聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪 ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編・・・
聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪 ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編・・・
山岡鉄舟研究会
山本紀久雄
明治神宮外苑の聖徳記念絵画館は、明治天皇と昭憲皇太后の事蹟を日本画・洋画各40点ずつで示す美術館であり、ここに「江戸開城談判」壁画が掲示されている。
この「江戸開城談判」壁画、西郷と海舟が対峙している構図で描かれていて、海舟の大刀は左脇に配置されている。いわば「戦う構図」で描かれている。武士が対面する場合、通常の作法に従えば「大刀の位置は右脇」である。
何故に左脇に描かれたのか。その検討をした結果を以下に記したい。
(参照 『江戸無血開城、通説を覆す』一枚の絵に隠された”謎”を読み解く 山本紀久雄著 KKベストブック)
Ⅰ. 氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編 その一
- 吉本襄『合冊 海舟先生 氷川清話』の「合冊序言」
吉本襄の明治35年版の合冊本『海舟先生 氷川清話』は、最初に「合冊序言」があり、以下のように記している。
《勝先生は、必ずしも哲学者にあらず、而も哲学者たるの頭脳あり。必ずしも経世家にあらず、而も経世家たるの事業あり。必ずしも君子にあらず、詩人にあらず、而も君子たり詩人たるの性格と襟懐とあり。旧幕府の名士たりし同時に、明治の逸民たり。眼の人たりしと同時に、手の人たり。而して先生の世に在るや、必ずしも大政に参与せずして、政治家の為に其の方針を指示し、必ずしも実務に当らずして、実業家の為めに、其の正路を示し、必ずしも文芸に長ずるにあらずして、文学家の為めに説き、必ずしも宗教に通ずるにあらずして、宗教家の為めに喩し、必ずしも教育に関せざる者の如くにして、青年子弟の為めに訓戒し、国民は社会の木鐸として之を仰ぎ、知らず識らざるの間に、先生の感化を蒙りたりき。是れ実に先生が、一世の達人たる所以にして、国民が今日に至るまで、其の遺徳を追懐して止まざる所以なり》
《先生は氷の如き頭脳に、火の如き感情を有し、炬の如き眼光に、海の如き度量を有したり。而して其の意志は堅実に、其の智慮は明達に、其の精神は正大に、大事に糊塗せず、小事も滲漏せず。其の言ふ所は行ふ所にして、行ふ所は其の言ふ所なり。故に先生の言、時ありて熱罵と為り、冷嘲と為り、危言と為り、痛語と為り、政治に、経済に、軍事に、宗教に、文学に、社会に、一切の時事問題にして、先生胸底の琴線に触るゝ時は、一種警醒的教訓と為りて、社会の隅より隅に反響せざるは莫し。其の何故ぞや。先生の言論は、渾て是れ至誠惻怛熱血の迸る所にして、真知を局外に求め、禅機を手中に弄する者あれば也。予が玆に『氷川清話』を撰刊したるは、先生が社会的教訓を世に紹介せむが為めなり》
吉本はなかなかの文章家であると感じる。
次に、海舟による江戸無血開城ストーリーを声高々と謳いあげる。
《戊辰の役、官軍東征の途に上るや、幕臣或は邀へ戦はんと欲するものあり、江戸の人心恟々たり。然れども将軍固より戦意なきを以て、先生に命じて之に処する策を講ぜしむ。先生、命を奉じて、危難の際に処して動かず。総督宮、駿府に至らせたまふに及び、上野の輪王寺宮駿府に至り、将軍恭順の状を陳じて、寛典の所置を講ふ。総督宮、謝罪の実なきを以て、未だ之を許し給はず。先生また山岡鉄舟等を遣はして之を請ふ。既にして官軍の先鋒品川に至り、将に江戸城に入らむとす。是に於て、先生自ら赴きて、参謀西郷隆盛に面し、将軍の旨を縷陳して、百方其の調停に尽力す。隆盛之を容れて、直ちに進襲中止の命を下し、状を総督の宮に啓す。之によりて官軍一刃を動かさずして、江戸城に入ることを得、王政復古の大業、平和の間に成就す。先生が絶倫の大手柄は、実にこの時を以て天下に顕はれたり》
