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鉄舟研究

2019年12月25日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その四

前号まで検討してきた結果分かったことは、特定の人を神に祀り上げる習俗には、その祭神の性格あるいは祭神化していくプロセスから、二つの類型があることである。
 一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」であると『神になった人々』(小松和彦著 知恵の森文庫)が述べる。
 

さらに同書が続けて以下のように記述している。
 ≪加藤玄智の『本邦生祠の研究』(中文館書店)によれば、近世から近代にかけて、死んだ人の「たましい」に留まらず、顕彰したい人がまだ存命であるにもかかわらず、その人の「たましい」を神社を作って「神」に祀り上げることさえ行われていたという。顕彰しようとする人びとの思いが強く、顕彰したい人の死を待てなかった。いや顕彰されるべき人が存命であるうちにそうすることに意味があったということだろうか。加藤玄智は、たとえば、東北地方の庄内藩で起きたいわゆる三方領地替え反対一揆が成功裏に終わった後の嘉永五年(1851)、百姓たちが藩主酒井忠器(ただたか)を「若宮大明神」として祀り上げたことや、大分県に縁のあった明治の政治家・松方正義公爵を、彼が八十五歳の時に、日田町(現・日田市)亀山公園内にある日隈(ひのくま)神社境内に「松方神社」を建立して「神」として祀り上げて顕彰した事例を挙げている。
『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社)や神社本庁の「人臣神社調査」、『本邦生祠の研究』などに列挙されている人臣神社のほとんどは、民衆の手によって建立された民間神社(私祭神社)であった≫

この実例を『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』の「松岡神社」(池主霊社)でみてみたい。「神」として祀られたのは鉄舟の弟子松岡萬(よろず)で、磐田市の松岡神社を訪ねてみた。
JR東海道本線・磐田駅から南へ約3キロ、タクシーで10分くらいである。ドライバーに松岡神社へと伝えると妙な顔をして、本部に尋ね、ようやくわかって到着できた。

≪静岡県磐田市大原の水神社境内に存命中から土地の人々に救い神として祟(あが)められた松岡萬命をお祀りする池主霊社(通称、松岡神社)が鎮座している。
この地大原一帯の水田二百町歩余りは、古くから大池の水を灌漑用水の唯一の水源として生活をたてていた。
ところが、江戸時代末期から水田造成の気運が盛んになるにつれて、大池を干拓、水田化して一儲けしようとたくらむ利権屋が相次いでやって来て、農民の生活をおびやかした。旧幕時代だけで前後少なくとも四回あった干拓出願は、その都度必至の陳情でどうやら食い止められ、いくらか大池はせばめられたが最低の水田用水は確保することが出来た。
維新後も勧業殖産という明治政府の方針に従い、この池に目をつける利権屋が少なくなかった。明治三年には静岡藩より派遣されていた見付郡役所(磐田市見付)の役人、近藤某が、嘆願書を持って干拓取止めを願い出た総代五人を郡役所に監禁するという事態が起った。途方にくれた土地の人々は、その年の十月、有徳の水利官松岡萬大人を湊村に訪ねて、中央政府への直接の訴願を持ち込んだ。
松岡萬大人は、もと徳川将軍家の旗本で、大政奉還後は徳川慶喜公に従って静岡に落ちついたが、明治政府に請れて水利官となり、湊村では護岸工事や製塩の指導に当っていた。当時三十二歳の若さであった大人は、農民の訴えを聞くと、直ちに大池に出かけて実情を調査した。そして農民たちの言い分が正しいとわかると必死の努力で中央に建言し、明治四年二月、認可が下るばかりになっていた大池干拓は御沙汰止みとなった。
農民たちの欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したのは言うまでもない。身を賭して危地から救ってくれた松岡大人に対する感謝の気持が盛り上がり、生き神様に祀ろうということになった。そして明治九年八月三十一日、池主霊社は、祭神天之水分神、国之水分神二座と、松岡萬大人の生霊を合祀して創建された。
松岡大人は、のち警視庁大警部となったが西郷南洲とも親しかったことから、明治十年西南の役を機に官を退き、余生を東京に送り明治二十四年三月十七日五十四歳で没した。
祭典は大人の生前は四月三日に行われていたが、没後は命日の三月十七日に斎行されてきた。現在は大人の生誕日に当たる四月十七日に執り行われている≫
   
実は松岡神社はもう一カ所存在している。『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』(大石貞男著)に「松岡神社・池主霊社縁起」が記されている。
 ≪志太郡岡部町(現・藤枝市)の宇津谷峠に近い部落に廻沢(めぐりさわ)という部落がある。周囲は山にかこまれ、みかんと茶と林産物で農業を営む平和な山村であるが、ここの飛龍神社の境内に松岡神社が独立して建てられている≫
 松岡神社が建立された背景には、明治初年から実施された当時の土地改革があった。明治7年から始められた林野の官民有地区区分は、林野を①国有林、御料林 ②地主所有林、③共同体所有林の三つに分け、明治14年ころからは入会地の整理が始められ、入会権をめぐって農民騒動などが発生していくなかで、岡部町の土地権問題も発生した。

 ≪廻沢村は当時二十一戸の小部落であったが、隣接の岡部宿とともに小廻沢の山林の所有権をめぐって争いがつづいていた。数カ月の間、はげしく争い、時には部落の人々は人質として監禁せられたこともしばしばであり、岡部宿は三百余戸もあるのに比し、この部落は少数できわめて無力であったので、大勢は相手方に有利に傾いてしまった。
そして最後の手段として、静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡萬に陳情することになった。
 そのために、まず、もと部落に住んでいた静岡市の伝馬町滞留の勧農係官であった小沢留造という浪士の手を経て松岡に窮状を訴えた。
松岡は事情をたずねたのち、直ちに現地に赴くことを承諾し、岡部宿の肴屋旅館に投宿して事情聴取や現地調査を行った。そして小廻沢地帯は、廻沢部落が六十両を示談金として支払い、土地は廻沢のものとするという裁断を下し、両者はこれに同意して解決したのである。
 このことによって廻沢部落の生計は維持せられるようになり、村民たちは子孫に対しても誇りとし、伝承として長く伝えるべきあることを痛感したので、松岡神社建立を決するに至ったものである。
 

祭祀の年月は必ずしも判明していなかったが、松岡家に保存せられていた次の松岡日記により明治三年十月と分かった。
『明治三年うるふ十月表方「松岡萬古道幸魂」、裏方「天朝明治三年閏十月鎮千此社」右の如く相認め廻沢の民に与ふ。執筆者久保先生相願申候』
松岡神社建立に当たって松岡家から秘蔵の遺品三十二点が奉納され、現在まで残っているが、松岡萬愛蔵の刀を始め、将軍家の書簡、頼山陽、蜀山人、江川太郎左衛門など歴史的著名な人物の書も多い。昭和三十二年十月この神社は改築せられ、祭日は十月十七日に行われる。なお、その日にうたわれた御詠歌は次のようなものである。
  まつのみどりのもろともに
  そせんのおしえ  まもりつつ
  かみのおしえに  したがいて
  まつおかさまのごおんけい
  こころにちかい   わするまじ
  ひりゅうじんじゃと  もろともに≫
 

松岡が生きながら神として祀られたことは、『おれの師匠』(小倉鉄樹著)にも書かれている。では、松岡が鉄舟の弟子になったのはどういう経緯なのか。『おれの師匠』からみてみたい。
 ≪山岡が尊皇攘夷を唱えて志士と結んでいるのを、幕府では、とうに睨んでいた。だんだん志士の勢いがつのるので、幕府では松岡に旨を含めて山岡を暗殺させようと図った。
 山岡が剣術のうまいことは松岡も承知である。然し松岡とても相当自信はあった。なに、山岡なんぞ何程のことがあるものか、と腹に一物抱いて山岡を訪ね、一仕合しようと申し込んだ。
 けれどもそれはとても山岡の相手でなかった。もろくも松岡は負けてしまった。
 「どうもおれは真剣でないと本気になれない。真剣で一つやろう」
 と松岡がいうので、それなら真剣にしようと腰の刀を抜いて差向った。松岡は辻斬を盛んにやっているので、真剣となると油が乗ったに相違ない。
 けれどもこれでもまだ山岡の相手ではなかった。「参った」と松岡は刀を引いた。
 「じゃ、一杯飲もう」と山岡が先に立って奥――といっても小石川鷹匠町の例のあばら家だが――へ行って一杯飲みだした。然し松岡はとんと酒がうまくない。一撃の下に山岡を斬って捨てようと思って来たのが此の様じゃ、みっともなくて帰って会わせる顔がない。なんとかして山岡を殺さなくちゃ使命が果されぬと思い煩った。ふと松岡は、
 「おれは実は撃剣はそううまくないのだ。柔術の方が得意なのだ。いい手があるのだが、おまえに一つ伝授しようか」と云った。
 「そうか。そんないい手なら教わって置こう」
 と山岡が、云うので「しめた」と松岡は山岡の背後に回って、山岡を羽交い絞めにかけた。勿論これで山岡を殺してしまう決心なので、満身の力を込めて、うんと絞めたので、松岡の双腕はぎっしり山岡の首にからんで、正に山岡の首は折れるかと見えた。
 このさまを座にいた中條金之助が見て承知しない。
 「この野郎、山岡を殺しにかかったな」
 とひどく怒って、松岡を斬ってしまうと青筋立てて立ちあがった。
 中條のただならぬ気色に、覚えず松岡が手を緩めた。その手を山岡が払い除け、怒る様子もなく「飲め」と酒杯を松岡に差した。
 松岡は山岡に双手を払われた時、瞬間に身構えて山岡の仕返しに備えたが、案に外れた山岡の態度に気が抜けた。と同時に重ね々々の失敗がひどく恥しくなって「これは到底おれの相手じゃない」と心から参ってしまった。そこで「実はおれはあなたを殺しに来たのである」とすっかり打ちあけた。
 「まぁいい、飲め」
 と山岡はとんと平気である。そこで松岡は志を翻して山岡に従って国事に奔走する気になり「どうかおれを捨てずにくれ!」と頼んだ。是に於いて山岡も、
 「よし、それじゃ一つおまえと約束しょう」
 と、これから山岡の発意で、降っても照っても毎日屹と山岡のところへ稽古に来ることした。そして、若し山岡が稽古を休むことがあったら、松岡は木剣で山岡を打ち据え、松岡が休んだら山岡が叩きつける約束をした。
 こうして松岡は山岡と別れたが、それからは雨が降っても、風が吹いても欠かさず山岡のところへ稽古に来た≫
 

松岡にはさらに面白い話を、続いて『おれの師匠』から紹介したい。
≪山岡が宮内省を退いた時、松岡は要路の人の不明を慨し、山岡如き誠忠無二の男を君側から離すというのは不都合だというので、短刀を懐にして、岩倉さんを訪ねた。岩倉さんを刺殺して自分も死ぬ覚悟なのである。
 流石は岩倉さん、維新以来志士や浪士の応接には幾度か生死の境を潜って来ているので、そんなことには馴れたもので、松岡の唯ならぬ気色に直ぐにそれと見抜いてしまった。そして盛んに松岡を煽り揚げてあべこべに松岡を煙に巻いてしまった。
 「君のような愛国者が居るとは岩倉具視不憫にして今日まで気がつかなかった。今は時世が時世で、どうにもならんが、どうか邦家のために身命を擲(なげう)つことを忘れないでくれたまえ」
 と美事敵の鋭鋒を奪って却て之を松岡に擬した。
 松岡は岩倉さんの知遇に感激して、すっかり逆上せて岩倉さんの許を辞去した。家に帰って二階にあがり、身辺の始末をして、自刃した。松岡では、自分が斯く潔く国家の為に身命を擲ったならば、屹度感奮して廟堂の廓清(かくせい)が図られるに違いないと、岩倉さんの言葉を勘違いしてしまったのである。
 間もなく山岡の所へ「今、松岡さんが喉を突いて自害なさいました」という知らせがあった。その時おれは二階に居たが、師匠が、
 「おい渡邊! 松岡が喉を刺したということだ。おまへ一足先に駆けつけてくれ。おれは後からすぐに行くから」
 という言葉なので、おれは直ぐさま飛び出した。松岡の家は市ヶ谷の高力松―――今、救世軍の大学になって居る所―――に在ったのだから四谷の山岡の家からは一走りであったのだ。
 行ってみると奥さんは座敷によゝと泣き崩れていてその傍らに血まみれの大刀が転がっている。
 「奥さん、渡邊です。しっかりしなさい。松岡さんは・・・?」
 泣き腫らした奥さんは声も出ず、二回を顔でしゃくりあげた。
 直ぐに二階にあがって、障子をがらり明けにかかると、中から、
 「誰だ!」
 と怒鳴った。おれは即座に「よかった、まだ死なないな」と思って、
 「渡邊だ!」
 と言いさま座敷に飛び込むと、ぷんと血の臭いがして座敷は一面の唐紅。床の間に向って松岡が座ったまま血まみれになっている。
「ヤ、渡邊君か、松岡、今日国家のため、従容として自刃した。見届けてくれ!」
「よし、見届けてやる。今、師匠もあとから直ぐに来るからしっかりしろ!」
見ると、創は首の前と後と二つあって頸の前後から、どくどくと血が脈を打って湧き出ている。取敢えず、松岡の着物の袖を引き裂いて創口を押え、おれの帯を解いて、ぐるぐるその上に巻いた。
早く師匠が来ればいいと思っていると、師匠が医者を伴れてやって来た。
「松岡さん、先生だ」
「むむ、そうか。――先生! 松岡今日国家のため従容と自・・・・。」
「馬鹿」
と大喝、師匠が、
「何が国家のためだ。ひとに迷惑かけて、国家も糞もあるか! 蹴とばすぞ」
と頭から怒鳴りつけた。
妙なもので、それまではしっかりしているように見えた松岡が、師匠に怒鳴りつけられたら、忽ちぐにゃぐにゃになってしまって、ばたりと倒れたまま昏々と眠りに落ちた。
医者がすっかり創を調べて手当てをした。創は気管の一部を切ったけれども、幸い大血管を傷つけなかったので、命には障りがないとのことで安心した。二尺四寸の大刀で、ぐっと前から後に突きたてたので、あまり刀が長過ぎて手許が外れ、斜めに頸を貫き刀の先が頸の後に出たのである≫

この自刃事件の様子から考えると、松岡は熱血漢で、行動派であることがわかる。
その後、松岡は中條金之助らと行動をともにし、静岡の牧之原開拓に従事したが、長く牧之原には止まらず、藩庁に入り、水利路程掛兼開墾方頭並となって、松岡神社に祀られたような活躍をした。
 さらに、小島(おじま)(現・静岡県清水区小島地区)の奉行をつとめた時にも、農業の奨励のために、切れ草鞋や馬ふん等を集めて、田や畑へ施すことをすすめたり、道路や橋の施設改善をはかったりして、かなりの成果を上げている。
 松岡は、施設の使役を命じる際には人夫をいたわる方法を常に講じた。例えば、安倍川に橋を建設する工事では、休息時間を設けたり、焼き芋を人夫に配り、草鞋の支給、休業日に大鍋に川魚や貝・野菜のごった煮の味噌汁をつくり、飯は大釜に芋と大根の干葉を入れた菜飯を炊いたりして与えている。この食事を人夫たちの間では安倍川の暗汁と呼んでいた。
 松岡は、明治8年には静岡を離れて東京へ行き、警視庁一等大警視として活躍し、明治23年東京下渋谷の自邸で52歳の生涯を閉じた。(参照『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』)
 

このように鉄舟の弟子が神に祀られているのに、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。

 

2019年11月29日 (金)

神にならなかった鉄舟・・・その三

前号でお伝えした白河市の「合同慰霊祭」の翌日、平成30(2018)715日は、群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺に向かった。東善寺は小栗上野介の墓所である。

小栗上野介は、安政7年(1860)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球一周に近い旅をして帰国。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行った。

鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首された。

逮捕の理由として、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠Photo_20191129104501 Photo_20191129104501 は現在まで出てきていない。

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(東善寺・小栗父子の墓)

東善寺では村上泰賢住職にいろいろご教示賜った。特にインパクト強く主張されたのは「近年、テレビや映画で勝海舟が咸臨丸で活躍する画面が出て来なくなった」ということであった。

これは「昭和36(1961)に『万延元年遣米使節史料集成』(7巻、日米修好通商百年記念行事運営会・編、風間書房)の第5巻に収められたことから、咸臨丸の実態が知られて、戦前の修身教科書による「勝海舟と咸臨丸」の勇ましいイメージが崩れた」というお話。

関連する内容が東善寺のホームページ「小栗上野介関連の人物紹介・ブルック大尉」で掲載されているので、引用紹介したい。

1860年、友好の印として、アメリカは蒸気船ポーハタン号Powhatanを提供して、日本が最初の使節団をワシントンに送るための手助けを申し出た。使節団は、少し前に駐日公使タウンゼント・ハリスと徳川幕府との間で調印された通商条約を批准するのが目的であった。徳川幕府は返礼の気持ちで(あるいは、習得した航海知識を披露したいために)、オランダから購入したばかりの自国の軍艦、咸臨丸を使節の護衛船としてサンフランシスコまで行かせることを決定した。

日本人乗組員は、航海士も船員も訓練が十分ではなかったため、徳川幕府はアメリカ人の海軍将校を咸臨丸に任命するよう依頼した。アメリカの東インド艦隊の司令官、ジョシュア・タットノール准将 Josiah Tattnall は、天文学者、水路学者として長い経験を持つジョン・マーサー・ブルック大尉を選んだ≫

≪ブルックは打診されたアメリカへの航海任務を喜んで受け入れた。そして、出航への最終準備をしているときにジョン万次郎に出会った。万次郎は難破船に乗り合わせた人間としてはブルックの先輩ということになる。万次郎は、公式通訳として咸臨丸に任命されていて、二人は長時間にわたって打ち合わせをしているが、その内容についてはブルック大尉の日誌に詳述されている。

ブルックの日誌は「死後50年間公開しない」という遺言によって公表されることなく、ブルックの孫に当たるジョージ・M・ブルック・ジュニア博士(バージニア州立軍人養成大学の歴史学教授)が保管してきた。しかし、1960年、日米友好通商100周年記念協会に提供され、日本で「万延元年遣米使節史料集成第五巻」として刊行された。

18601月の中旬、咸臨丸とポーハタン号は江戸港からアメリカに向けて出航した。さほどの日数がたたないうちにブルック大尉の日誌には、咸臨丸の日本人乗組員たちについて、訓練がよくできていないことだけでなく、(仕事に対する)無気力さについての不満が書き込まれることになった。しかし、ただ一人、ジョン万次郎にだけはブルックも尊敬の念を持ち続けた。そんな状況ではあったが、不安な気持ちの中にも、ブルックは日本人の生来の能力がなんとか安全に航海をやり遂げるだろうと信じていた。

しかし、ブルックにとって計算外だったのは、日本人乗組員が本当に気まぐれだということだった。出航後、ほどなくして二隻の船は台風に見舞われた。ポーハタン号に乗船していた経験豊かな航海士が「太平洋上で遭遇した最悪の嵐」と言うほどのものだった。

しかも、悪いことに咸臨丸の艦長(勝海舟)は船酔いでまったく指揮が取れなくなってしまった。そのため、ブルックが代わって指揮を取らざるを得ない。しかし、さいわいだったのは、ブルックが航海士として経験豊かな万次郎を頼りにできたことだった。ブルックと万次郎の二人と、難破したフェニモア・クーパー号からのアメリカ人乗組員たちがいなかったら、咸臨丸はとっくに沈没していたかもしれないのだ≫

ところが勝海舟は『氷川清話・日本海軍の基礎』で次のように述べている。

≪また万延年間に、おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行ったのは、日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ。咸臨丸は、オランダで製造した船だ≫

ブルックの咸臨丸日記とはまったく異なる記述内容だが、これについて『勝海舟の罠』(水野靖夫著 毎日ワンズ)は以下のように論説している

≪「外国人の手は少しも借らないで」というのは大ウソで、咸臨丸には日本人だけでなく、ブルック海軍大尉以下11名のアメリカ人水兵が乗り組んでいた。勝部真長氏は『勝海舟』に、「ブルック大尉の公開日記は、日本人初の太平洋横断なるものが実は名目的なもので、ブルック以下11名の米人乗組員の助力なしにはほとんど不可能であったことを証明するものである」と書いている。つまり日本人の力だけで航海したというのは、ホラ話と言うか自慢話なのである≫

