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2022年3月

2022年3月31日 (木)

聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪 ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編・・・

聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪  ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編・・・

山岡鉄舟研究会

山本紀久雄

明治神宮外苑の聖徳記念絵画館は、明治天皇と昭憲皇太后の事蹟を日本画・洋画各40点ずつで示す美術館であり、ここに「江戸開城談判」壁画が掲示されている。

この「江戸開城談判」壁画、西郷と海舟が対峙している構図で描かれていて、海舟の大刀は左脇に配置されている。いわば「戦う構図」で描かれている。武士が対面する場合、通常の作法に従えば「大刀の位置は右脇」である。

何故に左脇に描かれたのか。その検討をした結果を以下に記したい。

(参照 『江戸無血開城、通説を覆す』一枚の絵に隠されたを読み解く 山本紀久雄著 KKベストブック)

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編 その一

  1. 吉本襄『合冊 海舟先生 氷川清話』の「合冊序言」

吉本襄の明治35年版の合冊本『海舟先生 氷川清話』は、最初に「合冊序言」があり、以下のように記している。

《勝先生は、必ずしも哲学者にあらず、而も哲学者たるの頭脳あり。必ずしも経世家にあらず、而も経世家たるの事業あり。必ずしも君子にあらず、詩人にあらず、而も君子たり詩人たるの性格と襟懐とあり。旧幕府の名士たりし同時に、明治の逸民たり。眼の人たりしと同時に、手の人たり。而して先生の世に在るや、必ずしも大政に参与せずして、政治家の為に其の方針を指示し、必ずしも実務に当らずして、実業家の為めに、其の正路を示し、必ずしも文芸に長ずるにあらずして、文学家の為めに説き、必ずしも宗教に通ずるにあらずして、宗教家の為めに喩し、必ずしも教育に関せざる者の如くにして、青年子弟の為めに訓戒し、国民は社会の木鐸として之を仰ぎ、知らず識らざるの間に、先生の感化を蒙りたりき。是れ実に先生が、一世の達人たる所以にして、国民が今日に至るまで、其の遺徳を追懐して止まざる所以なり》

 

《先生は氷の如き頭脳に、火の如き感情を有し、炬の如き眼光に、海の如き度量を有したり。而して其の意志は堅実に、其の智慮は明達に、其の精神は正大に、大事に糊塗せず、小事も滲漏せず。其の言ふ所は行ふ所にして、行ふ所は其の言ふ所なり。故に先生の言、時ありて熱罵と為り、冷嘲と為り、危言と為り、痛語と為り、政治に、経済に、軍事に、宗教に、文学に、社会に、一切の時事問題にして、先生胸底の琴線に触るゝ時は、一種警醒的教訓と為りて、社会の隅より隅に反響せざるは莫し。其の何故ぞや。先生の言論は、渾て是れ至誠惻怛熱血の迸る所にして、真知を局外に求め、禅機を手中に弄する者あれば也。予が玆に『氷川清話』を撰刊したるは、先生が社会的教訓を世に紹介せむが為めなり》

吉本はなかなかの文章家であると感じる。

次に、海舟による江戸無血開城ストーリーを声高々と謳いあげる。

《戊辰の役、官軍東征の途に上るや、幕臣或は邀へ戦はんと欲するものあり、江戸の人心恟々たり。然れども将軍固より戦意なきを以て、先生に命じて之に処する策を講ぜしむ。先生、命を奉じて、危難の際に処して動かず。総督宮、駿府に至らせたまふに及び、上野の輪王寺宮駿府に至り、将軍恭順の状を陳じて、寛典の所置を講ふ。総督宮、謝罪の実なきを以て、未だ之を許し給はず。先生また山岡鉄舟等を遣はして之を請ふ。既にして官軍の先鋒品川に至り、将に江戸城に入らむとす。是に於て、先生自ら赴きて、参謀西郷隆盛に面し、将軍の旨を縷陳して、百方其の調停に尽力す。隆盛之を容れて、直ちに進襲中止の命を下し、状を総督の宮に啓す。之によりて官軍一刃を動かさずして、江戸城に入ることを得、王政復古の大業、平和の間に成就す。先生が絶倫の大手柄は、実にこの時を以て天下に顕はれたり》

文中の「先生」とは海舟のことだ。つまり、江戸開城はすべてを海舟の「絶倫の大手柄」であると絶賛しているのである。

特に、「先生自ら赴きて、参謀西郷隆盛に面し、将軍の旨を縷陳して、百方其の調停に尽力す。隆盛之を容れて、直ちに進襲中止の命を下し、状を総督の宮に啓す。之によりて官軍一刃を動かさずして、江戸城に入ることを得、王政復古の大業、平和の間に成就す」の記述、これが今日まで伝わっている海舟神話の本体であり、『尋常小学校修身書 例話原據と其解説』(東洋図書 1929)の「九 勝安房」でも、『氷川清話』の「戊辰の役」からはじまり「絶倫の大手柄」という文言が掲載され、小学校でも教え込まれているのであるから、多くの一般の人々も信じ込んでいると推察できる。 

したがって、聖徳記念絵画館の壁画作成に関与した人物たちも、この吉本が記した合冊本『海舟先生 氷川清話』の「合冊序言」によって、江戸無血開城は海舟によってすべて成された偉業だと信じるか、思い込んでいたのであろう。

 聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の作成に実務的に関与した明治神宮奉賛会理事・水上浩躬は昭和7年に死去していたのであるから、当然に吉本説を採っていたと考えられる。 

また、二世五姓田芳柳は昭和18年に死去、浅野長勲も昭和12年に死去、結城素明は昭和32年、浅野長武は昭和44年死去しているので、いずれも講談社による『氷川清話』出版以前であるから、海舟が「すべてをひとりで行った」と理解していた可能性が高い。

考えてみると、海舟が「一人で成した」という説に対して異論が出始めたのは最近のことなのである。

現在の「江戸無血開城の真実」の史実解釈について、『江戸無血開城 本当の功労者は誰か?』(岩下哲典 吉川弘文館 2018)と、『定説の検証「江戸無血開城」の真実』(水野靖夫 ブイツーソリューション 2021)に詳しいので参考にしていただきたい。

