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2020年9月

2020年9月25日 (金)

2020年10月例会について

 10月は森真沙子先生から以下のようにご発表いただきます。

   発表    森真沙子先生 

   テーマ   『柳橋』で遊んだ妖人奇人録 

   日程    20201021()

   時間    1830分~20

   会費    1500

   会場    東京文化会館・中会議室1

森先生から以下のコメントをいただいております。

「柳橋について__それは江戸のブランドだった

『柳橋新誌』の作者・成島柳北は、「今の柳橋は、深川の死灰再び燃ゆるもの」と書いている。

天保の改革で潰された深川の芸者が、神田川河口の小さな色町に逃れ、再起を期したのが、柳橋である。

そこから吉原への舟が発着するため、船宿や料亭が集まり、旦那衆や旗本が往来した。そこに目をつけ、色で追放された辰巳芸者が、芸を売る『柳橋芸者』に変身する。薄化粧で、派手な着物を避け、客に媚びない“拒む女”は、遊びなれた旦那衆には新鮮で、江戸芸者のブランドとなった。三田村鳶魚いわく、「江戸の人はよく遊ぶことを知っていた」。

柳橋は江戸人に育くまれた“江戸の粋”である。多くの風流人や奇人変人がこの花街を愛し、遊んだのも、故ないことではない」

『柳橋』で遊んだ妖人奇人として登場するのは以下です。

成島柳北 尾崎紅葉の父 澤村田之助と圓朝 河竹黙阿弥 山内容堂 

手塚良仙 山岡鉄舟

 

10月例会も楽しみにお待ち願います。

2020年9月16日(水)例会開催結果

2020年916()例会は東洋大学・岩下哲典教授からご講演いただきました。

コロナ禍でありましたが、中会議室1がほぼ満席となる盛況な例会でした。

ご多忙の中、ご講演賜った岩下教授に感謝申し上げ、ご参加いだいた皆様に御礼申し上げます。

 

 岩下教授からご講演で提供された冊子と史料・資料は以下です。

  • 冊子『再検討「江戸無血開城」特に「静岡会談」はどのように語られてきたのか、その「功労者」は、今後はどのように語られるべきか』(岩下哲典著 東洋大学白山史学会・白山史学 第5620203)
  • 『勝海舟記念館図録』に掲載されている史料「41 大久保一翁書状・徳川慶喜書状写(大久保一翁筆)」と『勝海舟全集』第222巻の関係部分資料。

 

当日のご講演概要を以下に報告いたします。

  1. 慶喜の命を受けた山岡鉄舟が、慶応439日に静岡で大総督府参謀西郷隆盛と徳川家側代表者としてはじめて会見した。この「静岡会談」で、山岡は慶喜恭順の実情を述べかつ各地の旧幕臣の反抗的活動が慶喜とは関係がない事を縷々説明した。これにより、西郷から新政府の降伏五箇条の条件が文書で提示された。そのうち四箇条を山岡は了承し、慶喜の処遇一箇条だけは保留し、四箇条の朝命書を証拠として持参し、江戸にもどった。
  2. 「静岡会談」の結果、四箇条の追認と残った問題、すなわち慶喜の処遇一箇条を交渉し解決するため、山岡・勝海舟と西郷の「江戸会談」が三月十三・十四日に行われたのである。
  3. その後、西郷の新政府諸役への説得など一連の動向が続き、四月十一日に「江戸無血開城」が名実ともに完了した。「江戸無血開城」は、戦争によらない、すなわち政治交渉による問題解決として、幕末維新史上の画期的出来事であり、ここに至る経緯では「静岡会談」が最も重要な会議であったと理解される。
  4. 次に「静岡会談」の研究史とその語られ方について、各識者の主要書籍を分析・検討され、それぞれの主張点について解説された。岩下教授はご著書『高邁なる幕臣 高橋泥舟』(教育評論社 2012)で「山岡派遣のキャスティングは高橋であった」と主張された。
  5. さらに、岩下教授著『江戸無血開城 本当の功労者は誰か?(吉川弘文館 2018)で、新たに「一番槍書簡」(全生庵所蔵)を用いて、この書簡の最大の意義は、四月十日当時、謹慎中とはいえ、旧幕府、すなわち徳川宗家の最高権力者慶喜が、山岡を「一番槍」と認め、感謝し褒賞したことであり、これをもっとも重く受け止めるべきであろうと述べられた。つまり、江戸無血開城の、慶喜を除く幕府側功労者の第一位は山岡鉄舟であると断言できるとした。
  6. また、勝海舟記念館所蔵の「大久保一翁書状・徳川慶喜書状写(大久保一翁筆)」において、慶喜が勝を「千両箱」と評価し、記しているが、「江戸無血開城」に対する山岡の功績は変わらないと述べられた。なお「徳川慶喜書状写(大久保一翁筆)」は「徳川慶喜直筆書状」で「大久保一翁筆」ではない可能性が高いとされた。
  7. 上記125は、山岡が直筆で明治二一年五月に宮内省に提出した「履歴」(全生庵所蔵)でも明らかであり、「履歴」の記述内容は、これまで知られていた山岡直筆「談判筆記」(全生庵所蔵)とほぼ重なると解説された。
  8. 「履歴」と「談判筆記」に記されているように、「静岡会談」で山岡はしっかりと政治的交渉を行い、慶喜の処遇を保留している。この会談で示されたその他の条件、江戸城明け渡し、旗本等は向島に移ること、城内の兵器の引き渡し、軍艦の引き渡しは、降伏に附随する、なかば実務的な事後処理問題で、慶喜の処遇に比べれば比較的軽いものである。要するに、三月十三・十四日の会談は、「静岡会談」で山岡が保留にしてきた項目を話し合う会談であり、勝海舟や大久保一翁に、結果的に山岡が用意した「花道」だった。
  9. 結論として、「江戸無血開城」の旧幕府側の第一番の功労者である「一番槍」は、徳川慶喜本人が認定しているように、山岡鉄舟であると今後は語られるべきと強く述べられた。

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