さすが海舟だけのことはある。事実を簡単に曲げて、自己中心にしてしまう。

だが、ここで疑問が生じる。手許にある『氷川清話』(勝海舟全集21 講談社)は昭和48(1973)に出版されている。

ということは、この『氷川清話』が出版された時は、既に「昭和36(1961)に『遣米使節史料集成』が発刊されて12年経過しているのであるから、ブルック大尉の「咸臨丸日記」に基づき『氷川清話』の咸臨丸に関する記述・発言内容は訂正されるか、または、問題点ありと注記されるべきではないか。

仮に本当に海舟が≪おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行った≫と発言していたとしたら、海舟は大嘘つきになってしまう。

海舟は、世に喧伝されているように江戸無血開城の功労者で、明治維新への道筋を開拓した人物である。この海舟が嘘つきだとしたら、維新の功労者は信用できない人物に成り下がってしまい、江戸無血開城にも傷がつくだろう。

実は『氷川清話』の記述は、一般的に論じられているように、咸臨丸の事例のように、多くの誤謬や誤りがある。

『氷川清話』は、晩年の海舟のところに出入りしていた吉本襄が、海舟から聞いた話と、他の多くの人々の手によって新聞や雑誌に発表された海舟談話を、吉本が明治30(1897)11月『海舟先生氷川清話』として発行、これが非常に好評であったので、気を良くした吉本は翌31(1898)に『続海舟先生氷川清話』を、さらに同年11月には『続々海舟先生氷川清話』を発行している。いずれも、海舟生存中のことである。

したがって、記述の責任は勿論、全て吉本襄にあるが、史実に照らし、明らかに誤りである箇所は、後世の識者が訂正する必要があるだろう。

勝海舟全集刊行会の代表は文芸評論家の故・江藤淳氏であるが、江藤氏ほどの知識人がブルック大尉の「咸臨丸日記」を知らないわけはない。

是非共、妥当な『氷川清話』にして欲しいものである。

 

ここで再び東善寺に戻りたい。

小栗父子の墓の手前に、二人の胸像が立っている。2

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左が小栗、右が栗本鋤(じょ)雲(うん)である。栗本は小栗家の屋敷内を借り開いていた安積艮斎塾に入り、小栗と知り合い生涯の盟友となり、横須賀製鉄所(造船所)建設の現地責任者を命じられた。

東善寺のホームページ「栗本鋤雲の事績」によると、≪ヴェルニーを上海より呼び寄せて総裁とし、横須賀湾にツーロン製鉄所の3分の2の規模として、製鉄所1ヶ所、ドック大小2ケ所、造船場3ヶ所、武器廠共に4年で完成する。費用はおよそ1年60万ドル、4年で総計240万ドルを要することを契約した≫とある。

小栗の胸像は、神奈川県横須賀市汐入町のヴェルニー公園内の開明広場にもある。この公園はフランス庭園様式を取り入れた造りで、対岸にフランス人技師ヴェルニーが建設に貢献した横須賀製鉄所が望め、ヴェルニー・小栗祭りとして二人の功績をたたえる式典も毎年開催されている。

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胸像の説明として以下が書かれている。

「日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと横須賀製鉄所(造船所)建設を推進しました。軍政の改革、フランス語学校の設立など日本の近代化に大きく貢献したが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解かれ、領地の上野国権田村(群馬県倉渕村)で官軍により斬首された」

横須賀市内にある小栗の胸像はこれだけでない。「横須賀市自然・人文博物館」(神奈川県横須賀市深田台)入口前にもあり、さらに同博物館の人文館2展示室「1719世紀の和洋船と浦賀」にも、以下の記述とともに胸像が設置されている。

≪海を切り拓いた人々として、安針塚駅で知られるウィリアム・アダムス、横須賀製鉄所を成功に導いた小栗上野介忠順とフランソワ・レオンス・ヴェルニーの胸像を入り口に展示して、皆様をお出迎えしています≫

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さらに、「横須賀市自然・人文博物館」に隣接している「横須賀市中央公園」にも小栗の胸像が設置されている。

このように小栗の胸像はいくつも存在することからわかるのは、横須賀市が小栗の業績を高く評価していることである。

小栗についてヴェルニー公園の事務所でもらった小冊子『小栗上野介と横須賀』に以下のように業績が書かれている。

≪「日米修好通商条約」が調印され、翌年この批准書の交換がアメリカで行われることになり、幕府はその使節団を送り込むことになりました。当初、幕府が決めていた人たちがさまざまな理由で行かれなくなり、9月になって正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗正順と決まりました。

新見や村垣はすでに幕府の要職にありましたが、小栗は大抜擢といってよいでしょう。小栗はこの拝命の前日に幕府の目付に任命され、さらにこの年の11月豊後守に叙せられました≫

写真は、ワシントン海軍造船所における遣米使節団一行で、前列右から二人目が小栗である。

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≪この大抜擢の陰で、小栗には一つの大きな密命が課せられました。それは通貨の交換比率の不公平を是正することでした。当時、「日米修好通商条約」により、諸外国の貨幣は日本の貨幣と「同種同量」をもって通用すると決められ、例えば「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という交換比率でした。ところが、金と銀の交換比率は、海外では金の価格が日本よりも3倍も高いものでした。この比価の違いが、日本からの金(金貨)の大量流出を招いていたのでした≫

≪小栗は、フィラデルフィアの造幣局の一室で、日米貨幣の金含有量をそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し、周囲を驚かせるとともに、こうした不公平さをアメリカ側に納得させたのでした。

これで小栗のアメリカ側の評価が一躍高まります。それまでの目付を直訳した「スパイ」から、小柄ではあるが威厳と知性と信念が不思議に混ざっている男として、また「NO」をはっきり言える人として見直されたのでした≫

しかし、小栗はアメリカ側に金貨(小判)の価値は認めさせることができたものの、是正交渉の権限は遣米使節に与えられておらず、アメリカ側もそのような交渉はなるべく避けたい意向が働いて、本格的な是正交渉にまでは至らなかったが、小栗の鋭い思考を持つ人物だと評価できる。

さらに『小栗上野介と横須賀』は小栗の功績を以下のようにまとめている。

≪小栗は横須賀製鉄所のほかにも、鉄道建設(江戸~横浜間)、国立銀行、電信・郵便制度、郡県制度の創設や、また商工会議所や株式会社組織など近代的な経営方法をも発案していました。

これらは明治以降、新政府の手で次々に実現され、急速に近代国家としての形を整えていきましたが、その陰には小栗が旧弊を打破し、近代国家に向けて推進しようとしていたことが、浸透し始めていたことを忘れてはなりません≫

≪明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。

現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています≫

この讃えた結果が、横須賀市内にいくつもある小栗の胸像なのである。

これは小栗の死が「祟る」と考えて胸像化したのではなく、明らかに製鉄所建設を推進した行為に対する「顕彰」として作られたのであろう。

近代以前、特定の人物を神に祀り上げるという習俗には、二つの類型があって、一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプであると『神になった人々』(小松和彦著、知恵の森文庫)は述べ、次のように解説する。

 ≪「祟り神」タイプは古代から現代まで連綿として続くもので、祟る者の「たましい」を神社などの信仰施設を作って、そこに「神」として祀り上げることで、その祟りを鎮めようとしたものである。

 これに対して、「顕彰神」の方は、比較的新しいタイプで、中世末から近世初頭あたりに始まった信仰形態で、天寿をまっとうした者であれ、不慮の事故などで人生半ばで亡くなった者であれ、その生前の偉業を顕彰し後世に伝えたいという思いから、神社などの信仰施設を作ってその人の「たましい」を神に祀り上げたのである。

 前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプのそれは徳川家康を祀った「東照宮」である≫

 「顕彰神」タイプは「人神神社」で、これは近世以降に生み出されたものがほとんどで、為政者だけでなく、民衆の側からも建立されているので、その数も多い。

 『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社 1981年出版)には、民衆からその偉業を称えられ、その記念・記憶のために神として祀られた人物を祭神とする120社におよぶ大小の神社が紹介されている。また、神社本庁の「人臣神社」(人を神として祀った神社)の調査によれば、全国に四千にも及ぶ人を神に祀った大小の神社があるという。

小栗を「顕彰神」として、横須賀市は胸像を建てたが、『小栗上野介と横須賀』に記されたように、その功績は日本全体の近代化に大きく貢献しているし、司馬遼太郎も「明治という国家」(NHKブックス)の中で、小栗を「明治の父」と讃えている。

 ならば小栗の生前の偉業を顕彰するためには、横須賀市に止まるのではなく、日本国家としての「顕彰神」にすべきではないか。

 しかし、現実は一地方行政下での功績扱いにとどまっているが、鉄舟と比較すると胸像によって「顕彰神」になっているだけ「まし」である。

 鉄舟の2大功績は「江戸無血開城」と「明治天皇の教育」であるが、現状としては全国的な「顕彰神」として祀られていない。なぜなのか。これについても次号以降も検討していきたい。

2019年9月25日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その一

昭和20年(1945)8月15日の玉音放送、始めて聞いた昭和天皇の肉声によって、その意味する敗戦の事実を知った日本国民は、ショックで一瞬にして虚脱状態に陥り、町中異常な静けさに覆われたことを、当時まだ幼子だった筆者は、心に確り強く記憶している。

これと同様の悲哀を江戸市民も今から150年前に味わった。今まで将軍様より偉い人は知らなかった江戸っ子にとって、京に天子様がいるなぞということは、ずっと長い間意味のない存在だった。

その身近で最も偉い将軍様であった十五代将軍・徳川慶喜が、突然大坂から戻ってきて、江戸城で喧々諤々の大評定をしていると思っていたら、突然、上野の山に隠れてしまって、代わりに京の天子様の命令で、薩長の輩が官軍という名分で江戸城に攻めてくるという。

官軍に攻撃されると江戸市中は火の海になって、壊滅するかもしれない。店や住まいが燃えてしまう。これは大変だ。どうしたらよいのか。町中大騒ぎになって、ただ右往左往、今まで考えたこともなかった事態で、混乱の極に陥ったが、山岡鉄舟が駿府に赴き、西郷隆盛と談判、江戸無血開城が成り立ち、江戸は火の海にならずに済んだ。

その鉄舟登場について、歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎(1906~75)が、『山岡鉄舟・日本史探訪・第十集』(角川書店)で次のように述べている。
≪山岡鉄舟先生は、江戸城総攻めの始末がついてからのち、それでなくとも忙しいからだを、つとめて人に会うようになすった。それも庶民階級、まあ、出入りの植木屋さんから大工さん、畳屋さんから相撲取りから、話し家、役者、あらゆる階級の人たちに会って、鉄舟さんのおっしゃった言葉は「おまえたちが今、右往左往したってどうにもならない。たいへんな時なんだけれども、いちばんかんじんなことは、おまえたちが自分の稼業に励み、役者は舞台を努め、左官屋は壁を塗っていればよいのだ。あわてることはない。自分の稼業に励めばまちがいないんだ」と言うのです。このいちばん何でもないことを言ってくださったのが、山岡鉄舟先生で、これはたいへんなことだと思うんです。
今度の戦争が済んだ終戦後に、われわれ芝居をやっている者は、進駐軍がやってきて、これから歌舞伎がどうなるかわからなかった。そのような時に、私たちに山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでしたね≫

さすがに歌舞伎界の故事、先達の芸風に詳しく、生き字引と言われ、随筆集『戯場戯語』(中央公論新社1968年)で第17回日本エッセイストクラブ賞を受賞している八代目坂東三津五郎である。

鉄舟についても詳しい。それもそのはずで「慶喜命乞い」の芝居を演じた際に鉄舟を随分研究している。前述の『日本史探訪・第十集』は、当時の鉄舟研究の第一人者である大森曹玄先生との対談で語られたものであるが、鉄舟の子ども時代から江戸無血開城の経緯、明治天皇の侍従時代、さらに剣・禅・書についても詳しくふれている。さすがに人間国宝と認定された人物である。

しかし、八代目が「山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでした」と述べたが、実際には同様のことを発言した人物はいたはず。日本人はそれほど愚かではない。敗戦と言う事実に直面し、混乱している殆どの人たちの中にあって、冷静に明日以降の日本について考察した人物が日本各地でいたと思う。

だが、鉄舟と同様のことを述べたとしても、周囲に与えた影響力という点で、鉄舟とは比較にならない程度にとどまったのであろう。鉄舟ほど一般大衆に対して大きな感化力を持つ傑人が、敗戦直後の日本には存在しなかった。仮にいたとしても人間の器が違っていたと推察する。

180度転換する価値観激変社会状況下にあって、一般大衆に、それぞれが持つ自らの仕事と関係付けて、分かりやすい言葉をもって語りかけ、それが素直に納得され、受け入れられていくように教え諭しができる人物が本物ではないかと思うが、そのような傑物がいなかったという事実を八代目が述べたのだと思う。つまり、鉄舟の偉大さを語るために8月15日と江戸無血開城をつなげて語ったのだ。

なお、八代目三津五郎は美食家としても有名だったが、昭和50年(1975)1月16日 京都南座の初春興行『お吟さま』に出演中、好物のトラフグの肝による中毒で68歳急死した。

この急死は、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず例に挙げられるようになるほどの大事件だった。この事件は、危険を承知の上で毒性の高い肝を実に四人前も平らげた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っているはずの板前の包丁捌きがいけなかったのかで、従前にはなかった大論争を引き起こしたことでも名高い。
法廷では、「もう一皿、もう一皿」とせがむ三津五郎に板前が渋々料理を出したことが争点となった。当時はまだフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったが、結局この事件では「渋った」板前が調理を「しくじった」ことに変わりはないとして、業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出て、世間を騒がせた。

だが、このように日頃からあらゆる美食を楽しんでいたが、庶民の味には疎かったらしく、孫の十代目三津五郎がまだ少年だった頃、一緒にはじめて札幌ラーメンを食べて、「世の中にはこのような美味い物があるのか」と驚いていたという。

平成30年(2018)7月の日本経済新聞『私の履歴書』連載は歌舞伎俳優の中村吉右衛門で、その中で歌舞伎は戦時中も受難したとある。終戦の前年である昭和19年(1944)に、決戦の非常措置で「高級享楽」とされた歌舞伎座など大劇場は閉鎖され、終戦後も進駐軍が、「歌舞伎が日本人の封建的忠誠心を助長する」として、仇討ち物を中心に時代物の多くを上演禁止としている。

この状況下、八代目坂東三津五郎も歌舞伎の先行きに危機感を持ち、こういう時に鉄舟のような存在がいれば・・・・と希ったのであろうが、言葉を代えて述べれば、この現象は「神様・仏様」の到来を祈願したわけで、困ったときの神だよりであろう。

ところで現在は「御朱印ガール」ともいわれる御朱印ブームとなっている。このはじまりは、1990年代から霊的な力が満ちている場所とされる「パワースポット」を訪れるブームが徐々に高まり、今では「パワースポットめぐり」はすっかり一つのアクティビティとして定着した感があるが、そのようなパワースポットの一つである神社や寺院を訪れ、御朱印を集める「御朱印ガール」が急増している。
筆者の知人女性にも「御朱印ガール」がいて、先日、集めている御朱印帳写真を参考までに送ってもらったが、確かにブームと感じる。
 
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 御朱印とは、神社や寺院が実施している参拝者向けの押印である。僧侶や神職が寺院・神社やご本尊の名称・日付などを墨書することが多く、それを収集する女性が増えていて、神社や寺院に行くと「御朱印はこちら」といった看板を立てているところもあり、目にしたことがある人も多いだろう。

先日、明治神宮に参拝したが、やはり御朱印を頂くところに多くの人がいる。本来、御朱印は納経した証しとして頂くものだったといわれているが、現在では無料もしくは300円ほどで書いてもらえる気軽さもあり、「御朱印帳」を持ち歩いて集めている人が増えている。実際、多くの寺社では10年前に比べて御朱印を求める女性が5~10倍に増えているともいわれている。

御朱印は江戸時代に始まり、元は巡礼の際に納経した証しとして授与されていたようで、明治以降、納経なしでも参拝したことでいただけるようになり、参拝記念となって、御朱印が参拝記念として注目され始めたのはここ数年のこと。

巡礼をするのは今まで高齢者が多かったが、パワースポット巡りのブームから若年層や女性にも人気が広がって、女性に受けるようなオシャレで可愛い御朱印帳も登場してきた。現在では御朱印の種類も増え、お花や紅葉の印が押されていたり、カラフルな色紙が登場したりと、御朱印そのものが女性向けになってきたような感もする。

コレクションするという意味では男性ファンも多い御朱印だが、女性の巡り方には特徴があるようだ。ハマりだすとどんどん欲しくなり、居住地の近くだけでなく“御朱印をいただくための旅”がしたくなってくる。

ひとりで黙々と御朱印集めだけに専念しがちなコレクタータイプの男性に対して、同じ趣味の友人と御朱印談義をしながら巡るのが“御朱印ガール”。目的は御朱印だけでなく、その土地の名物を食べたり買い物したり、美しい花や景色を堪能したりして“癒し”を感じること。日付が入った御朱印を旅の記録とする傾向があるのも女子ならではのこと。

女性の参拝者が目立つようになってからは、御朱印帳だけでなく、お守りなどの授与品も華やかになり、寺社が集まるエリアにはおしゃれなカフェも登場。寺社参拝だけでない楽しみがある場所に女性は集まってくる。
新しい旅のスタイルとして定着し始めた御朱印巡り。外国人観光客が納経所に並ぶ姿も見られるようになって、漢字が好きな外国人にとって、墨で書かれたダイナミックな筆遣いの御朱印はお土産にピッタリ。

仏教から始まった御朱印だが、インドや中国にはないという。キリスト教では巡礼した教会でスタンプを押すというところもあるらしいが、墨で書かれるということはもちろんない。台湾に西国三十三カ所巡礼を模した巡礼があるようだが、これは日本人が持ち出したもの。つまり、御朱印は日本独自の文化である。

見た目のアーティスティックさだけでなく、日本の伝統をさらに深く知りたくなって興味を持つ。最近は、修学旅行生や小学生までもが御朱印収集している姿を見かけるようになってきた。女性だけでなく世代を超えて、人種を超えて注目が集まる御朱印の人気はまだまだ続くだろう。
このような御朱印ブーム、それはお寺や神社が存在するからであるが、ここでは神社に絞って考えてみたい。

いったい神社に祀られている神様とはどういう存在なのだろうか。それを定義しておかないと、本稿の「神にならなかった鉄舟」は進まない。
実は、本居宣(もとおりより)長(なが)が神を定義している。『神道の逆襲』(菅野覚明著)を参照してみてみよう。
≪本居宣長(1730~1801)の定義はこうである。「さて凡て迦微(かみ)とは、古(いにしえ)御典(のみふみ)等(ども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐(ます)御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり。)」(『古事記伝』三之巻)
宣長のいうところは、それが人であれ、動植物であれ、自然現象であれ、ともかくもそのものが、私たちにとって「可畏き物」、すなわち身の毛もよだつような異様なものとして出会われれば、それが神だということである。この定義は、今日私たちが、名人・達人・奇人・変人の類を「~の神様」と呼んではばからない、日本語の「カミ」という言葉のニュアンスをよく言い当てている≫

≪人々は確実に神のおとずれを知ることができた。というのは、神さまがやって来る時には、必ず何らの仕方でそのことを示し現すものであるという共通了解が、人々の間にあったからである。神さまが自らを何かの形にあらわすことは、古来「たたり」と呼ばれてきた。今日では、たたりといえば何か悪しき霊のもたらす災いとばかり考えられているが、もともとは、神さまがその威力をあらわすこと一般をさしている。「たたり」という語も、「虹がたつ」などというときの「たつ」、つまり、「あらわれる」という意味の「たつ」と関係があるとも言われている。
そういうわけで、神さまの出現(たたり)には、さまざまな形がありえた。しかし、とくに顕著なのは、やはり何といっても、地震・噴火・豪雨・落雷・疫病といった災害・災厄の類であった。そうした大規模な災いと共にあらわれる神さまの威力は特に絶大なものと感じられたから、その経験は多くの人の記憶に深い印象を残したとみられるのである≫

