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2020年12月25日 (金)

2020年12月例会開催結果

 2020年1217()例会は、山本紀久雄から明治神宮外苑・聖徳記念絵画館の「江戸開城談判」壁画(作者 結城素明)について発表いたしました。 

「江戸開城談判」壁画には、以下の三つの疑問があります。

  1. 明治維新上、最も重要なのは江戸開城であるが、この開城場面が壁画として描かれず、「西郷・海舟会見」場面が描かれているのは何故か。
  2. 西郷と海舟の会見は、海舟が日記で書いているように「嘆願」であるのに

何故に「談判」になったのか。

    3. 武士の心得として、相手と対面する場合、自らの刀は当然に「右脇」に置くことになっているが、「江戸開城談判」壁画で海舟は「左脇」に置いているのは何故か。

上記疑問の1と2については、以前の例会で発表済みのため、今回は3の「刀の位置」を中心にお伝えいたしました。

結論は「壁画作者である結城素明が大刀位置を左脇に変えた」です。

この結論に至ったのは、国会図書館で明治神宮社務所が発行した『明治神宮叢書第18巻資料編』(平成15年発行)を見つけ、その中に「左脇に置く」と明示されていたからです。

国会図書館には膨大な史料・資料があり、その中から研究目的にかなうものを、最初から一発で目標にたどり着けることは殆どありません。

そこで、何回か国会図書館に通うことになるわけですが、ここもコロナ下によって事前予約制のため、予約OK回答がきた日程で訪館し、ようやく上記資料にたどり着けました。

以下が『明治神宮叢書第18巻資料編』の「13 江戸開城談判」に書かれている概要です。

① 大正13年秋、当時外国留学中の結城素明氏は、パリの寓居に於て、9月28日附浅沼龍吉氏の書信に接し初めて西郷吉之助侯爵並に勝精伯爵より奉納の江戸開城談判図の揮毫に関する交渉を受け、直ちに返書を送って承諾の旨を伝えた。

② 更に14年3月帰朝して浅沼氏に面会し委細を聴いて之が承諾の確答をなし、次いで4月14日華族会館に於て西郷侯爵、勝伯爵及び植村証三郎氏、海軍中将黒岡帯刀氏、浅沼氏と会見し、又奉賛会よりは水上浩躬氏が立会はれ、種々意見交換の後、愈々正式に壁画揮毫の委嘱を受諾するに至った。

③ 結城素明氏は奉賛会より送付された参考資料に基き、先ず書題に関する史実の研究を始めた。その一つは『勝安芳日記』。次に両雄会見の有様については目賀田男爵の談話筆記に之が詳述されており参照。この談話筆記は、大正8年10月30日奉賛会より水上氏が目賀田男爵を訪れ同男が勝翁より聴いたところをもとにして語られた際の筆記である。

 *目賀田種太郎(めがた たねたろう)男爵とは、勝海舟の三女・逸子が妻であり、専修学校(現:専修大学)の創始者の一人である。また、 東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設者の一人でもある。

④ 目賀田男爵の談話筆記要旨には、薩藩邸会見の時、勝は単騎にて訪問したが山岡も益満も同席。勝は大小を差し西郷は脇差のみ、西郷は「攻撃を止むことは総督宮の許可なくては予の一存にては何とも仕方なし、只明日の所は見合わすべし」と云い、隣室に入り村田新八、桐野(当時・中村)利秋、渡辺清左衛門外2名に伝えた、一坐はやや不平らしき語調にて同意を表しければ西郷は諸隊に向いて攻撃中止の令を発することを命じて坐に帰り、勝に対して「只今御聞の通りなれば御安心あれ」と述べ、勝は謝辞を述べて退出せりとある。

