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例会の報告

2024年5月24日 (金)

2024年5月例会開催結果

山岡鉄舟研究会2024515()例会は森真沙子先生からご発表いただきました。

 森先生は今月『大川橋物語 「名倉堂」一色鞍之介』(二見書房)を出版されました。

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 例会で、この物語の時代背景について解説されました。

  • 大川(隅田川)に最初の橋が架かったのは文禄3(1594)の「千住大橋」。慶長8(1603)徳川家康の江戸幕府開府より9年前。
  •  
  • 隅田川には江戸時代までに「千住大橋」「両国橋」「新大橋」「永代橋」に続いて「大川橋(吾妻橋)」が安永3(1774)に民間の手で架けられ、明治初年に「吾妻橋」と名を変えた。
  •  
  • 小説の舞台は十一代将軍・家斉の大御所時代の化成期。寛政改革から天保改革まで、五十年に亘る長期政権と、四十数人の側室と、五十三人の子沢山で有名。その贅沢三昧で、国家財政は破綻寸前となる。天保期に入ると全国的な大飢饉、大塩平八郎の乱、外国船モリソン号事件等々、家斉は悪名高い将軍だったが、その”自由すぎる”治世下で、町民文化は最盛期を迎えた。
  •  
  • そんな化政期に花開き、大流行したもうひとつのもの。それが「骨つぎ名倉」である。戦のない時代になって、逆に注目されたのは、殺すよりも生かす道の、救急処置法だった。そんな“再生”の道にいち早く着目したのが、鎌倉武士「畠山重忠」の末裔、名倉直賢(1750~1828)である。
  •  
  • 柔術から「殺法」を切り離して、「活法」のみを体系付けたのが『名倉流正骨術』で、千住の地に開いた『骨つぎ名倉堂』は、日本で最初の接骨院となる。さらに直賢は、“医は仁術なり” の日本古来の伝統を受け継ぎ、人助けを家訓として、鳶の者、芸人、相撲取、役者・・・からお代を取らなかった。そんな剛直な姿勢が評判となり、骨つぎ名倉は一代にして江戸で名声を馳せることになる。”名倉”の名は、打身や骨折の代名詞にまでなり、“どぶ板で名倉(なぐら)れましたと駕籠でくる” と川柳にも詠まれた。
  • 文政から天保のころには、『とっちりとん』という俗謡が大流行し、お座敷でよく唄われ、昭和の時代にまで唄いつがれたという。

   〽️夏の夕立それ稲妻が そりゃこそがらがらぴっしゃりと

           お臍めがけて光りやす 雲の隙間を踏み抜いて

           屋根や木の枝きらいなく そこらあたりへ落っこちて

          腰の骨をばぶん抜いて 

         大坂町の名倉で ちょっとなおった

ここで登場したのが令和の歌姫「潮見佳世乃」さん。当時を彷彿させる語り声音に「さすが!!」。会場から声かかる。

  • 『大川橋物語』は、主人公・一色鞍之介の“神の手”が登場し、颯爽と問題を解決していく。第一話から第五話までお楽しみください。

 

 小説の背景を作者から直接に伺えるという機会はなかなかなく、今回はその貴重な体験例会でした。

 森先生の愛読者も例会にご出席いただき、充実した例会でした。

 森先生、潮見さん、それと巧みなPP演出の井田さんに感謝申し上げます。

  最後になりましたが、森先生から新著を出席者に贈呈いただき、重ねて御礼申し上げます。

2024年4月26日 (金)

2024年4月20日(土)は羽村市の禅林寺にて例会を開催

 2024年420()は羽村市の禅林寺にて例会を開催いたしました。

  • 青梅線の羽村駅に1330分集合、禅林寺の岡崎啓純住職のお出迎えを受け、最初に禅林寺境内の高台に位置する『大菩薩峠』の作者中里介山居士の墓へ参りました。

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   (中里介山墓)                              (羽村取水堰)

  • 次に向かったのは「羽村取水堰」。玉川上水の出発点で、承応2(1653)年に羽村から新宿四谷大木戸まで開削された。洪水などの時には、投渡木といわれる材木を横に渡したものを取り払い、堰が流されないよう工夫されています。

 

  • 「羽村取水堰」から禅林寺に戻り、寺内が書道博物館になったかと思うほど壁一面に、鉄舟、海舟、泥舟、西郷隆盛などの書が展示されている中で、ご住職から詳しい解説をいただきました。

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      (ご住職の解説)                             (全員で記念撮影)

  • 講堂において、ご住職から「鉄舟が行じた禅とは何か」、「禅とは今ここ」「世界で通用するZEN」「武士と禅」「茶と禅」「俳句と禅」等についてご法話をいただき、鉄舟書「国泰寺復興千双屏風」(明治14年・1881)をバックに参加者全員で記念撮影いたしました。

 

  • 充実した例会で、参加者から以下のコメントが寄せられておりますので、ご紹介いたします。

 

  • 「土曜日は大変素晴らしい1日を過ごさせていただきました。午前中はじっくり郷土博物館を見学。取水堰のあんな間近に行けるとは思いもよらず、立川市の玉川上水のほとりに知り合いがおり、そこへ行く時にいい散歩道だなぁぐらいに思っておりました玉川上水の、まさに始まりを見ることができたのは興味深いものでした。

   また豪華な書の数々を惜しげもなく拝見させてくださり、しかも写真まで撮らせて頂いて、重ねてお礼申し上げます。同じテーマ、例え

   ば髑髏や達磨でも書き手によって味わいが変わるのをゆっくり観察できて面白かったです。

   終戦直後、日本の孤児たちを助けたお坊さまの書も人格が滲み出ている気がしました。鉄舟先生の書の迫力に圧倒されましたが、お坊さ

   ま方々の書も私は好きです。孤児を助けたお坊さまのご本は取り寄せて読みたいと思います。

   今、思い出しても本当に贅沢な時間を頂戴いたしました。心から感謝申し上げます。この機会がなければ羽村に伺うこともなかったし、

   羽村から玉川上水が始まったこと、それも江戸初期に大工事をしたことも知らないままでした。

   素晴らしい書の数々も拝見することはなかったですし、鉄舟先生が色々な復興支援のために大量に書を書かれたことも知らずじまいにな

   るところでした。本当にありがとうございました」

 

