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2020年1月25日 (土)

神にならなかった鉄舟・・・その五

鉄舟の弟子である松岡萬(よろず)が、静岡県磐田市大原の水神社境内に松岡神社として祀られており、さらに藤枝市岡部町にも松岡神社が存在していることは前号で述べた。
この二つの地で神様として祀られる要因背景は、磐田市の方が大池の干拓阻止であり、岡部町の方は山林所有権の争いで、いずれも静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡が住民有利に解決したからであった。
この松岡がその後、鉄舟とともに手賀沼(千葉県北部、利根川水系)の開墾を計画したという事実がある。筆者が主宰する「山岡鉄舟研究会」の2018年11月例会で、北村豊洋氏が次のように発表したので紹介したい。
≪鉄舟は約束の十年で宮内庁を辞した。そして谷中に全生庵を建立し駿河久能寺を再建したのは明治十六年である。廃仏毀釈でお寺が荒れており、お寺の再建、仏教の復活に精を出し仏教中興の恩人と言われた頃である。
この年の十月に、鉄舟は石坂周造、松岡萬と相談して、僧侶ら十五名と「手賀沼開拓願い」を千葉県に出している。驚きである。鉄舟の音頭で「教田院」を設立して手賀沼の新田開発を進め、米二万石を目論む利益を広く庶民に還元すると伴に、僧侶の学資に充てるという計画であった。
「教田院」とは耳慣れない言葉であるが、福を生じる田の意味で、三宝などをさす「福田(ふくでん)」という語が仏教用語としてあり、廃仏希釈後の仏教復興の為の社会施設「福田会」というのが明治十二年にできているので、それをヒントの名前かもしれないが推測の域をでない。(三谷和夫氏説)いずれにしろ、この地域にかつてなかった新しい開発の波が来たのである。
「手賀沼開墾願い」が千葉県令に提出されたと同じ「官有地拝借開墾願い(成田市立図書館蔵)」に発起人含め十五名の署名があり、三谷和夫氏の『明治前期・手賀沼開墾の二潮流(我孫子市史研究六)』に詳しく書かれている。
明治十六年十月二十日の郵便報知新聞に次の記事がある。
「手賀沼を埋め、田畑となさんとの計は、去る享保年度に起こり、田沼意次がこれに着手し、得るところの田五百町歩に過ぎずしてやむ。維新後、華族の中にその業を継がんと実施に臨み、測量に着手せし者多かりしが、沼の沿岸三十九ヵ村の漁民が、その産を失わんことを憂い、大いに不服を唱え、すでに竹やりむしろ旗の暴挙にも及ばんとする模様ありしをもって、企画皆中止となりしが、今度、山岡鉄舟氏が更にその開墾を発起し、仏教拡張の為、教田院を設けんとの企画を石坂周造氏が賛成し、去る七月中、石坂氏がまずその地に向かい、沿岸の各村吏を招集して説き、ついに三十九ヵ村調印して承諾の旨を表したるより、八宗の僧侶と結合し、かつ華族衆を同盟に加え……、同県下の不二講中より惣代をもって、埋め立て人夫十一万二千二百人の見積もりをもって、人足を無賃にて寄付する旨を、石坂氏まで申し出しという」
 開拓に反対していた地元の人達の賛同を得ている。開拓の人夫まで無償で出すという。これはいったいどういうことか。

実はこの頃、明治維新功労者の叙勲運動が盛んになり、猫も杓子も自薦に励んでいた。しかし鉄舟は勲章を二回も辞退している。さらに、勅使として鉄舟の自宅まで勲章を持参してきた井上馨に対して啖呵を切って帰らせた事も評論新聞はかき立てた。だから民衆はよく知っているのだ。俄か華族と鉄舟とは違うということを。明治十五年六月二十七日の「雪の世話新聞」記事にある。
 「この頃聞くところによれば、奏任官以上にして多年奉職の人でさえあれば、別に著名なる勲功なきも、その職務勉励の簾にて、相当の勲章を授与さるるや‥…、山岡宮内小輔は、年来の奉職中涓(けん)滴(てき)の勲功もなきに、かかる貴き物を賜る聖恩は感ずるにも余りあるが、これをおぶるは大いに恥ずる所あれば、右勲章は返納仕りたしとて辞退致されし趣きに聞く」
 俄か華族の言う事は信用しないが、土木のプロでもない鉄舟の提案する「手賀沼開拓願い」なら信用する民衆の心理を、十月二十日の郵便報知新聞記事は伝えている。明治十四年の政変(北海道開拓払い下げ問題等)の二年後のことである、住民は分かっているのだ。無私無欲がなせる説得力である。まさに鉄舟の人間力であろう。
しかし、「手賀沼開拓」は「水を制してこそできる事業」であり、明治初期の技術や当時の人力では無理である。進展はしなかった。鉄舟とて測量計測して始めからわかっていたのではなかろうか。手賀沼は江戸から一番近い湖沼として、昔から江戸商人達の新田開発意欲を誘っては失敗していた。だから今回も、名も知れぬ「山師」達の身勝手な参入を防ぎ「手賀沼」を守る為に、そして下総がこれ以上「東京の飛び地」にならないように、あえて前に立つ行為に出たのではないか。筆者はそう推察する。
庶民ファーストなのである。庶民に寄り添い真剣で骨のある姿が、偉ぶる事なく自然体で庶民に伝わるから、わざわざ自慢してホラを吹く必要はない。同じ江戸っ子でも勝海舟と違うところである≫
この北村氏の発表にあるように松岡は下総でも活躍しているので、松岡が神様として祀られていることに異論はないが、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。

