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武士道

2014年2月 5日 (水)

現代の武士道

                                             2013年3月
                        現代の武士道
                                              山本紀久雄
武士道には様々な解釈がある。ここでは現代の武士道を検討してみる。

1. 日本人の特質

まず、日本人が武士道という表現を発するのはどういう場合が多いか。それをいくつかの事例で述べてみたい。

最初は、2004年に日本の陸上自衛隊(軍隊)がイラクの復興支援活動として派遣された際に、隊長が派遣部隊員に訓示した内容である。

「武士道の国から来た自衛隊らしく規律正しく堂々と任務を遂行しよう」と述べ、武士道とは公に奉仕する気持ちで、蛮勇ではなく真の勇気と礼節を尊び、恥ずかしくない行動をとることだと補足した。イラクの現地で自衛隊が具体的にどのような行動をとり、その結果どのような評価を受けたかは後述する。

もうひとつは、2004年のアテネオリンピックのシンクロナイズスイミング競技である。このチーム(フリー)のテーマは武士道であった。サムライの心、武士道を静かさと激しさで表現する演技によって、銀メダルを獲得した。

また、 FIFA World CupやWorld Baseball Classic の日本代表につけられるネーミングは「サムライ日本」である。

このように対外国に発信する場合、武士道とかサムライという言い方を好んで使う日本人とは、どのような特質を持った国民なのか、それをいくつか挙げてみたい。

① 日本人は「引く文化」を持っている。文字の書き方、欧米は横書きであるが、日本は筆を自分の方に引き寄せて書く、つまり、縦書きである。日本語で「強引」というのは英語にするとPush Aheadというように押すという単語になるが、日本語では引くという字を使って表す。のこぎりの使い方で、日本人は手前に引き、欧米では向こうに押して伐る。この引くという特質を採り入れた私のビジネス体験は後述する。

② 日本人は親からのしつけで「人から後ろ指さされないように」「恥ずかしい事はするな」「体を清潔にしなさい」等を幼少時代から叩きこまれる。しつけの「し」は能でいう「仕手」の「し」であり、意図的に行為し振る舞うことを意味し、「つけ」とは行為や振る舞いが習慣化されることを意味している。また、このしつけという日本文字は「躾」と書くように、身体に美しいという字を寄り添わせる。古くは美という文字に代えて「花」「華」という字を使っていた。このようにしつけには内心の美的感覚が含まれているが、これは花がやがて散る運命にあることと、武士が戦闘で死ぬことと結び付け、その死を「花花しい討死」や「死に花を咲かせる」につなげたいというところからきている。

③ もう一つ私が親から徹底的に言われたことに、学校を卒業し企業に勤めたら「一度勤めた企業を辞めるな」ということがある。これは同じ環境下で「我慢・しんぼう」「継続した努力」をしなさいというしつけで、これが日本人の普通の感覚である。ただし、最近は少し変化したが、定年まで同じ企業に勤めるという終身雇用制のシステムは、親からのしつけが支えている。また、同一企業内での長い勤務期間中、異なる業務の事業所へ異動することが頻繁で、住居も替わることも通常であるが、その際、子供の教育上、転校を避けるために、夫が「単身赴任」するということが多々発生し、家族との別居生活を選ぶことになる。この別居生活は欧米感覚では考えられないだろうが、この背景には江戸時代(1603~1868)の参勤交代制度が関係している。日本全国の諸大名と家来は、1年毎に江戸と自国領を行き来して、大名の妻子は人質として江戸(東京)に常住しなければならず、家来の妻子は自国領に留まる仕組みを1635年に確立し、以後、この制度は徳川幕府終焉時まで続いた。「単身赴任」とは武士達が200年以上続けてきた習慣からの余流であり、現在でも社会の中に残っているものであって、日本人にとっては別に不思議なことではない。

2. 武士道の経緯

日本において武士道という名称が文献に現れるのは江戸時代に入ってからで、それ以前には見られない。

日本の15世紀から16世紀は戦国時代であり、そこでの武士という存在は、戦闘を専門職能とし、戦場における武勲を第一としていた。

だが、江戸時代に入ってからは島原の乱(1637~1638)以降、江戸時代が終るまでの230年、内戦も対外戦争もない日本史上稀な持続的平和の時代が続いた。

このような平和状態下では、武士は戦場へ行く必要がなくなる。そうなると戦う武士としての性格は維持しつつも、同時にこの持続的平和の時代が求める、平時の行政的分野に向かうことになり、行政を担当する治者・役人としての性格を併せ持っていき、武士の行動基準も平和時に合わせた形に変容していく。