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編 その二

  1. 海舟の大刀の位置は武士の作法からしておかしい

聖徳記念絵画館の認識を証明するテレビ番組が、BS11の2019年3月3日『壮麗な美術館で日本の歴史を辿る「聖徳記念絵画館」(東京・明治神宮外苑)』というタイトルで放映された。

このBS11のテレビ番組では、聖徳記念絵画館の学芸員が、「この壁画は緊迫した場面を表現しています。それは刀の置き方でわかります。通常は右側ですが、これは左です。この会談が決裂したらどうなるのか。その時は……。という海舟の決意を伝えているものです」と語ったように「通常は右側」が妥当な大刀の位置ではないだろうか。

 左に置くのは「戦う姿勢」を意味していると思われても仕方ない。

しかし、この壁画の慶応4年3月14日の薩摩屋敷での西郷と海舟の対面場面は、すでにみてきたように「緊迫した対面」ではなく、同年3月9日に西郷から鉄舟に伝えられた降伏条件に対する徳川側からの緩和「嘆願」であり、さらに目賀田男爵が勝翁より直接聴いたのは「会見」だったという。このように理解するならば、武士の作法上、大刀の置き方は右側になる。その通りで二世五姓田芳柳が作成した画題考証図、及び、下絵は大刀を右脇に置いている。

   Photo_20220331112901      Photo_20220331113001     

    下絵③画題無記名(茨城県近代美術館蔵)          左図の部分拡大画

 

          Photo_20220331113401

        『明治神宮叢書 第二十巻 図録編』の「三、壁画画題考証図」⑬『江戸開城談判』(明治神宮所蔵)

 

  1. 結城素明は反対側の左側に大刀を配置する構図で壁画を描いた

結城素明は反対側の左側に大刀を配置する構図で壁画を完成させ、大正15年7月15日に憲法記念館で開催された「第二回邦画部下図持寄会」に提出し、明治神宮奉賛会の承認を得ている。

 その後、大下図を作成し、細部を補正し、昭和7年8月22日に浅野長勲侯爵に閲覧垂教を受け、「大刀は左脇に置きてよろし」と回答を受け、同年8月31日に壁画が完成したのである。

 このように結城素明が左脇に変えて描いたのであるが、その理由について、結城素明に関する多くの資料を検討してみたが、その理由を示すものは見つからない。

だが、結城素明は二世五姓田芳柳による画題考証図から変更させ描いている。

 これをどのように読み解けばよいのだろうか。

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「刀の位置」編 その三

  1. 三つの仮説で述べたい

結城素明が画題考証図の右脇から左脇に変えて描いたことを三つの仮説で述べたい。

 

仮説① 結城素明が画家としての「信条」から大刀を左脇にした。

 この仮説の前提条件として、結城素明も吉本襄『氷川清話』の「合冊序言」に書かれた内容を受け入れていたと考える。したがって、江戸開城はすべてを海舟の「絶倫の大手柄」であると確信していたのではないかと考えたい。

 このような受けとめ方は、松浦玲による『勝海舟全集 21氷川清話』(講談社1973)および『氷川清話』(講談社学術文庫2000)が出版されるまで、多くの人々が事実であると認識評価されていたのであるから、ある面、仕方がないともいえる。

 だが、これに加えて結城素明の画家としての「信条」が決定的に影響を与えたと推測する。結城素明の画家としての「信条」とは何か。

 それは昭和60年(1985)に山種美術館で開催された特別展の図録『結城素明―その人と芸術』に、東山魁夷が「結城素明先生を偲んで」の一文を書いている。

《大正15年(1926)の春、私は東京美術学校日本画科に入学した。先生は私が美校に入学する前の、大正期初期から終りにかけて、最も華々しい活躍を続けた。昭和になってからの先生は、2年に『山銜夕暉』、4年に『嶺頭白雲』、9年の『炭窯』、10年に聖徳記念絵画館の『江戸開城談判』と、力作を次々に出品された。

 先生からは「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」「心を鏡にして自然を見ておいで」と言われ、現在に至るまで私の心に深く刻まれている》

 この「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」、これを壁画『江戸開城談判』制作でも実践したのではないか。

 パリに遊学中、明治奉賛会から壁画『江戸開城談判』制作の依頼が届き、帰国してから「描くため調査した」ことが『明治神宮叢書 第十八巻 資料編(2)』に記されているが、そこに「描くために調べたポイント」が詳細に記されている。

 この詳細調査で、結城素明は最も大事な何かが欠けていると思ったのではないか。

 それは「江戸開城」は海舟による西郷との「談判」によって決定したという判断を素明は確信していたので、二世五姓田芳柳が描いた画題考証図の右脇に置いた大刀について当初から疑問に思っていたに違いない。

 厳しい「談判」をして決定させた「江戸開城」である。その情景を間違いなく表現させるためには、大刀の置き方で、そのことを示さなければいけない。

 素明は、持ち前の「信条」である「精密な調査」を通じて、画題考証図には肝心要となるものが「欠けている」という認識を持ったのではないか。

 せっかく、海舟が「談判」して獲得した江戸無血開城なのに、画題考証図はそのことを十分に表現していない。

 それを正すために海舟の大刀位置を左脇にしたのだ。これが仮説①である。

 

仮説② 結城素明が「常識家としての画家」であることが海舟の大刀位置を決めた

結城素明の特徴は個展開催が少ないことで、生前3回、没後2回、合わせて5回である。

 この個展開催数の少なさと、東山魁夷が、昭和60年(1985)に山種美術館で開催された特別展の図録『結城素明―その人と芸術』に、東山魁夷が「結城素明先生を偲んで」の一文で、「傑作」と言わずに「力作」としか評しないことなどを考えると、結城素明は「芸術家としての画家」というよりも、ある意味「常識家としての画家」であって、これが素明に画題考証図と刀位置を違えて壁画を描かせたのではないかと推察する。

