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鉄舟研究

2020年5月25日 (月)

神にならなかった鉄舟・・・その八

最初に鉄舟の生誕地について、墨田区教育委員会から次の連絡が入ったことを報告したい。
「山岡鉄舟研究会会長 山本紀久雄 様
墨田区亀沢に設置しておりました山岡鉄舟の説明板は、本日(2018年12月19日)、板面交換を行い、別内容の説明板となりました。長らくお待ちいただきましてありがとうございました。取り急ぎ、ご報告させて頂きます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。墨田区教育委員会事務局・ 地域教育支援課文化財担当」
 この件については2017年4月号と2018年1月号でもお伝えしたが、墨田区観光協会作成の観光マップによると「山岡鉄舟旧居跡」は、亀沢4丁目の墨田区立堅川中学校の校門あたりとなっていて、墨田区教育委員会は平成20年(2008)2月、同中学校内に≪山岡鉄舟の生家小野家がこの中学校の正門の辺りにありました≫とする説明板を設置した。
だが、この地を『復元江戸情報地図』(朝日新聞社)で確認すると、旗本「小野勇太郎」と表示されている。小野勇太郎は、『寛政譜以降旗本家百事典第1巻』(東洋書林)によると、禄高200石、拝領屋敷は本所永倉町と四谷南伊賀町の2カ所である。本所永倉町は現在の亀沢4丁目であり、堅川中学校現住所と一致する。
山岡鉄舟が生れたのは、御蔵奉行を務めた「小野朝右衛門」の役宅である。小野朝右衛門は禄高600石。その屋敷は『江戸幕府旗本人名事典』(原書房)によると両国向御蔵屋敷と表六番町。この両国向御蔵屋敷で鉄舟は生誕した。なお、表六番町の屋敷は、『復元江戸情報地図』に「火除明地」と記されており、これは現在の靖国神社の近くである。
 このような説明を墨田区観光協会で説明したところ、「エリアマップの表示は教育委員会が認定したものに従っているので、教育委員会に行ってほしい」という回答。
そこで2017年2月28日に墨田区教育委員会へ行き、一連の史実関係書類に基づき説明をしたところ「史料は理解したので、再度、教育委員会内で整理確認し、説明板が設置されている地元の亀沢町会と調整し進めたいが、説明板の撤去期日については明確に約束できない」とのことであったが、ようやく1年10カ月を経て誤った鉄舟生誕地が訂正されてほっとしているところである。
なお、正しい鉄舟生誕地は下地図のところであるが、このあたりは諸建築の工事中で、まだ史跡表示板は設置されていない。

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山岡鉄舟研究会2019年1月例会は『月刊武道2018年10月号』(公益財団法人日本武道館発行)の表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」(下絵)を描いたアトリエ麻美乃絵・中村麻美先生の講演でした。テーマは「月刊『武道』表紙絵より~維新の英傑たち「駿府談判」ほか」で、次のように述べられました。

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≪1868年3月9日、幕臣・山岡鉄舟は、駿府に陣を構える官軍参謀・西郷隆盛に会談を申し込みました。江戸決戦は目前、駿府への道中は命がけの旅でした。
西郷は江戸総攻撃を中止する条件の一つとして「徳川慶喜を備前に預ける事」と提示しました。しかし鉄舟はこれに応じず抗弁します。「朝命なり」と凄む西郷に対し、鉄舟は毅然と問いただしました。「立場が逆ならば、あなたは主人である島津の殿様を差し出しますか」。激論の末、しばらく考えた西郷は「先生の言うことはもっともだ。慶喜殿のことはこの吉之助が必ず取り計らう」と約束します。江戸無血開城は、鉄舟のこの命がけの尽力により成ったのでした。
のちに西郷は、江戸の民を守り、主君への忠義も貫いた鉄舟を評します。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」剣・禅・書の三道を極めた鉄舟は、1880年に無刀流の開祖となります。「敵と相対する時、に依らずして心を以って心を打つ」と修養を重んずる鉄舟の理念は、今日あらゆる武道に受け継がれ、今に活かされています≫
中村先生は的確に鉄舟を捉えておられます。なお、中村先生は『伝えたい日本のこころ』(日本武道館2016年9月発行)を出版されていますので、ご参考にされることを推薦いたします。
なお、講演で中村先生は、表紙絵には鉄舟のみで西郷は描かれていない理由について以下のように述べられました。
≪鉄舟ひとりで薩摩軍に対したという意義を、島津の陣幕を大きく描くことで強調し、そこに鉄舟武士道精神を表現したかった≫と。なるほどと思ったところに、もうひとつ鉄舟のみを描いた理由があるとも発言された。

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 それは明治神宮聖徳記念絵画館に展示されている有名な壁画、結城素明が描いた「江戸開城談判」(上絵)と混同される恐れからとのこと。この絵は、西郷が鉄舟との駿府で無血開城を実質的に決めた後に、江戸で勝海舟と会った場面を描いたもので、この西郷・勝会談で無血開城が決まったとする説が広く流布されている。
表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」を鉄舟と西郷が対峙する構図で描くと、鉄舟を海舟と誤解する人が多く出て来るのではないかと、中村先生は危惧されたのだ。
 ところで、中村先生による『月刊武道』の表紙絵は人物を描いているので、これは「肖像画」とも言えるだろう。ただし、実存していた人物であっても、描く場面も含む実像を写真等で確認できないのであるから、あくまでも描く人が想像する表現絵画となる。
結城素明も「江戸開城談判」を描くにあたって、同様に想像にもとづく肖像表現であったはず。その理由は、この場に鉄舟も同席していたのに省かれているからである。何故に鉄舟が絵に描かれなかったのか、その検討は後日にしたいが、その前に、明治神宮聖徳記念絵画館を飾る80点がどのように決定・展示されたのか、それをまず整理してみたい。
参照するのは『明治聖徳記念学会紀要復刊第11号』(林洋子氏論文 平成6年4月15日)である。林氏はプリニウスの『博物誌』の記述からはじめる。
≪そもそも絵画は、プリニウスの『博物誌』によると、外国への長旅に出る恋人との別れを悲しんだコリントスの娘が、ランプの光で壁に映った恋人の影を写し取ったことに始まるという。つまり肖像表現とはその基本的な性格としてその場にいない人や死者の身代わりの意味を持つのである≫
プリニウスの『博物誌』は、ローマ帝国初期に活躍した博物学者、軍人、政治家でもあったプリニウス Plinius( 23/24~79) が著したもの。ヨーロッパの博物学のもっとも古典的な原典となったもので、各方面の専門の著作を縦横に使い、あるいは自らの実地見聞や調査によって、約2万項目におよぶ事項について解説をした世界最初の百科事典である。したがって、今日でもこの『博物誌』は各分野の研究に広く参考資料として利用されている極めて貴重な文献である。(参照『ガラスの道』中公文庫 由水常雄著)
林氏の論文を続けよう。
≪このことは、明治天皇に関する様々な肖像表現についてもあてはめて考えることが出来よう。歴代天皇の中でも、(昭和天皇を除けば)明治天皇こそ最も多くの肖像表現が残された天皇の一人であろう。その表現には、①天皇のご在世中に制作された「その場にいない」天皇の身代わりとしての「御真影」や絵画・版画、②崩御の後、先帝の記念、追悼のために描かれた絵画群がある。この②のグループを代表する作品こそが、明治神宮外苑聖徳記念絵画館を飾る80点である≫

明治天皇は明治45年7月30日に崩御された。御陵は京都の桃山に決したが、天皇をお祀りする社を東京にも造営し、その周囲に天皇を記念する様々な施設を持つ外苑を設けることになり、その中心に天皇の業績を記念する絵画館を建造する構想が天皇側近から出された。
≪伝統的に、天皇のお姿を公の場に絵画化することがほとんどなかったわが国では、このような計画は史上初めてであり、畏れ多いとの反対もあったが(貴族院でも議論を呼んだ)、国民からの多額の寄付、そして側近たち、大正4年5月に成立した明治神宮奉賛会のメンバー(会長・徳川家達)の強い意思により、計画は実行に移される。
側近たちは、計画の推進役に元神戸市長の水上浩躬(みなかみひろちか)を招き、幾人かの歴史家たちを交えて構想をねった。水上はこの計画の手本として、フランスのヴェルサイユ宮殿内の「戦いの間」(1676年起工)をイメージしたと後に語っている≫
大正6年2月に絵画館委員が任命された。その中に美術関係者は東京美術学校の校長である正木直彦のみであった。画家が一切委員とならなかったことから推測されるように、まず画題が最優先で画家や画風は二の次であったことがわかる。
その後、正木の仲介によりどの派にも属さない孤高の画家で、当時あまり有名でなかつた二世五姓田芳柳(1864~1943)が、画題に応じた構図の下絵を作成するよう指名を受け、これが後に『画題考証図』へとつながる。
しかし、こうした計画の進め方に対して画家たちの不満が高まって、彼らの意見が美術雑誌に掲載されるようになった。しかし、画家たちは一致した行動がとれず、計画のイニシアチブは側近や歴史家たちに掌握されたままであった。
大正8年秋、絵画館の建設が始まった。設計は小林正紹(まさつぐ)である。大正10年1月に画題が決定され80題とされ、ここでようやく画家の選定に入った。
この計画が外部に伝わると、旧大名や企業などから奉納希望が殺到し、同時に縁故のある画家を推薦してきた。例えば徳川慶喜の孫である公爵・徳川慶光が「大政奉還」、西郷・勝両家が「江戸開城談判」の奉納を申し出た。
画家の選定は、洋画家の黒田清輝を責任者として河合玉堂や横山大観などの日本画家の意見も取り入れ、天皇が伝統世界に生きておられた前半生を日本画で、近代化する明治の後半生を洋画ということに決した。
洋画の人選は順調に進んだが、日本画の方は奉納者から推薦が多く、例えば旧大名からはその藩出身の画家を推薦するなどしたため、芸術性を追求する専門委員と理事会の間で紛糾し、怒った横山大観は委員を辞任、河合玉堂、竹内梄鳳も手を引いてしまった。
その結果、院展系及び京都系の大半を除いた画家たちによって描かれることになったが、決定は遅れに遅れ、一人の画家が複数の作品を手掛けることも発生した。
日本画の小堀鞆音(ともと)が三点、近藤樵山(しょうせん)が二点、結城素明も前述した「江戸開城談判」と「内国勧業博覧会行幸啓」の二点で、全体的には若くて小粒な画家の感が免れなかった。

理事会から「壁画奉納ニ付取扱方」が公表され、絵の大きさは縦3m、横2.7mと決められた。絵画館建物に向って右が日本画部門、左が洋画部門と決し、制作が始まり、画家たちに二世五姓田芳柳が準備していた『画題考証図』が示された。
大正15年10月15日絵画館が竣工。画家たちは各自の作品を納入し始めたが、足並みは揃わず、昭和7年になっても納入された作品は全体の約半数というありさまであった。
最終的に昭和11年4月に、岡田三郎助、和田英作、藤島武二、松岡映丘、結城素明の東京美術学校の教授陣5人が作品搬入し、絵画館は構想から20年、制作開始から10年の歳月を経て完成した。この間に5人の画家が亡くなり、その弟子や友人に制作が引き継がれている。

ということで、全作品80点は、作者もほぼ全部異なり、制作年代も約10年のばらつきがあるなど、統一性の乏しい作品群となった
藤島武二は明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮で、絵画館に「東京帝国大学行幸」(下の絵)を制作している。この藤島が、弟子の児島虎次郎から来た手紙に返信しており、そこには≪同事業は其性質上史実を重んじ、絶対自由を尊ぶ純芸術家にとりては恐れながら余り面白き仕事とも覚えず候≫(林氏論文)と書いている。

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なお、林氏は藤島武二絵について、次のように評価を下している。
≪藤島の筆は進まず、最後の最後におそらく写真を元に描いたのであろう。当時の彼としては凡庸な作品である。この時期、彼の興味の中心は先の宮中よりの依頼画の制作と帝展改組問題であった。この翌年(昭和12年)、藤島は蒙古高原の日の出を描いた名作「旭日照六合』(宮内庁蔵)を完成、御所に納める。同じ帝室関係の仕事とはいえ、完成度の違いは明らかである。それは絵画館の制作はかなり限定が多かったことに比べ、宮中からの依頼画は藤島の創造性に全面的に一任されており、「絶対自由を尊ぶ純芸術家」たる藤島の心を鼓舞したのであろう≫
さらに林氏は以下のように酷評する。
≪これらは決して同時代のベストメンバーらによって描かれたのではなく、芸術の領域から離脱したような「紙芝居」のような作品が大半となっている≫
何故に林氏の指摘するようなレベルになっているのだろうか。その大きな要因にあるのが、二世五姓田芳柳による『画題考証図』の提示にあるのではないだろうか。
ということは「江戸開城談判」壁画も、結城素明が構図を考案したわけでなく、二世五姓田芳柳の『画題考証図』に基づき「翻案して描いた」のであり、『明治神宮叢書第20巻図録編』(明治神宮編 平成12年11月発行)では、「江戸開城談判」壁画は「部分を拡大したもの」であると述べている。
では、二世五姓田芳柳は下絵と『画題考証図』をどのように制作したのか。次号で検討したい。

2020年4月25日 (土)

神にならなかった鉄舟・・・その七

銅像を建てるということの背景を考察するには、誰がそれを必要としたのかという問いかけが必要だろう。
 勝海舟銅像は、東京都墨田区が必要として建てられたと推察される。勿論、実際の銅像建立は、海舟を評価する人々が寄付を集め建立し、それを墨田区に寄贈したのであるが、墨田区ホームページ記載内容から、高く海舟業績を認めていることがわかる。銅像の作者は墨田区に本籍があるという東京家政大学名誉教授の木内禮智氏である。
しかし、どうして建立が平成15年(2003)という海舟生誕180年まで待たねばならなかったのか。もっと早くても良いような気がする。
海舟の業績は、江戸無血開城を西郷隆盛との会見・交渉で成した、と高等学校教科書で認められており、世間一般にも広く認知されている。また、会見相手の西郷銅像は、上野公園に明治31年(1898)に建立されているから、平成時代まで海舟銅像が待たされたのは不思議だ。前号でみた榎本武揚の銅像は大正2年(1913)に建立されている。
一方、幕末に新政府軍への徹底抗戦を主張して、恭順派の海舟と対立した小栗上野介の胸像は、横須賀市に大正11年(1922)に建立されている。小栗の銅像は神奈川県横須賀市が必要としたと推察するが、建立された場所は現在の「ヴェルニー公園」とは異なり、当時の海軍工廠が見下ろせる諏訪公園であった。作者は朝倉文夫で「東洋のロダン」と呼ばれた著名な彫刻家である。

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しかし、この胸像は残念ながら横須賀海軍工廠によって20年後の昭和17年(1942)に撤去、金属供出され、代わりにセメント像が市役所前に置かれた。
横須賀海軍工廠とは、慶応元年(1865)徳川幕府が横須賀製鉄所を建設し、明治政府に引き継がれ、明治4年(1871)に帝国海軍所管「横須賀造船所」となって、明治17年(1884)に横須賀鎮守府が設置されるとその直轄造船所となり、明治36年(1903)の組織改編で横須賀海軍工廠が誕生、呉海軍工廠と共に多くの艦艇を建造したところ。
また、現在の「ヴェルニー公園」一帯は、明治時代初期に横須賀が帝国海軍の本拠地となって、ここに海軍軍需部が置かれたが、昭和3年(1928)に田の浦へ移転後は、海軍工廠の一部と海軍運輸部となり、海軍の艦船や陸上部隊への軍需品の供給基地となって、施設はコンクリート塀で囲まれていたが、通りに面して商店・旅館・料亭などが建ち並び、とても賑わっていた場所。
戦後はコンクリート塀が取り除かれ、昭和21年(1946)に「臨海公園」となって、ここに昭和27年(1952)、東京芸術大学教授であった内藤春治によって作られた小栗胸像が移転した。ただし、胸像は新しくつくられたが、石造りの台座は大正11年のものを使用しており、台座裏に「大正11年9月27日除幕」と印刻されている。
「臨海公園」が開園したのは昭和21年(1946)10月20日で、この時には二日間にわたって横須賀市民祭が催された。その意味は、敗戦後の日本で、軍港横須賀が新しく生まれ変わったという証にほかならず、それも占領軍の支配下で挙行されたわけで、日本が平和国家に変ったという事実証明でもあった。
ところが、平成13年(2001)に至って「臨海公園」は、「ヴェルニー公園」としてフランス式庭園の様式を取り入れてリニューアルオープンした。

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ヴェルニー公園と名づけられたのは、横須賀造兵廠その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに由来する。
ヴェルニーの胸像は、この公園内に小栗と並んで立っていて、ヴェルニー説明板には以下のように書かれている。
≪フランスの造船技師で、海軍増強をめざした徳川幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として1865年来日した。明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音埼灯台や走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し1876年帰国した≫
この説明板と隣の武士姿の小栗胸像を見る人々に、どのようなイメージを与えるであろうか。多分、「ここは幕末から明治初頭にかけて活躍した人物を記念して造られた公園なのだ」と思うだろう。
つまり、「臨海公園」と称する平和シンボルであったものを、「ヴェルニー公園」に変更することで、一挙に幕末の横須賀へ蘇らせたのではないかと考える。
それを裏付けるのが「ヴェルニー・小栗祭り」である。明確に小栗の名が冠されている。したがって、祭りに来た人々は幕末時を思い起こす。
昨年、平成30年(2018)は、日仏交流160周年を記念し、平成30年11月10日横須賀市との姉妹都市ブレスト市があるブルターニュ地域ゆかりのフランス海軍軍楽隊バガッド・ド・ラン=ビウエが、華やかな演奏を披露した。

