2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

例会の報告

2020年2月26日 (水)

2020年2月例会開催結果

2020年2月例会開催結果
 2020年2月例会は、末松正二氏からテーマ「東郷ターン」についてご発表いただきました。 
1. 昨秋、横須賀で戦艦三笠を見学した際、連合艦隊司令長官の東郷平八郎の写真とともに、ロシアのバルチック艦隊との戦いにおいて、東郷が右手をさっと上げて左旋回を命じ、「T字戦法」を採ったという解説がなされていたが、事実は「東郷ターン」ではないかということの解説をしたい。

2. 実際に「T字戦法」を採ったのは黄海海戦である。黄海海戦とは1904年(明治37年)8月10日にロシア艦隊(旅順艦隊)との間で戦われた海戦で、図のように青色が日本艦隊で「T字戦法」を採り、赤色のロシア艦隊を攻撃する図式である。

1
しかし、ロシア艦隊は日本艦隊の後部をすり抜けてウラジオストックへ向かったため、日本艦隊は慌てて逆方向にUターンして追いかけ攻撃するが、ロシア艦隊はもと来た方向へ更にUターンし、旅順港へ逃げ帰ってしまった。取り逃がしてしまったわけである。

3. 旅順港に入ったロシア艦隊、日本側はロシアが艦隊修理を行って、元の状態に戻ったと推測した。そこでバルチック艦隊が日本海にやって来る前に、旅順を攻め落としてほしいと陸軍に懇願し、陸軍は第三軍(司令官乃木希典)を派遣し、陸から旅順を攻める作戦を採った。だが、実は旅順艦隊は酷く損傷しており、8月~10月にかけてからの28インチ柘榴要塞砲による観測射撃で、実質全滅していた。つまり、陸からの旅順攻撃は不要であったのに、海軍からの懇願によってなされたロシアのセメントで頑丈に固めた永久要塞への攻撃によって、膨大な犠牲者を出してしまった。また、日本海軍は黄海海戦によって「T字戦法」がうまくいかないということが分かった。

4. バルチック艦隊が日本海に来たのは1905年(明治38年)5月。この間にウラジオストック艦隊は同年8月14日の蔚山沖(うるさんおき)海戦で殲滅されていたので、敵はバルチック艦隊のみとなった。対馬沖に現れたバルチック艦隊、日本側は併行作戦を採ろうと、最初に連携機雷による攻撃をしようとしたが、海が荒れて難しい。そこで艦隊決戦となった。日本艦隊は速力を活かし、併行しつつ敵の前部を押える「くの字作戦」を展開した。当時は大砲の届く距離は8千mといわれ、日本艦隊とバルチック艦隊は真正面に向い進んだが、左図のように日本側は西側(左側)にずれて進んだ。距離が8千mに近づいたところで、ロシア側は発砲。

2_20200226093301
5. 日本側の砲術長(安保清種)は、右舷から発砲するのか、左舷から発砲するのか決めてもらわないと準備ができない。東郷を見やりながら砲術長が叫ぶ。「右ですか、左ですか?」東郷は一番高い艦橋に立ち双眼鏡で敵を見つめたまま無言。参謀長の加藤友三郎は距離8千mを確認し「取舵一杯」と叫んだ。これは左側に思いきり舵を切れとの命令である。東郷と加藤は視線を合わせ頷き合いました。これが有名な「東郷ターン」の真実である。日本艦隊は一斉に左転回した。驚いたのはロシア側。天の助けだ、日本側が絶好の攻撃態勢をつくってくれたと猛烈な砲撃を開始するが、波が荒く一割も当たらない。距離6千mで日本側は砲撃開始、訓練の成果もあって5割くらいの確立で命中したと言われている。ロシア側は大混乱、慌ててUターンをしたりして混乱した。

3
6. これを見て第二艦隊司令長官の上村彦之亟は、第一艦隊についていかず、左旋回せずに、そのまま進行し(下の左図)、ロシア艦隊をやり過ごしてから左へ旋回し、第一艦隊と第二艦隊とで挟み撃ち(下の右図)となり、日本側の一方的勝利となった。これを後に天才参謀・秋山真之は「乙字戦法」と言った。

