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例会の報告

2023年1月30日 (月)

2023年1月例会開催結果

2023年1月25日は、東洋大学大学院博士後期課程在籍・明治維新史学会会員の小林哲也氏から

「江戸無血開城」を考える―『江戸無血開城の史料学』に寄せて―

についてご発表いただきました。

 小林氏は、まず幕末期、特に文久期(18611863)から遡って考えることで、諸問題を考えていくと述べられ、主なる12著者による先行研究書に触れた後、いくつかの新見解を解説されました。

  • 徳川慶喜が上表した、いわゆる「大政奉還」とは、「政権奉還/政権奉帰」と呼ぶべきではないかと次のように指摘された。

幕末当時は「大政」、あるいは「政権」、そして「奉還」あるいは「奉帰」が用いられていた。例会資料で紹介した「政権を朝廷ニ奉帰建白写」(松戸市戸定歴史館(他)編『没後100年徳川慶喜』展図録。原史料は松戸市戸定歴史館蔵2013年)では「奉帰」が用いられており、渋沢栄一編『徳川慶喜公伝』でも「政権奉還」と記されている。このように「大政奉還」は幕末当時の用語でなく、後世の造語と考える。

なお、山本が昨年1224()、明治神宮主催の聖徳記念絵画館セミナーで副館長から壁画について解説を受けた際、「大政奉還」 (作者 邨田丹陵) 壁画が、最も各方面から引用依頼が多いと述べておりましたこと付言いたします。

  • 坪井信良書簡(230日付)にみる江戸無血開城前の様子

坪井信良とは幕末・明治期の蘭方医で慶喜の侍医であるが、以下の書簡を遺している。(東京大学明治維新史料研究会・宮地正人編『幕末維新風雲通信』197812月)(岩下哲典氏よりご教示)

「○二月三日ニ鳳輦二条城エ御幸有之、同十五日ニ大坂御幸ト之事、是ハ征東之訳也。十六日陸軍勢揃、廿日海軍勢揃ニテ東下之筈。已ニ勅使ハ東海道筋ヲ下リ、昨今駿府逗留、三月五日ニハ江戸入之筈。其大意二十ヶ条之罪状ヲ詰問シ、五ヶ条之題難之由、・・・」

  上記の「五ヶ条之題難之由」が鉄舟に下された5カ条ではないかと、現在研究中とのこと。新しい史料に基づく小林氏の研究成果が待たれます。

  • 元田永孚「還暦之記」(明治11)に記された江戸無血開城(元田竹彦・悔後宗臣編『元田永孚文書』第 1 巻 伝記 日記 精興社1969 年)(この史料は、全生庵副住職 本林義範氏にご提供いただき、東洋大学教授 岩下哲典氏と小林哲也が考察)

「王師江戸ニ逹スル頃ニ德川慶喜恭順罪ヲ待チ城ヲ開テ 命ヲ奉スルノ誠心相顯ハレ 朝議寬宥ノ典ニ處セラレタリ是皆勝安房大久保越中山岡鐵太郎三人ノ首トシテ謀ル所ニシテ其王師ノ營ニ使セシハ山岡ニシテ西鄕ト能ク談判セシニ由テナリ故ニ王師刄ニ衂ラス江戸百萬ノ人民一人ヲ殺サスシテ德川氏モ亦其身家ヲ全フセシハ山岡勝大久保三人ト西鄕トノ功ト謂ハサルへカラサルナリ」

この元田永孚「還暦之記」は、鉄舟直筆による「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判日記」(明治15年成立 全生庵所蔵)より早い時期に鉄舟自身が語った史料として重要であると指摘された。

小林氏のご発表、さすがに大学院博士後期課程在籍の新進気鋭研究者に相応しい内容で、多角度から集積整理、鋭い視点での分析、新史料に基づく新鮮な考察が加わり、実に参考になりましたこと、厚くお礼申し上げます。

 

2022年12月26日 (月)

2022年12月例会開催結果

2022年12月21日()は、森真沙子先生からご講演いただきました。

テーマは「満天の星__維新の時代の漂流者たち」、幕末から明治へ。

そこは人間ドラマの渦だった。歴史の波に乗って表舞台へ躍り出ていく英傑たち、乗り損なって流れ星のごとく消えていく人々、時代に入れられず漂流する者たち。漂流しつつ、そこに独自の生を刻んで時代を越えていった人々・・・。