  • 「土曜日は、先ず現代の我々までお世話になっている歴史的な羽村取水堰の見学をしました。それから、由緒ある禅林寺を訪問、参詣させていただきました。

   まことにありがたい深いお話、禅と武士、茶、俳句までいかに禅が影響を与え、禅が精神的土台になっているかのお話、知らなかったお

   話を詳細に教えていただきました。

   また、本堂の大きな三舟の書から西郷の書まであり、圧倒されました。まるで美術館のようでした。全く書はわかりませんが、それぞれ

   書跡がちがって、臨場感があり、目を見張りました。読めないのがもどかしいでしたが・・・。

   まさに禅が日本文化の真髄にあると感じいり、とても楽しい一日でした」

 

   このような例会が開催できましたこと、すべて禅林寺・岡崎啓純住職のおかげです。改めまして、ありがたく心から感謝申し上げます。

 

2024年4月 1日 (月)

2024年3月例会開催結果 「鴎外と脚気――その事実と責任の取り方」

2024年3月27日()例会は、山崎一穎(かずひで)氏から「鴎外と脚気――その事実と責任の取り方」についてご発表いただきました。

山崎一穎氏は跡見学園女子大学名誉教授、森鷗外記念館(津和野)館長。

森鷗外は文久21(1862)- 大正11(1922)7月)。明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医、官僚。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。石見国(島根県)津和野出身。

 (講演要旨「鴎外と脚気・・・その事実」

 日清・日露戦争で陸軍は多くの脚気病死者を出した。海軍は高木兼寛指導のもとで、白米と麦の混食、あるいはパン食(兵には評判が悪かった。日本人は白米を好んだ)に切りかえ、脚気病死者をごくわずかな人数まで減数した。 

 海軍の高木兼寛は鹿児島医学校(私学)で、イギリス人の医師ウィリスに学んだ。イギリス医学は臨床を重んじ、対症療法で患者に臨んだ。

 鴎外は東京大学(官学)で、ドイツ人医師ベルツに学んだ。ドイツ医学は病理学を重んじ、あらゆる病の基は細菌だと考える。脚気は脚気菌によると考えている。ローベルトコッホもこの考えに立っている。脚気菌を発見することが、脚気病を治すことになると考えている。この説は東京大学から陸軍上層部へと受け継がれている。石黒忠悳医務局長、小池正直、森鴎外、皆同じ細菌説に立ち、米と麦の混合で減数化に成功した海軍に対しては、学理的に原因、結果が不明であって、学問的でないと否定している。

 私学、官学の対立、薩摩の海軍と、長州の陸軍の対立、臨床と学理との対立等が脚気に対する解決を遅らせている。

 日清・日露戦争時、鴎外は第二軍の軍医部長である。トップではないが、戦場の最終責任者である。鴎外の職務上の責任は逃れ難いと私(山崎)は考える。鴎外にも、その自覚はあったと思う。何故ならば、戦後明治40(1907)46歳、11月に軍医総監、陸軍省医務局長(陸軍中将相当官)に就任した。医務局のトップである。鴎外の上司は陸軍省の次官、陸軍大臣である。

「責任の取り方」

 鴎外は日露戦争における戦死者の60%が脚気病死であるという現実を踏まえて、脚気病調査会を立ち上げることを決意する。

 鴎外の調査会構想は、脚気の研究部門と予防部門である。研究領域は文部省管轄であることが省令で定まっている。予防の領域は内務省と決まっている。タテ割り行政をやめてオールジャパンの組織を作ることを考えていた。しかし、単純にはいかないことも十分承知していた。省庁の特権を冒すことになるので、陸軍省と文部省、内務省、海軍省とも対立することなることは眼に見えている。 

 そのために鴎外は人事異動で第5師団(広島)の軍医部長大西亀次郎を本省の衛生課長に抜擢した。日清戦争時(189495)、広島に脚気病患者のみ入院させる専門病院を設置した。その時の病院長である。

 鴎外は現場を知る大西を脚気病調査会の事務局長として文部省等の役所との対応にあたらせるために鴎外直属の衛生課長とした。

 鴎外は調査会設立を次官を飛ばして(問題はあるが、ここで反対されれば大臣まで上申できないので)直接寺内正毅陸軍大臣に自己の素案を上申して設置の許可を取った。

 鴎外の原案を大西を通じて法制局長官岡野敬次郎と協議する。

 明治41(1908)425日付、岡野敬次郎名の脚気病調査会設立までの、経緯を記録した公文書が残されている。

 文部省、内務省は正面から反対論を述べる。海軍は脚気は解決済みであるので、陸軍がやるのは勝手だが、海軍を巻き込まないでくれという。

 鴎外は東大教授で医科大学学長の青山胤通と、伝染病研究所長の北里柴三郎に調査会が出来たら顧問格で入ってほしいと、根回しして承諾を取っている。

 最終段階で文部大臣の牧野伸顕が承諾の印を押さない。鴎外は強引に進める。「脚気病調査会」に「臨時」を付け、陸軍省も一歩引く。さらに調査会は陸軍大臣の監督下あることを明示した。陸軍省が責任を持つからという意で、何か起きれば、財政上の問題を含めて陸軍が責任を負うことで納得させた。

 牧野文部大臣の印のないものを明治天皇に上奏して、天皇の裁可を取った。陸軍の兵員の減少を防ぐことを強調した結果である。

 鴎外の発議で臨時脚気病調査会は発足する。会のメンバーは学閥を超えて、オールジャパンの布陣を引いた。

 第1回調査会で寺内陸相は、自分が脚気であったこと、麦飯で回復したことを述べる。かつて戦場で部下に麦飯を出したところ、石黒忠悳医務局長に叱られたことを述べ、ここにいる森局長(鴎外)も石黒と一緒に私を詰問した一人であると、言い添えた。

