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2020年4月

2020年4月25日 (土)

神にならなかった鉄舟・・・その七

銅像を建てるということの背景を考察するには、誰がそれを必要としたのかという問いかけが必要だろう。
 勝海舟銅像は、東京都墨田区が必要として建てられたと推察される。勿論、実際の銅像建立は、海舟を評価する人々が寄付を集め建立し、それを墨田区に寄贈したのであるが、墨田区ホームページ記載内容から、高く海舟業績を認めていることがわかる。銅像の作者は墨田区に本籍があるという東京家政大学名誉教授の木内禮智氏である。
しかし、どうして建立が平成15年(2003)という海舟生誕180年まで待たねばならなかったのか。もっと早くても良いような気がする。
海舟の業績は、江戸無血開城を西郷隆盛との会見・交渉で成した、と高等学校教科書で認められており、世間一般にも広く認知されている。また、会見相手の西郷銅像は、上野公園に明治31年(1898)に建立されているから、平成時代まで海舟銅像が待たされたのは不思議だ。前号でみた榎本武揚の銅像は大正2年(1913)に建立されている。
一方、幕末に新政府軍への徹底抗戦を主張して、恭順派の海舟と対立した小栗上野介の胸像は、横須賀市に大正11年(1922)に建立されている。小栗の銅像は神奈川県横須賀市が必要としたと推察するが、建立された場所は現在の「ヴェルニー公園」とは異なり、当時の海軍工廠が見下ろせる諏訪公園であった。作者は朝倉文夫で「東洋のロダン」と呼ばれた著名な彫刻家である。

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しかし、この胸像は残念ながら横須賀海軍工廠によって20年後の昭和17年(1942)に撤去、金属供出され、代わりにセメント像が市役所前に置かれた。
横須賀海軍工廠とは、慶応元年(1865)徳川幕府が横須賀製鉄所を建設し、明治政府に引き継がれ、明治4年(1871)に帝国海軍所管「横須賀造船所」となって、明治17年(1884)に横須賀鎮守府が設置されるとその直轄造船所となり、明治36年(1903)の組織改編で横須賀海軍工廠が誕生、呉海軍工廠と共に多くの艦艇を建造したところ。
また、現在の「ヴェルニー公園」一帯は、明治時代初期に横須賀が帝国海軍の本拠地となって、ここに海軍軍需部が置かれたが、昭和3年(1928)に田の浦へ移転後は、海軍工廠の一部と海軍運輸部となり、海軍の艦船や陸上部隊への軍需品の供給基地となって、施設はコンクリート塀で囲まれていたが、通りに面して商店・旅館・料亭などが建ち並び、とても賑わっていた場所。
戦後はコンクリート塀が取り除かれ、昭和21年(1946)に「臨海公園」となって、ここに昭和27年(1952)、東京芸術大学教授であった内藤春治によって作られた小栗胸像が移転した。ただし、胸像は新しくつくられたが、石造りの台座は大正11年のものを使用しており、台座裏に「大正11年9月27日除幕」と印刻されている。
「臨海公園」が開園したのは昭和21年(1946)10月20日で、この時には二日間にわたって横須賀市民祭が催された。その意味は、敗戦後の日本で、軍港横須賀が新しく生まれ変わったという証にほかならず、それも占領軍の支配下で挙行されたわけで、日本が平和国家に変ったという事実証明でもあった。
ところが、平成13年(2001)に至って「臨海公園」は、「ヴェルニー公園」としてフランス式庭園の様式を取り入れてリニューアルオープンした。

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ヴェルニー公園と名づけられたのは、横須賀造兵廠その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに由来する。
ヴェルニーの胸像は、この公園内に小栗と並んで立っていて、ヴェルニー説明板には以下のように書かれている。
≪フランスの造船技師で、海軍増強をめざした徳川幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として1865年来日した。明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音埼灯台や走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し1876年帰国した≫
この説明板と隣の武士姿の小栗胸像を見る人々に、どのようなイメージを与えるであろうか。多分、「ここは幕末から明治初頭にかけて活躍した人物を記念して造られた公園なのだ」と思うだろう。
つまり、「臨海公園」と称する平和シンボルであったものを、「ヴェルニー公園」に変更することで、一挙に幕末の横須賀へ蘇らせたのではないかと考える。
それを裏付けるのが「ヴェルニー・小栗祭り」である。明確に小栗の名が冠されている。したがって、祭りに来た人々は幕末時を思い起こす。
昨年、平成30年(2018)は、日仏交流160周年を記念し、平成30年11月10日横須賀市との姉妹都市ブレスト市があるブルターニュ地域ゆかりのフランス海軍軍楽隊バガッド・ド・ラン=ビウエが、華やかな演奏を披露した。