八代目坂東三津五郎は、敗戦という未曾有の出来事に遭遇し、助けてくれる神様が顕れることを期待し、出て来るならば鉄舟のような人物がほしい、と名指したのであろう。

なお、人を神に祀る習俗には二つあるという。一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」である。

「祟り神」タイプは中世以前の人を神に祀った神社に多く、「顕彰神」タイプは「人神神社」で近世以降につくられており、為政者が創建したものばかりでなく、民衆の側から積極的に建立されている。(参照 『神になった人々』小松和彦著)

だが、鉄舟は江戸無血開城という偉大な業績を遺したのに、どこにも「鉄舟神社」は存在しない。その疑問持ちつつ、神の検討を次号でも続けたい。

鉄舟から影響受けた円朝・・・その二十二

実は、鉄舟が禅修行に本気に取り組みだしたのは、清川八郎との因縁からといえる。

鉄舟と同じく虎尾の会の発起人である清川が暗殺されたのは文久3年(1863)4月13日、その日、麻布の出羽3万石上山藩上屋敷を退去し、屋敷前の一の橋を渡り、大和郡山藩15万石下屋敷の前に差し掛かったところで刺客に襲われ命を落とした。享年わずか34。

その翌日、幕府は関係者処分の一環として、高橋泥舟と鉄舟を御役御免の上蟄居とした。高橋泥舟に謹慎宥免の沙汰が下りたのは、文久3年12月10日で「二の丸留守居役席、槍術師範を命ず」と元の職務に復帰し、続いて12月25日鉄舟にも謹慎宥免の沙汰が下った。

この謹慎の日々は、剣を振うこともできず、一室に座り、座る目の前には書見台があるのみ。そういう環境に陥って、書見台を稽古相手として集中し没頭していくと、自然に今までの人生を問い質すことにつながり、己の奥底には何が存在しているのだろうかという問いになり、結果として「やはり自分が向かう道は剣だ」と改めて確認できたのである。

ところで鉄舟は、清川をどのように思っていたか。石井宗吉氏(元明治大学教授)が『明治宮廷秘話』(弁論53 昭和27年)で、鉄舟の娘から聞いた話として次のように書いている。
≪山岡鉄舟は、いま上野谷中の禅寺全生庵に眠っている。彼が世に在りし日の愛娘、一老女がつい先年まで、この寺の境内に庵室を構えて父の墓守をしていた。わたしは、いくたびかそこを訪ねては、よく昔話をきいたものである。老婦人は、すでに八十に近い齢であったが、しっかりした口の達者な人で、わたしと感興にのっては、語り合い、秋の日の傾くのをわすれることもあった。
鉄舟の恩顧をうけたもの、また親しく交わったものは、数多いが、その中で、父の話としてごく印象にのこっているのは、清水次郎長と清川八郎のことであるといって、老女はよくこの二人の話をしたものである≫

この老女が、鉄舟の長女・松子さんか、三女の島子さんであるかは不明だが、全生庵の庵にお二人が住んでいたことは事実である。
石井氏が、清川が無礼な振舞いをする町人を斬ったときの腕のすごさについて、
≪伊藤痴遊 (注 明治、大正、昭和初期に活躍した講釈師)はこういっています・・・無礼もの! という声と共に其奴の首は鞠を投げたように傍らの瀬戸物屋にとび込み、ガチャンと音がして、棚にある皿の上にのった。これ全くの腕の冴えである。・・・」
と話すと、老女は声をあげて笑った。「それは痴遊さんの作り話ですよ」といって、実際はこうであったと話し出す。それがまた振るっている。
「清川が、エッと叫んで斬り下げる。町人風の男は真二つになって、その片身がかたわらの建具屋の店先に入った・・・」
これも、大分勢いがつきすぎている≫

この話、鉄舟は清川と関係が深かったことを裏づけるものであろうが、清川が暗殺されたことから謹慎宥免となり、一室に籠って思考し続けた結果「己は剣の道だ」と改めて気づき、高山以来の師である井上清虎の導きにより、小野派一刀流の浅利又七郎と出会えたのである。

鉄舟と立ち合った当時、浅利は四十二歳の男盛りであった。
鉄舟と浅利の立ち合い、浅利が下段につけて構え、鉄舟は正眼に構え、得意の突きで打ち込もうとした、その瞬間、浅利の竹刀の先がさっと上り、鉄舟の喉元に向けられ、その形のままに、浅利は、
「突き・・・」
と言った。
実際に突きを受けたわけでない。だが、鉄舟は一歩も前に出られなくなっていた。喉元に竹刀が食らいついていて、切っ先を外そうと右に回ると、右についてくる。左に避ければ左についてくる。後ろに退くと、またもぴったりついてくる。
いつの間にか、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない。
「参った」
鉄舟が叫んだ。

面当てを取ると、実際には竹刀が全く当たっていないのに、喉首が激しい突きを喰ったかのように痛む。
これは、到底、自分なぞが敵う相手でない。20歳で山岡静山に完膚なき敗北を期して以来の完敗である。上には上があるものだ。鉄舟は完全に頭を下げ、
「弟子にしていただきたく、入門をお許し願います」
と、浅利道場に通うことになったが、その後もどうしても勝てない。浅利が大きな壁として聳え立ち、それを克服するためには何をしたらよいのか。

人は悩んだ時、相談する相手は、やはり信頼する人物になる。今まで鉄舟が最も敬愛した師は山岡静山、その弟で義兄となる高橋泥舟は隣家に住んでいて、静山亡き後の最も近しく親しい仲であり、何事も話せる。ある日、苦しい胸中を、正直に伝えてみた。
「義兄上、どうした訳でしょう」
「うーむ。鉄さんがそれほどになるのだから、浅利又七郎は本物だ」
「自分の何かが、欠けているのだと思っているのですが」
「剣の技を磨くだけでは無理かもしれない」
「剣の稽古だけではダメということですか」
「そう思う。心の修行で立ち合うしかないだろう」
「そうですか。そうか・・・。やはり修禅によって立ち向かうしかないのか」

鉄舟は頷き、なるほどと思い、今までの禅修行を思い起こし、剣に比べ、追究が甘く未だしだったこと、それが、浅利を打ち崩せない理由だとすぐに飲み込む。

こういうところが鉄舟という人物の素晴らしさである。気づきが素直で、問題解決に向かって決して逃げず、前向きに対応する。

以後、鉄舟の禅修行は明治13年(1880)まで続き、大悟へのきっかけをつかんだのは、平沼銀行を設立した豪商の平沼専蔵のビジネス体験話からであり、それを一言でまとめれば、「損得にこだわったら、物事は返ってうまくいかないという、心の機微を実践の中から学び、この実践を通して事業を成功させた」というものであった。

これに鉄舟は深く頷き、「専蔵、お主は禅の極意を話している」というと同時に「解けた」と叫んだのである。
平沼専蔵からヒントを受け、それから5日間、昼は道場で、夜は自室で座禅三昧に明け暮れた。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。
肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった3月29日の夜、ふっと三昧からわれに帰ると、ホンの一瞬かと思ったのに、すでに夜は明けなんとする頃になっている。気持はいつになく爽やかで、清々しく、すっきりしている。

鉄舟は座ったままで、剣を構えてみた。すると、昨日まで際(きわ)やかに山のような重さで、のしかかってきた浅利又七郎の幻影が現れてこない。
「うむ、これはつかみ得たか」と頷きつつ、道場に向かい、木刀を握った。
すると、立つは己の一身、一剣のみ、浅利の姿は全く消えている。四肢は自由に伸び、気は四方に拡がって、開豁(かいかつ)無限である。
ついに浅利の幻影を追い払い、「無敵の極意」を得ることができたのだ。

この瞬間を鉄舟は次のように表現している。
「専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。時既に夜を徹して三十日払暁(ふつぎょう)とはなれり。此時、余猶坐上にありて、浅利に対し剣を振りて試合をなすの形をなせり。然るに従前と異なり、剣前更に浅利の幻身を見ず。是(ここ)に於いてか、窃(ひそか)かに喜ぶ、我れ無敵の極処を得たりと」

鉄舟が自らの剣において、極意をつかみ得た瞬間を書き述べた「剣法と禅理」の感動場面であり、この大悟によって明治13年(1880)に無刀流を開いたのである。

無刀流と称する意味を『剣術の流名を無刀流と称する訳書』(『山岡鐵舟』全生庵編)は、
「心が自由自在かつ無尽蔵」で動くことだと述べている。この無刀流極意から論じれば、尊王攘夷派であったとしても、その時代の変化、時流に基づいて行動することは可能になる。

さらに、『山岡鉄舟の武士道』(勝部真長編)で、次のようにも語っている。
≪世人はあるいは勤皇主義とか、開国主義とか、攘夷主義とか、討幕主義とか種々名づけているが、拙者は総合一括してみな勤皇というのだ。元来、わが国の人士は勤皇が本(もと)である。だからその枝葉も勤皇に違いない≫

このところを正確につかむ必要があるだろう。鉄舟は上位概念を常に考えに入れて行動しているのである。つまり、物事を解決するためには、目先の出来事や考え方を整理することが一般的だが、その前に、眼前で行動し、主張していることが「何のためにしているのか」を検討する。一度、立ち止まって、その本質を問うことをすべきと述べているのである。また、これをできる人物が時代を見通せるのだとも語っている。

鉄舟が謹慎蟄居を解かれたのが文久3年の年末、それから慶応4年(1868)3月の駿府行きまでの約4年間、鉄舟は浅利に勝つため、日夜、厳しい禅修行を続けていたが、その過程で上記の「本質を問う思考と行動」を身につけた。つまり、慶喜の命で駿府談判に赴いた駿府で西郷隆盛を納得させるだけの力量が身に備わっていた。

言いかえれば、幕末時における鉄舟の人間力が、官軍の実質的リーダーとして最強の権限者であった西郷をも、説得できるほどになっていたという意味を持つ。

その修行過程の明治10年(1877)、円朝は鉄舟に弟子入りしたのである。
明治維新当時、円朝は江戸っ子であることにこだわっていたし、同じ落語家にも政治犯として獄中死した四代目三笑亭可楽のような人物もいた。
可楽は本名を榊原謙三郎といい旗本だったが、放蕩の末、噺家となり二代三笑亭可楽の養子となって三代翁家さん馬を名のり、のちに三代朝寝坊むらくを継いだ。
豪商などの贔屓にもなったが、丸屋宇兵衛という商家の婿になり、それも間もなく離縁となって四代目三笑亭可楽を名のった。
離縁に際し、元幕臣としての血が官軍の江戸入りを見るにしのびず、抗戦の陰謀を企て、寄席の高座に爆薬を仕掛けようとした。
この計画が事前に発覚したため地方に逃れ、滝川鯉かんの名で興行しつつ日を送っていたが、再び、東京に立ち戻り浅草弁天山の火事を見物していたところを逮捕され吟味中、明治2年(1869)9月、獄中で死亡した。

可楽は獄中から円朝に一書を送り、愛弟子の夢助の将来を円朝に託した。円朝はこの要望を聞き届け、夢助を弟子に加えた。これが後に座り踊りの名手となった円三郎である。

このように新政府に歯向かう落語家もいたが、時代の感覚を鋭くとらえて、新時代の客層を取り込むことに成功する噺家もいた。その代表が、円遊の「ステテコ」、万橘の「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした派手な芸で、新しい自由な刺激の強い娯楽を求める層と合致し人気を博していた。

しかし、当然に江戸期の感覚で演ずる噺家もいるし、文明開化の姿に接していながらも、旧態を脱することのできない人々も多く、これらは新しい社会生活になじまずに悶々と過ごすことになる。

円遊、万橘の珍芸に拍手を送り、単なる娯楽として満足を示す観客層は、新しい東京人であった。

一方、伝統的な人情噺の陰影に江戸期の風俗や生活の残りを求めていたのは、旧江戸人を中心にした観客層であって、ここに焦点を当てた芸を売り物にしていたのが三代目円生であった。特に「累(かさね)の怪談」、これは元禄3年(1690)刊の『死霊解脱物語聞書』と題する勧化本(かんげぼん)、読者を仏教の教えに導くために書かれた、累の怪談噺はこれから始まったといわれ、その後、累の亡霊を登場させる類似作が歌舞伎や浄瑠璃で上演され、円朝の『真景累ヶ淵』にも引き継がれているが、それらはすべて目には見えない、先の世からの因果の図式にもとづくもので、めぐる因果の恐ろしさを感じさせるものである。

この円生、三遊派最高の名跡を受け取っていたが、次第に江戸期感覚のままで幽霊・祟りも芸を続けることと、新時代になっても自らを変えられない芸との間で悩みはじめ、とうとう神経病に追い込まれていき、明治14年(1881)8月46歳の若さで死去し、それが「9月9日付朝野新聞」で次のように報道された。
≪売り出しの落語家円生は此の程病没したるが、此の円生は義母マツの存命中、兎角不幸の仕業あり、又、其妻も似たもの夫婦の諺の如く、義母に邪見なりしゆえ、マツは、私が死ねば二人に取付くなどと云ひたることもありたる由。然るに先頃、マツが死去せし後、或る日円生夫婦の居る処へ一羽の蝶が舞込み、円生に取り付くを追い払えば、また円生に取り付き、妻が追い払えばまた円生に取り付き、離れざるより、例の疑心暗鬼にて、扨ては養母の怨念ならんと、夫より円生は神経症を発し、終に黄泉の客となり、其の後、妻も同病にて今に枕も上らぬとのこと≫

この記事は、一片の現象を書き述べたものであろうが、一方で開化の世を謳歌し、陋習、迷信を破って新時代に力強く生きていこうとする人たちが増加する反面、依然として仏教的な因果観に固執して、自己の人生を考える人も少なくなく、それが円生でもあったが、己の殻を己が破るという自己革新できない層も大勢いたのである。

円生が亡くなったのを円朝は上州で知ったという。これも幕藩体制の崩壊で旅行が解禁され、それまで自由に行けなかった地方の状況を知りたい、という人々への欲求に応えるよう円朝が取材という行動をしていたことを示している。

円朝の特性は鋭い観察力であり、時代を取り込む感性である。創作した作品を分類してみると、それがよくわかる。
「怪談噺」「伝記物」「翻案物」「芝居噺」「人情噺」「北海道取材作」「落語」と大きく7項に分類でき、単なる落語家としての域を超えているが、この中から代表的な三つを選んで説明したい。

一つは「怪談噺」である。安政6年(1859)から創作し始めたのが『真景累ヶ淵』をはじめ、江戸期の人々に深く入り込んでいる因果関係を、明治に入ってからも『怪談乳房榎』などを人間絵図として創り、それを天才的ともいうべき舌三寸から語り続けた。

二つめは「伝記物」である。維新の大改革で江戸っ子は日常生活習慣を変えさせられ、地方からの移住による人口増加もあり、江戸は「雑多な東京」となり、その中で多くは、新しい時代の生き方をどう組み立てればよいのか戸惑っていた。
特に地方出身者は、慣れない環境で、いかに生活を成り立たせ、豊かになれるのか。その方策や指針を求めていた。
そのような情勢下、円朝は、維新政府の改革変化にクレームをつけるのではなく、それらを包み込む「新しい時代の生き方」として「塩原多助一代記」と「塩原多助後日譚」に代表される立身出世物語を示したのである。それは当時の人々に広く受け入れられただけでなく、政府からも支持され、ついに明治25年(1892)には修身教科書に取り上げられた。

三つめは「翻案物」である。明治16年(1883)に鹿鳴館が開館されたことで示された時の欧化政策、その影響から外国に関心を持つ新しい読者層が増える動き、これを素早く取り入れ出版したのが明治18年(1885)の『英国孝子ジョージ・スミス伝』である。その冒頭部分を紹介する。
≪御免を蒙りまして申上げますお話しは、西洋人情譚(ばなし)と表題をいたしまして、英国の孝子『ジョージ・スミス伝』の伝、之を引続いて申上げます。彼(あち)国(ら)のお話しではどうもちと私の方にもできかねます。又お客様におわかりにくいことがありますから、地名人名を日本にしてお話しをいたします。
英国のリバプールと申しますところで、英国の竜動(ロンドン)より三時間で往復のできるところ、日本でいえば横浜のような繁盛な港で、東京(とうけい)で申せば霊岸嶋鉄砲洲などの模様だと申すことで、その世界にいたしてお話しを申上げます。スマイル・スミスと申しまする人は、あちらでは蒸気船の船長でございます。
これを上州前橋立(たつ)町(まち)の御用達で清水助右衛門と直してお話しをいたします。その子ジョージ・スミスを清水重二郎という名前にいたしまして・・・≫
≪これはある洋学先生が私に口うつしに教えて下ったお話しを日本の名前にしてお和かなお話しにいたしました≫

臨機応変といおうか、縦横無尽といおうか、正に、鉄舟の『剣術の流名を無刀流と称する訳書』に書かれた世界、
≪過去・現在・未来の三世から一切の万物に至るまで、何一つとして、心でないものはない。心というものは痕跡を残さないものであり、自由自在かつ無尽蔵である。東に現れ出るかと思えば西に消え、南に現れれば北に消える。まさに神変自在、天も予測することはできない≫

この境地に、鉄舟から受けた禅修行によって、円朝も到達したのであろう。
結果として、時代の機微をとらえ、機敏さと柔軟性を発揮し、三遊派一門の復興と、芸人の社会的地位の向上を実現したのである。

これで「鉄舟から影響受けた円朝」編を終え、次号からは「神にならなかった鉄舟」を論じて参ります。

2019年6月26日 (水)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その二十

明治17年(1884)、円朝は『怪談牡丹燈籠』の速記本を出版した。
出版は、速記者若林玵蔵のすすめによるといわれているように、円朝は速記本にすることにある懸念があった。
自らの芸を、出版物という媒体で伝えられるのか、という疑問である。
落語は寄席に来る客に直接語りかけ、噺の強弱、メリハリ、場面状況の情景つくりなどによって感情移入していき、聞く側に感動を与えていくものであるから、速記出版では真の芸を伝えることができないのでは・・・。当然の疑念だろう。

実際、今日に至っても円朝本に対する批判は残っている。確かに円朝は、速記に合わせて故意に演出を変えている。
変えた理由は、ひとつは円朝が「芸を盗まれることを嫌ったこと」と、もうひとつは「高座を見ることができない読者のために編集し直した」ためである。

この当時、円朝の話芸は広く世間に噂されていたが、実際に聴ける者は、寄席を中心にした僅かな人数に過ぎなかった。
そこで、円朝が目指す、江戸期からの客層にも、また新時代の客層にも合わせ、上流・中流・下層が輻輳する社会に合わせていくためには、時代に合致した方法を講じる必要があって、若林玵蔵のすすめに乗ったのである。

結果は、円朝はさらに多くの読者を得ることになり、その創作活動はこの年から新しい飛躍がはじまった。
同年の新聞が以下のように報じる。(参照 『三遊亭円朝』永井啓夫)

≪『7月29日付 時事新報』怪談牡丹燈籠 〇同書は有名なる落語家三遊亭円朝が演述せし怪談を若林玵蔵氏が例の傍聴筆記法にて書取り、円朝の口気を其儘に写出したるものにて、其第一編(一編の定価7銭5厘)を京橋南伝馬町3丁目東京稗史出版社より発売し、尚引き続き、土曜日毎に一編を発売し、13編に至て局を結ぶと云ふ≫

日本の速記術は、明治15年(1882)に田鎖(たくさり)綱紀(こうき)が、ピットマン系のグラハム式に基づいて「時事新報」紙上に「日本傍聴記録法」を発表し、同年10月に東京で第1回講習会を開き30名の修了者を出し、その後、若林玵蔵、林茂淳らにより田鎖式符号に改良が加えられ、速記は実用化に向けて大きく踏み出し、特に、三遊亭円朝の講談を速記した『怪談牡丹燈籠』に始まる講談速記が有名となった。
左の『怪談牡丹灯籠』初版本の表紙には、円朝の名前と並んで「若林玵蔵筆記」と明記されている。

