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例会の報告

2024年1月30日 (火)

2024年1月例会開催結果「剪画(せんが)とは?」

2024年119日は岡崎妙春氏から「剪画(せんが)とは?」についてご発表いただきました。

  • 剪画とは、黒い紙(黒和紙が望ましい)をナイフで切り抜き、台紙に貼って完成させる絵画
  •  
  • 石田良介現会長が1981年に「創切会」を設立。1984年に剪画を芸術の一分野として確立させるために、「日本剪画協会」と名称を改め再編成、現在に至っている。
  •  
  • 岡崎氏は剪画協会理事。
  •  
  • 岡崎氏は「剪画協会と山岡鉄舟研究会は雰囲気が似ている。どちらも他人に干渉しない」と述べられ、ご自身の作品を紹介された。
  • 1_20240130114001 2_20240130114101

               (羽 音)                                            (母の愛唱歌)

  • 山本紀久雄が『月刊武道』(日本武道館)に掲載した「山岡鉄舟の人間力」で、鉄舟が三島の龍澤寺まで歩いたと記したことについて、これに疑問をもち、何事にも「現場確認」の重要性が大事と、1123日龍澤寺の一般公開日に現地訪問した行程報告がなされた。

 岡崎氏の作品紹介を含め、谷島茂則事務局長からも補足解説いただき、有意義な例会を開催できましたこと、お二人に感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

             

 

      

2023年12月27日 (水)

「江戸開城談判」の捏造(「海舟神話」)

令和51122日、1220日例会発表 水野靖夫氏

Ⅰ 「海舟神話」

1)吉本襄の『氷川清話』(序言)――第一の捏造

中心テーマ「江戸開城談判」の捏造であるが、これは「江戸無血開城」が西郷・勝の江戸での談判で実現したというのは捏造という意味である。これを「海舟神話」と呼ぶことにする。すなわち「海舟神話」とは「江戸開城談判」がフィクションであり、捏造であるという意味である。

 我々の研究成果は、 

  ①『江戸無血開城、通説を覆す』(山本紀久雄 ベストブック)

  ②『定説の検証 「江戸無血開城」の真実』(水野靖夫 ブイツーソリューション)

2書に込められている。

①は、吉本襄の『氷川清話』(「序言」)が捏造であることに気付き、「壁画」(江戸開城談判)の刀の位置を改変し、画題を「談判」と命名した理由を突き止めた点が画期的である。

そして②は、それでは歴史の「真実」はどうだったのかを、史料を駆使し徹底的に分析した。

 「海舟神話」の元凶は2つある。先ず、第一の元凶である吉本襄の『氷川清話』の「序言」について述べる。

 吉本襄の『氷川清話』は明治30年(1987年)に出版。相次いで続・続々・合冊が出版されて売れ続け、海舟の談話といえば『氷川清話』と言われるようになった。だが、吉本襄が直接勝から聞いた話はごく僅かで、大部分は他人の筆記録(新聞・雑誌)を面白くするため改竄・リライトした。そしてその「序言」には、勝海舟の一生が記載されているが、その「江戸無血開城」の箇所が「海舟神話」すなわち捏造なのである。だが一般には史実と受け止められ、「尋常小学校修身書」の解説書にまで載るようになった。

 吉本襄の「海舟神話」(序言)捏造の内容は次の通り。

① 慶喜が勝に対処策を講ずることを命じた。

② 勝が、山岡鉄舟を西郷のもとに派遣した。

③ 勝は西郷と面会し、慶喜の謹慎を陳述し、江戸攻撃中止の折衝に尽力した。

④ 西郷は勝の要求を容れ、江戸総攻撃を中止し、状況を大総督に言上した。

⑤ これは勝の「絶倫の大手腕」である。

上記の捏造に対する真実の歴史は以下の通り。

① 慶喜が後事を託したのは勝ではない。実際に取り仕切ったのは大久保一翁ら若年寄のグループ

② 鉄舟を派遣したのは慶喜であり、「本文」にも勝と鉄舟はこの時が初対面と書いてある。

③ この部分は後述の「(3)3会談――歴史の真実」で詳述する。

④ 西郷は、勝の要求は保留。「15日の江戸総攻撃」を「延期」したのであり、「江戸総攻撃自体」を「中止」した訳ではない。しかも延期の命令は「仮令」。

⑤ 「絶倫の大手腕」と言うが、降伏条件緩和の「嘆願」は、重要条件は悉く拒否されている。それでも徳川方は黙って呑んでおり、「大手腕」などと言えない。 

 松浦玲氏は、吉本襄の『氷川清話』の信憑性を鋭く指摘し(1973年 講談社判『勝海舟全集』「氷川清話』)、改竄や収録洩れを是正したが、日清戦争・伊藤博文内閣批判等時事性に注力し、残念ながら肝腎の「江戸無血開城」に関する「序言」の創作を見抜けなかった。松浦氏も駿府談判での決着を認めず、「海舟神話」の信奉者であった。そのため、『氷川清話』出版から120年以上たった今日まで、一般に「海舟神話」が史実として信じられ続け、未だに多くの教科書にまで載っている。松浦氏の講談社判『氷川清話』が出版されて以後も、その「序言」が捏造であることに気付かない学界とは何なのだろうか。

 

2)結城素明の「壁画」(江戸開城談判)――第二の捏造

 「海舟神話」の第二の元凶は、これを大いに流布せしめた、結城素明が描いた聖徳記念絵画館の「壁画」(「江戸開城談判」)である。ポイントは画題の「談判」と勝の「刀の位置」改変である。