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ところで、この「ヴェルニー公園」、じっくり見て回ると面白いことに気づく。場所はJR横須賀駅前に位置していて、入るとすぐに「ヴェルニー記念館」があり、ここのデザインについて≪ヴェルニー記念館は、横須賀の近代化に貢献したフランソワ・レオンス・ヴェルニーに関わりが深いフランスのブルターニュ地方に建つ住宅の特徴を取り入れました≫と解説文が掲示されているが、館内にはオランダから購入した「国指定重要文化財スチームハンマー」を保存・展示している。外観はブルターニュ風なのに、保存されているのはオランダ製のスチームハンマー、これに少し違和感を持つ。
また、記念館から歩いてすぐの所に「戦艦・陸奥」の全長約19メートル、重さ約100トン主砲が野晒しで置かれている。巨大だ。陸奥は大正10年(1921)に横須賀で建造され、昭和18年(1943)に瀬戸内海で原因不明の爆発のため沈没し、昭和46年(1971)に複数ある主砲の一部が引き揚げられ、東京の船の科学館で展示されていたが、平成28年(2016)9月に
移送(里帰り)した。この主砲は全くヴェルニーとは関係ないから、このあたりから訪れた人は、ここは旧日本海軍基地であったのかと気づき始めるだろう。
もっと面白いのは「ヴェルニー公園」の端のところ。もともとこの地にあった日本海軍にまつわるいくつかの記念碑が、それも横一列に並ばされている。教室の片の隅に立たされているように、何となく居心地が悪いように見える。

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一列に並んでいる記念碑を右から紹介すると、正岡子規の句碑「横須賀や只帆檣(はんしょう)冬木立」 (注 帆檣とはほばしら) は平成3年(1991)建立、「軍艦沖島の碑」は昭和58年(1983)建立、「軍艦長門碑」は昭和51年(1976)建立、単に「国威顕彰」と刻まれた記念碑は建立年月日等一切不明(ヴェルニー公園HP)とあり、「軍艦山城之碑」は平成7年(1995)建立、「海軍の碑」も平成7年(1995)建立である。

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「国威顕彰」碑を除いて近年の建立であるが、この「国威顕彰」碑とはいったい何か。
『世の途中から隠されていること――近代日本の記憶』(木下直之著 晶文社2002年刊)が次のように述べている。
≪問題としたのはひときわ大きい「国威顕彰」碑で、1930年代前半の建立、一等巡洋艦愛宕か高雄クラスの司令塔をモデルにデザインされたという。現在も残る逸見波止場逸見門衛兵詰所(こちらは横須賀市指定市民文化遺産となっている)の間を抜けて入った正面に、この記念碑は立っていた。『横須賀市史』上巻(横須賀市、1988年)五七七頁の写真図版でその様子を見ることができる≫
いずれにしても「国威顕彰」碑は無残な姿である。「国威顕彰」の文字を除く一切の言葉が剥ぎ取られている。今では何が書いてあったか不明である。
だが、いろいろネットで調べていると以下の説明に出合った。
≪その後、朝日新聞の記事や横須賀市史によって詳細が判明した。これは「国威顕彰記念塔」であり、昭和12年5月27日の海軍記念日に除幕されたもので、国際連盟脱退や軍縮条約廃棄という当時の社会情勢のなかで、海軍の偉業と意気を具象化したとのことである。塔の上部には羽を広げた金鵄が取り付けられていた。作者は当時の第一人者である日名子実三で、彼は馬門山墓地の「第四艦隊遭難殉職者之碑」も製作している≫(『東京湾要塞 三浦半島・房総半島戦争遺跡探訪』)
なるほどと思う。記念碑や銅像が建立された姿を維持できるかどうかは、当初の製作者・注文者の意図が時を超えてどれだけ継承されるかにかかっているのだ。「国威顕彰」碑には≪羽を広げた金鵄が取り付けられていた≫というが、時代の変遷で取り払われ惨めな姿をさらしている。しかし、惨い形ではあるが、しっかりと遺っている。意図があるのだろう。
このように見てくると「ヴェルニー公園」のイメージが変化せざるを得ない。ヴェルニー公園と名づけられたのは、日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに由来するわけだが、実際に公園内を歩き、横須賀市発行の小冊子『小栗上野介と横須賀』をみると徳川幕府で活躍した小栗を大いに称えている。
≪明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。
現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています≫
間違いなく横須賀市は、製鉄所建設推進した行為に対する「顕彰」として小栗胸像を建立し、併せて「ヴェルニー公園」を帝国海軍の軍港であった事実を遺す手段としているのである。これを裏打ちするのが横須賀市議会建設常任委員会の論議である。それを『世の途中から隠されていること』から引用する。
≪青木委員いわく「幕末だけの問題ではなくて、戦前の様相も逐一伝えられるような公園づくり、公園を訪れた方々がわかるようなことであってほしいと思うのです」(『同会議録』第三四八号)。さらに青木委員はなぜ「ヴェルニー公園」と名前を変えたのか、それならむしろ「小栗・ヴェルニー公園」とすべきだと、もっともな意見を述べる≫
「ヴェルニー公園」を歩いてみると、実際の公園は「小栗・ヴェルニー・海軍記念公園」というのが実態だと感じる。

海舟に戻りたい。東京都と墨田区が海舟の業績を高く評価しているのであるから、もっと早く銅像が建立されていてもおかしくないはずだ。
実は、これには海舟自身の考えがあったという。それを『銅像になった人、ならなかった人』(三原敏著 交通新聞社2016年刊)から見てみよう。
≪そもそも海舟は「銅像」というものに興味がなかったようだ。
『海舟遺稿』を編集した亀谷馨が、海舟を訪ねた時のこと。亀谷が先生の存命中に銅像を作りたいと語ったところ、海舟は「銅像は人の造ったものゆえ、いつ何時、天変地変のために破壊されるか知れない。そうでなくてとも、時勢の変遷によって大砲や鉄砲の弾丸に鋳られるかもしれないよ。そんなつまらないことしてくれるより、銅像を造る入費の三割一分でもよいから、金でもらいたいよ」と一笑に付した。さすがに海舟である。その後、大東亜戦争で多くの銅像が大砲や弾丸と化していったことを、すでに予見していたようだ。
この逸話からしばらくして海舟は亡くなり(明治32年)、時の海軍大臣であった山本権兵衛は、海軍省に海舟の銅像を建てようと提案した。薩摩藩出身の山本は西郷の仲介により、海舟の知遇を得て海軍軍人の道を歩んでいった。海舟には深い恩がある。だが、海舟が生前、銅像などを馬鹿にしていたと聞いて、この計画は取り止めにしたそうだ。
一方、海舟の死から四日後の一月二十五日。葬儀が行われたこの日の『朝日新聞』には、徳川慶喜や家達をはじめとした人々が発起人となり、西郷と同様の海舟の銅像を建立し、上野公園に並立しようという計画があることが報道されている。
この計画のその後は不明であるが、明治四十三年(1910)十月十日の『朝日新聞』に投稿された「銅像建設に就いての所感」という記事が興味深い。投稿したのは海舟に銅像の話をした亀谷馨である。亀谷は近年、盛んに建立されている銅像に関し、その意義は良いが、報本(ほうほん)反始(はんし)(注 祖先の恩に報いること。儒教的理念の一つ)の理に反するものがあると嘆く。
例えば海軍省内に建てられている西郷従道・仁礼景範・川村純義の像だ。亀谷は従道らの功績を認めながらも、それならば、維新の前から海軍の発展に偉大なる功績のある人物がいるだろうと訴える。さらに神戸に建てられている伊藤博文像に関しても、それ自体には賛同するが、それならば一漁村であった神戸の地に幕末、神戸海軍操練所を設置し、その発展に貢献した人物がいるではないかと続ける。
つまり彼らの銅像を建てるなら、なぜ海舟の像を建てないのかと憤っているのだ。海舟自身が断ろうとも、やはり亀谷は海舟の像を建てたかったのである。ただし海舟の予言通り、ここで挙げられた従道・仁礼・川村、そして伊藤の像はいずれも大東亜戦争によって回収され、現存していない。彼らの像がいち早く建立された背景には、薩長閥ということもあろうが、もし海舟の像が建立されていたならば、やはり同様に回収されていただろう。「それ見たことか」と、地下から海舟の毒舌が聞こえてきそうである≫
しかし、ここで不思議なのは、現在、海舟最大の業績が「江戸無血開城」だと、一般的に認識されているのに、上記記述では一切無血開城には触れていないことだ。
海軍創立への功績を強く述べている。当時の海舟への評価は今と異なっていたと推測できるのである。

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                                                                  (海舟が建言し設置された神戸海軍操練所跡碑)

2020年3月31日 (火)

神にならなかった鉄舟

海舟夫婦の墓が洗足池にあり、昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となったことと、妻・民子の墓が当初は青山墓地に葬られていて、洗足池に移された件を、大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であったことは前回でお伝えした。

これに触れているのが『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪勝の正妻はお民。砥目屋という薪問屋兼質屋の娘であったが、一時は深川で芸者をしていたともいわれる女性だ。
結婚した時、勝は二十三歳、お民は二歳年上。当時の勝はまだ、幕府に取り立てられる前で、自宅で翻訳や蘭学教授をする貧乏生活を送っていた。天井さえ薪にしてしまい、雨露も防げないという悲惨な状況だったが、それでも気丈なお民は、夢子、孝子、長男の小鹿(ころく)を産み、必死で生活を切り盛りした。
結婚から十年後、意見書が取り入れられ、勝は長崎の海軍伝習所に赴任。運に恵まれ始めると途端に、彼の女道楽が始まった。長崎では梶玖磨(お久)という年若い未亡人と関係して子どもを作り、これを引き取ると、お民に育てさせている。
米国から帰国し、赤坂に邸を構えてからは、ますますひどい。家の女中や、手伝いに来た女性たちに次々と手を出した。お糸、お米、おかね、おとよ・・・・。
妻妾同居を実践し、生れた子どもはすべて正妻であるお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働き続ける。お民の心中も複雑だったろうが、生みの母も辛い思いをしたのではないか。
それなのに勝は、「俺と関係した女が一緒に家で暮らしても波風が立たないのは女房が偉いから」などと、呑気に語っている。女の心を理解していなかったのか、あるいは、そうやって褒めておけば「波風が立たない」と甘く見ていたのか。しかし、正妻お民の本心は勝の死後、明らかになる。
勝が七十五年の生涯を閉じたのは、明治三十二(1899)年。お民はその六年後に、この世を去るのだが、「夫の隣だけは嫌。小鹿の隣に埋葬してくれ」と、きっぱり言い残すのである。
小鹿はお民が生んだ長男で、たった一人の跡取り息子であった。米国のラトガース大学に留学、さらにアナポリス(海軍兵学校)を卒業して帰国し、日本海軍に迎えられた。勝夫妻にとっては自慢の息子であったが、残念なことに身体が弱く、明治二十五年に三十九歳の若さで両親を残して逝った。
そのため、やむなく勝は小鹿の長女である伊代子に、徳川慶喜の十男の精(こわし)を婿として迎え勝家の家督を継がせている。以後、「勝」姓を名乗るのは、この直系の子孫だけで妾腹の子孫は誰ひとり「勝」姓を継いではいない。そのけじめは、はっきりとしていたようだ。
お民は遺言どおりに、夫の隣ではなく早世した息子の隣に埋葬されたものの、昭和二十八年、子孫の手により、夫の隣に墓石が移されている。墓下で何を思うか≫

墨田区のホームページに≪勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります≫と述べられているが、家庭内では妻妾同居を実践し、生れた子どもはすべて正妻であるお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働かせ続ける。

今の道徳観念からは大問題、明治時代でも稀なる事例ではなかったろうかと思ったが、榎本武揚も同じであったと日刊紙『萬朝報』の記事が伝えている。

『萬朝報』は記者・翻訳家・作家として活躍した黒岩涙香が主宰し、スキャンダルの暴露などを売り物にしたことで知られる新聞だが、ここで明治31年(1898)7月から9月にかけて連載した「弊風一斑(いっぱん) 蓄妾の実例」、つまり、妾を囲っている男性の実例を500例以上取り上げている。この500例のうち華族が44例あり、その中に榎本武揚が、海舟と同様の妻妾同居を実践していると取り上げられている。(『明治のお嬢さま』黒岩比佐子著 角川選書)
≪子爵榎本武揚 向嶋須崎町の自邸に木村かく(三十)松崎まさ(二十九)という二人の妾あり。いずれも夫人存生の頃より女中に来ししものなり≫

海舟と榎本、共通するのは幕末の江戸幕府を支え活躍した旗本でありながら、維新後は新政府で要職に就いたことから、福澤諭吉の「瘠我慢の説」で痛烈に批判されたことで知られているが、妻妾同居の実践者という点でも共通していたわけである。

では、鉄舟はどうであったのか。鉄舟に〞権妻(ごんさい)〟がいたと述べるのが『山岡鐵舟の妾』(鈴木氏亨著 文芸春秋1993年11月号)であるが、ここには海舟にも権妻がいたとある。ということは自宅妻妾同居、加えて別宅に権妻がいたわけである。

では、この権妻とは何か。明治3年(1870年)に制定された『新律(しんりつ)綱領(こうりょう)』、これは広辞苑によると「明治政府最初の刑法典。大宝律や江戸幕府の公事方御定書から明律・清律まで広く参考にして作成。明治3年(1871)12月公布。旧刑法施行により15年廃止」とあるように、これは江戸幕府や中国の刑法典をもとにして、明治政府のもとで作成された最初の刑法典であり、身分制度など様々な事が定められたもの。この中で、妻と妾を持つことが公認され、この妾は権妻と呼ばれ、夫から見て、妻と妾が同等の二親等として記載されていた。

鈴木氏亨は大正12年(1923)『文芸春秋』創刊とともに編集同人、菊池寛の秘書を務め同社の経営に参画、昭和3年専務取締役となった人物で、明治18年(1885)生まれ、昭和23年(1948)没。『山岡鐵舟の妾』で鉄舟が権妻を持った経緯を書いている。
≪東京に新政府が出来上がって、公卿や長薩土肥の幕末の志士が、顕要な地位を占めだした頃、ある晩、柳橋の芸妓おせんの屋形へ、萬八楼からお座敷だと箱屋がしらして来た。
おせんが仕度して行ってみると、贔屓にしてくれる池田と云ふ客が、若い志士風の男とつれ立って遊びに来ていた。
若い侍は江戸っ子だった。多分旗本だったろう――引詰めた惣髪は、両眥(まなじり)がつり上がる程強(きつ)く、立てた太い髷は、髷元を紫の紐でぐるぐると結んで後頭部へ垂らし、狂人のような凄い眼に光を湛えていた。
「まあ、何と云ふ恐い人だろう!」
おせんは、その頃、料亭などを荒す、狂暴な鉄腕の田舎浪士を想い浮べてぞっとした。
だが、盃が進むにつれて、凄い眼をしていた若い侍が、何處か親しみのある、気の置けぬ淡如とした風格を備えているのを感じた。
若い侍は、海鼠(なまこ)が好きだと見えて、それを酒の肴にして、盃を重ねた。
「オイ、君も一杯飲む可し/\」
女中や、箱屋が、座敷へ姿を出すと、かう云って、相手嫌わず盃を盞した。
おせんは、なんと云ふことなしにその侍が恐くて近づけなかった。
その後、同じ萬八楼の百畳敷で、岩倉卿主人役の大饗宴が催された。
流行(はやり)奴(つこ)のおせんは、その時も招かれて座敷にゐた。――そこでも、眼の凄い、この間の若い侍に会った。
若い侍は、別に彼女に注意するでもなかった。
宴が果てゝてから、おせんは、萬八楼の女将に呼ばれて帳場に行った。
「この間の若い侍さんが、お前に祝儀を下さったよ」
と云って、夫婦巾着ぐるみ出して見せた。
いくら入ってゐたか知らぬが、沢山の小判が入ってゐたらしかったが、おせんは祝儀などには、目もくれなかった。そして、その若い侍が、どんな身分の人か知ろうともしなかった。
三度目に、若い侍は彼女に、はじめて口を訊いた。
『私(わし)は、かう見えても泥棒や巾着切ではない。安心せえ!』
それから、彼女の家庭の事情を聞いたり、名を聞いたりした。
おせんは、柳原の、間口十二間もある古着屋の娘だった。親が、粋人で身を落し、新吉原や、堀や深川などと岡場所を遊び歩くうちに、いつの間にか店を閉じるやうになった。彼女は柳橋で半玉として仕込まれた。
その時も、若い侍は、澤山の祝儀を置いて、写真を呉れて行った。
おせんは、客が帰ってから写真を携(もつ)て行って、帳場や料理場で名を聞いて見たが、誰もしらなかった。
おせんは、浅草の写真師、馬場貞季に聞かせにやって、はじめてそれが山岡鐵太郎と知った。
四度目に来た時、
『わかったかい』
と、たった一言云った。
間もなく彼女はひき祝をして、蛎殻町に家を借りて引取られた。明治二年、鐵舟三十二歳、彼女の十九歳の時だった。彼女は山岡鐵舟の妾になったのである≫

≪どうして私が、山岡さんの妾になったかと仰つしゃるのですか?  ほゝゝゝ・・・。その頃は権妻ばやりで、権妻の一人や二人を置かないと肩身が狭くなる御時世でした。勝(海舟)さんも、小仲さんと云ふ、私どもの朋輩の、柳橋に出ていた藝妓(ひと)を落籍(ひか)して、囲っておられました≫