 こう推察する背景は、『江戸開城談判』の奉納者が、侯爵・西郷吉之助と伯爵・勝精であることである。

 この二者は慶應4年3月14日における「西郷・勝」会見の末裔であるから、奉納者の強い希望が反映したのであろうことは、容易に汲み取れるだろう。

 まして、素明は海舟ら命名されたと、昭和60年(1985)に山種美術館で開催された特別展の図録『結城素明―その人と芸術』において、美術評論家で昭和55年(1980)山種美術館学芸部次長に就任した小池賢博氏が述べている。

  結城素明は明治8年(1875)、東京府本所区荒井町で生まれている。今でいえば、墨田区本所2丁目あたりである。生家は酒商を営む家で、本名の貞松は勝海舟が命名したといわれている。ちなみに素明の号も海舟である。海舟自筆の銘名記が遺っている。

 このような背景もあって、結城素明の脳細胞には、壁画奉納を担う献金者の意向を忖度するという「常識」的な感覚が働いたのではないか。

 仮に結城素明が詳しく史実を調べていれば、鉄舟も同席していたことが判明したであろうが、そのような場合でも鉄舟関係者が奉納者になっていないので、西郷と海舟のみの描  写にしただろう。

 以上のように、「談判」で決まったという素明の「常識理解」、奉納者が西郷家と勝家であるからという「世間の常識感覚」、これが現在の聖徳記念絵画館壁画となっているのではないだろうか。これが仮説②である。

 

仮説③ 結城素明は代表作を制作したかったのではないか

 結城素明の作品を常設展示しているのは聖徳記念絵画館の壁画『江戸開城談判』と『内国勧業博覧会行幸啓』であるが、後者の壁画は影が薄い。

 壁画『江戸開城談判』が「正史」として受けとめられているのが現状では、これが結城素明の代表作品といえるだろう。

 結城素明は、大正2年(1913)1月、美術雑誌『多都美』に「先ず自己の頭脳を作れ」と投稿し、自己の確立、新しさの追求、幅広い教養が必要かつ重要だと説いたように、これを常に実践してきた。

 画家であるが、文筆研究家としての研鑽も重ね、そのミックスからアウトプットすべく、常に明日に向かって動き回り、その結果を絵と筆で表現したのであるから、過去と同じ傾向作品をブラッシュアップするのではなく、新たに脳細胞にインプットした材料をもとに作り上げる。これが結城素明の制作方法ではなかったか。

 壁画『江戸開城談判』も、このような描き方で制作したのだと推測する。絵画館奉賛会から示された画題考証図を参考にしたものの、自らの検討調査から江戸開城は海舟の「談判」で決まったと判断したからこそ、大刀の位置は左に置くことが正しいと思ったのではないか。

『白河を駆け抜けた作家たち 図録』(白河市歴史民俗資料館 1999)で藤田龍文氏は、「余りにも博学多才であったため、画風の表現の幅が広く、素明の画風はどういったものか、代表的作品は何か、と戸惑ってしまう」と述べさせたが、その杞憂は、聖徳記念絵画館の壁画『江戸開城談判』が「結城素明の代表作」となって、同館で常設展示されているので藤田龍文氏の懸念は消えたのである。これが仮説③である。

 

 結城素明が画題考証図における海舟の大刀配置が右側であったものを、壁画『江戸開城談判』では左側に配置して描いた理由、これについて素明は資料として遺していないので、以上の三つの仮説で検討した。

いずれもそれなりの背景から推測したものであり、この中のいずれかと考えている。

 だが、聖徳記念絵画館の壁画は教科書に掲載され、一般社会から「正史」と扱われている現状であり、加えて、明治神宮奉賛会の絵画館委員会が「四年有余ニ亙リ博ク索メ深ク究メ慎重ナル審議ヲ遂ケテ」(『明治神宮叢書 第二十巻 図録編』)の結果、大正10 年(1921)に画題考証図を決定したという経緯が存在する。

 このように慎重な取り扱いを受けた画題考証図を、壁画を描いた結城素明が変更したのに、その理由を明確化していないままに、これからも壁画『江戸開城談判』を「正史」とし、これを継続していくのは問題ではなかろうか。

 江戸城が無血開城された背景も含め、改めて検討し直したうえで、壁画『江戸開城談判』について妥当な「解説」をつくるときがきているように考える。

聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪 ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編・・・

聖徳記念絵画館「江戸開城談判」壁画の怪    ・・・氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編・・・

山岡鉄舟研究会

山本紀久雄

 明治神宮外苑の聖徳記念絵画館は、明治天皇と昭憲皇太后の事蹟を日本画・洋画各40点ずつで示す美術館であり、ここに「江戸開城談判」壁画が掲示されている。

 この「江戸開城談判」壁画タイトルが「談判」であることにかねてから疑問を持っており、この背景には吉本襄著の『氷川清話』が関わっていることについて検討した結果を以下述べていきたい。

(参照 『江戸無血開城、通説を覆す』一枚の絵に隠されたを読み解く 山本紀久雄著 KKベストブック)

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編 その一

  1. 『江戸開城談判』壁画

明治神宮外苑に建つ聖徳記念絵画館に、結城素明の壁画『江戸開城談判』が展示されており、これが中学教科書にも掲載され、いわば「正史」としての取り扱いを受けている。

この壁画『江戸開城談判』は、慶応4年(1868)3月14 日、江戸薩摩藩邸において、西郷隆盛と勝海舟の「談判」によって、江戸城が無血開城されたことを表現している。

 

  1. 壁画の制作を結城素明に依頼した経緯

壁画の制作を結城素明に依頼した経緯については、『明治神宮叢書 第十八巻 資料編(2)』(平成1511月3日)50頁以下に次のように記されている。

《大正十三年秋、当時外国留学中の結城素明氏は、巴里の寓居に於て、九月二十八日附浅沼龍吉氏の書信に接し初めて西郷吉之助侯爵並に勝精伯爵より奉納の江戸開城談判図の揮毫に関する交渉を受け、直ちに返書を送って大体承諾の旨を伝えたが、更に十四年三月帰朝して浅沼氏に面会し委細を聴いて之が承諾の確答をなし、次いで四月十四日華族会館に於て西郷侯爵、勝伯爵及び植村証三郎氏、海軍中将黒岡帯刀氏、浅沼氏と会見し、又奉賛会よりは水上浩躬氏が立会はれ、種々意見交換の後、愈々正式に壁画揮毫の委嘱を受諾するに至った》