「壁画」の制作は、「正面より描写するより側面から描写する方が真実を現わす」として「下絵」「画題考証図」「壁画」と、当初より江戸城明渡し場面ではなく、江戸薩摩藩邸での西郷・勝の会談が描かれた。しかも画題を「嘆願」ではなく「談判」とした。それは制作関係者が皆「海舟神話」の信奉者であったからである。結城素明は、本名・貞松も、号・素明も勝が命名。さらに壁画の寄贈者が西郷・勝それぞれの孫であり、そういうことを忖度もし、西郷・勝の会談を、「嘆願」ではなく「談判」にしたかった。

 さらに勝の刀の位置を左脇に改変した。武士の作法によれば刀は右脇に置く。武術の心得のある人、武士の作法を知る人なら、刀の位置の不自然さに気付くはず。「下絵」「画題考証図」では右脇であったが、結城素明は「談判」であると強調するため、原案「画題考証図」の勝の刀の位置を、武士の作法に反して右脇から左脇に改変した。ほとんどの教科書に「壁画」「海舟神話」が記載され「壁画」を見たことのない人はいない。

 刀は、三種の神器草薙剣に象徴されるように、日本人にとっては単なる武器ではなく、神聖なものである。この点に疑問を抱き、究明した学者がいないと言うのは驚きという他ない。

 

3)3会談――歴史の真実

 「3会談」とは「江戸無血開城」決定に至る3つの会談のことである。

① 駿府談判

 「江戸無血開城」は新政府軍参謀の西郷隆盛と徳川慶喜により駿府に派遣された山岡鉄舟との談判により決定した。慶喜の謹慎を縷々説明した鉄舟に、西郷は降伏条件を示した。鉄舟はその内の1か条「慶喜の備前お預け」だけは受け入れられないと拒否。新政府軍は慶喜追討軍であるから、慶喜の首を取るか、せめて身柄確保するのが朝命である。西郷は2度まで朝命であると主張し談判となった。鉄舟が「それでは立場が逆だったとしたら、主君島津公を差し出せるか」と迫ると、西郷は返答に窮し、「徳川慶喜殿ノ事ニ於テハ、吉之助屹ト引受ケ取計フベシ。先生必ズ心痛スル事ナカレ」と言ったので、鉄舟は他の条件「城・軍艦・武器の引渡し(武装解除)」等を呑み、ここに「江戸無血開城」は実質決定した。

 まずこの西郷の言葉は、「慶喜の備前お預け」の撤回であり、これを保留したのではない。また参謀の西郷には朝命を勝手に撤回する権限などないから、これは実質決定であり、正式決定は京都朝議である。

② 京都朝議

 西郷は、鉄舟にしかるべき肩書がないので、江戸でしかるべき地位の誰かに「確認」し(大久保一翁でも、勝海舟でも他の若年寄でもよかった)、朝命撤回の正式決定を得るため京都に帰った。西郷は当初駿府の大総督府に帰ったが、大総督も自分には権限がないとして西郷を京都に帰らせた。京都では慶喜の助命に対し強硬論があり、西郷は困窮したが、木戸孝允の側面支援によりやっと助命が叶った。西郷は鉄舟との約束を果たし、ここに「江戸無血開城」は正式に決定した。なお他の重要条件(武装解除)は否決された。

③ 江戸嘆願

 西郷は「京都朝議」の前に、江戸でしかるべき肩書の勝海舟(陸軍総裁)に会い、鉄舟との約束を「確認」した。駿府で「保留」し江戸で決定したのではないので、「江戸確認」という表現は使わない。その時勝は降伏条件緩和の嘆願書を提出したので、「江戸嘆願」という表現を使う(「海舟日記」〔諸有司之嘆願書を渡す〕)。しかしそこで嘆願内容についての「談判」はなかった。重要なのは、江戸で「談判」がなされたという史料は存在せず、逆に「談判」はなかった、江戸では何も決まらなかったと言う史料は存在する。

  (ア)「海舟日記」…「我壱人今日是等を決する不能」(西郷の発言)

  (イ)『氷川清話』…「拙者の一存にも計らい難い」(西郷の発言)

  (ウ)目賀田種太郎の「談話筆記」『明治神宮叢書』第18巻)…「薩摩邸会見ノ時ハ……素ヨリ開城条件ハ已ニ予知シ居ルコトナレバ夫等ノ

           談判ハナク」(勝自身の発言)

 以上で重要なことは、「江戸無血開城」は、駿府で実質決定、京都で正式決定し、江戸では何も決まらなかったことである。某教科書会社は「山岡が静岡会談で保留にしてきた慶喜の処遇を西郷と山岡と31314日に決めたのは、勝である」という文を根拠に、「江戸無血開城」は江戸で決定したと主張した。こうした誤った解釈がなされる惧れのある「保留」「慶喜の処遇」と言った曖昧な表現は避けた方がよい。

Ⅱ 教科書会社への働きかけと文科省の対応

1)教科書会社への働きかけ

 2018東京都江戸博の勝海舟常設展示に抗議するため、東京都・生活文化局・総務部・総務課長に面会したが、その結果江戸博より教科書に「海舟神話」が載っている(山川・実教・東京・明成・清水・第一)という文書回答(副館長・学芸員)が来た。これにより教科書が修正されないと、全てが変わらない、逆に教科書が修正されれば全てが変わると認識するようになった。これが教科書会社へのアプローチの最大の動機である。