 幕末三舟と称されるのは勝海舟と、山岡鉄舟、高橋泥舟であるが、この中で銅像が広く公共の地で建立されているのは海舟のみである。(鉄舟銅像は静岡市の鉄舟寺に松本検氏が個人で贈呈されたものがある)
 勝海舟の銅像は、東京都墨田区区役所に隣接する、区役所前うるおい広場の緑地内に、文政6年(1823)生まれの海舟、生誕180年ということで平成15年(2003)に建立された。
 墨田区のホームページに以下のように書かれている。
≪勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
  勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
  この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
  平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山﨑昇≫
筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で≪墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である≫と述べた。
この発言背景には、上記ホームページにある「今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄」として海舟を高く評価認識しているからであるが、しかし、 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか、と山岡鉄舟研究会ではかねがね指摘している。

東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸から東京へ」の中で「江戸無血開城をめぐるおもな動き」を解説しているが、そこでは鉄舟の役割が、海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。これでは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。
そこで2018年4月24日に江戸東京博物館に以下の問い合わせを行った。この件は2016年10月にも同館の学芸員に対し、同様の指摘をしたのだが「今後の検討課題」という回答であったので、改めて、水野靖夫氏の著書『勝海舟の罠』(毎日ワンズ)が出版されたのを機に、江戸東京博物館を管轄する東京都生活文化局を通じて尋ねてみた。
≪江戸無血開城についてお尋ね
1. 東京都江戸東京博物館で常設展示されている「江戸無血開城」に関わる解説では、慶応4年3月13日、14日の「西郷隆盛と勝海舟」会談で「江戸無血開城」が決定されたと掲示され、映像説明でもなされています。
2. 山岡鉄舟研究会・主任研究員である水野靖夫氏出版の『勝海舟の罠・第3章』では、「江戸無血開城」は慶応4年3月9日の「西郷隆盛と山岡鉄舟」駿府談判で実質的になされたと、各史料を検討した結果判断しており、当会でも同様に認識しております。
3. 公共博物館である東京都江戸東京博物館のお立場から、「江戸無血開城」は「上記1であるのか、または2であるのか」についてお尋ねを致したく、よろしくご検討の程お願いいたします≫

これに対して2018年5月31日に以下の回答が届いた。
≪「2018年4月24日付」でいただきました当館常設展示「江戸から東京へ」コーナーへのご質問につき、回答いたします。
当館の常設展示は、公立の博物館としての立場から、とくに学校で使用される教科書の記述に基づき、展示内容を構成しております。江戸無血開城については、高等学校のいずれの教科書でも言及がありますが、このうち7種類の教科書に西郷隆盛と勝海舟の交渉について記載があります。
また、高等学校の副読本として東京都教育委員会が発行している『江戸から東京へ』(平成23年度版)でも、「4月、江戸城総攻撃を前に旧幕臣勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の会談が三田の薩摩藩邸でおこなわれ、江戸城は無血開城された」とあります。
 これらの記述に基づき、当館常設展示では、「西郷隆盛と勝海舟」の交渉によって江戸無血開城が行なわれたという趣旨の解説をしております≫
ということで、江戸東京博物館は教科書通りで展示していることがわかったが、今年のノーベル賞 本庶佑氏が10月2日の記者会見で次のように述べていた。
≪研究者に必要な要素について問われた場面では、「一番重要なのは何かを知りたいという好奇心。教科書に書いてあること、文字になっていることを信じない、疑いを持つこと」と答え、有名な論文雑誌も疑う対象の例外ではないと強調。「自分の目で物を見る、そして納得する。そこまで諦めない」と述べ、多くの後進が研究の道を志すことを期待したい≫
この発言は真理を突いていると思う。歴史博物館は過去の史実を究明し、それを一般人に教える場所としての義務を負っている。ならば、異論が提出された場合、教科書に記載されているから、その通りとした、という回答はいかがなものか。館内に掲載したものに対して、自ら検討し、自信を持つ内容の掲示をすべきでないか。教科書の丸写しであったならば、博物館と学芸員の名が廃るのではないか、そのように思っているが、これについては今後も追及していきたいと思っている。

