫した対面」ではなく、同年3月9日に西郷から鉄舟に伝えられた降伏条件に対する徳川側からの緩和「嘆願」であり、さらに目賀田男爵が勝翁より直接聴いたのは「会見」だったという。このように理解するならば、武士の作法上、大刀の置き方は右側になる。その通りで二世五姓田芳柳が作成した画題考証図、及び、下絵は大刀を右脇に置いている。

   Photo_20220331112901      Photo_20220331113001     

    下絵③画題無記名(茨城県近代美術館蔵)          左図の部分拡大画

 

          Photo_20220331113401

        『明治神宮叢書 第二十巻 図録編』の「三、壁画画題考証図」⑬『江戸開城談判』(明治神宮所蔵)

 

  1. 結城素明は反対側の左側に大刀を配置する構図で壁画を描いた

結城素明は反対側の左側に大刀を配置する構図で壁画を完成させ、大正15年7月15日に憲法記念館で開催された「第二回邦画部下図持寄会」に提出し、明治神宮奉賛会の承認を得ている。

 その後、大下図を作成し、細部を補正し、昭和7年8月22日に浅野長勲侯爵に閲覧垂教を受け、「大刀は左脇に置きてよろし」と回答を受け、同年8月31日に壁画が完成したのである。

 このように結城素明が左脇に変えて描いたのであるが、その理由について、結城素明に関する多くの資料を検討してみたが、その理由を示すものは見つからない。

だが、結城素明は二世五姓田芳柳による画題考証図から変更させ描いている。

 これをどのように読み解けばよいのだろうか。

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編 その三

  1. 三つの仮説で述べたい

結城素明が画題考証図の右脇から左脇に変えて描いたことを三つの仮説で述べたい。

 

仮説① 結城素明が画家としての「信条」から大刀を左脇にした。

 この仮説の前提条件として、結城素明も吉本襄『氷川清話』の「合冊序言」に書かれた内容を受け入れていたと考える。したがって、江戸開城はすべてを海舟の「絶倫の大手柄」であると確信していたのではないかと考えたい。

 このような受けとめ方は、松浦玲による『勝海舟全集 21氷川清話』(講談社1973)および『氷川清話』(講談社学術文庫2000)が出版されるまで、多くの人々が事実であると認識評価されていたのであるから、ある面、仕方がないともいえる。

 だが、これに加えて結城素明の画家としての「信条」が決定的に影響を与えたと推測する。結城素明の画家としての「信条」とは何か。

 それは昭和60年(1985)に山種美術館で開催された特別展の図録『結城素明―その人と芸術』に、東山魁夷が「結城素明先生を偲んで」の一文を書いている。

《大正15年(1926)の春、私は東京美術学校日本画科に入学した。先生は私が美校に入学する前の、大正期初期から終りにかけて、最も華々しい活躍を続けた。昭和になってからの先生は、2年に『山銜夕暉』、4年に『嶺頭白雲』、9年の『炭窯』、10年に聖徳記念絵画館の『江戸開城談判』と、力作を次々に出品された。

 先生からは「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」「心を鏡にして自然を見ておいで」と言われ、現在に至るまで私の心に深く刻まれている》

 この「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」、これを壁画『江戸開城談判』制作でも実践したのではないか。

 パリに遊学中、明治奉賛会から壁画『江戸開城談判』制作の依頼が届き、帰国してから「描くため調査した」ことが『明治神宮叢書 第十八巻 資料編(2)』に記されているが、そこに「描くために調べたポイント」が詳細に記されている。

 この詳細調査で、結城素明は最も大事な何かが欠けていると思ったのではないか。

 それは「江戸開城」は海舟による西郷との「談判」によって決定したという判断を素明は確信していたので、二世五姓田芳柳が描いた画題考証図の右脇に置いた大刀について当初から疑問に思っていたに違いない。

 厳しい「談判」をして決定させた「江戸開城」である。その情景を間違いなく表現させるためには、大刀の置き方で、そのことを示さなければいけない。

 素明は、持ち前の「信条」である「精密な調査」を通じて、画題考証図には肝心要となるものが「欠けている」という認識を持ったのではないか。

 せっかく、海舟が「談判」して獲得した江戸無血開城なのに、画題考証図はそのことを十分に表現していない。

 それを正すために海舟の大刀位置を左脇にしたのだ。これが仮説①である。

 

仮説② 結城素明が「常識家としての画家」であることが海舟の大刀位置を決めた

結城素明の特徴は個展開催が少ないことで、生前3回、没後2回、合わせて5回である。

 この個展開催数の少なさと、東山魁夷が、昭和60年(1985)に山種美術館で開催された特別展の図録『結城素明―その人と芸術』に、東山魁夷が「結城素明先生を偲んで」の一文で、「傑作」と言わずに「力作」としか評しないことなどを考えると、結城素明は「芸術家としての画家」というよりも、ある意味「常識家としての画家」であって、これが素明に画題考証図と刀位置を違えて壁画を描かせたのではないかと推察する。

 こう推察する背景は、『江戸開城談判』の奉納者が、侯爵・西郷吉之助と伯爵・勝精であることである。

 この二者は慶應4年3月14日における「西郷・勝」会見の末裔であるから、奉納者の強い希望が反映したのであろうことは、容易に汲み取れるだろう。

 まして、素明は海舟ら命名されたと、昭和60年(1985)に山種美術館で開催された特別展の図録『結城素明―その人と芸術』において、美術評論家で昭和55年(1980)山種美術館学芸部次長に就任した小池賢博氏が述べている。

  結城素明は明治8年(1875)、東京府本所区荒井町で生まれている。今でいえば、墨田区本所2丁目あたりである。生家は酒商を営む家で、本名の貞松は勝海舟が命名したといわれている。ちなみに素明の号も海舟である。海舟自筆の銘名記が遺っている。

 このような背景もあって、結城素明の脳細胞には、壁画奉納を担う献金者の意向を忖度するという「常識」的な感覚が働いたのではないか。

 仮に結城素明が詳しく史実を調べていれば、鉄舟も同席していたことが判明したであろうが、そのような場合でも鉄舟関係者が奉納者になっていないので、西郷と海舟のみの描  写にしただろう。

 以上のように、「談判」で決まったという素明の「常識理解」、奉納者が西郷家と勝家であるからという「世間の常識感覚」、これが現在の聖徳記念絵画館壁画となっているのではないだろうか。これが仮説②である。

 

仮説③ 結城素明は代表作を制作したかったのではないか

 結城素明の作品を常設展示しているのは聖徳記念絵画館の壁画『江戸開城談判』と『内国勧業博覧会行幸啓』であるが、後者の壁画は影が薄い。

 壁画『江戸開城談判』が「正史」として受けとめられているのが現状では、これが結城素明の代表作品といえるだろう。

 結城素明は、大正2年(1913)1月、美術雑誌『多都美』に「先ず自己の頭脳を作れ」と投稿し、自己の確立、新しさの追求、幅広い教養が必要かつ重要だと説いたように、これを常に実践してきた。

 画家であるが、文筆研究家としての研鑽も重ね、そのミックスからアウトプットすべく、常に明日に向かって動き回り、その結果を絵と筆で表現したのであるから、過去と同じ傾向作品をブラッシュアップするのではなく、新たに脳細胞にインプットした材料をもとに作り上げる。これが結城素明の制作方法ではなかったか。

 壁画『江戸開城談判』も、このような描き方で制作したのだと推測する。絵画館奉賛会から示された画題考証図を参考にしたものの、自らの検討調査から江戸開城は海舟の「談判」で決まったと判断したからこそ、大刀の位置は左に置くことが正しいと思ったのではないか。

『白河を駆け抜けた作家たち 図録』(白河市歴史民俗資料館 1999)で藤田龍文氏は、「余りにも博学多才であったため、画風の表現の幅が広く、素明の画風はどういったものか、代表的作品は何か、と戸惑ってしまう」と述べさせたが、その杞憂は、聖徳記念絵画館の壁画『江戸開城談判』が「結城素明の代表作」となって、同館で常設展示されているので藤田龍文氏の懸念は消えたのである。これが仮説③である。

 

 結城素明が画題考証図における海舟の大刀配置が右側であったものを、壁画『江戸開城談判』では左側に配置して描いた理由、これについて素明は資料として遺していないので、以上の三つの仮説で検討した。

いずれもそれなりの背景から推測したものであり、この中のいずれかと考えている。

 だが、聖徳記念絵画館の壁画は教科書に掲載され、一般社会から「正史」と扱われている現状であり、加えて、明治神宮奉賛会の絵画館委員会が「四年有余ニ亙リ博ク索メ深ク究メ慎重ナル審議ヲ遂ケテ」(『明治神宮叢書 第二十巻 図録編』)の結果、大正10 年(1921)に画題考証図を決定したという経緯が存在する。

 このように慎重な取り扱いを受けた画題考証図を、壁画を描いた結城素明が変更したのに、その理由を明確化していないままに、これからも壁画『江戸開城談判』を「正史」とし、これを継続していくのは問題ではなかろうか。

 江戸城が無血開城された背景も含め、改めて検討し直したうえで、壁画『江戸開城談判』について妥当な「解説」をつくるときがきているように考える。

聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪 ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編・・・

聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪    ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編・・・

山岡鉄舟研究会

山本紀久雄

 明治神宮外苑の聖徳記念絵画館は、明治天皇と昭憲皇太后の事蹟を日本画・洋画各40点ずつで示す美術館であり、ここに「江戸開城談判」壁画が掲示されている。

 この「江戸開城談判」壁画タイトルが「談判」であることにかねてから疑問を持っており、この背景には吉本襄著の『氷川清話』が関わっていることについて検討した結果を以下述べていきたい。

(参照 『江戸無血開城、通説を覆す』一枚の絵に隠されたを読み解く 山本紀久雄著 KKベストブック)

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編 その一

  1. 『江戸開城談判』壁画

明治神宮外苑に建つ聖徳記念絵画館に、結城素明の壁画『江戸開城談判』が展示されており、これが中学教科書にも掲載され、いわば「正史」としての取り扱いを受けている。

この壁画『江戸開城談判』は、慶応4年(1868)3月14 日、江戸薩摩藩邸において、西郷隆盛と勝海舟の「談判」によって、江戸城が無血開城されたことを表現している。

 

  1. 壁画の制作を結城素明に依頼した経緯

壁画の制作を結城素明に依頼した経緯については、『明治神宮叢書 第十八巻 資料編(2)』(平成1511月3日)50頁以下に次のように記されている。

《大正十三年秋、当時外国留学中の結城素明氏は、巴里の寓居に於て、九月二十八日附浅沼龍吉氏の書信に接し初めて西郷吉之助侯爵並に勝精伯爵より奉納の江戸開城談判図の揮毫に関する交渉を受け、直ちに返書を送って大体承諾の旨を伝えたが、更に十四年三月帰朝して浅沼氏に面会し委細を聴いて之が承諾の確答をなし、次いで四月十四日華族会館に於て西郷侯爵、勝伯爵及び植村証三郎氏、海軍中将黒岡帯刀氏、浅沼氏と会見し、又奉賛会よりは水上浩躬氏が立会はれ、種々意見交換の後、愈々正式に壁画揮毫の委嘱を受諾するに至った》

 

  1. 目賀田男爵談話筆記

次に『目賀田種太郎男爵談話筆記』を紹介する。

 目賀田男爵とは目賀田種太郎(185 3 〜1926)のことで、明治13年(1880)海舟の三女・逸子と結婚。明治・大正期の官僚・政治家。幕臣の子として江戸に生まれる。明治3年渡米、ハーバート大学卒、文部省・代言人・判事などを経て大蔵省入省。主税局長、朝鮮政府財政顧問・統監府財政監査長官として朝鮮貨幣整理事業を推進。貴族院議員・枢密顧問官などを歴任。男爵。専修学校(現:専修大学)の創始者の一人である。また、東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設者の一人でもある。

目賀田男爵の談話筆記については、『明治神宮叢書 第十八巻 資料編(2)』に次のように記している。

《両雄会見の有様に就ては目賀田男爵の談話筆記中にも之が詳述されている。此の談話筆記は、大正八年(一九一九)十月三十日奉賛会より水上氏が目賀田男爵を訪れ同男が勝翁より聴いたところを本として語られた際の筆記である》

薩摩邸会見ノ時ハ勝ハ単騎ニテ山岡モ益満モ同行セス、勝座敷ニ通レバ障子外ニ下駄ノ音シテ(庭ノ飛石ヲ渡リシガ如シ)上縁シ坐ニ着ケリ、勝ハ大小ヲ差シ西郷ハ脇差ノミリ坐ニハ茶ト烟草盆モ出デタリ、素ヨリ開城条件ハ已ニ予知シ居ルコトナレバ夫等ノ談判ハナク西郷ハ丁寧ニ且ツ平和ニ「ドウデス嘸御困リデセウ」勝ハ「困ル所デハアリマン、シテドウナサル積リデスカ」ト反問セシ時西郷ハ稍厳格に「素ヨリ明日攻撃シマス」ト答エタリ、(此時襖ノ内ニ人ノケハヒシタレバ其人々ニ聞カスル為メ殊更ニ厳重ノ語調ヲ取リシガ如シ)勝ハ尚「幕府ニテハ上下謹慎ヲ表シ、武器ハ一切取上ゲアレバ誰モ抵抗スル者トテハナシ之ヲ攻撃シタリトテ何レノ甲斐モナシ攻撃ハ見合ハサレテハ如何」ト云ヒ西郷ハ「攻撃ヲ止ムルコトハ総督府ノ許可ナクテハ予ノ一存ニテハ何トモ仕方ナシ、只明日ノ所ハ見合ハスベシ」ト云ヒ直ニ立チテ隣室ニ入リ(隣室ニハ村田新八、桐野(当時中村)利秋、渡辺清左衛門外二名アリ、此中渡辺ハ軍監ニテ且ツ薩藩士ニアラズ、大村藩士ナリ)声高ニ「只今皆サンモ御聞ノ通ナレバ明日ノ攻撃ハ見合セント思フガ皆サンハ如何ト思ハルヽヤ」ト云ヒシニ「一坐ハ稍不平ラシキ語調ニテ同意ヲ表シケレバ西郷ハ諸隊ニ向ヒテ攻撃中止ノ令ヲ発スルコトヲ命ジテ坐ニ帰リ、勝ニ対シテ「只今御聞ノ通リナレバ御安心アレ」ト述ベ、勝ハ謝辞ヲ述ベテ退出セリ、其時西郷ハ「危険デス衛兵ヲ附ケマセウカ」ト云シモ勝ハ「大ニハ及ビマセヌ」ト云ヒ門外ニ出レバ薩ノ一隊ハ整列シテ敬礼ヲ為シ、勝ガ赤羽橋ニ至リシ時幕士ヨリ二三発ノ銃撃ヲ受ケシモ幸ニ事無カリキ此時西郷ノ危険ノ意味モ分リタリ、(当時勝ノ差セル刀ニハ銃丸ノ傷アルモ之ハ其日ノ痕跡アラズ、勝ハ三回狙撃ヲ受ケタリ、其大小ハ今モ勝伯ノ家ニ在リ)此の談話に於て作画上参考となったのは「勝ハ大小ヲ差シ西郷ハ脇差ノミナリ坐ニハ茶ト烟草盆モ出デタリ」とある件である》

 このように『目賀田男爵談話筆記』では、「談判」ではなく「薩摩邸会見ノ時」と記され、さらに「素ヨリ開城条件ハ已ニ予知シ居ルコトナレバ夫等ノ談判ハナク」と、「談判ハナク」記されている。

 

  1. 勝海舟の『慶応四戊辰日記』(慶応4年3月14)

目賀田種太郎談話筆記に記された「素ヨリ開城条件ハ已ニ予知シ居ルコト」の「已ニ」とは、「すでに」ということであるから、西郷と海舟は開城条件を理解していたということになる。

条件を知っていれば、事改めて条件そのものを「談判」という争い論議をする必要もないであろう。条件の緩和を願うか、代わりの代替案条件を提案することしかない。官軍から示された開城条件に対する見解を述べるだけである。

そのことを明示するのが、勝海舟の『慶応四戊辰日記』慶応4年3月14日である。

海舟は「十四日 同所に出張西郷へ面会す。諸有司嘆願書を渡す」と七ケ条を記している。官軍条件に対し各条件の緩和を「嘆願」したのである。

 

  1. 鉄舟直筆による『西郷隆盛氏ト談判筆記』

この慶応4年3月14日会見に同席した鉄舟も、直筆によって明治15年(1882)3月に記した『西郷隆盛氏ト談判筆記』』(『鉄舟居士の真面目』全生庵)で以下のように記している。

《薩摩邸ニ於テ西郷氏ニ、勝安房ト余ト相会シ、共ニ前日約シタル四ヵ條必ズ実効ヲ可奏ト誓約ス故ニ西郷氏承諾進軍ヲ止ム》

この鉄舟直筆記録は、『目賀田男爵談話筆記』と一致する。「談判」ではなかったことを示している。

なお、鉄舟が述べた四ヵ条とは、駿府にて西郷から示された「徳川慶喜を備前に預ける事」を除いたもので、これと海舟の『慶応四戊辰日記』七ケ条の違いについては、本題の主旨から外れるので解説を省略したい。

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編 その二

  1. 『氷川清話』は二種類ある

『江戸開城談判』壁画はなぜ「会見」でなく「談判」とタイトル化されたのか。これを検討するためには吉本襄著の『氷川清話』を考察しなければならない。

  松浦玲氏は『勝海舟全集21 氷川清話』(江藤淳・川崎宏・司馬遼太郎・松浦玲編 講談社 1973)の解題で以下のように述べている。

《晩年の海舟のところへ出入りしていた吉本襄は、彼自身が海舟から聞いた話に、他の多くの人々の手によって新聞や雑誌に発表された海舟談話を加えて、明治三十年(一八九七)十一月『海舟先生 氷川清話』を発行した。これが非常に好評であったのに気をよくした吉本は、続いて翌明治三十一年(1898)五月に『続・海舟先生 氷川清話』(分冊本「続編」)を、さらに同年11月には『続々・海舟先生 氷川清話』(分冊本「続々編」)を発行する。いずれも海舟生存中のことである。

次いで吉本は、海舟没後三年余を経た明治三十五年(1902)十一月に、既刊の3冊をまとめて1冊の『海舟先生 氷川清話』(合冊本)とした。このとき吉本は、既刊各冊を小単位の談話に分解した上で、内容別に分類しなおして一本にしている。  

