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2021年4月

2021年4月16日 (金)

「渋沢栄一の生涯」 2021年4月13日 山岡鉄舟研究会 永冨明郎

東京都の「まん延防止等重点措置」適用に伴いまして、421日の東京文化会館における例会開催は中止とさせていただきますが、今月ご発表の永冨明朗氏に、特にお願い申し上げまして、ご発表の「渋沢栄一の生涯」内容を以下のように整理・まとめていただきましたので、皆様にご案内いたします。

<緒言>

渋沢栄一を振り返るにあたって、ふたつほど感じたことを、述べておきたい。

ひとつは、栄一が日本近代資本社会の創設者と言っても過言ではないが、並行して多くの社会福祉事業を手掛けた。この渋沢路線こそ、日本が共産主義、社会主義国家に走らなかった大きな理由ではないか、という点である。

一部の資本家だけが大儲けをし、国民のほとんどは酷使されるだけの貧困社会となるからこそ、国民は共産主義、社会主義に走った。ロシア、中国しかりである。そうならなかった道筋に、栄一の功績大と感じる。近代福祉国家として、その中で一般企業が何ができるかを、自ら示したのである。

コロナ禍で分断社会が頭を現し始めている現在こそ、この栄一の精神を振り返るべきであろう。

今一つは、何カ所かで講演した際に「栄一が91歳まで長寿だった、何か秘訣があったのか」という質問を受けて感じたことである。

栄一自身はあまりお酒を飲まなかったと言われるが、それが長寿の秘訣とは、間違っても思いたくない。また栄一の自伝などを見ても、特別に長寿を念じた工夫をしたような記述は見当たらない。

そこで思い当たるのが、栄一の性格ではないか。

本文のとおり、特に幕末から明治初年まで、再三再四、環境が激変する。しかしその都度、「ではこの環境下でできることは?」という思考方法で乗り越え、いや変化を我が物にしていく。決してくよくよ案じたりしていない。

そして、500社を超える企業に関わったという点も、同様のことが感じられる。

サラリーマンならすぐ気付くと思うが、会社を立ち上げるというのは大変なリスクもしょい込むことでもある。500社すべて自ら立上げたのではなく、大半は知人、友人がやりたいので、と手を貸したものである。その際、もし手を貸した会社が潰れたら大損する、あるいは自分の名前も傷つく、などという後ろ向きの発想を持っていたら、到底何百という企業に手を貸せなかったに違いない。

栄一の前向きな、いい意味での楽観性を、そこに感じるのは私だけではないだろう。

それこそが、栄一の長寿の最大の秘訣だったのではないだろうか。

コロナ禍の波に押し流されそうな今日こそ、渋沢栄一の生き様を振り返ることが大事であろう。

                                  

1.若年時代=父を手伝って藍玉売り、藍葉仕入れに回る

 ・天保11(1840)2/13 武州榛沢郡血洗島、豪農の家に生まれる

  =昨年が生誕180年、今年が没後90年

 ・父の藍玉製造を手伝い、実業のイロハを。

 ・7歳より従兄の尾高新五郎淳忠に日本外史などを教わる ⇒尊皇攘夷思想に

 ・16歳の頃、岡部藩代官より3軒に1,500両の寄付要請。父の代理で出頭した栄一が即答を避けると、頭ごなしに非難される⇒「官尊民 

   卑」の風の打破を決心

 ・18歳で尾高千代(惇忠、長七郎の妹)と結婚。

  千代は明治15年(1882)、大流行したコレラで死去。翌年、川越の豪農の娘・兼子と再婚

 ・文久元年(1861)頃より、農閑期だけ江戸に出て海保塾、千葉栄次郎道場に

 (この間に道場仲間・真田範之助に連れられて平岡円四郎=一橋家用人との縁ができる)

 

2.文久3年(1863)秋 攘夷計画

 ・尾高惇忠、渋沢喜作(詳細は巻末参照)らと攘夷計画を立案、進める。同志69名を募る

  <風の強い日に高崎城を襲撃、武器補強の上で横浜異人街を焼き討ち>

 ・そもそも、計画には無理があった

  1)高崎城は江戸の北の守りの要=6070名で簡単に落とせるか?