4     5
    
7. 以上の解説は次の二冊を参照しております。
『日本海海戦かく勝てり』戸高一成・半藤一利著 PHP研究所
     
『徹底検証 日清・日露戦争』半藤一利・秦郁彦・原剛・松本健一・
戸高一成著 文藝春秋
          
末松氏のご発表、緻密な構築に基づく詳しい内容で、改めて、日露海戦について理解を深めることができました。

しかし、横須賀の戦艦三笠に書かれている連合艦隊司令長官の東郷平八郎が「T字戦法を採った」という文言表示、多くの人が訪れる場所ですから、正確を期してもらいたいものだと思います。
末松氏の明確かつ分かりやすい図表を用いたご発表、深く感謝申し上げます。

2019年12月25日 (水)

2019年12月例会開催結果

2019年12月18日(水)例会は山本紀久雄が、

以下の「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』(結城素明作)壁画の怪」(その二)

について発表いたしました。
     
 発表の概要は以下の通りです。
1. 二世五姓田芳柳が壁画『下絵』と『画題考証図』を描いた
2. 大正15年10月絵画館が竣工、壁画は昭和11年4月最終搬入された
3. 二世五姓田芳柳が描いた『下絵』は①「江戸開城(玄関前)」
②「江戸開城」③「画題無記名」の3枚存在している
4. 『画題考証図』は③「画題無記名」をもとに描かれた
5.  海舟の刀の位置は『下絵』では右脇、『画題考証図』では左脇と異なってい
  る
6. 「聖徳記念絵画館」藤井副館長はテレビにて、海舟が左脇に刀を置いている
のは、この絵が緊張場面である事を意味すると発言したことを紹介
7. 刀作法における武士の常識・良識から、左脇に刀を置くのはおかしいと結論
化できる
8. では、結城素明は刀の常識・良識を知らなかったのか
9. 結城素明は数多くの出版を行っているように「博学多才」な人物。中でも『伊
豆長八』(昭和13年刊)は長八を世に知らしめたという功績は高い
⒒ 藤田記念博物館学芸員・藤田龍文氏は、「結城素明は余りにも博学多才であ
  ったため、画風の表現の幅が広く、素明の画風はどういったものか、代表的
作品は何か、と戸惑ってしまうと述べる」
12.「先ず自己の頭脳を作れ」が結城素明の言葉であって、そのためには自己の
確立、新しさの追求、幅広い教養が必要かつ重要だと説く。これは結城素明の人生そのものを表現した言葉に思え、このような結城素明であるから海舟の刀に位置なぞどうでもよかったと推察する
13.ということになると、二世五姓田芳流が『下絵』で右脇に刀を置き描き、『画
題考証図』では左脇に刀を置くように描き分けたことが問題となる
14.何故に刀の常識・良識と異なる『画題考証図』としたのか。幕末史の暗黙知
か、それとも作為で描かせたのか
15.これらを2020年4月例会で解明し発表する。ご期待ください
 

2019年11月29日 (金)

2019年12月例会

2019年12月例会は山本紀久雄が発表いたします。

発表者   山本紀久雄 

テーマ  「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』壁画の怪」(その二) 

日程    20191218()

時間    1830分~20

会費    1500

会場    東京文化会館・中会議室1

9月例会の聖徳記念絵画館で鑑賞した『江戸開城談判』(結城素明画)、          

  • これは「正史」なのか、それとも「作られた歴史」なのか、
  • または「ノンフィクシヨン」なのか、それとも「フィクション」なのか

2019年7月の発表に続いて、様々な角度から分析・研究した結果の「その二」を発表いたします。  

 

2019年11月例会開催結果

2019年11月例会は16日(土)に、堀越直子氏ガイドによる「上野~谷中 歴史散策」を開催いたしました。

 この日は、高輪ゲートウェイ駅開業に向けた線路切換工事が、山手線と京浜東北線で行われたことで、東京文化会館前に集合するために、迂回されるなど、ご苦労された方が多くおられました。

 また、体調面から急遽欠席された方も多くおられましたが、天候に恵まれ、1340分スタート、懇親会の谷中「山ぎし」に到着した17時まで休憩なしで、皆さんの健脚に史跡も驚いたと思います。