この措置も読者のこのみに合ったようで、吉本の合冊本『氷川清話』は、他にも数多くあった海舟談話集を圧倒して売れ続け、遂には海舟の談話といえば反射的に氷川清話となるほどの地位を確保してしまった。

最近装いを変えて発行されている『氷川清話』も、見出しや注に工夫があるだけで、談話本文は、吉本がまとめたものをそのまま使っている。

  しかし、われわれのこの全集においては、吉本の確定した談話本文をそのまま利用して全集の一巻とすることは、できなかった。その理由は、大きく二つある。

 第一は、吉本の『氷川清話』の信憑性の問題である。吉本が確定した談話本文は、果して海舟の話したことを忠実に伝えているのだろうか。

怪しい、とわれわれは判断した。

吉本は、他の人々がそれぞれの文体や語調で新聞や雑誌に発表した海舟談話を自分の『氷川清話』に取り込むにあたって、自分が海舟の語りくちだと信じている語調に書きあらためている。それは必ずしも悪いとばかりは言えないのだが、困るのは、その吉本式リライトに際して、談話の意味・内容までが勝手に変えられていることである。新聞や雑誌の海舟談の文面を正確に読みとらず、意味をとり違えたままで吉本流の話しことばにしている例が、非常に多い。ひどいのは、海舟のところへ来た客の発言を、海舟の言葉のようにつないでしまったものまである。また吉本は、海舟の話しかたが簡略すぎて意味をとりにくいと思ったところには、自分の知識で言葉を補って海舟に語らせるのだが、その知識がいいかげんであるため、結果として、海舟にしばしば途方もないウソをしゃべらせてしまっている。

 悪質な意図的改竄も少なくない。海舟の元の談話が当局者を名指しで批判している場合など、たいていは、その名指しされた人名(たとえば「伊藤」)を伏せて「いまの政治家」とか「いまの人達」というような一般的な言い方に置き変え、しかも談中の時事性のある語句を削ったり、談話の時相(tense)を動かしたりして、海舟がそれを何時しゃべったのかわからなくしてしまう。そのため、痛烈な時局批判だった海舟の原談話が毒抜きされ、ありふれた精神訓話に堕しているのだ。批判談話でなく当局者の名前を伏せなかった場合でも、たとえば、第二次松方内閣の松方首相や樺山内相に忠告し期待している談話を、第一次大隅内閣の大隅首相や板垣内相に忠告し期待しているように書き変えた、手のこんだものもある。薩摩閥と長州閥を区別して、特に「いまの薩摩人は」と語っているところを、勝手に「いまの薩長の奴らは」としてしまっているような、不注意か意図あってかのことか判じかねる改竄になると、とても数えきれない。

この他に、言葉の無神経な置き変えで意味が微妙に変化しているところも多く、例を挙げていけばきりがないが、ともかくこれが、吉本の談話本文をとてもそのままでは使えない第一の理由である。

第二番目に、言葉がおかしいかもしれないが、網羅性の問題がある。吉本の『氷川清話』は、新聞や雑誌に発表された海舟談話を完全に収集網羅しているのだろうか。していない、というのがわれわれの結論である。

吉本は数人の協力者と共に『国民新聞』『毎日新聞』『朝日新聞』『読売新聞』『日本宗教』『世界之日本』『天地人』等々の紙誌から海舟談を集めたらしいのだが、それらの紙誌にあたりなおしてみると、貴重で興味深い談話の多くが、未収録のまま残っている。むろん、吉本なりの選択があり、また、分量の関係もあったのだろうが、収集洩れということも考えられ、いずれにしても、現在のわれわれとしては放置できない》 

このように松浦氏が批判する合冊本が、『勝海舟全集21 氷川清話』(講談社1973)と、『氷川清話』(講談社学術文庫 2000)が出版されるまで読み続けられてきたのである。

つまり、この2冊の講談社版が出るまでは、吉本合冊本によって『氷川清話』が理解されていたであるから、その後研究が進んだ現在の歴史解釈とは異なるのである。

その一つの事例として『世界の労働』(財団法人日本ILO協会 1972年6月)に掲載されたエッセイを紹介したい。

《私が中学に入った頃は、第一次大戦中(1914年7月〜1918年11月)であったが、その時期に氷川清話を読んだということは大変象徴的であった。幕末の混乱に対処した勝海舟という人物を初めて知り、その偉大な人格に圧倒される思いであった。その驚くべき洞察力と水も漏らさぬ政治的配慮にむしろすがすがしい感じさえ覚えたものである。当時の開国は今から考えれば、国内事情もさることながら、産業革命の嵐がたまたま日本にも及んで来たということに尽きるかも知れないが、これらが海舟の出現を可能にしたのであろう》

このエッセイが投稿されたのは昭和47年(1972)であるから、『勝海舟全集21 氷川清話』(1973)出版の前年に当たり、エッセイ投稿の人物が、吉本の氷川清話を読んだのは50年以上前になるわけで、この当時から海舟の行動に強い影響を受けていたのである。

ということは、壁画『江戸開城談判』に関係してきた人たちも、吉本の合冊本『氷川清話』によって、幕末維新と江戸開城場面を理解していたということになるのではないだろうか。

そうならば、現在時点で研究が進んだ諸史実の洗い直しを知らないままに、旧態のままの歴史を受けとめていたのではないか、ということになる。

 

  1. 吉本襄の人物像

吉本襄という人物については、なかなか的確な資料はないが「日本近代―明治大正期の陽明学運動―」(吉田公平『国際哲学研究7号』2018年3月19日 東洋大学国際哲学研究センター)に、「三 、吉本襄の『陽明学』」として以下のような記載があるので紹介する。

《吉本襄の生卒年は、伝記資料の調査が不十分なために、分からない。勝海舟の『氷川清和』の編者として著名であるが、原載の文章を歪曲して編纂したとして酷評される。現行の『氷川清和』は松浦玲らが新たに編集したものが講談社から刊行されている。

国会図書館に所蔵される、吉本襄の著書及び吉本襄が鉄華書院から刊行した著書を紹介しておきたい。極めて不十分なものです。識者のご教示を切望します》

ということで、次に17編の資料を紹介しているが、これを省略する。だが、吉田公平氏は続けて以下のように述べる。

《吉本が陽明学運動の開拓者として理解されているのは、鉄華書院を立ち上げて主幹として機関誌『陽明学』を発刊したことによる。創刊は明治29年7月5日。明治33年5月20日発刊の7980合併号が終刊である。

王陽明の儒学思想は王学とか姚江学と呼称されるのが通例であったが、吉本襄の『陽明学』が普及するにつれて、「陽明学」という呼称が日本はもとより、中国・朝鮮でも使用されるようになった》

吉田氏が、国会図書館に所蔵される吉本の著書及び吉本が鉄華書院から刊行した著書を紹介している中の、『西海孤島 千條乃涙』(明治22年〔1889〕)について、『史観』(平成4年〔1992〕3月)で佐藤能丸氏が「社会小説の先駆……吉本襄著『西海孤島 千條乃涙』」で、吉本の人物について次のように書いているので概略紹介する。

吉本は1850年代から60年代にかけて高知で生まれ、明治36年(1903)頃、米国へ移住する日本人のために雑誌を発行する計画を抱いて渡米の途に着いたが、船中で病に罹り、引き返して帰国後、療養したが、大正の初年に新井宿の寓居で死去したという。

高知で陽明学を学び、陽明学は生涯を貫く思想的バックボーンになって、行動的な「知行合一」の姿勢によって「高島炭鉱問題」に挺身し、これをテーマに『西海孤島 千条の涙』を発刊したという。

 

  1. 吉本はどのようにして史実を改竄したのか

では、吉本襄はどのように史実を改竄したのか。その内容を「学術文庫版刊行に当って」で松浦玲氏が解説している。

《そこで私は一九七二年(昭和四十七)から刊行が始まった講談社版『勝海舟全集』の仕事に加わったとき、『氷川清話』は徹底的に洗い直す必要があると提案し、受け入れられた。吉本襄がリライトする前の新聞や雑誌の談話を探し出して、どこがどう改竄されたか突き止めようとしたのである。

この試みは一九七三年(昭和四十八)刊行の講談社版勝海舟全集21『氷川清話』として結実した。この全集版では新聞や雑誌に載った元の談話と、吉本襄のリライト文とを対照させ、海舟の真意がどのように歪曲されたかを細かく追跡した。また吉本がそういうけしからぬふるまいに及んだ動機を併せて解明した。この動機解明により、多くの魅力的な談話を吉本が収録しなかった(できなかった)理由も推定できた。講談社の勝海舟全集『氷川清話』は、吉本が忌避した海舟談話を大量に増補収録した。

元来の海舟談話は圧倒的に時局談である。時事談話である。日清戦争前の明治二十五年、六年に第二次伊藤博文内閣を痛烈に非難している談話から始まって二十七、八年の日清戦争中に敢然と戦争に反対したもの、講和会議批判や三国干渉後の新しいアジア侵略を憂えるもの、関連して清国とシナ社会の違いを論じたユニークな発言もある。また明治二十九年の全国的な大風水害に際しての対策の遅れ、特に渡良瀬川の氾濫で万人の眼に明らかとなった足尾鉱毒問題、これについて海舟は、いまのエセ文明より旧幕府の野蛮の方が良かったのではないかと言いきる。

  吉本襄は、この海舟談話の時事性を隠した。海舟が明治二十五年から二十九年に掛けて喋った談話を、あたかも最晩年の明治三十年と三十一年に喋った如くに書換え、いつ誰を批判したかというような具体性を持つ言葉を消してしまった。内閣や大臣の名前を差替えたのも見つかる。時事性が強すぎて改竄が無理な談話は初めから収録しない。こうやって吉本は海舟の痛切な時局談を、御隠居さんの茶飲み話に変えてしまったのである。吉本の『氷川清話』を現代表記に改めただけで別の編者名を冠して売っている本では、吉本にすっかり騙されて、この談話は明治30年と31年頃に喋ったものだと解説してあるので御覧になるといい。

もちろん明治三十年と三十一年の談話も収録されているのだが、子細に検討すると明治三十年の談話があたかも三十一年に喋ったかのごとく書換えられていたりするのである。こういう点で吉本は実に細かく、後世の人は長く騙されたままだった。講談社版勝海海舟全集『氷川清話』は、吉本がリライトする前の原談話を探し出して対照することにより、吉本が何を隠したかを明らかにした。吉本が隠したところこそが本当の海舟である》

  

松浦玲氏は、大変なことを述べている。吉本の明治35年版『海舟先生 氷川清話』を読み、これを事実として読み解きした人々は、歴史と時代を誤って理解した可能性が高い。

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編 その三

  1. 吉本襄は「談判」が行われたと記述している

しかし、松浦玲氏も見逃している史料を紹介したい。

それは『氷川清話』(講談社学術文庫 2000)に掲載されている「西郷と江戸開城談判」(7274)である。

《西郷なんぞは、どの位ふとつ腹の人だつたかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやつてくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。

 あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談はとても纏まらなかつただろうヨ。その時分の形勢といへば、品川からは西郷などが来る、板橋からは伊地知などが来る。また江戸の市中では、今にも官軍が乗込むといつて大騒ぎサ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、たゞ西郷一人を眼においた。

 そこで、今話した通り、ごく短い手紙を一通やつて、双方何処にか出会ひたる上、談判致したいとの旨を申送り、また、その場所は、すなはち田町の薩摩の別邸がよからうと、此方から選定してやつた。すると官軍からも早速承知したと返事をよこして、いよいよ何日の何時に薩摩屋敷で談判を開くことになった。

 当日のおれは、羽織袴で馬に騎つて、従者を一人をつれたばかりで、薩摩屋敷へ出掛けた。まづ一室へ案内せられて、しばらく待つて居ると、西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引つ切り下駄をはいて、例の熊次郎といふ忠僕を従え、平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通つた。その様子は、少しも一大事を前に控へたものとは思はれなかった。

 さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかつた。「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いや貴様のいふ事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集して居るのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろいろ喧しく責め立てるに違ひない。万一さうなると、談判は忽ち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいはない。その大局を達観して、しかも果断に富んで居たには、おれも感心した。

 この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などいふ豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子を覗つて居る。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけて居る。その有様は実に殺気陰々として、物凄い程だつた。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののやうに、談判を仕終へてから、おれを門の外まで見送った。おれが門を出ると近傍の街々に屯集して居た兵隊は、どっと一時に押し寄せて来たが、おれが西郷に送られて立つて居るのを見て、一同恭しく捧銃の敬礼を行なつた。おれは自分の胸を指して兵隊に向ひ、いづれ今明日中には何とか決着致すべし、決定次第にて、或は足下らの銃先にかゝつて死ぬることもあらうから、よくよくこの胸を見覚えておかれよ、と言ひ捨てゝ、西郷に暇乞ひをして帰つた。

 この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失はず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもつて、敗軍の将を軽蔑するといふやうな風が見えなかつた事だ》

 このように慶応4年3月14日の薩摩邸で西郷と海舟による「談判」で江戸無血開城がなされたと『氷川清話』(講談社学術文庫 2000)の「西郷と江戸開城談判」(7274)で記している。

つまり、松浦玲氏は「談判」によって江戸無血開城がなされたことを認めているのである。なお、この文中で海舟に「談判」という言葉を9回も連発させている。

  1. 吉本襄が「談判」が行われたというのは創作ではないか

吉本襄について更に検討してみる。

『氷川清話』(講談社学術文庫)で「江戸を戦火から守る」(375〜376頁)について、吉本は次のように記している。

《翌日すなはち十四日にまた品川へ行つて西郷と談判したところが、西郷がいふには、「委細承知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」といつて、傍に居た桐野や村田に進撃中止の命令を伝へたまゝ、後はこの事について何もいはず昔話などして、従容として大事の前に横はるを知らない有様には、おれもほとほと感心した。この時の談判の詳しいことは、いつか話した通りだが……》

最後に「この時の談判の詳しいことは、いつか話した通りだが」とあるが、その内容は『氷川清話』(講談社学術文庫2000)及び『勝海舟全集21 氷川清話』(講談社1973)では記されていない。

海舟は談判していないのだから、当然に話す内容がないわけである。激しい口論・議論のやりとりがあれば、海舟のような達者な男は、その事実を語るであろう。そうでなければ海舟のお喋りを本にした『氷川清話』のようなものの出版はできない。

しかし、明治35年版吉本襄著の合冊本『海舟先生 氷川清話』を確認すると、何と同書の227頁に、以下のように書かれているではないか。

《この時の談判の詳しいことは、何時か話した通りだが(四十六、四十七、四十八頁参照)》

だが講談社学術文庫『氷川清話』7274頁の「西郷と江戸開城談判」では、この(四十六、四十七、四十八頁参照)という参照文言が記されていなし、『勝海舟全集21 氷川清話』(講談社1973)にも記されていない。

明治35年版吉本襄著の合冊本『海舟先生 氷川清話』で述べる(四十六、四十七、四十八頁参照)とは、講談社学術文庫版『氷川清話』と『勝海舟全集21 氷川清話』の「西郷と江戸開城談判」に該当するが、そこにはどこにも「談判」という状況を具体的に現わす内容は書かれていない。

ただ「談判」だったと繰り返すだけで、室内から窓外をみているかのような風景的描写であり、二人の人物が激しく激論するという場面は皆無である。

これに対し、鉄舟の直筆『西郷隆盛氏ト談判筆記』では、西郷と鉄舟の「やりとり」が緊迫した状態で具体性持って表現されている。

ところが、吉本の文章では、どのような「談判」であったのか、それが項目的・具体的に書かれていない。刑事事件で、裁判所で検察官が冒頭に述べる「犯罪の具体行動事実」に該当するような内容・項目が書かれていないのである。ただ曖昧に「談判」したと9回も連発しているだけである。

吉本は哲学者なのであろう。吉本によって「陽明学」という呼称が日本はもとより、中国・朝鮮でも使用されるようになったと、『国際哲学研究7号』の吉田公平氏の論文が述べている。

人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする哲学者である吉本襄は、大所高所からの論述は巧みでも、眼前で展開する実務的・具体的な状況を整理してまとめるのが弱いのではないかと思う。

このように理解するならば、海舟の「談判」行動の展開場面描写は苦手であるはずで、海舟から事細かに「談判」内容の具体的事実を教えてもらわないと書けないのである。

合冊本『海舟先生 氷川清話』の(四十六、四十七、四十八頁)からは、何ら具体的談判事例が浮かばないし、ここから想定されるのは、海舟は「談判」内容を吉本に具体的には話さなかった、ということではないか。

というより、「談判」はなされていないのであるから、海舟は話していないのである。それを吉本は海舟が語ったように創作したのであろう。

松浦氏は、「学術文庫版刊行に当って」で次のように述べる。

《流布本『氷川清話』について私 (松浦玲) は、勝海舟があんなことを喋る筈が無いという疑いを長く持っていた。最初に『氷川清話』を編集した吉本襄が、海舟の談話を勝手に書き換えたのだと睨んでいた》

 と述べているが、海舟が『慶応四戊辰日記』慶応4年3月14日で「十四日 同所に出張西郷へ面会す。諸有司嘆願書を渡す」という「嘆願」では、吉本は「面白くない」、「読者が興味をもたない」ということで、海舟に「談判」させたというように、勝手に書き違えたのではないか。

では、海舟が「談判」したのか、否、「会見」であったのかの検討はどのように判断すればよいのだろうか。

それは、目賀田種太郎という人物と、鉄舟という「明治天皇の侍従」が書き遺した内容を信じるか、それとも松浦玲も「信憑性に問題あり」と述べる吉本を採るかという判断である。

 目賀田種太郎は、海舟の三女・逸子の夫、ハーバート大学卒、大蔵省を経て、朝鮮政府財政顧問・統監府財政監査長官、貴族院議員・枢密顧問官・国際連盟大使などを歴任している。専修大学の創始者の一人で、東京藝術大学の創設者の一人でもある。

 さらに、鉄舟は明治天皇が最も信頼した侍従である。

 客観的にみて、吉本襄の方が「人間の信用度」という意味で不利ではないか。

 以上から目賀田種太郎が海舟から直接聞いた内容の筆記の方に、信用がおけると考える。

 しかも『明治神宮叢書 第十八巻 資料編(2)』53頁に明記されているのである。

   

以上から、江戸無血開城は西郷と海舟による「談判」でなされたのではない、ということであろう。吉本襄は歴史上の大罪を犯したと思う。

2020年5月25日 (月)