そんな心惹かれる漂流者たちを、『柳橋ものがたり』8〜9巻の中から「「間違えられた男・山田浅右衛門」、「時代をドロップアウトした旗本・松廼屋露八」、「海棠(かいどう)花咲くころ・雲井龍雄」、「熱血英国人医師の光芒と暗転・ウイリアム・ウイリス」をとりあげ、昨年12月と同様に、森先生の講演・解説に続き、潮見佳世乃さんの迫力あふれた語り朗読、井田ゆき子さんの臨場感あるパワーポイント画面で展開されました。

 森先生は『柳橋ものがたり』を9巻まで刊行、一巻あたり5から6名の歴史上人物を取り上げられましたので50名以上を物語化していますが、まだまだ「面白い人物が多くいる」と発言されます。

 したがって、読者の関心事は物語の主人公「綾」の動向に向かうはず。

 「綾」は、船宿「篠屋」に住み込み女中として働く魅力的な女性で、彼女が歴史上の人物と、どのように関わって、持ち前の気転と才覚で、解決または新たなる方向性を見出し、未来の「綾像」をどうやって創りあげていくのか・・・。

 つまり、「人物と事件と綾の組み合わせ」、ここが『柳橋ものがたり』の最大の見せ場であり、読者を唸らせるところではないでしょうか。

 例会会場で販売しました『柳橋ものがたり』8巻と9巻は完売いたしました。

 まだお読みになっていない方へご推奨申し上げます。

2022年11月28日 (月)

2022年11月例会開催結果

2022年1116()の例会は、勝海舟の玄孫にあたられます高山みな子氏から「伊勢商人と勝海舟」についてご発表いただきました。

 

まず伊勢商人の竹川竹斎については、『氷川清話』・「後援者渋田利右衛門」の項で≪伊勢の竹川竹斎といふ医者で、その地方では屈指の金持で、蔵書も数万巻あった≫と記されていると説明。(医者というのは海舟の記憶違い)

 

次に伊勢商人とは何か。その最も代表的な存在は、江戸に呉服店の越後屋を出店して三井の基礎を作った三井高利であるが、竹川家も幕府御為替御用を務め、三井家と肩を並べるほどの豪商で、本家の竹川と、新宅の竹川と、東の竹川という三つの流れがあった。竹斎は東・竹川家の七代目。

 

このように伊勢に豪商が輩出した背景は、独自の情報ネットワーク、それはお伊勢参りに向かう人々が安濃津(三重県津市)や松阪を経由していくので、諸国の情報を入手できることが発展につながったと解説。

 

竹川家と海舟との関係については、竹斎の実弟である竹口信義の日記に遺されていて、その日記から高山氏が17通を抜粋され紹介された。

例えば嘉永21029日≪勝氏より新書7冊・黒船図4枚≫、嘉永21111日≪勝氏へ原書返す・西洋兜来る≫、嘉永343日≪勝氏より砲術書来≫とあるように、時勢に関する情報・資料がお互いに交わされており、これらが嘉永6年(1853)7月の海舟『海防に関する意見書』につながっている。

なお、『海防に関する意見書』は次の五項目であると説明。

  • 有能な人材の登用、②海の警備の重要性、③江戸の防備、政治の中心・首都機能の維持、④兵制改革、人材育成(教練学校の建造)、⑤火薬、鉄砲玉、武具の製造、次男三男や老人などの活用(生活支援にも)。

 

また、同年6月には竹斎も『海防護国論』を著し、同書を海舟に送ったところ、海舟は門人・大久保喜右衛門を通し幕府閣老に提出、閣老や海防方へ回覧されたという。

高山氏の幅広く且つ深く研究し検討されたご発表に、参加者から称賛の声が事務局に多く届いております。

 高山氏のご発表に深く感謝申し上げます。

2022年10月25日 (火)