 鴎外と寺内の関係は良い。この間、鴎外は文部、内務の役人から嫌われている。寺内が森を批判することで、鴎外の強引さに不満があった役人も少しは溜飲が下がったのではないかと私(山崎)は感じている。別の言葉でいえばガス抜きである。

 ビタミンの発見の歴史を見ると、バタビア(ジャカルタ)の病理研究所長Ⅽ・エイクマン(オランダ人)が、1896(明治29)白米で飼育した鶏が脚気のような症状を呈し、米糠を加えることで症状が改善することを発見した。これがビタミン発見の第一歩である。

 鴎外を会長とする臨時脚気病調査会もバタビアへ3名の医師を調査に行かせたが、成果はなかった。帰国後、都築甚之助二等軍医・習志野の陸軍病院長が細菌説を疑い、明治43(1910)動物実験で米糠が予防と治療に役立つことを発表する。

 明治43(1910)、鈴木梅太郎が米糠からオリザニンを抽出。これがビタミンと同じである。翌年、ポーランドの医師フンクが、米糠が鳥類白米病に有効な物質を抽出し、これを生命vitaに必要な物質アミンamineという意味でビタミンvitamineと名付けた。

 鴎外は大正54月陸軍省を退任する。それまで会長を務め、以後も調査会の委員として大正117月死去するまで、委員会にはすべて出席している。これも責任の一端である。

 第3回委員会(明治418)に鴎外はドイツ医学会総会で発表された脚気に関する論文を翻訳して委員全員に配布している。細菌は未だに発見されない。日露戦争の状況を見ると、栄養と関係が深いと会長代理のノホト教授が発表。続いての発表者も栄養説である。遂にドイツ医学会も脚気に関しては細菌説に疑問を呈し始めている。

 高木兼寛も森鴎外も栄養学の成立しない時代の人であった。高木は大正10年、鴎外は11年に死去する。この時点で二人とも脚気はビタミンBの欠乏であることを知ることになった。鈴木梅太郎がオリザニンからビタミンBを抽出し、それが欠乏すると脚気になることを発見する。大正12年である。

「まとめ」

 鴎外の責任の取り方は、脚気病調査会を設立し、委員を学閥を廃して選出した。第3回委員会でのドイツ医学会の状況〔脚気栄養説〕を翻訳資料として配布する公平さ。(恐らく鴎外はこの時点で脚気病は栄養欠乏によるものであると認識したと思われる) そして死去するまですべての調査会の会議に出席し、その情報によってビタミンBの欠乏まで理解したという点にある。脚気病調査会を強引に設置したため、後日、文科省のしっぺ返しにあっている。それを覚悟で鴎外は調査会設置に努力した。これ以外、鴎外にとって責任の取り様はなかったと思う。
                                                                                                                        以上

 (追記)

大正8(1919)4月、東京帝国大学教授の島薗順次郎が日本医学会総会で、脚気が白米食によるビタミン欠乏であることを容認する報告をした。

東京帝国大学が大正8(1919)脚気病細菌説からビタミン欠乏説への転換の年として記憶されるべきことである。

 

以上のご講演要旨のように、詳細なるご発表を賜った山崎一穎氏に深く感謝申し上げます。

2024年2月26日 (月)

2024年2月例会開催結果

2024年221()例会は、北村豊洋氏から

『――山岡鉄舟から学ぶ――

             超高齢化社会を生きる』

  について、ご発表いただきました。

北村氏が山岡鉄舟研究会に入会したのは60歳、以後15年。鉄舟という人間の素晴らしさにふれ、例会に参加されている。

人から「75歳になったのに、なぜそんなに元気で前向きで忙しいのか」と言われる。それへの回答も含め、故郷である高山・飛騨史と文化、現在までの自分史を紹介することでご発表をすすめられた。

ご出身地は、日本一の面積を誇る高山市。

その高山の飛騨古代史を辿ると、まず飛騨工制度という飛騨国1国のみに対して特別に定められた制度があった。飛鳥時代、奈良時代、平安時代と約400年間、当時の税である庸・調を免除する代わりに、年間100人もが一年交代で都に行き、建築に従事した。この飛騨匠は古代以降、名工の代名詞として文学作品等に多く描かれている。

その後、安土桃山時代の天正14(1586)から江戸時代の元禄5(1692)までは、金森氏時代が6107年続いた。

金森氏の後は、幕府天領として慶応4(1868)までの176年間、高山陣屋での25代の代官・郡代が続いた。21代は鉄舟の父親である小野高福である。

大原彦四郎、亀五郎親子の郡代時代に大原騒動(17711788)が起き18年間に及んだが、農民が老中・松平定信に駕籠訴、郡代が処罰され、農民の勝利となって、以後、郡代の提案・命令は、郡中の農民集会にかけて決定するという、他藩にはあり得ない政治が行われ、今につながる「飛騨人気質」が形成された。 

北村氏の家系は公務員。北村氏だけが民間企業勤務。新市場開拓などを担当し、自宅の我孫子市と高山を50年間行き来する参勤交代を続けていながら、「我孫子まちづくり協議会」の役員、さまざまな文化活動企画立案運営と関連団体との連携活動を担っており、スポーツはテニスとジムへ毎日通い、70歳で郵便局アルバイトも実行。

現在は、男性4人で『古希ダンサーズ』結成、ヒップホップ20分で5曲踊る。体力的には大変だが、間違えても「引きつり笑顔」で観客の心をとらえ、スタンディングオペレーション「ブラボー! ブラボー! アンコール!本当に古希なの?」の声援受ける。