  2)高崎から横浜まで直線でも120km=最低3日 その間に関八州回りの捕縛は必至

 ・また京ではこの年8月を境に、長州系の過激尊攘運動が大きく後退(8.18政変)

  ⇒京に潜伏していた尾高長七郎(詳細は巻末参照)が帰郷、計画不可と!

 ・計画とん挫 ⇒渋沢喜作とともに村を出奔、江戸に出る

 ※疑問①=栄一らの攘夷計画に、清河八郎の影がなかったか??

 ・清河は文久3年春の将軍上洛に合わせ、関東周辺の浪士を集めて警護団の結成を上申。 採用され、250名余りの浪士組を高橋泥舟、山岡

  鉄舟らが取扱役として上洛。

  上洛後、清河はすぐに朝廷(学習院)に上申し、この浪士組を攘夷部隊とすると発表。

  その結果、組は①京残留組(のち新選組)、②江戸帰還後、横浜襲撃隊に、③佐幕派(のち新徴組など)に分かれる。

  清河は②組を率いて、4/15に横浜襲撃決行を進めるも、4/13に江戸赤羽橋近くで暗殺。

  翌日には組のほとんどが捕縛され、泥舟、鉄舟らは謹慎処分となる。

  この残党の一部が北関東に逃げ、栄一らに策を授けたのでは??

 

3.元治元年(1864)2月 武士に、そして幕臣になる

 ・一橋家用人・平岡辺四郎との縁で一橋家臣に(喜作も)

 ※御三卿・一橋家は将軍候補待機部屋で、独自の家臣・兵力を持たず

  慶喜が将軍後見職(のち禁裏御守衛総督)の職務を与えられ、独自家臣団が必要に

 ・家臣として①一橋家歩兵募集に成功(房州で50名、播州などで240名)

       ②領地播州などで経営改革実行(藩札による特産品集中買い上げ、販売)

 ・慶応2年(1866)秋、慶喜が徳川宗家入り、将軍に=一橋家臣もそのまま幕臣に

 ⇒あくまで在野改革派であることを期待していた栄一、喜作は家臣から離れるつもり

  そこに、パリ行きの命

 

4.幕臣としてパリへ

 ・幕府接近を目指すロッシュ公使が将軍・慶喜にパリ万博出展を提言

 ・パリ万博(第三回)=1867.04.01~同11.03

 ・欧州にて;①本国からの為替手続きが不順に ⇒現地企業へ投資、利潤を

       ②名誉総領事・F.エラール(パリ銀行頭取)から近代銀行の仕組みを教わる

       ③エラール(商人)と昭武教育係・ヴィレット中佐(軍人)との会話に官尊民卑がない!

       ④ベルギー国王から自国の鉄鋼のPRを受ける=国王自ら商人?!

 ・使節・水戸昭武は万博終了後、5年程度欧州での留学の予定(栄一が随行)も、国内政変により、慶応4年(1868)呼び戻しの命。栄一は

  当初はこのまま帰国するより、昭武に近代文明を学んで帰国したほうが世の役に立てると、動かず。

 ・水戸藩主・慶篤の死去により昭武が当主となるため、水戸藩士がパリまで迎えに。

    ⇒明治元年11月帰国、駿府へ

 <パリ万博/幕府使節団>

  使節   徳川昭武   (水戸藩世子、慶喜弟、15歳。のち水戸藩主に)

  勘定奉行格外国奉行    向山 (かずふみ) (初代駐仏公使に)※

  歩兵頭並         保科 俊太郎(通訳、留学生取締役)

  外国奉行支配組頭     田辺 太一 ※

  外国奉行支配調役     日比野 清作

  同            杉浦 譲(愛蔵)

  外国奉行支配調役並出役  生嶋 孫太郎

  儒者・次席翻訳方頭取   箕作 麟祥(貞一郎)

  外国奉行支配通弁御用   山内 六三郎(通訳)

  大番格砲兵指図役頭取勤方改役兼務 木村 宗三

  御勘定格陸軍附調役    渋沢 篤太夫(栄一、庶務・会計)

  御番格奥詰医師      高松 凌雲

  小十人格砲兵大砲差図役勤方 山内 勝明(文次郎)