 そして2021年に前記の2著を出版し、翌2022. 11.30文科省・初等中等教育局・教科書課・教科書企画官を訪ねることになったのである。ここは教科書検定をする部署なので、ここから教科書会社に指示を出してもらえばよいと考えた。ところが、教科書の修正は直接教科書会社に依頼するようにと言われたため、教科書会社への働きかけが始まった。

 中学・高校の日本史の教科書を発行しているのは12社であることが分かった。各社の教科書の「江戸無血開城」に関する記載状況を調べてみると、2社が無血開城の記載がなく、10社に何らかの記載があった。

 さらに教科書検定制度を調べると、教科書作成・検定・販売・使用開始と4年間かかることが分かった。つまり文科省の検定は4年に1度である。そして今年令和5年度は、中学日本史の第2年目の「検定」の年に当たっている(高校は1年後)。今年度検定に修正が間に合わないと次回検定が令和9年度、教科書使用開始が令和11年度となってしまい、それまでの間捏造された歴史が教えられることになってしまう。

 そしてここから1年間に渡る長い教科書会社との交渉が始まった。教科会社に電話し面会を求めたが、全て断られた。そこで我々の2書を送付し、教科書の記載の誤りを指摘し、削除・修正の検討を依頼した。その後何度も電話し、送った2書が大部で中々読み通すのに苦労すると考え、2書のポイントを3頁ほどにまとめたものを送り、修正の検討を促した。

 1月のWebサイトへの質問から始まり、10カ月ほど電話・手紙攻勢を続けた結果、我々の熱意が伝わったためか、送った資料「海舟神話」ポイントの主旨が理解されたためか、10月までに合計4社から、教科書修正の回答があった。ただ文部科学省の規則で、出版前に内容を明らかには出来ないため、いつ、どのように修正されるかは明らかにできないとのことであった。現状、12社中2社は当初から「海舟神話」の記載がなく、4社は我々の主張に納得し、いずれ何らかの形で修正を確約。残り6社が今後検討するという状況である。

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2)文科省の対応

12月15日に、山本会長と水野が文科省初等中等教育局を1年振りに訪問。教科書会社の対応の結果を報告すると共に、文科省の対応を聞いた。そのポイントは以下の通り。

①教科書検定は4年以1度だが、4年後の次回検定まで待たなくとも、来年度に改めて修正願いを出すことは可能。

②教科書の記載は原則教科書会社が決めるものであるから、それなりに筋道だっていれば、教科書会社によって記載内容が異なっていても、必ずしも文科省が一方を否定するものではない。その意味では文科省は飽くまで受け身である。

③15~20分のアポであったが、40分も我々の話を聞いてくれて好意的であり、教科書会社からの修正要求を受け入れる素地はできたと考えられる。

〔40分の間に以下のような話題が話し合われた〕

○「論文を書いたらどうか」という提案があったので、「過去に何回か書いたが(『日本歴史』)、学会が天動説のためか、採用されなかった」と答えた。

○桶狭間の戦いが奇襲攻撃というのはフィクションという説があるが、奇襲攻撃と書いてある教科書もある。

2000年に遺跡発掘の捏造が発覚した際は教科書が急遽修正されたのではないかと、「海舟神話」が同じ捏造であることを示唆した。

○「江戸城受取」の絵を示して、「壁画」と差し替えれば修正が容易であることを説明した。

 

2023年12月24日 (日)

刀剣思想

山本紀久雄が『江戸開城談判』壁画を描いた画家・結城素明の刀剣思想について20231220日に発表いたしました。

聖徳記念絵画館の壁画「江戸開城談判」を描いた「結城素明」は、刀の取り扱い作法を無視し、右脇から左脇に刀を配置し描いている。

これは、刀剣思想について理解していないのではないかという疑問から、日本における刀剣思想について以下のように解説した。

剣とは両刃(りょうば)、諸刃(もろは)、つまり両サイドに刃がついたものである。刀とはそれを縦に割ったような形の片刃(かたは)のものをいう。

この区別は、既に日本に刀剣が伝来する前の古代中国においてなされていた。使われはじめたのは剣の方が先である。

古代中国の春秋時代にあたる紀元前6世紀から前4世紀頃の呉越(ごえつ)地方が、刀剣の歴史と思想の起点と考えてよい。

参考とするのは『刀剣の歴史と思想』(酒井利信著 日本武道館刊 2011)である。

この当時の日本列島は、中国大陸の文明とは格段の差があり、大陸から押し寄せた金属文明の代表格であった刀剣が、すぐには日常的な道具とはならず、人々は刀剣に非日常的な神性を感じ、神々との交信の具としてこれを崇(あが)めた。

特に呪術(じゅじゅつ)宗教観念が支配的であった古代の日本では、剣が呪具として重用された。つまり、剣は「神を祀る呪具」であり、日本人は剣を神聖視し、剣を神々との関係において語る「神話」を生み出した。

その事例として、簡単に天皇家に伝わる天孫降臨神話を述べた。

天上界の統治者である天照大神は下界をも自らの子孫に納めさせようと考えるが、下界である葦原中国(あしはらのなかつくに)がひどく騒がしく不安定なので、これを武神タケミカヅチに平定させた。

この平定を受けて、天照大神の子孫、天津彦彦火(あまつひこひこほの)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が下界を治めるべく降臨する際に八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三つの宝=「三種の神器」を与えたというのが天孫降臨神話。