つまり、武士道とは戦闘状態がなくなって、行政を担当する者として、新しい時代に対応するために、徳義論的内容を付加することで成立したものである。

江戸時代に武士道という文言が表現された文献について、笠谷和比古(かさやかずひこ)氏の論文「武士道概念の史的展開」(日本研究第35集2007年5月)から拾い出すと以下のとおりである。

① 寛永19年(1642)に出版された「可笑記(かしょうき)」、筆者は如儡子(にょらいし)、「武士道」文言が頻出する。

② 明暦2年(1656)に出版された「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」。それ以前は写本として流布。戦国時代の大名武田氏の軍学書で「武士道」を説いている。

③ 明暦4年(1658)に出版された「諸家評定(しょけひょうじょう)」、筆者は小笠原昨雲(おがさわらさくうん)、「武士道」文言がある。

④ 寛文12年(1672)に記された「武士道用鑑抄(ようかんしょう)」、筆者は石田一鼎(いしだいってい)、「武士道」要綱がある。

⑤ 貞享2年(1685)に出版された武者絵本の題名に「武士道」とある。

⑥ 享保1年(1716)頃にまとめられた「葉隠(はがくれ)」、筆者は山本常朝(つねとも)、「武士道」文言が頻出する。

⑦ 享保年間(1716年~1736)にまとめられた「武道初心集」、筆者は大道寺友山(だいどうじゆうざん)、「武士道」文言が頻出する。

⑧ 文化3年(1806)に出版された「武学啓蒙(ぶがくけいもう)」、筆者は石丸東山(とうざん)、「武士道」文言がある。

⑨ 嘉永3年(1850)に出版された「尚武論」、筆者は中村元恒(もとつね)、「武士道」文言がある。

⑩ 安政3年(1856)の吉田松陰による講義草稿「武教全書講録」に「武士道」文言が頻出する。

⑪ 安政5年(1858)の山岡鉄舟による「修心要領」、「武士道」文言がある。

⑫ 安政5年(1858)の川路聖謨(かわじとしあきら)の「遺書」、「武士道」文言がある。

以上の中から、「可笑記」について少し補足したい。

「可笑記」は五巻からなる武士教訓書であり、1642年の刊行後、徒然草を擬した随筆体で、時世を風刺し、当世武士の不覚悟を訓戒するものであって、人びとの間で好評を博し、1660年にも新たに出版され、さらに刷りを重ねながら元禄時代(1688~1703)に至ってもなお、かなりの読者に求められていたことが知られている。

作者は如儡子としているが、東北地方の有力武士の家系に出自を有する名族の末葉と思われる。父はこの地方の大名家に仕えるも、のち牢人となり家族とともに各地を徘徊するうちに病没したため、作者は母の手で育てられ、のち母とともども江戸に出て仕官の途を探し求めたが、遂に果たすことなく市井に身を隠したまま月日を送っていた。

このような流浪の境涯にあったが、その武士としての誇りは高く、また諸学諸道に通じた学識教養の高い武士であった。

このような武士によって書かれた教訓書が、武士道に対する概念内容として、当時の一般社会に受け入れられたのである。

その一部を「可笑記」の「武士道の吟味」から拾ってみる。

「武士道の吟味とは、嘘をつかず、軽薄でなく、佞人でなく、二枚舌でなく、胴慾でなく、無礼でなく、高慢でなく、驕慢でなく、人を誹謗中傷することなく、主人への奉公が疎かでなく、朋輩との仲もよく、些細なことにはとらわれず、人との間柄も睦まじく他人を称揚し、慈悲深く、義理がたいことを肝要と心得るような精神的態度であり、単に命を惜しまぬ勇猛一辺倒では、良い侍とは言われぬ」

これが江戸時代の武士道として理解されていたものであり、武士道概念に神道的、儒教的、仏教禅的修養論などをとり入れて「神儒仏三教一体の徳義論的武士道」となっている。

3. 新渡戸稲造の武士道

1899年に新渡戸稲造が英語でBUSHIDO THE SOUL OF JAPANを書き、これにより日本の武士道が世界に知られるきっかけとなった。ご関心のある方は各国語に翻訳されているので読んでいただきたいが、ここでは同書の中から以下の二項目を紹介したい。引用は「対訳 武士道 新渡戸稲造著 奈良本辰也訳 三笠書房」である。