⑤ この談話に於て作画上参考になったのは「勝は大小を差し西郷は脇差のみなり坐には茶と烟草盆も出でたり」とある条である。斯くて結城氏は更に詳細なる史実の研究と画材資料のために行動した。西郷侯爵邸を訪問し種々西郷について思い出話を聞く。勝伯爵邸に保存されている海舟の写真を複写し、西郷と会見した当時、勝が着用した衣服を借覧し、勝の大小刀を写生。明治31年冬、海舟に招かれてその病床を訪れ、子孫のために海舟の遭難記を画図にすることを委嘱され、制作に着手したが、全部完成しない中、翌年1月19日翁は薨去されたが、江戸開城談判の図は描き残ったもののひとつである。

➅ 作画に関して人物に次いで調査と考証を要したのは薩摩藩邸である。目賀田男爵の談話では詳細が不明であるので、島津公爵家に問合せし、見取り図、置物について承った。薩摩屋敷に類似する徳川末期の武家屋敷について調査し、上野寛永寺の慶喜が隠棲された座敷を見学したが、その際、凌雲院(田安家位牌所)が参考になるとのことで行ってみると、薩摩藩邸見取り図とほぼ一致したのでしばしば足を運んで写生、これに基づき座敷の図を描くことができた。

⑦ 次はモデルである。13代守田勘弥と阪東弥三郎に海舟の扮装をしてもらいしばしば写生。西郷については元力士の伊達錦武(だてにしきたけし・十両)を頼んで作画の参考とした。大正15年7月にようやく図が決定、同月15日憲法記念館に於ける第二回邦画部下図持寄会に提出、奉賛会の承認を得た。昭和7年夏にいたつて完成の域に達し、図中の各所を箇条書きにし、浅野長武氏を通じ、祖父の浅野長勲(ながこと)侯爵に閲覧垂教を乞うた。

*浅野長勲侯爵とは、安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後)の藩主。浅野家27代当主。勲等爵位は勲一等侯爵。昭和12年(1937年)長勲は94歳の長寿をもって死去した。養子の長之が長勲の跡を継いだがその10年後に亡くなり、その後は長武、長愛、長孝と続いた。

⑧浅野長武氏の回答、西郷と勝については以下のとおり。

≪西郷の服装 髷  当時は髷なれば茶筅 元結 紫紐

       衣服 ツツッポ、ダンブクロ 色柄記憶なし

       小刀 差したる儘

 勝の服装  髷  結髪 総髪 旧幕時代には髪の前を剃る当時は総髪なりしやも知れず

       羽織 黒五ツ紋 当時は羽織を着てよろし

       衣色 勝手次第なり

       袴  シマ シマにてよろし

       半衿 色勝手なり 三位以上は白を許さる 安房守なれば白よろしからん

       小刀 差したる儘

       大刀 左脇に置きてよろし

    昭和7年11月8日記

 御尋の点に関し祖父の返答責覧に供し候

                    浅野長武≫

⑨結城氏はこの回答に接し安心して愈々壁画本図の執筆に着手し線描に彩色に細心の注意と努力を払ひ日夜専念没頭して同年8月31日遂に之を完成するに至った。斯くて9月2日絵画館に搬入し即日現場に掲揚を了つたのである。顧れば着手以来実に9箇年に亙る長年月の苦心経営に依って漸く此の大任を全うした次第である。

以上の通り、勝海舟の大刀位置が左脇に描かれたのは、結城素明が決め、浅野長勲侯爵が認定したわけです。

では結城素明は、二世五姓田芳流が描いた「画題考証図」、ここでは右脇に置いているのを、どのような理由で左脇に変更したのか。

そのために山種美術館を訪れ「東山魁夷と四季の日本画展」(20201121日~2021124日開催)で、魁夷の師である結城素明の日本画《春山晴靄・夏渓欲雨・秋嶺帰雲・冬海雪霽》を鑑賞、あまりにも「江戸開城談判」壁画と描き方が違うことに驚き、次に素明が何冊も出版している書籍の概観検討等を行い、幅広く多彩な人生活動を展開した素明の生き方から考察し「大刀を左脇に置いた」理由を縷々解説いたしました。

だが、この解説内容は推察・推論であり、根拠となる史料・資料に基づいたものではないため、報告文としては明記いたしませんのでご了解願います。

 今後も引き続きこのテーマは長期戦で検討・研究してまいります。

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