2021年7月15日(木)例会は、河瀬眞人氏から「河瀬英子(江川英龍・末娘)をめぐる人々」、山本哲氏から「徳川慶喜の社会学・その後の慶喜」についてご発表いただきました。
- 河瀬眞人氏「河瀬英子(江川英龍・末娘)をめぐる人々」
河瀬眞人氏の曽祖父は河瀬眞(まさ)孝(たか)(石川小五郎)氏で、天保11年(1840)生れ、長州藩で幕末時活躍、慶応3年(1867)英国留学、明治4年(1871)帰国、工部少輔、侍従長を経て、明治6年(1873)イタリア公使、明治10年(1877)帰国後は元老院議官、司法大輔、明治17年(1884)英国全権公使、明治27年(1894)英国公使退任、以後終生枢密院顧問官を勤めた。
河瀬眞孝氏の妻が英子氏、伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍の末娘として安政2年(1855)誕生、明治4年16歳にて河瀬眞孝氏と結婚。明治6年18歳にて眞孝氏とイタリアへ。明治10年帰国、明治17年(1884) 29歳にて眞孝氏の英国全権公使に伴い英国へ。明治44年(1911)56歳で逝去。
英子氏は英国にて数多くの留学生や赴任者の面倒を見て感謝されている。
河瀬家に遺された「MADAME KAWASE」と書かれた古いブリキの衣装箱、その中に英国時代の手紙が27点遺されている。大鳥圭介、西郷従道、品川弥二郎、徳川義礼、陸奥宗光などからの手紙である。
手紙の内容は、留学費用の事、本人の監督依頼などであるが、陸奥宗光が息子について、本人の病気や生活資金の心配などを綴ったものが2通あり、その中で特に英子夫人へ深い感謝を述べられているのが印象的である。
- 山本哲氏「徳川慶喜の社会学・その後の慶喜」
山本氏は今回のご発表に際して多くの慶喜関係書籍に眼を通され、慶喜の歴史的意義を次のように整理された。
大坂城から敵前逃亡し、京阪での大規模軍事衝突を避けたが、幕府側から裏切り者と汚名を浴びた。しかし、江戸無血開城によって、血と血で洗う内乱を最小限度にとどめた。
“始める”ことよりも”終える”ことの方が難しい。多くの政権の最後において権力者は往々にして命が狙われて、大往生はない。
旧幕臣、反新政府勢力の挑発に乗らない強情公。西郷のように下の者に担がれ内乱を引き起こすことはなかった。その代わり国民的人気を勝ち得なかった。人気の高さと歴史的意義は必ずしも比例しない。壮年期に退任し、以後44年間、趣味の世界、没頭できるものを持ち続け生きた。現代人に近い新しもの好き。
(事務局から)
山本哲氏はご発表後、次のように付言されましたのでお伝えします。
「高齢化の現在、最も恐ろしいのは認知症であるが、これをどのように克服して、充実した生活を送るにはどうしたらよいのか。この課題を慶喜の実例から学ぶ必要があるのではないでしょうか」。なるほどと思います。
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