神にならなかった鉄舟・・・その八

最初に鉄舟の生誕地について、墨田区教育委員会から次の連絡が入ったことを報告したい。
「山岡鉄舟研究会会長 山本紀久雄 様
墨田区亀沢に設置しておりました山岡鉄舟の説明板は、本日(2018年12月19日)、板面交換を行い、別内容の説明板となりました。長らくお待ちいただきましてありがとうございました。取り急ぎ、ご報告させて頂きます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。墨田区教育委員会事務局・ 地域教育支援課文化財担当」
 この件については2017年4月号と2018年1月号でもお伝えしたが、墨田区観光協会作成の観光マップによると「山岡鉄舟旧居跡」は、亀沢4丁目の墨田区立堅川中学校の校門あたりとなっていて、墨田区教育委員会は平成20年(2008)2月、同中学校内に≪山岡鉄舟の生家小野家がこの中学校の正門の辺りにありました≫とする説明板を設置した。
だが、この地を『復元江戸情報地図』(朝日新聞社)で確認すると、旗本「小野勇太郎」と表示されている。小野勇太郎は、『寛政譜以降旗本家百事典第1巻』(東洋書林)によると、禄高200石、拝領屋敷は本所永倉町と四谷南伊賀町の2カ所である。本所永倉町は現在の亀沢4丁目であり、堅川中学校現住所と一致する。
山岡鉄舟が生れたのは、御蔵奉行を務めた「小野朝右衛門」の役宅である。小野朝右衛門は禄高600石。その屋敷は『江戸幕府旗本人名事典』(原書房)によると両国向御蔵屋敷と表六番町。この両国向御蔵屋敷で鉄舟は生誕した。なお、表六番町の屋敷は、『復元江戸情報地図』に「火除明地」と記されており、これは現在の靖国神社の近くである。
 このような説明を墨田区観光協会で説明したところ、「エリアマップの表示は教育委員会が認定したものに従っているので、教育委員会に行ってほしい」という回答。
そこで2017年2月28日に墨田区教育委員会へ行き、一連の史実関係書類に基づき説明をしたところ「史料は理解したので、再度、教育委員会内で整理確認し、説明板が設置されている地元の亀沢町会と調整し進めたいが、説明板の撤去期日については明確に約束できない」とのことであったが、ようやく1年10カ月を経て誤った鉄舟生誕地が訂正されてほっとしているところである。
なお、正しい鉄舟生誕地は下地図のところであるが、このあたりは諸建築の工事中で、まだ史跡表示板は設置されていない。

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山岡鉄舟研究会2019年1月例会は『月刊武道2018年10月号』(公益財団法人日本武道館発行)の表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」(下絵)を描いたアトリエ麻美乃絵・中村麻美先生の講演でした。テーマは「月刊『武道』表紙絵より~維新の英傑たち「駿府談判」ほか」で、次のように述べられました。

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≪1868年3月9日、幕臣・山岡鉄舟は、駿府に陣を構える官軍参謀・西郷隆盛に会談を申し込みました。江戸決戦は目前、駿府への道中は命がけの旅でした。
西郷は江戸総攻撃を中止する条件の一つとして「徳川慶喜を備前に預ける事」と提示しました。しかし鉄舟はこれに応じず抗弁します。「朝命なり」と凄む西郷に対し、鉄舟は毅然と問いただしました。「立場が逆ならば、あなたは主人である島津の殿様を差し出しますか」。激論の末、しばらく考えた西郷は「先生の言うことはもっともだ。慶喜殿のことはこの吉之助が必ず取り計らう」と約束します。江戸無血開城は、鉄舟のこの命がけの尽力により成ったのでした。
のちに西郷は、江戸の民を守り、主君への忠義も貫いた鉄舟を評します。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」剣・禅・書の三道を極めた鉄舟は、1880年に無刀流の開祖となります。「敵と相対する時、に依らずして心を以って心を打つ」と修養を重んずる鉄舟の理念は、今日あらゆる武道に受け継がれ、今に活かされています≫
中村先生は的確に鉄舟を捉えておられます。なお、中村先生は『伝えたい日本のこころ』(日本武道館2016年9月発行)を出版されていますので、ご参考にされることを推薦いたします。
なお、講演で中村先生は、表紙絵には鉄舟のみで西郷は描かれていない理由について以下のように述べられました。
≪鉄舟ひとりで薩摩軍に対したという意義を、島津の陣幕を大きく描くことで強調し、そこに鉄舟武士道精神を表現したかった≫と。なるほどと思ったところに、もうひとつ鉄舟のみを描いた理由があるとも発言された。

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 それは明治神宮聖徳記念絵画館に展示されている有名な壁画、結城素明が描いた「江戸開城談判」(上絵)と混同される恐れからとのこと。この絵は、西郷が鉄舟との駿府で無血開城を実質的に決めた後に、江戸で勝海舟と会った場面を描いたもので、この西郷・勝会談で無血開城が決まったとする説が広く流布されている。
表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」を鉄舟と西郷が対峙する構図で描くと、鉄舟を海舟と誤解する人が多く出て来るのではないかと、中村先生は危惧されたのだ。
 ところで、中村先生による『月刊武道』の表紙絵は人物を描いているので、これは「肖像画」とも言えるだろう。ただし、実存していた人物であっても、描く場面も含む実像を写真等で確認できないのであるから、あくまでも描く人が想像する表現絵画となる。
結城素明も「江戸開城談判」を描くにあたって、同様に想像にもとづく肖像表現であったはず。その理由は、この場に鉄舟も同席していたのに省かれているからである。何故に鉄舟が絵に描かれなかったのか、その検討は後日にしたいが、その前に、明治神宮聖徳記念絵画館を飾る80点がどのように決定・展示されたのか、それをまず整理してみたい。
参照するのは『明治聖徳記念学会紀要復刊第11号』(林洋子氏論文 平成6年4月15日)である。林氏はプリニウスの『博物誌』の記述からはじめる。
≪そもそも絵画は、プリニウスの『博物誌』によると、外国への長旅に出る恋人との別れを悲しんだコリントスの娘が、ランプの光で壁に映った恋人の影を写し取ったことに始まるという。つまり肖像表現とはその基本的な性格としてその場にいない人や死者の身代わりの意味を持つのである≫
プリニウスの『博物誌』は、ローマ帝国初期に活躍した博物学者、軍人、政治家でもあったプリニウス Plinius( 23/24~79) が著したもの。ヨーロッパの博物学のもっとも古典的な原典となったもので、各方面の専門の著作を縦横に使い、あるいは自らの実地見聞や調査によって、約2万項目におよぶ事項について解説をした世界最初の百科事典である。したがって、今日でもこの『博物誌』は各分野の研究に広く参考資料として利用されている極めて貴重な文献である。(参照『ガラスの道』中公文庫 由水常雄著)
林氏の論文を続けよう。
≪このことは、明治天皇に関する様々な肖像表現についてもあてはめて考えることが出来よう。歴代天皇の中でも、(昭和天皇を除けば)明治天皇こそ最も多くの肖像表現が残された天皇の一人であろう。その表現には、①天皇のご在世中に制作された「その場にいない」天皇の身代わりとしての「御真影」や絵画・版画、②崩御の後、先帝の記念、追悼のために描かれた絵画群がある。この②のグループを代表する作品こそが、明治神宮外苑聖徳記念絵画館を飾る80点である≫

明治天皇は明治45年7月30日に崩御された。御陵は京都の桃山に決したが、天皇をお祀りする社を東京にも造営し、その周囲に天皇を記念する様々な施設を持つ外苑を設けることになり、その中心に天皇の業績を記念する絵画館を建造する構想が天皇側近から出された。
≪伝統的に、天皇のお姿を公の場に絵画化することがほとんどなかったわが国では、このような計画は史上初めてであり、畏れ多いとの反対もあったが(貴族院でも議論を呼んだ)、国民からの多額の寄付、そして側近たち、大正4年5月に成立した明治神宮奉賛会のメンバー(会長・徳川家達)の強い意思により、計画は実行に移される。
側近たちは、計画の推進役に元神戸市長の水上浩躬(みなかみひろちか)を招き、幾人かの歴史家たちを交えて構想をねった。水上はこの計画の手本として、フランスのヴェルサイユ宮殿内の「戦いの間」(1676年起工)をイメージしたと後に語っている≫
大正6年2月に絵画館委員が任命された。その中に美術関係者は東京美術学校の校長である正木直彦のみであった。画家が一切委員とならなかったことから推測されるように、まず画題が最優先で画家や画風は二の次であったことがわかる。
その後、正木の仲介によりどの派にも属さない孤高の画家で、当時あまり有名でなかつた二世五姓田芳柳(1864~1943)が、画題に応じた構図の下絵を作成するよう指名を受け、これが後に『画題考証図』へとつながる。
しかし、こうした計画の進め方に対して画家たちの不満が高まって、彼らの意見が美術雑誌に掲載されるようになった。しかし、画家たちは一致した行動がとれず、計画のイニシアチブは側近や歴史家たちに掌握されたままであった。
大正8年秋、絵画館の建設が始まった。設計は小林正紹(まさつぐ)である。大正10年1月に画題が決定され80題とされ、ここでようやく画家の選定に入った。
この計画が外部に伝わると、旧大名や企業などから奉納希望が殺到し、同時に縁故のある画家を推薦してきた。例えば徳川慶喜の孫である公爵・徳川慶光が「大政奉還」、西郷・勝両家が「江戸開城談判」の奉納を申し出た。
画家の選定は、洋画家の黒田清輝を責任者として河合玉堂や横山大観などの日本画家の意見も取り入れ、天皇が伝統世界に生きておられた前半生を日本画で、近代化する明治の後半生を洋画ということに決した。
洋画の人選は順調に進んだが、日本画の方は奉納者から推薦が多く、例えば旧大名からはその藩出身の画家を推薦するなどしたため、芸術性を追求する専門委員と理事会の間で紛糾し、怒った横山大観は委員を辞任、河合玉堂、竹内梄鳳も手を引いてしまった。
その結果、院展系及び京都系の大半を除いた画家たちによって描かれることになったが、決定は遅れに遅れ、一人の画家が複数の作品を手掛けることも発生した。
日本画の小堀鞆音(ともと)が三点、近藤樵山(しょうせん)が二点、結城素明も前述した「江戸開城談判」と「内国勧業博覧会行幸啓」の二点で、全体的には若くて小粒な画家の感が免れなかった。

理事会から「壁画奉納ニ付取扱方」が公表され、絵の大きさは縦3m、横2.7mと決められた。絵画館建物に向って右が日本画部門、左が洋画部門と決し、制作が始まり、画家たちに二世五姓田芳柳が準備していた『画題考証図』が示された。
大正15年10月15日絵画館が竣工。画家たちは各自の作品を納入し始めたが、足並みは揃わず、昭和7年になっても納入された作品は全体の約半数というありさまであった。
最終的に昭和11年4月に、岡田三郎助、和田英作、藤島武二、松岡映丘、結城素明の東京美術学校の教授陣5人が作品搬入し、絵画館は構想から20年、制作開始から10年の歳月を経て完成した。この間に5人の画家が亡くなり、その弟子や友人に制作が引き継がれている。

ということで、全作品80点は、作者もほぼ全部異なり、制作年代も約10年のばらつきがあるなど、統一性の乏しい作品群となった
藤島武二は明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮で、絵画館に「東京帝国大学行幸」(下の絵)を制作している。この藤島が、弟子の児島虎次郎から来た手紙に返信しており、そこには≪同事業は其性質上史実を重んじ、絶対自由を尊ぶ純芸術家にとりては恐れながら余り面白き仕事とも覚えず候≫(林氏論文)と書いている。

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なお、林氏は藤島武二絵について、次のように評価を下している。
≪藤島の筆は進まず、最後の最後におそらく写真を元に描いたのであろう。当時の彼としては凡庸な作品である。この時期、彼の興味の中心は先の宮中よりの依頼画の制作と帝展改組問題であった。この翌年(昭和12年)、藤島は蒙古高原の日の出を描いた名作「旭日照六合』(宮内庁蔵)を完成、御所に納める。同じ帝室関係の仕事とはいえ、完成度の違いは明らかである。それは絵画館の制作はかなり限定が多かったことに比べ、宮中からの依頼画は藤島の創造性に全面的に一任されており、「絶対自由を尊ぶ純芸術家」たる藤島の心を鼓舞したのであろう≫
さらに林氏は以下のように酷評する。
≪これらは決して同時代のベストメンバーらによって描かれたのではなく、芸術の領域から離脱したような「紙芝居」のような作品が大半となっている≫
何故に林氏の指摘するようなレベルになっているのだろうか。その大きな要因にあるのが、二世五姓田芳柳による『画題考証図』の提示にあるのではないだろうか。
ということは「江戸開城談判」壁画も、結城素明が構図を考案したわけでなく、二世五姓田芳柳の『画題考証図』に基づき「翻案して描いた」のであり、『明治神宮叢書第20巻図録編』(明治神宮編 平成12年11月発行)では、「江戸開城談判」壁画は「部分を拡大したもの」であると述べている。
では、二世五姓田芳柳は下絵と『画題考証図』をどのように制作したのか。次号で検討したい。

2020年4月25日 (土)

神にならなかった鉄舟・・・その七

銅像を建てるということの背景を考察するには、誰がそれを必要としたのかという問いかけが必要だろう。
 勝海舟銅像は、東京都墨田区が必要として建てられたと推察される。勿論、実際の銅像建立は、海舟を評価する人々が寄付を集め建立し、それを墨田区に寄贈したのであるが、墨田区ホームページ記載内容から、高く海舟業績を認めていることがわかる。銅像の作者は墨田区に本籍があるという東京家政大学名誉教授の木内禮智氏である。
しかし、どうして建立が平成15年(2003)という海舟生誕180年まで待たねばならなかったのか。もっと早くても良いような気がする。
海舟の業績は、江戸無血開城を西郷隆盛との会見・交渉で成した、と高等学校教科書で認められており、世間一般にも広く認知されている。また、会見相手の西郷銅像は、上野公園に明治31年(1898)に建立されているから、平成時代まで海舟銅像が待たされたのは不思議だ。前号でみた榎本武揚の銅像は大正2年(1913)に建立されている。
一方、幕末に新政府軍への徹底抗戦を主張して、恭順派の海舟と対立した小栗上野介の胸像は、横須賀市に大正11年(1922)に建立されている。小栗の銅像は神奈川県横須賀市が必要としたと推察するが、建立された場所は現在の「ヴェルニー公園」とは異なり、当時の海軍工廠が見下ろせる諏訪公園であった。作者は朝倉文夫で「東洋のロダン」と呼ばれた著名な彫刻家である。

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しかし、この胸像は残念ながら横須賀海軍工廠によって20年後の昭和17年(1942)に撤去、金属供出され、代わりにセメント像が市役所前に置かれた。
横須賀海軍工廠とは、慶応元年(1865)徳川幕府が横須賀製鉄所を建設し、明治政府に引き継がれ、明治4年(1871)に帝国海軍所管「横須賀造船所」となって、明治17年(1884)に横須賀鎮守府が設置されるとその直轄造船所となり、明治36年(1903)の組織改編で横須賀海軍工廠が誕生、呉海軍工廠と共に多くの艦艇を建造したところ。
また、現在の「ヴェルニー公園」一帯は、明治時代初期に横須賀が帝国海軍の本拠地となって、ここに海軍軍需部が置かれたが、昭和3年(1928)に田の浦へ移転後は、海軍工廠の一部と海軍運輸部となり、海軍の艦船や陸上部隊への軍需品の供給基地となって、施設はコンクリート塀で囲まれていたが、通りに面して商店・旅館・料亭などが建ち並び、とても賑わっていた場所。
戦後はコンクリート塀が取り除かれ、昭和21年(1946)に「臨海公園」となって、ここに昭和27年(1952)、東京芸術大学教授であった内藤春治によって作られた小栗胸像が移転した。ただし、胸像は新しくつくられたが、石造りの台座は大正11年のものを使用しており、台座裏に「大正11年9月27日除幕」と印刻されている。
「臨海公園」が開園したのは昭和21年(1946)10月20日で、この時には二日間にわたって横須賀市民祭が催された。その意味は、敗戦後の日本で、軍港横須賀が新しく生まれ変わったという証にほかならず、それも占領軍の支配下で挙行されたわけで、日本が平和国家に変ったという事実証明でもあった。
ところが、平成13年(2001)に至って「臨海公園」は、「ヴェルニー公園」としてフランス式庭園の様式を取り入れてリニューアルオープンした。

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ヴェルニー公園と名づけられたのは、横須賀造兵廠その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに由来する。
ヴェルニーの胸像は、この公園内に小栗と並んで立っていて、ヴェルニー説明板には以下のように書かれている。
≪フランスの造船技師で、海軍増強をめざした徳川幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として1865年来日した。明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音埼灯台や走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し1876年帰国した≫
この説明板と隣の武士姿の小栗胸像を見る人々に、どのようなイメージを与えるであろうか。多分、「ここは幕末から明治初頭にかけて活躍した人物を記念して造られた公園なのだ」と思うだろう。
つまり、「臨海公園」と称する平和シンボルであったものを、「ヴェルニー公園」に変更することで、一挙に幕末の横須賀へ蘇らせたのではないかと考える。
それを裏付けるのが「ヴェルニー・小栗祭り」である。明確に小栗の名が冠されている。したがって、祭りに来た人々は幕末時を思い起こす。
昨年、平成30年(2018)は、日仏交流160周年を記念し、平成30年11月10日横須賀市との姉妹都市ブレスト市があるブルターニュ地域ゆかりのフランス海軍軍楽隊バガッド・ド・ラン=ビウエが、華やかな演奏を披露した。

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ところで、この「ヴェルニー公園」、じっくり見て回ると面白いことに気づく。場所はJR横須賀駅前に位置していて、入るとすぐに「ヴェルニー記念館」があり、ここのデザインについて≪ヴェルニー記念館は、横須賀の近代化に貢献したフランソワ・レオンス・ヴェルニーに関わりが深いフランスのブルターニュ地方に建つ住宅の特徴を取り入れました≫と解説文が掲示されているが、館内にはオランダから購入した「国指定重要文化財スチームハンマー」を保存・展示している。外観はブルターニュ風なのに、保存されているのはオランダ製のスチームハンマー、これに少し違和感を持つ。
また、記念館から歩いてすぐの所に「戦艦・陸奥」の全長約19メートル、重さ約100トン主砲が野晒しで置かれている。巨大だ。陸奥は大正10年(1921)に横須賀で建造され、昭和18年(1943)に瀬戸内海で原因不明の爆発のため沈没し、昭和46年(1971)に複数ある主砲の一部が引き揚げられ、東京の船の科学館で展示されていたが、平成28年(2016)9月に
移送(里帰り)した。この主砲は全くヴェルニーとは関係ないから、このあたりから訪れた人は、ここは旧日本海軍基地であったのかと気づき始めるだろう。
もっと面白いのは「ヴェルニー公園」の端のところ。もともとこの地にあった日本海軍にまつわるいくつかの記念碑が、それも横一列に並ばされている。教室の片の隅に立たされているように、何となく居心地が悪いように見える。

