神にならなかった鉄舟・・・その九
明治神宮外苑に建つ聖徳記念絵画館は、平成23年(2011)に重要文化財に指定され、この絵画館の中に80点の壁画(縦3メートル・、横2.7メートル)が整然と並んでいる。
そのひとつが、山岡鉄舟が重要な役割を担った江戸無血開城をテーマに画家・結城素明が描いた『江戸開城談判』である。
絵画館の内部空間は、中央の大広間から左右両翼に回廊がのび、正面向って右翼側(東側)の第一画室と第二画室に日本画40点、左翼側(西側)の第三画室と第四画室に洋画40点が並んで展示されているのであるから、「美術館」と称されてもよいと思われる。
しかし、ここはあくまでも絵画館なのである。それは成り立ちの特異性にある。通常、美術館や博物館はコレクションが存在しており、その収蔵ほかを担う建物として社会的に要求されたという性格が存在する。
だが、聖徳記念絵画館は施設を建設しようと決定した時、まだ展示する絵画を持たず、これから制作しようという手順で進められたものであるから、美術館や博物館とは、その成り立ちの性格が異なる。それゆえに絵画館に位置付けられるのである。
『明治聖徳記念学会紀要復刊第11号』(林洋子氏論文 平成6年4月)は以下のように絵画館の絵についてこう酷評する。
≪これらは決して同時代のベストメンバーらによって描かれたのではなく、芸術の領域から離脱したような「紙芝居」のような作品が大半となっている≫
林氏は美術品とは認められない作品が並ぶと主張する。しかし、この絵画館の壁画は「とても無視できない歴史画」と認識せざるを得ない。
それを指摘しているのが川井知子氏の『明治神宮聖徳記念絵画館研究』(哲学会誌第21号平成9年11月学習院大学哲学会)である。
≪自らの史料的価値を標榜した絵画館目論見は、成功しているといってよいだろう。「壁画」は、視覚的メディアを通じて、絵画館の外へと拡散、増殖し、各所で機能していくことになるのである。「壁画」の拡散は、師範学校で使用される国定国史教科書の挿図として用いられことに始まる。そして現在でも、「壁画」は多くの書物に「史料」として、あるいは「史料」と見まがうような形で掲載されている≫
≪絵画館の「壁画」は、教科書をはじめとした、日常的に、不特定多数の人々に触れるメディアによって、「作られた歴史」から、「疑うべくもない正史」となってきたのであり、今後も「史料」として用いられる限り、「正史」として振る舞い続けるであろう≫
その通りで、『江戸開城談判』も教科書に掲載され、「正史」として扱われているのが現実実態である。
もう少し聖徳記念絵画館の特徴について検討してみたい。
角田拓朗氏は『聖徳記念絵画館の美術史上の存在意義再考』(『神園(かみぞの)』 第15号 平成28年5月明治神宮国際神道文化研究所)において以下のように述べている。
≪当時の展示施設と比較したとき、絵画館は美術館というよりはむしろ明治後半に隆盛を見せたパノラマ館に類似することが容易に想像されよう≫
≪大画面絵図、建築空間内での一覧性といった特徴がパノラマ館にはあり、明治30年代の日本で流行した理由は、特に日清日露戦争などスペクタクルを現前化することにあった。その主要な担い手のひとりが、壁画画題考証図を描いた二世五姓田芳柳だったことも奇妙な縁である≫
このように聖徳記念絵画館の特徴は、ギャラリー機能を持つ絵画館であり、明治後半に隆盛を見せたパノラマ館に類似するというのだ。
では角田氏が「奇妙な縁」という二世五姓田芳柳が、画題に応じた『下絵』と『画題考証図』の描き手となった背景要因には何があったのだろうか。
これについては横田洋一氏が『明治天皇事績をめぐって--二世五姓田芳柳と岸田劉生』(「近代画説・明治美術学会誌」平成12年12月)で以下のように述べている。