これを歴代天皇が皇位の標識として伝えてきたという実態から考えると、剣は「神を祀る呪具」であり、剣は「祀られる存在」でもあったことがわかる。

草薙剣といった古代の剣が、熱田や石上、鹿島といった古代神話に由来する神道の社で、神の象徴として祀られている。または安置されているという現実がそれであり、「祀る呪具」も、「祀られる剣」も、いずれも神との関係を確立するものである。

江戸時代を代表する武士道書である井沢蟠竜(いざわばんりょう)の『武士訓』に以下の記述がある。

≪霊剣は決断を表し給ふ。至剛無欲にかたどりて。内に私欲奸佞(かんねい)の心敵を滅し。外に邪悪暴逆の賊徒を誅し

この意は、剣を、自らの内にある私欲やよこしまな心、あるいはおもねる心などを心の敵として滅ぼし、一方、身の外にある邪悪暴虐の賊徒をも誅するものとしている。斬るべき敵は自らの内外に二つあり、まさしく「我も斬り彼も斬る剣」であると。

徳川将軍の剣術師範を務めた柳生家、新陰流は「活人剣思考」というものを提唱した。それは次のようなものである。

万人を苦しめている悪人がいるとする。この悪人一人を斬る兵法は、結果として万人を活かすことになるというものであり、世のため、人のために剣の技術を行使するという柳生流の考えで、それが柳生家の『兵法家伝書』である。

≪人をころす刀、却而(かえつて)人をいかすつるぎ也

人を殺す刀が人を活かす剣に繋がるという、柳生が主張するところの理念を端的に表現した文言である。これを「殺人刀(せつにんとう)」「活人剣(かつにんけん)」という表現で使い分けている。見事なものである。

このように刀剣の思想を検討してみると、この思想に一貫していえる大前提は、刀剣を単なる武器としてではなく、神聖なものとしてみているということである。

単なる「人斬り包丁」ではない、はるかに武器それ以上の神聖なるものとして刀剣をみているのである。

そして剣は、神話の中で、天上と地上、つまり、神々の世界と人間の世界を行き来し、この二つの世界を繋ぐものとして描かれる。

このイメージは日本人の精神世界において、古今、深く根付いており、だからこそ剣は神々と関係をもつものとして認識されている。

天と地の二つの世界が精神的にはっきりと区別される中、剣だけは神話上、この二つの世界を繋ぐことができた。このことが、剣の神聖性の根拠づけられる方として最大の特徴である。

だが、結城素明は、この刀剣の思想を知らずして「壁画」を描いたのではないかと推測する。又は知っているが無視したのかもしれない。

いずれにしても「壁画」の刀配置構図は刀剣の思想から言って無理があり「人斬り包丁」に止まっている。

このような刀剣思想を知らない現代人が、今日も聖徳絵画館で「江戸開城談判壁画」を眺めている。我々は「刀剣思想」からこの壁画を見ていきたいと思う。

2023年11月 1日 (水)

2023年10月例会報告

2023年1018日は、日本武道学会会長の大保木輝雄先生から「武道の歴史から考察する鉄舟の剣道理念について」についてご講演をいただきました。

山岡鉄舟(小野鉄太郎)(1836-1888)は塚原卜伝の縁者である母親と小野派一刀流宗家と縁の深い父親に育てられ、自分は剣の家に生まれたという自覚が強かったようです。飛騨郡代として父親が巡見視として各地を巡回した折に鉄太郎も同道し「上泉秀吉」と名乗って旅をしたとの記録があります。上泉秀綱(1508-77?)にあやかっての変名のようです。鉄太郎は9歳で新陰流に入門し15歳で初伝が授けられ、当然上泉のことを知っていました。またこの年、父親が招聘した北辰一刀流の井上八郎(1816-1897)から「籠手、面、胴、突」といった打突部位を竹刀で撃ち合う「撃剣(現代剣道の起源)」を学びます。その後、江戸に戻った鉄太郎は撃剣に身を投じ様々な流儀に挑戦し、技量が認められ講武所の剣術世話役(1856年)となります。鉄舟が生きた19世紀は、幕末の動乱から近代化へと向かう時代でした。政情不安に伴う打毀しからの自衛のために撃剣は武士のみならず百姓・町人も実施し、各道場は人間交流の場ともなりました。そのような時代に生きた鉄舟は武士としての在り方を超えて日本人としての在り方を撃剣に求め「剣道」として提唱しました。

嘉納治五郎は「柔道」として日本人の在り方を提唱し、「自然体」という言葉を基調にすえ西洋的学問を介在させて説明しました。一方、鉄舟は武術から武芸へと転換させた17世紀に確立された一刀流の組太刀(型)に示された極意を撃剣体験を踏まえ自らが会得した身心技法を通じて読み取り、対面世界で展開される自己の心の変容過程を明らかにし祖師達の意志の把握に成功しました。相手に上手下手があるのではなくて、自分自身が上手下手をつくっているのだから「自己アレバ敵アリ、自己ナケレバ敵ナシ」という真理を会得することが大切だと述べています。