 

  1. 目賀田男爵談話筆記

次に『目賀田種太郎男爵談話筆記』を紹介する。

 目賀田男爵とは目賀田種太郎(185 3 〜1926)のことで、明治13年(1880)海舟の三女・逸子と結婚。明治・大正期の官僚・政治家。幕臣の子として江戸に生まれる。明治3年渡米、ハーバート大学卒、文部省・代言人・判事などを経て大蔵省入省。主税局長、朝鮮政府財政顧問・統監府財政監査長官として朝鮮貨幣整理事業を推進。貴族院議員・枢密顧問官などを歴任。男爵。専修学校(現:専修大学)の創始者の一人である。また、東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設者の一人でもある。

目賀田男爵の談話筆記については、『明治神宮叢書 第十八巻 資料編(2)』に次のように記している。

《両雄会見の有様に就ては目賀田男爵の談話筆記中にも之が詳述されている。此の談話筆記は、大正八年(一九一九)十月三十日奉賛会より水上氏が目賀田男爵を訪れ同男が勝翁より聴いたところを本として語られた際の筆記である》

薩摩邸会見ノ時ハ勝ハ単騎ニテ山岡モ益満モ同行セス、勝座敷ニ通レバ障子外ニ下駄ノ音シテ(庭ノ飛石ヲ渡リシガ如シ)上縁シ坐ニ着ケリ、勝ハ大小ヲ差シ西郷ハ脇差ノミリ坐ニハ茶ト烟草盆モ出デタリ、素ヨリ開城条件ハ已ニ予知シ居ルコトナレバ夫等ノ談判ハナク西郷ハ丁寧ニ且ツ平和ニ「ドウデス嘸御困リデセウ」勝ハ「困ル所デハアリマン、シテドウナサル積リデスカ」ト反問セシ時西郷ハ稍厳格に「素ヨリ明日攻撃シマス」ト答エタリ、(此時襖ノ内ニ人ノケハヒシタレバ其人々ニ聞カスル為メ殊更ニ厳重ノ語調ヲ取リシガ如シ)勝ハ尚「幕府ニテハ上下謹慎ヲ表シ、武器ハ一切取上ゲアレバ誰モ抵抗スル者トテハナシ之ヲ攻撃シタリトテ何レノ甲斐モナシ攻撃ハ見合ハサレテハ如何」ト云ヒ西郷ハ「攻撃ヲ止ムルコトハ総督府ノ許可ナクテハ予ノ一存ニテハ何トモ仕方ナシ、只明日ノ所ハ見合ハスベシ」ト云ヒ直ニ立チテ隣室ニ入リ(隣室ニハ村田新八、桐野(当時中村)利秋、渡辺清左衛門外二名アリ、此中渡辺ハ軍監ニテ且ツ薩藩士ニアラズ、大村藩士ナリ)声高ニ「只今皆サンモ御聞ノ通ナレバ明日ノ攻撃ハ見合セント思フガ皆サンハ如何ト思ハルヽヤ」ト云ヒシニ「一坐ハ稍不平ラシキ語調ニテ同意ヲ表シケレバ西郷ハ諸隊ニ向ヒテ攻撃中止ノ令ヲ発スルコトヲ命ジテ坐ニ帰リ、勝ニ対シテ「只今御聞ノ通リナレバ御安心アレ」ト述ベ、勝ハ謝辞ヲ述ベテ退出セリ、其時西郷ハ「危険デス衛兵ヲ附ケマセウカ」ト云シモ勝ハ「大ニハ及ビマセヌ」ト云ヒ門外ニ出レバ薩ノ一隊ハ整列シテ敬礼ヲ為シ、勝ガ赤羽橋ニ至リシ時幕士ヨリ二三発ノ銃撃ヲ受ケシモ幸ニ事無カリキ此時西郷ノ危険ノ意味モ分リタリ、(当時勝ノ差セル刀ニハ銃丸ノ傷アルモ之ハ其日ノ痕跡アラズ、勝ハ三回狙撃ヲ受ケタリ、其大小ハ今モ勝伯ノ家ニ在リ)此の談話に於て作画上参考となったのは「勝ハ大小ヲ差シ西郷ハ脇差ノミナリ坐ニハ茶ト烟草盆モ出デタリ」とある件である》

 このように『目賀田男爵談話筆記』では、「談判」ではなく「薩摩邸会見ノ時」と記され、さらに「素ヨリ開城条件ハ已ニ予知シ居ルコトナレバ夫等ノ談判ハナク」と、「談判ハナク」記されている。

 

  1. 勝海舟の『慶応四戊辰日記』(慶応4年3月14)

目賀田種太郎談話筆記に記された「素ヨリ開城条件ハ已ニ予知シ居ルコト」の「已ニ」とは、「すでに」ということであるから、西郷と海舟は開城条件を理解していたということになる。

条件を知っていれば、事改めて条件そのものを「談判」という争い論議をする必要もないであろう。条件の緩和を願うか、代わりの代替案条件を提案することしかない。官軍から示された開城条件に対する見解を述べるだけである。

そのことを明示するのが、勝海舟の『慶応四戊辰日記』慶応4年3月14日である。

海舟は「十四日 同所に出張西郷へ面会す。諸有司嘆願書を渡す」と七ケ条を記している。官軍条件に対し各条件の緩和を「嘆願」したのである。

 

  1. 鉄舟直筆による『西郷隆盛氏ト談判筆記』

この慶応4年3月14日会見に同席した鉄舟も、直筆によって明治15年(1882)3月に記した『西郷隆盛氏ト談判筆記』』(『鉄舟居士の真面目』全生庵)で以下のように記している。

《薩摩邸ニ於テ西郷氏ニ、勝安房ト余ト相会シ、共ニ前日約シタル四ヵ條必ズ実効ヲ可奏ト誓約ス故ニ西郷氏承諾進軍ヲ止ム》

この鉄舟直筆記録は、『目賀田男爵談話筆記』と一致する。「談判」ではなかったことを示している。

なお、鉄舟が述べた四ヵ条とは、駿府にて西郷から示された「徳川慶喜を備前に預ける事」を除いたもので、これと海舟の『慶応四戊辰日記』七ケ条の違いについては、本題の主旨から外れるので解説を省略したい。

