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例会の報告

2021年7月26日 (月)

2021年7月例会開催結果

2021年715()例会は、河瀬眞人氏から「河瀬英子(江川英龍・末娘)をめぐる人々」、山本哲氏から「徳川慶喜の社会学・その後の慶喜」についてご発表いただきました。

  1. 河瀬眞人氏「河瀬英子(江川英龍・末娘)をめぐる人々」

 河瀬眞人氏の曽祖父は河瀬眞(まさ)孝(たか)(石川小五郎)氏で、天保11(1840)生れ、長州藩で幕末時活躍、慶応3(1867)英国留学、明治4(1871)帰国、工部少輔、侍従長を経て、明治6(1873)イタリア公使、明治10(1877)帰国後は元老院議官、司法大輔、明治17(1884)英国全権公使、明治27(1894)英国公使退任、以後終生枢密院顧問官を勤めた。

 河瀬眞孝氏の妻が英子氏、伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍の末娘として安政2(1855)誕生、明治416歳にて河瀬眞孝氏と結婚。明治618歳にて眞孝氏とイタリアへ。明治10年帰国、明治17(1884) 29歳にて眞孝氏の英国全権公使に伴い英国へ。明治44(1911)56歳で逝去。

英子氏は英国にて数多くの留学生や赴任者の面倒を見て感謝されている。

 河瀬家に遺された「MADAME KAWASE」と書かれた古いブリキの衣装箱、その中に英国時代の手紙が27点遺されている。大鳥圭介、西郷従道、品川弥二郎、徳川義礼、陸奥宗光などからの手紙である。

 手紙の内容は、留学費用の事、本人の監督依頼などであるが、陸奥宗光が息子について、本人の病気や生活資金の心配などを綴ったものが2通あり、その中で特に英子夫人へ深い感謝を述べられているのが印象的である。

 

  1. 山本哲氏「徳川慶喜の社会学・その後の慶喜」

山本氏は今回のご発表に際して多くの慶喜関係書籍に眼を通され、慶喜の歴史的意義を次のように整理された。

  • 大規模な内乱を防いだ。

大坂城から敵前逃亡し、京阪での大規模軍事衝突を避けたが、幕府側から裏切り者と汚名を浴びた。しかし、江戸無血開城によって、血と血で洗う内乱を最小限度にとどめた。

  • 江戸幕府を終了させた(大政奉還)

“始めることよりも終えることの方が難しい。多くの政権の最後において権力者は往々にして命が狙われて、大往生はない。

  • 77歳まで生き「大往生した」

旧幕臣、反新政府勢力の挑発に乗らない強情公。西郷のように下の者に担がれ内乱を引き起こすことはなかった。その代わり国民的人気を勝ち得なかった。人気の高さと歴史的意義は必ずしも比例しない。壮年期に退任し、以後44年間、趣味の世界、没頭できるものを持ち続け生きた。現代人に近い新しもの好き。

 (事務局から)

    山本哲氏はご発表後、次のように付言されましたのでお伝えします。

「高齢化の現在、最も恐ろしいのは認知症であるが、これをどのように克服して、充実した生活を送るにはどうしたらよいのか。この課題を慶喜の実例から学ぶ必要があるのではないでしょうか」。なるほどと思います。

2021年4月16日 (金)

「渋沢栄一の生涯」 2021年4月13日 山岡鉄舟研究会 永冨明郎

東京都の「まん延防止等重点措置」適用に伴いまして、421日の東京文化会館における例会開催は中止とさせていただきますが、今月ご発表の永冨明朗氏に、特にお願い申し上げまして、ご発表の「渋沢栄一の生涯」内容を以下のように整理・まとめていただきましたので、皆様にご案内いたします。

<緒言>

渋沢栄一を振り返るにあたって、ふたつほど感じたことを、述べておきたい。

ひとつは、栄一が日本近代資本社会の創設者と言っても過言ではないが、並行して多くの社会福祉事業を手掛けた。この渋沢路線こそ、日本が共産主義、社会主義国家に走らなかった大きな理由ではないか、という点である。

一部の資本家だけが大儲けをし、国民のほとんどは酷使されるだけの貧困社会となるからこそ、国民は共産主義、社会主義に走った。ロシア、中国しかりである。そうならなかった道筋に、栄一の功績大と感じる。近代福祉国家として、その中で一般企業が何ができるかを、自ら示したのである。

コロナ禍で分断社会が頭を現し始めている現在こそ、この栄一の精神を振り返るべきであろう。

今一つは、何カ所かで講演した際に「栄一が91歳まで長寿だった、何か秘訣があったのか」という質問を受けて感じたことである。

栄一自身はあまりお酒を飲まなかったと言われるが、それが長寿の秘訣とは、間違っても思いたくない。また栄一の自伝などを見ても、特別に長寿を念じた工夫をしたような記述は見当たらない。

そこで思い当たるのが、栄一の性格ではないか。

本文のとおり、特に幕末から明治初年まで、再三再四、環境が激変する。しかしその都度、「ではこの環境下でできることは?」という思考方法で乗り越え、いや変化を我が物にしていく。決してくよくよ案じたりしていない。

そして、500社を超える企業に関わったという点も、同様のことが感じられる。

サラリーマンならすぐ気付くと思うが、会社を立ち上げるというのは大変なリスクもしょい込むことでもある。500社すべて自ら立上げたのではなく、大半は知人、友人がやりたいので、と手を貸したものである。その際、もし手を貸した会社が潰れたら大損する、あるいは自分の名前も傷つく、などという後ろ向きの発想を持っていたら、到底何百という企業に手を貸せなかったに違いない。

栄一の前向きな、いい意味での楽観性を、そこに感じるのは私だけではないだろう。

それこそが、栄一の長寿の最大の秘訣だったのではないだろうか。

コロナ禍の波に押し流されそうな今日こそ、渋沢栄一の生き様を振り返ることが大事であろう。

                                  

1.若年時代=父を手伝って藍玉売り、藍葉仕入れに回る

 ・天保11(1840)2/13 武州榛沢郡血洗島、豪農の家に生まれる

  =昨年が生誕180年、今年が没後90年

 ・父の藍玉製造を手伝い、実業のイロハを。

 ・7歳より従兄の尾高新五郎淳忠に日本外史などを教わる ⇒尊皇攘夷思想に

 ・16歳の頃、岡部藩代官より3軒に1,500両の寄付要請。父の代理で出頭した栄一が即答を避けると、頭ごなしに非難される⇒「官尊民 

   卑」の風の打破を決心

 ・18歳で尾高千代(惇忠、長七郎の妹)と結婚。

  千代は明治15年(1882)、大流行したコレラで死去。翌年、川越の豪農の娘・兼子と再婚

 ・文久元年(1861)頃より、農閑期だけ江戸に出て海保塾、千葉栄次郎道場に

 (この間に道場仲間・真田範之助に連れられて平岡円四郎=一橋家用人との縁ができる)

 

2.文久3年(1863)秋 攘夷計画

 ・尾高惇忠、渋沢喜作(詳細は巻末参照)らと攘夷計画を立案、進める。同志69名を募る

  <風の強い日に高崎城を襲撃、武器補強の上で横浜異人街を焼き討ち>

 ・そもそも、計画には無理があった

  1)高崎城は江戸の北の守りの要=6070名で簡単に落とせるか?