1543年の鉄砲の出現によって剣術の意義が大きく変わりました。先に見た上泉秀綱(信綱)は剣術の在り方を護身や戦闘での実用的技術に武将の軍配技術を重ね、武士たる者の矜持をしめす「帝王学」として剣術を位置づけたのです。それを画期として剣術は「人間学」としての展開をみます。お互いに剣を抜きあわせて対峙することは戦場での「生死の場」を再現することであり、其の「場」で生き抜く術(すべ)を組太刀(型)として示し、それを武士の芸事として位置づけました。「身をわする」ことで「私利私欲を離れ世の為人の為」に盡すという武士の本分を身に着けることが求められたのです。その体系化を図ったのが小野忠明(1569-1628)の一刀流と柳生宗矩(1571-1646)の新陰流でした。そして、それを支えたのが徳川家康(1542-1616)でした。戦国期の武士が築き上げた「すべてを御和算」にするという叡智は組太刀に反映されていましたが、戦闘体験者が世を去り世の中が平和な時代になるとその叡智を伝えることが難しくなりました。そこで登場したのが熊沢蕃山(1619-1691)、佚齋樗山(1659-1741)でした。剣術に「気」の思想を介在させ武芸論を展開し『天狗芸術論』などが出版されロングセラーとなりました。

生死の問題に気を介在させた思想は、その後、「内観の秘法」を公開した禅僧白隠(1685-1768)の『夜船閑話』とともに、19世紀の剣術家にも多大な影響を与えることになりました。白隠の「練丹の法」を採用する流派も現れ、「気」は身体性に密着した実感的なもの(身体内部感覚)として詳細に記述されるようになっていくのです。また、剣術では防具着用で安全を担保し、勝負を決める撃剣が発達し、流儀を超えた交流が出来るようにもなりました。

そのような状況の中で、樗山の『猫の妙術』の愛読者だった鐵舟は、剣道修行によって変わっていく自分自身の心の変容過程を「黒猫・虎猫・灰毛の猫、老猫」に対応させ、以下四つの段階で示しています。第一段階では、千日間の稽古で「体(たい)-中心鎮静ニシテ私邪ナキヲ謂フ」が備わり、第二段階では「彼我呼吸ノ間ニ機会ヲ知ル」ようになり、これを敵を知るという。第三段階に進むと、構えただけで敵の巧拙がわかるようになり、これを敵と我を知るという。最終段階になると、敵のなすことが自分の心に響かなくなる、これを敵を忘るという。ここに至って初めて「無心」が成就すると述べています。「余ノ剣法ヤ、只管其技ヲコレ重ンズルニアラザルナリ、其心理ノ極致ニ悟入セン事ヲ欲スルニアルノミ」と言及し「心外無刀」を唱え、戦国末期に登場した一刀流に伝わる祖師達の身心技法を撃剣の世界に再現させ、今日の剣道へと橋渡しをしたのです。

鉄舟の剣は奥深く、今後も大保木先生にご登場いただきたくよろしくお願い申し上げます。

2023年10月 2日 (月)

2023年9月例会開催結果

2023年9月例会は927()に、河瀬眞人氏から「韮山代官江川英龍と練兵館斎藤弥九郎」についてご発表いただきました。

代官と剣客、一見縁が無さそうであるが、実は、韮山代官江川英龍と練兵館主斎藤弥九郎は岡田道場で相弟子となり、盟友として以下のように様々な事を成し遂げている。

  • 大塩平八郎の乱では英龍は弥九郎を現地に派遣し実情を探索させた。
  • 江戸時代後期の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。別称甲州騒動であるが、この際、英龍と弥九郎は共に刀剣商に扮し、飢饉の状況視察を行い救民救済に努めた。
  • 品川沖台場築造や大小砲鋳造の反射炉建設・洋式帆船ヘダ号の建造などは英龍の指示に基づき弥九郎が現場を仕切った。

二人は、ペリー来航の半世紀前に生まれ、外国の脅威の顕在化を感じながら成人し、当時の最先端知識人であった蘭学者の幡崎鼎(はたざき かなえ)、渡辺崋山や水戸の藤田幽谷、会澤正志斎等との交流で知りえた海外情報によって、日本と欧米諸國との圧倒的な格差を知り愕然とした。

特に清国で起きたアヘン戦争と、その結果の不平等な南京条約、これは英国に清国での利権を先取りされた露仏獨米西葡の植民地獲得争いに火をつける事となったが、これらに対する幕府・諸藩の実態について大きな危機感を抱いた。

そこで二人は、洋式砲術家高島秋帆に師事し、英龍は「韮山塾」を開講、弥九郎は練兵館で撃剣指導を行いつつ洋式銃陣等西洋兵学を学んだ。

この韮山塾と練兵館、儒教や漢学中心の昌平黌学問所とは異なる学問・武術の拠点となり、時代に対する志を持つ人材を世に多く送り出したと、河瀬氏は強調された。

江川家と河瀬氏は先祖から姻戚関係によって、深いご関係があることから、まだ多くの知見をお持ちですので、次回のご発表をご期待申し上げたいと思っております。

2023年7月25日 (火)

2023年7月例会開催結果

2023年7月例会は永冨明郎氏より「<佐久間象山>=「世界の中の日本」を示した男」について、明解なご発表をいただきました。

佐久間象山(文化81811 〜 元治元年7 1864)、松代藩士(側祐筆)の家に生れ、京都三条木屋町で襲撃受け落命(襲撃者は河上彦斎ら10名以上)。 

象山の業績は多岐にわたる。

          天保13年(1842) 列強の来航を予想した「海防八策」提言

          嘉永3年(1850)に真田藩邸(深川)内に砲術塾開く

          実際に洋式大砲を多く鋳造、各地で試射を実施

この他、幕末から明治維新にかけて大きな影響を残した。

勝海舟も日記にしめす。

「ああ、先生は蓋世の英雄、その説は正大、高明、世人の及ぶ所にあらず。この後、吾また誰にか談ぜむ。(殺されてしまったとは)国家のため痛憤胸間に満ち、(これまでの)策略はみな画餅(に帰してしまう)」と記している。(当時、勝海舟は神戸海軍操練場の立上げのため、神戸にいた)