≪おせんは、鉄舟との間に女の兒まで設けたが、悪足がついてから、明治十七年頃応分な手切金を貰って、鐵舟の写真と二三枚の揮毫を抱えたまゝ、栃木県の足尾の方に流れて行った。
その男とも別れると、宇都宮の江の町に落ついて、林屋と云ふ藝妓屋を開業し、鐵舟との中に出来た娘を藝妓に出してゐた。
 おせんは七十九歳で昭和四年数奇な一生を終った。間もなく娘のりんもその跡を追ふた。林せんと云ふのが彼女の名だった。
私が、齋藤龍太郎君の紹介で、訪ねて行ったのは、彼女の死の少し前のことだった≫

ここで整理してみるのもどうかと思うが、「家庭内で妻妾同居」は海舟と榎本。「権妻」は海舟と鉄舟で、両方の実践者は海舟ということになる。

妾について明治初年に議論があったことを『明治のお嬢さま』が記している。
≪妾をめぐって議論が持ち上がる。その背景には、西洋から入ってきた一夫一妻制や男女同権論があった。
それまで日本人は、地位や財力がある男性が妾をもつことを当然のように思っていたが、西洋人はそれを奇異に感じるらしいと知って、慌て始めたのである。
とくに、妻と妾が同じ家のなかで暮らす「妻妾同居」という形態は、一夫一妻制を原則とする西洋人にとって、穢らわしい野蛮な風習にさえ見えたのだった。
そこで、1876年(明治9年)に元老院会議の場で妾問題が取り上げられた。この議論では、法律で妾が公認されている以上、一夫多妻制も認められると主張する者もいれば、一夫一妻制にしても妾をもつことは問題ないという者もいた。
逆に、この際、妾は廃止すべきだという者や、一夫一妻制を認めつつも、現実には妾を廃止するのは困難だという者もいて、議論はまとまらなかった。この会議では、「蓄妾」に対して、「妾を廃する」と書く「廃妾」という言葉も使われている。
その後、1880年(明治13年)の刑法の制定に当たって、「妾」という文字がようやく戸籍から削除されることになった。しかし、法律では公認されていなくても、妾の存在は、社会では黙認されたままだった≫

『萬朝報』連載の「弊風一斑 蓄妾の実例」は明治31年(1898)当時の実例であるから、明治9年に議論はなされたが、実際は変化なしだったといえる。

ところで、榎本武揚も銅像が建立されている。墨田区堤通の梅若公園にあり、マンションに囲まれた場所で、この地に晩年の榎本邸があり、墨田区観光協会のホームページに次のように記している。
≪榎本武揚は幕末から明治にかけて活躍し、晩年は向島で過ごしました。本銅像は大正2年5月、旧幕臣のち代議士江原素六などの発起により、府会議員本山義成らが中心となって建立されたもので、彫刻家藤田文蔵の秀作です≫

墨田区観光協会が述べる榎本武揚の活躍について補足したい。
榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年(1862)の27歳から、慶応三年(1867)32歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。
続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。

戊辰戦争では、明治元年(1868)榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送した翌月の8月陸奥に向かい、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、10月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。

榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」(国家に準じる統治主体)であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。
これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。

この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治2年5月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、18日に至って「交戦団体」の首脳である4名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請い辰之口牢獄での囚われの身となった。

辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。
兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。

この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、将たるものの姿だろう。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最期であったと思う。

しかし、榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。

五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去ったかのように、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。

確かにその通りで、赦免された後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。

このような活躍をしたわけであるから、妻妾同居という道徳概念上の問題があるとは言え、明治時代へ国家貢献という意味で、榎本の銅像が建てられていることに異論はない。

では、銅像はどういう背景で建立されるものだろうか。次号へ続く。

 

 

 

2020年2月26日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その五

鉄舟の弟子である松岡萬(よろず)が、静岡県磐田市大原の水神社境内に松岡神社として祀られており、さらに藤枝市岡部町にも松岡神社が存在していることは前号で述べた。
この二つの地で神様として祀られる要因背景は、磐田市の方が大池の干拓阻止であり、岡部町の方は山林所有権の争いで、いずれも静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡が住民有利に解決したからであった。

この松岡がその後、鉄舟とともに手賀沼(千葉県北部、利根川水系)の開墾を計画したという事実がある。筆者が主宰する「山岡鉄舟研究会」の2018年11月例会で、北村豊洋氏が次のように発表したので紹介したい。
≪鉄舟は約束の十年で宮内庁を辞した。そして谷中に全生庵を建立し駿河久能寺を再建したのは明治十六年である。廃仏毀釈でお寺が荒れており、お寺の再建、仏教の復活に精を出し仏教中興の恩人と言われた頃である。
この年の十月に、鉄舟は石坂周造、松岡萬と相談して、僧侶ら十五名と「手賀沼開拓願い」を千葉県に出している。驚きである。鉄舟の音頭で「教田院」を設立して手賀沼の新田開発を進め、米二万石を目論む利益を広く庶民に還元すると伴に、僧侶の学資に充てるという計画であった。
「教田院」とは耳慣れない言葉であるが、福を生じる田の意味で、三宝などをさす「福田(ふくでん)」という語が仏教用語としてあり、廃仏希釈後の仏教復興の為の社会施設「福田会」というのが明治十二年にできているので、それをヒントの名前かもしれないが推測の域をでない。(三谷和夫氏説)いずれにしろ、この地域にかつてなかった新しい開発の波が来たのである。
「手賀沼開墾願い」が千葉県令に提出されたと同じ「官有地拝借開墾願い(成田市立図書館蔵)」に発起人含め十五名の署名があり、三谷和夫氏の『明治前期・手賀沼開墾の二潮流(我孫子市史研究六)』に詳しく書かれている。
明治十六年十月二十日の郵便報知新聞に次の記事がある。
「手賀沼を埋め、田畑となさんとの計は、去る享保年度に起こり、田沼意次がこれに着手し、得るところの田五百町歩に過ぎずしてやむ。維新後、華族の中にその業を継がんと実施に臨み、測量に着手せし者多かりしが、沼の沿岸三十九ヵ村の漁民が、その産を失わんことを憂い、大いに不服を唱え、すでに竹やりむしろ旗の暴挙にも及ばんとする模様ありしをもって、企画皆中止となりしが、今度、山岡鉄舟氏が更にその開墾を発起し、仏教拡張の為、教田院を設けんとの企画を石坂周造氏が賛成し、去る七月中、石坂氏がまずその地に向かい、沿岸の各村吏を招集して説き、ついに三十九ヵ村調印して承諾の旨を表したるより、八宗の僧侶と結合し、かつ華族衆を同盟に加え……、同県下の不二講中より惣代をもって、埋め立て人夫十一万二千二百人の見積もりをもって、人足を無賃にて寄付する旨を、石坂氏まで申し出しという」
 開拓に反対していた地元の人達の賛同を得ている。開拓の人夫まで無償で出すという。これはいったいどういうことか。

実はこの頃、明治維新功労者の叙勲運動が盛んになり、猫も杓子も自薦に励んでいた。しかし鉄舟は勲章を二回も辞退している。さらに、勅使として鉄舟の自宅まで勲章を持参してきた井上馨に対して啖呵を切って帰らせた事も評論新聞はかき立てた。だから民衆はよく知っているのだ。俄か華族と鉄舟とは違うということを。明治十五年六月二十七日の「雪の世話新聞」記事にある。
 「この頃聞くところによれば、奏任官以上にして多年奉職の人でさえあれば、別に著名なる勲功なきも、その職務勉励の簾にて、相当の勲章を授与さるるや‥…、山岡宮内小輔は、年来の奉職中涓(けん)滴(てき)の勲功もなきに、かかる貴き物を賜る聖恩は感ずるにも余りあるが、これをおぶるは大いに恥ずる所あれば、右勲章は返納仕りたしとて辞退致されし趣きに聞く」
 俄か華族の言う事は信用しないが、土木のプロでもない鉄舟の提案する「手賀沼開拓願い」なら信用する民衆の心理を、十月二十日の郵便報知新聞記事は伝えている。明治十四年の政変(北海道開拓払い下げ問題等)の二年後のことである、住民は分かっているのだ。無私無欲がなせる説得力である。まさに鉄舟の人間力であろう。
しかし、「手賀沼開拓」は「水を制してこそできる事業」であり、明治初期の技術や当時の人力では無理である。進展はしなかった。鉄舟とて測量計測して始めからわかっていたのではなかろうか。手賀沼は江戸から一番近い湖沼として、昔から江戸商人達の新田開発意欲を誘っては失敗していた。だから今回も、名も知れぬ「山師」達の身勝手な参入を防ぎ「手賀沼」を守る為に、そして下総がこれ以上「東京の飛び地」にならないように、あえて前に立つ行為に出たのではないか。筆者はそう推察する。
庶民ファーストなのである。庶民に寄り添い真剣で骨のある姿が、偉ぶる事なく自然体で庶民に伝わるから、わざわざ自慢してホラを吹く必要はない。同じ江戸っ子でも勝海舟と違うところである≫

この北村氏の発表にあるように松岡は下総でも活躍しているので、松岡が神様として祀られていることに異論はないが、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。
 幕末三舟と称されるのは勝海舟と、山岡鉄舟、高橋泥舟であるが、この中で銅像が広く公共の地で建立されているのは海舟のみである。(鉄舟銅像は静岡市の鉄舟寺に松本検氏が個人で贈呈されたものがある)
 勝海舟の銅像は、東京都墨田区区役所に隣接する、区役所前うるおい広場の緑地内に、文政6年(1823)生まれの海舟、生誕180年ということで平成15年(2003)に建立された。
 墨田区のホームページに以下のように書かれている。
≪勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
  勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
  この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
  平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山﨑昇≫

筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で≪墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である≫と述べた。
この発言背景には、上記ホームページにある「今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄」として海舟を高く評価認識しているからであるが、しかし、 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか、と山岡鉄舟研究会ではかねがね指摘している。

東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸から東京へ」の中で「江戸無血開城をめぐるおもな動き」を解説しているが、そこでは鉄舟の役割が、海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。これでは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。

そこで2018年4月24日に江戸東京博物館に以下の問い合わせを行った。この件は2016年10月にも同館の学芸員に対し、同様の指摘をしたのだが「今後の検討課題」という回答であったので、改めて、水野靖夫氏の著書『勝海舟の罠』(毎日ワンズ)が出版されたのを機に、江戸東京博物館を管轄する東京都生活文化局を通じて尋ねてみた。

≪江戸無血開城についてお尋ね
1. 東京都江戸東京博物館で常設展示されている「江戸無血開城」に関わる解説では、慶応4年3月13日、14日の「西郷隆盛と勝海舟」会談で「江戸無血開城」が決定されたと掲示され、映像説明でもなされています。
2. 山岡鉄舟研究会・主任研究員である水野靖夫氏出版の『勝海舟の罠・第3章』では、「江戸無血開城」は慶応4年3月9日の「西郷隆盛と山岡鉄舟」駿府談判で実質的になされたと、各史料を検討した結果判断しており、当会でも同様に認識しております。
3. 公共博物館である東京都江戸東京博物館のお立場から、「江戸無血開城」は「上記1であるのか、または2であるのか」についてお尋ねを致したく、よろしくご検討の程お願いいたします≫

これに対して2018年5月31日に以下の回答が届いた。
≪「2018年4月24日付」でいただきました当館常設展示「江戸から東京へ」コーナーへのご質問につき、回答いたします。
当館の常設展示は、公立の博物館としての立場から、とくに学校で使用される教科書の記述に基づき、展示内容を構成しております。江戸無血開城については、高等学校のいずれの教科書でも言及がありますが、このうち7種類の教科書に西郷隆盛と勝海舟の交渉について記載があります。
また、高等学校の副読本として東京都教育委員会が発行している『江戸から東京へ』(平成23年度版)でも、「4月、江戸城総攻撃を前に旧幕臣勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の会談が三田の薩摩藩邸でおこなわれ、江戸城は無血開城された」とあります。
 これらの記述に基づき、当館常設展示では、「西郷隆盛と勝海舟」の交渉によって江戸無血開城が行なわれたという趣旨の解説をしております≫

ということで、江戸東京博物館は教科書通りで展示していることがわかったが、今年のノーベル賞 本庶佑氏が10月2日の記者会見で次のように述べていた。
≪研究者に必要な要素について問われた場面では、「一番重要なのは何かを知りたいという好奇心。教科書に書いてあること、文字になっていることを信じない、疑いを持つこと」と答え、有名な論文雑誌も疑う対象の例外ではないと強調。「自分の目で物を見る、そして納得する。そこまで諦めない」と述べ、多くの後進が研究の道を志すことを期待したい≫

この発言は真理を突いていると思う。歴史博物館は過去の史実を究明し、それを一般人に教える場所としての義務を負っている。ならば、異論が提出された場合、教科書に記載されているから、その通りとした、という回答はいかがなものか。館内に掲載したものに対して、自ら検討し、自信を持つ内容の掲示をすべきでないか。教科書の丸写しであったならば、博物館と学芸員の名が廃るのではないか、そのように思っているが、これについては今後も追及していきたいと思っている。

海舟銅像は、能勢妙見山東京別院(墨田区本所4-6-14)の山門先にもある。海舟が天保2年(1831)九歳の時に犬に急所を咬まれた際に全快を祈願し父小吉がここで水ごりをしたとも伝えられ、勝海舟翁の銅像が建てられている。
胸像の下には次のように刻まれた銘盤がはめ込まれている。
「勝海舟翁之像 勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和49年5月12日」
大怪我を負った海舟が妙見大士の御利生により九死に一生を得たという話は『夢酔独言』(勝小吉・勝部真長 講談社)に書かれている。
≪岡野へ引越してから段々脚気もよくなってきてから、二月めにか、息子が九つの年、御殿から下ったが、本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七郎三郎が用人の所へやったが、或日けいこにゆく道にて、病犬に出合てきん玉をくわれた。
其時は、花町の仕事師八五郎といふ者が内に上て、いろいろ世話をして呉た。おれは内に寝ていたが、知らせて来たから、飛んで八五郎が所へいった。
息子は蒲団を積で夫に寄かゝっていたから、前をまくって見たら玉が下りていた故、幸ひ外科の成田といふがきているから、「命は助かるか」と尋ねたら、六ケ敷(むずかしく)いふから、先(まず)息子をひどくしかってやったら、夫で気がしっかりした容子故に、かごがで内へ連てきて、篠田といふ外科を地主が呼で頼んだから、きづ口を縫ったが、医者が振へているから、おれが刀を抜て、枕元に立て置て、りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、漸々縫て仕舞たから、容子を聞いたら、「命は今晩にも受合はできぬ」といったから、内中のやつは泣ゐてばかりいる故、思ふさま小言をいって、たゝきちらして、其晩から水をあびて、金比羅(能勢妙見の間違いと思われる)へ毎晩はだか参りをして、祈った。
始終おれがだゐて寝て、外の者には手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともな手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともなゐから、病人はかんびよや(ママ)うがかんじんだよ≫

『夢酔独言』を書いたのは勝小吉、海舟の父親であるが、ここで勝家について少し補足したい。参照するのは『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪時代劇などでは江戸っ子の旗本として描かれる勝海舟だが、代々の武士というわけでなく、江戸に長いという家でもない。
曽祖父の銀一は越後の貧しい農家に生れた盲人で江戸に出てから、金貸し業を営み成功した。当時は、幕府による一種の福祉政策で盲人に金貸し業を許可していたからである。銀一は金で御家人株を買うと、九男の平蔵を武士にした。さらに平蔵の息子の小吉が旗本「勝」に養子入りし、勝子吉となる。この子吉の長男が勝麟太郎、後の海舟である。ゆえに武士としては三代目で、身分も低い。だが、時代は幕末の混乱期。赤貧洗うが如き生活をしていた勝だが、次第に出世を遂げていく。貧しさの中でも蘭学を学び、オランダ語を習得して、書物を通じて諸外国の事情に明るかったことが幸いしたのだ。
ペリー来航という国難にあたって、幕府は身分を問わず、町人階級に至るまで、意見書を募集したが、この時、勝が提出した海防論が上役たちの目に留まった。長崎の海軍伝習所に派遣され、その後、米国へも渡って、さらに見聞を深めた。勝の先見的な考えは幕府側、官軍側の双方から認められ、戊辰戦争の際には調整役として大役を果たし、維新後も伯爵に取り立てられるのである≫

海舟の墓は、東京都大田区の洗足池の畔に「勝海舟夫妻墓所」(大田区指定史跡)としてあり、そこの掲示板に次の説明がある。
「勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、「洗足軒」と名づけました(今の大森第六中学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました」
ここで気づくのは、能勢妙見山東京別院の海舟銅像が昭和49年建立であり、大田区洗足池畔の勝海舟夫妻墓所が大田区指定史跡に認定されたのも同じ昭和49年である。
どちらも同じ昭和49年という背景説明は簡単である。NHKが勝海舟を12作目の大河ドラマとして、子母沢寛の同名小説を原作に取り上げたことと無関係でないだろう。
主人公の勝海舟役は渡哲也でスタートしたが、渡が肋膜炎に倒れて降板、渡が第9回まで務めた後に異例の主役交代となり、第10回以降は松方弘樹が引き継いだので話題となったこともあり、最高視聴率は30.9%、年間平均視聴率は24.2%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)という好評を博したドラマであった。

大田区指定史跡説明掲示板で、さらに気づくのは、「妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています」というところ。
普通の感覚では夫婦である以上、最初から夫の隣に葬られるのではないだろうか。どうして民子は最初に青山墓地だったのか。どのような理由で洗足池に葬られるようになったのか。大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であった。このところを次回でもう少し詳しく続けたい。

 