  2)高崎から横浜まで直線でも120km=最低3日 その間に関八州回りの捕縛は必至

 ・また京ではこの年8月を境に、長州系の過激尊攘運動が大きく後退(8.18政変)

  ⇒京に潜伏していた尾高長七郎(詳細は巻末参照)が帰郷、計画不可と!

 ・計画とん挫 ⇒渋沢喜作とともに村を出奔、江戸に出る

 ※疑問①=栄一らの攘夷計画に、清河八郎の影がなかったか??

 ・清河は文久3年春の将軍上洛に合わせ、関東周辺の浪士を集めて警護団の結成を上申。 採用され、250名余りの浪士組を高橋泥舟、山岡

  鉄舟らが取扱役として上洛。

  上洛後、清河はすぐに朝廷(学習院)に上申し、この浪士組を攘夷部隊とすると発表。

  その結果、組は①京残留組(のち新選組)、②江戸帰還後、横浜襲撃隊に、③佐幕派(のち新徴組など)に分かれる。

  清河は②組を率いて、4/15に横浜襲撃決行を進めるも、4/13に江戸赤羽橋近くで暗殺。

  翌日には組のほとんどが捕縛され、泥舟、鉄舟らは謹慎処分となる。

  この残党の一部が北関東に逃げ、栄一らに策を授けたのでは??

 

3.元治元年(1864)2月 武士に、そして幕臣になる

 ・一橋家用人・平岡辺四郎との縁で一橋家臣に(喜作も)

 ※御三卿・一橋家は将軍候補待機部屋で、独自の家臣・兵力を持たず

  慶喜が将軍後見職(のち禁裏御守衛総督)の職務を与えられ、独自家臣団が必要に

 ・家臣として①一橋家歩兵募集に成功(房州で50名、播州などで240名)

       ②領地播州などで経営改革実行(藩札による特産品集中買い上げ、販売)

 ・慶応2年(1866)秋、慶喜が徳川宗家入り、将軍に=一橋家臣もそのまま幕臣に

 ⇒あくまで在野改革派であることを期待していた栄一、喜作は家臣から離れるつもり

  そこに、パリ行きの命

 

4.幕臣としてパリへ

 ・幕府接近を目指すロッシュ公使が将軍・慶喜にパリ万博出展を提言

 ・パリ万博(第三回)=1867.04.01~同11.03

 ・欧州にて;①本国からの為替手続きが不順に ⇒現地企業へ投資、利潤を

       ②名誉総領事・F.エラール(パリ銀行頭取)から近代銀行の仕組みを教わる

       ③エラール(商人)と昭武教育係・ヴィレット中佐(軍人)との会話に官尊民卑がない!

       ④ベルギー国王から自国の鉄鋼のPRを受ける=国王自ら商人?!

 ・使節・水戸昭武は万博終了後、5年程度欧州での留学の予定(栄一が随行)も、国内政変により、慶応4年(1868)呼び戻しの命。栄一は

  当初はこのまま帰国するより、昭武に近代文明を学んで帰国したほうが世の役に立てると、動かず。

 ・水戸藩主・慶篤の死去により昭武が当主となるため、水戸藩士がパリまで迎えに。

    ⇒明治元年11月帰国、駿府へ

 <パリ万博/幕府使節団>

  使節   徳川昭武   (水戸藩世子、慶喜弟、15歳。のち水戸藩主に)

  勘定奉行格外国奉行    向山 (かずふみ) (初代駐仏公使に)※

  歩兵頭並         保科 俊太郎(通訳、留学生取締役)

  外国奉行支配組頭     田辺 太一 ※

  外国奉行支配調役     日比野 清作

  同            杉浦 譲(愛蔵)

  外国奉行支配調役並出役  生嶋 孫太郎

  儒者・次席翻訳方頭取   箕作 麟祥(貞一郎)

  外国奉行支配通弁御用   山内 六三郎(通訳)

  大番格砲兵指図役頭取勤方改役兼務 木村 宗三

  御勘定格陸軍附調役    渋沢 篤太夫(栄一、庶務・会計)

  御番格奥詰医師      高松 凌雲

  小十人格砲兵大砲差図役勤方 山内 勝明(文次郎)

   ※印=薩摩藩との軋轢から、2名は帰国命令、代わりに仏通の栗本 鋤雲(外国奉行)を派遣

  水戸藩士(昭武護衛 計7名)菊地平八郎、井坂和泉太郎、加治権三郎、皆川源吾、大井六郎左衛門、三輪端蔵、服部潤次郎

  同行者 駐日仏長崎領事  レオン・デュリー

      通訳兼世話掛  アレキサンダー・シーボルト(英公使館通訳官)

  *A.シーボルトとは後も交流、赤十字設立にあたってアドバイスも。

 

5.明治元年(1868) 駿府徳川藩士として

 ・昭武より、報告後は水戸藩運営に力を貸して、との誘いも、慶喜から「水戸藩内の抗争に巻き込まれるだけ」と諭され、駿府に残る

 ・駿府には旧幕臣らの多くが無給覚悟で集まっていた。

  ⇒栄一は時の「石高拝借金※」の一部を元手に「商法会所」を設立、領内での特産品の集中買い上げ、販売に。

   数年後には年間8万両の利潤を

  ※石高拝借金=各旧藩時代に発行した藩札を整理させるため、新政府が1石=1両あて各藩に貸与したもの。徳川藩には70万両。うち約30

   万両を活用

  ※商法会所は現・浮月楼の地にあり、後に慶喜隠居宅に

  ※疑問②=駿府での活動(正味1年弱)中に、栄一と鉄舟との接点はなかったのか?