若林玵蔵が『若翁自伝』で出版効果を語っている。
≪当時、円朝の出席する人形町の寄席末広亭へ毎夜通って、速記することにした。円朝の人情話は15日間に一種の話を纏めることになって居るから、円朝も15日間欠かさず出席し、こちらも欠席しないことを約した≫
≪「牡丹燈籠」は一席を一回とし、毎土曜日に発行したところ、「円朝の牡丹燈籠」で十分売込んであるのを話の儘に読めるといふことが評判になって、雑誌は非常な売行であった。「牡丹燈籠」の雑誌の表紙にも、裏面にも、速記文字で書いたものを掲載したから、速記の広告にもなった。円朝の話は速記によって世間に紹介され、速記は円朝の話に依って紹介された結果を得たのである≫

この当時、大衆のための読物が出版されていなかったこともあり、『牡丹燈籠』は世人から広く受け入れられたが、思わぬ成果も生んだ。日本の近代小説文体への影響である。

当時の文章は、いわゆる文語文だった。これは古文や平安時代にみられる言葉遣い和文・和漢混淆文・漢文書き下し文・候文などが主で、維新後に取り入れられた欧米の新しい思潮をもとに創作された文芸作品も、すべて江戸期の文語文であって、公的にも私的にも口語による文章というものが全然用いられていなかった。
そのため口演がそのまま文章になる速記本の文体は、今日から見ればかなり難しい漢字や当て字などを用いていたが、誠に斬新な表現内容であった。

明治19年(1886)、二葉亭四迷は口語体小説『浮雲』を書くため、坪内逍遥に相談したところ、即座に「円朝の牡丹燈籠の速記本をあげて、その文章を参考にするよう」と教えられたと、四迷は当時を回顧して次のように記している。(『三遊亭円朝』永井啓夫)
≪もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いてみたいとは思ったが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで坪内先生の許へ行って、何うしたらよかろうかと話して見ると、君は円朝の落語を知ってゐよう。あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。で仰せの儘にやって見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京弁だ、即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持って行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち、礑(はた)と膝を打って、これでいい、その儘でいい、生じっか直したりなんぞせぬ方がいい、とかう仰有る。(中略)これが自分の言文一致を書き初めた抑(そもそも)である。(「余が言文一致の由来」明治35年「文章世界」所載)

また、明治19年4月に四迷が冷々亭杏雨という別名で記した自著『虚無党気質』の広告文に円朝速記本との関係にふれている。
≪加之言文一致の主義に基いて、紳士社会に行われまする上品な東京語を以て翻訳してございますから、至極面白く出来てをりまして、悪く申せば円朝子の猿真似ですが、賞めて申せば、此小説などが日本の新文章の嚆矢に相成りませうか≫

これは円朝も若林玵蔵も全く予期していなかった波及効果で、近代日本文学の基部に大きな影響を与えたのである。
この事実を円朝がどの段階で知ることになったのか不明だが、このような影響力を発揮した円朝は、この頃には自らを「芸人風情」と貶める感覚から既に脱皮し始めていたであろう。

『怪談牡丹燈籠』出版の翌年の明治18年(1885)に、7年前の明治11年(1878)に完成していた『塩原多助一代記』が速記法研究会から出版された。体裁は半紙判、柴田是真の表紙、奥原晴湖の見返し、口絵は芳年・芳幾、挿絵に芳幾・国峯という豪華なものであった。

この背景には、『怪談牡丹燈籠』で成功したはずの東京稗史出版社が、他の予約出版で事業を拡大しすぎたため、速記出版を続けることが難しくなっていたことと、円朝は印刷や製本にも粗末すぎると不満があり、体裁をすっかり改めて、速記法研究会から発行することにしたのである。

18年は『塩原多助一代記』に続いて、相次いで円朝物が新旧とりまぜ速記本として出版され、目ざましい売行きを示した。
『英国孝子ジョージスミス伝』(速記法研究会)
   半紙判12葉  毎月4回ずつ、8冊で完了 定価1冊9銭(全冊56銭)
  題字 市川団十郎 挿絵 歌川国峯、尾形月耕
『業平文治漂流奇談』(速記法研究会)
   半紙判   序 若林玵蔵 口絵 歌川年貞、揚州周延、歌川国松、水野年方
『鏡ヶ池操松影』(牡丹屋)
  半紙判 序文 円朝
『後開榛名梅ヶ香』(朝香屋)
  半紙判 挿絵 歌川芳春

外国種の物語を翻案し、新時代にふさわしい人情噺『英国孝子ジョージスミス伝』には、「或る洋学先生」から教えられたとある。文学者で新聞人の福地桜痴等を中心にした学者、文人からと推定されるが、円朝の交友範囲は広く、これらの人脈から時代の動きを取り入れて創作活動に活かしていた。

出版社が速記法研究会、牡丹屋、朝香屋と経済上の理由等で変っていくが、全国的に普及され、円朝の名はますます知れ渡って行った。
講談も松林伯円の『安政三組杯』が若林玵蔵の速記で出版され、以後、講談物も多く出版された。

このような読物刊行に刺激されたのか、文壇も活況を呈し、2月に尾崎紅葉を中心に文学結社・硯友会が発足、6月には逍遥の『当世書生気質』、つづいて9月に『小説真髄』が発表されたように文芸も活気づいた。

円朝が出版物によって評価されていく傍ら、寄席はどのような状況であったのだろうか。
明治18年の「東京案内」によれば、この当時の劇場入場料は以下であった。
  大劇場(新富、久松、猿若、市村の4座)
       大入場 8銭―17銭
   一幕見 2銭
  中劇場(春木、中島、相生、寿の4座)
       大入場 7銭
   一幕見 1銭5厘
  小芝居(戸山、倭、浄瑠璃、栄喜、喜升の5座)
       5銭

これに対し寄席は87軒が経営されており、端席まで数えると120軒以上あつたという。寄席の入場料は3銭から3銭5厘、劇場より安く、不況下での娯楽は寄席に向かった。

東京には地方人の流入によって客筋も多様化しており、旧来の「江戸前の芸」のみでなく、新しい自由な刺激の強い娯楽を求める層も増え、前号でも紹介した円遊の「ステテコ」、万橘の「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした派手なものが喜ばれていた.
加えて、関西からも東京に高座に迎えられた。明治18年、19年頃、大阪8人芸の西学坊明学などが人気を博していた。
寄席芸人だけでなく、上方歌舞伎も上京し本郷春木座に出勤し、この一座はたちまち東京の観客の支持を受けて、後日、円朝作品もこの一座で上演され、これが端緒となって、円朝物が演劇の中にも入ってゆく。

明治19年、東京新富座の1月興行は円朝の「英国孝子伝」を劇化し、「西洋噺日本写絵」として九代目市川團十郎、市川左団次等によって上演された。
円朝の欧米翻訳物の珍しさと、速記本が普及していることからの企画であった。「英国」といっても、内容は日本化されており、明治の東京、旧士族、開化風物などが点綴された、いわゆる「散切物」である。また、「活歴物」も登場した。
「散切物」とは、髷を切り落とした短髪を散切りといい、明治の新風俗を劇中で描く、明治期の現代劇ともいうべきもの。
「活歴物」とは史実にこだわらない自由な発想で作られた江戸時代の時代物に対し、人物の歴史通りの行動を描き、正しい時代考証に基づく扮装をするなど、写実的で史実を重視した歴史劇も作られ、「活きた歴史」という意味から「活歴」と呼ばれた。九代目市川團十郎が主導し、新時代になり各界の専門家や黙阿弥の協力のもとで実現させた。なお、九代目市川團十郎も鉄舟に直接大感化を受けたと、『おれの師匠』(小倉鉄樹)が述べている。
 

明治19年8月、円朝が大臣のお供で北海道を旅行した。外務大臣・井上馨、内務大臣・山縣有朋が共に妻を連れ、益田孝、大倉喜八郎、小室信夫、馬越恭平など実業界やジャーナリスト、芸人を含む総勢数十名。行程は、横浜から船で函館へ、余市、小樽、札幌、幌内を回って、帰りは上州磯部温泉で休養、40日を超える大旅行であった。
 

この旅行中、井上馨は民情視察と開拓促進へ見せた熱意と努力は非常なもので、開拓民の不便と困難さに耳を傾け、慰撫激励する姿が北海道各地に多大な反響を与えた。
この当時の円朝、明治政府の高官から殊遇を受けていたが、間近に接した井上の熱性溢れる態度に深く感じるところがあったという。
後年、兄弟のような交わりをもった井上馨と円朝の結びつきは、この北海道旅行を契機として深まったといえよう。

この北海道の見聞を題材にして帰京後『椿説蝦夷なまり』、『蝦夷錦古郷の家土産』を書いている。作品としては、大きな反響を得られなかったが、この両著は重要な円朝の幕末維新事件への考えを示している。

特に『蝦夷錦古郷の家土産』のなかで、元治元年(1864)3月の天狗党の乱について≪これがあの時分の戦争の初めで、わたくしどもは江戸にいてその話を聞いても、あまりよい心持ちはいたしませんでございました≫と述べていることは重要である。

元治元年の前年は文久3年(1863)、5月に長州が下関で外国船を砲撃し、7月には薩英戦争があり、8月は八月十八日と、大政変が発生しているのに、円朝作品では表現されず、翌年3月の天狗党の乱が、維新戦争の始まりだと意識している。

つまり、江戸っ子の円朝は、ペリー来航から始まった一連の政治上の大事件には、あまり関心を持たず、ようやく天狗党の乱あたりから「どうも徳川将軍様に影響を及ぼす問題になりそうだ」と心配しだして、≪これがあの時分の戦争の初めで≫と認識しているのである。

この円朝の見解と感覚は重要である。時の人々の感応を直感的につかみ作品化しているのであるから、円朝は民衆集合心理の様相を描き出していたのである。でなければ寄席を通じ、速記本となって全国的に受け入れるわけはない。時の民衆集合心理をつかむところが円朝の才能であって、ここから推測できることは、時の民衆はペリー来航から続く幕末維新の政治的大事件に対して、特別に大きく関心を持たなかった、という既に述べた通りの結果に辿りつく。

明治19年3月1日、永田町の鍋島侯爵の私邸に明治天皇が行幸され、その際、講談師松林伯円が御前口演の光栄に浴した。
市井の芸能が、上層部に位置付けられる御耳に達することができるようになったことは、高官との交友関係もさることながら、芸人たちにとって改めて自らの立場の向上を思いはせたであろう。

この年の10月に、「やまと新聞」が創刊され、円朝の「松操美人生理」を連載し高評を博した。
その経緯を岡鬼太郎が次のように述べている。
《日刊やまと新聞発行の初、円朝の続き話は、速記となって、珍しくも日毎日毎の紙上に載せられた。挿絵は年方氏であったと思ふ。木版彫刻は銀座の山本であったか。何しろ紙面の縦半分ほども段を抜いた大挿絵が、惜気もなく、円朝の話と一緒に出るのである。速記物連載の評判、円朝の評判、挿絵の評判、やまと新聞が軟か向に売れた事は、実に目覚ましい物であった。
やまとの主幹は、作家としての山々亭有人、後の条野採菊翁であった。採菊翁は円朝の贔屓客でもあり、友人でもあり、而して其の採菊翁は、日日新聞に在社時代から、福地桜痴氏とは友人である。円朝は福地先生から西洋種を与えられた。芸人として、好い御贔屓を有ったものである》(円朝雑観)

やまと新聞は明治19年(1886)創刊、その号から連載された「松操美人生理」は福地桜痴から聞いた外国種の翻案である。
円朝は、この作品に当って、パリ―ロンドン間の便船時間まで研究したらしいが、翻案された舞台は相州三浦辺りに舞台を選んでいる。だが、地理・風俗にこだわる円朝の一面がパリ―ロンドン間時間調査でわかる。

新派の伊井蓉峰がこの作を上演しようとした際、そのシナリオを見た円朝が「これはいけない。私が一つ話して見ましょう」といい、漁船のくだりを口演したところ、聞いていた者が皆船に酔ったような気持ちになったという。

「松操美人生理」に続いて「蝦夷錦古郷家土産」を連載したように、やまと新聞は「円朝物」の連載によって売れたといわれている。
だが、円朝もやまと新聞によって、この後、多くの作を発表することができ、芸人というよりむしろ作家に近づいたともいえる。
この時代の聴衆が持つ好みがスピーディーに変っていくことを認識していた円朝、活字を通しての創作活動へ非常に熱意を見せたのである。
以上のように、円朝は「江戸期からの客層、新時代の客層、上流・中流・下層社会層にも合わせる」という時代を読み込んだ創作を行い、速記本による出版も加え、自らが目標としていた「芸人風情心情からの脱皮」も図ったのであるが、これは鉄舟からの影響が大きい。
では、鉄舟から何を学び、取り入れたのか。それを次号で考察したい。

2019年5月24日 (金)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十八

江戸無血開城によって日本の近代は進み歩んで、今年は維新150年となった。
 その無血開城の功績者は誰か。という議論になると、現在、圧倒的に「西郷隆盛と勝海舟による慶応4年3月14日の会見で決した」という説が流布され、史跡が港区田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡に立っている。
 東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸無血開城をめぐるおもな動き」が図示されている。
これによると鉄舟の役割は海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。この文面からは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。
 

そこで、2016年10月に江戸東京博物館学芸員に対し、「全生庵で保存されている鉄舟直筆の『慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記』には、西郷との交渉・談判の内容と、西郷から『慶喜の命保障』、『徳川の家名存続』の確約を引き出したことが明確に記され、その結果を江戸にて大久保一翁、海舟に報告し、慶喜が欣喜したと書かれている」が、これと江戸東京博物館の図示とはあまりに違い過ぎるのではないか、と問い合わせしたところ、次のような回答が届いた。
「『談判筆記』などの資料研究を深め(他の同時代資料とのつき合わせなど)、当館のパネルや展示に反映させていければと存じます」と。
2018年1月20日、読売新聞西部版に「維新150年」記事が掲載された。テーマは「江戸無血開城」で、筆者にも取材がありコメントしたが、江戸東京博物館学芸員も「私見史論」として同紙で次のように述べている。
≪江戸城無血開城は幕末維新史のハイライト。ドラマや映画で描かれるように勝と西郷が演じた役割は大きいが、2人だけで成し遂げられたわけではない。敵だらけの中、果敢に西郷との面会に赴いた山岡鉄舟や、徳川家の存続を切に願った2人の御台所――薩摩藩出身の天璋院(篤姫)と皇族出身の静寛院宮(和宮)らがそれぞれの思惑で動いた結果、実現したことを忘れてはならない≫
この掲載内容、異論が残るが、鉄舟を「勝の手紙を届ける単なるメッセンジャー役」という図示から、かなり変化させている。認識転化したのか。

2018年1月5日の産経新聞デジタル版に、岩下哲典氏(東洋大文学部史学科教授)が「知られざる『江戸無血開城』 勝海舟を凌ぐ幕末ヒーローはこの人だ!」を掲載した。
この中で岩下教授は、≪「江戸無血開城」の幕府側の最大の功労者は、海舟では断じてない。山岡鉄舟である。そして二番目の功労者は、鉄舟の義兄、高橋泥舟である。海舟は三番手である。むろん、西郷は新政府側の最大の功労者であることは変わりがない。あえて言えば「江戸無血開城」の功労者は西郷と鉄舟・泥舟である。海舟は、徳川家の表向きの代表者として追認したにすぎない≫

≪「江戸無血開城」前夜の4月10日、慶喜は主だった幕臣を集めて別れを惜しんだ。その時、鉄舟に自らの助命と徳川家の存続、すなわち「江戸無血開城」に果たした役割は、鉄舟が「一番槍」であると称賛して愛刀を与えた(全生庵所蔵の断簡史料)。鉄舟・泥舟の苦労が報われた瞬間である≫

≪「江戸無血開城」の新政府側の功労者は確かに「西郷どん」である。徳川方の功労者は、鉄舟・泥舟・海舟・和宮の使者である。これまたあえて比率でいえば、西郷:鉄舟:泥舟:海舟:和宮の使者=3・5:3・5:2:0・5:0・5であろう≫

上記見解を詳しく述べた『江戸無血開城の真実』(吉川弘文館)が出版されたので読んで頂きたい。

いずれにしても、岩下教授も筆者も「江戸無血開城は、駿府における西郷・鉄舟談判で事実上成されたもので、慶応4年3月14日の西郷・勝会見ではない」という見解である。

因みに、岩下教授が「一番槍」と記した鉄舟書状の全生庵所蔵断簡史料は左であり、これを読み解き、書き直すと次のようになる。
「十一日出立前夜、御前へ被召、御手つから来国俊之御短刀拝領被仰付、是迠度々骨折候、官軍の方へ第一番ニ至り候事一番鎗だと上意有之、あり難き事ニ御座候」。

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さらに、「明治維新150周年鹿児島県講座」(2018年2月24日よみうりカルチヤー)で、NHK大河ドラマ「西郷どん」の時代考証を担当した原口泉氏が「江戸無血開城は山岡鉄舟と西郷隆盛とで成し遂げた。その後の会談はその後始末のようなもの」と解説したと、出席した山岡鉄舟研究会員から連絡を受けた。原口氏も鉄舟の功績と明言したのである。

もうひとつ証明となる史料に『正宗鍛刀記』がある。鉄舟が徳川宗家16代の徳川家達から賜った太刀「武蔵正宗」の経緯が記されているもので、無血開城が鉄舟の業績であると証明するものであるが、その経緯を『おれの師匠』(小倉鉄樹著)から要約する。

≪明治14年(1881)、明治政府は維新の功績調査を行って、関係者を召還または口述や筆記を徴した。
鉄舟は「別に取り立ていう程のことはない」と賞勲局の呼び出しに応じなかったが、何度も呼び出しがあるので出頭すると「先刻、勝さんが来て斯様なものを出されましたが・・・」と鉄舟に見せた。
それを見ると「勝が西郷との談判を行ったと書いてあり、鉄舟の名はない」ので「変だと思ったが、嘘だと言うと勝の顔を潰すことになる。勝に花を持たせてやれ」と「この通りだ」と海舟の功績を肯定した。
賞勲局員も無血開城の経緯を知っているので鉄舟に反問した。
「それであなたの功績はどうしたのですか」
「おれか。君主に臣民が為すべきことを為したまでで手柄顔は出来ないさ」
賞勲局員は困って、賞勲局総裁の三条実美公に報告したところ、三条は岩倉具視公に連絡、岩倉公も「それは変だ」と鉄舟を呼び出し尋ねた。
鉄舟も岩倉公の前では嘘も言えず「実は、勝からあのような書類が出ていたので、勝の面目のため自分は手を退いた」と答えた。
岩倉公は鉄舟の人格高潔さに感服しつつも、正しい史実を遺すべく、鉄舟から当時の談判事実を詳しく聞き取って、漢学者の川田剛に漢文で書かせ、明治の三筆の一人である巌谷修が六朝楷書でしたためた≫

現在、名刀「武蔵正宗」と史料『正宗鍛刀記』は、「刀剣博物館」に保管されている。その経緯は、鉄舟から岩倉具視へ贈呈され、岩倉家から藤澤乙安氏へ売り渡され、その後、藤澤家が「刀剣博物館」へ寄贈し現在に至っている。

では『正宗鍛刀記』に記された内容と異なり、世間で「西郷と海舟によって無血開城が成された」という説が流布されているのはなぜであろうか。

そのひとつの大きな要因として挙げられるのが、海舟自ら≪ナアニ、維新の事は、己と西郷でやったのサ≫(『勝海舟全集』第20巻「海舟語録」講談社・「明治31年1月30日」)と、書き述べていることが影響している。

多分、明治中期、鉄舟が存命中の明治21年(1888)ごろまでは、「江戸無血開城は鉄舟の功績」といのが、世間で当たり前の認識であったに違いない。
それを証明するのが、前記した明治政府の維新功績調査における賞勲局員の疑問である。この頃は誰もが鉄舟が「一番槍」であることに疑問を持たなかったのではないか。
ところが、後世の歴史家たちが、史料を集め分析していく過程で、誤った見解がつくりだされたのではなかろうか。