 歴史散策コースの始まりは「天海僧正毛髪塔」⇒「西郷隆盛像」⇒「彰義隊戦士の墓」から各史跡を回り「上野東照宮」⇒「寛永寺根本中堂」へと向い、「谷中霊園墓地」内に入り、徳川慶喜、勝精、雲井龍雄他の著名人墓地を回り、大雄寺の高橋泥舟墓を経て全生庵へ。

堀越さんが作成してくれた鉄舟と関係者の墓地を巡り、谷中・よみせ通り「山ぎし」で名物「鰻重」を賞味いたしました。

 Img_2198-2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(堀越氏のガイドに聞き入る)  

 なお、全生庵墓地入口に安置されている、入江長八作(こて)芸術「石造地蔵菩薩」像については、聖徳記念絵画館に掲示されている「江戸開城談判」壁画、これを描いた結城素明画伯につながるストーリーがありますので、

鉄舟と長八の関係も含めて12月例会で山本紀久雄が説明いたします。

 

11月例会は「台東区観光ボランティアガイド会」公認ガイドとしてご活躍されておられる堀越氏の名解説で、「上野~谷中 歴史散策」を楽しみました。

毎年、11月はガイドをされる機会が多く、大変ご多忙の中、ご案内賜り深く感謝申し上げます。Img_2198-2

2019年9月25日 (水)

2019年9月例会開催結果

2019年9月例会は、「聖徳記念絵画館」の壁画鑑賞、次に本年11月末完成予定の「新国立競技場」外郭を見てから、明治記念館でコーヒータイムをいたしました。

Img_1028-2

絵画館で皆さんから出されたいくつかのご質問にお答えすることで、例会報告とさせていただきます。

  • ここは絵画館と称しているが、どうして美術館と言わないのか

調べた範囲では日本の絵画館は現在二つあるようです。一つが「聖徳記念絵画館」、もう一つが長野県東御市にある梅野記念絵画館です。

美術館や博物館は既にコレクションが存在する場合の施設として設立されるが、絵画館は設置を決定したときに、展示公開する絵画をこれから制作しようという手順で出来上がったため、絵画館と称しているようです。

聖徳記念絵画館建物の竣工は大正15年。最終壁画奉納は昭和11年。絵画館本公開は昭和12年です。

  •  館内の壁画は日本画と洋画が左右に配置されているが、日本画も洋画のように感じるわけは

絵画館の内部空間は、中央の大広間から左右両翼に回廊がのび、正面向って右翼側(東側)の第一画室と第二画室に日本画40点、左翼側(西側)の第三画室と第四画室に洋画40点、計80点の壁画が縦3m・横2.7mと統一され整然と並んでいる。大正10(1921)1月に80画題が決定。ここで画家の選定に入り、洋画家の黒田清輝を責任者として、河合玉堂や横山大観などの日本画家の意見も取り入れ、天皇が伝統世界に生きておられた前半生を日本画で、近代化する明治の後半生を洋画ということに決した。

Cid_88c410c83b774afb9c0219fcf066f9c9

洋画の人選は順調に進んだが、日本画の方は奉納者から推薦が多く、例えば旧大名からはその藩出身の画家を推薦するなどしたため、芸術性を追求する専門委員と理事会の間で紛糾し、怒った横山大観は委員を辞任、河合玉堂、竹内梄鳳も手を引いてしまった。

その結果、日本美術院系の大半を除いた画家たちによって描かれることになった。つまり、いわゆる矇朧(もうろう)的な画風ではなく、西洋風の写実を日本画に摂り入れ、観念の表現をきらう主張の作者が選定されたので、一見すると日本画と洋画の区別が明確でないと思われるきらいもある。

 

  • 特に洋画の方にパノラマ的の絵が多いのはなぜか?

明治30年代の日本で流行したのがパノラマで、これは特に日清日露戦争などスペクタクルを現前化することにあったためと、壁画作者に「画題考証図」が与えられたが、これを描いた二世五姓田芳柳がパノラマ的大画面の制作に秀でていたことも一因といわれている。

まだいろいろご質問もありましたが、山本紀久雄が「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』壁画の怪 その二」を2019年12月に発表いたしますので、その際にご指摘の程お願いいたします。