 

6.明治2年(1869)秋 新政府より呼び出し、大蔵省に出仕

 ・当時、大蔵卿=伊達宗城(宇和島藩主)、大輔=大隈重信(佐賀藩)

 ・大蔵省が民部省(税の取立部署だった)と統合された直後で、省内が混乱

  ⇒栄一が組織改正の一元化を提言、「改正掛」を命じられる

 ・栄一の手掛けた改正;度量衡の改正、地租改正、国立銀行法、貨幣制度、郵便制度、鉄道建設、近代製糸工場の立ち上げ など

  ※富岡製糸場=明治3年設立、栄一が設立主任に。初代工場長に尾高惇忠を招聘。

   女工募集も、お雇い外国人がワインを飲む姿を、生き血を吸っていると思われて募集が難航。惇忠は自分の娘・ゆうを第一号の女工にし

   て、募集を軌道に乗せる

 ・明治4年~ 大蔵卿=大久保利通(薩摩)、大輔=井上 馨(長州)

 ・明治6年(1873) 大蔵卿・大久保利通らとソリが合わず辞職

 ・井上は多分に政治駆け引きでの辞職も、栄一は真剣に実業界勃興を目指す

 

7.第一国立銀行、王子製紙を皮切りに、生涯関わった企業は500社を超える

【栄一が手掛けた企業群のいち例】

  金融界;第一国立銀行(現みずほB)、北陸銀行、北海道拓殖銀行、東京海上火災 など

  交通界;日本郵船、日本鉄道(現JR)、秩父鉄道、京阪鉄道など

  インフラ;東京電力、東京ガス、大阪瓦斯、田園都市㈱、渋沢倉庫など

  製造業界;王子製紙、東洋紡績(現東洋紡)、鐘淵紡績(現カネボー)、大日本麦酒(現キリンビール)、品川白煉瓦、日本板硝子、

       日本化学工業、電気化学、日本鋼管、東京石川島造船所・石川島飛行機(現IHI)、浅野セメント・秩父セメント(現太平洋

       セメント)、三共(現第一三共)、大日本人造肥料(現日産化学)、など

  団体;東京商工会議所、東京手形交換所、大阪手形交換所 など

 

 ※岩崎弥太郎との「海運戦争」

 ・弥太郎=土佐の地下浪人の子。苦学して後藤象二郎に見込まれ、土佐商会(龍馬の亀山社中の土佐藩窓口)に。明治後に同社を任され、三

  菱商会に(家紋が三つ重ね菱)。

 ・西南戦争などの海運で国内最大手になり、栄一と一緒にと接近するも、栄一の精神と合わず(栄一=合本主義、多くの金、知恵を集め、利

  益を広く分配。弥太郎=独裁的トップダウン経営=「栄一の方式だと船頭多くして船、岡に上がるがオチ」)

 ・明治13年頃より、栄一が一杯船主らを出資者として風帆船会社を立上げ、三菱商会とダンピング合戦。共倒れ、外国資本参入を恐れた伊

  藤博文が仲介も、岩崎は聞かず。

 ・明治18年、弥太郎の死後を継いだ弟・弥之助と栄一が和解、双方海運事業を統合して「日本郵船」に。両家も和解、栄一の孫・敬三と弥

  太郎孫娘・登喜子が結婚

 ※栄一は政界にはいっさい関わらず(明治36年、井上馨が組閣を命じられた際、栄一に大蔵大臣就任を要請するも応じず、結果、井上内閣

  は成立せず)

 ※ただし、商人として政府に物申すことは必要 ⇒商人として団結必要 =商工会議所

 

8.多くの社会奉仕事業を手掛ける =生涯600件以上!

  社会福祉事業は企業活動との両輪であるべき ⇐『論語と算盤』

 ①東京養育院

 ・明治5年、大久保一翁・東京府知事より、東京内の難民対策の相談を受ける

  (幕府解体、廃藩置県により東京市中に多くの難民、浮浪者が)

 ・「七分積金※」を活用して、難民救済のために「東京養育院」を設立、終生「院長」

   ※七分積金=寛政改革により、各町への支給金の削減工夫をさせ、削減額の7割は町会所にて積み立て、非常時資金とする。

    明治初年で170万両あった!

 ・府管理下となると再三府議会で閉鎖の議案 ⇐その都度、栄一が必要性を強調

 ・運営資金捻出のため、鹿鳴館でバザーを開く

 ・a)健常者だが職がない =職人として指導し自活へ(職業訓練所)

  b)健康を害して働けない =病院施設 ⇒今日の「東京都健康長寿医療センター」

  c)彼らの子供、浮浪児  =養育・教育施設

 ・施設内で死亡した者の墓は谷中・大雄寺内に(高橋泥舟墓所)

 ②教育

  商法講習所 のち東京商科大 ⇒一橋大

  女子教育 ⇒ 東京女学館(広尾)

  埼玉県人対象に奨学金と寮の提供 ⇒現・公益財団法人埼玉学生誘掖会など多数

 ③関東大震災(大正12年)の直後、「大震災善後会」を立上げ、復興支援

 ・渋沢流募金方法;まず奉加帳の筆頭に自身の名と、金額を⇒続く者の金額ガイドに

 ・服部金太郎(服部時計店主)言「ある時将棋を指していると渋沢がやってきて、そこで手相を見て貰ったら107歳まで生きると言われたよ

  と。それを聞いて、渋沢に107まで生きられると今後どれだけ寄付要請があるか知れたものではない、こんなことやってるより、さっさと

  帰って金儲けしておかねば」

 ・栄一言「私がもし一身一家の富を築こうと考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」

  ⇒昭和元年(1926)と翌年、ノーベル平和賞候補に

 ・一方で、晩年まで妾多数

 兼子言「論語とはいいところに目を付けたよ。聖書ならとても守れないもの」

 

9.徳川慶喜への思い

 慶喜が静岡隠居中も、円朝、九代目團十郎らと再三慰問(慶喜が面会する相手は限定)

 明治30(1897) 静岡から東京巣鴨に転居

 明治31(1898) 天皇に拝謁

 明治35(1902) 公爵に   これらの多くは栄一の尽力で

 明治40(1907)、栄一の提言で慶喜の語る場「昔夢会」を立上げ ⇒『昔夢会筆記』

 更にそれを下敷きに歴史学者考察を得て『徳川慶喜公伝』全8巻を出版(大正7年)

 大正2年(1913)11/22 慶喜・没(77) 谷中霊園に埋葬(生前に墓地を取得)

 栄一;昭和6年(1931)11/11 没(91) 谷中霊園に

    墓は慶喜墓の北東約100m、かつ南西、慶喜墓所方向を向いている

    =死してなお鬼門筋を護る?!