その一つの事例として、江藤淳氏の『海舟余波』の記述を取り上げたい。その一節にこうある。
≪鉄舟山岡鉄太郎が、駿府に到着して西郷吉之助と会見したのは、3月9日のことであった。(中略)しかし、この同じ日、江戸でひそかにおこなわれていたもうひとつの重要な会談については、人は意外と知るところが少ないのである。それは軍事取扱勝安房守義邦と、英国公使館通訳官アーネスト・サトウとの秘密会談である。サトウはそのメモアールに記している≫

江藤氏が言う≪そのメモアール≫とは、アーネスト・サトウの著書『一外交官の見た明治維新』(岩波新書)の190頁の文言である。
≪3月8日に私は長官と一緒に横浜に帰着し、3月9日には江戸へ出て、同地の情勢を探ったのである。私は野口と日本人護衛6名を江戸へ連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であった勝安房守であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた≫
この記述から、ほとんどの学者・作家・評論家等識者は、この3月9日江戸派遣時に、サトウが直ぐに海舟に会ったと錯覚してしまう。
ところが、これは完全なる誤りであることを、当誌2016年7月号で次のように指摘した。

≪『一外交官の見た明治維新』の原文“A Diplomat In Japan”には、3月9日江戸派遣時について、“used to visit”と書かれている。“used to”は過去の習慣(よく〇〇したものだ)を表す文法である。つまりここに書かれている「訪問」は、3月9日の派遣時に訪問したという特定の事実ではなく、この時期にサトウがおこなっていた情報収集の方針・やり方一般をいっているのである≫

恐ろしいことに江藤氏は、サトウの原文意味を確認せずに、海舟がサトウと会談したと断定している。さらに、横浜開港資料館に行けば、イギリス公使のハリー・パークスが本国に報告した文書のコピーが保管されているので、これを読み解けば3月9日にサトウが勝と会っていないことが判明する。だが、横浜開港資料館史料云々との記述もない。

江藤氏といえば、日本を代表する著名な文芸評論家であり、江戸城無血開城に際し敗れた幕府側の人間でありながらも、理想的な治者として勝海舟を見出し、評伝『海舟余波』を著して海舟を世に喧伝した。また、松浦玲氏と共に前記の『勝海舟全集』(講談社)の編纂に参画した。『氷川清話』と『海舟語録』は何度も重版されている。

江藤氏は何故に3月9日に拘っているのか。それは海舟が3月13・14日の西郷・勝会談以前の9日に、通訳官アーネスト・サトウに会い、パークスへ工作し、パークスから西郷に江戸攻撃を止めるよう圧力をかけたという説にしたいがためであろう。

つまり、鉄舟が駿府で西郷と談判している時に、海舟が既に江戸無血開城を止めさせるべく、イギリスに協力を得て交渉をしていたことになるわけで、これが事実ならば勝の功績は大きい。だが、この事実はない。

このような歴史研究家の史料読み込み誤りと、解釈違いは恐ろしい。結果として、江戸無血開城は「西郷と勝による慶応4年3月14日の会見で決した」という説が多数説として流布され、史跡が港区田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡に立ち、加えて、平成15年(2003)に海舟生誕の地に近い隅田川河畔、それも墨田区役所の脇に海舟像が建てられた。

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筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で「墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である」と述べた。北斎と王さんはわかるが、海舟が世界的な評価を受けているとは思えない。 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか。

鉄舟の禅弟子である円朝は、無血開城が鉄舟業績であることが、当時では常識としていたから、何も作品の中で述べていないし、円朝を含む当時の江戸っ子は、150年後、歴史研究関係者間で、江戸無血開城が「誰によって成されたのか」ということが、これほどまでに議論されていることは予測できなかったであろう。
150年経過し、日本が先進国として世界に冠たる地位を占めているがゆえに、そのスタートである無血開城に、現代人が強い関心を持って、縷々語られ、研究がなされているわけだが、往事の当事者である鉄舟は「君主に臣民が為すべきことを為したまで」という海舟とは真逆の淡泊さである。
この爽やかさを鉄舟はどのように身につけたのであろうか。
それは禅修行によって辿りついた境地に尽きるであろう。また、円朝も鉄舟の姿から学んだからこそ、その境地・奥義を己の生き方に取り入れたに違いない。

では、鉄舟が禅から得た境地とは何か。鉄舟は僧侶ではなく、武士である。だから、鉄舟は武士道の体現者として理解すべきである。
鉄舟は亡くなる前年の明治20年(1887)、門人の前滋賀県知事・籠手田安定らの求めに応じ、何回かにわたって武士道を講じている。(参照『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編)

その講義の冒頭で、≪拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである≫と述べている。ここでいう仏教とは禅を意味しており、続いて、≪それもその教理が真に人間の道を教え尽されているからである。まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・知・信とか、節義・勇武・廉恥とか(中略)、これらの道を実践躬行する人をすなわち、武士道を守る人というのである≫と述べ、その当然の結果として≪日本の武士道ということは日本人の服膺践行すべき道というわけである≫と論定している。

さらに論を進め≪その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻徳を奉謝することに躊躇しないであろう。これすなわち武士道の発現地である≫

大森曹玄氏は臨済宗の禅僧で、直心影流剣術第15代・山田次朗吉の弟子でもあり、鉄舟ゆかりの高歩院の住職を務め、著書に『山岡鉄舟』があり、その中で鉄舟の武士道講話について次のように解説している。
≪鉄舟にとって、”武士道”とは、かつての武士たちが究明し実践したところの、武士社会の倫理でもなければ、またその主従間の道徳でもない。それは時の過去と現在とを問わず、また士農工商の階級差別に関係なく、広く日本人たるものの踏み行なうべき人間の道なのである。同時にそれは、人類全般にも普遍的に妥当する「人間の道」だともいえるのである。こういうのが、鉄舟の武士道の本質である≫
≪彼も始めは父母の教訓である”忠孝”というものを、一つの徳目としてこれ何ぞと究明したことであろう。形の上では剣、心では禅によって、如何、如何と忠孝を究め来たり、究め去っていくうちに、ついにそれらの諸徳目を貫くところの”則”、別な言葉でいえば、”大道”に当面し、その”淵源”に到達したのだとおもう。彼はそこに確乎不動の”自信”を得た≫
≪鉄舟が武士道と呼んだ人間の道は、忠とか孝とか、仁とか義とかいう既存の徳目の一つ一つを対象的に実践することではない。その底を貫くというのか、それらを超えて包むというのか、とにかくそれらの相対的な一々の徳目を成り立たしめる根本原理を体得し、実践することをいっているのである。それを一言にして言うならば、その根本原理が「無我」なのである≫
≪禅に徹し、一切に自在を得た鉄舟の武士道とは、実にこのような人間としての根源的な大道を把握して、それを日常生活の上に無礙自在(捉われることなく自由自在)に実践することであった。まことに鉄舟は一介の武弁(ぶべん)(武士)ではなかったのである≫
大森曹玄氏は、見事に的確なる鉄舟武士道を解説されている。

さて、円朝は鉄舟から何を学んだのであろうか。
明治5年(1872)、素噺一本に転じた円朝、噺の根源思想を禅に求め、明治10年(1877)に鉄舟門下となった。
鉄舟は安政6年(1859)、自らが発起人となり、清河八郎等と尊皇攘夷党「虎尾の会」をつくっている。
ところが、慶応4年3月には突如、慶喜の命を受け駿府の西郷のところに交渉に行き、無血開城を成し遂げ、新政府では明治天皇の侍従という要職に就いた。
外見には、転身ともいえる生き方に見えるが、円朝は鉄舟の根本思想を理解することで、その行動に矛盾なきことを悟り学び、自らの素噺一本以後の土台を固めることができたのだが、このところは、もう少し鉄舟の生き方を掘り下げ、円朝を囲む社会環境を整理しないと理解できない。次号に続く。

 

2019年2月28日 (木)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十六

JR静岡駅北口から歩いて5分、伝馬町の通りにある「ペガサートビル」の前に、江戸無血開城の記念碑がある。高さは約1.5メートル、横幅は約1メートルの御影石で、向かって右側に山岡鉄舟、左側に西郷隆盛の顔が銅版で嵌め込まれ、下に≪西郷 山岡 会見之史跡 ここは慶応四年三月九日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります 明治百年を記念して 昭和四十三年三月九日建之 六鵬 沖和書丹≫と刻字されている。

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官軍による正式な江戸攻撃中止は、慶応4年(1868)3月14日、芝田町の薩摩屋敷における、第二回目の西郷・勝海舟会談で決定したが、その前に駿府における鉄舟・西郷会見で江戸無血開城が事実上決まったことを、静岡・伝馬町の石碑史跡が物語っている。
 伝馬町の石碑が建立された背景には、親子二代23年にわたる奔走物語がある。戦後の昭和20年(1945)、松崎屋源兵衛宅跡で鮮魚業を営み始めた原田鐡雄氏が、この地の重要性を知り、史跡とすべく活動し始めたが、志半ばで病に倒れ、その遺志を継いだ娘婿の原田勇氏の熱誠・執念によって建立された。

その後「静岡市文化財指定」を受け、静岡市教育委員会によって平成16年9月に石碑説明文が掲示されたが、そこには≪勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎≫とあった。
この説明文言は正しくない。事実は「海舟からでなく、徳川慶喜から直接に命を受けた」である。

そこで、文言修正を平成25年3月5日に開催された望嶽亭・藤屋における「市長とのお茶カフェトーク」で、静岡・山岡鉄舟会の故松本検顧問(前会長)が申し入れを行い、以後、機会を見つけては教育委員会に同会が要望してきた。
その結果、平成29年9月に≪徳川慶喜の命を受けた旧幕臣山岡鉄舟の会見≫と正しく直され、併せて≪三月十四日、江戸・芝田町の薩摩藩邸で山岡鉄舟も同席した西郷隆盛と勝海舟との会談により最終的に決定≫と加筆された。

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前号で歴史的説明板が、一度、掲示されると正しい内容への訂正変更と、撤去は大変難しいと述べたが、今回の静岡市伝馬町石碑は稀なる事例で、静岡市教育委員会へ、熱意もって積極的に働きかけを続けた静岡・山岡鉄舟会に深く敬意を表する次第である。

円朝を検討してきて、落語についていろいろ分かってきた。その一つが落語を「ラクゴ」と音読するようになったのは文献上では「明治24、25年」であるという。
 これは暉峻康隆氏が述べたことで(参照『三遊亭円朝と歌舞伎』高野実貴雄著)、それまでは「落語」と書いて「おとしばなし」と訓読されていたという。
 一方、『三遊亭圓朝の明治』(矢野誠一著)は、≪圓朝の活躍していた時代を伝える文献のなかに、たまたま「落語」という文字を見出すと、そのほとんどに「はなし」とルビを打っていることからも、「落語イコールはなし」という認識がふかく浸透していたのが見てとれる≫という。
両者の見解に共通しているのは、人前で上手に話して見せるプロとしての「落語家」を、「噺家」であると認識していることであろう。

 円朝は、鉄舟によって禅に大悟、「無舌(むぜつ)居士(こじ)」境地となり、民衆集合心理の様相を描き出す噺を創作し続け、寄席を通じて人々に直接語り、それが受け入れたのであるから、時の時勢・時流をつかんでいたことになる。
 しかし、ここで不思議なことに気づいた。それは時勢・時流をつかんでいた円朝の創作噺に、時の政治上の大事件が登場しないことである。

 昨年は明治維新150年の記念すべき年だった。維新までの道筋には多くの変事・難事が連発した。ペリー来航、安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、伏見寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争、八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征討、四国艦隊下関攻撃、薩長連合、徳川慶喜大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、江戸開城、上野戦争、江戸を東京と改称、明治元年(1868)9月明治と改元、会津藩降伏、東京遷都、五稜郭の戦いで戊辰戦争が終結。

ペリー来航が嘉永6年(1853)、戊辰戦争の終結が明治2年(1869)であるから、この間16年。円朝は明治元年時で30歳であるから、この動乱期にずっぷり身を置いていたはずなのに、これら大事件が「ほとんど」円朝の作品に登場しない。

 この「ほとんど」という意味は、わずかに触れている作品があることを意味する。そのひとつが五稜郭の戦いであり、『椿説(ちんせつ)蝦夷なまり』(明治28年(1895)『やまと新聞』連載)で取り上げている。

Photo_2          (版元表紙『三遊亭円朝全集3』角川書店)

上野彰義隊の隊士で、上野を落ちのびて函館に向い、五稜郭に立てこもって命を落とした春日左衛門の遺児お嘉代の物語である。
この作品は明治19年8月、円朝が大臣のお供で北海道を旅行した際の見聞にヒントを得て創られた。外務大臣・井上馨、内務大臣・山縣有朋が共に妻を連れ、益田孝、大倉喜八郎、小室信夫、馬越恭平など実業界やジャーナリスト、芸人を含む総勢数十名。行程は、横浜から船で函館へ、余市、小樽、札幌、幌内を回って、帰りは上州磯部温泉で休養、40日を超える大名旅行であった。今日では公私混同で国会紛糾、間違いない。

この作品の中で、北海道の便船や、札幌、登別、室蘭、函館等、当時はまだほとんど紹介されていない北海道の珍しい風俗や自然が、円朝の見聞で語られているが、冒頭、次のように幕末政治事件をまとめている。

≪嘉永の丑年に初めて相州の浦賀にアメリカ船が渡来いたしてから、例の勤王攘夷の論ということが起こり、徳川将軍様の御上洛となりました。これが百事紛乱の基(もとい)で、ついに慶喜(けいき)公(こう)の御代に将軍家は御政事を朝廷へお返しなされ、慶喜公はいったん京都より大阪の城に御退去になりましたが、慶応辰年正月3日に再び御入洛の途中、伏見において兵端を開くというたいへんな騒動となり、慶喜公は軍艦で江戸へ御退去にあいなる、間もなく京都より西郷隆盛先生を先鋒の大将として大兵を関東に差し向けられ、慶喜公には尊王の誠意を表わし、すみやかに江戸のお城を開き、武器や軍艦を献じて、水戸へ御閉居とあいなりましたが、徳川譜代恩顧の面々のなかには公の御帰順に承服せず、ついに奥羽北陸の戦争となり、続いて海軍奉行の榎本釜次郎氏を頭として幕兵の脱走とあいなりました≫

このまとめ方を敢えて紹介したのは、森まゆみ氏が『円朝ざんまい』で、以下のように称賛しているからである。
≪円朝の整理はじつに手際よく歴史の教科書を書く先生方に見習わせたいくらい。やっぱり同時期を生き現場を見てた人は強い≫
円朝にはもう一作、北海道物がある。それが明治19年(1886)に『やまと新聞』に連載された『蝦夷(えぞ)錦(にしき)古郷(こきょう)の家(いえ)土産(づと)』である。
 ≪さて、お聞きに入れますお話はせんだって大臣がたが北海道へ御巡回の節、はからずお供をいたしました。そのおり函館で聞いてまいりましたおみやげのお話でございまして、初めのほどは北海道のところはさらにございませんが、だんだん末は北海道のお話にあいなります≫
タイトルが蝦夷であるから北海道が主役と思うと違って、北海道が出て来るのは最後の数行に過ぎない。だが、やまと新聞読者の世評は高かったという。
 

2_2           (『三遊亭円朝全集3』角川書店)

『蝦夷錦古郷の家土産』では、元治元年(1864)3月の天狗党の乱が取り上げられているが、それより9年前の安政2年(1855)10月2日の大地震に関する記述が多く出て来る。
 ≪火事は悪いものに違いございませんが、また大きに陽気なもので、半鐘がジャアンジャアン、板木(ばんぎ)はポンポン鳴る、太鼓をドンドン叩く、拍子木をカチカチ鳴らす、提灯をつけて、みなアリャリャンリュウトとまことに陽気なものでございますが、どうも地震は陰気なもので、ズシングラグラというとそのままではい出しますので、なんとなく陰々といたします。≫

続いて大地震に慌てた江戸市民の状況が、具体的で面白い表現で縷々述べられる。
≪安政の大地震、これは実に気が転倒いたしますわけで、わたくしどもは存じておりますが、そりゃ地震というと、母親が乳呑児をおいて駆け出します、旦那様にお三(さん)どんがかじりつく、奥様は飯炊き男におぶさって逃げ出す、十二、三の娘は向鉢巻をして、大屋根をこわして大工を引き出す、大病人が看病人をおぶってはいだす、あんまさんがお堀へ駆け込むやら、火の見番が火の見から飛び下りて屋台店の下になり、天ぷら屋が橋から舟へ飛び込みますと、船頭が飛び上がって引っぱり女(夜鷹)を踏みつぶすやら、瀬戸物問屋の御亭主はあわてて駆け出すとたんに、看板の大土瓶へ突き当って、やかん頭へ漏れをこしらえ、酒屋の御亭主は駆け出すはずみに、吞口を残らずぶっこ抜いて滝(たき)水(すい)(四方(よも)酒店の銘酒)の泉を流し、しるこ屋はあん鍋でやけどする、御殿女中ははだかで駆け出す、相撲取りは夜着を着てはい出す、・・・≫
この後も16行にわたって当時の人々の慌てぶりが続く。

 『蝦夷錦古郷の家土産』のストーリーは、安政大地震の日、主人公であるお録が倒壊家屋の下になってもがいているのを助けたのが、谷中日暮の重助の配下、喜三郎である。年は24歳、人格の好い、色の白い、目元の可愛らしい男。

 お録は幕府御用達の娘、助けてくれた男に「お名前とお住所を」と尋ねても答えはない。喜三郎は「小屋者」なので名乗れないのである。江戸において小屋者とは非人の別称。享保期(1716~1736)以降、弾左衛門の支配下に車善七ら非人頭が置かれ、さらにその配下に小屋頭がつき非人を個別に管理していて、この一人が谷中道灌山の小屋頭重助であった。

 お録と喜三郎は3年後再会し、深い中になって、喜三郎は身分を打ち明ける。お録は「お前さんともうこうなってみれば、ほかへ縁付(かたづ)く気はありません」と、身分より愛を選び、二人は江戸から離れ、信州の塩尻に着いたが、喜三郎が病に倒れ、お録は遊女屋へ身を売ってまで薬代を整えて看病したが喜三郎は亡くなってしまう。

 その後、お録は旅女郎をやめ、常陸筑波下高道祖村の同愛社病院で看病女となるのが、元治元年3月であった。
 この同年同月に、水戸藩天狗党が田丸稲之衛門を総帥とし、藤田東湖の子である藤田小四郎を中心として、幕府に攘夷実行を迫るため筑波山で挙兵、11月までの8カ月間、北関東地域を横断し、村や町に金銭・食糧・人足・人馬の強要を行い、さらには幕府軍と交戦、北関東地域は戦場になった様子を円朝が語る。

 ≪元治元年の3月が閏で、改元あって慶応元年とあいなります、その年5月には御案内のとおり、水戸の浪士・田丸稲之右衛門が筑波山と大平山に立籠って、近国の諸藩へ軍資金を借用したいとか、あるいは武器を借受けたいという強談でございまして・・・・≫

 主人公のお録、同愛社病院で看病女として働き始めるという設定がある。病院が所在したとする常陸筑波下の高道(たかさ)祖(い)村(むら)は、天狗党と幕府軍監・永見貞之丞が指揮する幕府軍との最初の戦闘が行われた地である。
 勿論、同愛社なる病院なぞ無い。そもそもこの時代に病院という存在は無い。明治11年(1879)に民間の貧民救療施設として、高松凌雲が設立したものが同名の同愛社である。

 同愛社はフランスで医学を学んだ高松凌雲と、その賛同者13名の開業医により明治11年に設立され,医療保護が十分でなかった明治期に開業医を中心として組織的に施療を東京郡区に広めた慈善団体である。その設立動機と趣旨は高松凌雲の思想的な影響が大きく,その運営に関しては渋沢栄一や福地源一郎の考えが反映されている。同愛社の特徴は,医療を施す「救療社員」と金銭的支援の「慈恵社員」に分け,救療社員の近傍に限って施療が受けられ地域医療に重点が置かれていた。また,施療のみならず災害救助においても活動した先駆的な組織であった。

