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2020年5月25日 (月)

神にならなかった鉄舟・・・その八

最初に鉄舟の生誕地について、墨田区教育委員会から次の連絡が入ったことを報告したい。
「山岡鉄舟研究会会長 山本紀久雄 様
墨田区亀沢に設置しておりました山岡鉄舟の説明板は、本日(2018年12月19日)、板面交換を行い、別内容の説明板となりました。長らくお待ちいただきましてありがとうございました。取り急ぎ、ご報告させて頂きます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。墨田区教育委員会事務局・ 地域教育支援課文化財担当」
 この件については2017年4月号と2018年1月号でもお伝えしたが、墨田区観光協会作成の観光マップによると「山岡鉄舟旧居跡」は、亀沢4丁目の墨田区立堅川中学校の校門あたりとなっていて、墨田区教育委員会は平成20年(2008)2月、同中学校内に≪山岡鉄舟の生家小野家がこの中学校の正門の辺りにありました≫とする説明板を設置した。
だが、この地を『復元江戸情報地図』(朝日新聞社)で確認すると、旗本「小野勇太郎」と表示されている。小野勇太郎は、『寛政譜以降旗本家百事典第1巻』(東洋書林)によると、禄高200石、拝領屋敷は本所永倉町と四谷南伊賀町の2カ所である。本所永倉町は現在の亀沢4丁目であり、堅川中学校現住所と一致する。
山岡鉄舟が生れたのは、御蔵奉行を務めた「小野朝右衛門」の役宅である。小野朝右衛門は禄高600石。その屋敷は『江戸幕府旗本人名事典』(原書房)によると両国向御蔵屋敷と表六番町。この両国向御蔵屋敷で鉄舟は生誕した。なお、表六番町の屋敷は、『復元江戸情報地図』に「火除明地」と記されており、これは現在の靖国神社の近くである。
 このような説明を墨田区観光協会で説明したところ、「エリアマップの表示は教育委員会が認定したものに従っているので、教育委員会に行ってほしい」という回答。
そこで2017年2月28日に墨田区教育委員会へ行き、一連の史実関係書類に基づき説明をしたところ「史料は理解したので、再度、教育委員会内で整理確認し、説明板が設置されている地元の亀沢町会と調整し進めたいが、説明板の撤去期日については明確に約束できない」とのことであったが、ようやく1年10カ月を経て誤った鉄舟生誕地が訂正されてほっとしているところである。
なお、正しい鉄舟生誕地は下地図のところであるが、このあたりは諸建築の工事中で、まだ史跡表示板は設置されていない。

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山岡鉄舟研究会2019年1月例会は『月刊武道2018年10月号』(公益財団法人日本武道館発行)の表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」(下絵)を描いたアトリエ麻美乃絵・中村麻美先生の講演でした。テーマは「月刊『武道』表紙絵より~維新の英傑たち「駿府談判」ほか」で、次のように述べられました。

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≪1868年3月9日、幕臣・山岡鉄舟は、駿府に陣を構える官軍参謀・西郷隆盛に会談を申し込みました。江戸決戦は目前、駿府への道中は命がけの旅でした。
西郷は江戸総攻撃を中止する条件の一つとして「徳川慶喜を備前に預ける事」と提示しました。しかし鉄舟はこれに応じず抗弁します。「朝命なり」と凄む西郷に対し、鉄舟は毅然と問いただしました。「立場が逆ならば、あなたは主人である島津の殿様を差し出しますか」。激論の末、しばらく考えた西郷は「先生の言うことはもっともだ。慶喜殿のことはこの吉之助が必ず取り計らう」と約束します。江戸無血開城は、鉄舟のこの命がけの尽力により成ったのでした。
のちに西郷は、江戸の民を守り、主君への忠義も貫いた鉄舟を評します。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」剣・禅・書の三道を極めた鉄舟は、1880年に無刀流の開祖となります。「敵と相対する時、に依らずして心を以って心を打つ」と修養を重んずる鉄舟の理念は、今日あらゆる武道に受け継がれ、今に活かされています≫
中村先生は的確に鉄舟を捉えておられます。なお、中村先生は『伝えたい日本のこころ』(日本武道館2016年9月発行)を出版されていますので、ご参考にされることを推薦いたします。
なお、講演で中村先生は、表紙絵には鉄舟のみで西郷は描かれていない理由について以下のように述べられました。
≪鉄舟ひとりで薩摩軍に対したという意義を、島津の陣幕を大きく描くことで強調し、そこに鉄舟武士道精神を表現したかった≫と。なるほどと思ったところに、もうひとつ鉄舟のみを描いた理由があるとも発言された。