                                                       

<尾高長七郎>

 尾高惇忠の弟、天保7年(1836)生まれ=栄一の4歳上。

 早くから伯父の剣術道場練武館(神道無念流)で頭角を現し、江戸周辺で名を馳せる。

 その名声に、千葉道場門弟・真田範之助らが手合わせに来訪、これが栄一らの平岡円四郎との接触の遠因となる。

 安政年間からは江戸で尊攘志士ら(久坂玄瑞、伊牟田尚平、清河八郎ら)との交流を重ね、文久元年(1861)には大橋訥庵門下生らと攘夷計画(輪王寺宮を擁して攘夷決起)を進めるも、訥庵自身は安藤老中襲撃策を進めており(翌年の坂下門変)、計画は中止となる。

 そのため長七郎は出奔、京に潜伏する。

 清河八郎はその年5月、江戸市中で無礼打ち事件を起こし、捕縛の手を逃れるため北関東に向かい、7月には寄居で長七郎と接触している。

 その際、清河捕縛の動きが急であることを知り、清河は更に上州、水戸などに逃れる。その後、江戸周辺は危ないと、中山道で西国へ向かう

 際、今一度長七郎との接触を試みるも、長七郎が上記攘夷策で奔走しており会えず。

 文久3年に栄一らの攘夷策のために長七郎が呼び戻されたのは本文の通り。

 長七郎は栄一らが一橋家臣となるに、隠れた役割を演じている。

 同年末、長七郎は江戸に出るが、ささいなことで刃傷事件を起こし、牢に入れられる。その際の所持品に、栄一らが平岡の縁を頼って京に向

 かったことが記されており、奉行所から平岡に問い合わせが入った。

 栄一らは平岡の誘いに即答せず、逡巡していたが、平岡から、奉行所からの問い合わせを聞かされ、両名が一橋家臣になるなら奉行所には不

 問にさせる、との言葉で、家臣となることを決心した。

 なお長七郎はそのまま明治元年夏まで牢にあり、惇忠の手で出獄できるが、その11月、生涯を閉じた。享年33。

 

<渋沢成一郎喜作>

 栄一・父の弟、文平の子。天保9(1838)年6月生まれ=栄一の2歳上。

 文久3(1863)年の攘夷計画破綻で栄一とともに江戸に出奔、平岡円四郎の縁で一橋家臣に。

 慶喜の将軍就任とともに幕臣、奥祐筆に。鳥羽伏見戦いから江戸に戻り、彰義隊の隊長に。

 慶喜が水戸謹慎となって上野を去り、尾高惇忠、渋沢平九郎(*)らと「振武軍」を結成。

 慶応4(1868)5/23、飯能戦争で敗れ、伊香保、草津を経て榎本軍に。彰義隊生き残りと合流して「彰義隊」を名乗るも、松前城襲撃の際

 に戦闘には参加せず、金蔵からの金奪取に走ったことから隊内で孤立。

 榎本軍降伏の直前(明治2年5/15)に脱走するも、翌月政府軍に投降。

 のち栄一の尽力で赦免され、栄一と大蔵省に勤務。明治3年には製糸工場設立のため渡欧して製糸技術などを見聞。明治6年、栄一の辞職と

 ともに大蔵省を辞職。以後、栄一の事業などを手伝い、大正元年(1912)8/30、都内で没。享年75歳。

 (*)渋沢平九郎=尾高惇忠、千代らの末弟。弘化4(1847)年生まれ。栄一が訪欧決定の際、男子がなかったため、見立て養子として渋沢姓

   に。喜作らとともに彰義隊、振武軍で行動を共にするも、飯能戦争で負傷し、自刃(数え22歳)。地元民により葬られるも無縁墓だっ

   たのを、後に惇忠が尋ね探し、改葬した。

 

<参考文献>

『現代語訳 論語と算盤』  守屋 淳・訳 (ちくま新書2010)

『現代語訳 渋沢栄一自伝』  守屋 淳・訳 (平凡社新書2012)

『渋沢栄一自伝(雨夜譚、青淵回顧録)』  (角川ソフィア文庫2020.9)

『渋沢栄一』  土屋喬雄  (吉川弘文社人物叢書 1989)

『渋沢栄一』  今井博昭  (幻冬舎新書2019)

「若き日の渋沢栄一の転身」 小高旭之 (『歴史研究』2020/4月号)

『雄気堂々』(上下)  城山三郎  (新潮文庫 1976)

『昔夢会筆記』  渋沢栄一・編 (平凡社東洋文庫 1966)

『徳川慶喜公伝』 (全4巻) 渋沢栄一・著 (同  1967-68

『定本 山岡鉄舟』 牛山栄治・著(新人物往来社 1976)

『高邁なる幕臣 高橋泥舟』 岩下哲典・著 (教育評論社2012)

『清河八郎伝』 徳田 武・著 (勉誠出版 2016)

『歴史のなかの新選組』 宮地正人・著 (岩波現代文庫 2017)

『新彰義隊戦史』大藏八郎・編 (勉誠出版 2020.11)

『こんなに解りやすい! 幕末』 永冨明郎 (東洋図書出版 2018

 ほか多数

 

<あとがき>

渋沢栄一の生涯を振り返って、一番感じるのは徳川慶喜への配慮である。

栄一が一橋家から幕臣として、慶喜に仕えていた期間は元治元年(1864)初めから政府呼び出しで駿府藩を離れる明治2年(1869)末までの足掛け6年に過ぎない。その間の2年は栄一が欧州にあった。その間、直接に言葉を掛けられたのは数えるほどだったに違いない。

そんな栄一が終生、慶喜に気を配り、『徳川慶喜公伝』の出版、そして自らの墓所まで慶喜に心くばりするかのようなものとした。

俗に旗本八万騎と言われたが、幕末の直参は約3万人だったと言われるが、その中でわずか6年仕えただけの栄一が、なぜこれほどの配慮を慶喜に尽くしたのか。

その点の考察として、山岡鉄舟と高橋泥舟との比較を試みたい。

慶応4年1月、大坂の慶喜は、これ以上の新政府軍(薩長軍?)との交戦はこの国を荒廃させるだけでなく、抗争が長引けば列強の介入すらありえると考え至り、わずかの伴だけで江戸に戻った。