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編 その二

  1. 『氷川清話』は二種類ある

『江戸開城談判』壁画はなぜ「会見」でなく「談判」とタイトル化されたのか。これを検討するためには吉本襄著の『氷川清話』を考察しなければならない。

  松浦玲氏は『勝海舟全集21 氷川清話』(江藤淳・川崎宏・司馬遼太郎・松浦玲編 講談社 1973)の解題で以下のように述べている。

《晩年の海舟のところへ出入りしていた吉本襄は、彼自身が海舟から聞いた話に、他の多くの人々の手によって新聞や雑誌に発表された海舟談話を加えて、明治三十年(一八九七)十一月『海舟先生 氷川清話』を発行した。これが非常に好評であったのに気をよくした吉本は、続いて翌明治三十一年(1898)五月に『続・海舟先生 氷川清話』(分冊本「続編」)を、さらに同年11月には『続々・海舟先生 氷川清話』(分冊本「続々編」)を発行する。いずれも海舟生存中のことである。

次いで吉本は、海舟没後三年余を経た明治三十五年(1902)十一月に、既刊の3冊をまとめて1冊の『海舟先生 氷川清話』(合冊本)とした。このとき吉本は、既刊各冊を小単位の談話に分解した上で、内容別に分類しなおして一本にしている。  

この措置も読者のこのみに合ったようで、吉本の合冊本『氷川清話』は、他にも数多くあった海舟談話集を圧倒して売れ続け、遂には海舟の談話といえば反射的に氷川清話となるほどの地位を確保してしまった。

最近装いを変えて発行されている『氷川清話』も、見出しや注に工夫があるだけで、談話本文は、吉本がまとめたものをそのまま使っている。

  しかし、われわれのこの全集においては、吉本の確定した談話本文をそのまま利用して全集の一巻とすることは、できなかった。その理由は、大きく二つある。

 第一は、吉本の『氷川清話』の信憑性の問題である。吉本が確定した談話本文は、果して海舟の話したことを忠実に伝えているのだろうか。

怪しい、とわれわれは判断した。

吉本は、他の人々がそれぞれの文体や語調で新聞や雑誌に発表した海舟談話を自分の『氷川清話』に取り込むにあたって、自分が海舟の語りくちだと信じている語調に書きあらためている。それは必ずしも悪いとばかりは言えないのだが、困るのは、その吉本式リライトに際して、談話の意味・内容までが勝手に変えられていることである。新聞や雑誌の海舟談の文面を正確に読みとらず、意味をとり違えたままで吉本流の話しことばにしている例が、非常に多い。ひどいのは、海舟のところへ来た客の発言を、海舟の言葉のようにつないでしまったものまである。また吉本は、海舟の話しかたが簡略すぎて意味をとりにくいと思ったところには、自分の知識で言葉を補って海舟に語らせるのだが、その知識がいいかげんであるため、結果として、海舟にしばしば途方もないウソをしゃべらせてしまっている。

 悪質な意図的改竄も少なくない。海舟の元の談話が当局者を名指しで批判している場合など、たいていは、その名指しされた人名(たとえば「伊藤」)を伏せて「いまの政治家」とか「いまの人達」というような一般的な言い方に置き変え、しかも談中の時事性のある語句を削ったり、談話の時相(tense)を動かしたりして、海舟がそれを何時しゃべったのかわからなくしてしまう。そのため、痛烈な時局批判だった海舟の原談話が毒抜きされ、ありふれた精神訓話に堕しているのだ。批判談話でなく当局者の名前を伏せなかった場合でも、たとえば、第二次松方内閣の松方首相や樺山内相に忠告し期待している談話を、第一次大隅内閣の大隅首相や板垣内相に忠告し期待しているように書き変えた、手のこんだものもある。薩摩閥と長州閥を区別して、特に「いまの薩摩人は」と語っているところを、勝手に「いまの薩長の奴らは」としてしまっているような、不注意か意図あってかのことか判じかねる改竄になると、とても数えきれない。

この他に、言葉の無神経な置き変えで意味が微妙に変化しているところも多く、例を挙げていけばきりがないが、ともかくこれが、吉本の談話本文をとてもそのままでは使えない第一の理由である。

第二番目に、言葉がおかしいかもしれないが、網羅性の問題がある。吉本の『氷川清話』は、新聞や雑誌に発表された海舟談話を完全に収集網羅しているのだろうか。していない、というのがわれわれの結論である。

吉本は数人の協力者と共に『国民新聞』『毎日新聞』『朝日新聞』『読売新聞』『日本宗教』『世界之日本』『天地人』等々の紙誌から海舟談を集めたらしいのだが、それらの紙誌にあたりなおしてみると、貴重で興味深い談話の多くが、未収録のまま残っている。むろん、吉本なりの選択があり、また、分量の関係もあったのだろうが、収集洩れということも考えられ、いずれにしても、現在のわれわれとしては放置できない》 

このように松浦氏が批判する合冊本が、『勝海舟全集21 氷川清話』(講談社1973)と、『氷川清話』(講談社学術文庫 2000)が出版されるまで読み続けられてきたのである。

つまり、この2冊の講談社版が出るまでは、吉本合冊本によって『氷川清話』が理解されていたであるから、その後研究が進んだ現在の歴史解釈とは異なるのである。

その一つの事例として『世界の労働』(財団法人日本ILO協会 1972年6月)に掲載されたエッセイを紹介したい。

《私が中学に入った頃は、第一次大戦中(1914年7月〜1918年11月)であったが、その時期に氷川清話を読んだということは大変象徴的であった。幕末の混乱に対処した勝海舟という人物を初めて知り、その偉大な人格に圧倒される思いであった。その驚くべき洞察力と水も漏らさぬ政治的配慮にむしろすがすがしい感じさえ覚えたものである。当時の開国は今から考えれば、国内事情もさることながら、産業革命の嵐がたまたま日本にも及んで来たということに尽きるかも知れないが、これらが海舟の出現を可能にしたのであろう》