文中の「先生」とは海舟のことだ。つまり、江戸開城はすべてを海舟の「絶倫の大手柄」であると絶賛しているのである。
特に、「先生自ら赴きて、参謀西郷隆盛に面し、将軍の旨を縷陳して、百方其の調停に尽力す。隆盛之を容れて、直ちに進襲中止の命を下し、状を総督の宮に啓す。之によりて官軍一刃を動かさずして、江戸城に入ることを得、王政復古の大業、平和の間に成就す」の記述、これが今日まで伝わっている海舟神話の本体であり、『尋常小学校修身書 例話原據と其解説』(東洋図書 1929)の「九 勝安房」でも、『氷川清話』の「戊辰の役」からはじまり「絶倫の大手柄」という文言が掲載され、小学校でも教え込まれているのであるから、多くの一般の人々も信じ込んでいると推察できる。
したがって、聖徳記念絵画館の壁画作成に関与した人物たちも、この吉本が記した合冊本『海舟先生 氷川清話』の「合冊序言」によって、江戸無血開城は海舟によってすべて成された偉業だと信じるか、思い込んでいたのであろう。
聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の作成に実務的に関与した明治神宮奉賛会理事・水上浩躬は昭和7年に死去していたのであるから、当然に吉本説を採っていたと考えられる。
また、二世五姓田芳柳は昭和18年に死去、浅野長勲も昭和12年に死去、結城素明は昭和32年、浅野長武は昭和44年死去しているので、いずれも講談社による『氷川清話』出版以前であるから、海舟が「すべてをひとりで行った」と理解していた可能性が高い。
考えてみると、海舟が「一人で成した」という説に対して異論が出始めたのは最近のことなのである。
現在の「江戸無血開城の真実」の史実解釈について、『江戸無血開城 本当の功労者は誰か?』(岩下哲典 吉川弘文館 2018)と、『定説の検証「江戸無血開城」の真実』(水野靖夫 ブイツーソリューション 2021)に詳しいので参考にしていただきたい。
Ⅱ. 氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編 その二
- 海舟の大刀の位置は武士の作法からしておかしい
聖徳記念絵画館の認識を証明するテレビ番組が、BS11の2019年3月3日『壮麗な美術館で日本の歴史を辿る「聖徳記念絵画館」(東京・明治神宮外苑)』というタイトルで放映された。
このBS11のテレビ番組では、聖徳記念絵画館の学芸員が、「この壁画は緊迫した場面を表現しています。それは刀の置き方でわかります。通常は右側ですが、これは左です。この会談が決裂したらどうなるのか。その時は……。という海舟の決意を伝えているものです」と語ったように「通常は右側」が妥当な大刀の位置ではないだろうか。
左に置くのは「戦う姿勢」を意味していると思われても仕方ない。
しかし、この壁画の慶応4年3月14日の薩摩屋敷での西郷と海舟の対面場面は、すでにみてきたように「緊迫した対面」ではなく、同年3月9日に西郷から鉄舟に伝えられた降伏条件に対する徳川側からの緩和「嘆願」であり、さらに目賀田男爵が勝翁より直接聴いたのは「会見」だったという。このように理解するならば、武士の作法上、大刀の置き方は右側になる。その通りで二世五姓田芳柳が作成した画題考証図、及び、下絵は大刀を右脇に置いている。
下絵③画題無記名(茨城県近代美術館蔵) 左図の部分拡大画
『明治神宮叢書 第二十巻 図録編』の「三、壁画画題考証図」⑬『江戸開城談判』(明治神宮所蔵)
- 結城素明は反対側の左側に大刀を配置する構図で壁画を描いた
結城素明は反対側の左側に大刀を配置する構図で壁画を完成させ、大正15年7月15日に憲法記念館で開催された「第二回邦画部下図持寄会」に提出し、明治神宮奉賛会の承認を得ている。
その後、大下図を作成し、細部を補正し、昭和7年8月22日に浅野長勲侯爵に閲覧垂教を受け、「大刀は左脇に置きてよろし」と回答を受け、同年8月31日に壁画が完成したのである。