北村氏は最後に「超高齢化社会を生きる」ための提言を述べる。

  • 地域の共同体に参画し「独りよがり」無くす
  • 第二の芸術に取り組む。この実例が前述の『古希ダンサーズ』

日々の過ごし方と、練習の継続で、未知の「のびしろ」が広がり、広がると楽しくなり、継続・努力すると自分のブランド芸術になる。

皆さんに「楽しいのびしろ」を探すことをお勧めしい、と。

 

このような北村氏のご発表、これは鉄舟の教えを実行しているのだと納得しました。

鉄舟は「ああしろ・こうしろ」というような教育・指示はしない。自分の中に「何があるのか」を自分で見つけ、それを鍛え、伸ばしたものを自ら発揮させていく。このような指導である。

これは今まで鉄舟の影響を受けた偉人達、例えば「明治天皇」「清水次郎長」「九代目市川団十郎」「三遊亭円朝」「天田愚庵」等の生き方をつぶさに研究してみてわかったこと。

これらの人物は自らの行動によって、自らの中にある「何か」を探し、鍛え、それで世に問う「生き方」を実行している。

北村氏の生き方は正に鉄舟の教えに基づいている。

鉄舟を学ぶということは、自らの内部に存在する「自らの財産」を探す旅をするという意味に通じる。

今回の北村氏のご発表をお聞きし、このように感じた次第です。

2024年1月30日 (火)

2024年1月例会開催結果「剪画(せんが)とは?」

2024年119日は岡崎妙春氏から「剪画(せんが)とは?」についてご発表いただきました。

  • 剪画とは、黒い紙(黒和紙が望ましい)をナイフで切り抜き、台紙に貼って完成させる絵画
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  • 石田良介現会長が1981年に「創切会」を設立。1984年に剪画を芸術の一分野として確立させるために、「日本剪画協会」と名称を改め再編成、現在に至っている。
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  • 岡崎氏は剪画協会理事。
  •  
  • 岡崎氏は「剪画協会と山岡鉄舟研究会は雰囲気が似ている。どちらも他人に干渉しない」と述べられ、ご自身の作品を紹介された。
  • 1_20240130114001 2_20240130114101

               (羽 音)                                            (母の愛唱歌)

  • 山本紀久雄が『月刊武道』(日本武道館)に掲載した「山岡鉄舟の人間力」で、鉄舟が三島の龍澤寺まで歩いたと記したことについて、これに疑問をもち、何事にも「現場確認」の重要性が大事と、1123日龍澤寺の一般公開日に現地訪問した行程報告がなされた。

 岡崎氏の作品紹介を含め、谷島茂則事務局長からも補足解説いただき、有意義な例会を開催できましたこと、お二人に感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

             

 

      

2023年12月27日 (水)

「江戸開城談判」の捏造(「海舟神話」)

令和51122日、1220日例会発表 水野靖夫氏

Ⅰ 「海舟神話」

1)吉本襄の『氷川清話』(序言)――第一の捏造

中心テーマ「江戸開城談判」の捏造であるが、これは「江戸無血開城」が西郷・勝の江戸での談判で実現したというのは捏造という意味である。これを「海舟神話」と呼ぶことにする。すなわち「海舟神話」とは「江戸開城談判」がフィクションであり、捏造であるという意味である。

 我々の研究成果は、 

  ①『江戸無血開城、通説を覆す』(山本紀久雄 ベストブック)

  ②『定説の検証 「江戸無血開城」の真実』(水野靖夫 ブイツーソリューション)

2書に込められている。

①は、吉本襄の『氷川清話』(「序言」)が捏造であることに気付き、「壁画」(江戸開城談判)の刀の位置を改変し、画題を「談判」と命名した理由を突き止めた点が画期的である。

そして②は、それでは歴史の「真実」はどうだったのかを、史料を駆使し徹底的に分析した。

 「海舟神話」の元凶は2つある。先ず、第一の元凶である吉本襄の『氷川清話』の「序言」について述べる。

 吉本襄の『氷川清話』は明治30年(1987年)に出版。相次いで続・続々・合冊が出版されて売れ続け、海舟の談話といえば『氷川清話』と言われるようになった。だが、吉本襄が直接勝から聞いた話はごく僅かで、大部分は他人の筆記録(新聞・雑誌)を面白くするため改竄・リライトした。そしてその「序言」には、勝海舟の一生が記載されているが、その「江戸無血開城」の箇所が「海舟神話」すなわち捏造なのである。だが一般には史実と受け止められ、「尋常小学校修身書」の解説書にまで載るようになった。

 吉本襄の「海舟神話」(序言)捏造の内容は次の通り。

① 慶喜が勝に対処策を講ずることを命じた。

② 勝が、山岡鉄舟を西郷のもとに派遣した。

③ 勝は西郷と面会し、慶喜の謹慎を陳述し、江戸攻撃中止の折衝に尽力した。

④ 西郷は勝の要求を容れ、江戸総攻撃を中止し、状況を大総督に言上した。

⑤ これは勝の「絶倫の大手腕」である。

上記の捏造に対する真実の歴史は以下の通り。

① 慶喜が後事を託したのは勝ではない。実際に取り仕切ったのは大久保一翁ら若年寄のグループ

② 鉄舟を派遣したのは慶喜であり、「本文」にも勝と鉄舟はこの時が初対面と書いてある。

③ この部分は後述の「(3)3会談――歴史の真実」で詳述する。

④ 西郷は、勝の要求は保留。「15日の江戸総攻撃」を「延期」したのであり、「江戸総攻撃自体」を「中止」した訳ではない。しかも延期の命令は「仮令」。

⑤ 「絶倫の大手腕」と言うが、降伏条件緩和の「嘆願」は、重要条件は悉く拒否されている。それでも徳川方は黙って呑んでおり、「大手腕」などと言えない。 

 松浦玲氏は、吉本襄の『氷川清話』の信憑性を鋭く指摘し(1973年 講談社判『勝海舟全集』「氷川清話』)、改竄や収録洩れを是正したが、日清戦争・伊藤博文内閣批判等時事性に注力し、残念ながら肝腎の「江戸無血開城」に関する「序言」の創作を見抜けなかった。松浦氏も駿府談判での決着を認めず、「海舟神話」の信奉者であった。そのため、『氷川清話』出版から120年以上たった今日まで、一般に「海舟神話」が史実として信じられ続け、未だに多くの教科書にまで載っている。松浦氏の講談社判『氷川清話』が出版されて以後も、その「序言」が捏造であることに気付かない学界とは何なのだろうか。