このエッセイが投稿されたのは昭和47年(1972)であるから、『勝海舟全集21 氷川清話』(1973)出版の前年に当たり、エッセイ投稿の人物が、吉本の氷川清話を読んだのは50年以上前になるわけで、この当時から海舟の行動に強い影響を受けていたのである。

ということは、壁画『江戸開城談判』に関係してきた人たちも、吉本の合冊本『氷川清話』によって、幕末維新と江戸開城場面を理解していたということになるのではないだろうか。

そうならば、現在時点で研究が進んだ諸史実の洗い直しを知らないままに、旧態のままの歴史を受けとめていたのではないか、ということになる。

 

  1. 吉本襄の人物像

吉本襄という人物については、なかなか的確な資料はないが「日本近代―明治大正期の陽明学運動―」(吉田公平『国際哲学研究7号』2018年3月19日 東洋大学国際哲学研究センター)に、「三 、吉本襄の『陽明学』」として以下のような記載があるので紹介する。

《吉本襄の生卒年は、伝記資料の調査が不十分なために、分からない。勝海舟の『氷川清和』の編者として著名であるが、原載の文章を歪曲して編纂したとして酷評される。現行の『氷川清和』は松浦玲らが新たに編集したものが講談社から刊行されている。

国会図書館に所蔵される、吉本襄の著書及び吉本襄が鉄華書院から刊行した著書を紹介しておきたい。極めて不十分なものです。識者のご教示を切望します》

ということで、次に17編の資料を紹介しているが、これを省略する。だが、吉田公平氏は続けて以下のように述べる。

《吉本が陽明学運動の開拓者として理解されているのは、鉄華書院を立ち上げて主幹として機関誌『陽明学』を発刊したことによる。創刊は明治29年7月5日。明治33年5月20日発刊の7980合併号が終刊である。

王陽明の儒学思想は王学とか姚江学と呼称されるのが通例であったが、吉本襄の『陽明学』が普及するにつれて、「陽明学」という呼称が日本はもとより、中国・朝鮮でも使用されるようになった》

吉田氏が、国会図書館に所蔵される吉本の著書及び吉本が鉄華書院から刊行した著書を紹介している中の、『西海孤島 千條乃涙』(明治22年〔1889〕)について、『史観』(平成4年〔1992〕3月)で佐藤能丸氏が「社会小説の先駆……吉本襄著『西海孤島 千條乃涙』」で、吉本の人物について次のように書いているので概略紹介する。

吉本は1850年代から60年代にかけて高知で生まれ、明治36年(1903)頃、米国へ移住する日本人のために雑誌を発行する計画を抱いて渡米の途に着いたが、船中で病に罹り、引き返して帰国後、療養したが、大正の初年に新井宿の寓居で死去したという。

高知で陽明学を学び、陽明学は生涯を貫く思想的バックボーンになって、行動的な「知行合一」の姿勢によって「高島炭鉱問題」に挺身し、これをテーマに『西海孤島 千条の涙』を発刊したという。

 

  1. 吉本はどのようにして史実を改竄したのか

では、吉本襄はどのように史実を改竄したのか。その内容を「学術文庫版刊行に当って」で松浦玲氏が解説している。

《そこで私は一九七二年(昭和四十七)から刊行が始まった講談社版『勝海舟全集』の仕事に加わったとき、『氷川清話』は徹底的に洗い直す必要があると提案し、受け入れられた。吉本襄がリライトする前の新聞や雑誌の談話を探し出して、どこがどう改竄されたか突き止めようとしたのである。

この試みは一九七三年(昭和四十八)刊行の講談社版勝海舟全集21『氷川清話』として結実した。この全集版では新聞や雑誌に載った元の談話と、吉本襄のリライト文とを対照させ、海舟の真意がどのように歪曲されたかを細かく追跡した。また吉本がそういうけしからぬふるまいに及んだ動機を併せて解明した。この動機解明により、多くの魅力的な談話を吉本が収録しなかった(できなかった)理由も推定できた。講談社の勝海舟全集『氷川清話』は、吉本が忌避した海舟談話を大量に増補収録した。

元来の海舟談話は圧倒的に時局談である。時事談話である。日清戦争前の明治二十五年、六年に第二次伊藤博文内閣を痛烈に非難している談話から始まって二十七、八年の日清戦争中に敢然と戦争に反対したもの、講和会議批判や三国干渉後の新しいアジア侵略を憂えるもの、関連して清国とシナ社会の違いを論じたユニークな発言もある。また明治二十九年の全国的な大風水害に際しての対策の遅れ、特に渡良瀬川の氾濫で万人の眼に明らかとなった足尾鉱毒問題、これについて海舟は、いまのエセ文明より旧幕府の野蛮の方が良かったのではないかと言いきる。

  吉本襄は、この海舟談話の時事性を隠した。海舟が明治二十五年から二十九年に掛けて喋った談話を、あたかも最晩年の明治三十年と三十一年に喋った如くに書換え、いつ誰を批判したかというような具体性を持つ言葉を消してしまった。内閣や大臣の名前を差替えたのも見つかる。時事性が強すぎて改竄が無理な談話は初めから収録しない。こうやって吉本は海舟の痛切な時局談を、御隠居さんの茶飲み話に変えてしまったのである。吉本の『氷川清話』を現代表記に改めただけで別の編者名を冠して売っている本では、吉本にすっかり騙されて、この談話は明治30年と31年頃に喋ったものだと解説してあるので御覧になるといい。

もちろん明治三十年と三十一年の談話も収録されているのだが、子細に検討すると明治三十年の談話があたかも三十一年に喋ったかのごとく書換えられていたりするのである。こういう点で吉本は実に細かく、後世の人は長く騙されたままだった。講談社版勝海海舟全集『氷川清話』は、吉本がリライトする前の原談話を探し出して対照することにより、吉本が何を隠したかを明らかにした。吉本が隠したところこそが本当の海舟である》

  

松浦玲氏は、大変なことを述べている。吉本の明治35年版『海舟先生 氷川清話』を読み、これを事実として読み解きした人々は、歴史と時代を誤って理解した可能性が高い。

 

