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2019年12月25日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その四

前号まで検討してきた結果分かったことは、特定の人を神に祀り上げる習俗には、その祭神の性格あるいは祭神化していくプロセスから、二つの類型があることである。
 一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」であると『神になった人々』(小松和彦著 知恵の森文庫)が述べる。
 

さらに同書が続けて以下のように記述している。
 ≪加藤玄智の『本邦生祠の研究』(中文館書店)によれば、近世から近代にかけて、死んだ人の「たましい」に留まらず、顕彰したい人がまだ存命であるにもかかわらず、その人の「たましい」を神社を作って「神」に祀り上げることさえ行われていたという。顕彰しようとする人びとの思いが強く、顕彰したい人の死を待てなかった。いや顕彰されるべき人が存命であるうちにそうすることに意味があったということだろうか。加藤玄智は、たとえば、東北地方の庄内藩で起きたいわゆる三方領地替え反対一揆が成功裏に終わった後の嘉永五年(1851)、百姓たちが藩主酒井忠器(ただたか)を「若宮大明神」として祀り上げたことや、大分県に縁のあった明治の政治家・松方正義公爵を、彼が八十五歳の時に、日田町(現・日田市)亀山公園内にある日隈(ひのくま)神社境内に「松方神社」を建立して「神」として祀り上げて顕彰した事例を挙げている。
『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社)や神社本庁の「人臣神社調査」、『本邦生祠の研究』などに列挙されている人臣神社のほとんどは、民衆の手によって建立された民間神社(私祭神社)であった≫

この実例を『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』の「松岡神社」(池主霊社)でみてみたい。「神」として祀られたのは鉄舟の弟子松岡萬(よろず)で、磐田市の松岡神社を訪ねてみた。
JR東海道本線・磐田駅から南へ約3キロ、タクシーで10分くらいである。ドライバーに松岡神社へと伝えると妙な顔をして、本部に尋ね、ようやくわかって到着できた。

≪静岡県磐田市大原の水神社境内に存命中から土地の人々に救い神として祟(あが)められた松岡萬命をお祀りする池主霊社(通称、松岡神社)が鎮座している。
この地大原一帯の水田二百町歩余りは、古くから大池の水を灌漑用水の唯一の水源として生活をたてていた。
ところが、江戸時代末期から水田造成の気運が盛んになるにつれて、大池を干拓、水田化して一儲けしようとたくらむ利権屋が相次いでやって来て、農民の生活をおびやかした。旧幕時代だけで前後少なくとも四回あった干拓出願は、その都度必至の陳情でどうやら食い止められ、いくらか大池はせばめられたが最低の水田用水は確保することが出来た。
維新後も勧業殖産という明治政府の方針に従い、この池に目をつける利権屋が少なくなかった。明治三年には静岡藩より派遣されていた見付郡役所(磐田市見付)の役人、近藤某が、嘆願書を持って干拓取止めを願い出た総代五人を郡役所に監禁するという事態が起った。途方にくれた土地の人々は、その年の十月、有徳の水利官松岡萬大人を湊村に訪ねて、中央政府への直接の訴願を持ち込んだ。
松岡萬大人は、もと徳川将軍家の旗本で、大政奉還後は徳川慶喜公に従って静岡に落ちついたが、明治政府に請れて水利官となり、湊村では護岸工事や製塩の指導に当っていた。当時三十二歳の若さであった大人は、農民の訴えを聞くと、直ちに大池に出かけて実情を調査した。そして農民たちの言い分が正しいとわかると必死の努力で中央に建言し、明治四年二月、認可が下るばかりになっていた大池干拓は御沙汰止みとなった。
農民たちの欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したのは言うまでもない。身を賭して危地から救ってくれた松岡大人に対する感謝の気持が盛り上がり、生き神様に祀ろうということになった。そして明治九年八月三十一日、池主霊社は、祭神天之水分神、国之水分神二座と、松岡萬大人の生霊を合祀して創建された。
松岡大人は、のち警視庁大警部となったが西郷南洲とも親しかったことから、明治十年西南の役を機に官を退き、余生を東京に送り明治二十四年三月十七日五十四歳で没した。
祭典は大人の生前は四月三日に行われていたが、没後は命日の三月十七日に斎行されてきた。現在は大人の生誕日に当たる四月十七日に執り行われている≫
   