 

2)結城素明の「壁画」(江戸開城談判)――第二の捏造

 「海舟神話」の第二の元凶は、これを大いに流布せしめた、結城素明が描いた聖徳記念絵画館の「壁画」(「江戸開城談判」)である。ポイントは画題の「談判」と勝の「刀の位置」改変である。

「壁画」の制作は、「正面より描写するより側面から描写する方が真実を現わす」として「下絵」「画題考証図」「壁画」と、当初より江戸城明渡し場面ではなく、江戸薩摩藩邸での西郷・勝の会談が描かれた。しかも画題を「嘆願」ではなく「談判」とした。それは制作関係者が皆「海舟神話」の信奉者であったからである。結城素明は、本名・貞松も、号・素明も勝が命名。さらに壁画の寄贈者が西郷・勝それぞれの孫であり、そういうことを忖度もし、西郷・勝の会談を、「嘆願」ではなく「談判」にしたかった。

 さらに勝の刀の位置を左脇に改変した。武士の作法によれば刀は右脇に置く。武術の心得のある人、武士の作法を知る人なら、刀の位置の不自然さに気付くはず。「下絵」「画題考証図」では右脇であったが、結城素明は「談判」であると強調するため、原案「画題考証図」の勝の刀の位置を、武士の作法に反して右脇から左脇に改変した。ほとんどの教科書に「壁画」「海舟神話」が記載され「壁画」を見たことのない人はいない。

 刀は、三種の神器草薙剣に象徴されるように、日本人にとっては単なる武器ではなく、神聖なものである。この点に疑問を抱き、究明した学者がいないと言うのは驚きという他ない。

 

3)3会談――歴史の真実

 「3会談」とは「江戸無血開城」決定に至る3つの会談のことである。

① 駿府談判

 「江戸無血開城」は新政府軍参謀の西郷隆盛と徳川慶喜により駿府に派遣された山岡鉄舟との談判により決定した。慶喜の謹慎を縷々説明した鉄舟に、西郷は降伏条件を示した。鉄舟はその内の1か条「慶喜の備前お預け」だけは受け入れられないと拒否。新政府軍は慶喜追討軍であるから、慶喜の首を取るか、せめて身柄確保するのが朝命である。西郷は2度まで朝命であると主張し談判となった。鉄舟が「それでは立場が逆だったとしたら、主君島津公を差し出せるか」と迫ると、西郷は返答に窮し、「徳川慶喜殿ノ事ニ於テハ、吉之助屹ト引受ケ取計フベシ。先生必ズ心痛スル事ナカレ」と言ったので、鉄舟は他の条件「城・軍艦・武器の引渡し(武装解除)」等を呑み、ここに「江戸無血開城」は実質決定した。

 まずこの西郷の言葉は、「慶喜の備前お預け」の撤回であり、これを保留したのではない。また参謀の西郷には朝命を勝手に撤回する権限などないから、これは実質決定であり、正式決定は京都朝議である。

② 京都朝議

 西郷は、鉄舟にしかるべき肩書がないので、江戸でしかるべき地位の誰かに「確認」し(大久保一翁でも、勝海舟でも他の若年寄でもよかった)、朝命撤回の正式決定を得るため京都に帰った。西郷は当初駿府の大総督府に帰ったが、大総督も自分には権限がないとして西郷を京都に帰らせた。京都では慶喜の助命に対し強硬論があり、西郷は困窮したが、木戸孝允の側面支援によりやっと助命が叶った。西郷は鉄舟との約束を果たし、ここに「江戸無血開城」は正式に決定した。なお他の重要条件(武装解除)は否決された。

③ 江戸嘆願

 西郷は「京都朝議」の前に、江戸でしかるべき肩書の勝海舟(陸軍総裁)に会い、鉄舟との約束を「確認」した。駿府で「保留」し江戸で決定したのではないので、「江戸確認」という表現は使わない。その時勝は降伏条件緩和の嘆願書を提出したので、「江戸嘆願」という表現を使う(「海舟日記」〔諸有司之嘆願書を渡す〕)。しかしそこで嘆願内容についての「談判」はなかった。重要なのは、江戸で「談判」がなされたという史料は存在せず、逆に「談判」はなかった、江戸では何も決まらなかったと言う史料は存在する。

  (ア)「海舟日記」…「我壱人今日是等を決する不能」(西郷の発言)

  (イ)『氷川清話』…「拙者の一存にも計らい難い」(西郷の発言)

  (ウ)目賀田種太郎の「談話筆記」『明治神宮叢書』第18巻)…「薩摩邸会見ノ時ハ……素ヨリ開城条件ハ已ニ予知シ居ルコトナレバ夫等ノ

           談判ハナク」(勝自身の発言)

 以上で重要なことは、「江戸無血開城」は、駿府で実質決定、京都で正式決定し、江戸では何も決まらなかったことである。某教科書会社は「山岡が静岡会談で保留にしてきた慶喜の処遇を西郷と山岡と31314日に決めたのは、勝である」という文を根拠に、「江戸無血開城」は江戸で決定したと主張した。こうした誤った解釈がなされる惧れのある「保留」「慶喜の処遇」と言った曖昧な表現は避けた方がよい。