≪二世芳柳を絵画館の嘱託にするに当たっては明治美術会の出品以来、彼が歴史画に長けていたこと、パノラマなどで大型のドラマ性の強い作品を制作していたこと、特に明治44年農商務省の嘱託として英国に渡り、日英博覧会で日本の古代より現代に至る風俗変遷図を描いたことなどが採用の要因となったと見るのは当然であるが、最も強い要因として「天皇像を描き続けた一門の伝統を受け継ぐ二世芳柳」をあげたい≫
この芳柳一門の伝統については以下のように述べている。
≪聖徳記念絵画館と二世五姓田芳柳との結びつきの主たる要因はいわゆる五姓田派が明治7年の初代五姓田芳柳の「明治天皇像」以来、天皇像を描き続けたことにある≫
≪初代芳柳が描き、五姓田義松(長男)も皇后を描き、五姓田勇子(渡辺幽香・娘)も父の模写であるが天皇像を描いた五姓田一門、その一門の誉れ高い正統な方法を二世は完璧に受け継いだ。昭和になっても明治天皇及びその一代記を描き続けた。昭和六年の二世芳柳の個展にも明治大帝の御一代記を出品している。さらに芳柳は明治天皇事績画だけの作品で関西方面を巡覧する展覧会をおこなっているというから、かつて芳柳・義松親子が浅草奥山でおこなった油絵見せ物興行に相通じるところをまだ持ち続けていた≫
ところで、横田氏の論文タイトルに『岸田劉生』とあるのはどういう意味なのか。論文には、岸田劉生が黒田清輝から会合を希望する手紙を受け取り(大正12年2月)、黒田が壁画制作画家の選定に参画しているので、自分が壁画制作を頼まれると思いこみ、勇んで黒田との会合に行ったところ、早稲田大学講堂の寄付金を集めるための展覧会に絵を提供してくれ、ということだったのでがっかりしたということが書かれている。
なお、岸田は二世芳柳に対して「江戸の旅絵師のやり方の延長線上にある」と述べていたという。自分の画風とは対極に位置するという感覚を持っていたのだろう。
ここで聖徳記念絵画館壁画『江戸開城談判』が描かれるもとになった『下絵』と『画題考証図』を紹介したい。
『下絵』画題「無記名」 画家名「二世五姓田芳柳」 所蔵「茨城県近代美術館」
『画題考証図』 『明治神宮叢書第20巻図録編』 発行者 明治神宮社務所
画題名『江戸開城談判』 画家名 結城素明 所蔵 聖徳記念絵画館
なお、二世五姓田芳柳は絵画館の壁画をもう1点制作している。80点のうち50番目の『枢密院憲法会議』で、奉納者は公爵伊藤博邦である。
二世五姓田芳柳についてもう少し詳しく触れていくことが壁画全体への理解につながると考えるので、以下、角田氏の『聖徳記念絵画館の美術史上の存在意義再考』を参照して見ていきたい。
≪元治元年(1864)、現在の茨城県坂東市沓掛に生まれた倉持佐蔵の六男として生まれた子之吉がのちの二世芳柳である。明治十一年(1878)に上京、程なくして当時浅草に本拠地を構えていた五姓田工房に入門したと考えられる。すぐにその素質を一門の頭領だった初代五姓田芳柳(1827—92)に見出されたのだろう、入門からわずか二年後には養嗣子として迎えられ、五姓田芳雄と氏名を改めた≫
≪初代芳柳は幕末に独学に近しいかたちで技術を身につけ、明治初頭の横浜で工房を設け、西洋画の雰囲気に似せた作風を得意とした。近世絵画までには積極的に描き込まれなかった陰影を用いることで、現実再現性を重視する描写、つまり西洋絵画を模した作風で人気を博した。しかし彼が用いた画材は、現在でいうところの日本画である。当時も洋画元祖のように宣伝していたが、現実には油彩画や水彩画などの洋画を描いたわけでない≫
実際は日本画でありながら洋画技術を取り入れたというのである。