2019年12月25日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その四

前号まで検討してきた結果分かったことは、特定の人を神に祀り上げる習俗には、その祭神の性格あるいは祭神化していくプロセスから、二つの類型があることである。
 一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」であると『神になった人々』(小松和彦著 知恵の森文庫)が述べる。
 

さらに同書が続けて以下のように記述している。
 ≪加藤玄智の『本邦生祠の研究』(中文館書店)によれば、近世から近代にかけて、死んだ人の「たましい」に留まらず、顕彰したい人がまだ存命であるにもかかわらず、その人の「たましい」を神社を作って「神」に祀り上げることさえ行われていたという。顕彰しようとする人びとの思いが強く、顕彰したい人の死を待てなかった。いや顕彰されるべき人が存命であるうちにそうすることに意味があったということだろうか。加藤玄智は、たとえば、東北地方の庄内藩で起きたいわゆる三方領地替え反対一揆が成功裏に終わった後の嘉永五年(1851)、百姓たちが藩主酒井忠器(ただたか)を「若宮大明神」として祀り上げたことや、大分県に縁のあった明治の政治家・松方正義公爵を、彼が八十五歳の時に、日田町(現・日田市)亀山公園内にある日隈(ひのくま)神社境内に「松方神社」を建立して「神」として祀り上げて顕彰した事例を挙げている。
『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社)や神社本庁の「人臣神社調査」、『本邦生祠の研究』などに列挙されている人臣神社のほとんどは、民衆の手によって建立された民間神社(私祭神社)であった≫

この実例を『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』の「松岡神社」(池主霊社)でみてみたい。「神」として祀られたのは鉄舟の弟子松岡萬(よろず)で、磐田市の松岡神社を訪ねてみた。
JR東海道本線・磐田駅から南へ約3キロ、タクシーで10分くらいである。ドライバーに松岡神社へと伝えると妙な顔をして、本部に尋ね、ようやくわかって到着できた。

≪静岡県磐田市大原の水神社境内に存命中から土地の人々に救い神として祟(あが)められた松岡萬命をお祀りする池主霊社(通称、松岡神社)が鎮座している。
この地大原一帯の水田二百町歩余りは、古くから大池の水を灌漑用水の唯一の水源として生活をたてていた。
ところが、江戸時代末期から水田造成の気運が盛んになるにつれて、大池を干拓、水田化して一儲けしようとたくらむ利権屋が相次いでやって来て、農民の生活をおびやかした。旧幕時代だけで前後少なくとも四回あった干拓出願は、その都度必至の陳情でどうやら食い止められ、いくらか大池はせばめられたが最低の水田用水は確保することが出来た。
維新後も勧業殖産という明治政府の方針に従い、この池に目をつける利権屋が少なくなかった。明治三年には静岡藩より派遣されていた見付郡役所(磐田市見付)の役人、近藤某が、嘆願書を持って干拓取止めを願い出た総代五人を郡役所に監禁するという事態が起った。途方にくれた土地の人々は、その年の十月、有徳の水利官松岡萬大人を湊村に訪ねて、中央政府への直接の訴願を持ち込んだ。
松岡萬大人は、もと徳川将軍家の旗本で、大政奉還後は徳川慶喜公に従って静岡に落ちついたが、明治政府に請れて水利官となり、湊村では護岸工事や製塩の指導に当っていた。当時三十二歳の若さであった大人は、農民の訴えを聞くと、直ちに大池に出かけて実情を調査した。そして農民たちの言い分が正しいとわかると必死の努力で中央に建言し、明治四年二月、認可が下るばかりになっていた大池干拓は御沙汰止みとなった。
農民たちの欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したのは言うまでもない。身を賭して危地から救ってくれた松岡大人に対する感謝の気持が盛り上がり、生き神様に祀ろうということになった。そして明治九年八月三十一日、池主霊社は、祭神天之水分神、国之水分神二座と、松岡萬大人の生霊を合祀して創建された。
松岡大人は、のち警視庁大警部となったが西郷南洲とも親しかったことから、明治十年西南の役を機に官を退き、余生を東京に送り明治二十四年三月十七日五十四歳で没した。
祭典は大人の生前は四月三日に行われていたが、没後は命日の三月十七日に斎行されてきた。現在は大人の生誕日に当たる四月十七日に執り行われている≫
   
実は松岡神社はもう一カ所存在している。『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』(大石貞男著)に「松岡神社・池主霊社縁起」が記されている。
 ≪志太郡岡部町(現・藤枝市)の宇津谷峠に近い部落に廻沢(めぐりさわ)という部落がある。周囲は山にかこまれ、みかんと茶と林産物で農業を営む平和な山村であるが、ここの飛龍神社の境内に松岡神社が独立して建てられている≫
 松岡神社が建立された背景には、明治初年から実施された当時の土地改革があった。明治7年から始められた林野の官民有地区区分は、林野を①国有林、御料林 ②地主所有林、③共同体所有林の三つに分け、明治14年ころからは入会地の整理が始められ、入会権をめぐって農民騒動などが発生していくなかで、岡部町の土地権問題も発生した。

 ≪廻沢村は当時二十一戸の小部落であったが、隣接の岡部宿とともに小廻沢の山林の所有権をめぐって争いがつづいていた。数カ月の間、はげしく争い、時には部落の人々は人質として監禁せられたこともしばしばであり、岡部宿は三百余戸もあるのに比し、この部落は少数できわめて無力であったので、大勢は相手方に有利に傾いてしまった。
そして最後の手段として、静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡萬に陳情することになった。
 そのために、まず、もと部落に住んでいた静岡市の伝馬町滞留の勧農係官であった小沢留造という浪士の手を経て松岡に窮状を訴えた。
松岡は事情をたずねたのち、直ちに現地に赴くことを承諾し、岡部宿の肴屋旅館に投宿して事情聴取や現地調査を行った。そして小廻沢地帯は、廻沢部落が六十両を示談金として支払い、土地は廻沢のものとするという裁断を下し、両者はこれに同意して解決したのである。
 このことによって廻沢部落の生計は維持せられるようになり、村民たちは子孫に対しても誇りとし、伝承として長く伝えるべきあることを痛感したので、松岡神社建立を決するに至ったものである。
 

祭祀の年月は必ずしも判明していなかったが、松岡家に保存せられていた次の松岡日記により明治三年十月と分かった。
『明治三年うるふ十月表方「松岡萬古道幸魂」、裏方「天朝明治三年閏十月鎮千此社」右の如く相認め廻沢の民に与ふ。執筆者久保先生相願申候』
松岡神社建立に当たって松岡家から秘蔵の遺品三十二点が奉納され、現在まで残っているが、松岡萬愛蔵の刀を始め、将軍家の書簡、頼山陽、蜀山人、江川太郎左衛門など歴史的著名な人物の書も多い。昭和三十二年十月この神社は改築せられ、祭日は十月十七日に行われる。なお、その日にうたわれた御詠歌は次のようなものである。
  まつのみどりのもろともに
  そせんのおしえ  まもりつつ
  かみのおしえに  したがいて
  まつおかさまのごおんけい
  こころにちかい   わするまじ
  ひりゅうじんじゃと  もろともに≫
 

松岡が生きながら神として祀られたことは、『おれの師匠』(小倉鉄樹著)にも書かれている。では、松岡が鉄舟の弟子になったのはどういう経緯なのか。『おれの師匠』からみてみたい。
 ≪山岡が尊皇攘夷を唱えて志士と結んでいるのを、幕府では、とうに睨んでいた。だんだん志士の勢いがつのるので、幕府では松岡に旨を含めて山岡を暗殺させようと図った。
 山岡が剣術のうまいことは松岡も承知である。然し松岡とても相当自信はあった。なに、山岡なんぞ何程のことがあるものか、と腹に一物抱いて山岡を訪ね、一仕合しようと申し込んだ。
 けれどもそれはとても山岡の相手でなかった。もろくも松岡は負けてしまった。
 「どうもおれは真剣でないと本気になれない。真剣で一つやろう」
 と松岡がいうので、それなら真剣にしようと腰の刀を抜いて差向った。松岡は辻斬を盛んにやっているので、真剣となると油が乗ったに相違ない。
 けれどもこれでもまだ山岡の相手ではなかった。「参った」と松岡は刀を引いた。
 「じゃ、一杯飲もう」と山岡が先に立って奥――といっても小石川鷹匠町の例のあばら家だが――へ行って一杯飲みだした。然し松岡はとんと酒がうまくない。一撃の下に山岡を斬って捨てようと思って来たのが此の様じゃ、みっともなくて帰って会わせる顔がない。なんとかして山岡を殺さなくちゃ使命が果されぬと思い煩った。ふと松岡は、
 「おれは実は撃剣はそううまくないのだ。柔術の方が得意なのだ。いい手があるのだが、おまえに一つ伝授しようか」と云った。
 「そうか。そんないい手なら教わって置こう」
 と山岡が、云うので「しめた」と松岡は山岡の背後に回って、山岡を羽交い絞めにかけた。勿論これで山岡を殺してしまう決心なので、満身の力を込めて、うんと絞めたので、松岡の双腕はぎっしり山岡の首にからんで、正に山岡の首は折れるかと見えた。
 このさまを座にいた中條金之助が見て承知しない。
 「この野郎、山岡を殺しにかかったな」
 とひどく怒って、松岡を斬ってしまうと青筋立てて立ちあがった。
 中條のただならぬ気色に、覚えず松岡が手を緩めた。その手を山岡が払い除け、怒る様子もなく「飲め」と酒杯を松岡に差した。
 松岡は山岡に双手を払われた時、瞬間に身構えて山岡の仕返しに備えたが、案に外れた山岡の態度に気が抜けた。と同時に重ね々々の失敗がひどく恥しくなって「これは到底おれの相手じゃない」と心から参ってしまった。そこで「実はおれはあなたを殺しに来たのである」とすっかり打ちあけた。
 「まぁいい、飲め」
 と山岡はとんと平気である。そこで松岡は志を翻して山岡に従って国事に奔走する気になり「どうかおれを捨てずにくれ!」と頼んだ。是に於いて山岡も、
 「よし、それじゃ一つおまえと約束しょう」
 と、これから山岡の発意で、降っても照っても毎日屹と山岡のところへ稽古に来ることした。そして、若し山岡が稽古を休むことがあったら、松岡は木剣で山岡を打ち据え、松岡が休んだら山岡が叩きつける約束をした。
 こうして松岡は山岡と別れたが、それからは雨が降っても、風が吹いても欠かさず山岡のところへ稽古に来た≫
 

松岡にはさらに面白い話を、続いて『おれの師匠』から紹介したい。
≪山岡が宮内省を退いた時、松岡は要路の人の不明を慨し、山岡如き誠忠無二の男を君側から離すというのは不都合だというので、短刀を懐にして、岩倉さんを訪ねた。岩倉さんを刺殺して自分も死ぬ覚悟なのである。
 流石は岩倉さん、維新以来志士や浪士の応接には幾度か生死の境を潜って来ているので、そんなことには馴れたもので、松岡の唯ならぬ気色に直ぐにそれと見抜いてしまった。そして盛んに松岡を煽り揚げてあべこべに松岡を煙に巻いてしまった。
 「君のような愛国者が居るとは岩倉具視不憫にして今日まで気がつかなかった。今は時世が時世で、どうにもならんが、どうか邦家のために身命を擲(なげう)つことを忘れないでくれたまえ」
 と美事敵の鋭鋒を奪って却て之を松岡に擬した。
 松岡は岩倉さんの知遇に感激して、すっかり逆上せて岩倉さんの許を辞去した。家に帰って二階にあがり、身辺の始末をして、自刃した。松岡では、自分が斯く潔く国家の為に身命を擲ったならば、屹度感奮して廟堂の廓清(かくせい)が図られるに違いないと、岩倉さんの言葉を勘違いしてしまったのである。
 間もなく山岡の所へ「今、松岡さんが喉を突いて自害なさいました」という知らせがあった。その時おれは二階に居たが、師匠が、
 「おい渡邊! 松岡が喉を刺したということだ。おまへ一足先に駆けつけてくれ。おれは後からすぐに行くから」
 という言葉なので、おれは直ぐさま飛び出した。松岡の家は市ヶ谷の高力松―――今、救世軍の大学になって居る所―――に在ったのだから四谷の山岡の家からは一走りであったのだ。
 行ってみると奥さんは座敷によゝと泣き崩れていてその傍らに血まみれの大刀が転がっている。
 「奥さん、渡邊です。しっかりしなさい。松岡さんは・・・?」
 泣き腫らした奥さんは声も出ず、二回を顔でしゃくりあげた。
 直ぐに二階にあがって、障子をがらり明けにかかると、中から、
 「誰だ!」
 と怒鳴った。おれは即座に「よかった、まだ死なないな」と思って、
 「渡邊だ!」
 と言いさま座敷に飛び込むと、ぷんと血の臭いがして座敷は一面の唐紅。床の間に向って松岡が座ったまま血まみれになっている。
「ヤ、渡邊君か、松岡、今日国家のため、従容として自刃した。見届けてくれ!」
「よし、見届けてやる。今、師匠もあとから直ぐに来るからしっかりしろ!」
見ると、創は首の前と後と二つあって頸の前後から、どくどくと血が脈を打って湧き出ている。取敢えず、松岡の着物の袖を引き裂いて創口を押え、おれの帯を解いて、ぐるぐるその上に巻いた。
早く師匠が来ればいいと思っていると、師匠が医者を伴れてやって来た。
「松岡さん、先生だ」
「むむ、そうか。――先生! 松岡今日国家のため従容と自・・・・。」
「馬鹿」
と大喝、師匠が、
「何が国家のためだ。ひとに迷惑かけて、国家も糞もあるか! 蹴とばすぞ」
と頭から怒鳴りつけた。
妙なもので、それまではしっかりしているように見えた松岡が、師匠に怒鳴りつけられたら、忽ちぐにゃぐにゃになってしまって、ばたりと倒れたまま昏々と眠りに落ちた。
医者がすっかり創を調べて手当てをした。創は気管の一部を切ったけれども、幸い大血管を傷つけなかったので、命には障りがないとのことで安心した。二尺四寸の大刀で、ぐっと前から後に突きたてたので、あまり刀が長過ぎて手許が外れ、斜めに頸を貫き刀の先が頸の後に出たのである≫

この自刃事件の様子から考えると、松岡は熱血漢で、行動派であることがわかる。
その後、松岡は中條金之助らと行動をともにし、静岡の牧之原開拓に従事したが、長く牧之原には止まらず、藩庁に入り、水利路程掛兼開墾方頭並となって、松岡神社に祀られたような活躍をした。
 さらに、小島(おじま)(現・静岡県清水区小島地区)の奉行をつとめた時にも、農業の奨励のために、切れ草鞋や馬ふん等を集めて、田や畑へ施すことをすすめたり、道路や橋の施設改善をはかったりして、かなりの成果を上げている。
 松岡は、施設の使役を命じる際には人夫をいたわる方法を常に講じた。例えば、安倍川に橋を建設する工事では、休息時間を設けたり、焼き芋を人夫に配り、草鞋の支給、休業日に大鍋に川魚や貝・野菜のごった煮の味噌汁をつくり、飯は大釜に芋と大根の干葉を入れた菜飯を炊いたりして与えている。この食事を人夫たちの間では安倍川の暗汁と呼んでいた。
 松岡は、明治8年には静岡を離れて東京へ行き、警視庁一等大警視として活躍し、明治23年東京下渋谷の自邸で52歳の生涯を閉じた。(参照『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』)
 

このように鉄舟の弟子が神に祀られているのに、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。

 

2019年11月29日 (金)

神にならなかった鉄舟・・・その三

前号でお伝えした白河市の「合同慰霊祭」の翌日、平成30(2018)715日は、群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺に向かった。東善寺は小栗上野介の墓所である。

小栗上野介は、安政7年(1860)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球一周に近い旅をして帰国。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行った。

鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首された。

逮捕の理由として、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠Photo_20191129104501 Photo_20191129104501 は現在まで出てきていない。

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(東善寺・小栗父子の墓)

東善寺では村上泰賢住職にいろいろご教示賜った。特にインパクト強く主張されたのは「近年、テレビや映画で勝海舟が咸臨丸で活躍する画面が出て来なくなった」ということであった。

これは「昭和36(1961)に『万延元年遣米使節史料集成』(7巻、日米修好通商百年記念行事運営会・編、風間書房)の第5巻に収められたことから、咸臨丸の実態が知られて、戦前の修身教科書による「勝海舟と咸臨丸」の勇ましいイメージが崩れた」というお話。

関連する内容が東善寺のホームページ「小栗上野介関連の人物紹介・ブルック大尉」で掲載されているので、引用紹介したい。

1860年、友好の印として、アメリカは蒸気船ポーハタン号Powhatanを提供して、日本が最初の使節団をワシントンに送るための手助けを申し出た。使節団は、少し前に駐日公使タウンゼント・ハリスと徳川幕府との間で調印された通商条約を批准するのが目的であった。徳川幕府は返礼の気持ちで(あるいは、習得した航海知識を披露したいために)、オランダから購入したばかりの自国の軍艦、咸臨丸を使節の護衛船としてサンフランシスコまで行かせることを決定した。

日本人乗組員は、航海士も船員も訓練が十分ではなかったため、徳川幕府はアメリカ人の海軍将校を咸臨丸に任命するよう依頼した。アメリカの東インド艦隊の司令官、ジョシュア・タットノール准将 Josiah Tattnall は、天文学者、水路学者として長い経験を持つジョン・マーサー・ブルック大尉を選んだ≫

≪ブルックは打診されたアメリカへの航海任務を喜んで受け入れた。そして、出航への最終準備をしているときにジョン万次郎に出会った。万次郎は難破船に乗り合わせた人間としてはブルックの先輩ということになる。万次郎は、公式通訳として咸臨丸に任命されていて、二人は長時間にわたって打ち合わせをしているが、その内容についてはブルック大尉の日誌に詳述されている。