Ⅱ 教科書会社への働きかけと文科省の対応

1)教科書会社への働きかけ

 2018東京都江戸博の勝海舟常設展示に抗議するため、東京都・生活文化局・総務部・総務課長に面会したが、その結果江戸博より教科書に「海舟神話」が載っている(山川・実教・東京・明成・清水・第一)という文書回答(副館長・学芸員)が来た。これにより教科書が修正されないと、全てが変わらない、逆に教科書が修正されれば全てが変わると認識するようになった。これが教科書会社へのアプローチの最大の動機である。

 そして2021年に前記の2著を出版し、翌2022. 11.30文科省・初等中等教育局・教科書課・教科書企画官を訪ねることになったのである。ここは教科書検定をする部署なので、ここから教科書会社に指示を出してもらえばよいと考えた。ところが、教科書の修正は直接教科書会社に依頼するようにと言われたため、教科書会社への働きかけが始まった。

 中学・高校の日本史の教科書を発行しているのは12社であることが分かった。各社の教科書の「江戸無血開城」に関する記載状況を調べてみると、2社が無血開城の記載がなく、10社に何らかの記載があった。

 さらに教科書検定制度を調べると、教科書作成・検定・販売・使用開始と4年間かかることが分かった。つまり文科省の検定は4年に1度である。そして今年令和5年度は、中学日本史の第2年目の「検定」の年に当たっている(高校は1年後)。今年度検定に修正が間に合わないと次回検定が令和9年度、教科書使用開始が令和11年度となってしまい、それまでの間捏造された歴史が教えられることになってしまう。

 そしてここから1年間に渡る長い教科書会社との交渉が始まった。教科会社に電話し面会を求めたが、全て断られた。そこで我々の2書を送付し、教科書の記載の誤りを指摘し、削除・修正の検討を依頼した。その後何度も電話し、送った2書が大部で中々読み通すのに苦労すると考え、2書のポイントを3頁ほどにまとめたものを送り、修正の検討を促した。

 1月のWebサイトへの質問から始まり、10カ月ほど電話・手紙攻勢を続けた結果、我々の熱意が伝わったためか、送った資料「海舟神話」ポイントの主旨が理解されたためか、10月までに合計4社から、教科書修正の回答があった。ただ文部科学省の規則で、出版前に内容を明らかには出来ないため、いつ、どのように修正されるかは明らかにできないとのことであった。現状、12社中2社は当初から「海舟神話」の記載がなく、4社は我々の主張に納得し、いずれ何らかの形で修正を確約。残り6社が今後検討するという状況である。

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2)文科省の対応

12月15日に、山本会長と水野が文科省初等中等教育局を1年振りに訪問。教科書会社の対応の結果を報告すると共に、文科省の対応を聞いた。そのポイントは以下の通り。

①教科書検定は4年以1度だが、4年後の次回検定まで待たなくとも、来年度に改めて修正願いを出すことは可能。

②教科書の記載は原則教科書会社が決めるものであるから、それなりに筋道だっていれば、教科書会社によって記載内容が異なっていても、必ずしも文科省が一方を否定するものではない。その意味では文科省は飽くまで受け身である。

③15~20分のアポであったが、40分も我々の話を聞いてくれて好意的であり、教科書会社からの修正要求を受け入れる素地はできたと考えられる。

〔40分の間に以下のような話題が話し合われた〕

○「論文を書いたらどうか」という提案があったので、「過去に何回か書いたが(『日本歴史』)、学会が天動説のためか、採用されなかった」と答えた。

○桶狭間の戦いが奇襲攻撃というのはフィクションという説があるが、奇襲攻撃と書いてある教科書もある。

2000年に遺跡発掘の捏造が発覚した際は教科書が急遽修正されたのではないかと、「海舟神話」が同じ捏造であることを示唆した。

○「江戸城受取」の絵を示して、「壁画」と差し替えれば修正が容易であることを説明した。

 

2023年12月24日 (日)

刀剣思想

山本紀久雄が『江戸開城談判』壁画を描いた画家・結城素明の刀剣思想について20231220日に発表いたしました。

聖徳記念絵画館の壁画「江戸開城談判」を描いた「結城素明」は、刀の取り扱い作法を無視し、右脇から左脇に刀を配置し描いている。

これは、刀剣思想について理解していないのではないかという疑問から、日本における刀剣思想について以下のように解説した。

剣とは両刃(りょうば)、諸刃(もろは)、つまり両サイドに刃がついたものである。刀とはそれを縦に割ったような形の片刃(かたは)のものをいう。

この区別は、既に日本に刀剣が伝来する前の古代中国においてなされていた。使われはじめたのは剣の方が先である。

古代中国の春秋時代にあたる紀元前6世紀から前4世紀頃の呉越(ごえつ)地方が、刀剣の歴史と思想の起点と考えてよい。

参考とするのは『刀剣の歴史と思想』(酒井利信著 日本武道館刊 2011)である。

この当時の日本列島は、中国大陸の文明とは格段の差があり、大陸から押し寄せた金属文明の代表格であった刀剣が、すぐには日常的な道具とはならず、人々は刀剣に非日常的な神性を感じ、神々との交信の具としてこれを崇(あが)めた。

特に呪術(じゅじゅつ)宗教観念が支配的であった古代の日本では、剣が呪具として重用された。つまり、剣は「神を祀る呪具」であり、日本人は剣を神聖視し、剣を神々との関係において語る「神話」を生み出した。

その事例として、簡単に天皇家に伝わる天孫降臨神話を述べた。

天上界の統治者である天照大神は下界をも自らの子孫に納めさせようと考えるが、下界である葦原中国(あしはらのなかつくに)がひどく騒がしく不安定なので、これを武神タケミカヅチに平定させた。

この平定を受けて、天照大神の子孫、天津彦彦火(あまつひこひこほの)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が下界を治めるべく降臨する際に八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三つの宝=「三種の神器」を与えたというのが天孫降臨神話。