① 武士道を書いた理由(第一版序文)

約10年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレー氏 M.de Laveleyeの家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。

そのとき、私はその質問にがく然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことにようやく思いあたった。

この小著の直接の発端は、私の妻がどうしてこれこれの考え方や習慣が日本でいきわたっているのか、という質問をひんぱんにあびせたからである。

ラヴレー氏と妻に満足のいく答えをしようと考えているうちに、私は封建制と武士道がわからなくては、現代の日本の道徳の観念は封をしたままの書物同然であることがわかった。
そこで私の長い病のためにやむを得ずできた機会を利用して、家庭内でかわしていた会話の中で得られた回答のいくつかを、読者に整理して述べてみることにする。それらは主として封建制度がまだ勢力をもっていた私の青年時代に、人から教わり、命じられてきたことである。

② 武士道とは何か(第一章)

武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。わが国の歴史の本棚の中におさめられている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本のひとつではない。

それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手に触れる姿や形はもたないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちをひきつけてやまない存在であることを十分に気付かせてくれる。

武士道をはぐくみ、育てた、社会的条件が消え失せて久しい。かつては実在し、現在の瞬間には消失してしまっている、はるか彼方の星のように、武士道はなおわれわれの頭上に光を注ぎつづけている。

封建制度の所産である武士道の光は、その母である封建制度よりも永く生きのびて、人倫の道のありようを照らしつづけている。

私が大まかに武士道と表現した日本語のことばは、その語源において騎士道よりももっと多くの意味合いをもっている。

ブ・シ・ドウとは字義どおりには、武・士・道である。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味している。武士道は一言でいえば「騎士道の規律」、武士階級の「高い身分に伴う義務 Noblesse Oblige」である。

さて、武士道とは、武士が守るべきものとして要求され、あるいは教育をうける道徳的徳目の作法である。

それは成文法ではない。せいぜい口伝によるか、著名な武士や家臣の筆になるいくつかの格言によって成り立っている。

それは、時には語られず、書かれることもない作法である。それだけに、実際の行動にあたってはますます強力な拘束力をもち、人びとの心に刻みこまれた掟である。

武士道はどのような有能な人物であろうとも、一個の頭脳が創造しえたものではない。また、いかなる卓抜な人物であったとしても、ある人物がその生涯を賭けてつくりだしたものでもなかった。

むしろ、それは何十年、何百年にもわたって武士の生き方の有機的産物であった。

だから私たちは、明確にその時と場所を指定して「ここに武士道の源あり」ということはできない。

だが、ただ一ついいうることは、武士道は封建制の時代に自覚されたものである。したがって時というならば、その起源は封建制と一致する、ということである」

以下、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」「切腹」「刀」「大和魂」等について考察し武士道を解説している。

このようにこの本は、教育者であり外交官であった新渡戸稲造が、江戸時代に培われてきた武士道を整理し網羅したものである。

4. 山岡鉄舟の武士道

私は山岡鉄舟の武士道としての生き方を研究することで、今の時代にふさわしい生き方をお伝えするために山岡鉄舟研究会を主宰している者である。

山岡鉄舟(1836~1888)とは、江戸時代は徳川幕府の武士として、明治時代では天皇の侍従として、封建時代の終わりから近代化へ踏み出した日本で、武士道精神を実践行動し、社会に大きな影響を与えた人物である。

鉄舟の武士道体得への道は、まず、幼少時代の剣の修行から始まり、その追及過程で禅修行に入り、長年にわたる厳しい激しい修行結果「大悟(だいご)」という「無我」の境地に達し、書家としても高名となったように、「剣・禅・書」三位一体の達人である。
(注 大悟とは迷いを持たない境地に達すること。何らの煩悩迷妄を遺さないこと)