≪それを教授したのが、初代芳柳の次男、二世芳柳の義兄にあたる義松(1855—1915)だった。義松はわずか十歳で横浜居留地に住んでいたイギリス人報道画家チャールズ・ワーグマンに入門。その当時、日本国内で西洋絵画を西洋人から直接学ぶ機会を得た一人だった。さらに師の手ほどきをうけたのち自然を手本とし、またたくまに西洋人と同等の技量を身につけ、明治4年には横浜居留地の外国人向けに制作販売を開始しているほどだ≫
このように五姓田派の後継者として明治20年代以降活動したのが二世芳柳で、工房自体は初代芳柳が明治25年に没した後は実質的に解体したが、初代五姓田芳柳が「明治天皇像」を描き、以降も天皇像を描き続け、長男・義松も皇后を描き、娘の渡辺幽香も父の模写であるが天皇像を描くという、その一門の誉れ高い正統な方法を二世芳柳は完璧に受け継ぐことで、下絵と画題考証図の制作担当として選定されたと思われる。
さらに推測できるのは、パノラマ的大画面の制作に秀でていたこと、当時の洋画界を二分した白馬会と太平洋美術会に属さず、トモエ会という同人組織ともいうべき小規模な集団で活動していたことも選定の理由と思われる。
つまり、二世五姓田芳柳の画界での孤立性。これが絵画館の最終的に開設出来た一因ではないかと角田氏は強調する。
さらに、一人の画家に一任したということにより、一貫性を保ち、一定の成果を得ることが出来たのだともいう。
この二世五姓田芳柳が描いたパノラマ絵が、日本赤十字社東京支部(東京都新宿区大久保1丁目2番15号)の1階に展示されているということを知った。
それは『芸術新潮』(新潮社)の平成2年(1990)11月号の記事を読み、日本赤十字社に問い合わせしたところ、同社の東京支部に掲示されていると連絡をいただいたからである。
『芸術新潮』には以下のように書かれている。
≪大震災の悪夢にただ逃げまどう群衆、そして救難に奔走する日赤救護班・・・。今回の「日本赤十字社所蔵絵画展」は、同社の創立百周年(昭和52年)に画家有志から寄贈された現代絵画を中心とした展覧会(9月22日~10月21日 東京ステーションギャラリー)。
だが、会場で最も異彩を放っていたのは、おそらく大正期から同社が秘蔵する二世五姓田芳流のこの大作だった≫
≪明治以来の「パノラマ」の大画面を思わせる生々しく徹底した情景描写は、周囲の現代画を圧していた。二世五姓田芳流は日赤特別社員で同社委嘱の絵も多いという≫
そこで早速、日本赤十字社東京支部にお伺いした。1階正面入り口から入ると、広いロビーの向かい壁に大きな額に入った絵が飾られている。許可をいただき筆者が撮影した。
額の下部に≪大正15年フィラデルフィア開催米国独立百年記念展覧会出品「関東大震災当時の宮城前本社東京支部臨時救護所の模様」五姓田芳柳氏 画≫と記されている。252.5cm×317.5cmの大きさ。臨場感あって迫力がある。『芸術新潮』の記事通りである。
二世五姓田芳柳と日本赤十字社との関係について、同社にお聞きすると二世の義父である一世が幕末・明治の医学者・松本良順と親交があって、その関係で赤十字社4代社長、石黒忠悳氏ともつながりがあったという。また二世は日赤特別社員であったため、絵画の制作を何度か依頼した。その作品のひとつがロビーに飾られたパノラマ絵である。
東京都支部1階ロビーに展示された理由は、それまで長らく日本赤十字社の本社(東京・港区芝大門)に置かれていたが、平成3年(1991)東京都支部が新築され、展示場所として相応しいということで修復の上展示されたものだという。
聖徳記念絵画館壁画『江戸開城談判』が描かれた背景に、二世五姓田芳柳がしっかり存在している。もう少し二世について検討を続けたい。
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