2022年10月例会開催結果

2022年10月例会は埼玉大学名誉教授・日本武道学会会長の大保木輝雄先生から「一刀正伝無刀流開祖山岡鉄舟」についてご発表いただきました。

 大保木先生はレジメ8頁、資料5部、それと木刀、竹刀など、多くご持参いただき、上泉秀綱、柳生宗厳、塚原卜伝、柳生宗矩、小野忠明、小野業雄、千葉周作、中西子定、中西子武、浅利義明、井上八郎など、そして山岡鉄舟、その鉄舟を師と仰ぐ高野佐三郎、内藤高治など、高名な剣士について触れられました。また、その太刀捌き・極意を、例会会場で、当日、ご参加された安孫子市剣道連盟会長の日髙靖輝氏をお相手に、いくつかの立ち筋を展開されました。

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 このように詳しく、熱きご説明をいただきましたが、中でも「嘉納治五郎と山岡鉄舟」について触れられた際には、鉄舟研究をしている者として新たなる意義を勉強させていただきました。

それは、この二人が、明治という時代に、過去の遺物として葬り去られようとした「武術」を再興・再生させたという共通点をもっていることからです。

まず、嘉納治五郎、日本古来の柔術を「柔道」と改称し、理論・技術内容を再編・体系化し「講道館」を設立して世界にその名を知らしめたと述べられ、鉄舟については、古流剣術の淵源を探り剣術の本質の何であるかを徹底究明とて無刀流の開祖となり、「春風館」を設立したと力説され、この両者を高く位置付けられました。

 

 なお、治五郎と鉄舟の年齢差は24歳。親子ほど離れているが、奇しくも明治15年に治五郎は22歳で「講道館」を、鉄舟は45歳で「春風館」を開設しているのに、二人の交流を示す資料が見つからず、今後の研究課題とも言われました。

 

 大保木先生のご熱心なるご講演に、例会会場は満席となる盛況でした。

 大保木先生に深く感謝申し上げます。

2022年9月28日 (水)

2022年9月例会開催結果

2022年921()は、二松学舎大学講師の寺内進先生から「鐡舟書の鑑賞と諸問題」について、概略、以下のようにご発表いただきました。               

 寺内先生は昭和52年(1977)、二松学舎大学で故寺山旦中先生との御縁から山岡鐡舟の書と接し、以後、鐡舟書について研究をされてこられ、鐡舟書は、筆の先から気があふれる書き方であり、一般の書とは呼吸が異なると高く評価され、鐡舟は生涯に百万点書いたと称されると解説されました。

 しかし、鐡舟書には贋作とは言えないが「似ている書」が多くあるのも事実で、次の三名について解説をされました。

  • 鈴木寛長・・・春風館道場の塾長であり、立切試合を85面行ったという
  • 山名鐡斎・・・かなりの数を書いたようで、地方の旧家からまとまって見つかる例がある
  • 小平重太・・・栃木県野中村の村長で全生庵建立に並々ならぬ貢献をした

 だが、最近では「敷き写し」と思われる技法で作られた贋作がネットオークションにかなりの量で出品されている。制作方法は、書の画像を現物の大きさまで引き延ばし、その上に紙を載せて「なぞり書き」をする。よって字形が似ている上、筆意もある。

 寺内先生は、上記①から③と、「敷き写し」の事例をいくつか実際に解説されました。

 次に鐡舟が実際使用した筆について紹介され、その筆を参加者に回覧、実際に鐡舟が書いたと思われる書き方についても実技をされました。

 

  続いて、鐡舟が用いた「圓山大迂刻」による「鐡舟印と側款」ついて解説され、鐡舟が書いた手紙「全生庵葵観世音堂建立の勧進」、「全生庵建築の勧進御礼」、「海舟宛書簡」の手紙について解説されました。   

 次の鐡舟書簡は「全生庵葵観世音堂建立の勧進」であり、書かれた書について解読されましたので、紹介いたします。

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<釈文>

今般、東京谷中全生庵葵観世音道場建築勧進の為、各府県下へ派出致させ候間、右件宜敷く御依頼申し入れ候也。明治十八年六月廿五日 山岡鉄太郎      各府県 各宗寺院御中

 

 今月の例会は鉄舟書という難しいテーマでしたが、鉄舟書を多数採り上げていただき、加えて、筆と実際の書き方についても、ご親切に分かりやすく解説していただきました。

 今まで我々が知らなく、理解が難しかった分野の例会であり、ご参加の方は、大変ご参考になられたと思います。

 改めて寺内先生に感謝申し上げ、今後とも鉄舟書の鑑定につきましてご指導賜りたくお願い申し上げます。

 