ブルックの日誌は「死後50年間公開しない」という遺言によって公表されることなく、ブルックの孫に当たるジョージ・M・ブルック・ジュニア博士(バージニア州立軍人養成大学の歴史学教授)が保管してきた。しかし、1960年、日米友好通商100周年記念協会に提供され、日本で「万延元年遣米使節史料集成第五巻」として刊行された。

18601月の中旬、咸臨丸とポーハタン号は江戸港からアメリカに向けて出航した。さほどの日数がたたないうちにブルック大尉の日誌には、咸臨丸の日本人乗組員たちについて、訓練がよくできていないことだけでなく、(仕事に対する)無気力さについての不満が書き込まれることになった。しかし、ただ一人、ジョン万次郎にだけはブルックも尊敬の念を持ち続けた。そんな状況ではあったが、不安な気持ちの中にも、ブルックは日本人の生来の能力がなんとか安全に航海をやり遂げるだろうと信じていた。

しかし、ブルックにとって計算外だったのは、日本人乗組員が本当に気まぐれだということだった。出航後、ほどなくして二隻の船は台風に見舞われた。ポーハタン号に乗船していた経験豊かな航海士が「太平洋上で遭遇した最悪の嵐」と言うほどのものだった。

しかも、悪いことに咸臨丸の艦長(勝海舟)は船酔いでまったく指揮が取れなくなってしまった。そのため、ブルックが代わって指揮を取らざるを得ない。しかし、さいわいだったのは、ブルックが航海士として経験豊かな万次郎を頼りにできたことだった。ブルックと万次郎の二人と、難破したフェニモア・クーパー号からのアメリカ人乗組員たちがいなかったら、咸臨丸はとっくに沈没していたかもしれないのだ≫

ところが勝海舟は『氷川清話・日本海軍の基礎』で次のように述べている。

≪また万延年間に、おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行ったのは、日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ。咸臨丸は、オランダで製造した船だ≫

ブルックの咸臨丸日記とはまったく異なる記述内容だが、これについて『勝海舟の罠』(水野靖夫著 毎日ワンズ)は以下のように論説している

≪「外国人の手は少しも借らないで」というのは大ウソで、咸臨丸には日本人だけでなく、ブルック海軍大尉以下11名のアメリカ人水兵が乗り組んでいた。勝部真長氏は『勝海舟』に、「ブルック大尉の公開日記は、日本人初の太平洋横断なるものが実は名目的なもので、ブルック以下11名の米人乗組員の助力なしにはほとんど不可能であったことを証明するものである」と書いている。つまり日本人の力だけで航海したというのは、ホラ話と言うか自慢話なのである≫

さすが海舟だけのことはある。事実を簡単に曲げて、自己中心にしてしまう。

だが、ここで疑問が生じる。手許にある『氷川清話』(勝海舟全集21 講談社)は昭和48(1973)に出版されている。

ということは、この『氷川清話』が出版された時は、既に「昭和36(1961)に『遣米使節史料集成』が発刊されて12年経過しているのであるから、ブルック大尉の「咸臨丸日記」に基づき『氷川清話』の咸臨丸に関する記述・発言内容は訂正されるか、または、問題点ありと注記されるべきではないか。

仮に本当に海舟が≪おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行った≫と発言していたとしたら、海舟は大嘘つきになってしまう。

海舟は、世に喧伝されているように江戸無血開城の功労者で、明治維新への道筋を開拓した人物である。この海舟が嘘つきだとしたら、維新の功労者は信用できない人物に成り下がってしまい、江戸無血開城にも傷がつくだろう。

実は『氷川清話』の記述は、一般的に論じられているように、咸臨丸の事例のように、多くの誤謬や誤りがある。

『氷川清話』は、晩年の海舟のところに出入りしていた吉本襄が、海舟から聞いた話と、他の多くの人々の手によって新聞や雑誌に発表された海舟談話を、吉本が明治30(1897)11月『海舟先生氷川清話』として発行、これが非常に好評であったので、気を良くした吉本は翌31(1898)に『続海舟先生氷川清話』を、さらに同年11月には『続々海舟先生氷川清話』を発行している。いずれも、海舟生存中のことである。

したがって、記述の責任は勿論、全て吉本襄にあるが、史実に照らし、明らかに誤りである箇所は、後世の識者が訂正する必要があるだろう。

勝海舟全集刊行会の代表は文芸評論家の故・江藤淳氏であるが、江藤氏ほどの知識人がブルック大尉の「咸臨丸日記」を知らないわけはない。

是非共、妥当な『氷川清話』にして欲しいものである。

 

ここで再び東善寺に戻りたい。

小栗父子の墓の手前に、二人の胸像が立っている。2

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左が小栗、右が栗本鋤(じょ)雲(うん)である。栗本は小栗家の屋敷内を借り開いていた安積艮斎塾に入り、小栗と知り合い生涯の盟友となり、横須賀製鉄所(造船所)建設の現地責任者を命じられた。

東善寺のホームページ「栗本鋤雲の事績」によると、≪ヴェルニーを上海より呼び寄せて総裁とし、横須賀湾にツーロン製鉄所の3分の2の規模として、製鉄所1ヶ所、ドック大小2ケ所、造船場3ヶ所、武器廠共に4年で完成する。費用はおよそ1年60万ドル、4年で総計240万ドルを要することを契約した≫とある。

小栗の胸像は、神奈川県横須賀市汐入町のヴェルニー公園内の開明広場にもある。この公園はフランス庭園様式を取り入れた造りで、対岸にフランス人技師ヴェルニーが建設に貢献した横須賀製鉄所が望め、ヴェルニー・小栗祭りとして二人の功績をたたえる式典も毎年開催されている。

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胸像の説明として以下が書かれている。

「日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと横須賀製鉄所(造船所)建設を推進しました。軍政の改革、フランス語学校の設立など日本の近代化に大きく貢献したが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解かれ、領地の上野国権田村(群馬県倉渕村)で官軍により斬首された」

横須賀市内にある小栗の胸像はこれだけでない。「横須賀市自然・人文博物館」(神奈川県横須賀市深田台)入口前にもあり、さらに同博物館の人文館2展示室「1719世紀の和洋船と浦賀」にも、以下の記述とともに胸像が設置されている。

≪海を切り拓いた人々として、安針塚駅で知られるウィリアム・アダムス、横須賀製鉄所を成功に導いた小栗上野介忠順とフランソワ・レオンス・ヴェルニーの胸像を入り口に展示して、皆様をお出迎えしています≫

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さらに、「横須賀市自然・人文博物館」に隣接している「横須賀市中央公園」にも小栗の胸像が設置されている。

このように小栗の胸像はいくつも存在することからわかるのは、横須賀市が小栗の業績を高く評価していることである。

小栗についてヴェルニー公園の事務所でもらった小冊子『小栗上野介と横須賀』に以下のように業績が書かれている。

≪「日米修好通商条約」が調印され、翌年この批准書の交換がアメリカで行われることになり、幕府はその使節団を送り込むことになりました。当初、幕府が決めていた人たちがさまざまな理由で行かれなくなり、9月になって正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗正順と決まりました。

新見や村垣はすでに幕府の要職にありましたが、小栗は大抜擢といってよいでしょう。小栗はこの拝命の前日に幕府の目付に任命され、さらにこの年の11月豊後守に叙せられました≫

写真は、ワシントン海軍造船所における遣米使節団一行で、前列右から二人目が小栗である。

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≪この大抜擢の陰で、小栗には一つの大きな密命が課せられました。それは通貨の交換比率の不公平を是正することでした。当時、「日米修好通商条約」により、諸外国の貨幣は日本の貨幣と「同種同量」をもって通用すると決められ、例えば「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という交換比率でした。ところが、金と銀の交換比率は、海外では金の価格が日本よりも3倍も高いものでした。この比価の違いが、日本からの金(金貨)の大量流出を招いていたのでした≫

≪小栗は、フィラデルフィアの造幣局の一室で、日米貨幣の金含有量をそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し、周囲を驚かせるとともに、こうした不公平さをアメリカ側に納得させたのでした。

これで小栗のアメリカ側の評価が一躍高まります。それまでの目付を直訳した「スパイ」から、小柄ではあるが威厳と知性と信念が不思議に混ざっている男として、また「NO」をはっきり言える人として見直されたのでした≫

しかし、小栗はアメリカ側に金貨(小判)の価値は認めさせることができたものの、是正交渉の権限は遣米使節に与えられておらず、アメリカ側もそのような交渉はなるべく避けたい意向が働いて、本格的な是正交渉にまでは至らなかったが、小栗の鋭い思考を持つ人物だと評価できる。

さらに『小栗上野介と横須賀』は小栗の功績を以下のようにまとめている。

≪小栗は横須賀製鉄所のほかにも、鉄道建設(江戸~横浜間)、国立銀行、電信・郵便制度、郡県制度の創設や、また商工会議所や株式会社組織など近代的な経営方法をも発案していました。

これらは明治以降、新政府の手で次々に実現され、急速に近代国家としての形を整えていきましたが、その陰には小栗が旧弊を打破し、近代国家に向けて推進しようとしていたことが、浸透し始めていたことを忘れてはなりません≫

≪明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。

現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています≫

この讃えた結果が、横須賀市内にいくつもある小栗の胸像なのである。

これは小栗の死が「祟る」と考えて胸像化したのではなく、明らかに製鉄所建設を推進した行為に対する「顕彰」として作られたのであろう。

近代以前、特定の人物を神に祀り上げるという習俗には、二つの類型があって、一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプであると『神になった人々』(小松和彦著、知恵の森文庫)は述べ、次のように解説する。

 ≪「祟り神」タイプは古代から現代まで連綿として続くもので、祟る者の「たましい」を神社などの信仰施設を作って、そこに「神」として祀り上げることで、その祟りを鎮めようとしたものである。

 これに対して、「顕彰神」の方は、比較的新しいタイプで、中世末から近世初頭あたりに始まった信仰形態で、天寿をまっとうした者であれ、不慮の事故などで人生半ばで亡くなった者であれ、その生前の偉業を顕彰し後世に伝えたいという思いから、神社などの信仰施設を作ってその人の「たましい」を神に祀り上げたのである。

 前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプのそれは徳川家康を祀った「東照宮」である≫

 「顕彰神」タイプは「人神神社」で、これは近世以降に生み出されたものがほとんどで、為政者だけでなく、民衆の側からも建立されているので、その数も多い。

 『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社 1981年出版)には、民衆からその偉業を称えられ、その記念・記憶のために神として祀られた人物を祭神とする120社におよぶ大小の神社が紹介されている。また、神社本庁の「人臣神社」(人を神として祀った神社)の調査によれば、全国に四千にも及ぶ人を神に祀った大小の神社があるという。

小栗を「顕彰神」として、横須賀市は胸像を建てたが、『小栗上野介と横須賀』に記されたように、その功績は日本全体の近代化に大きく貢献しているし、司馬遼太郎も「明治という国家」(NHKブックス)の中で、小栗を「明治の父」と讃えている。

 ならば小栗の生前の偉業を顕彰するためには、横須賀市に止まるのではなく、日本国家としての「顕彰神」にすべきではないか。

 しかし、現実は一地方行政下での功績扱いにとどまっているが、鉄舟と比較すると胸像によって「顕彰神」になっているだけ「まし」である。

 鉄舟の2大功績は「江戸無血開城」と「明治天皇の教育」であるが、現状としては全国的な「顕彰神」として祀られていない。なぜなのか。これについても次号以降も検討していきたい。

2019年9月25日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その一

昭和20年(1945)8月15日の玉音放送、始めて聞いた昭和天皇の肉声によって、その意味する敗戦の事実を知った日本国民は、ショックで一瞬にして虚脱状態に陥り、町中異常な静けさに覆われたことを、当時まだ幼子だった筆者は、心に確り強く記憶している。

これと同様の悲哀を江戸市民も今から150年前に味わった。今まで将軍様より偉い人は知らなかった江戸っ子にとって、京に天子様がいるなぞということは、ずっと長い間意味のない存在だった。

その身近で最も偉い将軍様であった十五代将軍・徳川慶喜が、突然大坂から戻ってきて、江戸城で喧々諤々の大評定をしていると思っていたら、突然、上野の山に隠れてしまって、代わりに京の天子様の命令で、薩長の輩が官軍という名分で江戸城に攻めてくるという。

官軍に攻撃されると江戸市中は火の海になって、壊滅するかもしれない。店や住まいが燃えてしまう。これは大変だ。どうしたらよいのか。町中大騒ぎになって、ただ右往左往、今まで考えたこともなかった事態で、混乱の極に陥ったが、山岡鉄舟が駿府に赴き、西郷隆盛と談判、江戸無血開城が成り立ち、江戸は火の海にならずに済んだ。

その鉄舟登場について、歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎(1906~75)が、『山岡鉄舟・日本史探訪・第十集』(角川書店)で次のように述べている。
≪山岡鉄舟先生は、江戸城総攻めの始末がついてからのち、それでなくとも忙しいからだを、つとめて人に会うようになすった。それも庶民階級、まあ、出入りの植木屋さんから大工さん、畳屋さんから相撲取りから、話し家、役者、あらゆる階級の人たちに会って、鉄舟さんのおっしゃった言葉は「おまえたちが今、右往左往したってどうにもならない。たいへんな時なんだけれども、いちばんかんじんなことは、おまえたちが自分の稼業に励み、役者は舞台を努め、左官屋は壁を塗っていればよいのだ。あわてることはない。自分の稼業に励めばまちがいないんだ」と言うのです。このいちばん何でもないことを言ってくださったのが、山岡鉄舟先生で、これはたいへんなことだと思うんです。
今度の戦争が済んだ終戦後に、われわれ芝居をやっている者は、進駐軍がやってきて、これから歌舞伎がどうなるかわからなかった。そのような時に、私たちに山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでしたね≫

さすがに歌舞伎界の故事、先達の芸風に詳しく、生き字引と言われ、随筆集『戯場戯語』(中央公論新社1968年)で第17回日本エッセイストクラブ賞を受賞している八代目坂東三津五郎である。

鉄舟についても詳しい。それもそのはずで「慶喜命乞い」の芝居を演じた際に鉄舟を随分研究している。前述の『日本史探訪・第十集』は、当時の鉄舟研究の第一人者である大森曹玄先生との対談で語られたものであるが、鉄舟の子ども時代から江戸無血開城の経緯、明治天皇の侍従時代、さらに剣・禅・書についても詳しくふれている。さすがに人間国宝と認定された人物である。

しかし、八代目が「山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでした」と述べたが、実際には同様のことを発言した人物はいたはず。日本人はそれほど愚かではない。敗戦と言う事実に直面し、混乱している殆どの人たちの中にあって、冷静に明日以降の日本について考察した人物が日本各地でいたと思う。

だが、鉄舟と同様のことを述べたとしても、周囲に与えた影響力という点で、鉄舟とは比較にならない程度にとどまったのであろう。鉄舟ほど一般大衆に対して大きな感化力を持つ傑人が、敗戦直後の日本には存在しなかった。仮にいたとしても人間の器が違っていたと推察する。

180度転換する価値観激変社会状況下にあって、一般大衆に、それぞれが持つ自らの仕事と関係付けて、分かりやすい言葉をもって語りかけ、それが素直に納得され、受け入れられていくように教え諭しができる人物が本物ではないかと思うが、そのような傑物がいなかったという事実を八代目が述べたのだと思う。つまり、鉄舟の偉大さを語るために8月15日と江戸無血開城をつなげて語ったのだ。

なお、八代目三津五郎は美食家としても有名だったが、昭和50年(1975)1月16日 京都南座の初春興行『お吟さま』に出演中、好物のトラフグの肝による中毒で68歳急死した。

この急死は、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず例に挙げられるようになるほどの大事件だった。この事件は、危険を承知の上で毒性の高い肝を実に四人前も平らげた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っているはずの板前の包丁捌きがいけなかったのかで、従前にはなかった大論争を引き起こしたことでも名高い。
法廷では、「もう一皿、もう一皿」とせがむ三津五郎に板前が渋々料理を出したことが争点となった。当時はまだフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったが、結局この事件では「渋った」板前が調理を「しくじった」ことに変わりはないとして、業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出て、世間を騒がせた。

だが、このように日頃からあらゆる美食を楽しんでいたが、庶民の味には疎かったらしく、孫の十代目三津五郎がまだ少年だった頃、一緒にはじめて札幌ラーメンを食べて、「世の中にはこのような美味い物があるのか」と驚いていたという。

平成30年(2018)7月の日本経済新聞『私の履歴書』連載は歌舞伎俳優の中村吉右衛門で、その中で歌舞伎は戦時中も受難したとある。終戦の前年である昭和19年(1944)に、決戦の非常措置で「高級享楽」とされた歌舞伎座など大劇場は閉鎖され、終戦後も進駐軍が、「歌舞伎が日本人の封建的忠誠心を助長する」として、仇討ち物を中心に時代物の多くを上演禁止としている。

この状況下、八代目坂東三津五郎も歌舞伎の先行きに危機感を持ち、こういう時に鉄舟のような存在がいれば・・・・と希ったのであろうが、言葉を代えて述べれば、この現象は「神様・仏様」の到来を祈願したわけで、困ったときの神だよりであろう。

ところで現在は「御朱印ガール」ともいわれる御朱印ブームとなっている。このはじまりは、1990年代から霊的な力が満ちている場所とされる「パワースポット」を訪れるブームが徐々に高まり、今では「パワースポットめぐり」はすっかり一つのアクティビティとして定着した感があるが、そのようなパワースポットの一つである神社や寺院を訪れ、御朱印を集める「御朱印ガール」が急増している。
筆者の知人女性にも「御朱印ガール」がいて、先日、集めている御朱印帳写真を参考までに送ってもらったが、確かにブームと感じる。
 