江戸城に入って、最初に相談したかったのが高橋泥舟だったと言われる。泥舟はしかし、周囲からの妨げもあって、ようやく慶喜に面会できたのは数日後だった。そして泥舟からも、強く謹慎を勧められ、新政府への恭順路線を鮮明にした。

そして、迫りくる新政府軍に接触して自らの謹慎恭順を伝え、江戸攻撃を回避させる役を、泥舟の推挙によって山岡鉄舟に任せた。

いわば慶喜の最後の仕事、恭順路線を打ち出して江戸総攻撃を止めさせ、かつ徳川の家名を残したことに、もっとも深くかかわったのが泥舟と鉄舟だった。

その後のふたりを見ると、まず鉄舟は西郷の説得により10年間を限って明治天皇侍従を務め、いわば近代国家元首として天皇を鍛え上げることに全力を注ぐ。侍従を退いて春風館道場で後進の指導をするが、明治21年に世を去る。この間、慶喜はずっと静岡で隠匿生活のままであった。

一方の泥舟は、自身が慶喜に謹慎恭順を勧めた者として、自らも一切の公職から遠ざかり、慶喜と同様の隠匿生活に徹する。ただその間も、内心では慶喜への配慮は持ち続けていたことは、明治35年に慶喜が公爵に叙されたと知ると、それをことほぐ歌をすぐに献上したことでも明らかだ。

そして慶喜の叙錫祝賀会を見届けた2か月後(明治36年2月)、泥舟は安らかに世を去る。

鉄舟、泥舟の生前に、栄一との接点があったか、まだ管見では不明である。しかしその二人の思い以上に栄一は慶喜に気を配り続けた。栄一だけが、と考えるよりも、直参3万人を代表して栄一が尽くしたと考えるべきかも知れない。

NHK大河ドラマ「青天を衝く」では、毎回冒頭に家康が登場して舞台回しをやり、そして栄一と慶喜の姿が並行して描かれる。そのうち、双方の生き方が交差し、やがてその両者の生き様が一本の話として縒り合されることを予言している。

その点も併せて思うと、やはり栄一抜きに今日の慶喜評価はありえなかったように思える。

                                                        以上

2020年12月25日 (金)

2020年12月例会開催結果

 2020年1217()例会は、山本紀久雄から明治神宮外苑・聖徳記念絵画館の「江戸開城談判」壁画(作者 結城素明)について発表いたしました。 

「江戸開城談判」壁画には、以下の三つの疑問があります。

  1. 明治維新上、最も重要なのは江戸開城であるが、この開城場面が壁画として描かれず、「西郷・海舟会見」場面が描かれているのは何故か。
  2. 西郷と海舟の会見は、海舟が日記で書いているように「嘆願」であるのに

何故に「談判」になったのか。

    3. 武士の心得として、相手と対面する場合、自らの刀は当然に「右脇」に置くことになっているが、「江戸開城談判」壁画で海舟は「左脇」に置いているのは何故か。

上記疑問の1と2については、以前の例会で発表済みのため、今回は3の「刀の位置」を中心にお伝えいたしました。

結論は「壁画作者である結城素明が大刀位置を左脇に変えた」です。

この結論に至ったのは、国会図書館で明治神宮社務所が発行した『明治神宮叢書第18巻資料編』(平成15年発行)を見つけ、その中に「左脇に置く」と明示されていたからです。

国会図書館には膨大な史料・資料があり、その中から研究目的にかなうものを、最初から一発で目標にたどり着けることは殆どありません。

そこで、何回か国会図書館に通うことになるわけですが、ここもコロナ下によって事前予約制のため、予約OK回答がきた日程で訪館し、ようやく上記資料にたどり着けました。

以下が『明治神宮叢書第18巻資料編』の「13 江戸開城談判」に書かれている概要です。

① 大正13年秋、当時外国留学中の結城素明氏は、パリの寓居に於て、9月28日附浅沼龍吉氏の書信に接し初めて西郷吉之助侯爵並に勝精伯爵より奉納の江戸開城談判図の揮毫に関する交渉を受け、直ちに返書を送って承諾の旨を伝えた。

② 更に14年3月帰朝して浅沼氏に面会し委細を聴いて之が承諾の確答をなし、次いで4月14日華族会館に於て西郷侯爵、勝伯爵及び植村証三郎氏、海軍中将黒岡帯刀氏、浅沼氏と会見し、又奉賛会よりは水上浩躬氏が立会はれ、種々意見交換の後、愈々正式に壁画揮毫の委嘱を受諾するに至った。

③ 結城素明氏は奉賛会より送付された参考資料に基き、先ず書題に関する史実の研究を始めた。その一つは『勝安芳日記』。次に両雄会見の有様については目賀田男爵の談話筆記に之が詳述されており参照。この談話筆記は、大正8年10月30日奉賛会より水上氏が目賀田男爵を訪れ同男が勝翁より聴いたところをもとにして語られた際の筆記である。

 *目賀田種太郎(めがた たねたろう)男爵とは、勝海舟の三女・逸子が妻であり、専修学校(現:専修大学)の創始者の一人である。また、 東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設者の一人でもある。

④ 目賀田男爵の談話筆記要旨には、薩藩邸会見の時、勝は単騎にて訪問したが山岡も益満も同席。勝は大小を差し西郷は脇差のみ、西郷は「攻撃を止むことは総督宮の許可なくては予の一存にては何とも仕方なし、只明日の所は見合わすべし」と云い、隣室に入り村田新八、桐野(当時・中村)利秋、渡辺清左衛門外2名に伝えた、一坐はやや不平らしき語調にて同意を表しければ西郷は諸隊に向いて攻撃中止の令を発することを命じて坐に帰り、勝に対して「只今御聞の通りなれば御安心あれ」と述べ、勝は謝辞を述べて退出せりとある。