鉄舟は、剣修行について23歳(1858)に書き示した「修心要領」で次のように語っている。

「私が今日剣を修行しているのについては、考え方がだいぶ他人と異なっている。世間の人が剣を学ぶのは、おそらく敵を斬ろうがためであろう。私の剣修行は違う。私は剣の呼吸において、神妙の理を悟りたいのだ。一度そこまで行きつけば、心境は止水のごとく、明鏡のごとくになるであろう。天地の秘密はそのまま私の心に宿り、私と天地は同一のものであることが、からりと分かってくるに違いない。世間の人は私を目して猛虎のようだという。しかし私はまだ嘗て殺生をしたこともないし、一点他人に害を加えたこともない」

実際に鉄舟は一生この道を踏み外していなく、人への殺生は一切していない。

人の心について、同じく「修心要領」で次のように書き述べている。
「私が思うには、人の心は宇宙と同じであらねばならぬ。もし心が宇宙と同じようになってしまえば、天地万物、山川河海もまたわが身と等しいわけである。さすれば、四季の移り変わりも、幽明昼夜も、風雨も、雷も、霜雪も、みんな私が寝たり起きたり歩いたりするようなものである。世事に顚倒があり、人事に順逆があるのは、人生に陰陽がある如きものである。人の生死は、昼夜の如きものと心得なくてはならぬ。そうだとすれば、何を好き嫌いしたり、くよくよしたりする必要があろうぞ。ただ道に従って自在なるのみである。深く研究してみなければならない」

また、ある僧侶が鉄舟に「剣の極意とは何か」と問うと、鉄舟は「それは浅草の観音さんにある」と答えた。
そこで僧侶は浅草に行き浅草寺の観音さんに日参したが分からない。再び、鉄舟に尋ねると、寺の扁額に書かれている「施無畏(せむい)」という言葉、あれが極意だと答えた。この「施無畏」は仏教・観音経の経文にあって意味は「我らの一生、何をするかというと、いわば無畏を施す、つまり、怖れのないところをつかむのである。何ものも怖れない。何ものにも少しもおじけない。病気を怖れず、死ぬことを怖れず、貧乏することも怖れない。何ものも怖れない」であって、鉄舟はこの極意の境地に達していたのである。

さらに、鉄舟はこの境地を武士道の発言地と表現した。そのことを1887年に山岡邸において門人たちに武士道講義を行った中で次のように述べた。

「日本の武士道ということは日本人の服膺践行(ふくようせんこう)すべき道というわけである。その道の淵源(えんげん)を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻徳(こうとく)を奉謝することに躊躇しないであろう。これすなわち武士道の発言地である」
(注 四恩とは①父母の恩 ②衆生(しゅじょう)の恩 ③国王の恩 ④仏・法・僧の恩)

この内容、少し分かりにくいので私なりに噛み砕くと、鉄舟がいう武士道としての人間の道は、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」という既存の徳目一つひとつを対象として実践することではなく、それらの全ての底、基底部分を貫き、それらを成り立たせている根本原理を体得し実践することであって、その根本原理を「無我」であると述べているのである。

このように鉄舟の武士道は、自らに課した厳しく激しい修行で辿り着けた「無我」の境地から説き、実践したものであるが、この境地には誰もが辿り着けるレベルではないことも事実である。しかし、だからこそ鉄舟を研究する価値があると考えている。

5. 現代の武士道

さて、江戸時代に武士道として文献に現れ、明治時代に新渡戸稲造が整理しまとめた日本人の武士道、それが現代ではどのような場面で日本社会の中で表出しているのであろうか。

その事例をいくつか述べていきたい。

① 2004年の陸上自衛隊(軍隊)イラクの復興支援活動に見る武士道

「武士道の国から来た自衛隊らしく規律正しく堂々と任務を遂行しよう」と述べた番匠(ばんしょう)幸一郎隊長がまず、最初に心がけたのは義理・人情・浪花節で接したいということであった。
(注 浪花節(なにわぶし)とは、明治時代初期から始まった演芸の一つ。浪曲(ろうきょく)とも言い、三味線を伴奏に用いて物語を語る大衆娯楽。庶民的な義理人情に訴える作品が多い事から、転じて「浪花節にでもでてきそうな」という意味で、義理に流された話を「浪花節的な」あるいは単に「浪花節」と比喩することが多い)

番匠隊長は、国籍、宗教とか文化的背景は国によって異なるが、最後は人間一対一の関係であるので、義理・人情・浪花節を持っていれば通じ合えると信じ、イラクの人達が主役である復興、その手伝いを日本からの友人としてお手伝いするのが任務であるから、イラク人のニーズを汲み取って敬意を払い、現地の人々に次のように語りつづけた。