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 御朱印とは、神社や寺院が実施している参拝者向けの押印である。僧侶や神職が寺院・神社やご本尊の名称・日付などを墨書することが多く、それを収集する女性が増えていて、神社や寺院に行くと「御朱印はこちら」といった看板を立てているところもあり、目にしたことがある人も多いだろう。

先日、明治神宮に参拝したが、やはり御朱印を頂くところに多くの人がいる。本来、御朱印は納経した証しとして頂くものだったといわれているが、現在では無料もしくは300円ほどで書いてもらえる気軽さもあり、「御朱印帳」を持ち歩いて集めている人が増えている。実際、多くの寺社では10年前に比べて御朱印を求める女性が5~10倍に増えているともいわれている。

御朱印は江戸時代に始まり、元は巡礼の際に納経した証しとして授与されていたようで、明治以降、納経なしでも参拝したことでいただけるようになり、参拝記念となって、御朱印が参拝記念として注目され始めたのはここ数年のこと。

巡礼をするのは今まで高齢者が多かったが、パワースポット巡りのブームから若年層や女性にも人気が広がって、女性に受けるようなオシャレで可愛い御朱印帳も登場してきた。現在では御朱印の種類も増え、お花や紅葉の印が押されていたり、カラフルな色紙が登場したりと、御朱印そのものが女性向けになってきたような感もする。

コレクションするという意味では男性ファンも多い御朱印だが、女性の巡り方には特徴があるようだ。ハマりだすとどんどん欲しくなり、居住地の近くだけでなく“御朱印をいただくための旅”がしたくなってくる。

ひとりで黙々と御朱印集めだけに専念しがちなコレクタータイプの男性に対して、同じ趣味の友人と御朱印談義をしながら巡るのが“御朱印ガール”。目的は御朱印だけでなく、その土地の名物を食べたり買い物したり、美しい花や景色を堪能したりして“癒し”を感じること。日付が入った御朱印を旅の記録とする傾向があるのも女子ならではのこと。

女性の参拝者が目立つようになってからは、御朱印帳だけでなく、お守りなどの授与品も華やかになり、寺社が集まるエリアにはおしゃれなカフェも登場。寺社参拝だけでない楽しみがある場所に女性は集まってくる。
新しい旅のスタイルとして定着し始めた御朱印巡り。外国人観光客が納経所に並ぶ姿も見られるようになって、漢字が好きな外国人にとって、墨で書かれたダイナミックな筆遣いの御朱印はお土産にピッタリ。

仏教から始まった御朱印だが、インドや中国にはないという。キリスト教では巡礼した教会でスタンプを押すというところもあるらしいが、墨で書かれるということはもちろんない。台湾に西国三十三カ所巡礼を模した巡礼があるようだが、これは日本人が持ち出したもの。つまり、御朱印は日本独自の文化である。

見た目のアーティスティックさだけでなく、日本の伝統をさらに深く知りたくなって興味を持つ。最近は、修学旅行生や小学生までもが御朱印収集している姿を見かけるようになってきた。女性だけでなく世代を超えて、人種を超えて注目が集まる御朱印の人気はまだまだ続くだろう。
このような御朱印ブーム、それはお寺や神社が存在するからであるが、ここでは神社に絞って考えてみたい。

いったい神社に祀られている神様とはどういう存在なのだろうか。それを定義しておかないと、本稿の「神にならなかった鉄舟」は進まない。
実は、本居宣(もとおりより)長(なが)が神を定義している。『神道の逆襲』(菅野覚明著)を参照してみてみよう。
≪本居宣長(1730~1801)の定義はこうである。「さて凡て迦微(かみ)とは、古(いにしえ)御典(のみふみ)等(ども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐(ます)御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり。)」(『古事記伝』三之巻)
宣長のいうところは、それが人であれ、動植物であれ、自然現象であれ、ともかくもそのものが、私たちにとって「可畏き物」、すなわち身の毛もよだつような異様なものとして出会われれば、それが神だということである。この定義は、今日私たちが、名人・達人・奇人・変人の類を「~の神様」と呼んではばからない、日本語の「カミ」という言葉のニュアンスをよく言い当てている≫

≪人々は確実に神のおとずれを知ることができた。というのは、神さまがやって来る時には、必ず何らの仕方でそのことを示し現すものであるという共通了解が、人々の間にあったからである。神さまが自らを何かの形にあらわすことは、古来「たたり」と呼ばれてきた。今日では、たたりといえば何か悪しき霊のもたらす災いとばかり考えられているが、もともとは、神さまがその威力をあらわすこと一般をさしている。「たたり」という語も、「虹がたつ」などというときの「たつ」、つまり、「あらわれる」という意味の「たつ」と関係があるとも言われている。
そういうわけで、神さまの出現(たたり)には、さまざまな形がありえた。しかし、とくに顕著なのは、やはり何といっても、地震・噴火・豪雨・落雷・疫病といった災害・災厄の類であった。そうした大規模な災いと共にあらわれる神さまの威力は特に絶大なものと感じられたから、その経験は多くの人の記憶に深い印象を残したとみられるのである≫

八代目坂東三津五郎は、敗戦という未曾有の出来事に遭遇し、助けてくれる神様が顕れることを期待し、出て来るならば鉄舟のような人物がほしい、と名指したのであろう。

なお、人を神に祀る習俗には二つあるという。一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」である。

「祟り神」タイプは中世以前の人を神に祀った神社に多く、「顕彰神」タイプは「人神神社」で近世以降につくられており、為政者が創建したものばかりでなく、民衆の側から積極的に建立されている。(参照 『神になった人々』小松和彦著)

だが、鉄舟は江戸無血開城という偉大な業績を遺したのに、どこにも「鉄舟神社」は存在しない。その疑問持ちつつ、神の検討を次号でも続けたい。

鉄舟から影響受けた円朝・・・その二十二

実は、鉄舟が禅修行に本気に取り組みだしたのは、清川八郎との因縁からといえる。

鉄舟と同じく虎尾の会の発起人である清川が暗殺されたのは文久3年(1863)4月13日、その日、麻布の出羽3万石上山藩上屋敷を退去し、屋敷前の一の橋を渡り、大和郡山藩15万石下屋敷の前に差し掛かったところで刺客に襲われ命を落とした。享年わずか34。

その翌日、幕府は関係者処分の一環として、高橋泥舟と鉄舟を御役御免の上蟄居とした。高橋泥舟に謹慎宥免の沙汰が下りたのは、文久3年12月10日で「二の丸留守居役席、槍術師範を命ず」と元の職務に復帰し、続いて12月25日鉄舟にも謹慎宥免の沙汰が下った。

この謹慎の日々は、剣を振うこともできず、一室に座り、座る目の前には書見台があるのみ。そういう環境に陥って、書見台を稽古相手として集中し没頭していくと、自然に今までの人生を問い質すことにつながり、己の奥底には何が存在しているのだろうかという問いになり、結果として「やはり自分が向かう道は剣だ」と改めて確認できたのである。

ところで鉄舟は、清川をどのように思っていたか。石井宗吉氏(元明治大学教授)が『明治宮廷秘話』(弁論53 昭和27年)で、鉄舟の娘から聞いた話として次のように書いている。
≪山岡鉄舟は、いま上野谷中の禅寺全生庵に眠っている。彼が世に在りし日の愛娘、一老女がつい先年まで、この寺の境内に庵室を構えて父の墓守をしていた。わたしは、いくたびかそこを訪ねては、よく昔話をきいたものである。老婦人は、すでに八十に近い齢であったが、しっかりした口の達者な人で、わたしと感興にのっては、語り合い、秋の日の傾くのをわすれることもあった。
鉄舟の恩顧をうけたもの、また親しく交わったものは、数多いが、その中で、父の話としてごく印象にのこっているのは、清水次郎長と清川八郎のことであるといって、老女はよくこの二人の話をしたものである≫

この老女が、鉄舟の長女・松子さんか、三女の島子さんであるかは不明だが、全生庵の庵にお二人が住んでいたことは事実である。
石井氏が、清川が無礼な振舞いをする町人を斬ったときの腕のすごさについて、
≪伊藤痴遊 (注 明治、大正、昭和初期に活躍した講釈師)はこういっています・・・無礼もの! という声と共に其奴の首は鞠を投げたように傍らの瀬戸物屋にとび込み、ガチャンと音がして、棚にある皿の上にのった。これ全くの腕の冴えである。・・・」
と話すと、老女は声をあげて笑った。「それは痴遊さんの作り話ですよ」といって、実際はこうであったと話し出す。それがまた振るっている。
「清川が、エッと叫んで斬り下げる。町人風の男は真二つになって、その片身がかたわらの建具屋の店先に入った・・・」
これも、大分勢いがつきすぎている≫

この話、鉄舟は清川と関係が深かったことを裏づけるものであろうが、清川が暗殺されたことから謹慎宥免となり、一室に籠って思考し続けた結果「己は剣の道だ」と改めて気づき、高山以来の師である井上清虎の導きにより、小野派一刀流の浅利又七郎と出会えたのである。

鉄舟と立ち合った当時、浅利は四十二歳の男盛りであった。
鉄舟と浅利の立ち合い、浅利が下段につけて構え、鉄舟は正眼に構え、得意の突きで打ち込もうとした、その瞬間、浅利の竹刀の先がさっと上り、鉄舟の喉元に向けられ、その形のままに、浅利は、
「突き・・・」
と言った。
実際に突きを受けたわけでない。だが、鉄舟は一歩も前に出られなくなっていた。喉元に竹刀が食らいついていて、切っ先を外そうと右に回ると、右についてくる。左に避ければ左についてくる。後ろに退くと、またもぴったりついてくる。
いつの間にか、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない。
「参った」
鉄舟が叫んだ。

面当てを取ると、実際には竹刀が全く当たっていないのに、喉首が激しい突きを喰ったかのように痛む。
これは、到底、自分なぞが敵う相手でない。20歳で山岡静山に完膚なき敗北を期して以来の完敗である。上には上があるものだ。鉄舟は完全に頭を下げ、
「弟子にしていただきたく、入門をお許し願います」
と、浅利道場に通うことになったが、その後もどうしても勝てない。浅利が大きな壁として聳え立ち、それを克服するためには何をしたらよいのか。

人は悩んだ時、相談する相手は、やはり信頼する人物になる。今まで鉄舟が最も敬愛した師は山岡静山、その弟で義兄となる高橋泥舟は隣家に住んでいて、静山亡き後の最も近しく親しい仲であり、何事も話せる。ある日、苦しい胸中を、正直に伝えてみた。
「義兄上、どうした訳でしょう」
「うーむ。鉄さんがそれほどになるのだから、浅利又七郎は本物だ」
「自分の何かが、欠けているのだと思っているのですが」
「剣の技を磨くだけでは無理かもしれない」
「剣の稽古だけではダメということですか」
「そう思う。心の修行で立ち合うしかないだろう」
「そうですか。そうか・・・。やはり修禅によって立ち向かうしかないのか」

鉄舟は頷き、なるほどと思い、今までの禅修行を思い起こし、剣に比べ、追究が甘く未だしだったこと、それが、浅利を打ち崩せない理由だとすぐに飲み込む。

こういうところが鉄舟という人物の素晴らしさである。気づきが素直で、問題解決に向かって決して逃げず、前向きに対応する。

以後、鉄舟の禅修行は明治13年(1880)まで続き、大悟へのきっかけをつかんだのは、平沼銀行を設立した豪商の平沼専蔵のビジネス体験話からであり、それを一言でまとめれば、「損得にこだわったら、物事は返ってうまくいかないという、心の機微を実践の中から学び、この実践を通して事業を成功させた」というものであった。

これに鉄舟は深く頷き、「専蔵、お主は禅の極意を話している」というと同時に「解けた」と叫んだのである。
平沼専蔵からヒントを受け、それから5日間、昼は道場で、夜は自室で座禅三昧に明け暮れた。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。
肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった3月29日の夜、ふっと三昧からわれに帰ると、ホンの一瞬かと思ったのに、すでに夜は明けなんとする頃になっている。気持はいつになく爽やかで、清々しく、すっきりしている。

鉄舟は座ったままで、剣を構えてみた。すると、昨日まで際(きわ)やかに山のような重さで、のしかかってきた浅利又七郎の幻影が現れてこない。
「うむ、これはつかみ得たか」と頷きつつ、道場に向かい、木刀を握った。
すると、立つは己の一身、一剣のみ、浅利の姿は全く消えている。四肢は自由に伸び、気は四方に拡がって、開豁(かいかつ)無限である。
ついに浅利の幻影を追い払い、「無敵の極意」を得ることができたのだ。

この瞬間を鉄舟は次のように表現している。
「専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。時既に夜を徹して三十日払暁(ふつぎょう)とはなれり。此時、余猶坐上にありて、浅利に対し剣を振りて試合をなすの形をなせり。然るに従前と異なり、剣前更に浅利の幻身を見ず。是(ここ)に於いてか、窃(ひそか)かに喜ぶ、我れ無敵の極処を得たりと」

鉄舟が自らの剣において、極意をつかみ得た瞬間を書き述べた「剣法と禅理」の感動場面であり、この大悟によって明治13年(1880)に無刀流を開いたのである。

無刀流と称する意味を『剣術の流名を無刀流と称する訳書』(『山岡鐵舟』全生庵編)は、
「心が自由自在かつ無尽蔵」で動くことだと述べている。この無刀流極意から論じれば、尊王攘夷派であったとしても、その時代の変化、時流に基づいて行動することは可能になる。

さらに、『山岡鉄舟の武士道』(勝部真長編)で、次のようにも語っている。
≪世人はあるいは勤皇主義とか、開国主義とか、攘夷主義とか、討幕主義とか種々名づけているが、拙者は総合一括してみな勤皇というのだ。元来、わが国の人士は勤皇が本(もと)である。だからその枝葉も勤皇に違いない≫

このところを正確につかむ必要があるだろう。鉄舟は上位概念を常に考えに入れて行動しているのである。つまり、物事を解決するためには、目先の出来事や考え方を整理することが一般的だが、その前に、眼前で行動し、主張していることが「何のためにしているのか」を検討する。一度、立ち止まって、その本質を問うことをすべきと述べているのである。また、これをできる人物が時代を見通せるのだとも語っている。

鉄舟が謹慎蟄居を解かれたのが文久3年の年末、それから慶応4年(1868)3月の駿府行きまでの約4年間、鉄舟は浅利に勝つため、日夜、厳しい禅修行を続けていたが、その過程で上記の「本質を問う思考と行動」を身につけた。つまり、慶喜の命で駿府談判に赴いた駿府で西郷隆盛を納得させるだけの力量が身に備わっていた。

言いかえれば、幕末時における鉄舟の人間力が、官軍の実質的リーダーとして最強の権限者であった西郷をも、説得できるほどになっていたという意味を持つ。

その修行過程の明治10年(1877)、円朝は鉄舟に弟子入りしたのである。
明治維新当時、円朝は江戸っ子であることにこだわっていたし、同じ落語家にも政治犯として獄中死した四代目三笑亭可楽のような人物もいた。
可楽は本名を榊原謙三郎といい旗本だったが、放蕩の末、噺家となり二代三笑亭可楽の養子となって三代翁家さん馬を名のり、のちに三代朝寝坊むらくを継いだ。
豪商などの贔屓にもなったが、丸屋宇兵衛という商家の婿になり、それも間もなく離縁となって四代目三笑亭可楽を名のった。
離縁に際し、元幕臣としての血が官軍の江戸入りを見るにしのびず、抗戦の陰謀を企て、寄席の高座に爆薬を仕掛けようとした。
この計画が事前に発覚したため地方に逃れ、滝川鯉かんの名で興行しつつ日を送っていたが、再び、東京に立ち戻り浅草弁天山の火事を見物していたところを逮捕され吟味中、明治2年(1869)9月、獄中で死亡した。

可楽は獄中から円朝に一書を送り、愛弟子の夢助の将来を円朝に託した。円朝はこの要望を聞き届け、夢助を弟子に加えた。これが後に座り踊りの名手となった円三郎である。

このように新政府に歯向かう落語家もいたが、時代の感覚を鋭くとらえて、新時代の客層を取り込むことに成功する噺家もいた。その代表が、円遊の「ステテコ」、万橘の「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした派手な芸で、新しい自由な刺激の強い娯楽を求める層と合致し人気を博していた。

しかし、当然に江戸期の感覚で演ずる噺家もいるし、文明開化の姿に接していながらも、旧態を脱することのできない人々も多く、これらは新しい社会生活になじまずに悶々と過ごすことになる。

円遊、万橘の珍芸に拍手を送り、単なる娯楽として満足を示す観客層は、新しい東京人であった。

一方、伝統的な人情噺の陰影に江戸期の風俗や生活の残りを求めていたのは、旧江戸人を中心にした観客層であって、ここに焦点を当てた芸を売り物にしていたのが三代目円生であった。特に「累(かさね)の怪談」、これは元禄3年(1690)刊の『死霊解脱物語聞書』と題する勧化本(かんげぼん)、読者を仏教の教えに導くために書かれた、累の怪談噺はこれから始まったといわれ、その後、累の亡霊を登場させる類似作が歌舞伎や浄瑠璃で上演され、円朝の『真景累ヶ淵』にも引き継がれているが、それらはすべて目には見えない、先の世からの因果の図式にもとづくもので、めぐる因果の恐ろしさを感じさせるものである。