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一列に並んでいる記念碑を右から紹介すると、正岡子規の句碑「横須賀や只帆檣(はんしょう)冬木立」 (注 帆檣とはほばしら) は平成3年(1991)建立、「軍艦沖島の碑」は昭和58年(1983)建立、「軍艦長門碑」は昭和51年(1976)建立、単に「国威顕彰」と刻まれた記念碑は建立年月日等一切不明(ヴェルニー公園HP)とあり、「軍艦山城之碑」は平成7年(1995)建立、「海軍の碑」も平成7年(1995)建立である。

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「国威顕彰」碑を除いて近年の建立であるが、この「国威顕彰」碑とはいったい何か。
『世の途中から隠されていること――近代日本の記憶』(木下直之著 晶文社2002年刊)が次のように述べている。
≪問題としたのはひときわ大きい「国威顕彰」碑で、1930年代前半の建立、一等巡洋艦愛宕か高雄クラスの司令塔をモデルにデザインされたという。現在も残る逸見波止場逸見門衛兵詰所(こちらは横須賀市指定市民文化遺産となっている)の間を抜けて入った正面に、この記念碑は立っていた。『横須賀市史』上巻(横須賀市、1988年)五七七頁の写真図版でその様子を見ることができる≫
いずれにしても「国威顕彰」碑は無残な姿である。「国威顕彰」の文字を除く一切の言葉が剥ぎ取られている。今では何が書いてあったか不明である。
だが、いろいろネットで調べていると以下の説明に出合った。
≪その後、朝日新聞の記事や横須賀市史によって詳細が判明した。これは「国威顕彰記念塔」であり、昭和12年5月27日の海軍記念日に除幕されたもので、国際連盟脱退や軍縮条約廃棄という当時の社会情勢のなかで、海軍の偉業と意気を具象化したとのことである。塔の上部には羽を広げた金鵄が取り付けられていた。作者は当時の第一人者である日名子実三で、彼は馬門山墓地の「第四艦隊遭難殉職者之碑」も製作している≫(『東京湾要塞 三浦半島・房総半島戦争遺跡探訪』)
なるほどと思う。記念碑や銅像が建立された姿を維持できるかどうかは、当初の製作者・注文者の意図が時を超えてどれだけ継承されるかにかかっているのだ。「国威顕彰」碑には≪羽を広げた金鵄が取り付けられていた≫というが、時代の変遷で取り払われ惨めな姿をさらしている。しかし、惨い形ではあるが、しっかりと遺っている。意図があるのだろう。
このように見てくると「ヴェルニー公園」のイメージが変化せざるを得ない。ヴェルニー公園と名づけられたのは、日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに由来するわけだが、実際に公園内を歩き、横須賀市発行の小冊子『小栗上野介と横須賀』をみると徳川幕府で活躍した小栗を大いに称えている。
≪明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。
現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています≫
間違いなく横須賀市は、製鉄所建設推進した行為に対する「顕彰」として小栗胸像を建立し、併せて「ヴェルニー公園」を帝国海軍の軍港であった事実を遺す手段としているのである。これを裏打ちするのが横須賀市議会建設常任委員会の論議である。それを『世の途中から隠されていること』から引用する。
≪青木委員いわく「幕末だけの問題ではなくて、戦前の様相も逐一伝えられるような公園づくり、公園を訪れた方々がわかるようなことであってほしいと思うのです」(『同会議録』第三四八号)。さらに青木委員はなぜ「ヴェルニー公園」と名前を変えたのか、それならむしろ「小栗・ヴェルニー公園」とすべきだと、もっともな意見を述べる≫
「ヴェルニー公園」を歩いてみると、実際の公園は「小栗・ヴェルニー・海軍記念公園」というのが実態だと感じる。

海舟に戻りたい。東京都と墨田区が海舟の業績を高く評価しているのであるから、もっと早く銅像が建立されていてもおかしくないはずだ。
実は、これには海舟自身の考えがあったという。それを『銅像になった人、ならなかった人』(三原敏著 交通新聞社2016年刊)から見てみよう。
≪そもそも海舟は「銅像」というものに興味がなかったようだ。
『海舟遺稿』を編集した亀谷馨が、海舟を訪ねた時のこと。亀谷が先生の存命中に銅像を作りたいと語ったところ、海舟は「銅像は人の造ったものゆえ、いつ何時、天変地変のために破壊されるか知れない。そうでなくてとも、時勢の変遷によって大砲や鉄砲の弾丸に鋳られるかもしれないよ。そんなつまらないことしてくれるより、銅像を造る入費の三割一分でもよいから、金でもらいたいよ」と一笑に付した。さすがに海舟である。その後、大東亜戦争で多くの銅像が大砲や弾丸と化していったことを、すでに予見していたようだ。
この逸話からしばらくして海舟は亡くなり(明治32年)、時の海軍大臣であった山本権兵衛は、海軍省に海舟の銅像を建てようと提案した。薩摩藩出身の山本は西郷の仲介により、海舟の知遇を得て海軍軍人の道を歩んでいった。海舟には深い恩がある。だが、海舟が生前、銅像などを馬鹿にしていたと聞いて、この計画は取り止めにしたそうだ。
一方、海舟の死から四日後の一月二十五日。葬儀が行われたこの日の『朝日新聞』には、徳川慶喜や家達をはじめとした人々が発起人となり、西郷と同様の海舟の銅像を建立し、上野公園に並立しようという計画があることが報道されている。
この計画のその後は不明であるが、明治四十三年(1910)十月十日の『朝日新聞』に投稿された「銅像建設に就いての所感」という記事が興味深い。投稿したのは海舟に銅像の話をした亀谷馨である。亀谷は近年、盛んに建立されている銅像に関し、その意義は良いが、報本(ほうほん)反始(はんし)(注 祖先の恩に報いること。儒教的理念の一つ)の理に反するものがあると嘆く。
例えば海軍省内に建てられている西郷従道・仁礼景範・川村純義の像だ。亀谷は従道らの功績を認めながらも、それならば、維新の前から海軍の発展に偉大なる功績のある人物がいるだろうと訴える。さらに神戸に建てられている伊藤博文像に関しても、それ自体には賛同するが、それならば一漁村であった神戸の地に幕末、神戸海軍操練所を設置し、その発展に貢献した人物がいるではないかと続ける。
つまり彼らの銅像を建てるなら、なぜ海舟の像を建てないのかと憤っているのだ。海舟自身が断ろうとも、やはり亀谷は海舟の像を建てたかったのである。ただし海舟の予言通り、ここで挙げられた従道・仁礼・川村、そして伊藤の像はいずれも大東亜戦争によって回収され、現存していない。彼らの像がいち早く建立された背景には、薩長閥ということもあろうが、もし海舟の像が建立されていたならば、やはり同様に回収されていただろう。「それ見たことか」と、地下から海舟の毒舌が聞こえてきそうである≫
しかし、ここで不思議なのは、現在、海舟最大の業績が「江戸無血開城」だと、一般的に認識されているのに、上記記述では一切無血開城には触れていないことだ。
海軍創立への功績を強く述べている。当時の海舟への評価は今と異なっていたと推測できるのである。

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                                                                  (海舟が建言し設置された神戸海軍操練所跡碑)

2020年3月31日 (火)

神にならなかった鉄舟

海舟夫婦の墓が洗足池にあり、昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となったことと、妻・民子の墓が当初は青山墓地に葬られていて、洗足池に移された件を、大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であったことは前回でお伝えした。

これに触れているのが『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪勝の正妻はお民。砥目屋という薪問屋兼質屋の娘であったが、一時は深川で芸者をしていたともいわれる女性だ。
結婚した時、勝は二十三歳、お民は二歳年上。当時の勝はまだ、幕府に取り立てられる前で、自宅で翻訳や蘭学教授をする貧乏生活を送っていた。天井さえ薪にしてしまい、雨露も防げないという悲惨な状況だったが、それでも気丈なお民は、夢子、孝子、長男の小鹿(ころく)を産み、必死で生活を切り盛りした。
結婚から十年後、意見書が取り入れられ、勝は長崎の海軍伝習所に赴任。運に恵まれ始めると途端に、彼の女道楽が始まった。長崎では梶玖磨(お久)という年若い未亡人と関係して子どもを作り、これを引き取ると、お民に育てさせている。
米国から帰国し、赤坂に邸を構えてからは、ますますひどい。家の女中や、手伝いに来た女性たちに次々と手を出した。お糸、お米、おかね、おとよ・・・・。
妻妾同居を実践し、生れた子どもはすべて正妻であるお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働き続ける。お民の心中も複雑だったろうが、生みの母も辛い思いをしたのではないか。
それなのに勝は、「俺と関係した女が一緒に家で暮らしても波風が立たないのは女房が偉いから」などと、呑気に語っている。女の心を理解していなかったのか、あるいは、そうやって褒めておけば「波風が立たない」と甘く見ていたのか。しかし、正妻お民の本心は勝の死後、明らかになる。
勝が七十五年の生涯を閉じたのは、明治三十二(1899)年。お民はその六年後に、この世を去るのだが、「夫の隣だけは嫌。小鹿の隣に埋葬してくれ」と、きっぱり言い残すのである。
小鹿はお民が生んだ長男で、たった一人の跡取り息子であった。米国のラトガース大学に留学、さらにアナポリス(海軍兵学校)を卒業して帰国し、日本海軍に迎えられた。勝夫妻にとっては自慢の息子であったが、残念なことに身体が弱く、明治二十五年に三十九歳の若さで両親を残して逝った。
そのため、やむなく勝は小鹿の長女である伊代子に、徳川慶喜の十男の精(こわし)を婿として迎え勝家の家督を継がせている。以後、「勝」姓を名乗るのは、この直系の子孫だけで妾腹の子孫は誰ひとり「勝」姓を継いではいない。そのけじめは、はっきりとしていたようだ。
お民は遺言どおりに、夫の隣ではなく早世した息子の隣に埋葬されたものの、昭和二十八年、子孫の手により、夫の隣に墓石が移されている。墓下で何を思うか≫

墨田区のホームページに≪勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります≫と述べられているが、家庭内では妻妾同居を実践し、生れた子どもはすべて正妻であるお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働かせ続ける。

今の道徳観念からは大問題、明治時代でも稀なる事例ではなかったろうかと思ったが、榎本武揚も同じであったと日刊紙『萬朝報』の記事が伝えている。

『萬朝報』は記者・翻訳家・作家として活躍した黒岩涙香が主宰し、スキャンダルの暴露などを売り物にしたことで知られる新聞だが、ここで明治31年(1898)7月から9月にかけて連載した「弊風一斑(いっぱん) 蓄妾の実例」、つまり、妾を囲っている男性の実例を500例以上取り上げている。この500例のうち華族が44例あり、その中に榎本武揚が、海舟と同様の妻妾同居を実践していると取り上げられている。(『明治のお嬢さま』黒岩比佐子著 角川選書)
≪子爵榎本武揚 向嶋須崎町の自邸に木村かく(三十)松崎まさ(二十九)という二人の妾あり。いずれも夫人存生の頃より女中に来ししものなり≫

海舟と榎本、共通するのは幕末の江戸幕府を支え活躍した旗本でありながら、維新後は新政府で要職に就いたことから、福澤諭吉の「瘠我慢の説」で痛烈に批判されたことで知られているが、妻妾同居の実践者という点でも共通していたわけである。

では、鉄舟はどうであったのか。鉄舟に〞権妻(ごんさい)〟がいたと述べるのが『山岡鐵舟の妾』(鈴木氏亨著 文芸春秋1993年11月号)であるが、ここには海舟にも権妻がいたとある。ということは自宅妻妾同居、加えて別宅に権妻がいたわけである。

では、この権妻とは何か。明治3年(1870年)に制定された『新律(しんりつ)綱領(こうりょう)』、これは広辞苑によると「明治政府最初の刑法典。大宝律や江戸幕府の公事方御定書から明律・清律まで広く参考にして作成。明治3年(1871)12月公布。旧刑法施行により15年廃止」とあるように、これは江戸幕府や中国の刑法典をもとにして、明治政府のもとで作成された最初の刑法典であり、身分制度など様々な事が定められたもの。この中で、妻と妾を持つことが公認され、この妾は権妻と呼ばれ、夫から見て、妻と妾が同等の二親等として記載されていた。

鈴木氏亨は大正12年(1923)『文芸春秋』創刊とともに編集同人、菊池寛の秘書を務め同社の経営に参画、昭和3年専務取締役となった人物で、明治18年(1885)生まれ、昭和23年(1948)没。『山岡鐵舟の妾』で鉄舟が権妻を持った経緯を書いている。
≪東京に新政府が出来上がって、公卿や長薩土肥の幕末の志士が、顕要な地位を占めだした頃、ある晩、柳橋の芸妓おせんの屋形へ、萬八楼からお座敷だと箱屋がしらして来た。
おせんが仕度して行ってみると、贔屓にしてくれる池田と云ふ客が、若い志士風の男とつれ立って遊びに来ていた。
若い侍は江戸っ子だった。多分旗本だったろう――引詰めた惣髪は、両眥(まなじり)がつり上がる程強(きつ)く、立てた太い髷は、髷元を紫の紐でぐるぐると結んで後頭部へ垂らし、狂人のような凄い眼に光を湛えていた。
「まあ、何と云ふ恐い人だろう!」
おせんは、その頃、料亭などを荒す、狂暴な鉄腕の田舎浪士を想い浮べてぞっとした。
だが、盃が進むにつれて、凄い眼をしていた若い侍が、何處か親しみのある、気の置けぬ淡如とした風格を備えているのを感じた。
若い侍は、海鼠(なまこ)が好きだと見えて、それを酒の肴にして、盃を重ねた。
「オイ、君も一杯飲む可し/\」
女中や、箱屋が、座敷へ姿を出すと、かう云って、相手嫌わず盃を盞した。
おせんは、なんと云ふことなしにその侍が恐くて近づけなかった。
その後、同じ萬八楼の百畳敷で、岩倉卿主人役の大饗宴が催された。
流行(はやり)奴(つこ)のおせんは、その時も招かれて座敷にゐた。――そこでも、眼の凄い、この間の若い侍に会った。
若い侍は、別に彼女に注意するでもなかった。
宴が果てゝてから、おせんは、萬八楼の女将に呼ばれて帳場に行った。
「この間の若い侍さんが、お前に祝儀を下さったよ」
と云って、夫婦巾着ぐるみ出して見せた。
いくら入ってゐたか知らぬが、沢山の小判が入ってゐたらしかったが、おせんは祝儀などには、目もくれなかった。そして、その若い侍が、どんな身分の人か知ろうともしなかった。
三度目に、若い侍は彼女に、はじめて口を訊いた。
『私(わし)は、かう見えても泥棒や巾着切ではない。安心せえ!』
それから、彼女の家庭の事情を聞いたり、名を聞いたりした。
おせんは、柳原の、間口十二間もある古着屋の娘だった。親が、粋人で身を落し、新吉原や、堀や深川などと岡場所を遊び歩くうちに、いつの間にか店を閉じるやうになった。彼女は柳橋で半玉として仕込まれた。
その時も、若い侍は、澤山の祝儀を置いて、写真を呉れて行った。
おせんは、客が帰ってから写真を携(もつ)て行って、帳場や料理場で名を聞いて見たが、誰もしらなかった。
おせんは、浅草の写真師、馬場貞季に聞かせにやって、はじめてそれが山岡鐵太郎と知った。
四度目に来た時、
『わかったかい』
と、たった一言云った。
間もなく彼女はひき祝をして、蛎殻町に家を借りて引取られた。明治二年、鐵舟三十二歳、彼女の十九歳の時だった。彼女は山岡鐵舟の妾になったのである≫

≪どうして私が、山岡さんの妾になったかと仰つしゃるのですか?  ほゝゝゝ・・・。その頃は権妻ばやりで、権妻の一人や二人を置かないと肩身が狭くなる御時世でした。勝(海舟)さんも、小仲さんと云ふ、私どもの朋輩の、柳橋に出ていた藝妓(ひと)を落籍(ひか)して、囲っておられました≫

≪おせんは、鉄舟との間に女の兒まで設けたが、悪足がついてから、明治十七年頃応分な手切金を貰って、鐵舟の写真と二三枚の揮毫を抱えたまゝ、栃木県の足尾の方に流れて行った。
その男とも別れると、宇都宮の江の町に落ついて、林屋と云ふ藝妓屋を開業し、鐵舟との中に出来た娘を藝妓に出してゐた。
 おせんは七十九歳で昭和四年数奇な一生を終った。間もなく娘のりんもその跡を追ふた。林せんと云ふのが彼女の名だった。
私が、齋藤龍太郎君の紹介で、訪ねて行ったのは、彼女の死の少し前のことだった≫

ここで整理してみるのもどうかと思うが、「家庭内で妻妾同居」は海舟と榎本。「権妻」は海舟と鉄舟で、両方の実践者は海舟ということになる。

妾について明治初年に議論があったことを『明治のお嬢さま』が記している。
≪妾をめぐって議論が持ち上がる。その背景には、西洋から入ってきた一夫一妻制や男女同権論があった。
それまで日本人は、地位や財力がある男性が妾をもつことを当然のように思っていたが、西洋人はそれを奇異に感じるらしいと知って、慌て始めたのである。
とくに、妻と妾が同じ家のなかで暮らす「妻妾同居」という形態は、一夫一妻制を原則とする西洋人にとって、穢らわしい野蛮な風習にさえ見えたのだった。
そこで、1876年(明治9年)に元老院会議の場で妾問題が取り上げられた。この議論では、法律で妾が公認されている以上、一夫多妻制も認められると主張する者もいれば、一夫一妻制にしても妾をもつことは問題ないという者もいた。
逆に、この際、妾は廃止すべきだという者や、一夫一妻制を認めつつも、現実には妾を廃止するのは困難だという者もいて、議論はまとまらなかった。この会議では、「蓄妾」に対して、「妾を廃する」と書く「廃妾」という言葉も使われている。
その後、1880年(明治13年)の刑法の制定に当たって、「妾」という文字がようやく戸籍から削除されることになった。しかし、法律では公認されていなくても、妾の存在は、社会では黙認されたままだった≫