これを歴代天皇が皇位の標識として伝えてきたという実態から考えると、剣は「神を祀る呪具」であり、剣は「祀られる存在」でもあったことがわかる。

草薙剣といった古代の剣が、熱田や石上、鹿島といった古代神話に由来する神道の社で、神の象徴として祀られている。または安置されているという現実がそれであり、「祀る呪具」も、「祀られる剣」も、いずれも神との関係を確立するものである。

江戸時代を代表する武士道書である井沢蟠竜(いざわばんりょう)の『武士訓』に以下の記述がある。

≪霊剣は決断を表し給ふ。至剛無欲にかたどりて。内に私欲奸佞(かんねい)の心敵を滅し。外に邪悪暴逆の賊徒を誅し

この意は、剣を、自らの内にある私欲やよこしまな心、あるいはおもねる心などを心の敵として滅ぼし、一方、身の外にある邪悪暴虐の賊徒をも誅するものとしている。斬るべき敵は自らの内外に二つあり、まさしく「我も斬り彼も斬る剣」であると。

徳川将軍の剣術師範を務めた柳生家、新陰流は「活人剣思考」というものを提唱した。それは次のようなものである。

万人を苦しめている悪人がいるとする。この悪人一人を斬る兵法は、結果として万人を活かすことになるというものであり、世のため、人のために剣の技術を行使するという柳生流の考えで、それが柳生家の『兵法家伝書』である。

≪人をころす刀、却而(かえつて)人をいかすつるぎ也

人を殺す刀が人を活かす剣に繋がるという、柳生が主張するところの理念を端的に表現した文言である。これを「殺人刀(せつにんとう)」「活人剣(かつにんけん)」という表現で使い分けている。見事なものである。

このように刀剣の思想を検討してみると、この思想に一貫していえる大前提は、刀剣を単なる武器としてではなく、神聖なものとしてみているということである。

単なる「人斬り包丁」ではない、はるかに武器それ以上の神聖なるものとして刀剣をみているのである。

そして剣は、神話の中で、天上と地上、つまり、神々の世界と人間の世界を行き来し、この二つの世界を繋ぐものとして描かれる。

このイメージは日本人の精神世界において、古今、深く根付いており、だからこそ剣は神々と関係をもつものとして認識されている。

天と地の二つの世界が精神的にはっきりと区別される中、剣だけは神話上、この二つの世界を繋ぐことができた。このことが、剣の神聖性の根拠づけられる方として最大の特徴である。

だが、結城素明は、この刀剣の思想を知らずして「壁画」を描いたのではないかと推測する。又は知っているが無視したのかもしれない。

いずれにしても「壁画」の刀配置構図は刀剣の思想から言って無理があり「人斬り包丁」に止まっている。

このような刀剣思想を知らない現代人が、今日も聖徳絵画館で「江戸開城談判壁画」を眺めている。我々は「刀剣思想」からこの壁画を見ていきたいと思う。

2023年11月 1日 (水)

2023年10月例会報告

2023年1018日は、日本武道学会会長の大保木輝雄先生から「武道の歴史から考察する鉄舟の剣道理念について」についてご講演をいただきました。

山岡鉄舟(小野鉄太郎)(1836-1888)は塚原卜伝の縁者である母親と小野派一刀流宗家と縁の深い父親に育てられ、自分は剣の家に生まれたという自覚が強かったようです。飛騨郡代として父親が巡見視として各地を巡回した折に鉄太郎も同道し「上泉秀吉」と名乗って旅をしたとの記録があります。上泉秀綱(1508-77?)にあやかっての変名のようです。鉄太郎は9歳で新陰流に入門し15歳で初伝が授けられ、当然上泉のことを知っていました。またこの年、父親が招聘した北辰一刀流の井上八郎(1816-1897)から「籠手、面、胴、突」といった打突部位を竹刀で撃ち合う「撃剣(現代剣道の起源)」を学びます。その後、江戸に戻った鉄太郎は撃剣に身を投じ様々な流儀に挑戦し、技量が認められ講武所の剣術世話役(1856年)となります。鉄舟が生きた19世紀は、幕末の動乱から近代化へと向かう時代でした。政情不安に伴う打毀しからの自衛のために撃剣は武士のみならず百姓・町人も実施し、各道場は人間交流の場ともなりました。そのような時代に生きた鉄舟は武士としての在り方を超えて日本人としての在り方を撃剣に求め「剣道」として提唱しました。

嘉納治五郎は「柔道」として日本人の在り方を提唱し、「自然体」という言葉を基調にすえ西洋的学問を介在させて説明しました。一方、鉄舟は武術から武芸へと転換させた17世紀に確立された一刀流の組太刀(型)に示された極意を撃剣体験を踏まえ自らが会得した身心技法を通じて読み取り、対面世界で展開される自己の心の変容過程を明らかにし祖師達の意志の把握に成功しました。相手に上手下手があるのではなくて、自分自身が上手下手をつくっているのだから「自己アレバ敵アリ、自己ナケレバ敵ナシ」という真理を会得することが大切だと述べています。

1543年の鉄砲の出現によって剣術の意義が大きく変わりました。先に見た上泉秀綱(信綱)は剣術の在り方を護身や戦闘での実用的技術に武将の軍配技術を重ね、武士たる者の矜持をしめす「帝王学」として剣術を位置づけたのです。それを画期として剣術は「人間学」としての展開をみます。お互いに剣を抜きあわせて対峙することは戦場での「生死の場」を再現することであり、其の「場」で生き抜く術(すべ)を組太刀(型)として示し、それを武士の芸事として位置づけました。「身をわする」ことで「私利私欲を離れ世の為人の為」に盡すという武士の本分を身に着けることが求められたのです。その体系化を図ったのが小野忠明(1569-1628)の一刀流と柳生宗矩(1571-1646)の新陰流でした。そして、それを支えたのが徳川家康(1542-1616)でした。戦国期の武士が築き上げた「すべてを御和算」にするという叡智は組太刀に反映されていましたが、戦闘体験者が世を去り世の中が平和な時代になるとその叡智を伝えることが難しくなりました。そこで登場したのが熊沢蕃山(1619-1691)、佚齋樗山(1659-1741)でした。剣術に「気」の思想を介在させ武芸論を展開し『天狗芸術論』などが出版されロングセラーとなりました。