 

事務局から明治天皇との関係で象山業績について加えたい。

ドナルド・キーン著『明治天皇・上(305)(新潮社2001年刊)は、以下のように記している。

 ≪幕末時代、佐久間象山が最初に唱えた東洋の道徳と西洋の科学の結合は、特に晩年の明治天皇の態度を特徴つけるものになった≫

この評価は、明治天皇の侍読であった元田永孚(ながざね)の教えに帰することができるのではないか。と注釈を加えているが、明治時代の天皇は、現在の天皇とは異なり、国家治世者であったわけで、象山の思想が明治天皇を通じて日本国家に影響していたということを改めて認識し、特筆すべき業績と考えたい。

 

2023年6月26日 (月)

2023年6月例会開催結果

2023年6月は、会場の都合で14(水・第二週)に山本紀久雄から「九代目市川団十郎と山岡鉄舟 後編」を発表いたしました。

 九代目団十郎が31歳の時、明治維新が到来。明治政府は「都(すべ)テ事実ニ反ス可ラス」と指示。九代目は「すべての拵えをその時代を調べた」舞台で展開した。

これが「活歴もの」であるが、見物客は「故実を正し」た「今までの芝居において見ることがなかった新式」であったため、「事実」として受けとめるどころか、「絶対否認」という拒否反応を示した。

結果として歌舞伎座の経営状態は「団十郎で損をして菊五郎で埋める」という実態、九代目は貧乏のどん底に陥った。

この状態時に「壮士芝居」が新たに登場。明治278月に日清戦争が勃発したことを受け、「壮士芝居」は浅草座で『壮絶快絶日清戦争』と題打って幕を開け「近来歌舞伎にても其例無き数十日間大入り」となった。

対抗すべく歌舞伎も急遽、『海陸連勝日章旗』を舞台にしたが、これが不評。理由は、士官や兵士・水夫といった同時代の者たちが、前代の武士や大名が用いる言葉を交わすという時代錯誤な世界の舞台演出で、見物客が強烈な違和感を覚え、これを拒否したことで、興行的大失敗に終わった。

だが、『海陸連勝日章旗』の中幕、『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』は、團菊の顔合わせで、九代目は、又平の「画にのみ精神を傾け尽せる」一途な思いが奇跡を生み、土佐の苗字を授かるという「酔えるが如き」舞台を展開、戦争一色に塗り込められた社会の喧騒、そこから解き放たれる心境を見物客に与えることができた。

この結果、歌舞伎は壮士芝居という相手を得て、ここから本来の役者の芸をはじめとする様式性を守り通す道を選ぶことになった。

つまり、見物客が求めているのは「旧来の芝居」であり、それがもつ江戸的な趣向の内に、「一種の趣味」があることを九代目は再認識し、「活歴もの」はやめるという、自ら方針を転換させ、役者の芸をはじめとする舞台面の様式性を守り通す道を、57歳になって、ようやく選択するにいたったのである。

その際の選択判断基準は、鉄舟が「駿府談判」で展開した「立場の転換」であった。激しい談判交渉の中で、鉄舟の立場を、西郷の立場に置き換え、「義」に訴え、相手に考えさせる、という見事な交渉術の発揮である。

鉄舟邸に出入りしていた九代目、鉄舟がこの「立場の転換」を展開したことをよく理解しており、自らの舞台を「客の立場」に転換させるという変化を採り入れたのであった。

このような自らの変化を通じ、九代目は明治30(1897)60歳ごろになると

富裕者として築地の邸宅も豪勢になり、明治33(1900)に神奈川県茅ケ崎に狐松庵(土地6000)別荘をつくり、更に日本銀行に5万円に及ぶ預金を持つ身分になったのである。

 九代目の生き方変身、それは「立場の転換」にあったわけで、現代にも通じる「生き方」セオリーとして、我々が鉄舟研究から学ぶポイントであろう。

2023年4月25日 (火)

2023年4月例会開催結果

 2023年419()例会は清水明氏から「『江戸無血開城の史料学』を読んで、歴史を楽しむコツをつかもう!」についてご発表いただきました。

 清水氏のご発表後、司会者が『江戸無血開城の史料学』(岩下哲典[編]吉川弘文館202211)に対する評価を尋ねたところ「諸先生が何ら干渉を受けず見解を述べあい、それを『史料学』という一冊にしたことに、この書の存在意義がある」と述べられました。

 これに同感いたしますとともに、まだお読みになっていない方は、是非、ご一読されますことを推奨いたします。

 情熱溢れる清水氏のご発表に深く感謝申し上げ、以下、清水氏の発表要旨を記して報告といたします。

  1. 「はしがき」――『江戸無血開城』とは何か、なぜその史料を問うのか」岩下哲典氏(東洋大学教授) 