『萬朝報』連載の「弊風一斑 蓄妾の実例」は明治31年(1898)当時の実例であるから、明治9年に議論はなされたが、実際は変化なしだったといえる。

ところで、榎本武揚も銅像が建立されている。墨田区堤通の梅若公園にあり、マンションに囲まれた場所で、この地に晩年の榎本邸があり、墨田区観光協会のホームページに次のように記している。
≪榎本武揚は幕末から明治にかけて活躍し、晩年は向島で過ごしました。本銅像は大正2年5月、旧幕臣のち代議士江原素六などの発起により、府会議員本山義成らが中心となって建立されたもので、彫刻家藤田文蔵の秀作です≫

墨田区観光協会が述べる榎本武揚の活躍について補足したい。
榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年(1862)の27歳から、慶応三年(1867)32歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。
続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。

戊辰戦争では、明治元年(1868)榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送した翌月の8月陸奥に向かい、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、10月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。

榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」(国家に準じる統治主体)であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。
これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。

この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治2年5月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、18日に至って「交戦団体」の首脳である4名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請い辰之口牢獄での囚われの身となった。

辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。
兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。

この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、将たるものの姿だろう。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最期であったと思う。

しかし、榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。

五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去ったかのように、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。

確かにその通りで、赦免された後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。

このような活躍をしたわけであるから、妻妾同居という道徳概念上の問題があるとは言え、明治時代へ国家貢献という意味で、榎本の銅像が建てられていることに異論はない。

では、銅像はどういう背景で建立されるものだろうか。次号へ続く。

 

 

 

2020年2月26日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その五

鉄舟の弟子である松岡萬(よろず)が、静岡県磐田市大原の水神社境内に松岡神社として祀られており、さらに藤枝市岡部町にも松岡神社が存在していることは前号で述べた。
この二つの地で神様として祀られる要因背景は、磐田市の方が大池の干拓阻止であり、岡部町の方は山林所有権の争いで、いずれも静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡が住民有利に解決したからであった。

この松岡がその後、鉄舟とともに手賀沼(千葉県北部、利根川水系)の開墾を計画したという事実がある。筆者が主宰する「山岡鉄舟研究会」の2018年11月例会で、北村豊洋氏が次のように発表したので紹介したい。
≪鉄舟は約束の十年で宮内庁を辞した。そして谷中に全生庵を建立し駿河久能寺を再建したのは明治十六年である。廃仏毀釈でお寺が荒れており、お寺の再建、仏教の復活に精を出し仏教中興の恩人と言われた頃である。
この年の十月に、鉄舟は石坂周造、松岡萬と相談して、僧侶ら十五名と「手賀沼開拓願い」を千葉県に出している。驚きである。鉄舟の音頭で「教田院」を設立して手賀沼の新田開発を進め、米二万石を目論む利益を広く庶民に還元すると伴に、僧侶の学資に充てるという計画であった。
「教田院」とは耳慣れない言葉であるが、福を生じる田の意味で、三宝などをさす「福田(ふくでん)」という語が仏教用語としてあり、廃仏希釈後の仏教復興の為の社会施設「福田会」というのが明治十二年にできているので、それをヒントの名前かもしれないが推測の域をでない。(三谷和夫氏説)いずれにしろ、この地域にかつてなかった新しい開発の波が来たのである。
「手賀沼開墾願い」が千葉県令に提出されたと同じ「官有地拝借開墾願い(成田市立図書館蔵)」に発起人含め十五名の署名があり、三谷和夫氏の『明治前期・手賀沼開墾の二潮流(我孫子市史研究六)』に詳しく書かれている。
明治十六年十月二十日の郵便報知新聞に次の記事がある。
「手賀沼を埋め、田畑となさんとの計は、去る享保年度に起こり、田沼意次がこれに着手し、得るところの田五百町歩に過ぎずしてやむ。維新後、華族の中にその業を継がんと実施に臨み、測量に着手せし者多かりしが、沼の沿岸三十九ヵ村の漁民が、その産を失わんことを憂い、大いに不服を唱え、すでに竹やりむしろ旗の暴挙にも及ばんとする模様ありしをもって、企画皆中止となりしが、今度、山岡鉄舟氏が更にその開墾を発起し、仏教拡張の為、教田院を設けんとの企画を石坂周造氏が賛成し、去る七月中、石坂氏がまずその地に向かい、沿岸の各村吏を招集して説き、ついに三十九ヵ村調印して承諾の旨を表したるより、八宗の僧侶と結合し、かつ華族衆を同盟に加え……、同県下の不二講中より惣代をもって、埋め立て人夫十一万二千二百人の見積もりをもって、人足を無賃にて寄付する旨を、石坂氏まで申し出しという」
 開拓に反対していた地元の人達の賛同を得ている。開拓の人夫まで無償で出すという。これはいったいどういうことか。

実はこの頃、明治維新功労者の叙勲運動が盛んになり、猫も杓子も自薦に励んでいた。しかし鉄舟は勲章を二回も辞退している。さらに、勅使として鉄舟の自宅まで勲章を持参してきた井上馨に対して啖呵を切って帰らせた事も評論新聞はかき立てた。だから民衆はよく知っているのだ。俄か華族と鉄舟とは違うということを。明治十五年六月二十七日の「雪の世話新聞」記事にある。
 「この頃聞くところによれば、奏任官以上にして多年奉職の人でさえあれば、別に著名なる勲功なきも、その職務勉励の簾にて、相当の勲章を授与さるるや‥…、山岡宮内小輔は、年来の奉職中涓(けん)滴(てき)の勲功もなきに、かかる貴き物を賜る聖恩は感ずるにも余りあるが、これをおぶるは大いに恥ずる所あれば、右勲章は返納仕りたしとて辞退致されし趣きに聞く」
 俄か華族の言う事は信用しないが、土木のプロでもない鉄舟の提案する「手賀沼開拓願い」なら信用する民衆の心理を、十月二十日の郵便報知新聞記事は伝えている。明治十四年の政変(北海道開拓払い下げ問題等)の二年後のことである、住民は分かっているのだ。無私無欲がなせる説得力である。まさに鉄舟の人間力であろう。
しかし、「手賀沼開拓」は「水を制してこそできる事業」であり、明治初期の技術や当時の人力では無理である。進展はしなかった。鉄舟とて測量計測して始めからわかっていたのではなかろうか。手賀沼は江戸から一番近い湖沼として、昔から江戸商人達の新田開発意欲を誘っては失敗していた。だから今回も、名も知れぬ「山師」達の身勝手な参入を防ぎ「手賀沼」を守る為に、そして下総がこれ以上「東京の飛び地」にならないように、あえて前に立つ行為に出たのではないか。筆者はそう推察する。
庶民ファーストなのである。庶民に寄り添い真剣で骨のある姿が、偉ぶる事なく自然体で庶民に伝わるから、わざわざ自慢してホラを吹く必要はない。同じ江戸っ子でも勝海舟と違うところである≫

この北村氏の発表にあるように松岡は下総でも活躍しているので、松岡が神様として祀られていることに異論はないが、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。
 幕末三舟と称されるのは勝海舟と、山岡鉄舟、高橋泥舟であるが、この中で銅像が広く公共の地で建立されているのは海舟のみである。(鉄舟銅像は静岡市の鉄舟寺に松本検氏が個人で贈呈されたものがある)
 勝海舟の銅像は、東京都墨田区区役所に隣接する、区役所前うるおい広場の緑地内に、文政6年(1823)生まれの海舟、生誕180年ということで平成15年(2003)に建立された。
 墨田区のホームページに以下のように書かれている。
≪勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
  勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
  この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
  平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山﨑昇≫

筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で≪墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である≫と述べた。
この発言背景には、上記ホームページにある「今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄」として海舟を高く評価認識しているからであるが、しかし、 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか、と山岡鉄舟研究会ではかねがね指摘している。

東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸から東京へ」の中で「江戸無血開城をめぐるおもな動き」を解説しているが、そこでは鉄舟の役割が、海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。これでは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。

そこで2018年4月24日に江戸東京博物館に以下の問い合わせを行った。この件は2016年10月にも同館の学芸員に対し、同様の指摘をしたのだが「今後の検討課題」という回答であったので、改めて、水野靖夫氏の著書『勝海舟の罠』(毎日ワンズ)が出版されたのを機に、江戸東京博物館を管轄する東京都生活文化局を通じて尋ねてみた。

≪江戸無血開城についてお尋ね
1. 東京都江戸東京博物館で常設展示されている「江戸無血開城」に関わる解説では、慶応4年3月13日、14日の「西郷隆盛と勝海舟」会談で「江戸無血開城」が決定されたと掲示され、映像説明でもなされています。
2. 山岡鉄舟研究会・主任研究員である水野靖夫氏出版の『勝海舟の罠・第3章』では、「江戸無血開城」は慶応4年3月9日の「西郷隆盛と山岡鉄舟」駿府談判で実質的になされたと、各史料を検討した結果判断しており、当会でも同様に認識しております。
3. 公共博物館である東京都江戸東京博物館のお立場から、「江戸無血開城」は「上記1であるのか、または2であるのか」についてお尋ねを致したく、よろしくご検討の程お願いいたします≫

これに対して2018年5月31日に以下の回答が届いた。
≪「2018年4月24日付」でいただきました当館常設展示「江戸から東京へ」コーナーへのご質問につき、回答いたします。
当館の常設展示は、公立の博物館としての立場から、とくに学校で使用される教科書の記述に基づき、展示内容を構成しております。江戸無血開城については、高等学校のいずれの教科書でも言及がありますが、このうち7種類の教科書に西郷隆盛と勝海舟の交渉について記載があります。
また、高等学校の副読本として東京都教育委員会が発行している『江戸から東京へ』(平成23年度版)でも、「4月、江戸城総攻撃を前に旧幕臣勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の会談が三田の薩摩藩邸でおこなわれ、江戸城は無血開城された」とあります。
 これらの記述に基づき、当館常設展示では、「西郷隆盛と勝海舟」の交渉によって江戸無血開城が行なわれたという趣旨の解説をしております≫

ということで、江戸東京博物館は教科書通りで展示していることがわかったが、今年のノーベル賞 本庶佑氏が10月2日の記者会見で次のように述べていた。
≪研究者に必要な要素について問われた場面では、「一番重要なのは何かを知りたいという好奇心。教科書に書いてあること、文字になっていることを信じない、疑いを持つこと」と答え、有名な論文雑誌も疑う対象の例外ではないと強調。「自分の目で物を見る、そして納得する。そこまで諦めない」と述べ、多くの後進が研究の道を志すことを期待したい≫

この発言は真理を突いていると思う。歴史博物館は過去の史実を究明し、それを一般人に教える場所としての義務を負っている。ならば、異論が提出された場合、教科書に記載されているから、その通りとした、という回答はいかがなものか。館内に掲載したものに対して、自ら検討し、自信を持つ内容の掲示をすべきでないか。教科書の丸写しであったならば、博物館と学芸員の名が廃るのではないか、そのように思っているが、これについては今後も追及していきたいと思っている。

海舟銅像は、能勢妙見山東京別院(墨田区本所4-6-14)の山門先にもある。海舟が天保2年(1831)九歳の時に犬に急所を咬まれた際に全快を祈願し父小吉がここで水ごりをしたとも伝えられ、勝海舟翁の銅像が建てられている。
胸像の下には次のように刻まれた銘盤がはめ込まれている。
「勝海舟翁之像 勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和49年5月12日」
大怪我を負った海舟が妙見大士の御利生により九死に一生を得たという話は『夢酔独言』(勝小吉・勝部真長 講談社)に書かれている。
≪岡野へ引越してから段々脚気もよくなってきてから、二月めにか、息子が九つの年、御殿から下ったが、本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七郎三郎が用人の所へやったが、或日けいこにゆく道にて、病犬に出合てきん玉をくわれた。
其時は、花町の仕事師八五郎といふ者が内に上て、いろいろ世話をして呉た。おれは内に寝ていたが、知らせて来たから、飛んで八五郎が所へいった。
息子は蒲団を積で夫に寄かゝっていたから、前をまくって見たら玉が下りていた故、幸ひ外科の成田といふがきているから、「命は助かるか」と尋ねたら、六ケ敷(むずかしく)いふから、先(まず)息子をひどくしかってやったら、夫で気がしっかりした容子故に、かごがで内へ連てきて、篠田といふ外科を地主が呼で頼んだから、きづ口を縫ったが、医者が振へているから、おれが刀を抜て、枕元に立て置て、りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、漸々縫て仕舞たから、容子を聞いたら、「命は今晩にも受合はできぬ」といったから、内中のやつは泣ゐてばかりいる故、思ふさま小言をいって、たゝきちらして、其晩から水をあびて、金比羅(能勢妙見の間違いと思われる)へ毎晩はだか参りをして、祈った。
始終おれがだゐて寝て、外の者には手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともな手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともなゐから、病人はかんびよや(ママ)うがかんじんだよ≫

『夢酔独言』を書いたのは勝小吉、海舟の父親であるが、ここで勝家について少し補足したい。参照するのは『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪時代劇などでは江戸っ子の旗本として描かれる勝海舟だが、代々の武士というわけでなく、江戸に長いという家でもない。
曽祖父の銀一は越後の貧しい農家に生れた盲人で江戸に出てから、金貸し業を営み成功した。当時は、幕府による一種の福祉政策で盲人に金貸し業を許可していたからである。銀一は金で御家人株を買うと、九男の平蔵を武士にした。さらに平蔵の息子の小吉が旗本「勝」に養子入りし、勝子吉となる。この子吉の長男が勝麟太郎、後の海舟である。ゆえに武士としては三代目で、身分も低い。だが、時代は幕末の混乱期。赤貧洗うが如き生活をしていた勝だが、次第に出世を遂げていく。貧しさの中でも蘭学を学び、オランダ語を習得して、書物を通じて諸外国の事情に明るかったことが幸いしたのだ。
ペリー来航という国難にあたって、幕府は身分を問わず、町人階級に至るまで、意見書を募集したが、この時、勝が提出した海防論が上役たちの目に留まった。長崎の海軍伝習所に派遣され、その後、米国へも渡って、さらに見聞を深めた。勝の先見的な考えは幕府側、官軍側の双方から認められ、戊辰戦争の際には調整役として大役を果たし、維新後も伯爵に取り立てられるのである≫

海舟の墓は、東京都大田区の洗足池の畔に「勝海舟夫妻墓所」(大田区指定史跡)としてあり、そこの掲示板に次の説明がある。
「勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、「洗足軒」と名づけました(今の大森第六中学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました」
ここで気づくのは、能勢妙見山東京別院の海舟銅像が昭和49年建立であり、大田区洗足池畔の勝海舟夫妻墓所が大田区指定史跡に認定されたのも同じ昭和49年である。
どちらも同じ昭和49年という背景説明は簡単である。NHKが勝海舟を12作目の大河ドラマとして、子母沢寛の同名小説を原作に取り上げたことと無関係でないだろう。
主人公の勝海舟役は渡哲也でスタートしたが、渡が肋膜炎に倒れて降板、渡が第9回まで務めた後に異例の主役交代となり、第10回以降は松方弘樹が引き継いだので話題となったこともあり、最高視聴率は30.9%、年間平均視聴率は24.2%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)という好評を博したドラマであった。

大田区指定史跡説明掲示板で、さらに気づくのは、「妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています」というところ。
普通の感覚では夫婦である以上、最初から夫の隣に葬られるのではないだろうか。どうして民子は最初に青山墓地だったのか。どのような理由で洗足池に葬られるようになったのか。大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であった。このところを次回でもう少し詳しく続けたい。

 

2019年12月25日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その四

前号まで検討してきた結果分かったことは、特定の人を神に祀り上げる習俗には、その祭神の性格あるいは祭神化していくプロセスから、二つの類型があることである。
 一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」であると『神になった人々』(小松和彦著 知恵の森文庫)が述べる。
 

さらに同書が続けて以下のように記述している。
 ≪加藤玄智の『本邦生祠の研究』(中文館書店)によれば、近世から近代にかけて、死んだ人の「たましい」に留まらず、顕彰したい人がまだ存命であるにもかかわらず、その人の「たましい」を神社を作って「神」に祀り上げることさえ行われていたという。顕彰しようとする人びとの思いが強く、顕彰したい人の死を待てなかった。いや顕彰されるべき人が存命であるうちにそうすることに意味があったということだろうか。加藤玄智は、たとえば、東北地方の庄内藩で起きたいわゆる三方領地替え反対一揆が成功裏に終わった後の嘉永五年(1851)、百姓たちが藩主酒井忠器(ただたか)を「若宮大明神」として祀り上げたことや、大分県に縁のあった明治の政治家・松方正義公爵を、彼が八十五歳の時に、日田町(現・日田市)亀山公園内にある日隈(ひのくま)神社境内に「松方神社」を建立して「神」として祀り上げて顕彰した事例を挙げている。
『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社)や神社本庁の「人臣神社調査」、『本邦生祠の研究』などに列挙されている人臣神社のほとんどは、民衆の手によって建立された民間神社(私祭神社)であった≫

この実例を『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』の「松岡神社」(池主霊社)でみてみたい。「神」として祀られたのは鉄舟の弟子松岡萬(よろず)で、磐田市の松岡神社を訪ねてみた。
JR東海道本線・磐田駅から南へ約3キロ、タクシーで10分くらいである。ドライバーに松岡神社へと伝えると妙な顔をして、本部に尋ね、ようやくわかって到着できた。