海舟銅像は、能勢妙見山東京別院(墨田区本所4-6-14)の山門先にもある。海舟が天保2年(1831)九歳の時に犬に急所を咬まれた際に全快を祈願し父小吉がここで水ごりをしたとも伝えられ、勝海舟翁の銅像が建てられている。
胸像の下には次のように刻まれた銘盤がはめ込まれている。
「勝海舟翁之像 勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和49年5月12日」
大怪我を負った海舟が妙見大士の御利生により九死に一生を得たという話は『夢酔独言』(勝小吉・勝部真長 講談社)に書かれている。
≪岡野へ引越してから段々脚気もよくなってきてから、二月めにか、息子が九つの年、御殿から下ったが、本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七郎三郎が用人の所へやったが、或日けいこにゆく道にて、病犬に出合てきん玉をくわれた。
其時は、花町の仕事師八五郎といふ者が内に上て、いろいろ世話をして呉た。おれは内に寝ていたが、知らせて来たから、飛んで八五郎が所へいった。
息子は蒲団を積で夫に寄かゝっていたから、前をまくって見たら玉が下りていた故、幸ひ外科の成田といふがきているから、「命は助かるか」と尋ねたら、六(むず)ケ(か)敷(しく)いふから、先(まず)息子をひどくしかってやったら、夫で気がしっかりした容子故に、かごがで内へ連てきて、篠田といふ外科を地主が呼で頼んだから、きづ口を縫ったが、医者が振へているから、おれが刀を抜て、枕元に立て置て、りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、漸々縫て仕舞たから、容子を聞いたら、「命は今晩にも受合はできぬ」といったから、内中のやつは泣ゐてばかりいる故、思ふさま小言をいって、たゝきちらして、其晩から水をあびて、金比羅(能勢妙見の間違いと思われる)へ毎晩はだか参りをして、祈った。
始終おれがだゐて寝て、外の者には手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともな手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともなゐから、病人はかんびよや(ママ)うがかんじんだよ≫
『夢酔独言』を書いたのは勝小吉、海舟の父親であるが、ここで勝家について少し補足したい。参照するのは『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪時代劇などでは江戸っ子の旗本として描かれる勝海舟だが、代々の武士というわけでなく、江戸に長いという家でもない。
曽祖父の銀一は越後の貧しい農家に生れた盲人で江戸に出てから、金貸し業を営み成功した。当時は、幕府による一種の福祉政策で盲人に金貸し業を許可していたからである。銀一は金で御家人株を買うと、九男の平蔵を武士にした。さらに平蔵の息子の小吉が旗本「勝」に養子入りし、勝子吉となる。この子吉の長男が勝麟太郎、後の海舟である。ゆえに武士としては三代目で、身分も低い。だが、時代は幕末の混乱期。赤貧洗うが如き生活をしていた勝だが、次第に出世を遂げていく。貧しさの中でも蘭学を学び、オランダ語を習得して、書物を通じて諸外国の事情に明るかったことが幸いしたのだ。
ペリー来航という国難にあたって、幕府は身分を問わず、町人階級に至るまで、意見書を募集したが、この時、勝が提出した海防論が上役たちの目に留まった。長崎の海軍伝習所に派遣され、その後、米国へも渡って、さらに見聞を深めた。勝の先見的な考えは幕府側、官軍側の双方から認められ、戊辰戦争の際には調整役として大役を果たし、維新後も伯爵に取り立てられるのである≫

海舟の墓は、東京都大田区の洗足池の畔に「勝海舟夫妻墓所」(大田区指定史跡)としてあり、そこの掲示板に次の説明がある。
「勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、「洗足軒」と名づけました(今の大森第六中学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました」
ここで気づくのは、能勢妙見山東京別院の海舟銅像が昭和49年建立であり、大田区洗足池畔の勝海舟夫妻墓所が大田区指定史跡に認定されたのも同じ昭和49年である。
どちらも同じ昭和49年という背景説明は簡単である。NHKが勝海舟を12作目の大河ドラマとして、子母沢寛の同名小説を原作に取り上げたことと無関係でないだろう。
主人公の勝海舟役は渡哲也でスタートしたが、渡が肋膜炎に倒れて降板、渡が第9回まで務めた後に異例の主役交代となり、第10回以降は松方弘樹が引き継いだので話題となったこともあり、最高視聴率は30.9%、年間平均視聴率は24.2%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)という好評を博したドラマであった。
大田区指定史跡説明掲示板で、さらに気づくのは、「妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています」というところ。
普通の感覚では夫婦である以上、最初から夫の隣に葬られるのではないだろうか。どうして民子は最初に青山墓地だったのか。どのような理由で洗足池に葬られるようになったのか。大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であった。このところを次回でもう少し詳しく続けたい。

 

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