『江戸開城』とは狭義から広義に考えると、以下の④分類にできるだろう。

  • 「慶喜帰着から、慶喜が江戸を退去するまでの政治過程」
  • 「鳥羽・伏見の戦いから、この「徳川家処分」《徳川家存続、70 万石決定》まで」
  • 「慶喜が朝敵となり、自ら謹慎し、交渉が行われ、徳川家の最終的な処分が決まって落ち着くところまで」《慶応 4 年 1 月 7 日徳川慶喜追討令~同年 7 月 23 日清水港上陸、宝台院入り》
  • 「明治二年(一八六九)三月、明治天皇が東京に移った。この新旧の主が入れ替わったこと」

「今現在読むことができる史料を、勝海舟の功労が第一であるという前提条件を一旦取り払い、なんの条件もなしに虚心坦懐に読むべきだろう」

 

  1. 「研究編」

2-1「海舟史料からみた『江戸無血開城』」和田勤氏(東洋大学人間科学総合研究所院生研究員) 

「江戸無血開城に際して重要な役割を成した人物が、幕末・明治期の政治家、勝海舟である」

「江戸無血開城は誰の手柄であったかという評価を行おうとすると、議論を隘路へ陥らせる怖れがある。《中略》《勝と山岡の両者について》いわば江戸無血開城における役割分担ともいえる」

 

2-2「山岡鉄舟・高橋泥舟史料からみた『江戸無血開城』岩下哲典氏

これまでの歴史研究者や郷土史家が描いてきた勝海舟を最大のキーパーソンとする『江戸無血開城』論を列挙し、それに対する近年の研究を紹介し、「《高橋泥舟は》慶喜の謹慎・助命・嘆願にも関与し、山岡を推薦した功績は大きく、山岡に次ぐものと考えられる」

「『江戸無血開城』における旧幕府側最大の功労者『一番槍』は、徳川慶喜本人が認定していることから、山岡鉄舟であると今後語られるべきである」

 

2-3「江戸無血開城前後の徳川勢力 -尾張・越前両藩の史料を中心に」藤田英昭氏(公益財団法人徳川黎明会・徳川林政史研究所研究員)

「江戸無血開城前後における徳川勢力の動向を、徳川一門である尾張藩・越前藩の史料を中心に検討」

「江戸無血開城にあたって、新政府を代表して城を受け取り、その後の管理を委任されたのは尾張藩」

「『江戸無血開城』は、徳川一族間でなしとげられたものという見方もできそうである」

「『江戸無血開城』の一因として無視できないのは、東海道先鋒総督の橋本実梁もそうだが、新政府内の皇族や公家が、徳川家との全面戦争を忌避していた点である」

「爆発を抑制すればするほど、反作用が生じ、江戸以外の各地で戦争を誘発させ、結果的に戦禍を広めることとなった」

 

2-4「恭順派と抗戦派の交錯江戸無血開城をめぐる旧幕臣」樋口雄彦氏(国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授)

「いわゆる恭順派と抗戦派が、それぞれの内部において一枚岩ではなく、多様な存在形態をとったこと。あるいはそれぞれの立場は固定的なものではなく、その時々で揺れ動く存在だった」

「圧倒的多数の旧幕臣たちは、大勢に流されるままに生きたといえる。良くいえば従順、悪くいえば主体性がないものが多かったのである」

 

 最後に、清水氏が今回のご発表で最も述べたかった趣旨を追記いたします。

A.歴史は、様々な史料のなかから何をピックアップし、どういった視点から考えるかで、同じ歴史の痕跡であっても全然違った像が立ち上がってくる、という、 その面白さを是非楽しんでいただきたいです!

B.人の書いた本を読むよりも、1つでもオリジナルの元史料にあたる、あるいは釈字されたものでもいいから原典にあたる、そうすると、必ず新しい発見があり、歴史がグッと面白くなる、一段とヤミツキになる、 その醍醐味を皆さまお楽しみください!

2023年3月22日 (水)

2023年3月例会開催結果

2023年315()例会は、大阪学院大学総合学術研究所所長・郡司健教授から「下関戦争と海外に渡った大砲」についてご講演をいただきました。

郡司教授はかねてより長州砲について研究、2022年に『幕末の大砲、海を渡る』(島影社)を出版され、ご先祖は萩の青海鋳造所の当主にあたります。

まず、元治元年(1864)の下関戦争、これを欧米連合艦隊下関攻防(国防)戦争と称され、四カ国(英仏蘭米)の連合艦隊と長州側の8月5日から7日までの戦闘状況、それと14日の講和条約締結までの経緯を解説されました。

なかでも連合国側、特に英国公使オールコックは、阿片戦争をモデルとした短時日での下関制圧、次に山口、萩も抑え、さらに大坂まで進攻することを期待していたといわれる。

だが、奇兵隊や他諸隊の猛烈な防衛により、進軍を阻まれ、これ以上の戦闘を望まなかったキューパー提督の意向もあって侵略を断念したという。

巷間、下関戦争は長州藩が旧式の武器のため、連合軍の攻勢にあっけなく敗北したという説が見られる。

だが、最近の研究では、この戦闘において敢闘し連合軍の侵攻を下関でくいとめ、山口・萩からさらに大坂侵攻を断念させたことが評価されるようになっていると郡司教授は強調される。

ご講演後の質疑応答でも、この件が話題となり、薩英戦争に比較し、下関戦争の実態が正確に社会で認識されていないのではないか、という指摘が多数の方から示された。

残念ながらその通りであり、今回の郡司教授ご講演を機会に認識を改めたいと思った次第である。

次に、この戦争の結果、多くの大砲が接収され、結果的に54門が英仏蘭米4か国に分配され、その分配リスト(ヘイズ・リスト)とともに、大砲の幾つかは4か国に今も残されている実態を、以下の日程にて郡司教授が現地調査された内容について写真・資料を使い解説をされた。

