神にならなかった鉄舟
海舟夫婦の墓が洗足池にあり、昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となったことと、妻・民子の墓が当初は青山墓地に葬られていて、洗足池に移された件を、大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であったことは前回でお伝えした。
これに触れているのが『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪勝の正妻はお民。砥目屋という薪問屋兼質屋の娘であったが、一時は深川で芸者をしていたともいわれる女性だ。
結婚した時、勝は二十三歳、お民は二歳年上。当時の勝はまだ、幕府に取り立てられる前で、自宅で翻訳や蘭学教授をする貧乏生活を送っていた。天井さえ薪にしてしまい、雨露も防げないという悲惨な状況だったが、それでも気丈なお民は、夢子、孝子、長男の小鹿(ころく)を産み、必死で生活を切り盛りした。
結婚から十年後、意見書が取り入れられ、勝は長崎の海軍伝習所に赴任。運に恵まれ始めると途端に、彼の女道楽が始まった。長崎では梶玖磨(お久)という年若い未亡人と関係して子どもを作り、これを引き取ると、お民に育てさせている。
米国から帰国し、赤坂に邸を構えてからは、ますますひどい。家の女中や、手伝いに来た女性たちに次々と手を出した。お糸、お米、おかね、おとよ・・・・。
妻妾同居を実践し、生れた子どもはすべて正妻であるお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働き続ける。お民の心中も複雑だったろうが、生みの母も辛い思いをしたのではないか。
それなのに勝は、「俺と関係した女が一緒に家で暮らしても波風が立たないのは女房が偉いから」などと、呑気に語っている。女の心を理解していなかったのか、あるいは、そうやって褒めておけば「波風が立たない」と甘く見ていたのか。しかし、正妻お民の本心は勝の死後、明らかになる。
勝が七十五年の生涯を閉じたのは、明治三十二(1899)年。お民はその六年後に、この世を去るのだが、「夫の隣だけは嫌。小鹿の隣に埋葬してくれ」と、きっぱり言い残すのである。
小鹿はお民が生んだ長男で、たった一人の跡取り息子であった。米国のラトガース大学に留学、さらにアナポリス(海軍兵学校)を卒業して帰国し、日本海軍に迎えられた。勝夫妻にとっては自慢の息子であったが、残念なことに身体が弱く、明治二十五年に三十九歳の若さで両親を残して逝った。
そのため、やむなく勝は小鹿の長女である伊代子に、徳川慶喜の十男の精(こわし)を婿として迎え勝家の家督を継がせている。以後、「勝」姓を名乗るのは、この直系の子孫だけで妾腹の子孫は誰ひとり「勝」姓を継いではいない。そのけじめは、はっきりとしていたようだ。
お民は遺言どおりに、夫の隣ではなく早世した息子の隣に埋葬されたものの、昭和二十八年、子孫の手により、夫の隣に墓石が移されている。墓下で何を思うか≫
墨田区のホームページに≪勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります≫と述べられているが、家庭内では妻妾同居を実践し、生れた子どもはすべて正妻であるお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働かせ続ける。
今の道徳観念からは大問題、明治時代でも稀なる事例ではなかったろうかと思ったが、榎本武揚も同じであったと日刊紙『萬朝報』の記事が伝えている。
『萬朝報』は記者・翻訳家・作家として活躍した黒岩涙香が主宰し、スキャンダルの暴露などを売り物にしたことで知られる新聞だが、ここで明治31年(1898)7月から9月にかけて連載した「弊風一斑(いっぱん) 蓄妾の実例」、つまり、妾を囲っている男性の実例を500例以上取り上げている。この500例のうち華族が44例あり、その中に榎本武揚が、海舟と同様の妻妾同居を実践していると取り上げられている。(『明治のお嬢さま』黒岩比佐子著 角川選書)
≪子爵榎本武揚 向嶋須崎町の自邸に木村かく(三十)松崎まさ(二十九)という二人の妾あり。いずれも夫人存生の頃より女中に来ししものなり≫
海舟と榎本、共通するのは幕末の江戸幕府を支え活躍した旗本でありながら、維新後は新政府で要職に就いたことから、福澤諭吉の「瘠我慢の説」で痛烈に批判されたことで知られているが、妻妾同居の実践者という点でも共通していたわけである。
では、鉄舟はどうであったのか。鉄舟に〞権妻(ごんさい)〟がいたと述べるのが『山岡鐵舟の妾』(鈴木氏亨著 文芸春秋1993年11月号)であるが、ここには海舟にも権妻がいたとある。ということは自宅妻妾同居、加えて別宅に権妻がいたわけである。
