2023年3月15日(水)例会は、大阪学院大学総合学術研究所所長・郡司健教授から「下関戦争と海外に渡った大砲」についてご講演をいただきました。
郡司教授はかねてより長州砲について研究、2022年に『幕末の大砲、海を渡る』(島影社)を出版され、ご先祖は萩の青海鋳造所の当主にあたります。
まず、元治元年(1864)の下関戦争、これを欧米連合艦隊下関攻防(国防)戦争と称され、四カ国(英仏蘭米)の連合艦隊と長州側の8月5日から7日までの戦闘状況、それと14日の講和条約締結までの経緯を解説されました。
なかでも連合国側、特に英国公使オールコックは、阿片戦争をモデルとした短時日での下関制圧、次に山口、萩も抑え、さらに大坂まで進攻することを期待していたといわれる。
だが、奇兵隊や他諸隊の猛烈な防衛により、進軍を阻まれ、これ以上の戦闘を望まなかったキューパー提督の意向もあって侵略を断念したという。
巷間、下関戦争は長州藩が旧式の武器のため、連合軍の攻勢にあっけなく敗北したという説が見られる。
だが、最近の研究では、この戦闘において敢闘し連合軍の侵攻を下関でくいとめ、山口・萩からさらに大坂侵攻を断念させたことが評価されるようになっていると郡司教授は強調される。
ご講演後の質疑応答でも、この件が話題となり、薩英戦争に比較し、下関戦争の実態が正確に社会で認識されていないのではないか、という指摘が多数の方から示された。
残念ながらその通りであり、今回の郡司教授ご講演を機会に認識を改めたいと思った次第である。
次に、この戦争の結果、多くの大砲が接収され、結果的に54門が英仏蘭米4か国に分配され、その分配リスト(ヘイズ・リスト)とともに、大砲の幾つかは4か国に今も残されている実態を、以下の日程にて郡司教授が現地調査された内容について写真・資料を使い解説をされた。
第 1 回 20 04 年 8 月(8 /7-8 / 1 4)オランダ・フランス
第 2 回 20 05 年 7 月(7 /2 2 - 7 /2 7)イギリス
第 3 回 20 05 年 10 月(1 0 /2 4 -1 0 / 2 9)イギリス(・ドイツ出張)
<200年ものづくりリレーシンポジウム>=大砲分配リスト(ヘイズリスト)
第 4 回 20 07 年 1 月(1 /2 - 1 / 7 )イギリス・フランス
第 5 回 20 11 年 8 月(8 /2 9 - 9 /4)イギリス・オランダ(・2 名フランス)
第 6 回 20 13 年 9 月(9 /1-9 / 8)アメリカ(・カナダ)
この説明過程で山本紀久雄が、パリのアンヴァリットで行方不明となっていた長州砲を見つけたことに触れられたので、当時の経緯を少し述べたい。
最初は、直木賞作家の古川薫氏著『わが長州砲流離譚』(毎日新聞社2006)に、アンヴァリットにある長州砲二門のうち、一門の行方が不明で心配だと記されていたことからだった。
そこで、その当時、山本は度々パリ出張をしていたので、古川氏に連絡を取り、パリで確認してくることを約束、アンヴァリットの学芸員と連絡をとり、2009年3月30日に訪問した。
長州砲一門は門を入ってすぐの庭に展示されている。これは古川氏も分かっている。問題はもう一門である。まだ若き長身の学芸員と館内を探し回ったがない。学芸員は「もう他にはない」と断言したが、ここで引き下がっては折角のアンヴァリット訪問目的が達しない。ねばりに粘る。古川氏から受けた手紙と写真、それと昭和59年の山口新聞記事などを使って何回も説明し、どこかにあるはずだとしつこく追及する。
こちらの剣幕にとうとう学芸員は考え込み始め、多分、普通の展示場所ではないだろうと推測し、倉庫や鍵が掛っていて入れない場所を回って歩いたうちの一か所、ここは軍関係の管理地だから入れないというところ、そこの鍵がかかっている柵の間から覗くと、遠くに長州砲らしきものが見える。これだと叫ぶと、学芸員は慌てて事務所に鍵を借りに行く。ここには自分も入れないところだと言いながら・・・。
鍵が来て開けて入り、走りたい気持ちを抑えつつ大砲のところに行くと、嘉永七年の文字が見える。やはりあったのだ。学芸員もびっくり。知らなかったのだ。アンヴァリットには九百門の大砲があるというが、その記録に漏れがあったのだ。
以上の経緯を古川氏にご連絡し、この件は一件落着と思っていたが、郡司教授がJAL機内誌『スカイワード』(2009年7~9月号)で「アンバリッドの長州砲が行方不明」とのエッセイを掲載され、それを偶々JAL機内で読んだ山本が、下記の内容をご連絡したことから郡司教授とのご関係が始まった次第。
郡司教授にはご多忙の中、大阪から上京していただき、貴重な長州砲についての考察をご講演賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。
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