1 20 04 8 月(8 /78 / 1 4)オランダ・フランス

2 20 05 7 月(7 /2 2 - 7 /2 7)イギリス

3 20 05 10 月(1 0 /2 4 -1 0 / 2 9)イギリス(・ドイツ出張)

 <200年ものづくりリレーシンポジウム>=大砲分配リスト(ヘイズリスト)

4 20 07 1 月(1 /2 - 1 / 7 )イギリス・フランス

5 20 11 8 月(8 /2 9 - 9 /4)イギリス・オランダ(・2 名フランス)

6 20 13 9 月(9 /19 / 8)アメリカ(・カナダ)

この説明過程で山本紀久雄が、パリのアンヴァリットで行方不明となっていた長州砲を見つけたことに触れられたので、当時の経緯を少し述べたい。

最初は、直木賞作家の古川薫氏著『わが長州砲流離譚』(毎日新聞社2006)に、アンヴァリットにある長州砲二門のうち、一門の行方が不明で心配だと記されていたことからだった。

そこで、その当時、山本は度々パリ出張をしていたので、古川氏に連絡を取り、パリで確認してくることを約束、アンヴァリットの学芸員と連絡をとり、2009330日に訪問した。

長州砲一門は門を入ってすぐの庭に展示されている。これは古川氏も分かっている。問題はもう一門である。まだ若き長身の学芸員と館内を探し回ったがない。学芸員は「もう他にはない」と断言したが、ここで引き下がっては折角のアンヴァリット訪問目的が達しない。ねばりに粘る。古川氏から受けた手紙と写真、それと昭和59年の山口新聞記事などを使って何回も説明し、どこかにあるはずだとしつこく追及する。

こちらの剣幕にとうとう学芸員は考え込み始め、多分、普通の展示場所ではないだろうと推測し、倉庫や鍵が掛っていて入れない場所を回って歩いたうちの一か所、ここは軍関係の管理地だから入れないというところ、そこの鍵がかかっている柵の間から覗くと、遠くに長州砲らしきものが見える。これだと叫ぶと、学芸員は慌てて事務所に鍵を借りに行く。ここには自分も入れないところだと言いながら・・・。

鍵が来て開けて入り、走りたい気持ちを抑えつつ大砲のところに行くと、嘉永七年の文字が見える。やはりあったのだ。学芸員もびっくり。知らなかったのだ。アンヴァリットには九百門の大砲があるというが、その記録に漏れがあったのだ。

以上の経緯を古川氏にご連絡し、この件は一件落着と思っていたが、郡司教授がJAL機内誌『スカイワード』(200979月号)で「アンバリッドの長州砲が行方不明」とのエッセイを掲載され、それを偶々JAL機内で読んだ山本が、下記の内容をご連絡したことから郡司教授とのご関係が始まった次第。

郡司教授にはご多忙の中、大阪から上京していただき、貴重な長州砲についての考察をご講演賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。

2023年2月17日 (金)

1. 2023年2月例会開催結果

 2023年28日は山本紀久雄が「九代目市川団十郎と山岡鉄舟 前編」を、概要以下のように発表いたしました。

最初に「十三代目市川団十郎白猿」襲名披露公演について解説、楽屋話として歌舞伎研究家・常磐津節太夫である鈴木英一氏からお聞きした内容を紹介。

九代目は、七代目の五男として天保9(1838)10月に生まれ(鉄舟は天保7年)、生まれて7日目に、河原崎座の座元、六代目河原崎権之助の養子となり長十郎(以下、九代目と称す)と名付けられる。

 九代目は朝の六時頃から稽古、夕の五時六時まで、日曜の休みはなし、晩の御飯を食べて、始めて自分の身体になるという厳しい教育を受けた。

13歳になった少年団十郎、今の芝居皆嘘だと気づく。幕府は歴史上の事件を演じる事を禁止、仮にその時代の舞台や浄瑠璃に歴史上の材料を採用しようとする際は、時代を改め、人名を変えることを要求していたので、当時の舞台は歴史史実と異なる構成であった。

 九代目が31歳の時、明治維新が到来。明治政府は「都(すべ)テ事実ニ反ス可ラス」と指示。九代目は「すべての拵えをその時代を調べた」舞台で展開する具体化へ歩みだした。

これが「活歴もの」であるが、見物客は「故実を正し」た「今までの芝居において見ることがなかった新式」であったため、「事実」として受けとめるどころか、「絶対否認」という拒否反応を示した。

九代目は「ナニ見物が二人になれば止めますが、三人までなら飢えて死んでもやり通します」と、客の危惧を顧みず、「真実(ほんもの)」の追求に向ってますます意地を張って邁進した。

結果として歌舞伎座の経営状態は「団十郎で損をして菊五郎で埋める」という実態、結果として九代目は貧乏のどん底に陥った。

この債務に追われる生活は明治20(1887)まで、明治30(1897)60歳ごろになると一変した。

富裕者として築地の邸宅も豪勢になり、明治33(1900)に神奈川県茅ケ崎に狐松庵(土地6000)別荘をつくり、更に日本銀行に5万円に及ぶ預金を持つ身分になった。

では、どういう経緯で、九代目は現状から脱皮し得たのか。そこには鉄舟からの影響があったはず。その経緯は20236月例会で報告いたします。

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