ところで、『江戸開城談判』壁画について「この壁画は結城素明が昭和10年(1935)4月の制作49歳時である」と絵画館での説明書きとなっておりました。

これは明らかに間違いで、結城素明は明治8年(1875)12月生まれですから、昭和10年(1935)4月ですと59歳となります。

この件、聖徳記念絵画館の副館長に連絡いたしましたところ、早速に「ご指摘ありがとうございます。訂正いたします」との返事が参りました事、報告いたします。

絵画館の後は、「新国立競技場」の外郭を見てから、明治記念館でコーヒータイムをいたしました。絵画館壁画『枢密院憲法会議』(二世五姓田芳柳画)の場となった「金鵄の間」を予定しましたが、この日は結婚式があり、喫茶室でのコーヒータイムとなり、最後に花婿・花嫁が居並ぶ中庭で、大昔に花婿・花嫁だった参加者で記念写真を撮りました。

Cid_63ddef75f1624bedafd6e8f555379859

 雨も降らず、暑さもなく、無事、聖徳記念絵画館視察を終えることが出来ました。ご参加の皆さんに感謝申し上げます。

2019年7月29日 (月)

2019年7月例会開催結果

山本紀久雄から「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』壁画の怪その一」を発表いたしました。

1912年(明治45)730日明治天皇崩御。明治神宮内苑を国費により造営、神宮外苑は財団法人明治神宮奉賛会により、様々な献金によって造営され、聖徳記念絵画館も同様で、絵画館内には80枚の歴史壁画が掲示されている。そのひとつが『江戸開城談判』(結城素明画)で、教科書にも掲載されている有名な作品であるが、果たしてこれは「正史」なのか、それとも「作られた歴史」なのか。

または「ノンフィクシヨン」なのか。それとも「フィクション」なのか。様々な角度から分析・研究した結果の前半部分である「その一」を以下のように発表いたしました。

Photo_20190729090301

『江戸開城談判』壁画は、これは「二世五姓田芳柳」が描いた『下絵』(所蔵「茨城県近代美術館」) と、同じく「二世五姓田芳柳」が描いた『画題考証図』(『明治神宮叢書第20巻図録編』発行者 明治神宮社務所)によって描かれている。

その『下絵』は、「江戸開城(玄関前)」、「江戸開城」、それと「画題無記名」の3枚があり、その中から「画題無記名」が明治神宮奉賛会理事の水上浩躬によって以下の理由によって選定されている。

≪正面より描写するときは余り表面的に流れ、側面より描写する方却て其真相を現はすに妙なるものあり、斯る書題は御身辺の遠近に拘はらず側面描写に據(よ)れり、江戸開城に関し江戸明渡の場を排して、薩摩邸談判の場を擇(えら)みしが如きは、其例の顕著なるものなり≫(水上浩躬論文「壁書題選定の経過及其成果(2)」『歴史地理』大正11年2月1日発行)

この水上浩躬による選定について、疑問があり、さらに壁画に『江戸開城談』とタイトル化されたことについても、勝海舟の「慶応四戊辰日記」(講談社 編者代表 江藤淳 昭和51年)3月14日に「同所に出頭、西郷に面会す。諸有司之嘆願書を渡す」記されているように、徳川側は「嘆願」を行ったのに、壁画は「談判」とタイトル化されていることについて問題提起した。

今回の発表は前半の「その一」であり、後半の「その二」を12月に発表することで全体像を解明したいと思っています。ご期待ください。

 

2019年6月26日 (水)

2019年6月例会開催結果

2019年6月例会は永冨明郎氏から「鉄舟に投げ飛ばされた男 雲井龍雄」について以下のようにご発表いただきました。

 

米沢藩の下級武士だった雲井龍雄、もとは中島龍三郎、のち小島家に養子入りし、更に明治初年から雲井を自称する。

慶応元年から江戸勤務の際に安井息軒塾で陽明学に傾く。

慶応2年以降の混沌とした京都情勢に、願い出て情報収集役として京に上り、政治活動に加わるが、この間、薩摩藩の「変節」に強い疑念を抱く。

息軒塾当時の人脈から土佐の後藤象二郎や長州の広沢真臣とも接触を深める。しかし王政大復古のクーデターなどを経て、自身の情報が限られていたことを反省し、奥羽列藩同盟に傾いていく。そして「討薩の檄」を発表し、これが列藩同盟諸藩にも配布される。