⑤ この談話に於て作画上参考になったのは「勝は大小を差し西郷は脇差のみなり坐には茶と烟草盆も出でたり」とある条である。斯くて結城氏は更に詳細なる史実の研究と画材資料のために行動した。西郷侯爵邸を訪問し種々西郷について思い出話を聞く。勝伯爵邸に保存されている海舟の写真を複写し、西郷と会見した当時、勝が着用した衣服を借覧し、勝の大小刀を写生。明治31年冬、海舟に招かれてその病床を訪れ、子孫のために海舟の遭難記を画図にすることを委嘱され、制作に着手したが、全部完成しない中、翌年1月19日翁は薨去されたが、江戸開城談判の図は描き残ったもののひとつである。

➅ 作画に関して人物に次いで調査と考証を要したのは薩摩藩邸である。目賀田男爵の談話では詳細が不明であるので、島津公爵家に問合せし、見取り図、置物について承った。薩摩屋敷に類似する徳川末期の武家屋敷について調査し、上野寛永寺の慶喜が隠棲された座敷を見学したが、その際、凌雲院(田安家位牌所)が参考になるとのことで行ってみると、薩摩藩邸見取り図とほぼ一致したのでしばしば足を運んで写生、これに基づき座敷の図を描くことができた。

⑦ 次はモデルである。13代守田勘弥と阪東弥三郎に海舟の扮装をしてもらいしばしば写生。西郷については元力士の伊達錦武(だてにしきたけし・十両)を頼んで作画の参考とした。大正15年7月にようやく図が決定、同月15日憲法記念館に於ける第二回邦画部下図持寄会に提出、奉賛会の承認を得た。昭和7年夏にいたつて完成の域に達し、図中の各所を箇条書きにし、浅野長武氏を通じ、祖父の浅野長勲(ながこと)侯爵に閲覧垂教を乞うた。

*浅野長勲侯爵とは、安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後)の藩主。浅野家27代当主。勲等爵位は勲一等侯爵。昭和12年(1937年)長勲は94歳の長寿をもって死去した。養子の長之が長勲の跡を継いだがその10年後に亡くなり、その後は長武、長愛、長孝と続いた。

⑧浅野長武氏の回答、西郷と勝については以下のとおり。

≪西郷の服装 髷  当時は髷なれば茶筅 元結 紫紐

       衣服 ツツッポ、ダンブクロ 色柄記憶なし

       小刀 差したる儘

 勝の服装  髷  結髪 総髪 旧幕時代には髪の前を剃る当時は総髪なりしやも知れず

       羽織 黒五ツ紋 当時は羽織を着てよろし

       衣色 勝手次第なり

       袴  シマ シマにてよろし

       半衿 色勝手なり 三位以上は白を許さる 安房守なれば白よろしからん

       小刀 差したる儘

       大刀 左脇に置きてよろし

    昭和7年11月8日記

 御尋の点に関し祖父の返答責覧に供し候

                    浅野長武≫

⑨結城氏はこの回答に接し安心して愈々壁画本図の執筆に着手し線描に彩色に細心の注意と努力を払ひ日夜専念没頭して同年8月31日遂に之を完成するに至った。斯くて9月2日絵画館に搬入し即日現場に掲揚を了つたのである。顧れば着手以来実に9箇年に亙る長年月の苦心経営に依って漸く此の大任を全うした次第である。

以上の通り、勝海舟の大刀位置が左脇に描かれたのは、結城素明が決め、浅野長勲侯爵が認定したわけです。

では結城素明は、二世五姓田芳流が描いた「画題考証図」、ここでは右脇に置いているのを、どのような理由で左脇に変更したのか。

そのために山種美術館を訪れ「東山魁夷と四季の日本画展」(20201121日~2021124日開催)で、魁夷の師である結城素明の日本画《春山晴靄・夏渓欲雨・秋嶺帰雲・冬海雪霽》を鑑賞、あまりにも「江戸開城談判」壁画と描き方が違うことに驚き、次に素明が何冊も出版している書籍の概観検討等を行い、幅広く多彩な人生活動を展開した素明の生き方から考察し「大刀を左脇に置いた」理由を縷々解説いたしました。

だが、この解説内容は推察・推論であり、根拠となる史料・資料に基づいたものではないため、報告文としては明記いたしませんのでご了解願います。

 今後も引き続きこのテーマは長期戦で検討・研究してまいります。

2020年11月26日 (木)

2020年11月例会について

2020年11月21日(土)の埼玉県深谷市の渋沢栄一記念館見学例会は、最近の状況を判断し中止いたしましたことをご報告いたします。

2020年10月26日 (月)

2020年10月例会開催報告

2020年1021()例会は、森真沙子先生からご著書『柳橋ものがたり』に登場する以下の7人を、『「柳橋」で遊んだ妖人奇人録』として解説ご発表いただきました。

  1. 柳橋のガイドブックを書いた、成島柳北
  2. 赤羽織の怪人、明治の文豪尾崎紅葉の父親・尾崎谷斎(こくさい)
  3. 同じ柳橋芸者を妻とした、澤村田之助と三遊亭圓朝
  4. 十四才にして柳橋に遊んだ河竹黙阿弥
  5. 江戸の粋に溺れた酔いどれ大名・山内容堂
  6. 感染予防に尽力し、感染病で死んだ手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)
  7. 柳橋芸者を身請けした山岡鉄舟

 『柳橋ものがたり』は、時代小説で活躍する森真沙子先生が、しっとりとした筆づかいで、主人公に柳橋の船宿・篠屋に住込む「綾」を登場させ、この地で生きる人びとと、上記の妖人奇人を絡ませ、思いがけないストーリー展開によって、読者を惹きつけるシリーズ版。今回で5冊目。

 だが、『柳橋ものがたり』を片手に、現代の柳橋地区へ期待をもって訪ねても、今やマンションやビルが立ち並ぶ無機質な街に変質しており、江戸時代の情緒・雰囲気は殆ど味わえません。

ところが、森先生の筆にかかると、柳橋は情緒纏綿とした街へと見事に変貌します。森先生が変身させるヒントは何か。

それは「今の東京の土地には昔が遺っていない」のだから「その地の地霊の囁きに耳を傾けるしかない」と指摘されました。

 「地霊」とは、『東京の地霊』(鈴木博之著 ちくま学芸文庫)によると、ラテン語の「ゲニウス・ロキ Genius loci」の訳語であるという。

森先生の”地霊”観は、その土地に生きて死んだいにしえの人々の”気配、囁き”。その幽けし囁きに耳を傾けなければ何も分からない。

 ですから森先生は、柳橋で「遊んだ妖人奇人」たちが、この地でさまざまな可能性を求め、その結果としての行動・振る舞いから起こす事件と背景を織り込むことで、今では目に映らない柳橋の魅力構造を、読者に伝える「担い手」をされているのではないでしょうか。