このように結城素明が左脇に変えて描いたのであるが、その理由について、結城素明に関する多くの資料を検討してみたが、その理由を示すものは見つからない。
だが、結城素明は二世五姓田芳柳による画題考証図から変更させ描いている。
これをどのように読み解けばよいのだろうか。
Ⅲ. 氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編 その三
- 三つの仮説で述べたい
結城素明が画題考証図の右脇から左脇に変えて描いたことを三つの仮説で述べたい。
仮説① 結城素明が画家としての「信条」から大刀を左脇にした。
この仮説の前提条件として、結城素明も吉本襄『氷川清話』の「合冊序言」に書かれた内容を受け入れていたと考える。したがって、江戸開城はすべてを海舟の「絶倫の大手柄」であると確信していたのではないかと考えたい。
このような受けとめ方は、松浦玲による『勝海舟全集 21氷川清話』(講談社1973)および『氷川清話』(講談社学術文庫2000)が出版されるまで、多くの人々が事実であると認識評価されていたのであるから、ある面、仕方がないともいえる。
だが、これに加えて結城素明の画家としての「信条」が決定的に影響を与えたと推測する。結城素明の画家としての「信条」とは何か。
それは昭和60年(1985)に山種美術館で開催された特別展の図録『結城素明―その人と芸術』に、東山魁夷が「結城素明先生を偲んで」の一文を書いている。
《大正15年(1926)の春、私は東京美術学校日本画科に入学した。先生は私が美校に入学する前の、大正期初期から終りにかけて、最も華々しい活躍を続けた。昭和になってからの先生は、2年に『山銜夕暉』、4年に『嶺頭白雲』、9年の『炭窯』、10年に聖徳記念絵画館の『江戸開城談判』と、力作を次々に出品された。
先生からは「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」「心を鏡にして自然を見ておいで」と言われ、現在に至るまで私の心に深く刻まれている》
この「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」、これを壁画『江戸開城談判』制作でも実践したのではないか。
パリに遊学中、明治奉賛会から壁画『江戸開城談判』制作の依頼が届き、帰国してから「描くため調査した」ことが『明治神宮叢書 第十八巻 資料編(2)』に記されているが、そこに「描くために調べたポイント」が詳細に記されている。
この詳細調査で、結城素明は最も大事な何かが欠けていると思ったのではないか。
それは「江戸開城」は海舟による西郷との「談判」によって決定したという判断を素明は確信していたので、二世五姓田芳柳が描いた画題考証図の右脇に置いた大刀について当初から疑問に思っていたに違いない。
厳しい「談判」をして決定させた「江戸開城」である。その情景を間違いなく表現させるためには、大刀の置き方で、そのことを示さなければいけない。
素明は、持ち前の「信条」である「精密な調査」を通じて、画題考証図には肝心要となるものが「欠けている」という認識を持ったのではないか。
せっかく、海舟が「談判」して獲得した江戸無血開城なのに、画題考証図はそのことを十分に表現していない。
それを正すために海舟の大刀位置を左脇にしたのだ。これが仮説①である。
仮説② 結城素明が「常識家としての画家」であることが海舟の大刀位置を決めた
結城素明の特徴は個展開催が少ないことで、生前3回、没後2回、合わせて5回である。
この個展開催数の少なさと、東山魁夷が、昭和60年(1985)に山種美術館で開催された特別展の図録『結城素明―その人と芸術』に、東山魁夷が「結城素明先生を偲んで」の一文で、「傑作」と言わずに「力作」としか評しないことなどを考えると、結城素明は「芸術家としての画家」というよりも、ある意味「常識家としての画家」であって、これが素明に画題考証図と刀位置を違えて壁画を描かせたのではないかと推察する。
こう推察する背景は、『江戸開城談判』の奉納者が、侯爵・西郷吉之助と伯爵・勝精であることである。