 さらに、高松凌雲は、函館五稜郭の戦いでは、函館病院の頭取として敵味方の区別なく戦傷者の治療を行っている。

 このように円朝作品に表れる幕末維新の政治的事件は、元治元年の天狗党と明治2年の五稜郭の戦いだけである。

 既に何度となく触れているが、円朝は民衆集合心理の様相を描き出す噺を創作し続け、寄席を通じて人々に直接語り、それが受け入れていたのであるから、時の民衆集合心理をつかんでいたことになる。

 という意味は、時の民衆はペリー来航から続く幕末維新の政治的大事件に対して、特別に大きく関心を持たなかったのでは、という疑問が生ずる。

または、円朝は天狗党と、上野戦争から逃れた脱走兵を五稜郭の戦いに登場させているのであるから、円朝にとっての幕末維新大事件とは、この二つなのかということになる。

それよりも安政大地震を大きく噺の中で展開しているのであるから、民衆にとっては、恐怖として体験した大地震の方が、政治的大事件より身近であったのではないかという推測も成り立つ。

また、慶應元年(1865)は、師円生の三周忌あたり、初代祥月命日である3月21日に盛大な本葬を行っているから、幕末史上の大事件が相次ぐこの時期でも、円朝にとってはさしたる変調なく、順調な落語業を続けていたと推定できる。

だが、その後の慶応3年(1867)、15代徳川将軍慶喜によって、大政奉還という徳川幕府開闢以来の大事件が起き、将軍様のお膝元として繁盛してきた江戸での生活に慣れ親しんできた江戸庶民も、一転、時代の変化を深刻に感じるようになっていたはず。

特に、倒幕のきっかけをつかみたい薩摩藩が、浪士をつかい江戸市中で強盗などの破壊活動を活発化し、対抗して江戸市中取締の庄内藩と新徴組らが、慶応3年12月25日、三田の薩摩藩江戸藩邸を砲撃焼き討ちする事件が勃発すると、江戸の治安状態は一気に険悪となった。

そこへ慶應4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦い、慶喜追討令、江戸開城、諸大名の帰国等が続き、5月15日の旧幕府軍上野彰義隊への攻撃がおこなわれ、江戸の街は騒然となったが、実際に江戸で生活していた落語家たちはどういう状況であったのであろうか。

円朝は上野戦争前日の5月14日、日本橋瀬戸物町(中央区日本橋室町)の寄席・伊勢本に出勤しようと出かけている。上野で戦いがあるとは思っていない証拠であるし、寄席も開いていた。しかし、官軍の兵によって浅草見附が閉ざされ、通行できず休席し、家に戻って、不穏な雰囲気を心配していると、弟子のぽん太が帰って来た。

『三遊亭円朝子の傳』の記述を要約する。
≪師匠円朝が休席したので、同門の仲間達とそろって寄席「伊勢本」を退席して浅草見附まで来たが、通行できないので、柳橋を回ったところ、ここも通行止となっていた。そこで、同門の勢朝の家に泊めてもらった。今朝になって浅草見附の方をみると、刀・槍・鉄砲で武装し、「赤い毛」をかぶった「軍人」のような人が大勢いたので、「おもしろそう」なので、近寄ると、怖い顔で誰何されたので、自分は噺家で円朝の弟子であると答えると、「一人おとなしそうな人」が、彼は円朝の弟子で「ぽん太という愚かな者」なので、通行させても問題はないだろう、というので、どうにか帰ることができた≫

これ聞き、円朝も市中に出かけたと記している。
≪円朝も「話の種」になるだろうと思い、父・円太郎の止めるのも聞かず、浅草見附から柳橋の方へ様子を見に出かけました。円朝は、浅草見附の橋詰めに、青竹で囲いをした中に、幕臣の「血汐に染まりたる生首」が晒してあるのを目撃しました。彼は「大いに話を利せし」と思った≫

『三遊亭円朝子の傳』は、円朝50歳の時口述したものだが、この語り口から察するに、上野戦争は当初、下町の江戸庶民にとっては他人事であったのではないか。

天狗党についても、『蝦夷錦古郷の家土産』で次のように書かれている。
≪これがあの時分の戦争の初めで、わたくしどもは江戸にいてその話を聞いても、あまりよい心持ちはいたしませんでございました≫

この文言、何となく幕末の政局を傍観的にとらえているように思える。動乱に直接関与した当事者でないのだから、当然とも考えられるが、江戸の人々はいま一つ何か今に生きる我々とは、とらえ方が違っているのではないかと感じる。

もうひとつ指摘したいのは、幕末維新動乱発生への契機である。円朝は天狗党の乱について≪これがあの時分の戦争の初めで≫と語っている。
という意味は、天狗党の乱を「一連の内乱の始まりと位置付けている」わけである。つまり、天狗党の乱発生以前の政治的大事件は、円朝を代表とする江戸一般民衆には、あまり大きな関心事でなかったのではないか。

 このような仮定に立つと、江戸っ子の脳細胞記憶における、幕末維新動乱の始まりは、天狗党の乱からであるから、当然に円朝の創作噺に「ほとんど」時の政治上の大事件が登場しないことになる。

明治維新150年を期する昨年、多くの歴史出版物が世間を賑わした。だが、そのすべて(といっても過言でない)が、武士階級としての支配者同士で争った事件・紛争・戦争をテーマに語られている。一般民衆が時の政治事件を、どのように見ていたか、という視点からの問題提起はなく、仮にあったとしても埋もれている。

その最大の理由は、民衆は自身を語らず、史料も遺さないからである。個人史として遺せる人とは、それを書くことができた、または、時代の中で突出して登場する限られた人物、つまり、時の為政階級に位置する者たちで、これが「歴史上の人物」として登場し遺されていくのである。

したがって、これ等の人物を追い求め、考察し、研究し、著されるものが一般的な歴史書籍であるから、そこには民衆心理が抜け落ちていくことになりやすく、往事の全体実態を過つ危険があるのではないだろうか。

『三遊亭円朝と民衆世界』(須田努著)は次のように指摘する。
≪浄瑠璃、歌舞伎、落語は江戸時代の民衆にとって最もポピュラーな娯楽であり、時代に応じて新たな趣向や新機軸を取り入れ、観客にうける作品を提供していた。現在、テレビなどのマス・メディアや、インターネットのWEBサイトに、現在のわたしたちの社会が投影されているように、これらのメディアには江戸時代に生きた人びとの集合心理が表象されている≫

明治維新を妥当に問い見いだすとしたら、民衆集合心理に向かって問い語った円朝作品も加えて検討し、考察することも大事で、重要ではないだろうか。次号も検討を続ける。

2019年1月26日 (土)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十五

昨年は明治維新から150年。各地で盛んに記念行事が行われた。
 明治維新は江戸無血開城によってなされたことは、多くの人が熟知している。だが加えて、無血開城経緯について、諸見解が世に喧伝されていることも知られている事実である。
 先日、東急池上線の洗足池駅に降り、洗足池公園の勝海舟別邸跡(洗足軒)を訪ねてみた。ちょうど大田区によって公園工事が行われており、別邸を見ることができなかったが、史跡説明板が道路わきに立っていた。

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 この説明板の中ほどに記された、池上本門寺における海舟と西郷の会見で江戸無血開城がなされたと明示され、社団法人・洗足風致協会によって平成11年(1999)3月に掲示されている。
 従来、通説として広く認知理解されているのは、港区・田町駅近くの旧薩摩藩邸跡に設置された記念碑に書かれた内容で、昭和29年(1954)4月に本芝町会設立15周年記念として建立されている。本芝町会とは、港区芝4丁目の全域と芝5丁目の一部区域の会員で成る町会であると、本芝町会のホームページに記されている。

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 洗足池の説明板は、本芝町会が建立した45後に設置されている。ということは、田町の記念碑の存在を承知の上で、池上本門寺で西郷・勝が会見して江戸無血開城を決めたと説明していることになる。
維新から150年経過したが、その始まりの江戸無血開城について、見解が異なる説明が、それも堂々と一般民衆に目が触れるように掲示されている。これが現実の実態である。

鉄舟の生誕地も墨田区教育委員会が、「山岡鉄舟旧居跡」として墨田区亀沢4丁目の墨田区立堅川中学校内に「山岡鉄舟の生家小野家がこの中学校の正門の辺りにありました」と説明板を設置している。
これは全くの誤りであるので、教育委員会に申し入れした。回答は「理解したので、再度、教育委員会内で整理確認し、説明板が設置されている地元の亀沢町会と調整し進めたいが、説明板の撤去期日については明確に約束できない」であった。(参照2017年4月号)

こういう歴史的な看板、一度、掲示されると正しい内容への訂正変更と、撤去は大変難しい。理由は「地元民の反対」である。地元の人々は居住している地域が、重要な歴史に関わっていることに誇りに思っているから、史実の妥当性を超越させた地元愛が優先し、結果として歴史を阻害する説明板はそのまま遺って、その場にたたずむ人に誤解を与えていくことになる。

さて、円朝が活躍した背景について述べていきたい。
円朝は明治10年(1877)、陸奥宗光の父親である伊達千廣の禅に接し、続いて鉄舟に禅を学び「無舌(むぜつ)居士(こじ)」と号を受け、民衆集合心理の様相を描き出す噺を創作し続け、寄席を通じて民衆に直接語り、それが受け入れたのであるから、時の時流をつかんでいたことになる。
では、この当時の社会はどういう状態であったか。国民生活は常に時の政治によって影響される。そこで、明治新政府が打ち出した政策を見ていきたい。

明治4年(1871)7月の廃藩置県によって、旧大名は完全にその地位を奪われ、大名が持っていた軍事力や徴税権は新政府に移管された。

明治6年(1873)1月の徴兵令布告は、武士が担っていた軍事力を、原則として国民全体が担う国民皆兵という近代的軍隊にした。
経済的に重要な政策は、明治6年7月の地租改正条例公布である。この背景にはいくつかの必要要件が横たわっていた。
① 幕末維新時に要した戦費を、商人からの借金と、不換紙幣の発行で対応したが、それの返済が必要
② 新たなる国家づくりへの投資としての工業力や軍事力への投資が必要
③ 職業を失った旧武士への生活保証としての家禄支給が必要
等であったが、諸外国とは不平等条約を締結していたため、関税収入は期待できなく、工業化も進んでいない実態下では、税収確保のターゲットは農業と、個人が保有する土地からの税収しかなく、地租改正条例公布を決定した。
 これは江戸時代に幕府・大名が現物で受け取った年貢を、新政府が金銭で地租として徴収するという制度であって、昔は納入する単位が村(村請制)であったが、個人を納税者にする大改革変更である。

 ご存知の通り、江戸時代の年貢は、領主が各耕地の生産力を米に換算した石高で評価し、それを村ごとに現物納付というシステムであった。年貢率が50%ならば「五公五民」、40%ならば「四公六民」である。この制度は一度検地されたら原則として変更されず、その後の生産力上昇があっても農民が得するだけで、領主から見ると矛盾があり、さらに現物を金銭に替えるのに手間がかかるというマイナス要件もあった。

 そこで新政府は、土地を評価し直し、現物納付でない地租改正を行ったのである。その際の地価の決め方算式は次の通りであった。
   地価=(収穫-種籾・肥料代-地租-村入用)÷利子率
 これは収穫から必要経費と地租などを差し引いた粗利益に、金利で資本還元する収益方式で地価を決めるという、一見、近代的な税制といえた。
 上式の種籾・肥料代は収穫の15%、地租は地価の3%、村入用は地価の1%、利子率は6%とされた。これで計算すると地価は8.5年分の収穫となり、地租は地価の3%であるから、8.5×0.03=25.5%になる。
これに更に地方税としての地租が、地価の1%(8.5×0.01=8.5%)が上乗せされる。したがって合計地租は地価の34%(25.5%+8.5%=34%)になる。つまり、国の税収は理論的に考えて一年間の収穫の約三分の一となる。細かい計算内容は『日本経済史』(慶應義塾大学出版会)を参照願いたい。

 しかし、ここで問題なのは、江戸時代は収穫の現物納付であったので、市場の価格変動の影響は領主に帰属していたが、新制度では納税者が収穫物を販売し、現金で納付することになったので、日々相場が変動するリスクという市場経済の影響を個人が受けることになるわけで、この地租税率では負担が多くて大変だと各地で反対一揆が持ち上がった。

地租改正反対一揆で最大のものは、明治9年(1876)の三重県伊勢暴動と、茨城県真壁騒動であったが、明治10年新年の4日、天皇による「民衆負担軽減のため、地租を地価百分の三から、百分の二分五厘にする」と発表され減額となった。いわゆる当時「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれた騒動である。

このような状況下で、明治10年の西南戦争が勃発した。これ以前から各地で士族の反乱が続き、その最大級が西郷隆盛の西南戦争で、これを鎮圧したのは明治6年に西郷が主導してつくった徴兵制による軍隊であったというから皮肉である。

しかし、この西南戦争によって新政府は経済的に大きな打撃を受けた。それは戦費調達のために発行した不換紙幣の大増発であった。不換紙幣とは本位貨幣(正貨たる金貨や銀貨)との兌換が保障されていない法定紙幣で、 政府の信用で流通するお金で、信用紙幣とも呼ばれる。
この大増発で、日本全体に貨幣量が急増して、貨幣価値が下がって、大変なインフレーションになった。結果として、物価は西南戦争が勃発した明治10年から明治14年(1881)までの、たったの4年間で2倍となった。

ここで不思議に思われかもしれない。今の世の中、黒田日銀が2013年4月から、圧倒的ボリュームの金融緩和政策をとって既に4年を過ぎ、日本中にお金が溢れている状態なのに、物価上昇目標2%は全く達成できず、政府・日銀・経済アナリスト全員が頭をひねっている。
物価が上がらないのはアメリカも同様であるから、今の時代は金融緩和が物価に影響しないのではないかと考えられる。
ところが、今から140年前、当時の大蔵大臣で大蔵卿の大隈重信によって、紙幣の大増発が実行され、物価は4年で2倍になった。大隈は積極財政派として明治14年の政変で退くまで財政政策を担当した。
明治14年の政変とは、この当時の自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法か、イギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。

インフレ時代は農民等の生産者には有利であった。同じ土地で農業を営み支払う税金は一定なのに、作物は高く売れるのである。地主や自作農には好都合であり、この自作農層の経済的ゆとりが、自由民権運動の活発化につながったともいう。

大隈の後を継いで大蔵卿に就任したのが松方正義である。松方は、まず不換紙幣の回収を行った。手段は歳入を増やし、歳出を減らすことで財政を黒字化させ、市中の紙幣を買い入れ消却するというものであった。
歳入を増やすために行ったのは、地租以外の税、酒税、煙税、醤油税、菓子税の増税または新税の新設である。これらの税に共通しているのは、嗜好品や調味料であって、生活の根本を揺るがす恐れのない物品を取り上げた。

もう一つの歳入増対策は、官業の払い下げである。明治7年(1874)から明治29年(1896)までの間、主な払い下げは26件あるが、このうち松方時代に実施されたのが24件と全体の92%を占めている。
こうした一連の政策により、社会の貨幣量は急減した。すると貨幣の価値が相対的に上昇し、物価が下がるデフレーション状態になっていく。この状態は政府にとっては、同じ額の税収でも実質的価値が高まるので有利となり、都市における消費的側面の強い給与生活者にとっては、物価の値下がりは好都合であった。
だが、当時、人口の圧倒的多数を占めていた農民や商工業者にとっては、物価の下落は販売額の減少であるから極めて苦しい状況になっていく。

大隈によるインフレが明治10年から明治14年までの4年間に2倍物価上昇したのが、松方になって明治19年(1886)までの4年間に、物価が二分の一になった。つまり、前後8年間で物価は正反対の動きを示したわけで、人々の生活に全く安定感はなかった。
特に農村では、固定して支払わなくてはならない地租に対して、作物販売額の減少により、現金収入減となり生活が難しく、困窮する農民は、現金を確保するため農地を売却するケースが相次ぎ、結果的に地主層に集積され大地主化が進んだ。

一方で、売却した農民は小作農に転化するか、工業化などの過程で生れはじめた賃金労働者になるほかなかった。そうした人々が都市に流入し、前号で述べた「下等社会」を構成したのである。
いずれにしても、前月に紹介した『絵入朝野新聞』(明治19年)が、≪落語は「其筋の注意行き届くに依り」改善されたので、下等社会を教導するのに有益である≫と、明治半ばの東京に、下等社会の存在を認めているのである。

明治という時代は、国学や儒教に代わって、啓蒙思想を唱えられ、理性や合理主義にもとづく社会を求め、経済力を高め、軍事力を強化し、富国強兵国家へ向かった時代であった。
啓蒙思想は福沢諭吉の『学問のすゝめ』などによって、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」と人間は本来平等であると、国民に説いた。
さらに「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」とも福沢は同書で説き、これは「よく学べば地位や財産を獲得でき、学ばなければ貧しく、地位も低い人間になる」と国民教育を行ったのである。

ということは、貧人・下人という存在は、資本主義形成期では負け組となり、それは個人の怠惰の結果だと見なしていることに通じる。
度々NHK朝ドラ「わろてんか」で恐縮であるが、寄席経営を志すてんと藤吉に、鈴木京香さん演じる母の啄子が「一カ月で新しい寄席を探せ」と期限を切る場面があった。何気ない啄子の一言だが、これを聞くてんと藤吉には共通する背景がある。

それは、てんも藤吉も立派な商店で育てられた子供という同質性があるから、当時の教育を受けていて、暦を理解しているからこそ、一か月という区切りを「へい」と承知したわけである。
ところが、この3人以外の芸人長屋住民は、太陽暦の内容も理解していなく、当然に暦なぞは所有していないだろう。
これは「芸人長屋」の住民だけでない。暦を所有する世帯数の割合は約31%に過ぎない(2017年11月号参照)のであるから、国民の大多数は「今日という日」が明確でないままに生活していたのである。
だが、政府は明治6年から太陽暦に変更しているのであるから、諸官庁から公布され通達される内容は新暦で実施される。

これを正しく受け止め、それに基づいて行動するには、政府・諸官庁と民衆と理解しあう土台・プラットホームとして「今日は何月何日である」という共通した基盤が整っていなければ、物事は進まないであろう。
今は、時計、テレビ、ラジオ、新聞などで、毎日「今日は何月何日、何曜日」と頻繁に教えてくれるので、日にちに対する心配はない。
ところが、時計を持たず、マスコミからの報道が少ないか、無き時代は、ある日、その日が何月何日であるかを忘れたら最後、全く今日という日が何日であるかわからなくなってしまうのが太陽暦であるから、人々には不便で非合理的な存在であった。

加えて、旧暦には歴注が記され、そこには祝言とか葬式の日にち、祝い事や建て前、引っ越し、旅立ちの日などが書かれており、それを見て日を選んで決めていたのに、これが全くの迷信であるから、直ぐにやめなさいと、一通の太政官布告で一方的に全面否定されたのである。

その結果は何を意味するか。今までと生活の習慣・仕方を変えなければならない。太政官布告が出されるまでは、歴注で今日が「良い日」か「悪い日」を決めてくれていた。雨が降ろうが、台風が来ようが、自然条件に関係なく「良い・悪い」が決まっていて、それに従って生活するのが「真っ当な常識」と思い込んでいたのである。

ところが、この判断基準は一瞬に消え、突然、すべては「よい日・悪い日の判断は自分で考えなさい」ということになった。今の時代に生きる我々には当たり前のことであるが、当時に生きていた人々には、何百年と歴注にもとづいて暮らしてきたのであるから、想像できないほどの精神的ダメージを受けたであろう。
そのような困った精神状態の中でも、政府官庁は新暦で諸政策を進めていくのであるが、多数の国民は太陽暦の暦を所有していないのであるから、旧暦状態で生活する、つまり、月の運行で日にちを判断し対応していく。
結果はどうなるか。明らかに生活にズレが生じ、そのズレは微妙なる心の変化に深化していって、何となく意味不明の不安感が漂い、進む方向の社会状況をよく理解できない人たちが多いのであるから、何事もスムースには運ばれない国家運営であっただろうと推測する。