「我々はあなた方の友人として、日本からイラクに来た。我々日本も、先の世界大戦で敗れ、国土は焦土と化した。すべてが無に帰し、食糧にも困る日々が続いた。そんな廃墟の中から、私たちの祖父母、父母の世代が起ちあがり、大変な努力をして、日本を復興させた。結果として世界で有数の経済国家にし得た。メソポタミヤ文明という人類にとって偉大な歴史を有するあなたたちイラク人は偉大な国民だ。あなた方に日本と同じことができないはずがない。我々は友人として、あなた方が起ちあがるお手伝いに来たのだ」と。

結果は、他国の軍人達が表敬や見学などで日本の宿営地を訪れた時、一様に驚くのは、宿営地建設のために現地で雇用したイラク人作業員達が、夕方になってもまだ働いていることであった。他国でも同様に現地の作業員を雇っているのだが、みんな3時、4時になると仕事が途中でも帰ってしまう。

ところが、日本の宿営地の作業員は違う。他国では作業員に仕事内容を伝えたら、後は現地の人たちだけで動く。しかし、日本の場合は、幹部自衛官であっても、現地人と一緒になって、共に汗を流す。日本人とイラク人とでチームをつくった共同作業であった。

規律は徹底的に求め、朝6時から夜10時まで定められた日課を正しく行った。結果として、他国の軍人達が来て驚くのは「信じられない整然さだ」ということだった。テントや車両を一列に並べる際には、誤差範囲を2.5~3cmを徹底させた。また、イラクは砂嵐がすごく、他国軍の宿営地ではゴミが宙に舞う光景をたびたび見たが、日本の宿営地ではそれはなかった。隊員達は命じられるまでもなく、気がつくとゴミを拾っていたからである。

ある外国軍基地で簡易トイレに入ったが、かなりひどい状態であり、監視員がタバコのポイ捨てをしていたのには愕然とした。我が方では考えられない行為である。また、基地に至る道路、轍(わだち)のまま乾燥して山になって固まり、そこに水がたまっている状態で、きれいに整地して砂利を敷いている自衛隊とは、整備レベルがまったく違うなと思った。

規律を正しくして行動するという意味は、ライオンがロバの仕事をするためであって、ロバがライオンの役割はできないからだ。最初から平和任務、つまり、ロバの任務と思って、そのような準備、態勢、構えで来た軍隊は必ず失敗する。しっかりとした軍事組織としての意識、気構えを持って臨み、それなりの準備と態勢を持つ部隊なら、たとえそれが人道支援だけの任務であっても、絶対に成功するし、予想外の事態に陥ったとしても成功する。だから、規律を正しく求めたのだ。

次に隊員である門間有道(もんまありみち)陸軍中尉の覚悟についてみてみたい。

彼はイラク派遣が決まると自宅の工房に籠って、白い小さな箱をつくった。その小箱は何かと、妻に問われ、門間は重い口を開いた。「骨箱だ」と。小箱の中にはビニール袋に包んだ彼の制服姿の写真と、頭髪、爪が並んでいた。「イラクで万が一のことがあって、自分が遺骨で戻ってくるならば、この骨箱に入れて、実家のそばの桜の木の下に埋めてくれ。祖父母が開墾した土地で眠りたい。それと箱には、骨壺なしで直接骨を入れてくれ。4、5年で白木が腐り、骨が土に還るはずだから。もしも骨が残らない場合も想定して、写真と髪と爪を用意した。頼む」と。武士道としての覚悟である。

② 不良品、納入遅れがない

これはある化粧品ガラス容器を製造している企業の事例である。ここの社長が米国の化粧品メーカーから表彰したいから本社に来るようにと連絡があった。

このメーカーとは長く取引が続いており、大事な得意先であるが、表彰を受けるほどのことはしていないというのが社長の判断だった。

ところが、米国本社に訪問してみると、役員が全員並ぶ表彰式でトロフィーをいただくという晴れ舞台となった。表彰式後には昼食にも招待されたが、この表彰式に招かれたのは、この一社だけだった。

そこで表彰された理由を尋ねて見ると、それは「過去10年間の取引で、不良品、納入遅れがない企業は貴社だけだ」ということで、晴れがましく思ったが、それは日本企業としては当然の当たり前のことだと思って帰国した。