. 氷川清話・吉本襄の大罪 「談判」編 その三

  1. 吉本襄は「談判」が行われたと記述している

しかし、松浦玲氏も見逃している史料を紹介したい。

それは『氷川清話』(講談社学術文庫 2000)に掲載されている「西郷と江戸開城談判」(7274)である。

《西郷なんぞは、どの位ふとつ腹の人だつたかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやつてくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。

 あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談はとても纏まらなかつただろうヨ。その時分の形勢といへば、品川からは西郷などが来る、板橋からは伊地知などが来る。また江戸の市中では、今にも官軍が乗込むといつて大騒ぎサ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、たゞ西郷一人を眼においた。

 そこで、今話した通り、ごく短い手紙を一通やつて、双方何処にか出会ひたる上、談判致したいとの旨を申送り、また、その場所は、すなはち田町の薩摩の別邸がよからうと、此方から選定してやつた。すると官軍からも早速承知したと返事をよこして、いよいよ何日の何時に薩摩屋敷で談判を開くことになった。

 当日のおれは、羽織袴で馬に騎つて、従者を一人をつれたばかりで、薩摩屋敷へ出掛けた。まづ一室へ案内せられて、しばらく待つて居ると、西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引つ切り下駄をはいて、例の熊次郎といふ忠僕を従え、平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通つた。その様子は、少しも一大事を前に控へたものとは思はれなかった。

 さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかつた。「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いや貴様のいふ事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集して居るのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろいろ喧しく責め立てるに違ひない。万一さうなると、談判は忽ち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいはない。その大局を達観して、しかも果断に富んで居たには、おれも感心した。

 この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などいふ豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子を覗つて居る。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけて居る。その有様は実に殺気陰々として、物凄い程だつた。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののやうに、談判を仕終へてから、おれを門の外まで見送った。おれが門を出ると近傍の街々に屯集して居た兵隊は、どっと一時に押し寄せて来たが、おれが西郷に送られて立つて居るのを見て、一同恭しく捧銃の敬礼を行なつた。おれは自分の胸を指して兵隊に向ひ、いづれ今明日中には何とか決着致すべし、決定次第にて、或は足下らの銃先にかゝつて死ぬることもあらうから、よくよくこの胸を見覚えておかれよ、と言ひ捨てゝ、西郷に暇乞ひをして帰つた。

 この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失はず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもつて、敗軍の将を軽蔑するといふやうな風が見えなかつた事だ》

 このように慶応4年3月14日の薩摩邸で西郷と海舟による「談判」で江戸無血開城がなされたと『氷川清話』(講談社学術文庫 2000)の「西郷と江戸開城談判」(7274)で記している。

つまり、松浦玲氏は「談判」によって江戸無血開城がなされたことを認めているのである。なお、この文中で海舟に「談判」という言葉を9回も連発させている。

  1. 吉本襄が「談判」が行われたというのは創作ではないか

吉本襄について更に検討してみる。

『氷川清話』(講談社学術文庫)で「江戸を戦火から守る」(375〜376頁)について、吉本は次のように記している。

《翌日すなはち十四日にまた品川へ行つて西郷と談判したところが、西郷がいふには、「委細承知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」といつて、傍に居た桐野や村田に進撃中止の命令を伝へたまゝ、後はこの事について何もいはず昔話などして、従容として大事の前に横はるを知らない有様には、おれもほとほと感心した。この時の談判の詳しいことは、いつか話した通りだが……》

最後に「この時の談判の詳しいことは、いつか話した通りだが」とあるが、その内容は『氷川清話』(講談社学術文庫2000)及び『勝海舟全集21 氷川清話』(講談社1973)では記されていない。

海舟は談判していないのだから、当然に話す内容がないわけである。激しい口論・議論のやりとりがあれば、海舟のような達者な男は、その事実を語るであろう。そうでなければ海舟のお喋りを本にした『氷川清話』のようなものの出版はできない。

しかし、明治35年版吉本襄著の合冊本『海舟先生 氷川清話』を確認すると、何と同書の227頁に、以下のように書かれているではないか。

《この時の談判の詳しいことは、何時か話した通りだが(四十六、四十七、四十八頁参照)》

だが講談社学術文庫『氷川清話』7274頁の「西郷と江戸開城談判」では、この(四十六、四十七、四十八頁参照)という参照文言が記されていなし、『勝海舟全集21 氷川清話』(講談社1973)にも記されていない。

明治35年版吉本襄著の合冊本『海舟先生 氷川清話』で述べる(四十六、四十七、四十八頁参照)とは、講談社学術文庫版『氷川清話』と『勝海舟全集21 氷川清話』の「西郷と江戸開城談判」に該当するが、そこにはどこにも「談判」という状況を具体的に現わす内容は書かれていない。

ただ「談判」だったと繰り返すだけで、室内から窓外をみているかのような風景的描写であり、二人の人物が激しく激論するという場面は皆無である。

これに対し、鉄舟の直筆『西郷隆盛氏ト談判筆記』では、西郷と鉄舟の「やりとり」が緊迫した状態で具体性持って表現されている。

ところが、吉本の文章では、どのような「談判」であったのか、それが項目的・具体的に書かれていない。刑事事件で、裁判所で検察官が冒頭に述べる「犯罪の具体行動事実」に該当するような内容・項目が書かれていないのである。ただ曖昧に「談判」したと9回も連発しているだけである。

吉本は哲学者なのであろう。吉本によって「陽明学」という呼称が日本はもとより、中国・朝鮮でも使用されるようになったと、『国際哲学研究7号』の吉田公平氏の論文が述べている。

人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする哲学者である吉本襄は、大所高所からの論述は巧みでも、眼前で展開する実務的・具体的な状況を整理してまとめるのが弱いのではないかと思う。

このように理解するならば、海舟の「談判」行動の展開場面描写は苦手であるはずで、海舟から事細かに「談判」内容の具体的事実を教えてもらわないと書けないのである。

合冊本『海舟先生 氷川清話』の(四十六、四十七、四十八頁)からは、何ら具体的談判事例が浮かばないし、ここから想定されるのは、海舟は「談判」内容を吉本に具体的には話さなかった、ということではないか。