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 それは明治神宮聖徳記念絵画館に展示されている有名な壁画、結城素明が描いた「江戸開城談判」(上絵)と混同される恐れからとのこと。この絵は、西郷が鉄舟との駿府で無血開城を実質的に決めた後に、江戸で勝海舟と会った場面を描いたもので、この西郷・勝会談で無血開城が決まったとする説が広く流布されている。
表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」を鉄舟と西郷が対峙する構図で描くと、鉄舟を海舟と誤解する人が多く出て来るのではないかと、中村先生は危惧されたのだ。
 ところで、中村先生による『月刊武道』の表紙絵は人物を描いているので、これは「肖像画」とも言えるだろう。ただし、実存していた人物であっても、描く場面も含む実像を写真等で確認できないのであるから、あくまでも描く人が想像する表現絵画となる。
結城素明も「江戸開城談判」を描くにあたって、同様に想像にもとづく肖像表現であったはず。その理由は、この場に鉄舟も同席していたのに省かれているからである。何故に鉄舟が絵に描かれなかったのか、その検討は後日にしたいが、その前に、明治神宮聖徳記念絵画館を飾る80点がどのように決定・展示されたのか、それをまず整理してみたい。
参照するのは『明治聖徳記念学会紀要復刊第11号』(林洋子氏論文 平成6年4月15日)である。林氏はプリニウスの『博物誌』の記述からはじめる。
≪そもそも絵画は、プリニウスの『博物誌』によると、外国への長旅に出る恋人との別れを悲しんだコリントスの娘が、ランプの光で壁に映った恋人の影を写し取ったことに始まるという。つまり肖像表現とはその基本的な性格としてその場にいない人や死者の身代わりの意味を持つのである≫
プリニウスの『博物誌』は、ローマ帝国初期に活躍した博物学者、軍人、政治家でもあったプリニウス Plinius( 23/24~79) が著したもの。ヨーロッパの博物学のもっとも古典的な原典となったもので、各方面の専門の著作を縦横に使い、あるいは自らの実地見聞や調査によって、約2万項目におよぶ事項について解説をした世界最初の百科事典である。したがって、今日でもこの『博物誌』は各分野の研究に広く参考資料として利用されている極めて貴重な文献である。(参照『ガラスの道』中公文庫 由水常雄著)
林氏の論文を続けよう。
≪このことは、明治天皇に関する様々な肖像表現についてもあてはめて考えることが出来よう。歴代天皇の中でも、(昭和天皇を除けば)明治天皇こそ最も多くの肖像表現が残された天皇の一人であろう。その表現には、①天皇のご在世中に制作された「その場にいない」天皇の身代わりとしての「御真影」や絵画・版画、②崩御の後、先帝の記念、追悼のために描かれた絵画群がある。この②のグループを代表する作品こそが、明治神宮外苑聖徳記念絵画館を飾る80点である≫