この話を私が聞き、東京都港区の商工会議所の経営者セミナーで講演した際、この米国から表彰を受けたことを伝えた。伝え方は、日本人は武士道精神で経営をしているので、定められた品質と約束は守る、という事例として述べたのだが、終って懇親会の席上、何人かの経営者、この経営者は輸出をしていない企業であるが指摘を受けた。

「先ほどの米国企業から表彰を受けた話、あれでトロフィーを貰うとは信じられない。お互いに約束して品質と納入期日を決めたら守るのが当たり前で、そんなことは日本国内では普通のことで表彰を受けるレベルでない」

これは、日本では企業同士が規律を守って経営している実態を証明している。日本の鉄道が定められた時刻表通りに走るのは日本では常識だが、世界からは不思議がられていることも、武士道があってのことだと思う。

③ 引く文化をマーケティングに活かして成功した事例

日本人は「引く文化」を持っていることは既に述べたが、それを活かして成功させた、私のビジネス体験を述べたい。

私は40歳代当初、日仏合弁化粧品企業の社長に、日本の親企業から転勤・出向ということで派遣された。当時、私は親企業でエリートコースといわれ、その部署を担当した者の中から社長・役員が輩出しているところで管理職をしていた。

ところが、人事異動で膨大な赤字を抱えた日仏合弁企業へ異動となったのである。同僚からは「何か悪いことしたのだろう」と中傷されたように、明らかに左遷とみられるものであった。

したがって、異動の辞令を受けた時は、私をバカにしていると考え、他の企業に転職しようかと一瞬考えたが、親からのしつけである「一度勤めた企業を辞めるな」を思い浮かべるとともに、よしこうなったのだから自分の名誉のために、必ず成功させ、累積赤字を解消させてみせると、勢い込んで合弁企業に乗り込んだ。

しかし、冷静になって合弁企業の実績、売上を構成するフランスの化粧品を分析してみると暗い気持ちにならざるを得なかった。

赤字の主因は「売れない」ということに尽きていることがわかったからである。フランスの化粧品、それもネームバリューがないアイテム揃いでは、扱ってくれる店も少なく、従って膨大な在庫を抱えているのみで、人件費と事務所家賃等の固定費で毎月赤字がドンドン増えていく実態であった。

どうしたらよいのか。何に活路を求めたらよいのだろうか。必死に考え、考え抜いた。朝から夜まで、寝ていても考えつづけた。

ある日、事務所の近くの交差点、昼食に行こうと赤信号で立ち止まった時、突然インスピレーションが湧いた。そうだアイテムを絞ろう。全商品50品のうちで、一番売れている化粧品だけにしよう。つまり、1品だけの販売態勢にしようとインスピレーションが湧いたのである。

どうしてこのインスピレーションが、赤信号時に浮かんだのかはわからない。だが、多分、精神集中によって生まれる霊感ともいえるものだと思う。当時は知らなかったが、このような霊感インスピレーションは、禅の世界でよく解説されているもので、日本人が得意とする分野といわれている。

1品に絞るということを決心したが、これだけでは理論的にフランス本社を説得できない。当り前だろう。フランス本社は多くの化粧品を製造し、それを販売するために日本との合弁企業を設立したのである。それなのに、その化粧品を1品に絞るということは、残りの49品を捨てるという結果となる。何のために49品を製造したのかという、メーカーとしての本来意義が問われる。

その通りで、この1品に絞る考えはフランス本社からも、日本に派遣されているフランス人からも猛反対を受けた。

そこで、絞るための理論を構築するために、再び、必死に考え、考え抜いた。朝から夜まで、寝ていても考えつづけた。

すると、ふと自宅の書棚の中に2500年前の中国春秋時代に記された「孫子(そんし)兵法」の解説書を見つけた。若い時代に孫子兵法を研究したことがあって、その本が書棚にあったのである。

手に孫子兵法をとった途端に、またもや突然インスピレーションが湧いた。そうだ、孫子兵法に「弱者が強者に勝つ兵法」があったはずだ。

その兵法とは、戦場で弱者が強者に囲まれた時、そのままでは敗北する。生き抜くためには、強者とて囲みが手薄で弱い部分があるはずだから、そこを探り、そこに弱者の勢力を一点集中させ、必死の攻撃をかけ突破口をつくっていくというものであった。