慶応4年6月、既に政府軍は白河攻防まで北上していることから、逆に二毛(栃木・群馬)で挙兵して政府軍を挟み撃ちする策を藩に上げ、運動することを許される。

しかし群馬では逆に前橋藩士らの襲撃をうけ、作戦遂行できず、その間に米沢藩は政府側に降伏していることを知る。会津陥落のひと月前であった。

明治2年、集議院に出仕することになるが、特に薩摩の動きを批判する言動はますます激しくなり、ひと月で辞職に追い込まれる。

東京の雲井の周囲に不満浪士たちが身を寄せるようになり、明治3年2月、高輪の二本榎にある円真寺に「帰順部局点検所」なる看板を挙げて、浪士たちを保護する行動に出る。

その点検所の運営資金を集めるため、長州の広沢真臣や土佐・佐々木高行などに接触する一方、静岡藩となった徳川家にも援助の要請をするため、山岡鉄舟を訪ねて来るが、鉄舟は雲井の話を聞いて、逆にその否を示すため、庭に投げ飛ばして追い返す。

その間、点検所の周囲や集まった浪士に対する官憲の目が厳しくなる。実際には雲井が頼りとしていた一人、広沢真臣(参議)などがその思想、行動に疑念を持っていたためである。

浪士らから、農民一揆を策していたことや、反政府騒乱を計画していたような話が官憲の知るところとなり、雲井は、一旦は米沢藩での禁固となるが、7月には再び東京に呼び出されて小伝馬牢獄に投じられる。

その年末(明治3年12月28日)、政府転覆を図ったとの罪状で、斬首梟首という極刑となる。享年27歳。部局の主だった者20名以上も併せて獄死、刑死している。

梟首に至った背景には、明治2-3年当時、大村益次郎(当時、実質的な兵部省のトップ)の暗殺、長州の奇兵隊の叛乱などに、新政府が神経を尖らせていたさ中のことだけに、そのような厳刑となったものと推測される。

なお、一時は雲井が信頼を寄せていた広沢真臣は、雲井の処刑のわずか11日後、自宅で暗殺される。真犯人については迷宮入りだが、同じ長州の木戸孝允は終生、雲井一統の犯行を疑っていたという。

その墓碑は最初に遺体が捨てられた千住小塚原(現・千住回向院)にあり、後に郷里米沢に遺骨が移されて墓ができている。

また谷中霊園には明治14年に建立された「龍男雲井君之墓表」と表記された顕彰碑もあるが、現時点ではこれが誰のどのような意図で建立されたのか、調査できていない。

 

いつもながら、永冨氏の講演はパワーポイントを駆使され、複雑な歴史事件構造を簡潔明解に、かつ、格調高く論述され、雲井龍雄という人物像を浮き上がらせていただきましたこと、感謝申し上げます。

 

2019年5月24日 (金)

2019年5月例会開催結果

2019年5月例会は喜多村園子氏からご発表いただきました。

喜多村氏は平成30年5月に『小林二郎伝』を出版、「山岡鉄舟研究会」や「越佐文人研究会」で講演されましたところ、小林二郎に関係する多くの資料や情報が寄せられ、それらについて研究し考察された内容を、今回「続編」として以下のようにお話しされました。

まず、最初に、数多くの資料や情報から「新たなる二郎」の人物像が浮かびあがった。特に、兄省介の冤罪時の様子が、この度解読した自筆訴状の行間から、いかに二郎が兄・省介を懸命に助けようとしたかが、窺われ読み取ることが出来、これが屠腹しようとした二郎の「明治七年血書錦絵」に繋がっていることを再確認できた。

また、二郎は出版人としても並々ならぬ業績を残しており、膨大な出版物を考えると、昼夜を分かたず出版し続けたのではないかとも推測できる。

さらに、こうした出版業の傍ら、明訓學校の設立・良寛堂建立の協力者・郵便局長など事業家として、各界の錚錚たる人々と交流し、新潟の文化を高めていった功績は計り知れない。

特に強調したいのは、良寛研究者として、また『僧良寛歌集』『僧良寛詩集』の出版を通して、良寛に対する敬慕の情は格別であったことと、その結果が須磨での客死へと推察している。

