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2024年4月 1日 (月)

2024年3月例会開催結果 「鴎外と脚気――その事実と責任の取り方」

2024年3月27日()例会は、山崎一穎(かずひで)氏から「鴎外と脚気――その事実と責任の取り方」についてご発表いただきました。

山崎一穎氏は跡見学園女子大学名誉教授、森鷗外記念館(津和野)館長。

森鷗外は文久21(1862)- 大正11(1922)7月)。明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医、官僚。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。石見国(島根県)津和野出身。

 (講演要旨「鴎外と脚気・・・その事実」

 日清・日露戦争で陸軍は多くの脚気病死者を出した。海軍は高木兼寛指導のもとで、白米と麦の混食、あるいはパン食(兵には評判が悪かった。日本人は白米を好んだ)に切りかえ、脚気病死者をごくわずかな人数まで減数した。 

 海軍の高木兼寛は鹿児島医学校(私学)で、イギリス人の医師ウィリスに学んだ。イギリス医学は臨床を重んじ、対症療法で患者に臨んだ。

 鴎外は東京大学(官学)で、ドイツ人医師ベルツに学んだ。ドイツ医学は病理学を重んじ、あらゆる病の基は細菌だと考える。脚気は脚気菌によると考えている。ローベルトコッホもこの考えに立っている。脚気菌を発見することが、脚気病を治すことになると考えている。この説は東京大学から陸軍上層部へと受け継がれている。石黒忠悳医務局長、小池正直、森鴎外、皆同じ細菌説に立ち、米と麦の混合で減数化に成功した海軍に対しては、学理的に原因、結果が不明であって、学問的でないと否定している。

 私学、官学の対立、薩摩の海軍と、長州の陸軍の対立、臨床と学理との対立等が脚気に対する解決を遅らせている。

 日清・日露戦争時、鴎外は第二軍の軍医部長である。トップではないが、戦場の最終責任者である。鴎外の職務上の責任は逃れ難いと私(山崎)は考える。鴎外にも、その自覚はあったと思う。何故ならば、戦後明治40(1907)46歳、11月に軍医総監、陸軍省医務局長(陸軍中将相当官)に就任した。医務局のトップである。鴎外の上司は陸軍省の次官、陸軍大臣である。

「責任の取り方」

 鴎外は日露戦争における戦死者の60%が脚気病死であるという現実を踏まえて、脚気病調査会を立ち上げることを決意する。

 鴎外の調査会構想は、脚気の研究部門と予防部門である。研究領域は文部省管轄であることが省令で定まっている。予防の領域は内務省と決まっている。タテ割り行政をやめてオールジャパンの組織を作ることを考えていた。しかし、単純にはいかないことも十分承知していた。省庁の特権を冒すことになるので、陸軍省と文部省、内務省、海軍省とも対立することなることは眼に見えている。 

 そのために鴎外は人事異動で第5師団(広島)の軍医部長大西亀次郎を本省の衛生課長に抜擢した。日清戦争時(189495)、広島に脚気病患者のみ入院させる専門病院を設置した。その時の病院長である。

 鴎外は現場を知る大西を脚気病調査会の事務局長として文部省等の役所との対応にあたらせるために鴎外直属の衛生課長とした。

 鴎外は調査会設立を次官を飛ばして(問題はあるが、ここで反対されれば大臣まで上申できないので)直接寺内正毅陸軍大臣に自己の素案を上申して設置の許可を取った。

 鴎外の原案を大西を通じて法制局長官岡野敬次郎と協議する。

 明治41(1908)425日付、岡野敬次郎名の脚気病調査会設立までの、経緯を記録した公文書が残されている。

 文部省、内務省は正面から反対論を述べる。海軍は脚気は解決済みであるので、陸軍がやるのは勝手だが、海軍を巻き込まないでくれという。

 鴎外は東大教授で医科大学学長の青山胤通と、伝染病研究所長の北里柴三郎に調査会が出来たら顧問格で入ってほしいと、根回しして承諾を取っている。

 最終段階で文部大臣の牧野伸顕が承諾の印を押さない。鴎外は強引に進める。「脚気病調査会」に「臨時」を付け、陸軍省も一歩引く。さらに調査会は陸軍大臣の監督下あることを明示した。陸軍省が責任を持つからという意で、何か起きれば、財政上の問題を含めて陸軍が責任を負うことで納得させた。