そこで化粧品店の店頭を一つの戦場として考えてみた。店の販売棚には世界の有力メーカーの化粧品が溢れるほど並んでいる。そこに無名のフランス化粧品を多品種潜り込ませ、店からお客さんに推奨してもらうことは不可能に近い。

しかし、1品なら今まで日本の親会社で培ってきた人脈で、知りあいの店に何とかお願いできるかも知れない。1品ならつきあってくれるだろうし、1品なら突破口になれるだろう。
だが、そのためには1品をお客さんに説明するキーワードが大事だ。お客さんが成程と思う時代感覚とマッチしたものでなければならない。それを次に必死に考え、考え抜いた。朝から夜まで、寝ていても考えつづけた。

このタイミングで時代が味方してくれた。時代は環境重視の方向へ動いていた。公害問題が話題となっていた。フランスの化粧品は自然派のアイテムである。そこで時代環境を徹底的に検討し、それを分かりやすく書きだし、チラシにもして、それを持って全国の化粧品店を訪問し出した。

すると過去のつき合いで1品だけならいいよと買ってくれる店が出始めた。そこで、その店で推奨してもらうようお願いするとともに、買ったお客さんに使用結果を聞いてもらい、その結果を連絡していただくようにお願いし、中には直接にお客さんの自宅まで手土産持って訪問し、使用結果の反応を確認した。

幸い、お客さんの多くから好反応で、その体験話から、キーワードをつくり直し、次の店には、そのキーワードでつくり直したチラシを持参して、再び、同じことをお願いして歩いた。
当時は、月曜日の朝に事務所に行き、朝礼をしてからすぐに出張し始め、土曜日の夜遅く事務所に戻るという生活を続けた。

当時の生きがいは、毎日どのくらい注文が来るか、注文が来たところには直ぐに訪問し、その要因をお聞きするということであった。勿論、問題点もお聞きし、直せるところは直ぐに対応するということを半年つづけた結果、何とか月次決算で黒字となった。一年後には単年度黒字となって、その1品はその年の化粧品業界で大ヒット品といわれるほどになり、5年目には累積赤字が解消し、日本の親会社から社長賞を授与され、親会社の事業部長として戻ったのである。

今から考えて見ると、日本人の持つ「引く文化」から、アイテムを絞るという戦略が浮かんだのではないかと思っている。それと自分の名誉を守るという、自負心としての武士道精神、それが大きな励みになったと思い、左遷を受けたことが結果的に成功をもたらし、稀なる体験の数々をさせてもらい、今でもフランスの方々と関係が保たれていることに感謝している。
なお現在、この合弁企業はアイテムを増やし、立派な経営を展開している。

                                                  以上

(追)武士道と村上春樹小説の同一性
山岡鉄舟の研究をして行くと武士道にたどりつき、武士道を研究して行くと「無我の境地」という存在を認識するようになり、鉄舟が開いた「一刀(いっとう)正伝(しょうでん)無刀流(むとうりゅう)極意」の目録第二項「切落之事(きりおとのこと)」がわかってくる。
「切落之事」とは、相手が剣を打ち込んでくる瞬間、間髪を容れず、こちらも真っ向から剣を振り下ろすことである。これは非常に危険な剣法である。一瞬でも遅れれば自分が斬られてしまう。生死の境目にあたる技だろう。
しかし、この生死の境を分からないと剣の達人にはなれない。つまり、「死ぬ」ということが「隣りの家に行く」ような感じになった時、剣の達人になるのだという。
実は、この感覚は村上春樹が辿り着いている感覚ではないかと思っている。村上春樹は舞台が日本で、日本人のみが登場するストーリーなのに、世界中にファンがいる稀有な作家である。
また、ストーリーは現世の場面と、あの世の場面を交互に使い分け、それが違和感なく展開されていく小説スタイルであるが、これは何かのキッカケに、生死の境ということを、分かり得たのではないかと思っている。
村上春樹はインタビューで以下のように話している。
「僕は決して選ばれた人間でもないし、また特別な天才でもありません。ごらんのように普通の人間です。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身を置いて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。そしてもちろんその技術を、歳月をかけて大事に磨いてきたのです」(亜州週刊 2003年3月 中国)