加えて強調できるのは、小林二郎が、出版人や各方面に多大の功績を遺したが、終生トップ の座を占めることはなく、常に事務局やNO2として困難且つまた苦労の多い難儀な仕事を引き受け、真摯に仕事を貫いたことである。その生き様は、二郎の師高橋泥舟や山岡鉄舟の生き方に重なると思う。

新潟に小林二郎という出版人・良寛敬慕者・文化人が存在したことを、出版を通じて知らしめることができたこと、今、喜んでいるところである。

今回のご発表は、昨年ご発表後一年間の小林二郎研究でありましたが、見事に考察を深められたプロセスを表明されたもので、鉄舟の教えに通じる「長期にわたって目標を持ち続けることの大事さ」を実践行動されました。
喜多村氏から学ぶこと多く敬意を表します。

2019年4月30日 (火)

2019年4月17日例会開催結果

2019年4月例会は、堀越直子氏と河瀬眞人氏からご発表いただきました。

① 堀越直子氏は、『台東区観光ボランティアガイドが案内する ~上野から谷中~「西郷どんコース」』をテーマに、ご自分が台東区の公認ガイドとしてご活躍の美声と、明確でわかりやすい「堀越節」で語り、例会参加の皆さんを魅了いたしました。
台東区観光ボランティアガイドは現在86名、平均年齢72.6歳、90歳以上の方も2人おられるとのご案内に、全員「エー、アー、すごい」と絶句。ガイドコースも19あり、お問い合わせは台東区立浅草文化観光センターに電話されると詳しい説明があるとのこと。☎03-3842-5599
皆さんから堀越さんのガイドで史跡めぐりしたいという希望が出ておりますので、堀越さんと日程調整いたしまして、再度、史跡現場にて「堀越節」をたっぷりお聞きできる機会をつくりたいと思っておりますので、お楽しみにお待ちください。

② 河瀬眞人氏からは『「明治天皇の侍従2人」旧幕臣山岡鉄太郎と旧長州藩士石川小五郎(河瀬真孝)』についてご発表いただきました。
河瀬真孝は河瀬眞人氏の曽祖父にあたります。河瀬氏は5年ほど前から家に伝わる古文書類の調査を始め、その中に鉄舟から真孝宛の手紙があり、二人の関係を調べてみると真孝は明治4年9月に侍従長、鉄舟は明治5年6月に侍従就任で、ほぼ同時期に明治天皇の侍従職と判明。
真孝は天保11年に萩藩士石川淳介の三男として出生。旧名を石川小五郎→河瀬安四郎→河瀬真孝と称し、石川家は代々周防吉敷佐山村(山口市佐
山)の出身で萩毛利家に仕える大組士であった。
真孝は幕末動乱の時代、馬関攘夷決行、朝陽丸事件に関与、この頃、石川小五郎は世子定広公の側役、後に敬親公の側役であったが、幕府の嫌疑を受け、母の疾病を理由に職を辞し山口に戻り河瀬安四郎と名乗り、山口宿営中の諸隊に留まり、同年冬諸隊が五卿を警衛し長府へ転陣に際し御盾隊に同行。その後、安四郎は遊撃隊総督に就任し、功山寺決起、四境戦争にも関与した。
戦争終結後の慶応3年3月、希望していた英国へ留学、明治4年帰国、侍従長に、退任後はイタリア・オーストリア弁理公使、後に全権公使、
元老院議官、高等法院陪席裁判官、元老院幹事、司法大輔、英国全権公使、枢密顧問官等を歴任。大正8年9月永眠。
このように河瀬氏の曽祖父・真孝氏は、赫赫たる要職を歴任されており、当然ながら幕末から明治に活躍した人物との関わりも深いわけで、さらに史実調査を続けられるならば、幕末・維新史に遺るであろう新史実が解明されるものと推測いたします。
河瀬氏の、ますますの史実研究を大いに期待いたしたいと思います。

2019年1月25日 (金)