   ※印=薩摩藩との軋轢から、2名は帰国命令、代わりに仏通の栗本 鋤雲(外国奉行)を派遣

  水戸藩士(昭武護衛 計7名)菊地平八郎、井坂和泉太郎、加治権三郎、皆川源吾、大井六郎左衛門、三輪端蔵、服部潤次郎

  同行者 駐日仏長崎領事  レオン・デュリー

      通訳兼世話掛  アレキサンダー・シーボルト(英公使館通訳官)

  *A.シーボルトとは後も交流、赤十字設立にあたってアドバイスも。

 

5.明治元年(1868) 駿府徳川藩士として

 ・昭武より、報告後は水戸藩運営に力を貸して、との誘いも、慶喜から「水戸藩内の抗争に巻き込まれるだけ」と諭され、駿府に残る

 ・駿府には旧幕臣らの多くが無給覚悟で集まっていた。

  ⇒栄一は時の「石高拝借金※」の一部を元手に「商法会所」を設立、領内での特産品の集中買い上げ、販売に。

   数年後には年間8万両の利潤を

  ※石高拝借金=各旧藩時代に発行した藩札を整理させるため、新政府が1石=1両あて各藩に貸与したもの。徳川藩には70万両。うち約30

   万両を活用

  ※商法会所は現・浮月楼の地にあり、後に慶喜隠居宅に

  ※疑問②=駿府での活動(正味1年弱)中に、栄一と鉄舟との接点はなかったのか?

 

6.明治2年(1869)秋 新政府より呼び出し、大蔵省に出仕

 ・当時、大蔵卿=伊達宗城(宇和島藩主)、大輔=大隈重信(佐賀藩)

 ・大蔵省が民部省(税の取立部署だった)と統合された直後で、省内が混乱

  ⇒栄一が組織改正の一元化を提言、「改正掛」を命じられる

 ・栄一の手掛けた改正;度量衡の改正、地租改正、国立銀行法、貨幣制度、郵便制度、鉄道建設、近代製糸工場の立ち上げ など

  ※富岡製糸場=明治3年設立、栄一が設立主任に。初代工場長に尾高惇忠を招聘。

   女工募集も、お雇い外国人がワインを飲む姿を、生き血を吸っていると思われて募集が難航。惇忠は自分の娘・ゆうを第一号の女工にし

   て、募集を軌道に乗せる

 ・明治4年~ 大蔵卿=大久保利通(薩摩)、大輔=井上 馨(長州)

 ・明治6年(1873) 大蔵卿・大久保利通らとソリが合わず辞職

 ・井上は多分に政治駆け引きでの辞職も、栄一は真剣に実業界勃興を目指す

 

7.第一国立銀行、王子製紙を皮切りに、生涯関わった企業は500社を超える

【栄一が手掛けた企業群のいち例】

  金融界;第一国立銀行(現みずほB)、北陸銀行、北海道拓殖銀行、東京海上火災 など

  交通界;日本郵船、日本鉄道(現JR)、秩父鉄道、京阪鉄道など

  インフラ;東京電力、東京ガス、大阪瓦斯、田園都市㈱、渋沢倉庫など

  製造業界;王子製紙、東洋紡績(現東洋紡)、鐘淵紡績(現カネボー)、大日本麦酒(現キリンビール)、品川白煉瓦、日本板硝子、

       日本化学工業、電気化学、日本鋼管、東京石川島造船所・石川島飛行機(現IHI)、浅野セメント・秩父セメント(現太平洋

       セメント)、三共(現第一三共)、大日本人造肥料(現日産化学)、など

  団体;東京商工会議所、東京手形交換所、大阪手形交換所 など

 

 ※岩崎弥太郎との「海運戦争」

 ・弥太郎=土佐の地下浪人の子。苦学して後藤象二郎に見込まれ、土佐商会(龍馬の亀山社中の土佐藩窓口)に。明治後に同社を任され、三

  菱商会に(家紋が三つ重ね菱)。

 ・西南戦争などの海運で国内最大手になり、栄一と一緒にと接近するも、栄一の精神と合わず(栄一=合本主義、多くの金、知恵を集め、利

  益を広く分配。弥太郎=独裁的トップダウン経営=「栄一の方式だと船頭多くして船、岡に上がるがオチ」)