この円生、三遊派最高の名跡を受け取っていたが、次第に江戸期感覚のままで幽霊・祟りも芸を続けることと、新時代になっても自らを変えられない芸との間で悩みはじめ、とうとう神経病に追い込まれていき、明治14年(1881)8月46歳の若さで死去し、それが「9月9日付朝野新聞」で次のように報道された。
≪売り出しの落語家円生は此の程病没したるが、此の円生は義母マツの存命中、兎角不幸の仕業あり、又、其妻も似たもの夫婦の諺の如く、義母に邪見なりしゆえ、マツは、私が死ねば二人に取付くなどと云ひたることもありたる由。然るに先頃、マツが死去せし後、或る日円生夫婦の居る処へ一羽の蝶が舞込み、円生に取り付くを追い払えば、また円生に取り付き、妻が追い払えばまた円生に取り付き、離れざるより、例の疑心暗鬼にて、扨ては養母の怨念ならんと、夫より円生は神経症を発し、終に黄泉の客となり、其の後、妻も同病にて今に枕も上らぬとのこと≫

この記事は、一片の現象を書き述べたものであろうが、一方で開化の世を謳歌し、陋習、迷信を破って新時代に力強く生きていこうとする人たちが増加する反面、依然として仏教的な因果観に固執して、自己の人生を考える人も少なくなく、それが円生でもあったが、己の殻を己が破るという自己革新できない層も大勢いたのである。

円生が亡くなったのを円朝は上州で知ったという。これも幕藩体制の崩壊で旅行が解禁され、それまで自由に行けなかった地方の状況を知りたい、という人々への欲求に応えるよう円朝が取材という行動をしていたことを示している。

円朝の特性は鋭い観察力であり、時代を取り込む感性である。創作した作品を分類してみると、それがよくわかる。
「怪談噺」「伝記物」「翻案物」「芝居噺」「人情噺」「北海道取材作」「落語」と大きく7項に分類でき、単なる落語家としての域を超えているが、この中から代表的な三つを選んで説明したい。

一つは「怪談噺」である。安政6年(1859)から創作し始めたのが『真景累ヶ淵』をはじめ、江戸期の人々に深く入り込んでいる因果関係を、明治に入ってからも『怪談乳房榎』などを人間絵図として創り、それを天才的ともいうべき舌三寸から語り続けた。

二つめは「伝記物」である。維新の大改革で江戸っ子は日常生活習慣を変えさせられ、地方からの移住による人口増加もあり、江戸は「雑多な東京」となり、その中で多くは、新しい時代の生き方をどう組み立てればよいのか戸惑っていた。
特に地方出身者は、慣れない環境で、いかに生活を成り立たせ、豊かになれるのか。その方策や指針を求めていた。
そのような情勢下、円朝は、維新政府の改革変化にクレームをつけるのではなく、それらを包み込む「新しい時代の生き方」として「塩原多助一代記」と「塩原多助後日譚」に代表される立身出世物語を示したのである。それは当時の人々に広く受け入れられただけでなく、政府からも支持され、ついに明治25年(1892)には修身教科書に取り上げられた。

三つめは「翻案物」である。明治16年(1883)に鹿鳴館が開館されたことで示された時の欧化政策、その影響から外国に関心を持つ新しい読者層が増える動き、これを素早く取り入れ出版したのが明治18年(1885)の『英国孝子ジョージ・スミス伝』である。その冒頭部分を紹介する。
≪御免を蒙りまして申上げますお話しは、西洋人情譚(ばなし)と表題をいたしまして、英国の孝子『ジョージ・スミス伝』の伝、之を引続いて申上げます。彼(あち)国(ら)のお話しではどうもちと私の方にもできかねます。又お客様におわかりにくいことがありますから、地名人名を日本にしてお話しをいたします。
英国のリバプールと申しますところで、英国の竜動(ロンドン)より三時間で往復のできるところ、日本でいえば横浜のような繁盛な港で、東京(とうけい)で申せば霊岸嶋鉄砲洲などの模様だと申すことで、その世界にいたしてお話しを申上げます。スマイル・スミスと申しまする人は、あちらでは蒸気船の船長でございます。
これを上州前橋立(たつ)町(まち)の御用達で清水助右衛門と直してお話しをいたします。その子ジョージ・スミスを清水重二郎という名前にいたしまして・・・≫
≪これはある洋学先生が私に口うつしに教えて下ったお話しを日本の名前にしてお和かなお話しにいたしました≫

臨機応変といおうか、縦横無尽といおうか、正に、鉄舟の『剣術の流名を無刀流と称する訳書』に書かれた世界、
≪過去・現在・未来の三世から一切の万物に至るまで、何一つとして、心でないものはない。心というものは痕跡を残さないものであり、自由自在かつ無尽蔵である。東に現れ出るかと思えば西に消え、南に現れれば北に消える。まさに神変自在、天も予測することはできない≫

この境地に、鉄舟から受けた禅修行によって、円朝も到達したのであろう。
結果として、時代の機微をとらえ、機敏さと柔軟性を発揮し、三遊派一門の復興と、芸人の社会的地位の向上を実現したのである。

これで「鉄舟から影響受けた円朝」編を終え、次号からは「神にならなかった鉄舟」を論じて参ります。

2019年6月26日 (水)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その二十

明治17年(1884)、円朝は『怪談牡丹燈籠』の速記本を出版した。
出版は、速記者若林玵蔵のすすめによるといわれているように、円朝は速記本にすることにある懸念があった。
自らの芸を、出版物という媒体で伝えられるのか、という疑問である。
落語は寄席に来る客に直接語りかけ、噺の強弱、メリハリ、場面状況の情景つくりなどによって感情移入していき、聞く側に感動を与えていくものであるから、速記出版では真の芸を伝えることができないのでは・・・。当然の疑念だろう。

実際、今日に至っても円朝本に対する批判は残っている。確かに円朝は、速記に合わせて故意に演出を変えている。
変えた理由は、ひとつは円朝が「芸を盗まれることを嫌ったこと」と、もうひとつは「高座を見ることができない読者のために編集し直した」ためである。

この当時、円朝の話芸は広く世間に噂されていたが、実際に聴ける者は、寄席を中心にした僅かな人数に過ぎなかった。
そこで、円朝が目指す、江戸期からの客層にも、また新時代の客層にも合わせ、上流・中流・下層が輻輳する社会に合わせていくためには、時代に合致した方法を講じる必要があって、若林玵蔵のすすめに乗ったのである。

結果は、円朝はさらに多くの読者を得ることになり、その創作活動はこの年から新しい飛躍がはじまった。
同年の新聞が以下のように報じる。(参照 『三遊亭円朝』永井啓夫)

≪『7月29日付 時事新報』怪談牡丹燈籠 〇同書は有名なる落語家三遊亭円朝が演述せし怪談を若林玵蔵氏が例の傍聴筆記法にて書取り、円朝の口気を其儘に写出したるものにて、其第一編(一編の定価7銭5厘)を京橋南伝馬町3丁目東京稗史出版社より発売し、尚引き続き、土曜日毎に一編を発売し、13編に至て局を結ぶと云ふ≫

日本の速記術は、明治15年(1882)に田鎖(たくさり)綱紀(こうき)が、ピットマン系のグラハム式に基づいて「時事新報」紙上に「日本傍聴記録法」を発表し、同年10月に東京で第1回講習会を開き30名の修了者を出し、その後、若林玵蔵、林茂淳らにより田鎖式符号に改良が加えられ、速記は実用化に向けて大きく踏み出し、特に、三遊亭円朝の講談を速記した『怪談牡丹燈籠』に始まる講談速記が有名となった。
左の『怪談牡丹灯籠』初版本の表紙には、円朝の名前と並んで「若林玵蔵筆記」と明記されている。

若林玵蔵が『若翁自伝』で出版効果を語っている。
≪当時、円朝の出席する人形町の寄席末広亭へ毎夜通って、速記することにした。円朝の人情話は15日間に一種の話を纏めることになって居るから、円朝も15日間欠かさず出席し、こちらも欠席しないことを約した≫
≪「牡丹燈籠」は一席を一回とし、毎土曜日に発行したところ、「円朝の牡丹燈籠」で十分売込んであるのを話の儘に読めるといふことが評判になって、雑誌は非常な売行であった。「牡丹燈籠」の雑誌の表紙にも、裏面にも、速記文字で書いたものを掲載したから、速記の広告にもなった。円朝の話は速記によって世間に紹介され、速記は円朝の話に依って紹介された結果を得たのである≫

この当時、大衆のための読物が出版されていなかったこともあり、『牡丹燈籠』は世人から広く受け入れられたが、思わぬ成果も生んだ。日本の近代小説文体への影響である。

当時の文章は、いわゆる文語文だった。これは古文や平安時代にみられる言葉遣い和文・和漢混淆文・漢文書き下し文・候文などが主で、維新後に取り入れられた欧米の新しい思潮をもとに創作された文芸作品も、すべて江戸期の文語文であって、公的にも私的にも口語による文章というものが全然用いられていなかった。
そのため口演がそのまま文章になる速記本の文体は、今日から見ればかなり難しい漢字や当て字などを用いていたが、誠に斬新な表現内容であった。

明治19年(1886)、二葉亭四迷は口語体小説『浮雲』を書くため、坪内逍遥に相談したところ、即座に「円朝の牡丹燈籠の速記本をあげて、その文章を参考にするよう」と教えられたと、四迷は当時を回顧して次のように記している。(『三遊亭円朝』永井啓夫)
≪もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いてみたいとは思ったが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで坪内先生の許へ行って、何うしたらよかろうかと話して見ると、君は円朝の落語を知ってゐよう。あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。で仰せの儘にやって見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京弁だ、即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持って行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち、礑(はた)と膝を打って、これでいい、その儘でいい、生じっか直したりなんぞせぬ方がいい、とかう仰有る。(中略)これが自分の言文一致を書き初めた抑(そもそも)である。(「余が言文一致の由来」明治35年「文章世界」所載)

また、明治19年4月に四迷が冷々亭杏雨という別名で記した自著『虚無党気質』の広告文に円朝速記本との関係にふれている。
≪加之言文一致の主義に基いて、紳士社会に行われまする上品な東京語を以て翻訳してございますから、至極面白く出来てをりまして、悪く申せば円朝子の猿真似ですが、賞めて申せば、此小説などが日本の新文章の嚆矢に相成りませうか≫

これは円朝も若林玵蔵も全く予期していなかった波及効果で、近代日本文学の基部に大きな影響を与えたのである。
この事実を円朝がどの段階で知ることになったのか不明だが、このような影響力を発揮した円朝は、この頃には自らを「芸人風情」と貶める感覚から既に脱皮し始めていたであろう。

『怪談牡丹燈籠』出版の翌年の明治18年(1885)に、7年前の明治11年(1878)に完成していた『塩原多助一代記』が速記法研究会から出版された。体裁は半紙判、柴田是真の表紙、奥原晴湖の見返し、口絵は芳年・芳幾、挿絵に芳幾・国峯という豪華なものであった。

この背景には、『怪談牡丹燈籠』で成功したはずの東京稗史出版社が、他の予約出版で事業を拡大しすぎたため、速記出版を続けることが難しくなっていたことと、円朝は印刷や製本にも粗末すぎると不満があり、体裁をすっかり改めて、速記法研究会から発行することにしたのである。

18年は『塩原多助一代記』に続いて、相次いで円朝物が新旧とりまぜ速記本として出版され、目ざましい売行きを示した。
『英国孝子ジョージスミス伝』(速記法研究会)
   半紙判12葉  毎月4回ずつ、8冊で完了 定価1冊9銭(全冊56銭)
  題字 市川団十郎 挿絵 歌川国峯、尾形月耕
『業平文治漂流奇談』(速記法研究会)
   半紙判   序 若林玵蔵 口絵 歌川年貞、揚州周延、歌川国松、水野年方
『鏡ヶ池操松影』(牡丹屋)
  半紙判 序文 円朝
『後開榛名梅ヶ香』(朝香屋)
  半紙判 挿絵 歌川芳春

外国種の物語を翻案し、新時代にふさわしい人情噺『英国孝子ジョージスミス伝』には、「或る洋学先生」から教えられたとある。文学者で新聞人の福地桜痴等を中心にした学者、文人からと推定されるが、円朝の交友範囲は広く、これらの人脈から時代の動きを取り入れて創作活動に活かしていた。

出版社が速記法研究会、牡丹屋、朝香屋と経済上の理由等で変っていくが、全国的に普及され、円朝の名はますます知れ渡って行った。
講談も松林伯円の『安政三組杯』が若林玵蔵の速記で出版され、以後、講談物も多く出版された。

このような読物刊行に刺激されたのか、文壇も活況を呈し、2月に尾崎紅葉を中心に文学結社・硯友会が発足、6月には逍遥の『当世書生気質』、つづいて9月に『小説真髄』が発表されたように文芸も活気づいた。

円朝が出版物によって評価されていく傍ら、寄席はどのような状況であったのだろうか。
明治18年の「東京案内」によれば、この当時の劇場入場料は以下であった。
  大劇場(新富、久松、猿若、市村の4座)
       大入場 8銭―17銭
   一幕見 2銭
  中劇場(春木、中島、相生、寿の4座)
       大入場 7銭
   一幕見 1銭5厘
  小芝居(戸山、倭、浄瑠璃、栄喜、喜升の5座)
       5銭

これに対し寄席は87軒が経営されており、端席まで数えると120軒以上あつたという。寄席の入場料は3銭から3銭5厘、劇場より安く、不況下での娯楽は寄席に向かった。

東京には地方人の流入によって客筋も多様化しており、旧来の「江戸前の芸」のみでなく、新しい自由な刺激の強い娯楽を求める層も増え、前号でも紹介した円遊の「ステテコ」、万橘の「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした派手なものが喜ばれていた.
加えて、関西からも東京に高座に迎えられた。明治18年、19年頃、大阪8人芸の西学坊明学などが人気を博していた。
寄席芸人だけでなく、上方歌舞伎も上京し本郷春木座に出勤し、この一座はたちまち東京の観客の支持を受けて、後日、円朝作品もこの一座で上演され、これが端緒となって、円朝物が演劇の中にも入ってゆく。

明治19年、東京新富座の1月興行は円朝の「英国孝子伝」を劇化し、「西洋噺日本写絵」として九代目市川團十郎、市川左団次等によって上演された。
円朝の欧米翻訳物の珍しさと、速記本が普及していることからの企画であった。「英国」といっても、内容は日本化されており、明治の東京、旧士族、開化風物などが点綴された、いわゆる「散切物」である。また、「活歴物」も登場した。
「散切物」とは、髷を切り落とした短髪を散切りといい、明治の新風俗を劇中で描く、明治期の現代劇ともいうべきもの。
「活歴物」とは史実にこだわらない自由な発想で作られた江戸時代の時代物に対し、人物の歴史通りの行動を描き、正しい時代考証に基づく扮装をするなど、写実的で史実を重視した歴史劇も作られ、「活きた歴史」という意味から「活歴」と呼ばれた。九代目市川團十郎が主導し、新時代になり各界の専門家や黙阿弥の協力のもとで実現させた。なお、九代目市川團十郎も鉄舟に直接大感化を受けたと、『おれの師匠』(小倉鉄樹)が述べている。
 

明治19年8月、円朝が大臣のお供で北海道を旅行した。外務大臣・井上馨、内務大臣・山縣有朋が共に妻を連れ、益田孝、大倉喜八郎、小室信夫、馬越恭平など実業界やジャーナリスト、芸人を含む総勢数十名。行程は、横浜から船で函館へ、余市、小樽、札幌、幌内を回って、帰りは上州磯部温泉で休養、40日を超える大旅行であった。
 

この旅行中、井上馨は民情視察と開拓促進へ見せた熱意と努力は非常なもので、開拓民の不便と困難さに耳を傾け、慰撫激励する姿が北海道各地に多大な反響を与えた。
この当時の円朝、明治政府の高官から殊遇を受けていたが、間近に接した井上の熱性溢れる態度に深く感じるところがあったという。
後年、兄弟のような交わりをもった井上馨と円朝の結びつきは、この北海道旅行を契機として深まったといえよう。

この北海道の見聞を題材にして帰京後『椿説蝦夷なまり』、『蝦夷錦古郷の家土産』を書いている。作品としては、大きな反響を得られなかったが、この両著は重要な円朝の幕末維新事件への考えを示している。

特に『蝦夷錦古郷の家土産』のなかで、元治元年(1864)3月の天狗党の乱について≪これがあの時分の戦争の初めで、わたくしどもは江戸にいてその話を聞いても、あまりよい心持ちはいたしませんでございました≫と述べていることは重要である。

元治元年の前年は文久3年(1863)、5月に長州が下関で外国船を砲撃し、7月には薩英戦争があり、8月は八月十八日と、大政変が発生しているのに、円朝作品では表現されず、翌年3月の天狗党の乱が、維新戦争の始まりだと意識している。

つまり、江戸っ子の円朝は、ペリー来航から始まった一連の政治上の大事件には、あまり関心を持たず、ようやく天狗党の乱あたりから「どうも徳川将軍様に影響を及ぼす問題になりそうだ」と心配しだして、≪これがあの時分の戦争の初めで≫と認識しているのである。

この円朝の見解と感覚は重要である。時の人々の感応を直感的につかみ作品化しているのであるから、円朝は民衆集合心理の様相を描き出していたのである。でなければ寄席を通じ、速記本となって全国的に受け入れるわけはない。時の民衆集合心理をつかむところが円朝の才能であって、ここから推測できることは、時の民衆はペリー来航から続く幕末維新の政治的大事件に対して、特別に大きく関心を持たなかった、という既に述べた通りの結果に辿りつく。

明治19年3月1日、永田町の鍋島侯爵の私邸に明治天皇が行幸され、その際、講談師松林伯円が御前口演の光栄に浴した。
市井の芸能が、上層部に位置付けられる御耳に達することができるようになったことは、高官との交友関係もさることながら、芸人たちにとって改めて自らの立場の向上を思いはせたであろう。