2019年1月16日例会開催結果

1.2019年1月例会は『月刊武道2018年10月号』(公益財団法人日本武道館)の表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」を描いたアトリエ麻美乃絵・中村麻美先生から「月刊『武道』表紙絵より~維新の英傑たち「駿府談判」ほか」について以下の解説とともにご講演をいただきました。
Photo
「1868年3月9日、幕臣・山岡鉄舟は、駿府に陣を構える官軍参謀・西郷隆盛に会談を申し込みました。江戸決戦は目前、駿府への道中は命がけの旅でした。
西郷は江戸総攻撃を中止する条件の一つとして「徳川慶喜を備前に預ける事」と提示しました。しかし鉄舟はこれに応じず抗弁します。「朝命なり」と凄む西郷に対し、鉄舟は毅然と問いただしました。「立場が逆ならば、あなたは主人である島津の殿様を差し出しますか」。激論の末、しばらく考えた西郷は「先生の言うことはもっともだ。慶喜殿のことはこの吉之助が必ず取り計らう」と約束します。江戸無血開城は、鉄舟のこの命がけの尽力により成ったのでした。
のちに西郷は、江戸の民を守り、主君への忠義も貫いた鉄舟を評します。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
剣・禅・書の三道を極めた鉄舟は、1880年に無刀流の開祖となります。「敵と相対する時、刀に依らずして心を以って心を打つ」と修養を重んずる鉄舟の理念は、今日あらゆる武道に受け継がれ、今に活かされています」
的確な鉄舟の捉え方をされています。

また、表紙絵には鉄舟しか描かれていません。それは鉄舟ひとりで薩摩軍に対したという意義を、島津の陣幕を大きく描くことで強調し、鉄舟武士道精神を見事に表現されているのです。

鉄舟以外の表紙絵、「井伊直弼 雪の日の覚悟」、「白虎隊」、「榎本武揚 蝦夷地にかけた思い」、「江川太郎左衛門と韮山反射炉」、「福井藩士 由利公正 馬脅し」、「鍋島直茂と接ぎ木」、「鉢の木」、「山中鹿之助 我に七難八苦を与え給え」、「明智光春 誉れの湖水渡り」、「城戸俊三 名誉を捨てて愛馬を救う」などについても武士道に基づき解説をしていただきました。

『月刊武道』表紙絵は『伝えたい日本のこころ』(日本武道館発行)として出版されていますので、皆さんに推薦いたします。
ご多忙の中、ご講演賜った中村麻美先生に深く感謝申し上げます。

2.山本紀久雄からは、
① 2019年3月16日(土)に予定している「静岡地区研修旅行計画」をご案内しました。まだご参加登録されていない方はお申込みをお願いいたします。

② 次に「墨田区の鉄舟旧居跡の説明板撤去経緯」を説明いたしました。墨田区教育委員会が平成20年(2008)2月に墨田区亀沢4−11−15竪川中学校校門際に、「ここで鉄舟が天保7年(1836)御蔵奉行だった旗本小野朝右衛門高福の五男として生まれた」との説明板を設置いたしました。

しかし、これは明らかに誤っておりますので、2017年3月13日墨田区教育委員会に出向き、史料に基づき説明し、撤去を求めていたものが、2018年12月19日墨田区教育委員会事務局から「山岡鉄舟の説明板は、本日、板面交換を行い、別内容の説明板となりました」と連絡受けた事を報告いたしました。

山岡鉄舟が誕生した屋敷は、松島茂氏による研究によって、御蔵橋を渡って御蔵の入堀に沿って右に入る道の曲がり角、松平伯耆守屋敷と隣接する御蔵奉行御役屋敷(現:墨田区横網1—12の一部:旧安田庭園東南角地を含むL字路付辺)が小野朝右衛門の役宅であったと推定されています。

Photo_2
③ 続いて「神にならなかった鉄舟・・・その一」を発表いたしました。
鉄舟の弟子松岡萬(よろず)は「神」として、磐田市の松岡神社(写真)と、藤枝市の「松岡神社」に祀られています。

Photo_3
特定の人を神に祀り上げる習俗には二つの類型があり、一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」である。(参照『神になった人々』(小松和彦著 知恵の森文庫)

「祟り神」タイプは中世以前の人を神に祀った神社に多く、「顕彰神」タイプは「人神神社」で近世以降につくられており、為政者が創建したものばかりでなく、「松岡神社」のように民衆の側から積極的に建立されています。

弟子の松岡が神として祀られているのに、鉄舟は江戸無血開城という偉大な業績を遺したが、どこにも「鉄舟神社」は存在しない。
その疑問持ちつつ、神の検討を今後も研究し報告してまいります。

より以前の記事一覧