というより、「談判」はなされていないのであるから、海舟は話していないのである。それを吉本は海舟が語ったように創作したのであろう。

松浦氏は、「学術文庫版刊行に当って」で次のように述べる。

《流布本『氷川清話』について私 (松浦玲) は、勝海舟があんなことを喋る筈が無いという疑いを長く持っていた。最初に『氷川清話』を編集した吉本襄が、海舟の談話を勝手に書き換えたのだと睨んでいた》

 と述べているが、海舟が『慶応四戊辰日記』慶応4年3月14日で「十四日 同所に出張西郷へ面会す。諸有司嘆願書を渡す」という「嘆願」では、吉本は「面白くない」、「読者が興味をもたない」ということで、海舟に「談判」させたというように、勝手に書き違えたのではないか。

では、海舟が「談判」したのか、否、「会見」であったのかの検討はどのように判断すればよいのだろうか。

それは、目賀田種太郎という人物と、鉄舟という「明治天皇の侍従」が書き遺した内容を信じるか、それとも松浦玲も「信憑性に問題あり」と述べる吉本を採るかという判断である。

 目賀田種太郎は、海舟の三女・逸子の夫、ハーバート大学卒、大蔵省を経て、朝鮮政府財政顧問・統監府財政監査長官、貴族院議員・枢密顧問官・国際連盟大使などを歴任している。専修大学の創始者の一人で、東京藝術大学の創設者の一人でもある。

 さらに、鉄舟は明治天皇が最も信頼した侍従である。

 客観的にみて、吉本襄の方が「人間の信用度」という意味で不利ではないか。

 以上から目賀田種太郎が海舟から直接聞いた内容の筆記の方に、信用がおけると考える。

 しかも『明治神宮叢書 第十八巻 資料編(2)』53頁に明記されているのである。

   

以上から、江戸無血開城は西郷と海舟による「談判」でなされたのではない、ということであろう。吉本襄は歴史上の大罪を犯したと思う。

2022年3月28日 (月)

2022年4月20日例会開催について

2022年4月は3月に引き続き永冨明郎氏から以下のテーマでご発表いただきます。

テーマ【承久の乱と朝廷からの独立】

    日程  2022420()

           時間   18時30分~20時

           会場   東京文化会館・中会議室1

           参加費 1500

 

2022年3月例会開催結果

2022年3月、4月は2か月連続で永冨明郎氏からご発表いただきます。

2022年3月のご発表概要は以下の通りです。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しく観るためにとても参考になったという感想が多く寄せられました。

『3月ご発表概要』

第一回【鎌倉幕府の立上げから鎌倉十三人衆設置】

 

1.はじめに=鎌倉時代約150年の大まかな区分;

 1180(頼朝決起)~1225(政子、義時らの死去) =鎌倉創世期

 1225(執権体制確立)~1281(蒙古襲来を防ぐ) =鎌倉安定期

 1281(元寇の恩賞問題)~1333(鎌倉幕府滅亡) =鎌倉終末期

2.平氏の20年に及ぶ権力簒奪状態に、以仁王(後白河帝三男)が平氏討伐の令旨を発する(治承4(1180)年4月)

平氏は令旨に対し、各地の平家系武将に、周囲の源氏討伐を指示

その動きを察知した源頼朝が、北条家臣らの勢力で同年8月決起

・三浦半島の有力者(三浦氏、和田氏ら)と合流を狙うも、平氏側の大庭氏などに阻まれ(石橋山の戦)、房総半島へ。

・房総で上総広常や千葉常胤などの大勢力を糾合更に、関東有力武将の帰順も得て、同年10/6に鎌倉入りを果たす

3.鎌倉政権

・頼朝に加勢してくれた武将を「御家人」とし、平等に主従関係(御恩と奉公)を構築

・北条義時;長寛元年(1163)、北条時政の二男として誕生。

少年期に隣村の江間氏に養子入り=「江間小四郎義時」

頼朝決起に、父・時政、兄・宗時と従軍も宗時が戦死。以後父とともに頼朝を支える

・養和2年(1881)、頼朝は親しい武将の子息11名を「寝所近辺伺候衆」に任命。

その筆頭に義時も(19) =父・時政とは別の、独立した家臣に

・木曽義仲の追討と源平合戦の末、文治元年(1185)3月、平氏滅亡・・・・ 義経の活躍?

 平家殲滅の2か月後、義経が鎌倉を訪ねるが、頼朝は鎌倉入りを許さず、義経は去る

・同年11月、北条時政に1千騎を付けて上洛、朝廷側と交渉の結果、頼朝に全国の守護・地頭の任命権を得る=鎌倉幕府創設と同義(かつては

   建久2(1192)頼朝の将軍宣下と言われたが?)

・ 源義経は奥州藤原氏を頼る ⇒義経と奥州征伐 =奥州藤原氏を殲滅(文治5年1189) 結果、東国はほぼ完全支配下に

・建久元年(1190)11月、頼朝が上洛、後白河法皇と対面

・曽我兄弟の仇討事件、北条家は弱小勢力)

・正治元(1199)年1月 源頼朝急死(53) ⇒長男・頼家(18)が継ぐ

4.二代目将軍 頼家

・頼家は某弱無人 ⇒頼家の親政を押さえるために「十三人衆」の選定

5.鎌倉殿十三人衆とは;

  北条家=北条時政、北条義時、

  中央経験者G=大江広元、中原親能、三善康信、二階堂行政

  頼朝流人時代からの援護者=安達盛長、比企能員

  周辺強豪武将=梶原景時、三浦義澄、和田義盛、八田知家、足立遠元

 ※実際にこの13名が一堂に会して何か議論をしたという史実はない!

 ※狙いは頼家への牽制と、強豪武将に対する警告?

6.有力武将の追い落とし

・北条家は弱小勢力 ⇒対立勢力の順次排斥

上総広常、梶原景時、比企能員、畠山重忠、北条時政と牧の方、和田義盛

・比企の乱で将軍・頼家の幽閉、殺害 ⇒弟・実朝(12)を将軍に(建仁3(1203)

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