2022年7月29日 (金)

2022年7月例会開催結果

2022年7月は喜多村園子氏から「小林二郎の業績と生涯」についてご発表いただきました。

ご発表をお聞きし、小林二郎は山岡鉄舟の門人であると、改めて感じ入りました。

というのも、鉄舟は多くの偉大な業績を遺しましたが、それらを自伝書という形では遺さず、弟子の小倉鉄樹が『おれの師匠』を書きのこしたおかげで、鉄舟の「生き様」が今日の我々に伝わっているわけです。

鉄舟は自伝書について「そんなことはしなくてもよい。書かなくても遺るものなら後世に遺るし、遺らぬものならいくら詳しく書いたって消えてしまう」と小倉鉄樹に述べたといいます。

同様に小林二郎も東京から新潟に戻って、明治10年出版所開設、『僧良寛歌集全』『僧良寛詩集全』をはじめ約四十年に亘り『歌集』『詩集』を出版し続け、良寛研究の第一人者であり続けましたが、鉄舟同様、自伝書を遺さなかったので、その人生の全貌は闇のなかでした。

著名な新潟知識人から以下の連絡が喜多村氏に届きました。

  • 書架に良寛本を持ち、通読している新潟新聞から関連記事を採録、県史の新潟人物編に小林二郎を採り上げようとしたが、断片的な情報しかなく今日まで至っていた。
  • それが今回の小林二郎出版によって、点が線となり、面に広がりかくれた偉人の全容が理解できた。

つまり、喜多村氏は小林二郎出版によって、小倉鉄樹の『おれの師匠』と比肩する成果を世の中に遺したのです。

我々は鉄舟の生き方を学び研鑽する仲間です。その仲間の喜多村氏が小林二郎を世に顕現させたことを誇りに思います。

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2022年6月28日 (火)

2022年6月例会開催結果

 20226月は山本哲氏にご登場いただき、

 「大政奉還後、徳川慶喜が主宰する諸侯会議の延長線上に、共和政体が出来ていたならば、日本はどのような国家になっていたのか。このような問題意識のもと幕末維新を考察いたします」

 についてご発表いただきました。

 山本哲氏は、多くの専門書を読破され、8枚の資料で説明をされました。

 例会ご参加の方々から「感想」「見解」「指摘」「参考資料の紹介」など、

多数の発言が続き、活発な例会でございました。

 

2022年5月25日 (水)

2022年5月例会開催結果

2022年518()は、東洋大学文学部史学科・大学院文学研究科史学専攻の岩下哲典教授にご登場いただきました。

   「研究報告」  

                             テーマ「長崎を語らずして江戸は語れず 

                                                  江戸時代長崎絵図によるご案内 あなたの知らない長崎」

 

 岩下教授のご発表は「はじめに」「戦国の長崎」「江戸時代の長崎」「幕末の長崎」「近現代の長崎」そして最後に「長崎の特徴・特性のまとめ」をされました。

 この研究内容を整理してご案内することは、事務局としてはいささか困難ですので、配布資料の「はじめに」に書かれていたことをお伝えすることで開催結果とさせていただきます。

 なお、当日の配付資料をご希望の方は事務局までご連絡願います。

  岩下教授にご了解いただきましてから送付申し上げます。

 

「はじめに」

史学科の卒論は、長崎から入ってきた江戸時代のナポレオン情報でした。

 これは中公新書の『江戸のナポレオン伝説』(絶版)になりました。

 修士論文・博士論文は、長崎からもたらされたペリー来航予告情報に翻弄された幕府や大名の研究でした。

 これは、洋泉社新書『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』(絶版)や雄山閣の『普及版幕末日本の情報活動』になりました。