まだ読まれていない方は、このような視点から『柳橋ものがたり』を楽しまれたらと推奨いたします。

2020年9月25日 (金)

2020年9月16日(水)例会開催結果

2020年916()例会は東洋大学・岩下哲典教授からご講演いただきました。

コロナ禍でありましたが、中会議室1がほぼ満席となる盛況な例会でした。

ご多忙の中、ご講演賜った岩下教授に感謝申し上げ、ご参加いだいた皆様に御礼申し上げます。

 

 岩下教授からご講演で提供された冊子と史料・資料は以下です。

  • 冊子『再検討「江戸無血開城」特に「静岡会談」はどのように語られてきたのか、その「功労者」は、今後はどのように語られるべきか』(岩下哲典著 東洋大学白山史学会・白山史学 第5620203)
  • 『勝海舟記念館図録』に掲載されている史料「41 大久保一翁書状・徳川慶喜書状写(大久保一翁筆)」と『勝海舟全集』第222巻の関係部分資料。

 

当日のご講演概要を以下に報告いたします。

  1. 慶喜の命を受けた山岡鉄舟が、慶応439日に静岡で大総督府参謀西郷隆盛と徳川家側代表者としてはじめて会見した。この「静岡会談」で、山岡は慶喜恭順の実情を述べかつ各地の旧幕臣の反抗的活動が慶喜とは関係がない事を縷々説明した。これにより、西郷から新政府の降伏五箇条の条件が文書で提示された。そのうち四箇条を山岡は了承し、慶喜の処遇一箇条だけは保留し、四箇条の朝命書を証拠として持参し、江戸にもどった。
  2. 「静岡会談」の結果、四箇条の追認と残った問題、すなわち慶喜の処遇一箇条を交渉し解決するため、山岡・勝海舟と西郷の「江戸会談」が三月十三・十四日に行われたのである。
  3. その後、西郷の新政府諸役への説得など一連の動向が続き、四月十一日に「江戸無血開城」が名実ともに完了した。「江戸無血開城」は、戦争によらない、すなわち政治交渉による問題解決として、幕末維新史上の画期的出来事であり、ここに至る経緯では「静岡会談」が最も重要な会議であったと理解される。
  4. 次に「静岡会談」の研究史とその語られ方について、各識者の主要書籍を分析・検討され、それぞれの主張点について解説された。岩下教授はご著書『高邁なる幕臣 高橋泥舟』(教育評論社 2012)で「山岡派遣のキャスティングは高橋であった」と主張された。
  5. さらに、岩下教授著『江戸無血開城 本当の功労者は誰か?(吉川弘文館 2018)で、新たに「一番槍書簡」(全生庵所蔵)を用いて、この書簡の最大の意義は、四月十日当時、謹慎中とはいえ、旧幕府、すなわち徳川宗家の最高権力者慶喜が、山岡を「一番槍」と認め、感謝し褒賞したことであり、これをもっとも重く受け止めるべきであろうと述べられた。つまり、江戸無血開城の、慶喜を除く幕府側功労者の第一位は山岡鉄舟であると断言できるとした。
  6. また、勝海舟記念館所蔵の「大久保一翁書状・徳川慶喜書状写(大久保一翁筆)」において、慶喜が勝を「千両箱」と評価し、記しているが、「江戸無血開城」に対する山岡の功績は変わらないと述べられた。なお「徳川慶喜書状写(大久保一翁筆)」は「徳川慶喜直筆書状」で「大久保一翁筆」ではない可能性が高いとされた。
  7. 上記125は、山岡が直筆で明治二一年五月に宮内省に提出した「履歴」(全生庵所蔵)でも明らかであり、「履歴」の記述内容は、これまで知られていた山岡直筆「談判筆記」(全生庵所蔵)とほぼ重なると解説された。
  8. 「履歴」と「談判筆記」に記されているように、「静岡会談」で山岡はしっかりと政治的交渉を行い、慶喜の処遇を保留している。この会談で示されたその他の条件、江戸城明け渡し、旗本等は向島に移ること、城内の兵器の引き渡し、軍艦の引き渡しは、降伏に附随する、なかば実務的な事後処理問題で、慶喜の処遇に比べれば比較的軽いものである。要するに、三月十三・十四日の会談は、「静岡会談」で山岡が保留にしてきた項目を話し合う会談であり、勝海舟や大久保一翁に、結果的に山岡が用意した「花道」だった。
  9. 結論として、「江戸無血開城」の旧幕府側の第一番の功労者である「一番槍」は、徳川慶喜本人が認定しているように、山岡鉄舟であると今後は語られるべきと強く述べられた。

2020年8月25日 (火)

2020年月7月勝海舟記念館見学開催結果

開催した718()、東京の気温は、現在の猛暑からは考えられない最高22度、最低19度という涼しさで、写真の大田区立「勝海舟記念館」にお集まりいただいた方々も、少しはホッとされたと思います。

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記念館では、皆様、9月の岩下哲典教授のご発表への準備と勉強をされました。

ご参加の皆様にお礼申し上げます。

2020年2月26日 (水)

2020年2月例会開催結果

2020年2月例会開催結果
 2020年2月例会は、末松正二氏からテーマ「東郷ターン」についてご発表いただきました。 
1. 昨秋、横須賀で戦艦三笠を見学した際、連合艦隊司令長官の東郷平八郎の写真とともに、ロシアのバルチック艦隊との戦いにおいて、東郷が右手をさっと上げて左旋回を命じ、「T字戦法」を採ったという解説がなされていたが、事実は「東郷ターン」ではないかということの解説をしたい。

2. 実際に「T字戦法」を採ったのは黄海海戦である。黄海海戦とは1904年(明治37年)8月10日にロシア艦隊(旅順艦隊)との間で戦われた海戦で、図のように青色が日本艦隊で「T字戦法」を採り、赤色のロシア艦隊を攻撃する図式である。

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しかし、ロシア艦隊は日本艦隊の後部をすり抜けてウラジオストックへ向かったため、日本艦隊は慌てて逆方向にUターンして追いかけ攻撃するが、ロシア艦隊はもと来た方向へ更にUターンし、旅順港へ逃げ帰ってしまった。取り逃がしてしまったわけである。