この年の10月に、「やまと新聞」が創刊され、円朝の「松操美人生理」を連載し高評を博した。
その経緯を岡鬼太郎が次のように述べている。
《日刊やまと新聞発行の初、円朝の続き話は、速記となって、珍しくも日毎日毎の紙上に載せられた。挿絵は年方氏であったと思ふ。木版彫刻は銀座の山本であったか。何しろ紙面の縦半分ほども段を抜いた大挿絵が、惜気もなく、円朝の話と一緒に出るのである。速記物連載の評判、円朝の評判、挿絵の評判、やまと新聞が軟か向に売れた事は、実に目覚ましい物であった。
やまとの主幹は、作家としての山々亭有人、後の条野採菊翁であった。採菊翁は円朝の贔屓客でもあり、友人でもあり、而して其の採菊翁は、日日新聞に在社時代から、福地桜痴氏とは友人である。円朝は福地先生から西洋種を与えられた。芸人として、好い御贔屓を有ったものである》(円朝雑観)

やまと新聞は明治19年(1886)創刊、その号から連載された「松操美人生理」は福地桜痴から聞いた外国種の翻案である。
円朝は、この作品に当って、パリ―ロンドン間の便船時間まで研究したらしいが、翻案された舞台は相州三浦辺りに舞台を選んでいる。だが、地理・風俗にこだわる円朝の一面がパリ―ロンドン間時間調査でわかる。

新派の伊井蓉峰がこの作を上演しようとした際、そのシナリオを見た円朝が「これはいけない。私が一つ話して見ましょう」といい、漁船のくだりを口演したところ、聞いていた者が皆船に酔ったような気持ちになったという。

「松操美人生理」に続いて「蝦夷錦古郷家土産」を連載したように、やまと新聞は「円朝物」の連載によって売れたといわれている。
だが、円朝もやまと新聞によって、この後、多くの作を発表することができ、芸人というよりむしろ作家に近づいたともいえる。
この時代の聴衆が持つ好みがスピーディーに変っていくことを認識していた円朝、活字を通しての創作活動へ非常に熱意を見せたのである。
以上のように、円朝は「江戸期からの客層、新時代の客層、上流・中流・下層社会層にも合わせる」という時代を読み込んだ創作を行い、速記本による出版も加え、自らが目標としていた「芸人風情心情からの脱皮」も図ったのであるが、これは鉄舟からの影響が大きい。
では、鉄舟から何を学び、取り入れたのか。それを次号で考察したい。

2019年5月24日 (金)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十八

江戸無血開城によって日本の近代は進み歩んで、今年は維新150年となった。
 その無血開城の功績者は誰か。という議論になると、現在、圧倒的に「西郷隆盛と勝海舟による慶応4年3月14日の会見で決した」という説が流布され、史跡が港区田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡に立っている。
 東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸無血開城をめぐるおもな動き」が図示されている。
これによると鉄舟の役割は海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。この文面からは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。
 

そこで、2016年10月に江戸東京博物館学芸員に対し、「全生庵で保存されている鉄舟直筆の『慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記』には、西郷との交渉・談判の内容と、西郷から『慶喜の命保障』、『徳川の家名存続』の確約を引き出したことが明確に記され、その結果を江戸にて大久保一翁、海舟に報告し、慶喜が欣喜したと書かれている」が、これと江戸東京博物館の図示とはあまりに違い過ぎるのではないか、と問い合わせしたところ、次のような回答が届いた。
「『談判筆記』などの資料研究を深め(他の同時代資料とのつき合わせなど)、当館のパネルや展示に反映させていければと存じます」と。
2018年1月20日、読売新聞西部版に「維新150年」記事が掲載された。テーマは「江戸無血開城」で、筆者にも取材がありコメントしたが、江戸東京博物館学芸員も「私見史論」として同紙で次のように述べている。
≪江戸城無血開城は幕末維新史のハイライト。ドラマや映画で描かれるように勝と西郷が演じた役割は大きいが、2人だけで成し遂げられたわけではない。敵だらけの中、果敢に西郷との面会に赴いた山岡鉄舟や、徳川家の存続を切に願った2人の御台所――薩摩藩出身の天璋院(篤姫)と皇族出身の静寛院宮(和宮)らがそれぞれの思惑で動いた結果、実現したことを忘れてはならない≫
この掲載内容、異論が残るが、鉄舟を「勝の手紙を届ける単なるメッセンジャー役」という図示から、かなり変化させている。認識転化したのか。

2018年1月5日の産経新聞デジタル版に、岩下哲典氏(東洋大文学部史学科教授)が「知られざる『江戸無血開城』 勝海舟を凌ぐ幕末ヒーローはこの人だ!」を掲載した。
この中で岩下教授は、≪「江戸無血開城」の幕府側の最大の功労者は、海舟では断じてない。山岡鉄舟である。そして二番目の功労者は、鉄舟の義兄、高橋泥舟である。海舟は三番手である。むろん、西郷は新政府側の最大の功労者であることは変わりがない。あえて言えば「江戸無血開城」の功労者は西郷と鉄舟・泥舟である。海舟は、徳川家の表向きの代表者として追認したにすぎない≫

≪「江戸無血開城」前夜の4月10日、慶喜は主だった幕臣を集めて別れを惜しんだ。その時、鉄舟に自らの助命と徳川家の存続、すなわち「江戸無血開城」に果たした役割は、鉄舟が「一番槍」であると称賛して愛刀を与えた(全生庵所蔵の断簡史料)。鉄舟・泥舟の苦労が報われた瞬間である≫

≪「江戸無血開城」の新政府側の功労者は確かに「西郷どん」である。徳川方の功労者は、鉄舟・泥舟・海舟・和宮の使者である。これまたあえて比率でいえば、西郷:鉄舟:泥舟:海舟:和宮の使者=3・5:3・5:2:0・5:0・5であろう≫

上記見解を詳しく述べた『江戸無血開城の真実』(吉川弘文館)が出版されたので読んで頂きたい。

いずれにしても、岩下教授も筆者も「江戸無血開城は、駿府における西郷・鉄舟談判で事実上成されたもので、慶応4年3月14日の西郷・勝会見ではない」という見解である。

因みに、岩下教授が「一番槍」と記した鉄舟書状の全生庵所蔵断簡史料は左であり、これを読み解き、書き直すと次のようになる。
「十一日出立前夜、御前へ被召、御手つから来国俊之御短刀拝領被仰付、是迠度々骨折候、官軍の方へ第一番ニ至り候事一番鎗だと上意有之、あり難き事ニ御座候」。

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さらに、「明治維新150周年鹿児島県講座」(2018年2月24日よみうりカルチヤー)で、NHK大河ドラマ「西郷どん」の時代考証を担当した原口泉氏が「江戸無血開城は山岡鉄舟と西郷隆盛とで成し遂げた。その後の会談はその後始末のようなもの」と解説したと、出席した山岡鉄舟研究会員から連絡を受けた。原口氏も鉄舟の功績と明言したのである。

もうひとつ証明となる史料に『正宗鍛刀記』がある。鉄舟が徳川宗家16代の徳川家達から賜った太刀「武蔵正宗」の経緯が記されているもので、無血開城が鉄舟の業績であると証明するものであるが、その経緯を『おれの師匠』(小倉鉄樹著)から要約する。

≪明治14年(1881)、明治政府は維新の功績調査を行って、関係者を召還または口述や筆記を徴した。
鉄舟は「別に取り立ていう程のことはない」と賞勲局の呼び出しに応じなかったが、何度も呼び出しがあるので出頭すると「先刻、勝さんが来て斯様なものを出されましたが・・・」と鉄舟に見せた。
それを見ると「勝が西郷との談判を行ったと書いてあり、鉄舟の名はない」ので「変だと思ったが、嘘だと言うと勝の顔を潰すことになる。勝に花を持たせてやれ」と「この通りだ」と海舟の功績を肯定した。
賞勲局員も無血開城の経緯を知っているので鉄舟に反問した。
「それであなたの功績はどうしたのですか」
「おれか。君主に臣民が為すべきことを為したまでで手柄顔は出来ないさ」
賞勲局員は困って、賞勲局総裁の三条実美公に報告したところ、三条は岩倉具視公に連絡、岩倉公も「それは変だ」と鉄舟を呼び出し尋ねた。
鉄舟も岩倉公の前では嘘も言えず「実は、勝からあのような書類が出ていたので、勝の面目のため自分は手を退いた」と答えた。
岩倉公は鉄舟の人格高潔さに感服しつつも、正しい史実を遺すべく、鉄舟から当時の談判事実を詳しく聞き取って、漢学者の川田剛に漢文で書かせ、明治の三筆の一人である巌谷修が六朝楷書でしたためた≫

現在、名刀「武蔵正宗」と史料『正宗鍛刀記』は、「刀剣博物館」に保管されている。その経緯は、鉄舟から岩倉具視へ贈呈され、岩倉家から藤澤乙安氏へ売り渡され、その後、藤澤家が「刀剣博物館」へ寄贈し現在に至っている。

では『正宗鍛刀記』に記された内容と異なり、世間で「西郷と海舟によって無血開城が成された」という説が流布されているのはなぜであろうか。

そのひとつの大きな要因として挙げられるのが、海舟自ら≪ナアニ、維新の事は、己と西郷でやったのサ≫(『勝海舟全集』第20巻「海舟語録」講談社・「明治31年1月30日」)と、書き述べていることが影響している。

多分、明治中期、鉄舟が存命中の明治21年(1888)ごろまでは、「江戸無血開城は鉄舟の功績」といのが、世間で当たり前の認識であったに違いない。
それを証明するのが、前記した明治政府の維新功績調査における賞勲局員の疑問である。この頃は誰もが鉄舟が「一番槍」であることに疑問を持たなかったのではないか。
ところが、後世の歴史家たちが、史料を集め分析していく過程で、誤った見解がつくりだされたのではなかろうか。

その一つの事例として、江藤淳氏の『海舟余波』の記述を取り上げたい。その一節にこうある。
≪鉄舟山岡鉄太郎が、駿府に到着して西郷吉之助と会見したのは、3月9日のことであった。(中略)しかし、この同じ日、江戸でひそかにおこなわれていたもうひとつの重要な会談については、人は意外と知るところが少ないのである。それは軍事取扱勝安房守義邦と、英国公使館通訳官アーネスト・サトウとの秘密会談である。サトウはそのメモアールに記している≫

江藤氏が言う≪そのメモアール≫とは、アーネスト・サトウの著書『一外交官の見た明治維新』(岩波新書)の190頁の文言である。
≪3月8日に私は長官と一緒に横浜に帰着し、3月9日には江戸へ出て、同地の情勢を探ったのである。私は野口と日本人護衛6名を江戸へ連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であった勝安房守であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた≫
この記述から、ほとんどの学者・作家・評論家等識者は、この3月9日江戸派遣時に、サトウが直ぐに海舟に会ったと錯覚してしまう。
ところが、これは完全なる誤りであることを、当誌2016年7月号で次のように指摘した。

≪『一外交官の見た明治維新』の原文“A Diplomat In Japan”には、3月9日江戸派遣時について、“used to visit”と書かれている。“used to”は過去の習慣(よく〇〇したものだ)を表す文法である。つまりここに書かれている「訪問」は、3月9日の派遣時に訪問したという特定の事実ではなく、この時期にサトウがおこなっていた情報収集の方針・やり方一般をいっているのである≫

恐ろしいことに江藤氏は、サトウの原文意味を確認せずに、海舟がサトウと会談したと断定している。さらに、横浜開港資料館に行けば、イギリス公使のハリー・パークスが本国に報告した文書のコピーが保管されているので、これを読み解けば3月9日にサトウが勝と会っていないことが判明する。だが、横浜開港資料館史料云々との記述もない。

江藤氏といえば、日本を代表する著名な文芸評論家であり、江戸城無血開城に際し敗れた幕府側の人間でありながらも、理想的な治者として勝海舟を見出し、評伝『海舟余波』を著して海舟を世に喧伝した。また、松浦玲氏と共に前記の『勝海舟全集』(講談社)の編纂に参画した。『氷川清話』と『海舟語録』は何度も重版されている。

江藤氏は何故に3月9日に拘っているのか。それは海舟が3月13・14日の西郷・勝会談以前の9日に、通訳官アーネスト・サトウに会い、パークスへ工作し、パークスから西郷に江戸攻撃を止めるよう圧力をかけたという説にしたいがためであろう。

つまり、鉄舟が駿府で西郷と談判している時に、海舟が既に江戸無血開城を止めさせるべく、イギリスに協力を得て交渉をしていたことになるわけで、これが事実ならば勝の功績は大きい。だが、この事実はない。

このような歴史研究家の史料読み込み誤りと、解釈違いは恐ろしい。結果として、江戸無血開城は「西郷と勝による慶応4年3月14日の会見で決した」という説が多数説として流布され、史跡が港区田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡に立ち、加えて、平成15年(2003)に海舟生誕の地に近い隅田川河畔、それも墨田区役所の脇に海舟像が建てられた。

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筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で「墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である」と述べた。北斎と王さんはわかるが、海舟が世界的な評価を受けているとは思えない。 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか。

鉄舟の禅弟子である円朝は、無血開城が鉄舟業績であることが、当時では常識としていたから、何も作品の中で述べていないし、円朝を含む当時の江戸っ子は、150年後、歴史研究関係者間で、江戸無血開城が「誰によって成されたのか」ということが、これほどまでに議論されていることは予測できなかったであろう。
150年経過し、日本が先進国として世界に冠たる地位を占めているがゆえに、そのスタートである無血開城に、現代人が強い関心を持って、縷々語られ、研究がなされているわけだが、往事の当事者である鉄舟は「君主に臣民が為すべきことを為したまで」という海舟とは真逆の淡泊さである。
この爽やかさを鉄舟はどのように身につけたのであろうか。
それは禅修行によって辿りついた境地に尽きるであろう。また、円朝も鉄舟の姿から学んだからこそ、その境地・奥義を己の生き方に取り入れたに違いない。

では、鉄舟が禅から得た境地とは何か。鉄舟は僧侶ではなく、武士である。だから、鉄舟は武士道の体現者として理解すべきである。
鉄舟は亡くなる前年の明治20年(1887)、門人の前滋賀県知事・籠手田安定らの求めに応じ、何回かにわたって武士道を講じている。(参照『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編)

その講義の冒頭で、≪拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである≫と述べている。ここでいう仏教とは禅を意味しており、続いて、≪それもその教理が真に人間の道を教え尽されているからである。まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・知・信とか、節義・勇武・廉恥とか(中略)、これらの道を実践躬行する人をすなわち、武士道を守る人というのである≫と述べ、その当然の結果として≪日本の武士道ということは日本人の服膺践行すべき道というわけである≫と論定している。

さらに論を進め≪その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻徳を奉謝することに躊躇しないであろう。これすなわち武士道の発現地である≫

大森曹玄氏は臨済宗の禅僧で、直心影流剣術第15代・山田次朗吉の弟子でもあり、鉄舟ゆかりの高歩院の住職を務め、著書に『山岡鉄舟』があり、その中で鉄舟の武士道講話について次のように解説している。
≪鉄舟にとって、”武士道”とは、かつての武士たちが究明し実践したところの、武士社会の倫理でもなければ、またその主従間の道徳でもない。それは時の過去と現在とを問わず、また士農工商の階級差別に関係なく、広く日本人たるものの踏み行なうべき人間の道なのである。同時にそれは、人類全般にも普遍的に妥当する「人間の道」だともいえるのである。こういうのが、鉄舟の武士道の本質である≫
≪彼も始めは父母の教訓である”忠孝”というものを、一つの徳目としてこれ何ぞと究明したことであろう。形の上では剣、心では禅によって、如何、如何と忠孝を究め来たり、究め去っていくうちに、ついにそれらの諸徳目を貫くところの”則”、別な言葉でいえば、”大道”に当面し、その”淵源”に到達したのだとおもう。彼はそこに確乎不動の”自信”を得た≫
≪鉄舟が武士道と呼んだ人間の道は、忠とか孝とか、仁とか義とかいう既存の徳目の一つ一つを対象的に実践することではない。その底を貫くというのか、それらを超えて包むというのか、とにかくそれらの相対的な一々の徳目を成り立たしめる根本原理を体得し、実践することをいっているのである。それを一言にして言うならば、その根本原理が「無我」なのである≫
≪禅に徹し、一切に自在を得た鉄舟の武士道とは、実にこのような人間としての根源的な大道を把握して、それを日常生活の上に無礙自在(捉われることなく自由自在)に実践することであった。まことに鉄舟は一介の武弁(ぶべん)(武士)ではなかったのである≫
大森曹玄氏は、見事に的確なる鉄舟武士道を解説されている。

さて、円朝は鉄舟から何を学んだのであろうか。
明治5年(1872)、素噺一本に転じた円朝、噺の根源思想を禅に求め、明治10年(1877)に鉄舟門下となった。
鉄舟は安政6年(1859)、自らが発起人となり、清河八郎等と尊皇攘夷党「虎尾の会」をつくっている。
ところが、慶応4年3月には突如、慶喜の命を受け駿府の西郷のところに交渉に行き、無血開城を成し遂げ、新政府では明治天皇の侍従という要職に就いた。
外見には、転身ともいえる生き方に見えるが、円朝は鉄舟の根本思想を理解することで、その行動に矛盾なきことを悟り学び、自らの素噺一本以後の土台を固めることができたのだが、このところは、もう少し鉄舟の生き方を掘り下げ、円朝を囲む社会環境を整理しないと理解できない。次号に続く。

 

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