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ところで、この「ヴェルニー公園」、じっくり見て回ると面白いことに気づく。場所はJR横須賀駅前に位置していて、入るとすぐに「ヴェルニー記念館」があり、ここのデザインについて≪ヴェルニー記念館は、横須賀の近代化に貢献したフランソワ・レオンス・ヴェルニーに関わりが深いフランスのブルターニュ地方に建つ住宅の特徴を取り入れました≫と解説文が掲示されているが、館内にはオランダから購入した「国指定重要文化財スチームハンマー」を保存・展示している。外観はブルターニュ風なのに、保存されているのはオランダ製のスチームハンマー、これに少し違和感を持つ。
また、記念館から歩いてすぐの所に「戦艦・陸奥」の全長約19メートル、重さ約100トン主砲が野晒しで置かれている。巨大だ。陸奥は大正10年(1921)に横須賀で建造され、昭和18年(1943)に瀬戸内海で原因不明の爆発のため沈没し、昭和46年(1971)に複数ある主砲の一部が引き揚げられ、東京の船の科学館で展示されていたが、平成28年(2016)9月に
移送(里帰り)した。この主砲は全くヴェルニーとは関係ないから、このあたりから訪れた人は、ここは旧日本海軍基地であったのかと気づき始めるだろう。
もっと面白いのは「ヴェルニー公園」の端のところ。もともとこの地にあった日本海軍にまつわるいくつかの記念碑が、それも横一列に並ばされている。教室の片の隅に立たされているように、何となく居心地が悪いように見える。

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一列に並んでいる記念碑を右から紹介すると、正岡子規の句碑「横須賀や只帆檣(はんしょう)冬木立」 (注 帆檣とはほばしら) は平成3年(1991)建立、「軍艦沖島の碑」は昭和58年(1983)建立、「軍艦長門碑」は昭和51年(1976)建立、単に「国威顕彰」と刻まれた記念碑は建立年月日等一切不明(ヴェルニー公園HP)とあり、「軍艦山城之碑」は平成7年(1995)建立、「海軍の碑」も平成7年(1995)建立である。

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「国威顕彰」碑を除いて近年の建立であるが、この「国威顕彰」碑とはいったい何か。
『世の途中から隠されていること――近代日本の記憶』(木下直之著 晶文社2002年刊)が次のように述べている。
≪問題としたのはひときわ大きい「国威顕彰」碑で、1930年代前半の建立、一等巡洋艦愛宕か高雄クラスの司令塔をモデルにデザインされたという。現在も残る逸見波止場逸見門衛兵詰所(こちらは横須賀市指定市民文化遺産となっている)の間を抜けて入った正面に、この記念碑は立っていた。『横須賀市史』上巻(横須賀市、1988年)五七七頁の写真図版でその様子を見ることができる≫
いずれにしても「国威顕彰」碑は無残な姿である。「国威顕彰」の文字を除く一切の言葉が剥ぎ取られている。今では何が書いてあったか不明である。
だが、いろいろネットで調べていると以下の説明に出合った。
≪その後、朝日新聞の記事や横須賀市史によって詳細が判明した。これは「国威顕彰記念塔」であり、昭和12年5月27日の海軍記念日に除幕されたもので、国際連盟脱退や軍縮条約廃棄という当時の社会情勢のなかで、海軍の偉業と意気を具象化したとのことである。塔の上部には羽を広げた金鵄が取り付けられていた。作者は当時の第一人者である日名子実三で、彼は馬門山墓地の「第四艦隊遭難殉職者之碑」も製作している≫(『東京湾要塞 三浦半島・房総半島戦争遺跡探訪』)
なるほどと思う。記念碑や銅像が建立された姿を維持できるかどうかは、当初の製作者・注文者の意図が時を超えてどれだけ継承されるかにかかっているのだ。「国威顕彰」碑には≪羽を広げた金鵄が取り付けられていた≫というが、時代の変遷で取り払われ惨めな姿をさらしている。しかし、惨い形ではあるが、しっかりと遺っている。意図があるのだろう。
このように見てくると「ヴェルニー公園」のイメージが変化せざるを得ない。ヴェルニー公園と名づけられたのは、日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに由来するわけだが、実際に公園内を歩き、横須賀市発行の小冊子『小栗上野介と横須賀』をみると徳川幕府で活躍した小栗を大いに称えている。
≪明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。
現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています≫
間違いなく横須賀市は、製鉄所建設推進した行為に対する「顕彰」として小栗胸像を建立し、併せて「ヴェルニー公園」を帝国海軍の軍港であった事実を遺す手段としているのである。これを裏打ちするのが横須賀市議会建設常任委員会の論議である。それを『世の途中から隠されていること』から引用する。
≪青木委員いわく「幕末だけの問題ではなくて、戦前の様相も逐一伝えられるような公園づくり、公園を訪れた方々がわかるようなことであってほしいと思うのです」(『同会議録』第三四八号)。さらに青木委員はなぜ「ヴェルニー公園」と名前を変えたのか、それならむしろ「小栗・ヴェルニー公園」とすべきだと、もっともな意見を述べる≫
「ヴェルニー公園」を歩いてみると、実際の公園は「小栗・ヴェルニー・海軍記念公園」というのが実態だと感じる。