しかも、そこに大隈インフレと、松方デフレが襲来。物価が4年で二倍に騰がり、再び4年で以前の価格に戻る。急激なインフレとデフレに翻弄された農民たちは、土地を失い都市に集積したが、まともな仕事に就く教育も受けていないわけであるから、下等社会という層を構成していく。
では、このような社会状況下に円朝はどう対応したのであろうか。
ここで円朝が出演していた寄席はどこであったのかが問題として挙がってくる。
明治18年(1885)5月13日『東京絵入新聞』には、東京の噺家の数として
  上等 1名
  中等 57名
  下等 200名
とある。勿論、円朝は上等であり1名であった。

明治14年(1881)9月29日『東京曙新聞』に次の記事が掲載された。
≪三遊亭円朝は、昨日其の筋へ是れまで受け居りし中等鑑札と書換へを願ひ出しと、是まで落語師にかぎり一人も上等鑑札を受けるものなしと、いかなるゆゑにや、謙退か抑もまた吝か≫
記事は、上等鑑札が少ないことを、謙遜なのか吝嗇なのかと皮肉っている。背景に噺家の節税対策があったと述べているのである。多くの噺家たちは政府が付与する肩書なぞに興味を持たない。
しかし、円朝は中等から上等へ変更届を提出している。自分が東京の噺家を代表していると、強く自覚した示威行為であると同時に、政府の行政方針に積極的に賛同していくと、意思表明であった。
では、自ら上等を名乗る円朝、果たして下等社会の人々が行く寄席に出演したであろうか。円朝が出演したのは「一流」の寄席であり、それらは日本橋区(現中央区)に集中していたのであるから、いわゆる下等社会の人々に伝わるような寄席メデイアではなかった。

因みに、東京市に区が設置されたのは、明治11年(1878)のことで、皇居のある麹町区を起点として、時計回りに「の」の字を書くように区の順番が定められた。麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川という15区になり、昭和22年(1947)に日本橋区と京橋区が合併して中央区になっている。

だが、円朝は一筋縄ではいかぬ人物である。円朝は一流寄席に出演しながらも、下等社会の人々への対応も図っていた。次号で触れたい。

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十四

 円朝は『塩原多助後日譚』で、鉄舟からの教えを次のように語っている。
≪円朝(わたくし)が深くご贔屓を戴いた山岡鉄舟先生が常/\ご教訓のうちに、人の幸福はともに喜び、人の困難はともに憂ひ、自他の別なく心の平等なる人を神とも仏ともいふと仰せられました≫

 明治10年(1877)39歳から、鉄舟逝去の明治21年(1888)50歳までの11年間、円朝は鉄舟に師事した。鉄舟は円朝より3歳上である。
二人が出会った機縁は、陸奥宗光が円朝贔屓であったところから、しばしば陸奥邸に招じられ、そこで開かれていた陸奥宗光の父親である伊達千廣の禅講義を聞き、関心を持ち、千廣の住まいである深川六間堀に通いつめ、そこで高橋泥舟と知り合い、泥舟から義弟鉄舟を紹介されたことからであった。伊達千廣は新政府の会計官権判事であり、国学者である。
伊達から禅の指導を受けたのは明治10年はじめ、伊達が亡くなったのが同年の5月であるから、伊達と円朝の関係は半年に足らない。以後は鉄舟に禅を学んだ。

 禅との交わりは、小円太を名乗っていた時代に遡る。嘉永7年(1854)16歳時、義兄玄昌が臨済宗妙心寺派・谷中長安寺の住職で、その寺門脇に母と住んでいて、落語の稽古はいつも本堂に独座して行っていた。
それを見ていた玄正が小円太に、
「何事もすべて稽古をする時、心を外に移さぬよう、座禅を組みて、一念これを勉めれば、その業は上達するであろう」と諭され、稽古をする時は必ず座禅を組み、修行に励んでいたことが、伊達千廣と鉄舟から禅を学ぼうとする素因にあつた。

鉄舟は当初、大変な円朝嫌いであったという。『圓朝遺聞』(鈴木古鶴著)が述べる。
≪山岡鉄舟は、初め円朝と聞いても胸が悪くなると云ふ程な円朝嫌ひであった≫
鉄舟は、キザな芸人・円朝の噂を聞いていたのであろう。芝居噺で人気があった頃の円朝、「円朝髪」と称される、大たぶさに結った髪に、黒羽二重の着物から赤い襦袢をちらちらのぞかせた姿で歩き、その後を芸者、後家、娘たちが何十人もついて歩いていた。このような気取った嫌味な行動をとる人間を、鉄舟は最も嫌う。ところが続いて『圓朝遺聞』に、
≪一度(ひとたび)円朝を見るに及んで、これ凡物に非ずと嗟(さ)嘆(たん)し≫、以後、鉄舟は≪活作略を以て遂に此名玉をして大光明を放たしむるに至った≫とある。
鉄舟は何を円朝に見たのであろうか。

円朝は明治5年(1872)に芝居噺をやめて、素噺、いわゆる道具、身振り、声音などを使わず、扇一本で表現する正統の話法に転向した。この意図を朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が伝える。
≪ふと心に考ふるに、斯く時勢の変遷なし、物事は追々開くる上、人の知恵さへ進み行くに、我は依然と昔を守り、華美(はで)なる事を演じなば人の笑(わらひ)種(ぐさ)とやならん、されば爰(ここ)にて思ひ止まり、我は世と共に遷(うつ)りゆかんと≫

要するに、文明開化に対応すべく、素噺に転向したのだと述べている。以降、客受けする噺を創作し、それを寄席で語り続けたわけであるから、当然ながら、時の民衆社会がもつ集合心理を洞察していたのであろうし、それを言葉で表す能力をもっていたはず。 
このところ、つまり、円朝は時流を見通す力を持っていると、鉄舟が瞬時に見抜き「凡物に非ず」と評価したと推察したい。

 『おれの師匠』(小倉鉄樹著)に、鉄舟と円朝の出会いについて興味深い内容がある。
≪円朝が師匠(鉄舟)に初めて会ったとき、師匠が「君は講釈がうまいそうだが、一つやって聞かせないか」と云った。円朝は承知して「何をやりましょうか」と訊いた。「そうだな、おれの家に子供等がいるから、みんなに桃太郎の話をしてきかせてくれ」と山岡が注文した。
 円朝は困った。今まで随分講釈もしたが、まだ桃太郎の話は高座でしたことがないし、それにあまりに話題が平凡なので困ってしまった。けれども山岡の注文なので思いきって、得意の弁舌を振って兎も角も一席話し終わった。ところが師匠は少しも面白がらないで、「おまへの噺は口で話すから肝心の桃太郎が生きて来ない」と云った≫
 

円朝は鉄舟の言葉が不思議でならなかった。口で話さないで、何で話すのか。絶えず考え続けた。どうしてもわからない。とうとう円朝は鉄舟のもとに来て、座禅をしたいと申し出た。そうすると鉄舟は今日からやるようにと命じ、二階の一間に入れられ、屏風で囲まれてしまった。『おれの師匠』の記述を続ける。

≪円朝は大小便の用の外、一歩も、二階から出ることを禁じられた。三度の食事は下から女中が二階に運んでやった。円朝の家では、主人が出たきり帰ってこないので、心配して、何か山岡に不調法なことでもしたのではないかと、門人どもが集まって詫びに来て、「どうか師匠をもどして貰いたい」と嘆願した。寄席からは「なぜ休むか」と叱るように頼みに来た。円朝が閉口して泣ッ面すると、山岡が恐い顔して睨みつける。進退全く谷(きわ)まって、どうにもならぬ窮地に陥り、「まゝよ、どうでもなれ!」と捨身で無字(むじ)に参じたところ、僅か一週間ばかりで、豁然大悟の域に達した」
 之を見て師匠は即座に、円朝に命じて、また桃太郎の話をさせ、円朝は直ぐ之に応じて一席弁じたてた。ところが今度の桃太郎は前日の桃太郎ではなかった。元気旺盛な溌剌たる桃太郎が、躍り出(い)で鬼退治をするのであった。
 師匠は喜んで、「今度の桃太郎は活きている。この気持でやり抜ければ屹と名人になれる。役者が其身を無くし、剣術使いが剣を無くし、講釈師が口を無くしなけりや、ほんとの名人にはなれぬものだ。おまえも今の気持を忘れないで、進むようにすれば、大成すること請合である」と諭した。
 円朝はこうして生れ変ったのであった。円朝の妙技に人が恍惚として身を忘れるようになったのも、彼が大悟徹底してからのことである。
 円朝が無舌(むぜつ)居士(こじ)と名乗ったのも、こうした師匠との因縁話からで、この居士號は師匠が滴(てき)水(すい)さんと相談して、撰んでやったのである≫
 

鉄舟が建立し、円朝の墓もある谷中全生庵が出版した『鐵舟居士の真面目』にも興味深い記述があるので紹介する。
 ≪以来円朝は、世人がその落語にヤンヤと騒いで呉れるに係らず、なんだか自分に物足らぬ気がしてならぬので、一日居士邸へ罷出て、具に其実を明し、私如き者にでも出来る事なれば、禅をやりたく存じますといふと、居士はソハ然(さ)うあるべき筈だ、今の芸人は兎角人さえ喝采すれば、直ぐ自惚れて名人気取になるが、昔の人は自分の芸を始終自分の本心に問ふて修行したものだ。併し幾許(いく)程(ら)修行しても、落語家なればその舌を無くせぬ限り本心は満足せぬ。又俳優(やくしゃ)なれば其身をなくせぬかぎり本心は満足せぬものだ。而してその舌や身を無くする法は、禅を措いて他にはない≫

 と伝え「趙州(じょうしゅう)無字(むじ)」の公案を授けた。「趙州無字」とは「狗子(くす)仏性(ぶっしょう)」ともいい「趙州従諗(じゅうしん)(中国唐末の禅僧)に一僧が「狗子(犬)に仏性ありや」と問うたのに対して「無」と答えた故事により、有無に関わらぬ仏性の当体を直接に示したもの。禅の修行の最初の関門とされる公案」である。(参照『三遊亭円朝の明治』矢野誠一著)

この公案について、円朝は寄席への出勤途上、楽屋、自宅と、時と所を選ぶことなく、公案に没入した。その状況を『圓朝雑観』(岡鬼太郎著)が次のように述べている。
≪楽屋入りせし円朝は、人々に言葉少なの挨拶をして後は、一人静座して、茶席にでも通った人の如くであった。或時は我が芸に就いて考へ、或時は高座の芸に耳を側(そばだ)てた。前座の話も他山の石、以て我が伎(わざ)を攻(みが)くべしとした彼は、此の楽屋での僅か時間をも、決して下らなく費やさなかった≫

『鐵舟居士の真面目』では桃太郎について、『おれの師匠』と異なる記述がなされている。
≪それより円朝2年間辛苦の結果一旦無字に撞着し、趨(わし)って居士に参見した。居士は桃太郎を語ってみよと云われ、円朝直に之を演じた、すると居士はウン今日の桃太郎は活きているぞといわれた、其後千葉立造氏(鉄舟門弟)宅で、滴水老師が居士に相談して、無舌居士の號を附與された、此因縁によって円朝は其門弟を稽古するに、専ら桃太郎の話を以てしたと≫

このように鉄舟が桃太郎噺を使って、円朝に対した対応、両書のニュアンスは少し異なるが、いずれも円朝を鍛え上げたプロセスとして語られている。
元々鉄舟は、門下人に「座禅しろ」とは勧めないし、剣も同様で、決して無理やりにではなく、本人任せであったともいう。
しかし、気根のある人物と見込むと手厳しく指導したが、その最適例が「桃太郎」を語らせた円朝であって、これが円朝を「大師匠(おおししょう)」と称される名人に迫り上げた要因であろう。

それにしても大師匠とは妙な尊称である。『三遊亭円朝の遺言』(藤原敦著)が次のように述べている。
≪明治になって三遊派の落語家(約二百人くらい)を束ねてその統領になったが、家元とも宗家とも呼ばせなかった。それで人は円朝を大師匠と称した。もともと落語家の尊称は〞師匠〟であり、これは真打になってはじめて許される。一般に大師匠というのはない。すべて師匠だ。それに〞大〟の一字を冠して称されたのは円朝だけだが、それはちょうど、徳川の将軍家のなかで家康のみが〞大御所〟と尊称されるのに似ている≫

鉄舟は『圓朝遺聞』がいう≪一度円朝を見るに及んで、これ凡物に非ずと嗟嘆し≫と見抜いたわけだが、そこには自らとの同質性を見出したのではないかと考えたい。

鉄舟が明治天皇の侍従を辞任した明治15年(1882)、天皇は「宮内省御用掛」として生涯勅任の二等官に鉄舟を遇した。この職位は天皇の御前に取次を待たずして参進できる資格である。取次なく参進できるのは、当時総理大臣だけであったから、信任の度合いがわかる。
だが、天皇だけでなく、鉄舟の人気は一般民衆からも高かった。
この当時、路上で子どもたちが手まり歌として唄っていた。
 下駄はピッコで
 着物はボロで
 心錦の山岡鉄舟
民衆の口には戸を立てられない。お天道様が見ているように、鉄舟という人間像を民衆はよく分かっていたのである。

同様に円朝も、寄席で客に受けていた。寄席芸人だから客受けするのは当然だと考えるのは誤った見方である。寄席に来る民衆集合心理の様相を描き出す噺をしなければ、人気は出ない。円朝はこの客受けする噺を創作し続け、寄席で民衆に直接語り、それを人々が受け入れたのであるから当時の時流をつかんでいた。

さらに、円朝は明治24年(1891)に、井上馨邸に行幸された明治天皇の前で塩原多助を演じているように、一般民衆だけでなく、最上級階層やそれに次ぐ政財界層からも支持される存在になっていた。
つまり、鉄舟と円朝はこの時代の人びとに、それは天皇から一般民衆まで、幅広く受け入れられていたというところに同質性をみる。
円朝の人気を証明するのに、当時の寄席の数が参考になる。なぜなら、寄席は当時のメディアだからである。(参照『三遊亭円朝と民衆世界』須田努著)

≪フィクションであるメデイア(浄瑠璃・歌舞伎・落語)は江戸時代の民衆にとって最もポピュラーな娯楽であり、時代に応じて新たな趣向や新機軸を取り入れ、観客にうける作品を提供していた。現在、テレビなどマス・メディアや、インターネットのWEBサイトに、現在のわたしたちの社会が投影されているように、これらのメディアには江戸時代に生きた人びとの集合心性が表象されている≫

明治に入ってから寄席が増え続けていたのは、寄席がメディアとして民衆の集合心性を表象しており、そこで人気を得ることは、その芸人がこの時の時代性を持っていたということになる。
寄席の数は東京府内で、明治7年(1876)に221席、明治11年(1878)に380席、明治40年(1907)では493席と、増え続けている。
明治7年から明治11年の4年間だけで160席、70%強も増え、東京府各区内に「少なくとも3,4軒」あったという。
対する歌舞伎を興行できる劇場は、東京府内でわずか8から10カ所程度であったが、寄席は東京のほとんどの町内にあり、木戸銭も安かった。巡査の初任給が4円、ソバが1杯1銭から1銭5厘であった当時、寄席の木戸銭は2銭5厘程度であるから、立ち食いソバ2杯分程度で入れたわけで、歌舞伎と異なり、寄席は東京庶民にとって身近な存在であった。

話は変わるが、NHK朝ドラ「わろてんか」は、吉本興業の創設者・吉本せいさんをモデルに描かれて展開していくが、この中で女義太夫リリコを広瀬アリスさんが演じて、リリコは東京に出て、娘義太夫で一躍人気を博しスターとなるストーリーらしい。これは当時の状況をよく表現している。
文明開化期の東京では娘義太夫が盛んであった。明治8年(1875)に「近頃女浄瑠璃」が流行っているとの新聞記事が掲載された。この頃はまだ娘義太夫という名称が定着していないが、明治11年(1878)9月5日『朝野新聞』に
≪竹本子亀太夫は、10歳にたらぬ女子なれども、浄瑠璃は妙を得て」とあり、芸は二の次で、美人がもてはやされ、書生たちは「どうする連」という徒党をつくり、寄席から寄席へと贔屓の娘義太夫を追っかけていた≫
と報道されている。「わろてんか」のリリコの舞台で、若い客が一番前に大勢座り囲んで、リリコが髪にさしていた花を落とすと、争って拾いあう場面が放映されたように、「わろてんか」は当時の状況を表しているので興味深い。

このような寄席人気を新政府が見逃すはずはなかった。
明治19年(1886)3月の『絵入朝野新聞』に次の記事が掲載された。
≪又我が邦には此の講談師の外に落語家なる者あり、専ら諧謔滑稽の言を以て巧みに人情世態を穿ち、聴客をして頤を解き、腹を抱え鬱を散じ、楽みを覚えしむるを旨とする者なり。世人或は之を評して云ふ「落語家は其言、動もすれば猥褻に渉り、風教を害するの傾きあれば、其の盛に行はるるは我々の好まざる所なり」と、成程猥褻に渉り風教を害するは怪しかる次第なれど、近頃は其筋の注意行き届くに依り、其等の弊風次第に減じたり(中略)、其面白味十分なれば、自ら下等社会に一種の快楽を与え(中略)、たとい講釈師が落語家の真似をするも、落語家が講釈師を気取るも更に頓着すべきにあらず(中略)、早晩講釈師と落語家との区別を廃し(中略)、講談師と落語家と相一致し、更に新奇の材料を探求し、欧米諸国の義人・烈士や其の他高名なる人々の伝記を雄壮に講説し、又は或る時世に於て、志士の困厄せし情態を始め、感奮開語すべき有益なる事物を面白可笑しく話すに至らば、彼の下等社会の人々をして独り弁慶の事歴を熟知せしむるのみ止まらず、亦ラファイエットの何人たり、ワシントンの何人たるを暗知するに至るべし(中略)、講談・落語は、実に此の社会の人々に取りては豈亦貴重なるものに非ずや≫

これは今の文明開化や欧化の様相を是とし、従来の猥褻で風教を害する落語は「其筋の注意行き届くに依り」改善されたので、下等社会を教導するのに有益であると述べており、さらに、落語と講談、噺家と講談師との差異を認めつつも、その区別を廃すべきとも指摘している。
政府は庶民の娯楽の場であり、当時急増した寄席を、国民教導の場に利用しようと意図したのである。

ここで下等社会という表現が述べられているが、これは具体的にどのような人々を指していたのであろうか。『三遊亭円朝と民衆世界』で次のように説明している。
≪横山源之助『日本の下層社会』(明治32年<1899>刊行)には、職人・人足・日雇等の「下等労働者」=都市下層民の多くは本所(本所区)・深川(深川区)に居住していたとあり、職人の日当として、大工38銭、左官37銭9厘であったともある。また『内地雑居後之日本』(明治32年刊行)を見ると「鉄工業もしくは紡績業の如き機械工業に従へる職工」として、彼らの日当平均は30から35銭であった、とある。子供をもった職人・職工の家庭では、食費・家賃などの必要経費が嵩み、生きていくためには「女房」の内職が必要であった≫
さらに、「東京の貧民窟は各種雑芸能のるつぼ」であったともいう。明治25年(1892)から翌年まで『国民新聞』に掲載された松原岩五郎による「最暗黒の東京」には、貧民窟の住民として、祭文語り、辻講釈、傀儡(かいらい)遣い(あやつり人形)、縁日的野師、角頭獅子、軽業師といった芸能民が登場している。
NHK朝ドラ「わろてんか」で、主人公のてんと藤吉及び母啄子の3人が米問屋倒産で、移り住んだところが「芸人長屋」。そこには寄席から声がかからないレベルの芸人たちが、屯って住んでいる場面が放映された。これは多分、都市に流入した没落農民たちが、雑業・雑芸能にたずさわっていたことをヒントにしているのではないかと推測している。

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上表の如く明治10年の東京の寄席は、深川区に5カ所、本所区に2カ所に寄席がある。『絵入朝野新聞』によれば、深川と本所には下等社会の人々が多く、この寄席に来る人々を教導しようとしたわけで、そこに円朝が協力したことは容易に推測できる。
円朝の協力活動がどのようなものであったかの前に、都市に人々が集まってきて、下等社会を構成した背景、そこには当然、当時の社会状況が存在している。
そこで、少々遠回りになるが、明治時代の経済状況と、そこで暮らしていた民衆意識と社会状況について、少し詳しく検討してみる必要があり、それを次号で述べたい。