 江戸の蘭学者や幕府が長崎から入ってきた情報に翻弄されたことを明らかにしてきました。

 大学院生時代から今日に至るまで毎年のように長崎に行っておりました。

 私にとって長崎を語らずして江戸を語ることはできません。

 「江戸無血開城」の主人公たち、山岡鉄舟・高橋泥舟も、西郷隆盛も、徳川慶喜も、長崎に多かれ 少なかれ、長崎からの文物に影響を受けていると思います。

 「江戸無血開城」の主人公とは言えませんが、勝海舟は長崎海軍伝習で頭角をあらわしています。

 今回は、鉄舟居士から少しはなれて、江戸時代の長崎を、絵図をもとに、「あなたの知らない長崎」(たぶん)をご案内いたします。

2022年4月25日 (月)

2022年4月例会開催結果

2022年3月に引き続き、4月も永冨明郎氏からご発表をいただきました。

永冨氏による二か月連続のご発表に厚く感謝申し上げます。

ご参加者から、歴史は全て繋がっており、鎌倉時代があって今があることを実感しておりますなど、多数のご感想をいただいております。

4月のご発表概要は以下の通りです。

第二回(4月20日)【承久の乱と朝廷からの独立】

1.  実朝に対する朝廷(後鳥羽上皇)の扱い

・実朝の姿勢と、朝廷側の扱い(位打ち)

・承久元(1219)年1月、頼家の長男・公暁が実朝(28)を暗殺

2.朝廷(後鳥羽上皇)の思い

  後鳥羽帝は三種の神器がないままの践祚(安徳天皇が西国に逃れていた)

 ⇒生涯のコンプレックスに =あらゆる分野でトップを目指す。政治も?!

3.朝廷との関係悪化

・実朝の生前、子がないことから、北条政子、義時らは後継を朝廷から得る工作を

・一旦、皇子(後鳥羽帝の子)が候補となるも、実施されず ⇒そこに実朝暗殺

 ⇒摂家・九条家の三寅(のち九条頼経)が将軍候補として下向(2)、北条政子が養育

・朝廷周辺の動きに、義時は京都守護2名を派遣(伊賀光季、大江親広)

・後鳥羽帝より、その愛妾・伊賀局の所領の地頭が勝手をすると、そのすげ替えを幕府に要求するも、幕府は時房(義時・弟)に1千騎を付け

   て上洛、要求を拒否

・信濃の御家人・仁科盛遠が勝手に「北面の武士」に加わっていることから、その所領の召し上げをすると、後鳥羽帝より、返却の要請 

  ⇒幕府はこれを拒否

4.大内裏焼失事件

・承久元年(1219)、御家人ながら大内裏守護に任じられていた源 頼茂(摂津源氏)が将軍を目指しているとの噂で、周囲の在京御家人がこれ

  を追求。大内裏に閉じこもる

 ⇒後鳥羽帝は頼茂討伐を命じると、頼茂は大内裏各所に火をつけて自刃

・やむなく大内裏再建の動くも、北条義時らの所領からは、臨時再建税の拠出を拒否

 ⇒幕府と朝廷との関係悪化がピークに

5.承久の乱

・承久3(1221)5/15、後鳥羽上皇が「義時討伐の院宣」を発す

・義時は「義時討伐」を「鎌倉討伐」にすり替え、大軍を京に発進(北条政子の演説)

・同年6/13-14 瀬田、宇治で激戦も、幕府軍が突破

 ⇒同年6/15 幕府軍が京都を制圧

・泰時が鎌倉に戦勝報告(鎌倉軍の死者13.620人、功労者1,800名)

6/15、後鳥羽帝より勅使;

1)      今回の乱は一部謀臣のやったこと

2)      よって義時追討令は撤回する

3)      今後は泰時側の申請通りに宣下する

4)      聖都内での狼藉を禁止

・徹底した残党狩り(とりわけ御家人で朝廷軍に与した者の逮捕、晒し首)

・同年7月、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐に、順徳上皇を佐渡に配流、

 仲恭天皇(4)の廃帝

・代わりに後高倉上皇(後鳥羽帝兄)、後堀河天皇(後高倉息)を即位さす

 後鳥羽帝は隠岐・海士町にて18年の後、現地で崩御(延応元年12349、2月=60

 順徳上皇も仁治3年(1242)、佐渡で崩御(46)

・西国武将も明確に鎌倉傘下に ⇒鎌倉政権の全国区化に

・京都に六波羅探題(南北)を設置、朝廷監視、西国御家人の統治

6.ひとつの時代の終わり

・元仁元(1224)6月 北条義時没(62)、長子・泰時が後継に

・翌嘉禄元年(1225)6月 大江広元没(78)、同7月 北条政子没(69)