実は松岡神社はもう一カ所存在している。『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』(大石貞男著)に「松岡神社・池主霊社縁起」が記されている。
 ≪志太郡岡部町(現・藤枝市)の宇津谷峠に近い部落に廻沢(めぐりさわ)という部落がある。周囲は山にかこまれ、みかんと茶と林産物で農業を営む平和な山村であるが、ここの飛龍神社の境内に松岡神社が独立して建てられている≫
 松岡神社が建立された背景には、明治初年から実施された当時の土地改革があった。明治7年から始められた林野の官民有地区区分は、林野を①国有林、御料林 ②地主所有林、③共同体所有林の三つに分け、明治14年ころからは入会地の整理が始められ、入会権をめぐって農民騒動などが発生していくなかで、岡部町の土地権問題も発生した。

 ≪廻沢村は当時二十一戸の小部落であったが、隣接の岡部宿とともに小廻沢の山林の所有権をめぐって争いがつづいていた。数カ月の間、はげしく争い、時には部落の人々は人質として監禁せられたこともしばしばであり、岡部宿は三百余戸もあるのに比し、この部落は少数できわめて無力であったので、大勢は相手方に有利に傾いてしまった。
そして最後の手段として、静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡萬に陳情することになった。
 そのために、まず、もと部落に住んでいた静岡市の伝馬町滞留の勧農係官であった小沢留造という浪士の手を経て松岡に窮状を訴えた。
松岡は事情をたずねたのち、直ちに現地に赴くことを承諾し、岡部宿の肴屋旅館に投宿して事情聴取や現地調査を行った。そして小廻沢地帯は、廻沢部落が六十両を示談金として支払い、土地は廻沢のものとするという裁断を下し、両者はこれに同意して解決したのである。
 このことによって廻沢部落の生計は維持せられるようになり、村民たちは子孫に対しても誇りとし、伝承として長く伝えるべきあることを痛感したので、松岡神社建立を決するに至ったものである。
 

祭祀の年月は必ずしも判明していなかったが、松岡家に保存せられていた次の松岡日記により明治三年十月と分かった。
『明治三年うるふ十月表方「松岡萬古道幸魂」、裏方「天朝明治三年閏十月鎮千此社」右の如く相認め廻沢の民に与ふ。執筆者久保先生相願申候』
松岡神社建立に当たって松岡家から秘蔵の遺品三十二点が奉納され、現在まで残っているが、松岡萬愛蔵の刀を始め、将軍家の書簡、頼山陽、蜀山人、江川太郎左衛門など歴史的著名な人物の書も多い。昭和三十二年十月この神社は改築せられ、祭日は十月十七日に行われる。なお、その日にうたわれた御詠歌は次のようなものである。
  まつのみどりのもろともに
  そせんのおしえ  まもりつつ
  かみのおしえに  したがいて
  まつおかさまのごおんけい
  こころにちかい   わするまじ
  ひりゅうじんじゃと  もろともに≫
 