 ・明治13年頃より、栄一が一杯船主らを出資者として風帆船会社を立上げ、三菱商会とダンピング合戦。共倒れ、外国資本参入を恐れた伊

  藤博文が仲介も、岩崎は聞かず。

 ・明治18年、弥太郎の死後を継いだ弟・弥之助と栄一が和解、双方海運事業を統合して「日本郵船」に。両家も和解、栄一の孫・敬三と弥

  太郎孫娘・登喜子が結婚

 ※栄一は政界にはいっさい関わらず(明治36年、井上馨が組閣を命じられた際、栄一に大蔵大臣就任を要請するも応じず、結果、井上内閣

  は成立せず)

 ※ただし、商人として政府に物申すことは必要 ⇒商人として団結必要 =商工会議所

 

8.多くの社会奉仕事業を手掛ける =生涯600件以上!

  社会福祉事業は企業活動との両輪であるべき ⇐『論語と算盤』

 ①東京養育院

 ・明治5年、大久保一翁・東京府知事より、東京内の難民対策の相談を受ける

  (幕府解体、廃藩置県により東京市中に多くの難民、浮浪者が)

 ・「七分積金※」を活用して、難民救済のために「東京養育院」を設立、終生「院長」

   ※七分積金=寛政改革により、各町への支給金の削減工夫をさせ、削減額の7割は町会所にて積み立て、非常時資金とする。

    明治初年で170万両あった!

 ・府管理下となると再三府議会で閉鎖の議案 ⇐その都度、栄一が必要性を強調

 ・運営資金捻出のため、鹿鳴館でバザーを開く

 ・a)健常者だが職がない =職人として指導し自活へ(職業訓練所)

  b)健康を害して働けない =病院施設 ⇒今日の「東京都健康長寿医療センター」

  c)彼らの子供、浮浪児  =養育・教育施設

 ・施設内で死亡した者の墓は谷中・大雄寺内に(高橋泥舟墓所)

 ②教育

  商法講習所 のち東京商科大 ⇒一橋大

  女子教育 ⇒ 東京女学館(広尾)

  埼玉県人対象に奨学金と寮の提供 ⇒現・公益財団法人埼玉学生誘掖会など多数

 ③関東大震災(大正12年)の直後、「大震災善後会」を立上げ、復興支援

 ・渋沢流募金方法;まず奉加帳の筆頭に自身の名と、金額を⇒続く者の金額ガイドに

 ・服部金太郎(服部時計店主)言「ある時将棋を指していると渋沢がやってきて、そこで手相を見て貰ったら107歳まで生きると言われたよ

  と。それを聞いて、渋沢に107まで生きられると今後どれだけ寄付要請があるか知れたものではない、こんなことやってるより、さっさと

  帰って金儲けしておかねば」

 ・栄一言「私がもし一身一家の富を築こうと考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」

  ⇒昭和元年(1926)と翌年、ノーベル平和賞候補に

 ・一方で、晩年まで妾多数

 兼子言「論語とはいいところに目を付けたよ。聖書ならとても守れないもの」

 

9.徳川慶喜への思い

 慶喜が静岡隠居中も、円朝、九代目團十郎らと再三慰問(慶喜が面会する相手は限定)

 明治30(1897) 静岡から東京巣鴨に転居

 明治31(1898) 天皇に拝謁

 明治35(1902) 公爵に   これらの多くは栄一の尽力で

 明治40(1907)、栄一の提言で慶喜の語る場「昔夢会」を立上げ ⇒『昔夢会筆記』

 更にそれを下敷きに歴史学者考察を得て『徳川慶喜公伝』全8巻を出版(大正7年)

 大正2年(1913)11/22 慶喜・没(77) 谷中霊園に埋葬(生前に墓地を取得)

 栄一;昭和6年(1931)11/11 没(91) 谷中霊園に

    墓は慶喜墓の北東約100m、かつ南西、慶喜墓所方向を向いている

    =死してなお鬼門筋を護る?!