この二者は慶應4年3月14日における「西郷・勝」会見の末裔であるから、奉納者の強い希望が反映したのであろうことは、容易に汲み取れるだろう。
まして、素明は海舟ら命名されたと、昭和60年(1985)に山種美術館で開催された特別展の図録『結城素明―その人と芸術』において、美術評論家で昭和55年(1980)山種美術館学芸部次長に就任した小池賢博氏が述べている。
結城素明は明治8年(1875)、東京府本所区荒井町で生まれている。今でいえば、墨田区本所2丁目あたりである。生家は酒商を営む家で、本名の貞松は勝海舟が命名したといわれている。ちなみに素明の号も海舟である。海舟自筆の銘名記が遺っている。
このような背景もあって、結城素明の脳細胞には、壁画奉納を担う献金者の意向を忖度するという「常識」的な感覚が働いたのではないか。
仮に結城素明が詳しく史実を調べていれば、鉄舟も同席していたことが判明したであろうが、そのような場合でも鉄舟関係者が奉納者になっていないので、西郷と海舟のみの描 写にしただろう。
以上のように、「談判」で決まったという素明の「常識理解」、奉納者が西郷家と勝家であるからという「世間の常識感覚」、これが現在の聖徳記念絵画館壁画となっているのではないだろうか。これが仮説②である。
仮説③ 結城素明は代表作を制作したかったのではないか
結城素明の作品を常設展示しているのは聖徳記念絵画館の壁画『江戸開城談判』と『内国勧業博覧会行幸啓』であるが、後者の壁画は影が薄い。
壁画『江戸開城談判』が「正史」として受けとめられているのが現状では、これが結城素明の代表作品といえるだろう。
結城素明は、大正2年(1913)1月、美術雑誌『多都美』に「先ず自己の頭脳を作れ」と投稿し、自己の確立、新しさの追求、幅広い教養が必要かつ重要だと説いたように、これを常に実践してきた。
画家であるが、文筆研究家としての研鑽も重ね、そのミックスからアウトプットすべく、常に明日に向かって動き回り、その結果を絵と筆で表現したのであるから、過去と同じ傾向作品をブラッシュアップするのではなく、新たに脳細胞にインプットした材料をもとに作り上げる。これが結城素明の制作方法ではなかったか。
壁画『江戸開城談判』も、このような描き方で制作したのだと推測する。絵画館奉賛会から示された画題考証図を参考にしたものの、自らの検討調査から江戸開城は海舟の「談判」で決まったと判断したからこそ、大刀の位置は左に置くことが正しいと思ったのではないか。
『白河を駆け抜けた作家たち 図録』(白河市歴史民俗資料館 1999)で藤田龍文氏は、「余りにも博学多才であったため、画風の表現の幅が広く、素明の画風はどういったものか、代表的作品は何か、と戸惑ってしまう」と述べさせたが、その杞憂は、聖徳記念絵画館の壁画『江戸開城談判』が「結城素明の代表作」となって、同館で常設展示されているので藤田龍文氏の懸念は消えたのである。これが仮説③である。
結城素明が画題考証図における海舟の大刀配置が右側であったものを、壁画『江戸開城談判』では左側に配置して描いた理由、これについて素明は資料として遺していないので、以上の三つの仮説で検討した。
いずれもそれなりの背景から推測したものであり、この中のいずれかと考えている。
だが、聖徳記念絵画館の壁画は教科書に掲載され、一般社会から「正史」と扱われている現状であり、加えて、明治神宮奉賛会の絵画館委員会が「四年有余ニ亙リ博ク索メ深ク究メ慎重ナル審議ヲ遂ケテ」(『明治神宮叢書 第二十巻 図録編』)の結果、大正10 年(1921)に画題考証図を決定したという経緯が存在する。
このように慎重な取り扱いを受けた画題考証図を、壁画を描いた結城素明が変更したのに、その理由を明確化していないままに、これからも壁画『江戸開城談判』を「正史」とし、これを継続していくのは問題ではなかろうか。
江戸城が無血開城された背景も含め、改めて検討し直したうえで、壁画『江戸開城談判』について妥当な「解説」をつくるときがきているように考える。
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