松岡が生きながら神として祀られたことは、『おれの師匠』(小倉鉄樹著)にも書かれている。では、松岡が鉄舟の弟子になったのはどういう経緯なのか。『おれの師匠』からみてみたい。
 ≪山岡が尊皇攘夷を唱えて志士と結んでいるのを、幕府では、とうに睨んでいた。だんだん志士の勢いがつのるので、幕府では松岡に旨を含めて山岡を暗殺させようと図った。
 山岡が剣術のうまいことは松岡も承知である。然し松岡とても相当自信はあった。なに、山岡なんぞ何程のことがあるものか、と腹に一物抱いて山岡を訪ね、一仕合しようと申し込んだ。
 けれどもそれはとても山岡の相手でなかった。もろくも松岡は負けてしまった。
 「どうもおれは真剣でないと本気になれない。真剣で一つやろう」
 と松岡がいうので、それなら真剣にしようと腰の刀を抜いて差向った。松岡は辻斬を盛んにやっているので、真剣となると油が乗ったに相違ない。
 けれどもこれでもまだ山岡の相手ではなかった。「参った」と松岡は刀を引いた。
 「じゃ、一杯飲もう」と山岡が先に立って奥――といっても小石川鷹匠町の例のあばら家だが――へ行って一杯飲みだした。然し松岡はとんと酒がうまくない。一撃の下に山岡を斬って捨てようと思って来たのが此の様じゃ、みっともなくて帰って会わせる顔がない。なんとかして山岡を殺さなくちゃ使命が果されぬと思い煩った。ふと松岡は、
 「おれは実は撃剣はそううまくないのだ。柔術の方が得意なのだ。いい手があるのだが、おまえに一つ伝授しようか」と云った。
 「そうか。そんないい手なら教わって置こう」
 と山岡が、云うので「しめた」と松岡は山岡の背後に回って、山岡を羽交い絞めにかけた。勿論これで山岡を殺してしまう決心なので、満身の力を込めて、うんと絞めたので、松岡の双腕はぎっしり山岡の首にからんで、正に山岡の首は折れるかと見えた。
 このさまを座にいた中條金之助が見て承知しない。
 「この野郎、山岡を殺しにかかったな」
 とひどく怒って、松岡を斬ってしまうと青筋立てて立ちあがった。
 中條のただならぬ気色に、覚えず松岡が手を緩めた。その手を山岡が払い除け、怒る様子もなく「飲め」と酒杯を松岡に差した。
 松岡は山岡に双手を払われた時、瞬間に身構えて山岡の仕返しに備えたが、案に外れた山岡の態度に気が抜けた。と同時に重ね々々の失敗がひどく恥しくなって「これは到底おれの相手じゃない」と心から参ってしまった。そこで「実はおれはあなたを殺しに来たのである」とすっかり打ちあけた。
 「まぁいい、飲め」
 と山岡はとんと平気である。そこで松岡は志を翻して山岡に従って国事に奔走する気になり「どうかおれを捨てずにくれ!」と頼んだ。是に於いて山岡も、
 「よし、それじゃ一つおまえと約束しょう」
 と、これから山岡の発意で、降っても照っても毎日屹と山岡のところへ稽古に来ることした。そして、若し山岡が稽古を休むことがあったら、松岡は木剣で山岡を打ち据え、松岡が休んだら山岡が叩きつける約束をした。
 こうして松岡は山岡と別れたが、それからは雨が降っても、風が吹いても欠かさず山岡のところへ稽古に来た≫
 