2019年1月25日 (金)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十三

 明治新政府は矢継ぎ早に改革を推し進めたが、これらの改革で一般人の生活に大きく影響を及ぼしたものは、太陽暦の採用であろう。しかし、このような大改革を何故に突然、しかもその年も押し迫ったタイミングで実行したのであろうか。

それにはいくつかの理由があった。(参照『最後の江戸暦問屋』寺井美奈子著)
一つ目は、徳川幕府を倒し、王政復古を成し遂げたのであるから、一日も早く旧幕時代の旧暦社会慣習から離脱することが必要だという、強い新政府政権内の自意識であった。

二つ目の理由は、外交上の問題であった。明治維新によって諸外国との付き合いが始まると、欧米のように太陽暦に変更すべきだという意見が、急速に政府内に出ていた。現状では、他国との条約締結で、相手の太陽暦と、日本の旧暦日付の両方を併記しなければならない。
明治4年(1871)10月出発の欧米視察団、その最も大きな目的は、幕末に締結された不平等条約の改正であったが、欧米諸国が採用している太陽暦でない日本を、相手国は後進未開国とみなしてくる。従って、視察団に加わったメンバーは太陽暦を採用しなければ、外交上大きな不利益を被るという認識に至っていた。

だが、三つ目の理由が最も大きく、それは明治政府の財政問題であった。明治5年(1872)、大蔵卿の大隈重信が翌明治6年(1873)の太陰太陽暦を手に取って見て、来年は閏月で、一年が13カ月であることに気づき、これは大変だと慌てふためいた。
狼狽えたのには背景があった。明治4年9月、官吏・公務員の給料をそれまでの年俸制から、月給制に改定していたので、閏年は13ヵ月であるから、月給を1ヵ月余分に支払わなければならない。

加えて、廃藩置県が明治4年7月に実施され、3府302県(11月に72県)となり、県令(明治19年から県知事と改称)は旧藩主から中央政府の任命と変わり、結果的に官吏の人数は増え、必然的に人件費が増加していたのに、新政府には財源が枯渇していた。

そこで大隈が考えたのは、太陽暦に改暦すれば明治6年は、12カ月の給料で済むということであり、さらに、明治5年(1872)の12月3日を、明治6年の元旦にするから、2日しかない12月の給料は支給しなくてもよい。つまり、2か月分政府は得するということ、これが一番強い改暦理由であった。

本来、暦は一般人日常生活に密着しており、人々は毎日暦をみて行動しているわけであるから、太陽暦へ改暦するためには、その仕組みを社会全体にきちんと説明し、時間をかけ、理解を得てから実行しないと大混乱に陥る。そのことは政府内でも分かっていて、実行タイミングをどうするかについて、政府内で検討していたところに、大隈は財政面から即実施を強行したのである。
この改暦は、11月21日(旧暦)にフランスにいた欧米視察団へ電信で報告され、了承されている。

さらに、大隈は官吏の休日まで少なくする改革まで行った。現在、日本で検討されている「働き方改革」とは真逆の「労働強化」であるが、その経緯を『大隈伯昔日譚』(円城寺清著)で次のように述べている。
「其のころは一、六の日を以て、諸官省の休暇定日と為せしを以て、休暇の日数は月に六回、年に七十二回の割合と為り、加ふるに五節句あり、大祭祝日あり、寒暑に長き休暇あり、其の他、種々の因縁ある休暇日あり。総て是等を合すれば、一百数十日の多きに上り、而して其の頃の一年は平均三百五十余日なりしを以て、実際執務の日数は僅々百六七十乃至二百日に過ぎざりし。是れ乃ち一年の半か、少くも五分の二は、休暇日として消過し去りしなり。かゝる事情なるを以て、懶惰遊逸(らんだゆういつ)の風は自然に増長し、一般社会にまで及ぼし、且つ政務渋滞の弊も日一日と多きを加へ、ついには国家の禍患を構ふに至るべし。其の上、当時は外交漸く盛んにして、諸国との往復交渉頗る繁劇に赴きたるを以て、其の執務を休暇の定日と彼我一致せざれば、諸般の談判往々に渋滞するを免かれず」
「休暇日は一週中に一日、即ち日曜日を以て之れに充つることゝ為りしを以て、七十二回の休暇は減じて五十二回と為り、且つ朔望と云ひ、五節句と云へるが如き、旧来の休暇日は尽く之れを廃し、其の上に一年は三百六十五日、乃至、三百六十六日と為り、而して別に閏月を置くの要なきことゝ為りしより、独り政務処理の上に渋滞なからしむるのみならず、財政上も亦二三年毎に平年の十二分の一を増額して支出せざるべからざるの困難なし。之れを陰陽両暦制より生ずる結果を比較すれは、其の利害得失は固より同日の談にあらざりしなり」

現在、遺されている改暦に関する最初の史料は、早稲田大学図書館にある当時文部卿であった大木喬任から大隈にあてた手紙である。
≪太陽改暦の儀、過日仰せ聞され候次第もこれ有り、掛りの者へ尚また督責に及び候処、別紙の通り申し出候、就いては不日(まもなく)出来仕るべく候と存じ奉り候。御含み迄に一寸申し上げ置き候                         頓首
  十月十日
出来次第早々差し出し申すべく候
                      大木
大隈様≫
 
この書簡からわかることは、改暦1か月前である10月10日時点で、まだ太陽暦の準備が完了していなかったことと、この後、間もなく出来上がってきたが、官吏や一般人への影響が極めて大きいので、準備は秘密裡に進めていたことである。

 この進め方は当然に大問題である。国民が日常生活の中心としている暦、それを改暦しようとするなら、太陽暦の仕組み説明資料や啓蒙書などを発行し、数年かけて各地で説明会を行うなどをしてから、改暦実施というのが当たり前であろう。

ところが既に述べたように、明治5年11月9日付の太政官布告という突然の蛮行お達しで改暦を決め、太陽暦の仕組みを説明する資料や啓蒙書などは一切発行しなかったのであるから、一般人は太陽暦といわれても何が何だかわからない。

この当時、東京では江戸時代から暦の頒暦業者は11人と決まっていた。その11人は幕府に一定の冥加金を納めることで頒暦権利を確保していた。
この11人に改暦について、太政官布告の翌日に知らされていたが、管轄の文部省から何も連絡がないので「嘘」だろうと高をくくっていたところ、13日になって事実だと判明し大騒ぎとなった。
京都では知事の名で改暦の布令が市中に出されたのが17日。大阪も同じころであり、名古屋では14日に新聞号外が出されている。
主要な都市でさえ、このような状況であったから、日本全国民が知るようになったのは、翌年の明治6年に入ってからだろうといわれている。

この混乱実態から政府は11月26日に、明治6年に限り、各地方で略歴(一枚摺)の板刻を許すので、草稿を管轄官庁にて許可を受けるように、ただし、旧暦にあった歳徳、金神、日の善悪をはじめ、中下段に掲載されていたもの、いわゆる歴注は一切書き入れてはいけないと通告した。
この布告によって、略歴は頒暦業者以外からも多く出版されたが、一般人は長年、旧暦に慣れ親しんでいたので、歴注が書かれていなく、太陽暦の日付だけの暦には関心を寄せず、不人気で大量の売れ残りが生じた。

このような政府の改暦への進め方を補ったのは、民間から出版された啓蒙書である。
例えば、福沢諭吉著『改暦弁』、黒田行元著『新暦明解』、福田理軒閲正・花井静庵編著『頒暦詳註・太陽暦俗解』、杉浦次郎右衛門著『太陽暦和解』、島村泰著『勧農新暦』などであるが、最も早く出版され、一番簡潔なものが福沢諭吉の『改暦弁』であり、これがベストセラーになった。20数万部が売れたといわれているほどであるが、この販売数の背景には、官庁が官吏の教育のために大量に買い上げたということもあった。

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福沢は『改暦弁』で分かりやすく解説しているので、それをいくつか紹介する。
「太陽とは日輪のことなり。太陰とは月のことなり。暦(れき)とはこよみのことなり。故に太陽暦とは日輪を本(もと)にして立(たて)たるこよみ、太陰暦とは月を本にして立たるみよみと云ふ義なり」
「此世界は地球と唱へ円きものにて自分に舞ひながら日輪の周囲を回ること、これを譬(たと)えれば独楽の舞ひながら丸行燈の周囲を回るが如し」

「行燈を一回(ひとまわり)まはりて本の場所へ帰る間に、春夏秋冬の時候を変じ、一年を為すなり」

「日輪の周囲に地球の回る道は六億の里数あり。この六億里の道程を三百六十五と六時の間に一回して本の処に帰るなり」

「太陽暦は日輪と地球とを照らし合せて其互に釣合ふ処を以て一年の日数を定たるものゆへ、春夏秋冬、寒暖の差、毎年異なることなく何月何日といへば丁度去年の其日と同じ時候にて、種を蒔くにも、稲を刈るにも態々暦を出して節を見るに及ばず」

この他に一週間の曜日の名と読み方、一年の月の名称と読み方、時計の見方も解説しているが、次の問題文章もある。

「日本国中の人民此改暦を怪む人は必ず無学文盲の馬鹿者なり。これを怪しまざる者は必ず平生学問の心掛ある知者なり。されば此度の一条は日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といふも可なり」

この福沢の見解、これは言い過ぎであろう。当時の人びとの大半は寺子屋の教育、それも中途半端に受けていた人も多かった時代、突然、江戸時代を通じ昔から慣れ親しんできた太陰暦を捨てろと布告通告され、新しい太陽暦を直ちに理解せよ、できないのは馬鹿者だという福沢の主張は厳しすぎるし、ひどすぎる。

当時の一般日本人は、お天道さま、お日さまと太陽に親しんでいて、漢語である太陽なぞという言葉からして知らなかった。だから、太陽暦といわれてもピンと来なく、何が何だか得たいがしれない。時刻も、現在我々が柱・置き・腕時計によって簡単に確認できる仕組みであるが、当時の人びとは、時計なぞは見たこともないし、持ってもいない。

読書も。一般人が通常に親しんでいたのは草双紙や洒落本であり、太陽のまわりを地球が回っているという天文学的知識はなく、福沢の『改暦弁』を読み下すだけの読書習慣はなかったであろう。だから、ベストセラーにはなったが、一般人の間での理解は難しかった。

その証明が太陽暦の売れ行きである。人々は新暦を「天朝様の暦」と称していたが、一向に馴染んでいかなかった。
明治初年の人口は左図であり、人口を合計すると33,298,286人で(『新編日本史図表』)、この頃の一家族は平均4人程度(『歴史人口で見た日本』速水融著)であるから、全人口を4人で割ると8,324,570世帯となる。

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全国の暦売上部数は『最後の江戸暦問屋』によると、江戸時代には最高時四百数十万部、明治5年には五百数十万部と売れ行きが伸びていたといわれている。大体一家族に一部の暦があったと推定し、五百数十万部を550万部と仮定し計算すると、暦を所有していたのは550万÷832万=66%の世帯となる。
これが明治7年(1874)には、売上部数が2,705,013部、これは略歴(一枚摺)を含むものであるが、翌明治8年(1875)でも2,618,807部と減少した。
世帯数の割合で見るならば、全世帯832万に対し、暦数は明治8年が262万であるから、暦所有世帯は262万÷832万=31%となり、半分以下に減少している。ということは総人口約3330万人のうち、半数以上の人びとが太陽暦を受け入れなかったか、最初から所有していなかったと推測できる。

この実態から考察できることは、一般社会では相変わらず旧暦を使うか、月の状態で日付を判断していたと考えられる。正月の行事について、明治22年(1889)、東京天文台が新暦の普及状態をアンケート調査した結果が興味深い。
「スデニ全ク旧暦ヲ廃シ、単ニ新暦ヲ以テ年始ノ手数ヲ行フ部落」という問いを出したところ、殆どの県から「全クナシ」という回答であった。

もうひとつの証明はご存知『金色夜叉』(尾崎紅葉著)で、これは読売新聞に明治30年(1897)~明治35年(1902)まで連載され、お宮の松絵で著名である。

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左の絵が描くストーリーは「間貫一が鴫沢(しぎさわ)家の娘、宮、と結婚の約束していた。だが大富豪の富山が宮を見染め嫁に求め、鴫沢夫婦も宮もそれを了承。熱海の海岸で、貫一は宮をなじり、翻意を乞うが、宮は富山と結婚すると伝えたので、宮を蹴飛ばし、『来年の今月今夜、再来年の今月今夜、10年後の今月今夜、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから』という名せりふ」である。
この名文句は、毎年同じ月の同じ日は、月が同じ大きさで出るから成り立つ、つまり、旧暦で表現しているのである。ということは明治中期から後半なっても、人々は旧暦によって生活していた実態を示している。

では、現在、我々が日常目にしているカレンダーが、常態的に日常使用されるようになったのはいつ頃なのであろうか。それは大東亜戦争後に、ようやく新暦が全国的に定着したという驚くべき実態である。
旧暦は明治42年(1909)までは官暦に記載されており、また、明治16年(1883)に官暦の出版が伊勢神宮に移ってからは、一枚刷りの略暦の出版は誰にでも許可が与えられるようになって、これにはずっと旧暦が記載されていた。
しかし、昭和12年(1937)に日中戦争がはじまってからは、内務省の禁令で旧暦記載が禁じられ、次第に旧暦使用が減ってきたが、ほとんど姿を消すのは大東亜戦争後という。

現代人は新暦に対して、何ら問題を感ぜず、疑問も持たず、かえって毎年同じ暦ルールが繰り返されているので便利で、諸外国とも一致しているので受け入れているが、この状態に至るまでには、何と、明治6年から72年以上という年数を要していたのである。
だが、今のこの状態は当時と条件が異なるから受け入れているのである。今は、時計、テレビ、ラジオ、新聞などで、毎日「今日は何月何日、何曜日」と頻繁に教えてくれるので、日にちに対する心配はない。

ところが、時計を持たず、マスコミからの報道が少ないか、無き時代は、ある日、その日が何月何日であるかを忘れたら最後、全く今日という日が何日であるかわからなくなってしまうのが太陽暦であるから、人々には不便で非合理的な存在であった。
旧暦では、陽が昇る前の明るくなった時が明け六つ、陽が沈んであたりが薄暗くなってきた時が暮れ六つで、日にちは月の位置である程度わかるので、この方が当時は合理的であったのである。
時代が持つ背景によって、合理的、非合理的への判断が異なるので、福沢の言う「馬鹿者」発言は、インテリの傲慢文言であると指摘したい。

ここで、大隈の「休日を少なくする改革」の、その後の社会への影響についてふれたい。
大隈は改暦をチャンスとばかりに明治9年(1876)、官吏の出勤体系を「土曜半日、日曜休日」に変更した。官吏の休みを削ることで、それが一般社会にもひろがり、明治時代の国家方針「富国強兵」の旗印のもと、一斉に「働き蜂」化となって、欧米から異種人種ではないかと称されるほどの残業天国へと進み、行きついたところは電通の新入女子社員の自殺。
ここまでおい込まれた厳しい働き方の時代になって、ようやく反省し、今までと反対方向に舵をとろうと、現在は「働き方改革」を政府主導で進めているから皮肉なものである。

大体、江戸時代は今ほど金銭的に豊かでなかったが、生活には余裕があった。農民はさまざまな祭りや行事があって、その日は働いてはいけないきまりになっていた。
商家の奉公人の休日は、正月と盆の藪入りの時だけであったが、適当に遊べた。照明のない時代であるから、暗くなれば業務遂行は無理であった。だから、芝居小屋も陽があるうちにしか営業をしていないのは、その時間帯に客がいたということなのである。
加えて、花見にいくのも適当に仕事を休むわけで、でなければ「長屋の花見」の落語が生れるはずもない。花見は桜だけでない、菖蒲や藤、菊人形など季節ごとに花を見ながら酒を飲む遊びは盛んであった。平安時代は「憂世」であったが、江戸時代は「浮世」に変化している。
これが江戸時代に華やかな諸文化を興隆させ、職人が優れた芸術品や工芸品など広く発展させたからこそ、今の時代のインバウンド外国人が日本に来て、各地を回って「エキゾチックだ」と称賛するのである。全て、江戸時代の余裕ある働き方から生れていたのである。

現在、東京で最もインバウンドを集客するのはどこか。多分、浅草であろう。浅草に江戸文化が集積したからこそ、外国人から見て「日本的」だと訪れるのである。
『成熟する江戸』(吉田伸之著 講談社)によると、寛政10年(1798)の浅草観音境内「諸見世・小屋掛軒数」は、浅草寺境内の中枢部分、いわゆる仁王門内境内に、本堂や諸堂舎・末社の間をうめるように数多くの「見世・小屋」が充満配置され、何と274か所にも及ぶのである。

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更に上図は、274か所には数えられていない「新規」である。図のa~iであるが、a・c・eは「新規浄瑠璃」、f・h・iは「新規子供狂言」、bは「新規小見世物」、dは「新規軽業」、gは「新規碁盤人形」で、これら11か所が上表に加わるという。
今の浅草は外国人が多く訪れるが、いうまでもなく江戸時代は日本人のみが集まったわけで、いかに当時の生活に余裕があったのかということを証明している。

このような文化を創りあげた日本人の生活スタイルを、今の繋がる「働き蜂」化にしたのは大隈の改暦に伴う「働き方改革」からであるが、それらを支え、世に認識させたバックボーン的なものは何であったのだろうか。

そのひとつが、修身教科書に採り上げられた三遊亭円朝の「塩原多助一代記」だろう。その中に次の記述がある。
「多助は善右衛門を命の親と心得、有り難く思ひ、寝ても寤(さ)めても恩義の程を忘れず、萬事に氣を利かして、骨身を惜まず一生懸命にくれ/\と働き、子(ね)に臥し寅に起るの誡めの通り、子と云えば前の九ッ(0時)で、寅は七ッ時(4時)でございますから寝る間も何も有りはしません。朝は暗いうちから起きて先ず店の前を竹箒で掃き、犬の糞などがあつても穢いとも思はず取除けて川へ投げ捨て、掃除をしてしまふと臺所のおさんどんが起きて釜の下を焚附けると、多助は水(みず)甕(がめ)へ水を汲み込んで遣り、其のうち店の者が漸く起きて臺所へ顔を洗ひに来ると一々手水盥(たらい)へ水を汲んで遣り、店の土間を掃いて居る中(うち)に店の者がお飯(まんま)を喰べてしまふから、自分が食事を致し、それから直ぐ納屋へ往つて炭を擔(かつ)いで、奥蔵の脇の納屋に積み込む何や彼や少しの隙もなく働きますゆゑ、主人は素より店の者まで皆な感心致して居ります」

この「塩原多助」を円朝は明治天皇の前で口演したという。明治24年(1891)4月24日、井上馨邸での園遊会であって、『圓朝遺聞』にこう記されている。
≪四月井上候の邸へ、高貴な方々の御臨幸があった時、特に候から余興として其行列(花咲爺の趣向)をお目にかけるやうと命があった。当日は池を隔てゝ高貴の御姿を拝し、御笑顔をさへ拝されたので一同恐懼措く所を知らなかったが、兎も角無事に余興を済ませた。それから円朝一人御前に召されて塩原多助を御聴に入れ上々の首尾で退出した≫

この記述の意味は「塩原多助」が、その時代に受け入れられていたこと、つまり、多助の働き振りが政府に認められ、「働き蜂国民」になることへ、円朝が率先協力していたことにつながるのではないかという推理が成り立つ。

そうすると以前に紹介した、芸能史研究家の倉田喜弘氏の次の見解とは矛盾が生じるのではないか。
≪「塩原多助後日譚」を読んで、円朝観は一変した。主人公の多助は、円朝その人ではないのか。山岡鉄舟に禅を学んだ円朝が晩年に到達した境地、それが「後日譚」に結実している。理屈はさておき、まず読んで頂きたい。円朝は凄い。そう叫びたい衝動にかられるのは、わたくし一人ではあるまい≫
 円朝の本源を訪ねる旅はまだ続く。

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