≪静岡県磐田市大原の水神社境内に存命中から土地の人々に救い神として祟(あが)められた松岡萬命をお祀りする池主霊社(通称、松岡神社)が鎮座している。
この地大原一帯の水田二百町歩余りは、古くから大池の水を灌漑用水の唯一の水源として生活をたてていた。
ところが、江戸時代末期から水田造成の気運が盛んになるにつれて、大池を干拓、水田化して一儲けしようとたくらむ利権屋が相次いでやって来て、農民の生活をおびやかした。旧幕時代だけで前後少なくとも四回あった干拓出願は、その都度必至の陳情でどうやら食い止められ、いくらか大池はせばめられたが最低の水田用水は確保することが出来た。
維新後も勧業殖産という明治政府の方針に従い、この池に目をつける利権屋が少なくなかった。明治三年には静岡藩より派遣されていた見付郡役所(磐田市見付)の役人、近藤某が、嘆願書を持って干拓取止めを願い出た総代五人を郡役所に監禁するという事態が起った。途方にくれた土地の人々は、その年の十月、有徳の水利官松岡萬大人を湊村に訪ねて、中央政府への直接の訴願を持ち込んだ。
松岡萬大人は、もと徳川将軍家の旗本で、大政奉還後は徳川慶喜公に従って静岡に落ちついたが、明治政府に請れて水利官となり、湊村では護岸工事や製塩の指導に当っていた。当時三十二歳の若さであった大人は、農民の訴えを聞くと、直ちに大池に出かけて実情を調査した。そして農民たちの言い分が正しいとわかると必死の努力で中央に建言し、明治四年二月、認可が下るばかりになっていた大池干拓は御沙汰止みとなった。
農民たちの欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したのは言うまでもない。身を賭して危地から救ってくれた松岡大人に対する感謝の気持が盛り上がり、生き神様に祀ろうということになった。そして明治九年八月三十一日、池主霊社は、祭神天之水分神、国之水分神二座と、松岡萬大人の生霊を合祀して創建された。
松岡大人は、のち警視庁大警部となったが西郷南洲とも親しかったことから、明治十年西南の役を機に官を退き、余生を東京に送り明治二十四年三月十七日五十四歳で没した。
祭典は大人の生前は四月三日に行われていたが、没後は命日の三月十七日に斎行されてきた。現在は大人の生誕日に当たる四月十七日に執り行われている≫
   
実は松岡神社はもう一カ所存在している。『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』(大石貞男著)に「松岡神社・池主霊社縁起」が記されている。
 ≪志太郡岡部町(現・藤枝市)の宇津谷峠に近い部落に廻沢(めぐりさわ)という部落がある。周囲は山にかこまれ、みかんと茶と林産物で農業を営む平和な山村であるが、ここの飛龍神社の境内に松岡神社が独立して建てられている≫
 松岡神社が建立された背景には、明治初年から実施された当時の土地改革があった。明治7年から始められた林野の官民有地区区分は、林野を①国有林、御料林 ②地主所有林、③共同体所有林の三つに分け、明治14年ころからは入会地の整理が始められ、入会権をめぐって農民騒動などが発生していくなかで、岡部町の土地権問題も発生した。

 ≪廻沢村は当時二十一戸の小部落であったが、隣接の岡部宿とともに小廻沢の山林の所有権をめぐって争いがつづいていた。数カ月の間、はげしく争い、時には部落の人々は人質として監禁せられたこともしばしばであり、岡部宿は三百余戸もあるのに比し、この部落は少数できわめて無力であったので、大勢は相手方に有利に傾いてしまった。
そして最後の手段として、静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡萬に陳情することになった。
 そのために、まず、もと部落に住んでいた静岡市の伝馬町滞留の勧農係官であった小沢留造という浪士の手を経て松岡に窮状を訴えた。
松岡は事情をたずねたのち、直ちに現地に赴くことを承諾し、岡部宿の肴屋旅館に投宿して事情聴取や現地調査を行った。そして小廻沢地帯は、廻沢部落が六十両を示談金として支払い、土地は廻沢のものとするという裁断を下し、両者はこれに同意して解決したのである。
 このことによって廻沢部落の生計は維持せられるようになり、村民たちは子孫に対しても誇りとし、伝承として長く伝えるべきあることを痛感したので、松岡神社建立を決するに至ったものである。
 

祭祀の年月は必ずしも判明していなかったが、松岡家に保存せられていた次の松岡日記により明治三年十月と分かった。
『明治三年うるふ十月表方「松岡萬古道幸魂」、裏方「天朝明治三年閏十月鎮千此社」右の如く相認め廻沢の民に与ふ。執筆者久保先生相願申候』
松岡神社建立に当たって松岡家から秘蔵の遺品三十二点が奉納され、現在まで残っているが、松岡萬愛蔵の刀を始め、将軍家の書簡、頼山陽、蜀山人、江川太郎左衛門など歴史的著名な人物の書も多い。昭和三十二年十月この神社は改築せられ、祭日は十月十七日に行われる。なお、その日にうたわれた御詠歌は次のようなものである。
  まつのみどりのもろともに
  そせんのおしえ  まもりつつ
  かみのおしえに  したがいて
  まつおかさまのごおんけい
  こころにちかい   わするまじ
  ひりゅうじんじゃと  もろともに≫
 

松岡が生きながら神として祀られたことは、『おれの師匠』(小倉鉄樹著)にも書かれている。では、松岡が鉄舟の弟子になったのはどういう経緯なのか。『おれの師匠』からみてみたい。
 ≪山岡が尊皇攘夷を唱えて志士と結んでいるのを、幕府では、とうに睨んでいた。だんだん志士の勢いがつのるので、幕府では松岡に旨を含めて山岡を暗殺させようと図った。
 山岡が剣術のうまいことは松岡も承知である。然し松岡とても相当自信はあった。なに、山岡なんぞ何程のことがあるものか、と腹に一物抱いて山岡を訪ね、一仕合しようと申し込んだ。
 けれどもそれはとても山岡の相手でなかった。もろくも松岡は負けてしまった。
 「どうもおれは真剣でないと本気になれない。真剣で一つやろう」
 と松岡がいうので、それなら真剣にしようと腰の刀を抜いて差向った。松岡は辻斬を盛んにやっているので、真剣となると油が乗ったに相違ない。
 けれどもこれでもまだ山岡の相手ではなかった。「参った」と松岡は刀を引いた。
 「じゃ、一杯飲もう」と山岡が先に立って奥――といっても小石川鷹匠町の例のあばら家だが――へ行って一杯飲みだした。然し松岡はとんと酒がうまくない。一撃の下に山岡を斬って捨てようと思って来たのが此の様じゃ、みっともなくて帰って会わせる顔がない。なんとかして山岡を殺さなくちゃ使命が果されぬと思い煩った。ふと松岡は、
 「おれは実は撃剣はそううまくないのだ。柔術の方が得意なのだ。いい手があるのだが、おまえに一つ伝授しようか」と云った。
 「そうか。そんないい手なら教わって置こう」
 と山岡が、云うので「しめた」と松岡は山岡の背後に回って、山岡を羽交い絞めにかけた。勿論これで山岡を殺してしまう決心なので、満身の力を込めて、うんと絞めたので、松岡の双腕はぎっしり山岡の首にからんで、正に山岡の首は折れるかと見えた。
 このさまを座にいた中條金之助が見て承知しない。
 「この野郎、山岡を殺しにかかったな」
 とひどく怒って、松岡を斬ってしまうと青筋立てて立ちあがった。
 中條のただならぬ気色に、覚えず松岡が手を緩めた。その手を山岡が払い除け、怒る様子もなく「飲め」と酒杯を松岡に差した。
 松岡は山岡に双手を払われた時、瞬間に身構えて山岡の仕返しに備えたが、案に外れた山岡の態度に気が抜けた。と同時に重ね々々の失敗がひどく恥しくなって「これは到底おれの相手じゃない」と心から参ってしまった。そこで「実はおれはあなたを殺しに来たのである」とすっかり打ちあけた。
 「まぁいい、飲め」
 と山岡はとんと平気である。そこで松岡は志を翻して山岡に従って国事に奔走する気になり「どうかおれを捨てずにくれ!」と頼んだ。是に於いて山岡も、
 「よし、それじゃ一つおまえと約束しょう」
 と、これから山岡の発意で、降っても照っても毎日屹と山岡のところへ稽古に来ることした。そして、若し山岡が稽古を休むことがあったら、松岡は木剣で山岡を打ち据え、松岡が休んだら山岡が叩きつける約束をした。
 こうして松岡は山岡と別れたが、それからは雨が降っても、風が吹いても欠かさず山岡のところへ稽古に来た≫
 

松岡にはさらに面白い話を、続いて『おれの師匠』から紹介したい。
≪山岡が宮内省を退いた時、松岡は要路の人の不明を慨し、山岡如き誠忠無二の男を君側から離すというのは不都合だというので、短刀を懐にして、岩倉さんを訪ねた。岩倉さんを刺殺して自分も死ぬ覚悟なのである。
 流石は岩倉さん、維新以来志士や浪士の応接には幾度か生死の境を潜って来ているので、そんなことには馴れたもので、松岡の唯ならぬ気色に直ぐにそれと見抜いてしまった。そして盛んに松岡を煽り揚げてあべこべに松岡を煙に巻いてしまった。
 「君のような愛国者が居るとは岩倉具視不憫にして今日まで気がつかなかった。今は時世が時世で、どうにもならんが、どうか邦家のために身命を擲(なげう)つことを忘れないでくれたまえ」
 と美事敵の鋭鋒を奪って却て之を松岡に擬した。
 松岡は岩倉さんの知遇に感激して、すっかり逆上せて岩倉さんの許を辞去した。家に帰って二階にあがり、身辺の始末をして、自刃した。松岡では、自分が斯く潔く国家の為に身命を擲ったならば、屹度感奮して廟堂の廓清(かくせい)が図られるに違いないと、岩倉さんの言葉を勘違いしてしまったのである。
 間もなく山岡の所へ「今、松岡さんが喉を突いて自害なさいました」という知らせがあった。その時おれは二階に居たが、師匠が、
 「おい渡邊! 松岡が喉を刺したということだ。おまへ一足先に駆けつけてくれ。おれは後からすぐに行くから」
 という言葉なので、おれは直ぐさま飛び出した。松岡の家は市ヶ谷の高力松―――今、救世軍の大学になって居る所―――に在ったのだから四谷の山岡の家からは一走りであったのだ。
 行ってみると奥さんは座敷によゝと泣き崩れていてその傍らに血まみれの大刀が転がっている。
 「奥さん、渡邊です。しっかりしなさい。松岡さんは・・・?」
 泣き腫らした奥さんは声も出ず、二回を顔でしゃくりあげた。
 直ぐに二階にあがって、障子をがらり明けにかかると、中から、
 「誰だ!」
 と怒鳴った。おれは即座に「よかった、まだ死なないな」と思って、
 「渡邊だ!」
 と言いさま座敷に飛び込むと、ぷんと血の臭いがして座敷は一面の唐紅。床の間に向って松岡が座ったまま血まみれになっている。
「ヤ、渡邊君か、松岡、今日国家のため、従容として自刃した。見届けてくれ!」
「よし、見届けてやる。今、師匠もあとから直ぐに来るからしっかりしろ!」
見ると、創は首の前と後と二つあって頸の前後から、どくどくと血が脈を打って湧き出ている。取敢えず、松岡の着物の袖を引き裂いて創口を押え、おれの帯を解いて、ぐるぐるその上に巻いた。
早く師匠が来ればいいと思っていると、師匠が医者を伴れてやって来た。
「松岡さん、先生だ」
「むむ、そうか。――先生! 松岡今日国家のため従容と自・・・・。」
「馬鹿」
と大喝、師匠が、
「何が国家のためだ。ひとに迷惑かけて、国家も糞もあるか! 蹴とばすぞ」
と頭から怒鳴りつけた。
妙なもので、それまではしっかりしているように見えた松岡が、師匠に怒鳴りつけられたら、忽ちぐにゃぐにゃになってしまって、ばたりと倒れたまま昏々と眠りに落ちた。
医者がすっかり創を調べて手当てをした。創は気管の一部を切ったけれども、幸い大血管を傷つけなかったので、命には障りがないとのことで安心した。二尺四寸の大刀で、ぐっと前から後に突きたてたので、あまり刀が長過ぎて手許が外れ、斜めに頸を貫き刀の先が頸の後に出たのである≫

この自刃事件の様子から考えると、松岡は熱血漢で、行動派であることがわかる。
その後、松岡は中條金之助らと行動をともにし、静岡の牧之原開拓に従事したが、長く牧之原には止まらず、藩庁に入り、水利路程掛兼開墾方頭並となって、松岡神社に祀られたような活躍をした。
 さらに、小島(おじま)(現・静岡県清水区小島地区)の奉行をつとめた時にも、農業の奨励のために、切れ草鞋や馬ふん等を集めて、田や畑へ施すことをすすめたり、道路や橋の施設改善をはかったりして、かなりの成果を上げている。
 松岡は、施設の使役を命じる際には人夫をいたわる方法を常に講じた。例えば、安倍川に橋を建設する工事では、休息時間を設けたり、焼き芋を人夫に配り、草鞋の支給、休業日に大鍋に川魚や貝・野菜のごった煮の味噌汁をつくり、飯は大釜に芋と大根の干葉を入れた菜飯を炊いたりして与えている。この食事を人夫たちの間では安倍川の暗汁と呼んでいた。
 松岡は、明治8年には静岡を離れて東京へ行き、警視庁一等大警視として活躍し、明治23年東京下渋谷の自邸で52歳の生涯を閉じた。(参照『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』)
 

このように鉄舟の弟子が神に祀られているのに、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。

 

2019年11月29日 (金)

神にならなかった鉄舟・・・その三

前号でお伝えした白河市の「合同慰霊祭」の翌日、平成30(2018)715日は、群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺に向かった。東善寺は小栗上野介の墓所である。

小栗上野介は、安政7年(1860)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球一周に近い旅をして帰国。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行った。

鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首された。

逮捕の理由として、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠Photo_20191129104501 Photo_20191129104501 は現在まで出てきていない。

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(東善寺・小栗父子の墓)

東善寺では村上泰賢住職にいろいろご教示賜った。特にインパクト強く主張されたのは「近年、テレビや映画で勝海舟が咸臨丸で活躍する画面が出て来なくなった」ということであった。

これは「昭和36(1961)に『万延元年遣米使節史料集成』(7巻、日米修好通商百年記念行事運営会・編、風間書房)の第5巻に収められたことから、咸臨丸の実態が知られて、戦前の修身教科書による「勝海舟と咸臨丸」の勇ましいイメージが崩れた」というお話。

関連する内容が東善寺のホームページ「小栗上野介関連の人物紹介・ブルック大尉」で掲載されているので、引用紹介したい。

1860年、友好の印として、アメリカは蒸気船ポーハタン号Powhatanを提供して、日本が最初の使節団をワシントンに送るための手助けを申し出た。使節団は、少し前に駐日公使タウンゼント・ハリスと徳川幕府との間で調印された通商条約を批准するのが目的であった。徳川幕府は返礼の気持ちで(あるいは、習得した航海知識を披露したいために)、オランダから購入したばかりの自国の軍艦、咸臨丸を使節の護衛船としてサンフランシスコまで行かせることを決定した。

日本人乗組員は、航海士も船員も訓練が十分ではなかったため、徳川幕府はアメリカ人の海軍将校を咸臨丸に任命するよう依頼した。アメリカの東インド艦隊の司令官、ジョシュア・タットノール准将 Josiah Tattnall は、天文学者、水路学者として長い経験を持つジョン・マーサー・ブルック大尉を選んだ≫

≪ブルックは打診されたアメリカへの航海任務を喜んで受け入れた。そして、出航への最終準備をしているときにジョン万次郎に出会った。万次郎は難破船に乗り合わせた人間としてはブルックの先輩ということになる。万次郎は、公式通訳として咸臨丸に任命されていて、二人は長時間にわたって打ち合わせをしているが、その内容についてはブルック大尉の日誌に詳述されている。

ブルックの日誌は「死後50年間公開しない」という遺言によって公表されることなく、ブルックの孫に当たるジョージ・M・ブルック・ジュニア博士(バージニア州立軍人養成大学の歴史学教授)が保管してきた。しかし、1960年、日米友好通商100周年記念協会に提供され、日本で「万延元年遣米使節史料集成第五巻」として刊行された。

18601月の中旬、咸臨丸とポーハタン号は江戸港からアメリカに向けて出航した。さほどの日数がたたないうちにブルック大尉の日誌には、咸臨丸の日本人乗組員たちについて、訓練がよくできていないことだけでなく、(仕事に対する)無気力さについての不満が書き込まれることになった。しかし、ただ一人、ジョン万次郎にだけはブルックも尊敬の念を持ち続けた。そんな状況ではあったが、不安な気持ちの中にも、ブルックは日本人の生来の能力がなんとか安全に航海をやり遂げるだろうと信じていた。

しかし、ブルックにとって計算外だったのは、日本人乗組員が本当に気まぐれだということだった。出航後、ほどなくして二隻の船は台風に見舞われた。ポーハタン号に乗船していた経験豊かな航海士が「太平洋上で遭遇した最悪の嵐」と言うほどのものだった。

しかも、悪いことに咸臨丸の艦長(勝海舟)は船酔いでまったく指揮が取れなくなってしまった。そのため、ブルックが代わって指揮を取らざるを得ない。しかし、さいわいだったのは、ブルックが航海士として経験豊かな万次郎を頼りにできたことだった。ブルックと万次郎の二人と、難破したフェニモア・クーパー号からのアメリカ人乗組員たちがいなかったら、咸臨丸はとっくに沈没していたかもしれないのだ≫

ところが勝海舟は『氷川清話・日本海軍の基礎』で次のように述べている。

≪また万延年間に、おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行ったのは、日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ。咸臨丸は、オランダで製造した船だ≫

ブルックの咸臨丸日記とはまったく異なる記述内容だが、これについて『勝海舟の罠』(水野靖夫著 毎日ワンズ)は以下のように論説している

≪「外国人の手は少しも借らないで」というのは大ウソで、咸臨丸には日本人だけでなく、ブルック海軍大尉以下11名のアメリカ人水兵が乗り組んでいた。勝部真長氏は『勝海舟』に、「ブルック大尉の公開日記は、日本人初の太平洋横断なるものが実は名目的なもので、ブルック以下11名の米人乗組員の助力なしにはほとんど不可能であったことを証明するものである」と書いている。つまり日本人の力だけで航海したというのは、ホラ話と言うか自慢話なのである≫

さすが海舟だけのことはある。事実を簡単に曲げて、自己中心にしてしまう。

だが、ここで疑問が生じる。手許にある『氷川清話』(勝海舟全集21 講談社)は昭和48(1973)に出版されている。

ということは、この『氷川清話』が出版された時は、既に「昭和36(1961)に『遣米使節史料集成』が発刊されて12年経過しているのであるから、ブルック大尉の「咸臨丸日記」に基づき『氷川清話』の咸臨丸に関する記述・発言内容は訂正されるか、または、問題点ありと注記されるべきではないか。

仮に本当に海舟が≪おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行った≫と発言していたとしたら、海舟は大嘘つきになってしまう。