松岡にはさらに面白い話を、続いて『おれの師匠』から紹介したい。
≪山岡が宮内省を退いた時、松岡は要路の人の不明を慨し、山岡如き誠忠無二の男を君側から離すというのは不都合だというので、短刀を懐にして、岩倉さんを訪ねた。岩倉さんを刺殺して自分も死ぬ覚悟なのである。
 流石は岩倉さん、維新以来志士や浪士の応接には幾度か生死の境を潜って来ているので、そんなことには馴れたもので、松岡の唯ならぬ気色に直ぐにそれと見抜いてしまった。そして盛んに松岡を煽り揚げてあべこべに松岡を煙に巻いてしまった。
 「君のような愛国者が居るとは岩倉具視不憫にして今日まで気がつかなかった。今は時世が時世で、どうにもならんが、どうか邦家のために身命を擲(なげう)つことを忘れないでくれたまえ」
 と美事敵の鋭鋒を奪って却て之を松岡に擬した。
 松岡は岩倉さんの知遇に感激して、すっかり逆上せて岩倉さんの許を辞去した。家に帰って二階にあがり、身辺の始末をして、自刃した。松岡では、自分が斯く潔く国家の為に身命を擲ったならば、屹度感奮して廟堂の廓清(かくせい)が図られるに違いないと、岩倉さんの言葉を勘違いしてしまったのである。
 間もなく山岡の所へ「今、松岡さんが喉を突いて自害なさいました」という知らせがあった。その時おれは二階に居たが、師匠が、
 「おい渡邊! 松岡が喉を刺したということだ。おまへ一足先に駆けつけてくれ。おれは後からすぐに行くから」
 という言葉なので、おれは直ぐさま飛び出した。松岡の家は市ヶ谷の高力松―――今、救世軍の大学になって居る所―――に在ったのだから四谷の山岡の家からは一走りであったのだ。
 行ってみると奥さんは座敷によゝと泣き崩れていてその傍らに血まみれの大刀が転がっている。
 「奥さん、渡邊です。しっかりしなさい。松岡さんは・・・?」
 泣き腫らした奥さんは声も出ず、二回を顔でしゃくりあげた。
 直ぐに二階にあがって、障子をがらり明けにかかると、中から、
 「誰だ!」
 と怒鳴った。おれは即座に「よかった、まだ死なないな」と思って、
 「渡邊だ!」
 と言いさま座敷に飛び込むと、ぷんと血の臭いがして座敷は一面の唐紅。床の間に向って松岡が座ったまま血まみれになっている。
「ヤ、渡邊君か、松岡、今日国家のため、従容として自刃した。見届けてくれ!」
「よし、見届けてやる。今、師匠もあとから直ぐに来るからしっかりしろ!」
見ると、創は首の前と後と二つあって頸の前後から、どくどくと血が脈を打って湧き出ている。取敢えず、松岡の着物の袖を引き裂いて創口を押え、おれの帯を解いて、ぐるぐるその上に巻いた。
早く師匠が来ればいいと思っていると、師匠が医者を伴れてやって来た。
「松岡さん、先生だ」
「むむ、そうか。――先生! 松岡今日国家のため従容と自・・・・。」
「馬鹿」
と大喝、師匠が、
「何が国家のためだ。ひとに迷惑かけて、国家も糞もあるか! 蹴とばすぞ」
と頭から怒鳴りつけた。
妙なもので、それまではしっかりしているように見えた松岡が、師匠に怒鳴りつけられたら、忽ちぐにゃぐにゃになってしまって、ばたりと倒れたまま昏々と眠りに落ちた。
医者がすっかり創を調べて手当てをした。創は気管の一部を切ったけれども、幸い大血管を傷つけなかったので、命には障りがないとのことで安心した。二尺四寸の大刀で、ぐっと前から後に突きたてたので、あまり刀が長過ぎて手許が外れ、斜めに頸を貫き刀の先が頸の後に出たのである≫

この自刃事件の様子から考えると、松岡は熱血漢で、行動派であることがわかる。
その後、松岡は中條金之助らと行動をともにし、静岡の牧之原開拓に従事したが、長く牧之原には止まらず、藩庁に入り、水利路程掛兼開墾方頭並となって、松岡神社に祀られたような活躍をした。
 さらに、小島(おじま)(現・静岡県清水区小島地区)の奉行をつとめた時にも、農業の奨励のために、切れ草鞋や馬ふん等を集めて、田や畑へ施すことをすすめたり、道路や橋の施設改善をはかったりして、かなりの成果を上げている。
 松岡は、施設の使役を命じる際には人夫をいたわる方法を常に講じた。例えば、安倍川に橋を建設する工事では、休息時間を設けたり、焼き芋を人夫に配り、草鞋の支給、休業日に大鍋に川魚や貝・野菜のごった煮の味噌汁をつくり、飯は大釜に芋と大根の干葉を入れた菜飯を炊いたりして与えている。この食事を人夫たちの間では安倍川の暗汁と呼んでいた。
 松岡は、明治8年には静岡を離れて東京へ行き、警視庁一等大警視として活躍し、明治23年東京下渋谷の自邸で52歳の生涯を閉じた。(参照『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』)
 

このように鉄舟の弟子が神に祀られているのに、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。

 

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