では、この権妻とは何か。明治3年(1870年)に制定された『新律(しんりつ)綱領(こうりょう)』、これは広辞苑によると「明治政府最初の刑法典。大宝律や江戸幕府の公事方御定書から明律・清律まで広く参考にして作成。明治3年(1871)12月公布。旧刑法施行により15年廃止」とあるように、これは江戸幕府や中国の刑法典をもとにして、明治政府のもとで作成された最初の刑法典であり、身分制度など様々な事が定められたもの。この中で、妻と妾を持つことが公認され、この妾は権妻と呼ばれ、夫から見て、妻と妾が同等の二親等として記載されていた。
鈴木氏亨は大正12年(1923)『文芸春秋』創刊とともに編集同人、菊池寛の秘書を務め同社の経営に参画、昭和3年専務取締役となった人物で、明治18年(1885)生まれ、昭和23年(1948)没。『山岡鐵舟の妾』で鉄舟が権妻を持った経緯を書いている。
≪東京に新政府が出来上がって、公卿や長薩土肥の幕末の志士が、顕要な地位を占めだした頃、ある晩、柳橋の芸妓おせんの屋形へ、萬八楼からお座敷だと箱屋がしらして来た。
おせんが仕度して行ってみると、贔屓にしてくれる池田と云ふ客が、若い志士風の男とつれ立って遊びに来ていた。
若い侍は江戸っ子だった。多分旗本だったろう――引詰めた惣髪は、両眥(まなじり)がつり上がる程強(きつ)く、立てた太い髷は、髷元を紫の紐でぐるぐると結んで後頭部へ垂らし、狂人のような凄い眼に光を湛えていた。
「まあ、何と云ふ恐い人だろう!」
おせんは、その頃、料亭などを荒す、狂暴な鉄腕の田舎浪士を想い浮べてぞっとした。
だが、盃が進むにつれて、凄い眼をしていた若い侍が、何處か親しみのある、気の置けぬ淡如とした風格を備えているのを感じた。
若い侍は、海鼠(なまこ)が好きだと見えて、それを酒の肴にして、盃を重ねた。
「オイ、君も一杯飲む可し/\」
女中や、箱屋が、座敷へ姿を出すと、かう云って、相手嫌わず盃を盞した。
おせんは、なんと云ふことなしにその侍が恐くて近づけなかった。
その後、同じ萬八楼の百畳敷で、岩倉卿主人役の大饗宴が催された。
流行(はやり)奴(つこ)のおせんは、その時も招かれて座敷にゐた。――そこでも、眼の凄い、この間の若い侍に会った。
若い侍は、別に彼女に注意するでもなかった。
宴が果てゝてから、おせんは、萬八楼の女将に呼ばれて帳場に行った。
「この間の若い侍さんが、お前に祝儀を下さったよ」
と云って、夫婦巾着ぐるみ出して見せた。
いくら入ってゐたか知らぬが、沢山の小判が入ってゐたらしかったが、おせんは祝儀などには、目もくれなかった。そして、その若い侍が、どんな身分の人か知ろうともしなかった。
三度目に、若い侍は彼女に、はじめて口を訊いた。
『私(わし)は、かう見えても泥棒や巾着切ではない。安心せえ!』
それから、彼女の家庭の事情を聞いたり、名を聞いたりした。
おせんは、柳原の、間口十二間もある古着屋の娘だった。親が、粋人で身を落し、新吉原や、堀や深川などと岡場所を遊び歩くうちに、いつの間にか店を閉じるやうになった。彼女は柳橋で半玉として仕込まれた。
その時も、若い侍は、澤山の祝儀を置いて、写真を呉れて行った。
おせんは、客が帰ってから写真を携(もつ)て行って、帳場や料理場で名を聞いて見たが、誰もしらなかった。
おせんは、浅草の写真師、馬場貞季に聞かせにやって、はじめてそれが山岡鐵太郎と知った。
四度目に来た時、
『わかったかい』
と、たった一言云った。
間もなく彼女はひき祝をして、蛎殻町に家を借りて引取られた。明治二年、鐵舟三十二歳、彼女の十九歳の時だった。彼女は山岡鐵舟の妾になったのである≫
≪どうして私が、山岡さんの妾になったかと仰つしゃるのですか? ほゝゝゝ・・・。その頃は権妻ばやりで、権妻の一人や二人を置かないと肩身が狭くなる御時世でした。勝(海舟)さんも、小仲さんと云ふ、私どもの朋輩の、柳橋に出ていた藝妓(ひと)を落籍(ひか)して、囲っておられました≫
≪おせんは、鉄舟との間に女の兒まで設けたが、悪足がついてから、明治十七年頃応分な手切金を貰って、鐵舟の写真と二三枚の揮毫を抱えたまゝ、栃木県の足尾の方に流れて行った。
その男とも別れると、宇都宮の江の町に落ついて、林屋と云ふ藝妓屋を開業し、鐵舟との中に出来た娘を藝妓に出してゐた。
おせんは七十九歳で昭和四年数奇な一生を終った。間もなく娘のりんもその跡を追ふた。林せんと云ふのが彼女の名だった。
私が、齋藤龍太郎君の紹介で、訪ねて行ったのは、彼女の死の少し前のことだった≫
ここで整理してみるのもどうかと思うが、「家庭内で妻妾同居」は海舟と榎本。「権妻」は海舟と鉄舟で、両方の実践者は海舟ということになる。
妾について明治初年に議論があったことを『明治のお嬢さま』が記している。
≪妾をめぐって議論が持ち上がる。その背景には、西洋から入ってきた一夫一妻制や男女同権論があった。
それまで日本人は、地位や財力がある男性が妾をもつことを当然のように思っていたが、西洋人はそれを奇異に感じるらしいと知って、慌て始めたのである。