海舟は、世に喧伝されているように江戸無血開城の功労者で、明治維新への道筋を開拓した人物である。この海舟が嘘つきだとしたら、維新の功労者は信用できない人物に成り下がってしまい、江戸無血開城にも傷がつくだろう。

実は『氷川清話』の記述は、一般的に論じられているように、咸臨丸の事例のように、多くの誤謬や誤りがある。

『氷川清話』は、晩年の海舟のところに出入りしていた吉本襄が、海舟から聞いた話と、他の多くの人々の手によって新聞や雑誌に発表された海舟談話を、吉本が明治30(1897)11月『海舟先生氷川清話』として発行、これが非常に好評であったので、気を良くした吉本は翌31(1898)に『続海舟先生氷川清話』を、さらに同年11月には『続々海舟先生氷川清話』を発行している。いずれも、海舟生存中のことである。

したがって、記述の責任は勿論、全て吉本襄にあるが、史実に照らし、明らかに誤りである箇所は、後世の識者が訂正する必要があるだろう。

勝海舟全集刊行会の代表は文芸評論家の故・江藤淳氏であるが、江藤氏ほどの知識人がブルック大尉の「咸臨丸日記」を知らないわけはない。

是非共、妥当な『氷川清話』にして欲しいものである。

 

ここで再び東善寺に戻りたい。

小栗父子の墓の手前に、二人の胸像が立っている。2

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左が小栗、右が栗本鋤(じょ)雲(うん)である。栗本は小栗家の屋敷内を借り開いていた安積艮斎塾に入り、小栗と知り合い生涯の盟友となり、横須賀製鉄所(造船所)建設の現地責任者を命じられた。

東善寺のホームページ「栗本鋤雲の事績」によると、≪ヴェルニーを上海より呼び寄せて総裁とし、横須賀湾にツーロン製鉄所の3分の2の規模として、製鉄所1ヶ所、ドック大小2ケ所、造船場3ヶ所、武器廠共に4年で完成する。費用はおよそ1年60万ドル、4年で総計240万ドルを要することを契約した≫とある。

小栗の胸像は、神奈川県横須賀市汐入町のヴェルニー公園内の開明広場にもある。この公園はフランス庭園様式を取り入れた造りで、対岸にフランス人技師ヴェルニーが建設に貢献した横須賀製鉄所が望め、ヴェルニー・小栗祭りとして二人の功績をたたえる式典も毎年開催されている。

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胸像の説明として以下が書かれている。

「日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと横須賀製鉄所(造船所)建設を推進しました。軍政の改革、フランス語学校の設立など日本の近代化に大きく貢献したが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解かれ、領地の上野国権田村(群馬県倉渕村)で官軍により斬首された」

横須賀市内にある小栗の胸像はこれだけでない。「横須賀市自然・人文博物館」(神奈川県横須賀市深田台)入口前にもあり、さらに同博物館の人文館2展示室「1719世紀の和洋船と浦賀」にも、以下の記述とともに胸像が設置されている。

≪海を切り拓いた人々として、安針塚駅で知られるウィリアム・アダムス、横須賀製鉄所を成功に導いた小栗上野介忠順とフランソワ・レオンス・ヴェルニーの胸像を入り口に展示して、皆様をお出迎えしています≫

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さらに、「横須賀市自然・人文博物館」に隣接している「横須賀市中央公園」にも小栗の胸像が設置されている。

このように小栗の胸像はいくつも存在することからわかるのは、横須賀市が小栗の業績を高く評価していることである。

小栗についてヴェルニー公園の事務所でもらった小冊子『小栗上野介と横須賀』に以下のように業績が書かれている。

≪「日米修好通商条約」が調印され、翌年この批准書の交換がアメリカで行われることになり、幕府はその使節団を送り込むことになりました。当初、幕府が決めていた人たちがさまざまな理由で行かれなくなり、9月になって正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗正順と決まりました。

新見や村垣はすでに幕府の要職にありましたが、小栗は大抜擢といってよいでしょう。小栗はこの拝命の前日に幕府の目付に任命され、さらにこの年の11月豊後守に叙せられました≫

写真は、ワシントン海軍造船所における遣米使節団一行で、前列右から二人目が小栗である。

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≪この大抜擢の陰で、小栗には一つの大きな密命が課せられました。それは通貨の交換比率の不公平を是正することでした。当時、「日米修好通商条約」により、諸外国の貨幣は日本の貨幣と「同種同量」をもって通用すると決められ、例えば「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という交換比率でした。ところが、金と銀の交換比率は、海外では金の価格が日本よりも3倍も高いものでした。この比価の違いが、日本からの金(金貨)の大量流出を招いていたのでした≫

≪小栗は、フィラデルフィアの造幣局の一室で、日米貨幣の金含有量をそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し、周囲を驚かせるとともに、こうした不公平さをアメリカ側に納得させたのでした。

これで小栗のアメリカ側の評価が一躍高まります。それまでの目付を直訳した「スパイ」から、小柄ではあるが威厳と知性と信念が不思議に混ざっている男として、また「NO」をはっきり言える人として見直されたのでした≫

しかし、小栗はアメリカ側に金貨(小判)の価値は認めさせることができたものの、是正交渉の権限は遣米使節に与えられておらず、アメリカ側もそのような交渉はなるべく避けたい意向が働いて、本格的な是正交渉にまでは至らなかったが、小栗の鋭い思考を持つ人物だと評価できる。

さらに『小栗上野介と横須賀』は小栗の功績を以下のようにまとめている。

≪小栗は横須賀製鉄所のほかにも、鉄道建設(江戸~横浜間)、国立銀行、電信・郵便制度、郡県制度の創設や、また商工会議所や株式会社組織など近代的な経営方法をも発案していました。

これらは明治以降、新政府の手で次々に実現され、急速に近代国家としての形を整えていきましたが、その陰には小栗が旧弊を打破し、近代国家に向けて推進しようとしていたことが、浸透し始めていたことを忘れてはなりません≫

≪明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。

現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています≫

この讃えた結果が、横須賀市内にいくつもある小栗の胸像なのである。

これは小栗の死が「祟る」と考えて胸像化したのではなく、明らかに製鉄所建設を推進した行為に対する「顕彰」として作られたのであろう。

近代以前、特定の人物を神に祀り上げるという習俗には、二つの類型があって、一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプであると『神になった人々』(小松和彦著、知恵の森文庫)は述べ、次のように解説する。

 ≪「祟り神」タイプは古代から現代まで連綿として続くもので、祟る者の「たましい」を神社などの信仰施設を作って、そこに「神」として祀り上げることで、その祟りを鎮めようとしたものである。

 これに対して、「顕彰神」の方は、比較的新しいタイプで、中世末から近世初頭あたりに始まった信仰形態で、天寿をまっとうした者であれ、不慮の事故などで人生半ばで亡くなった者であれ、その生前の偉業を顕彰し後世に伝えたいという思いから、神社などの信仰施設を作ってその人の「たましい」を神に祀り上げたのである。

 前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプのそれは徳川家康を祀った「東照宮」である≫

 「顕彰神」タイプは「人神神社」で、これは近世以降に生み出されたものがほとんどで、為政者だけでなく、民衆の側からも建立されているので、その数も多い。

 『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社 1981年出版)には、民衆からその偉業を称えられ、その記念・記憶のために神として祀られた人物を祭神とする120社におよぶ大小の神社が紹介されている。また、神社本庁の「人臣神社」(人を神として祀った神社)の調査によれば、全国に四千にも及ぶ人を神に祀った大小の神社があるという。

小栗を「顕彰神」として、横須賀市は胸像を建てたが、『小栗上野介と横須賀』に記されたように、その功績は日本全体の近代化に大きく貢献しているし、司馬遼太郎も「明治という国家」(NHKブックス)の中で、小栗を「明治の父」と讃えている。

 ならば小栗の生前の偉業を顕彰するためには、横須賀市に止まるのではなく、日本国家としての「顕彰神」にすべきではないか。

 しかし、現実は一地方行政下での功績扱いにとどまっているが、鉄舟と比較すると胸像によって「顕彰神」になっているだけ「まし」である。

 鉄舟の2大功績は「江戸無血開城」と「明治天皇の教育」であるが、現状としては全国的な「顕彰神」として祀られていない。なぜなのか。これについても次号以降も検討していきたい。

2019年9月25日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その一

昭和20年(1945)8月15日の玉音放送、始めて聞いた昭和天皇の肉声によって、その意味する敗戦の事実を知った日本国民は、ショックで一瞬にして虚脱状態に陥り、町中異常な静けさに覆われたことを、当時まだ幼子だった筆者は、心に確り強く記憶している。

これと同様の悲哀を江戸市民も今から150年前に味わった。今まで将軍様より偉い人は知らなかった江戸っ子にとって、京に天子様がいるなぞということは、ずっと長い間意味のない存在だった。

その身近で最も偉い将軍様であった十五代将軍・徳川慶喜が、突然大坂から戻ってきて、江戸城で喧々諤々の大評定をしていると思っていたら、突然、上野の山に隠れてしまって、代わりに京の天子様の命令で、薩長の輩が官軍という名分で江戸城に攻めてくるという。

官軍に攻撃されると江戸市中は火の海になって、壊滅するかもしれない。店や住まいが燃えてしまう。これは大変だ。どうしたらよいのか。町中大騒ぎになって、ただ右往左往、今まで考えたこともなかった事態で、混乱の極に陥ったが、山岡鉄舟が駿府に赴き、西郷隆盛と談判、江戸無血開城が成り立ち、江戸は火の海にならずに済んだ。

その鉄舟登場について、歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎(1906~75)が、『山岡鉄舟・日本史探訪・第十集』(角川書店)で次のように述べている。
≪山岡鉄舟先生は、江戸城総攻めの始末がついてからのち、それでなくとも忙しいからだを、つとめて人に会うようになすった。それも庶民階級、まあ、出入りの植木屋さんから大工さん、畳屋さんから相撲取りから、話し家、役者、あらゆる階級の人たちに会って、鉄舟さんのおっしゃった言葉は「おまえたちが今、右往左往したってどうにもならない。たいへんな時なんだけれども、いちばんかんじんなことは、おまえたちが自分の稼業に励み、役者は舞台を努め、左官屋は壁を塗っていればよいのだ。あわてることはない。自分の稼業に励めばまちがいないんだ」と言うのです。このいちばん何でもないことを言ってくださったのが、山岡鉄舟先生で、これはたいへんなことだと思うんです。
今度の戦争が済んだ終戦後に、われわれ芝居をやっている者は、進駐軍がやってきて、これから歌舞伎がどうなるかわからなかった。そのような時に、私たちに山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでしたね≫

さすがに歌舞伎界の故事、先達の芸風に詳しく、生き字引と言われ、随筆集『戯場戯語』(中央公論新社1968年)で第17回日本エッセイストクラブ賞を受賞している八代目坂東三津五郎である。

鉄舟についても詳しい。それもそのはずで「慶喜命乞い」の芝居を演じた際に鉄舟を随分研究している。前述の『日本史探訪・第十集』は、当時の鉄舟研究の第一人者である大森曹玄先生との対談で語られたものであるが、鉄舟の子ども時代から江戸無血開城の経緯、明治天皇の侍従時代、さらに剣・禅・書についても詳しくふれている。さすがに人間国宝と認定された人物である。

しかし、八代目が「山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでした」と述べたが、実際には同様のことを発言した人物はいたはず。日本人はそれほど愚かではない。敗戦と言う事実に直面し、混乱している殆どの人たちの中にあって、冷静に明日以降の日本について考察した人物が日本各地でいたと思う。

だが、鉄舟と同様のことを述べたとしても、周囲に与えた影響力という点で、鉄舟とは比較にならない程度にとどまったのであろう。鉄舟ほど一般大衆に対して大きな感化力を持つ傑人が、敗戦直後の日本には存在しなかった。仮にいたとしても人間の器が違っていたと推察する。

180度転換する価値観激変社会状況下にあって、一般大衆に、それぞれが持つ自らの仕事と関係付けて、分かりやすい言葉をもって語りかけ、それが素直に納得され、受け入れられていくように教え諭しができる人物が本物ではないかと思うが、そのような傑物がいなかったという事実を八代目が述べたのだと思う。つまり、鉄舟の偉大さを語るために8月15日と江戸無血開城をつなげて語ったのだ。

なお、八代目三津五郎は美食家としても有名だったが、昭和50年(1975)1月16日 京都南座の初春興行『お吟さま』に出演中、好物のトラフグの肝による中毒で68歳急死した。

この急死は、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず例に挙げられるようになるほどの大事件だった。この事件は、危険を承知の上で毒性の高い肝を実に四人前も平らげた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っているはずの板前の包丁捌きがいけなかったのかで、従前にはなかった大論争を引き起こしたことでも名高い。
法廷では、「もう一皿、もう一皿」とせがむ三津五郎に板前が渋々料理を出したことが争点となった。当時はまだフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったが、結局この事件では「渋った」板前が調理を「しくじった」ことに変わりはないとして、業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出て、世間を騒がせた。

だが、このように日頃からあらゆる美食を楽しんでいたが、庶民の味には疎かったらしく、孫の十代目三津五郎がまだ少年だった頃、一緒にはじめて札幌ラーメンを食べて、「世の中にはこのような美味い物があるのか」と驚いていたという。

平成30年(2018)7月の日本経済新聞『私の履歴書』連載は歌舞伎俳優の中村吉右衛門で、その中で歌舞伎は戦時中も受難したとある。終戦の前年である昭和19年(1944)に、決戦の非常措置で「高級享楽」とされた歌舞伎座など大劇場は閉鎖され、終戦後も進駐軍が、「歌舞伎が日本人の封建的忠誠心を助長する」として、仇討ち物を中心に時代物の多くを上演禁止としている。

この状況下、八代目坂東三津五郎も歌舞伎の先行きに危機感を持ち、こういう時に鉄舟のような存在がいれば・・・・と希ったのであろうが、言葉を代えて述べれば、この現象は「神様・仏様」の到来を祈願したわけで、困ったときの神だよりであろう。

ところで現在は「御朱印ガール」ともいわれる御朱印ブームとなっている。このはじまりは、1990年代から霊的な力が満ちている場所とされる「パワースポット」を訪れるブームが徐々に高まり、今では「パワースポットめぐり」はすっかり一つのアクティビティとして定着した感があるが、そのようなパワースポットの一つである神社や寺院を訪れ、御朱印を集める「御朱印ガール」が急増している。
筆者の知人女性にも「御朱印ガール」がいて、先日、集めている御朱印帳写真を参考までに送ってもらったが、確かにブームと感じる。
 
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 御朱印とは、神社や寺院が実施している参拝者向けの押印である。僧侶や神職が寺院・神社やご本尊の名称・日付などを墨書することが多く、それを収集する女性が増えていて、神社や寺院に行くと「御朱印はこちら」といった看板を立てているところもあり、目にしたことがある人も多いだろう。

先日、明治神宮に参拝したが、やはり御朱印を頂くところに多くの人がいる。本来、御朱印は納経した証しとして頂くものだったといわれているが、現在では無料もしくは300円ほどで書いてもらえる気軽さもあり、「御朱印帳」を持ち歩いて集めている人が増えている。実際、多くの寺社では10年前に比べて御朱印を求める女性が5~10倍に増えているともいわれている。

御朱印は江戸時代に始まり、元は巡礼の際に納経した証しとして授与されていたようで、明治以降、納経なしでも参拝したことでいただけるようになり、参拝記念となって、御朱印が参拝記念として注目され始めたのはここ数年のこと。

巡礼をするのは今まで高齢者が多かったが、パワースポット巡りのブームから若年層や女性にも人気が広がって、女性に受けるようなオシャレで可愛い御朱印帳も登場してきた。現在では御朱印の種類も増え、お花や紅葉の印が押されていたり、カラフルな色紙が登場したりと、御朱印そのものが女性向けになってきたような感もする。

コレクションするという意味では男性ファンも多い御朱印だが、女性の巡り方には特徴があるようだ。ハマりだすとどんどん欲しくなり、居住地の近くだけでなく“御朱印をいただくための旅”がしたくなってくる。

ひとりで黙々と御朱印集めだけに専念しがちなコレクタータイプの男性に対して、同じ趣味の友人と御朱印談義をしながら巡るのが“御朱印ガール”。目的は御朱印だけでなく、その土地の名物を食べたり買い物したり、美しい花や景色を堪能したりして“癒し”を感じること。日付が入った御朱印を旅の記録とする傾向があるのも女子ならではのこと。

女性の参拝者が目立つようになってからは、御朱印帳だけでなく、お守りなどの授与品も華やかになり、寺社が集まるエリアにはおしゃれなカフェも登場。寺社参拝だけでない楽しみがある場所に女性は集まってくる。
新しい旅のスタイルとして定着し始めた御朱印巡り。外国人観光客が納経所に並ぶ姿も見られるようになって、漢字が好きな外国人にとって、墨で書かれたダイナミックな筆遣いの御朱印はお土産にピッタリ。

仏教から始まった御朱印だが、インドや中国にはないという。キリスト教では巡礼した教会でスタンプを押すというところもあるらしいが、墨で書かれるということはもちろんない。台湾に西国三十三カ所巡礼を模した巡礼があるようだが、これは日本人が持ち出したもの。つまり、御朱印は日本独自の文化である。

見た目のアーティスティックさだけでなく、日本の伝統をさらに深く知りたくなって興味を持つ。最近は、修学旅行生や小学生までもが御朱印収集している姿を見かけるようになってきた。女性だけでなく世代を超えて、人種を超えて注目が集まる御朱印の人気はまだまだ続くだろう。
このような御朱印ブーム、それはお寺や神社が存在するからであるが、ここでは神社に絞って考えてみたい。

いったい神社に祀られている神様とはどういう存在なのだろうか。それを定義しておかないと、本稿の「神にならなかった鉄舟」は進まない。
実は、本居宣(もとおりより)長(なが)が神を定義している。『神道の逆襲』(菅野覚明著)を参照してみてみよう。
≪本居宣長(1730~1801)の定義はこうである。「さて凡て迦微(かみ)とは、古(いにしえ)御典(のみふみ)等(ども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐(ます)御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり。)」(『古事記伝』三之巻)
宣長のいうところは、それが人であれ、動植物であれ、自然現象であれ、ともかくもそのものが、私たちにとって「可畏き物」、すなわち身の毛もよだつような異様なものとして出会われれば、それが神だということである。この定義は、今日私たちが、名人・達人・奇人・変人の類を「~の神様」と呼んではばからない、日本語の「カミ」という言葉のニュアンスをよく言い当てている≫