 牧野文部大臣の印のないものを明治天皇に上奏して、天皇の裁可を取った。陸軍の兵員の減少を防ぐことを強調した結果である。

 鴎外の発議で臨時脚気病調査会は発足する。会のメンバーは学閥を超えて、オールジャパンの布陣を引いた。

 第1回調査会で寺内陸相は、自分が脚気であったこと、麦飯で回復したことを述べる。かつて戦場で部下に麦飯を出したところ、石黒忠悳医務局長に叱られたことを述べ、ここにいる森局長(鴎外)も石黒と一緒に私を詰問した一人であると、言い添えた。

 鴎外と寺内の関係は良い。この間、鴎外は文部、内務の役人から嫌われている。寺内が森を批判することで、鴎外の強引さに不満があった役人も少しは溜飲が下がったのではないかと私(山崎)は感じている。別の言葉でいえばガス抜きである。

 ビタミンの発見の歴史を見ると、バタビア(ジャカルタ)の病理研究所長Ⅽ・エイクマン(オランダ人)が、1896(明治29)白米で飼育した鶏が脚気のような症状を呈し、米糠を加えることで症状が改善することを発見した。これがビタミン発見の第一歩である。

 鴎外を会長とする臨時脚気病調査会もバタビアへ3名の医師を調査に行かせたが、成果はなかった。帰国後、都築甚之助二等軍医・習志野の陸軍病院長が細菌説を疑い、明治43(1910)動物実験で米糠が予防と治療に役立つことを発表する。

 明治43(1910)、鈴木梅太郎が米糠からオリザニンを抽出。これがビタミンと同じである。翌年、ポーランドの医師フンクが、米糠が鳥類白米病に有効な物質を抽出し、これを生命vitaに必要な物質アミンamineという意味でビタミンvitamineと名付けた。

 鴎外は大正54月陸軍省を退任する。それまで会長を務め、以後も調査会の委員として大正117月死去するまで、委員会にはすべて出席している。これも責任の一端である。

 第3回委員会(明治418)に鴎外はドイツ医学会総会で発表された脚気に関する論文を翻訳して委員全員に配布している。細菌は未だに発見されない。日露戦争の状況を見ると、栄養と関係が深いと会長代理のノホト教授が発表。続いての発表者も栄養説である。遂にドイツ医学会も脚気に関しては細菌説に疑問を呈し始めている。

 高木兼寛も森鴎外も栄養学の成立しない時代の人であった。高木は大正10年、鴎外は11年に死去する。この時点で二人とも脚気はビタミンBの欠乏であることを知ることになった。鈴木梅太郎がオリザニンからビタミンBを抽出し、それが欠乏すると脚気になることを発見する。大正12年である。

「まとめ」

 鴎外の責任の取り方は、脚気病調査会を設立し、委員を学閥を廃して選出した。第3回委員会でのドイツ医学会の状況〔脚気栄養説〕を翻訳資料として配布する公平さ。(恐らく鴎外はこの時点で脚気病は栄養欠乏によるものであると認識したと思われる) そして死去するまですべての調査会の会議に出席し、その情報によってビタミンBの欠乏まで理解したという点にある。脚気病調査会を強引に設置したため、後日、文科省のしっぺ返しにあっている。それを覚悟で鴎外は調査会設置に努力した。これ以外、鴎外にとって責任の取り様はなかったと思う。
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 (追記)

大正8(1919)4月、東京帝国大学教授の島薗順次郎が日本医学会総会で、脚気が白米食によるビタミン欠乏であることを容認する報告をした。

東京帝国大学が大正8(1919)脚気病細菌説からビタミン欠乏説への転換の年として記憶されるべきことである。

 

以上のご講演要旨のように、詳細なるご発表を賜った山崎一穎氏に深く感謝申し上げます。

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