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2022年3月28日 (月)

2022年3月例会開催結果

2022年3月、4月は2か月連続で永冨明郎氏からご発表いただきます。

2022年3月のご発表概要は以下の通りです。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しく観るためにとても参考になったという感想が多く寄せられました。

『3月ご発表概要』

第一回【鎌倉幕府の立上げから鎌倉十三人衆設置】

 

1.はじめに=鎌倉時代約150年の大まかな区分;

 1180(頼朝決起)~1225(政子、義時らの死去) =鎌倉創世期

 1225(執権体制確立)~1281(蒙古襲来を防ぐ) =鎌倉安定期

 1281(元寇の恩賞問題)~1333(鎌倉幕府滅亡) =鎌倉終末期

2.平氏の20年に及ぶ権力簒奪状態に、以仁王(後白河帝三男)が平氏討伐の令旨を発する(治承4(1180)年4月)

平氏は令旨に対し、各地の平家系武将に、周囲の源氏討伐を指示

その動きを察知した源頼朝が、北条家臣らの勢力で同年8月決起

・三浦半島の有力者(三浦氏、和田氏ら)と合流を狙うも、平氏側の大庭氏などに阻まれ(石橋山の戦)、房総半島へ。

・房総で上総広常や千葉常胤などの大勢力を糾合更に、関東有力武将の帰順も得て、同年10/6に鎌倉入りを果たす

3.鎌倉政権

・頼朝に加勢してくれた武将を「御家人」とし、平等に主従関係(御恩と奉公)を構築

・北条義時;長寛元年(1163)、北条時政の二男として誕生。

少年期に隣村の江間氏に養子入り=「江間小四郎義時」

頼朝決起に、父・時政、兄・宗時と従軍も宗時が戦死。以後父とともに頼朝を支える

・養和2年(1881)、頼朝は親しい武将の子息11名を「寝所近辺伺候衆」に任命。

その筆頭に義時も(19) =父・時政とは別の、独立した家臣に

・木曽義仲の追討と源平合戦の末、文治元年(1185)3月、平氏滅亡・・・・ 義経の活躍?

 平家殲滅の2か月後、義経が鎌倉を訪ねるが、頼朝は鎌倉入りを許さず、義経は去る

・同年11月、北条時政に1千騎を付けて上洛、朝廷側と交渉の結果、頼朝に全国の守護・地頭の任命権を得る=鎌倉幕府創設と同義(かつては

   建久2(1192)頼朝の将軍宣下と言われたが?)

・ 源義経は奥州藤原氏を頼る ⇒義経と奥州征伐 =奥州藤原氏を殲滅(文治5年1189) 結果、東国はほぼ完全支配下に

・建久元年(1190)11月、頼朝が上洛、後白河法皇と対面

・曽我兄弟の仇討事件、北条家は弱小勢力)

・正治元(1199)年1月 源頼朝急死(53) ⇒長男・頼家(18)が継ぐ

4.二代目将軍 頼家

・頼家は某弱無人 ⇒頼家の親政を押さえるために「十三人衆」の選定

5.鎌倉殿十三人衆とは;

  北条家=北条時政、北条義時、

  中央経験者G=大江広元、中原親能、三善康信、二階堂行政

  頼朝流人時代からの援護者=安達盛長、比企能員

  周辺強豪武将=梶原景時、三浦義澄、和田義盛、八田知家、足立遠元

 ※実際にこの13名が一堂に会して何か議論をしたという史実はない!

 ※狙いは頼家への牽制と、強豪武将に対する警告?

6.有力武将の追い落とし

・北条家は弱小勢力 ⇒対立勢力の順次排斥

上総広常、梶原景時、比企能員、畠山重忠、北条時政と牧の方、和田義盛

・比企の乱で将軍・頼家の幽閉、殺害 ⇒弟・実朝(12)を将軍に(建仁3(1203)

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