≪人々は確実に神のおとずれを知ることができた。というのは、神さまがやって来る時には、必ず何らの仕方でそのことを示し現すものであるという共通了解が、人々の間にあったからである。神さまが自らを何かの形にあらわすことは、古来「たたり」と呼ばれてきた。今日では、たたりといえば何か悪しき霊のもたらす災いとばかり考えられているが、もともとは、神さまがその威力をあらわすこと一般をさしている。「たたり」という語も、「虹がたつ」などというときの「たつ」、つまり、「あらわれる」という意味の「たつ」と関係があるとも言われている。
そういうわけで、神さまの出現(たたり)には、さまざまな形がありえた。しかし、とくに顕著なのは、やはり何といっても、地震・噴火・豪雨・落雷・疫病といった災害・災厄の類であった。そうした大規模な災いと共にあらわれる神さまの威力は特に絶大なものと感じられたから、その経験は多くの人の記憶に深い印象を残したとみられるのである≫

八代目坂東三津五郎は、敗戦という未曾有の出来事に遭遇し、助けてくれる神様が顕れることを期待し、出て来るならば鉄舟のような人物がほしい、と名指したのであろう。

なお、人を神に祀る習俗には二つあるという。一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」である。

「祟り神」タイプは中世以前の人を神に祀った神社に多く、「顕彰神」タイプは「人神神社」で近世以降につくられており、為政者が創建したものばかりでなく、民衆の側から積極的に建立されている。(参照 『神になった人々』小松和彦著)

だが、鉄舟は江戸無血開城という偉大な業績を遺したのに、どこにも「鉄舟神社」は存在しない。その疑問持ちつつ、神の検討を次号でも続けたい。

鉄舟から影響受けた円朝・・・その二十二

実は、鉄舟が禅修行に本気に取り組みだしたのは、清川八郎との因縁からといえる。

鉄舟と同じく虎尾の会の発起人である清川が暗殺されたのは文久3年(1863)4月13日、その日、麻布の出羽3万石上山藩上屋敷を退去し、屋敷前の一の橋を渡り、大和郡山藩15万石下屋敷の前に差し掛かったところで刺客に襲われ命を落とした。享年わずか34。

その翌日、幕府は関係者処分の一環として、高橋泥舟と鉄舟を御役御免の上蟄居とした。高橋泥舟に謹慎宥免の沙汰が下りたのは、文久3年12月10日で「二の丸留守居役席、槍術師範を命ず」と元の職務に復帰し、続いて12月25日鉄舟にも謹慎宥免の沙汰が下った。

この謹慎の日々は、剣を振うこともできず、一室に座り、座る目の前には書見台があるのみ。そういう環境に陥って、書見台を稽古相手として集中し没頭していくと、自然に今までの人生を問い質すことにつながり、己の奥底には何が存在しているのだろうかという問いになり、結果として「やはり自分が向かう道は剣だ」と改めて確認できたのである。

ところで鉄舟は、清川をどのように思っていたか。石井宗吉氏(元明治大学教授)が『明治宮廷秘話』(弁論53 昭和27年)で、鉄舟の娘から聞いた話として次のように書いている。
≪山岡鉄舟は、いま上野谷中の禅寺全生庵に眠っている。彼が世に在りし日の愛娘、一老女がつい先年まで、この寺の境内に庵室を構えて父の墓守をしていた。わたしは、いくたびかそこを訪ねては、よく昔話をきいたものである。老婦人は、すでに八十に近い齢であったが、しっかりした口の達者な人で、わたしと感興にのっては、語り合い、秋の日の傾くのをわすれることもあった。
鉄舟の恩顧をうけたもの、また親しく交わったものは、数多いが、その中で、父の話としてごく印象にのこっているのは、清水次郎長と清川八郎のことであるといって、老女はよくこの二人の話をしたものである≫

この老女が、鉄舟の長女・松子さんか、三女の島子さんであるかは不明だが、全生庵の庵にお二人が住んでいたことは事実である。
石井氏が、清川が無礼な振舞いをする町人を斬ったときの腕のすごさについて、
≪伊藤痴遊 (注 明治、大正、昭和初期に活躍した講釈師)はこういっています・・・無礼もの! という声と共に其奴の首は鞠を投げたように傍らの瀬戸物屋にとび込み、ガチャンと音がして、棚にある皿の上にのった。これ全くの腕の冴えである。・・・」
と話すと、老女は声をあげて笑った。「それは痴遊さんの作り話ですよ」といって、実際はこうであったと話し出す。それがまた振るっている。
「清川が、エッと叫んで斬り下げる。町人風の男は真二つになって、その片身がかたわらの建具屋の店先に入った・・・」
これも、大分勢いがつきすぎている≫

この話、鉄舟は清川と関係が深かったことを裏づけるものであろうが、清川が暗殺されたことから謹慎宥免となり、一室に籠って思考し続けた結果「己は剣の道だ」と改めて気づき、高山以来の師である井上清虎の導きにより、小野派一刀流の浅利又七郎と出会えたのである。

鉄舟と立ち合った当時、浅利は四十二歳の男盛りであった。
鉄舟と浅利の立ち合い、浅利が下段につけて構え、鉄舟は正眼に構え、得意の突きで打ち込もうとした、その瞬間、浅利の竹刀の先がさっと上り、鉄舟の喉元に向けられ、その形のままに、浅利は、
「突き・・・」
と言った。
実際に突きを受けたわけでない。だが、鉄舟は一歩も前に出られなくなっていた。喉元に竹刀が食らいついていて、切っ先を外そうと右に回ると、右についてくる。左に避ければ左についてくる。後ろに退くと、またもぴったりついてくる。
いつの間にか、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない。
「参った」
鉄舟が叫んだ。

面当てを取ると、実際には竹刀が全く当たっていないのに、喉首が激しい突きを喰ったかのように痛む。
これは、到底、自分なぞが敵う相手でない。20歳で山岡静山に完膚なき敗北を期して以来の完敗である。上には上があるものだ。鉄舟は完全に頭を下げ、
「弟子にしていただきたく、入門をお許し願います」
と、浅利道場に通うことになったが、その後もどうしても勝てない。浅利が大きな壁として聳え立ち、それを克服するためには何をしたらよいのか。

人は悩んだ時、相談する相手は、やはり信頼する人物になる。今まで鉄舟が最も敬愛した師は山岡静山、その弟で義兄となる高橋泥舟は隣家に住んでいて、静山亡き後の最も近しく親しい仲であり、何事も話せる。ある日、苦しい胸中を、正直に伝えてみた。
「義兄上、どうした訳でしょう」
「うーむ。鉄さんがそれほどになるのだから、浅利又七郎は本物だ」
「自分の何かが、欠けているのだと思っているのですが」
「剣の技を磨くだけでは無理かもしれない」
「剣の稽古だけではダメということですか」
「そう思う。心の修行で立ち合うしかないだろう」
「そうですか。そうか・・・。やはり修禅によって立ち向かうしかないのか」

鉄舟は頷き、なるほどと思い、今までの禅修行を思い起こし、剣に比べ、追究が甘く未だしだったこと、それが、浅利を打ち崩せない理由だとすぐに飲み込む。

こういうところが鉄舟という人物の素晴らしさである。気づきが素直で、問題解決に向かって決して逃げず、前向きに対応する。

以後、鉄舟の禅修行は明治13年(1880)まで続き、大悟へのきっかけをつかんだのは、平沼銀行を設立した豪商の平沼専蔵のビジネス体験話からであり、それを一言でまとめれば、「損得にこだわったら、物事は返ってうまくいかないという、心の機微を実践の中から学び、この実践を通して事業を成功させた」というものであった。

これに鉄舟は深く頷き、「専蔵、お主は禅の極意を話している」というと同時に「解けた」と叫んだのである。
平沼専蔵からヒントを受け、それから5日間、昼は道場で、夜は自室で座禅三昧に明け暮れた。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。
肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった3月29日の夜、ふっと三昧からわれに帰ると、ホンの一瞬かと思ったのに、すでに夜は明けなんとする頃になっている。気持はいつになく爽やかで、清々しく、すっきりしている。

鉄舟は座ったままで、剣を構えてみた。すると、昨日まで際(きわ)やかに山のような重さで、のしかかってきた浅利又七郎の幻影が現れてこない。
「うむ、これはつかみ得たか」と頷きつつ、道場に向かい、木刀を握った。
すると、立つは己の一身、一剣のみ、浅利の姿は全く消えている。四肢は自由に伸び、気は四方に拡がって、開豁(かいかつ)無限である。
ついに浅利の幻影を追い払い、「無敵の極意」を得ることができたのだ。

この瞬間を鉄舟は次のように表現している。
「専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。時既に夜を徹して三十日払暁(ふつぎょう)とはなれり。此時、余猶坐上にありて、浅利に対し剣を振りて試合をなすの形をなせり。然るに従前と異なり、剣前更に浅利の幻身を見ず。是(ここ)に於いてか、窃(ひそか)かに喜ぶ、我れ無敵の極処を得たりと」

鉄舟が自らの剣において、極意をつかみ得た瞬間を書き述べた「剣法と禅理」の感動場面であり、この大悟によって明治13年(1880)に無刀流を開いたのである。

無刀流と称する意味を『剣術の流名を無刀流と称する訳書』(『山岡鐵舟』全生庵編)は、
「心が自由自在かつ無尽蔵」で動くことだと述べている。この無刀流極意から論じれば、尊王攘夷派であったとしても、その時代の変化、時流に基づいて行動することは可能になる。

さらに、『山岡鉄舟の武士道』(勝部真長編)で、次のようにも語っている。
≪世人はあるいは勤皇主義とか、開国主義とか、攘夷主義とか、討幕主義とか種々名づけているが、拙者は総合一括してみな勤皇というのだ。元来、わが国の人士は勤皇が本(もと)である。だからその枝葉も勤皇に違いない≫

このところを正確につかむ必要があるだろう。鉄舟は上位概念を常に考えに入れて行動しているのである。つまり、物事を解決するためには、目先の出来事や考え方を整理することが一般的だが、その前に、眼前で行動し、主張していることが「何のためにしているのか」を検討する。一度、立ち止まって、その本質を問うことをすべきと述べているのである。また、これをできる人物が時代を見通せるのだとも語っている。

鉄舟が謹慎蟄居を解かれたのが文久3年の年末、それから慶応4年(1868)3月の駿府行きまでの約4年間、鉄舟は浅利に勝つため、日夜、厳しい禅修行を続けていたが、その過程で上記の「本質を問う思考と行動」を身につけた。つまり、慶喜の命で駿府談判に赴いた駿府で西郷隆盛を納得させるだけの力量が身に備わっていた。

言いかえれば、幕末時における鉄舟の人間力が、官軍の実質的リーダーとして最強の権限者であった西郷をも、説得できるほどになっていたという意味を持つ。

その修行過程の明治10年(1877)、円朝は鉄舟に弟子入りしたのである。
明治維新当時、円朝は江戸っ子であることにこだわっていたし、同じ落語家にも政治犯として獄中死した四代目三笑亭可楽のような人物もいた。
可楽は本名を榊原謙三郎といい旗本だったが、放蕩の末、噺家となり二代三笑亭可楽の養子となって三代翁家さん馬を名のり、のちに三代朝寝坊むらくを継いだ。
豪商などの贔屓にもなったが、丸屋宇兵衛という商家の婿になり、それも間もなく離縁となって四代目三笑亭可楽を名のった。
離縁に際し、元幕臣としての血が官軍の江戸入りを見るにしのびず、抗戦の陰謀を企て、寄席の高座に爆薬を仕掛けようとした。
この計画が事前に発覚したため地方に逃れ、滝川鯉かんの名で興行しつつ日を送っていたが、再び、東京に立ち戻り浅草弁天山の火事を見物していたところを逮捕され吟味中、明治2年(1869)9月、獄中で死亡した。

可楽は獄中から円朝に一書を送り、愛弟子の夢助の将来を円朝に託した。円朝はこの要望を聞き届け、夢助を弟子に加えた。これが後に座り踊りの名手となった円三郎である。

このように新政府に歯向かう落語家もいたが、時代の感覚を鋭くとらえて、新時代の客層を取り込むことに成功する噺家もいた。その代表が、円遊の「ステテコ」、万橘の「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした派手な芸で、新しい自由な刺激の強い娯楽を求める層と合致し人気を博していた。

しかし、当然に江戸期の感覚で演ずる噺家もいるし、文明開化の姿に接していながらも、旧態を脱することのできない人々も多く、これらは新しい社会生活になじまずに悶々と過ごすことになる。

円遊、万橘の珍芸に拍手を送り、単なる娯楽として満足を示す観客層は、新しい東京人であった。

一方、伝統的な人情噺の陰影に江戸期の風俗や生活の残りを求めていたのは、旧江戸人を中心にした観客層であって、ここに焦点を当てた芸を売り物にしていたのが三代目円生であった。特に「累(かさね)の怪談」、これは元禄3年(1690)刊の『死霊解脱物語聞書』と題する勧化本(かんげぼん)、読者を仏教の教えに導くために書かれた、累の怪談噺はこれから始まったといわれ、その後、累の亡霊を登場させる類似作が歌舞伎や浄瑠璃で上演され、円朝の『真景累ヶ淵』にも引き継がれているが、それらはすべて目には見えない、先の世からの因果の図式にもとづくもので、めぐる因果の恐ろしさを感じさせるものである。

この円生、三遊派最高の名跡を受け取っていたが、次第に江戸期感覚のままで幽霊・祟りも芸を続けることと、新時代になっても自らを変えられない芸との間で悩みはじめ、とうとう神経病に追い込まれていき、明治14年(1881)8月46歳の若さで死去し、それが「9月9日付朝野新聞」で次のように報道された。
≪売り出しの落語家円生は此の程病没したるが、此の円生は義母マツの存命中、兎角不幸の仕業あり、又、其妻も似たもの夫婦の諺の如く、義母に邪見なりしゆえ、マツは、私が死ねば二人に取付くなどと云ひたることもありたる由。然るに先頃、マツが死去せし後、或る日円生夫婦の居る処へ一羽の蝶が舞込み、円生に取り付くを追い払えば、また円生に取り付き、妻が追い払えばまた円生に取り付き、離れざるより、例の疑心暗鬼にて、扨ては養母の怨念ならんと、夫より円生は神経症を発し、終に黄泉の客となり、其の後、妻も同病にて今に枕も上らぬとのこと≫

この記事は、一片の現象を書き述べたものであろうが、一方で開化の世を謳歌し、陋習、迷信を破って新時代に力強く生きていこうとする人たちが増加する反面、依然として仏教的な因果観に固執して、自己の人生を考える人も少なくなく、それが円生でもあったが、己の殻を己が破るという自己革新できない層も大勢いたのである。

円生が亡くなったのを円朝は上州で知ったという。これも幕藩体制の崩壊で旅行が解禁され、それまで自由に行けなかった地方の状況を知りたい、という人々への欲求に応えるよう円朝が取材という行動をしていたことを示している。

円朝の特性は鋭い観察力であり、時代を取り込む感性である。創作した作品を分類してみると、それがよくわかる。
「怪談噺」「伝記物」「翻案物」「芝居噺」「人情噺」「北海道取材作」「落語」と大きく7項に分類でき、単なる落語家としての域を超えているが、この中から代表的な三つを選んで説明したい。

一つは「怪談噺」である。安政6年(1859)から創作し始めたのが『真景累ヶ淵』をはじめ、江戸期の人々に深く入り込んでいる因果関係を、明治に入ってからも『怪談乳房榎』などを人間絵図として創り、それを天才的ともいうべき舌三寸から語り続けた。

二つめは「伝記物」である。維新の大改革で江戸っ子は日常生活習慣を変えさせられ、地方からの移住による人口増加もあり、江戸は「雑多な東京」となり、その中で多くは、新しい時代の生き方をどう組み立てればよいのか戸惑っていた。
特に地方出身者は、慣れない環境で、いかに生活を成り立たせ、豊かになれるのか。その方策や指針を求めていた。
そのような情勢下、円朝は、維新政府の改革変化にクレームをつけるのではなく、それらを包み込む「新しい時代の生き方」として「塩原多助一代記」と「塩原多助後日譚」に代表される立身出世物語を示したのである。それは当時の人々に広く受け入れられただけでなく、政府からも支持され、ついに明治25年(1892)には修身教科書に取り上げられた。

三つめは「翻案物」である。明治16年(1883)に鹿鳴館が開館されたことで示された時の欧化政策、その影響から外国に関心を持つ新しい読者層が増える動き、これを素早く取り入れ出版したのが明治18年(1885)の『英国孝子ジョージ・スミス伝』である。その冒頭部分を紹介する。
≪御免を蒙りまして申上げますお話しは、西洋人情譚(ばなし)と表題をいたしまして、英国の孝子『ジョージ・スミス伝』の伝、之を引続いて申上げます。彼(あち)国(ら)のお話しではどうもちと私の方にもできかねます。又お客様におわかりにくいことがありますから、地名人名を日本にしてお話しをいたします。
英国のリバプールと申しますところで、英国の竜動(ロンドン)より三時間で往復のできるところ、日本でいえば横浜のような繁盛な港で、東京(とうけい)で申せば霊岸嶋鉄砲洲などの模様だと申すことで、その世界にいたしてお話しを申上げます。スマイル・スミスと申しまする人は、あちらでは蒸気船の船長でございます。
これを上州前橋立(たつ)町(まち)の御用達で清水助右衛門と直してお話しをいたします。その子ジョージ・スミスを清水重二郎という名前にいたしまして・・・≫
≪これはある洋学先生が私に口うつしに教えて下ったお話しを日本の名前にしてお和かなお話しにいたしました≫

臨機応変といおうか、縦横無尽といおうか、正に、鉄舟の『剣術の流名を無刀流と称する訳書』に書かれた世界、
≪過去・現在・未来の三世から一切の万物に至るまで、何一つとして、心でないものはない。心というものは痕跡を残さないものであり、自由自在かつ無尽蔵である。東に現れ出るかと思えば西に消え、南に現れれば北に消える。まさに神変自在、天も予測することはできない≫

この境地に、鉄舟から受けた禅修行によって、円朝も到達したのであろう。
結果として、時代の機微をとらえ、機敏さと柔軟性を発揮し、三遊派一門の復興と、芸人の社会的地位の向上を実現したのである。

これで「鉄舟から影響受けた円朝」編を終え、次号からは「神にならなかった鉄舟」を論じて参ります。

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