とくに、妻と妾が同じ家のなかで暮らす「妻妾同居」という形態は、一夫一妻制を原則とする西洋人にとって、穢らわしい野蛮な風習にさえ見えたのだった。
そこで、1876年(明治9年)に元老院会議の場で妾問題が取り上げられた。この議論では、法律で妾が公認されている以上、一夫多妻制も認められると主張する者もいれば、一夫一妻制にしても妾をもつことは問題ないという者もいた。
逆に、この際、妾は廃止すべきだという者や、一夫一妻制を認めつつも、現実には妾を廃止するのは困難だという者もいて、議論はまとまらなかった。この会議では、「蓄妾」に対して、「妾を廃する」と書く「廃妾」という言葉も使われている。
その後、1880年(明治13年)の刑法の制定に当たって、「妾」という文字がようやく戸籍から削除されることになった。しかし、法律では公認されていなくても、妾の存在は、社会では黙認されたままだった≫
『萬朝報』連載の「弊風一斑 蓄妾の実例」は明治31年(1898)当時の実例であるから、明治9年に議論はなされたが、実際は変化なしだったといえる。
ところで、榎本武揚も銅像が建立されている。墨田区堤通の梅若公園にあり、マンションに囲まれた場所で、この地に晩年の榎本邸があり、墨田区観光協会のホームページに次のように記している。
≪榎本武揚は幕末から明治にかけて活躍し、晩年は向島で過ごしました。本銅像は大正2年5月、旧幕臣のち代議士江原素六などの発起により、府会議員本山義成らが中心となって建立されたもので、彫刻家藤田文蔵の秀作です≫
墨田区観光協会が述べる榎本武揚の活躍について補足したい。
榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年(1862)の27歳から、慶応三年(1867)32歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。
続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。
戊辰戦争では、明治元年(1868)榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送した翌月の8月陸奥に向かい、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、10月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。
榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」(国家に準じる統治主体)であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。
これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。
この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治2年5月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、18日に至って「交戦団体」の首脳である4名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請い辰之口牢獄での囚われの身となった。
辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。
兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。
この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、将たるものの姿だろう。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最期であったと思う。
しかし、榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。
五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去ったかのように、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。
確かにその通りで、赦免された後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。
このような活躍をしたわけであるから、妻妾同居という道徳概念上の問題があるとは言え、明治時代へ国家貢献という意味で、榎本の銅像が建てられていることに異論はない。
では、銅像はどういう背景で建立されるものだろうか。次号へ続く。
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