                                                       

<尾高長七郎>

 尾高惇忠の弟、天保7年(1836)生まれ=栄一の4歳上。

 早くから伯父の剣術道場練武館(神道無念流)で頭角を現し、江戸周辺で名を馳せる。

 その名声に、千葉道場門弟・真田範之助らが手合わせに来訪、これが栄一らの平岡円四郎との接触の遠因となる。

 安政年間からは江戸で尊攘志士ら(久坂玄瑞、伊牟田尚平、清河八郎ら)との交流を重ね、文久元年(1861)には大橋訥庵門下生らと攘夷計画(輪王寺宮を擁して攘夷決起)を進めるも、訥庵自身は安藤老中襲撃策を進めており(翌年の坂下門変)、計画は中止となる。

 そのため長七郎は出奔、京に潜伏する。

 清河八郎はその年5月、江戸市中で無礼打ち事件を起こし、捕縛の手を逃れるため北関東に向かい、7月には寄居で長七郎と接触している。

 その際、清河捕縛の動きが急であることを知り、清河は更に上州、水戸などに逃れる。その後、江戸周辺は危ないと、中山道で西国へ向かう

 際、今一度長七郎との接触を試みるも、長七郎が上記攘夷策で奔走しており会えず。

 文久3年に栄一らの攘夷策のために長七郎が呼び戻されたのは本文の通り。

 長七郎は栄一らが一橋家臣となるに、隠れた役割を演じている。

 同年末、長七郎は江戸に出るが、ささいなことで刃傷事件を起こし、牢に入れられる。その際の所持品に、栄一らが平岡の縁を頼って京に向

 かったことが記されており、奉行所から平岡に問い合わせが入った。

 栄一らは平岡の誘いに即答せず、逡巡していたが、平岡から、奉行所からの問い合わせを聞かされ、両名が一橋家臣になるなら奉行所には不

 問にさせる、との言葉で、家臣となることを決心した。

 なお長七郎はそのまま明治元年夏まで牢にあり、惇忠の手で出獄できるが、その11月、生涯を閉じた。享年33。

 

<渋沢成一郎喜作>

 栄一・父の弟、文平の子。天保9(1838)年6月生まれ=栄一の2歳上。

 文久3(1863)年の攘夷計画破綻で栄一とともに江戸に出奔、平岡円四郎の縁で一橋家臣に。

 慶喜の将軍就任とともに幕臣、奥祐筆に。鳥羽伏見戦いから江戸に戻り、彰義隊の隊長に。

 慶喜が水戸謹慎となって上野を去り、尾高惇忠、渋沢平九郎(*)らと「振武軍」を結成。

 慶応4(1868)5/23、飯能戦争で敗れ、伊香保、草津を経て榎本軍に。彰義隊生き残りと合流して「彰義隊」を名乗るも、松前城襲撃の際

 に戦闘には参加せず、金蔵からの金奪取に走ったことから隊内で孤立。

 榎本軍降伏の直前(明治2年5/15)に脱走するも、翌月政府軍に投降。

 のち栄一の尽力で赦免され、栄一と大蔵省に勤務。明治3年には製糸工場設立のため渡欧して製糸技術などを見聞。明治6年、栄一の辞職と

 ともに大蔵省を辞職。以後、栄一の事業などを手伝い、大正元年(1912)8/30、都内で没。享年75歳。

 (*)渋沢平九郎=尾高惇忠、千代らの末弟。弘化4(1847)年生まれ。栄一が訪欧決定の際、男子がなかったため、見立て養子として渋沢姓

   に。喜作らとともに彰義隊、振武軍で行動を共にするも、飯能戦争で負傷し、自刃(数え22歳)。地元民により葬られるも無縁墓だっ

   たのを、後に惇忠が尋ね探し、改葬した。

 

<参考文献>

『現代語訳 論語と算盤』  守屋 淳・訳 (ちくま新書2010)

『現代語訳 渋沢栄一自伝』  守屋 淳・訳 (平凡社新書2012)

『渋沢栄一自伝(雨夜譚、青淵回顧録)』  (角川ソフィア文庫2020.9)

『渋沢栄一』  土屋喬雄  (吉川弘文社人物叢書 1989)

『渋沢栄一』  今井博昭  (幻冬舎新書2019)