海舟に戻りたい。東京都と墨田区が海舟の業績を高く評価しているのであるから、もっと早く銅像が建立されていてもおかしくないはずだ。
実は、これには海舟自身の考えがあったという。それを『銅像になった人、ならなかった人』(三原敏著 交通新聞社2016年刊)から見てみよう。
≪そもそも海舟は「銅像」というものに興味がなかったようだ。
『海舟遺稿』を編集した亀谷馨が、海舟を訪ねた時のこと。亀谷が先生の存命中に銅像を作りたいと語ったところ、海舟は「銅像は人の造ったものゆえ、いつ何時、天変地変のために破壊されるか知れない。そうでなくてとも、時勢の変遷によって大砲や鉄砲の弾丸に鋳られるかもしれないよ。そんなつまらないことしてくれるより、銅像を造る入費の三割一分でもよいから、金でもらいたいよ」と一笑に付した。さすがに海舟である。その後、大東亜戦争で多くの銅像が大砲や弾丸と化していったことを、すでに予見していたようだ。
この逸話からしばらくして海舟は亡くなり(明治32年)、時の海軍大臣であった山本権兵衛は、海軍省に海舟の銅像を建てようと提案した。薩摩藩出身の山本は西郷の仲介により、海舟の知遇を得て海軍軍人の道を歩んでいった。海舟には深い恩がある。だが、海舟が生前、銅像などを馬鹿にしていたと聞いて、この計画は取り止めにしたそうだ。
一方、海舟の死から四日後の一月二十五日。葬儀が行われたこの日の『朝日新聞』には、徳川慶喜や家達をはじめとした人々が発起人となり、西郷と同様の海舟の銅像を建立し、上野公園に並立しようという計画があることが報道されている。
この計画のその後は不明であるが、明治四十三年(1910)十月十日の『朝日新聞』に投稿された「銅像建設に就いての所感」という記事が興味深い。投稿したのは海舟に銅像の話をした亀谷馨である。亀谷は近年、盛んに建立されている銅像に関し、その意義は良いが、報本(ほうほん)反始(はんし)(注 祖先の恩に報いること。儒教的理念の一つ)の理に反するものがあると嘆く。
例えば海軍省内に建てられている西郷従道・仁礼景範・川村純義の像だ。亀谷は従道らの功績を認めながらも、それならば、維新の前から海軍の発展に偉大なる功績のある人物がいるだろうと訴える。さらに神戸に建てられている伊藤博文像に関しても、それ自体には賛同するが、それならば一漁村であった神戸の地に幕末、神戸海軍操練所を設置し、その発展に貢献した人物がいるではないかと続ける。
つまり彼らの銅像を建てるなら、なぜ海舟の像を建てないのかと憤っているのだ。海舟自身が断ろうとも、やはり亀谷は海舟の像を建てたかったのである。ただし海舟の予言通り、ここで挙げられた従道・仁礼・川村、そして伊藤の像はいずれも大東亜戦争によって回収され、現存していない。彼らの像がいち早く建立された背景には、薩長閥ということもあろうが、もし海舟の像が建立されていたならば、やはり同様に回収されていただろう。「それ見たことか」と、地下から海舟の毒舌が聞こえてきそうである≫
しかし、ここで不思議なのは、現在、海舟最大の業績が「江戸無血開城」だと、一般的に認識されているのに、上記記述では一切無血開城には触れていないことだ。
海軍創立への功績を強く述べている。当時の海舟への評価は今と異なっていたと推測できるのである。

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                                                                  (海舟が建言し設置された神戸海軍操練所跡碑)

2020年4月 6日 (月)

例会開催の中止について

新型コロナウィルス問題が片付くまで、山岡鉄舟研究会の例会は2020年3月開催分からしばらく中止いたします。

再開する場合は、改めてご連絡いたしますので、よろしくお願いいたします。

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