 創世期を支えた3人が相次いで他界=ひとつの時代の終焉と、次の時代へ

      (摂家将軍+北条執権体制に)

・戦前史観では「北条義時は極悪人」 

  ⇒時代によって歴史観が変化する典型

2022年3月28日 (月)

2022年3月例会開催結果

2022年3月、4月は2か月連続で永冨明郎氏からご発表いただきます。

2022年3月のご発表概要は以下の通りです。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しく観るためにとても参考になったという感想が多く寄せられました。

『3月ご発表概要』

第一回【鎌倉幕府の立上げから鎌倉十三人衆設置】

 

1.はじめに=鎌倉時代約150年の大まかな区分;

 1180(頼朝決起)~1225(政子、義時らの死去) =鎌倉創世期

 1225(執権体制確立)~1281(蒙古襲来を防ぐ) =鎌倉安定期

 1281(元寇の恩賞問題)~1333(鎌倉幕府滅亡) =鎌倉終末期

2.平氏の20年に及ぶ権力簒奪状態に、以仁王(後白河帝三男)が平氏討伐の令旨を発する(治承4(1180)年4月)

平氏は令旨に対し、各地の平家系武将に、周囲の源氏討伐を指示

その動きを察知した源頼朝が、北条家臣らの勢力で同年8月決起

・三浦半島の有力者(三浦氏、和田氏ら)と合流を狙うも、平氏側の大庭氏などに阻まれ(石橋山の戦)、房総半島へ。

・房総で上総広常や千葉常胤などの大勢力を糾合更に、関東有力武将の帰順も得て、同年10/6に鎌倉入りを果たす

3.鎌倉政権

・頼朝に加勢してくれた武将を「御家人」とし、平等に主従関係(御恩と奉公)を構築

・北条義時;長寛元年(1163)、北条時政の二男として誕生。

少年期に隣村の江間氏に養子入り=「江間小四郎義時」

頼朝決起に、父・時政、兄・宗時と従軍も宗時が戦死。以後父とともに頼朝を支える

・養和2年(1881)、頼朝は親しい武将の子息11名を「寝所近辺伺候衆」に任命。

その筆頭に義時も(19) =父・時政とは別の、独立した家臣に

・木曽義仲の追討と源平合戦の末、文治元年(1185)3月、平氏滅亡・・・・ 義経の活躍?

 平家殲滅の2か月後、義経が鎌倉を訪ねるが、頼朝は鎌倉入りを許さず、義経は去る

・同年11月、北条時政に1千騎を付けて上洛、朝廷側と交渉の結果、頼朝に全国の守護・地頭の任命権を得る=鎌倉幕府創設と同義(かつては

   建久2(1192)頼朝の将軍宣下と言われたが?)

・ 源義経は奥州藤原氏を頼る ⇒義経と奥州征伐 =奥州藤原氏を殲滅(文治5年1189) 結果、東国はほぼ完全支配下に

・建久元年(1190)11月、頼朝が上洛、後白河法皇と対面

・曽我兄弟の仇討事件、北条家は弱小勢力)

・正治元(1199)年1月 源頼朝急死(53) ⇒長男・頼家(18)が継ぐ

4.二代目将軍 頼家

・頼家は某弱無人 ⇒頼家の親政を押さえるために「十三人衆」の選定

5.鎌倉殿十三人衆とは;

  北条家=北条時政、北条義時、

  中央経験者G=大江広元、中原親能、三善康信、二階堂行政

  頼朝流人時代からの援護者=安達盛長、比企能員

  周辺強豪武将=梶原景時、三浦義澄、和田義盛、八田知家、足立遠元

 ※実際にこの13名が一堂に会して何か議論をしたという史実はない!

 ※狙いは頼家への牽制と、強豪武将に対する警告?

6.有力武将の追い落とし

・北条家は弱小勢力 ⇒対立勢力の順次排斥

上総広常、梶原景時、比企能員、畠山重忠、北条時政と牧の方、和田義盛

・比企の乱で将軍・頼家の幽閉、殺害 ⇒弟・実朝(12)を将軍に(建仁3(1203)

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