3. 旅順港に入ったロシア艦隊、日本側はロシアが艦隊修理を行って、元の状態に戻ったと推測した。そこでバルチック艦隊が日本海にやって来る前に、旅順を攻め落としてほしいと陸軍に懇願し、陸軍は第三軍(司令官乃木希典)を派遣し、陸から旅順を攻める作戦を採った。だが、実は旅順艦隊は酷く損傷しており、8月~10月にかけてからの28インチ柘榴要塞砲による観測射撃で、実質全滅していた。つまり、陸からの旅順攻撃は不要であったのに、海軍からの懇願によってなされたロシアのセメントで頑丈に固めた永久要塞への攻撃によって、膨大な犠牲者を出してしまった。また、日本海軍は黄海海戦によって「T字戦法」がうまくいかないということが分かった。

4. バルチック艦隊が日本海に来たのは1905年(明治38年)5月。この間にウラジオストック艦隊は同年8月14日の蔚山沖(うるさんおき)海戦で殲滅されていたので、敵はバルチック艦隊のみとなった。対馬沖に現れたバルチック艦隊、日本側は併行作戦を採ろうと、最初に連携機雷による攻撃をしようとしたが、海が荒れて難しい。そこで艦隊決戦となった。日本艦隊は速力を活かし、併行しつつ敵の前部を押える「くの字作戦」を展開した。当時は大砲の届く距離は8千mといわれ、日本艦隊とバルチック艦隊は真正面に向い進んだが、左図のように日本側は西側(左側)にずれて進んだ。距離が8千mに近づいたところで、ロシア側は発砲。

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5. 日本側の砲術長(安保清種)は、右舷から発砲するのか、左舷から発砲するのか決めてもらわないと準備ができない。東郷を見やりながら砲術長が叫ぶ。「右ですか、左ですか?」東郷は一番高い艦橋に立ち双眼鏡で敵を見つめたまま無言。参謀長の加藤友三郎は距離8千mを確認し「取舵一杯」と叫んだ。これは左側に思いきり舵を切れとの命令である。東郷と加藤は視線を合わせ頷き合いました。これが有名な「東郷ターン」の真実である。日本艦隊は一斉に左転回した。驚いたのはロシア側。天の助けだ、日本側が絶好の攻撃態勢をつくってくれたと猛烈な砲撃を開始するが、波が荒く一割も当たらない。距離6千mで日本側は砲撃開始、訓練の成果もあって5割くらいの確立で命中したと言われている。ロシア側は大混乱、慌ててUターンをしたりして混乱した。

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6. これを見て第二艦隊司令長官の上村彦之亟は、第一艦隊についていかず、左旋回せずに、そのまま進行し(下の左図)、ロシア艦隊をやり過ごしてから左へ旋回し、第一艦隊と第二艦隊とで挟み撃ち(下の右図)となり、日本側の一方的勝利となった。これを後に天才参謀・秋山真之は「乙字戦法」と言った。

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7. 以上の解説は次の二冊を参照しております。
『日本海海戦かく勝てり』戸高一成・半藤一利著 PHP研究所
     
『徹底検証 日清・日露戦争』半藤一利・秦郁彦・原剛・松本健一・
戸高一成著 文藝春秋
          
末松氏のご発表、緻密な構築に基づく詳しい内容で、改めて、日露海戦について理解を深めることができました。

しかし、横須賀の戦艦三笠に書かれている連合艦隊司令長官の東郷平八郎が「T字戦法を採った」という文言表示、多くの人が訪れる場所ですから、正確を期してもらいたいものだと思います。
末松氏の明確かつ分かりやすい図表を用いたご発表、深く感謝申し上げます。

2019年12月25日 (水)

2019年12月例会開催結果

2019年12月18日(水)例会は山本紀久雄が、

以下の「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』(結城素明作)壁画の怪」(その二)

について発表いたしました。
     
 発表の概要は以下の通りです。
1. 二世五姓田芳柳が壁画『下絵』と『画題考証図』を描いた
2. 大正15年10月絵画館が竣工、壁画は昭和11年4月最終搬入された
3. 二世五姓田芳柳が描いた『下絵』は①「江戸開城(玄関前)」
②「江戸開城」③「画題無記名」の3枚存在している
4. 『画題考証図』は③「画題無記名」をもとに描かれた
5.  海舟の刀の位置は『下絵』では右脇、『画題考証図』では左脇と異なってい
  る
6. 「聖徳記念絵画館」藤井副館長はテレビにて、海舟が左脇に刀を置いている
のは、この絵が緊張場面である事を意味すると発言したことを紹介
7. 刀作法における武士の常識・良識から、左脇に刀を置くのはおかしいと結論
化できる
8. では、結城素明は刀の常識・良識を知らなかったのか
9. 結城素明は数多くの出版を行っているように「博学多才」な人物。中でも『伊
豆長八』(昭和13年刊)は長八を世に知らしめたという功績は高い
⒒ 藤田記念博物館学芸員・藤田龍文氏は、「結城素明は余りにも博学多才であ
  ったため、画風の表現の幅が広く、素明の画風はどういったものか、代表的
作品は何か、と戸惑ってしまうと述べる」
12.「先ず自己の頭脳を作れ」が結城素明の言葉であって、そのためには自己の
確立、新しさの追求、幅広い教養が必要かつ重要だと説く。これは結城素明の人生そのものを表現した言葉に思え、このような結城素明であるから海舟の刀に位置なぞどうでもよかったと推察する
13.ということになると、二世五姓田芳流が『下絵』で右脇に刀を置き描き、『画
題考証図』では左脇に刀を置くように描き分けたことが問題となる
14.何故に刀の常識・良識と異なる『画題考証図』としたのか。幕末史の暗黙知
か、それとも作為で描かせたのか
15.これらを2020年4月例会で解明し発表する。ご期待ください
 

2019年11月29日 (金)

2019年12月例会

2019年12月例会は山本紀久雄が発表いたします。

発表者   山本紀久雄 

テーマ  「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』壁画の怪」(その二) 

日程    20191218()

時間    1830分~20

会費    1500

会場    東京文化会館・中会議室1

9月例会の聖徳記念絵画館で鑑賞した『江戸開城談判』(結城素明画)、          

  • これは「正史」なのか、それとも「作られた歴史」なのか、
  • または「ノンフィクシヨン」なのか、それとも「フィクション」なのか

2019年7月の発表に続いて、様々な角度から分析・研究した結果の「その二」を発表いたします。  

 

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