「若き日の渋沢栄一の転身」 小高旭之 (『歴史研究』2020/4月号)

『雄気堂々』(上下)  城山三郎  (新潮文庫 1976)

『昔夢会筆記』  渋沢栄一・編 (平凡社東洋文庫 1966)

『徳川慶喜公伝』 (全4巻) 渋沢栄一・著 (同  1967-68

『定本 山岡鉄舟』 牛山栄治・著(新人物往来社 1976)

『高邁なる幕臣 高橋泥舟』 岩下哲典・著 (教育評論社2012)

『清河八郎伝』 徳田 武・著 (勉誠出版 2016)

『歴史のなかの新選組』 宮地正人・著 (岩波現代文庫 2017)

『新彰義隊戦史』大藏八郎・編 (勉誠出版 2020.11)

『こんなに解りやすい! 幕末』 永冨明郎 (東洋図書出版 2018

 ほか多数

 

<あとがき>

渋沢栄一の生涯を振り返って、一番感じるのは徳川慶喜への配慮である。

栄一が一橋家から幕臣として、慶喜に仕えていた期間は元治元年(1864)初めから政府呼び出しで駿府藩を離れる明治2年(1869)末までの足掛け6年に過ぎない。その間の2年は栄一が欧州にあった。その間、直接に言葉を掛けられたのは数えるほどだったに違いない。

そんな栄一が終生、慶喜に気を配り、『徳川慶喜公伝』の出版、そして自らの墓所まで慶喜に心くばりするかのようなものとした。

俗に旗本八万騎と言われたが、幕末の直参は約3万人だったと言われるが、その中でわずか6年仕えただけの栄一が、なぜこれほどの配慮を慶喜に尽くしたのか。

その点の考察として、山岡鉄舟と高橋泥舟との比較を試みたい。

慶応4年1月、大坂の慶喜は、これ以上の新政府軍(薩長軍?)との交戦はこの国を荒廃させるだけでなく、抗争が長引けば列強の介入すらありえると考え至り、わずかの伴だけで江戸に戻った。

江戸城に入って、最初に相談したかったのが高橋泥舟だったと言われる。泥舟はしかし、周囲からの妨げもあって、ようやく慶喜に面会できたのは数日後だった。そして泥舟からも、強く謹慎を勧められ、新政府への恭順路線を鮮明にした。

そして、迫りくる新政府軍に接触して自らの謹慎恭順を伝え、江戸攻撃を回避させる役を、泥舟の推挙によって山岡鉄舟に任せた。

いわば慶喜の最後の仕事、恭順路線を打ち出して江戸総攻撃を止めさせ、かつ徳川の家名を残したことに、もっとも深くかかわったのが泥舟と鉄舟だった。

その後のふたりを見ると、まず鉄舟は西郷の説得により10年間を限って明治天皇侍従を務め、いわば近代国家元首として天皇を鍛え上げることに全力を注ぐ。侍従を退いて春風館道場で後進の指導をするが、明治21年に世を去る。この間、慶喜はずっと静岡で隠匿生活のままであった。

一方の泥舟は、自身が慶喜に謹慎恭順を勧めた者として、自らも一切の公職から遠ざかり、慶喜と同様の隠匿生活に徹する。ただその間も、内心では慶喜への配慮は持ち続けていたことは、明治35年に慶喜が公爵に叙されたと知ると、それをことほぐ歌をすぐに献上したことでも明らかだ。

そして慶喜の叙錫祝賀会を見届けた2か月後(明治36年2月)、泥舟は安らかに世を去る。

鉄舟、泥舟の生前に、栄一との接点があったか、まだ管見では不明である。しかしその二人の思い以上に栄一は慶喜に気を配り続けた。栄一だけが、と考えるよりも、直参3万人を代表して栄一が尽くしたと考えるべきかも知れない。

NHK大河ドラマ「青天を衝く」では、毎回冒頭に家康が登場して舞台回しをやり、そして栄一と慶喜の姿が並行して描かれる。そのうち、双方の生き方が交差し、やがてその両者の生き様が一本の話として縒り合されることを予言している。

その点も併せて思うと、やはり栄一抜きに今日の慶喜評価はありえなかったように思える。

                                                        以上

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