明治天皇は明治45年7月30日に崩御された。御陵は京都の桃山に決したが、天皇をお祀りする社を東京にも造営し、その周囲に天皇を記念する様々な施設を持つ外苑を設けることになり、その中心に天皇の業績を記念する絵画館を建造する構想が天皇側近から出された。
≪伝統的に、天皇のお姿を公の場に絵画化することがほとんどなかったわが国では、このような計画は史上初めてであり、畏れ多いとの反対もあったが(貴族院でも議論を呼んだ)、国民からの多額の寄付、そして側近たち、大正4年5月に成立した明治神宮奉賛会のメンバー(会長・徳川家達)の強い意思により、計画は実行に移される。
側近たちは、計画の推進役に元神戸市長の水上浩躬(みなかみひろちか)を招き、幾人かの歴史家たちを交えて構想をねった。水上はこの計画の手本として、フランスのヴェルサイユ宮殿内の「戦いの間」(1676年起工)をイメージしたと後に語っている≫
大正6年2月に絵画館委員が任命された。その中に美術関係者は東京美術学校の校長である正木直彦のみであった。画家が一切委員とならなかったことから推測されるように、まず画題が最優先で画家や画風は二の次であったことがわかる。
その後、正木の仲介によりどの派にも属さない孤高の画家で、当時あまり有名でなかつた二世五姓田芳柳(1864~1943)が、画題に応じた構図の下絵を作成するよう指名を受け、これが後に『画題考証図』へとつながる。
しかし、こうした計画の進め方に対して画家たちの不満が高まって、彼らの意見が美術雑誌に掲載されるようになった。しかし、画家たちは一致した行動がとれず、計画のイニシアチブは側近や歴史家たちに掌握されたままであった。
大正8年秋、絵画館の建設が始まった。設計は小林正紹(まさつぐ)である。大正10年1月に画題が決定され80題とされ、ここでようやく画家の選定に入った。
この計画が外部に伝わると、旧大名や企業などから奉納希望が殺到し、同時に縁故のある画家を推薦してきた。例えば徳川慶喜の孫である公爵・徳川慶光が「大政奉還」、西郷・勝両家が「江戸開城談判」の奉納を申し出た。
画家の選定は、洋画家の黒田清輝を責任者として河合玉堂や横山大観などの日本画家の意見も取り入れ、天皇が伝統世界に生きておられた前半生を日本画で、近代化する明治の後半生を洋画ということに決した。
洋画の人選は順調に進んだが、日本画の方は奉納者から推薦が多く、例えば旧大名からはその藩出身の画家を推薦するなどしたため、芸術性を追求する専門委員と理事会の間で紛糾し、怒った横山大観は委員を辞任、河合玉堂、竹内梄鳳も手を引いてしまった。
その結果、院展系及び京都系の大半を除いた画家たちによって描かれることになったが、決定は遅れに遅れ、一人の画家が複数の作品を手掛けることも発生した。
日本画の小堀鞆音(ともと)が三点、近藤樵山(しょうせん)が二点、結城素明も前述した「江戸開城談判」と「内国勧業博覧会行幸啓」の二点で、全体的には若くて小粒な画家の感が免れなかった。

理事会から「壁画奉納ニ付取扱方」が公表され、絵の大きさは縦3m、横2.7mと決められた。絵画館建物に向って右が日本画部門、左が洋画部門と決し、制作が始まり、画家たちに二世五姓田芳柳が準備していた『画題考証図』が示された。
大正15年10月15日絵画館が竣工。画家たちは各自の作品を納入し始めたが、足並みは揃わず、昭和7年になっても納入された作品は全体の約半数というありさまであった。
最終的に昭和11年4月に、岡田三郎助、和田英作、藤島武二、松岡映丘、結城素明の東京美術学校の教授陣5人が作品搬入し、絵画館は構想から20年、制作開始から10年の歳月を経て完成した。この間に5人の画家が亡くなり、その弟子や友人に制作が引き継がれている。

ということで、全作品80点は、作者もほぼ全部異なり、制作年代も約10年のばらつきがあるなど、統一性の乏しい作品群となった
藤島武二は明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮で、絵画館に「東京帝国大学行幸」(下の絵)を制作している。この藤島が、弟子の児島虎次郎から来た手紙に返信しており、そこには≪同事業は其性質上史実を重んじ、絶対自由を尊ぶ純芸術家にとりては恐れながら余り面白き仕事とも覚えず候≫(林氏論文)と書いている。

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なお、林氏は藤島武二絵について、次のように評価を下している。
≪藤島の筆は進まず、最後の最後におそらく写真を元に描いたのであろう。当時の彼としては凡庸な作品である。この時期、彼の興味の中心は先の宮中よりの依頼画の制作と帝展改組問題であった。この翌年(昭和12年)、藤島は蒙古高原の日の出を描いた名作「旭日照六合』(宮内庁蔵)を完成、御所に納める。同じ帝室関係の仕事とはいえ、完成度の違いは明らかである。それは絵画館の制作はかなり限定が多かったことに比べ、宮中からの依頼画は藤島の創造性に全面的に一任されており、「絶対自由を尊ぶ純芸術家」たる藤島の心を鼓舞したのであろう≫
さらに林氏は以下のように酷評する。
≪これらは決して同時代のベストメンバーらによって描かれたのではなく、芸術の領域から離脱したような「紙芝居」のような作品が大半となっている≫
何故に林氏の指摘するようなレベルになっているのだろうか。その大きな要因にあるのが、二世五姓田芳柳による『画題考証図』の提示にあるのではないだろうか。
ということは「江戸開城談判」壁画も、結城素明が構図を考案したわけでなく、二世五姓田芳柳の『画題考証図』に基づき「翻案して描いた」のであり、『明治神宮叢書第20巻図録編』(明治神宮編 平成12年11月発行)では、「江戸開城談判」壁画は「部分を拡大したもの」であると述べている。
では、二世五姓田芳柳は下絵と『画題考証図』をどのように制作したのか。次号で検討したい。

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