生死の問題に気を介在させた思想は、その後、「内観の秘法」を公開した禅僧白隠(1685-1768)の『夜船閑話』とともに、19世紀の剣術家にも多大な影響を与えることになりました。白隠の「練丹の法」を採用する流派も現れ、「気」は身体性に密着した実感的なもの(身体内部感覚)として詳細に記述されるようになっていくのです。また、剣術では防具着用で安全を担保し、勝負を決める撃剣が発達し、流儀を超えた交流が出来るようにもなりました。

そのような状況の中で、樗山の『猫の妙術』の愛読者だった鐵舟は、剣道修行によって変わっていく自分自身の心の変容過程を「黒猫・虎猫・灰毛の猫、老猫」に対応させ、以下四つの段階で示しています。第一段階では、千日間の稽古で「体(たい)-中心鎮静ニシテ私邪ナキヲ謂フ」が備わり、第二段階では「彼我呼吸ノ間ニ機会ヲ知ル」ようになり、これを敵を知るという。第三段階に進むと、構えただけで敵の巧拙がわかるようになり、これを敵と我を知るという。最終段階になると、敵のなすことが自分の心に響かなくなる、これを敵を忘るという。ここに至って初めて「無心」が成就すると述べています。「余ノ剣法ヤ、只管其技ヲコレ重ンズルニアラザルナリ、其心理ノ極致ニ悟入セン事ヲ欲スルニアルノミ」と言及し「心外無刀」を唱え、戦国末期に登場した一刀流に伝わる祖師達の身心技法を撃剣の世界に再現させ、今日の剣道へと橋渡しをしたのです。

鉄舟の剣は奥深く、今後も大保木先生にご登場いただきたくよろしくお願い申し上げます。

2023年10月 2日 (月)

2023年9月例会開催結果

2023年9月例会は927()に、河瀬眞人氏から「韮山代官江川英龍と練兵館斎藤弥九郎」についてご発表いただきました。

代官と剣客、一見縁が無さそうであるが、実は、韮山代官江川英龍と練兵館主斎藤弥九郎は岡田道場で相弟子となり、盟友として以下のように様々な事を成し遂げている。

  • 大塩平八郎の乱では英龍は弥九郎を現地に派遣し実情を探索させた。
  • 江戸時代後期の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。別称甲州騒動であるが、この際、英龍と弥九郎は共に刀剣商に扮し、飢饉の状況視察を行い救民救済に努めた。
  • 品川沖台場築造や大小砲鋳造の反射炉建設・洋式帆船ヘダ号の建造などは英龍の指示に基づき弥九郎が現場を仕切った。

二人は、ペリー来航の半世紀前に生まれ、外国の脅威の顕在化を感じながら成人し、当時の最先端知識人であった蘭学者の幡崎鼎(はたざき かなえ)、渡辺崋山や水戸の藤田幽谷、会澤正志斎等との交流で知りえた海外情報によって、日本と欧米諸國との圧倒的な格差を知り愕然とした。

特に清国で起きたアヘン戦争と、その結果の不平等な南京条約、これは英国に清国での利権を先取りされた露仏獨米西葡の植民地獲得争いに火をつける事となったが、これらに対する幕府・諸藩の実態について大きな危機感を抱いた。

そこで二人は、洋式砲術家高島秋帆に師事し、英龍は「韮山塾」を開講、弥九郎は練兵館で撃剣指導を行いつつ洋式銃陣等西洋兵学を学んだ。

この韮山塾と練兵館、儒教や漢学中心の昌平黌学問所とは異なる学問・武術の拠点となり、時代に対する志を持つ人材を世に多く送り出したと、河瀬氏は強調された。

江川家と河瀬氏は先祖から姻戚関係によって、深いご関係があることから、まだ多くの知見をお持ちですので、次回のご発表をご期待申し上げたいと思っております。

2023年7月25日 (火)

2023年7月例会開催結果

2023年7月例会は永冨明郎氏より「<佐久間象山>=「世界の中の日本」を示した男」について、明解なご発表をいただきました。

佐久間象山(文化81811 〜 元治元年7 1864)、松代藩士(側祐筆)の家に生れ、京都三条木屋町で襲撃受け落命(襲撃者は河上彦斎ら10名以上)。 

象山の業績は多岐にわたる。

          天保13年(1842) 列強の来航を予想した「海防八策」提言

          嘉永3年(1850)に真田藩邸(深川)内に砲術塾開く

          実際に洋式大砲を多く鋳造、各地で試射を実施

この他、幕末から明治維新にかけて大きな影響を残した。

勝海舟も日記にしめす。

「ああ、先生は蓋世の英雄、その説は正大、高明、世人の及ぶ所にあらず。この後、吾また誰にか談ぜむ。(殺されてしまったとは)国家のため痛憤胸間に満ち、(これまでの)策略はみな画餅(に帰してしまう)」と記している。(当時、勝海舟は神戸海軍操練場の立上げのため、神戸にいた)

 

事務局から明治天皇との関係で象山業績について加えたい。

ドナルド・キーン著『明治天皇・上(305)(新潮社2001年刊)は、以下のように記している。

 ≪幕末時代、佐久間象山が最初に唱えた東洋の道徳と西洋の科学の結合は、特に晩年の明治天皇の態度を特徴つけるものになった≫

この評価は、明治天皇の侍読であった元田永孚(ながざね)の教えに帰することができるのではないか。と注釈を加えているが、明治時代の天皇は、現在の天皇とは異なり、国家治世者であったわけで、象山の思想が明治天皇を通じて日本国家に影響していたということを改めて認識し、特筆すべき業績と考えたい。

 

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