前号でお伝えした白河市の「合同慰霊祭」の翌日、平成30年(2018)7月15日は、群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺に向かった。東善寺は小栗上野介の墓所である。
小栗上野介は、安政7年(1860)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球一周に近い旅をして帰国。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行った。
鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首された。
逮捕の理由として、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠
は現在まで出てきていない。

(東善寺・小栗父子の墓)
東善寺では村上泰賢住職にいろいろご教示賜った。特にインパクト強く主張されたのは「近年、テレビや映画で勝海舟が咸臨丸で活躍する画面が出て来なくなった」ということであった。
これは「昭和36年(1961)に『万延元年遣米使節史料集成』(全7巻、日米修好通商百年記念行事運営会・編、風間書房)の第5巻に収められたことから、咸臨丸の実態が知られて、戦前の修身教科書による「勝海舟と咸臨丸」の勇ましいイメージが崩れた」というお話。
関連する内容が東善寺のホームページ「小栗上野介関連の人物紹介・ブルック大尉」で掲載されているので、引用紹介したい。
≪1860年、友好の印として、アメリカは蒸気船ポーハタン号Powhatanを提供して、日本が最初の使節団をワシントンに送るための手助けを申し出た。使節団は、少し前に駐日公使タウンゼント・ハリスと徳川幕府との間で調印された通商条約を批准するのが目的であった。徳川幕府は返礼の気持ちで(あるいは、習得した航海知識を披露したいために)、オランダから購入したばかりの自国の軍艦、咸臨丸を使節の護衛船としてサンフランシスコまで行かせることを決定した。
日本人乗組員は、航海士も船員も訓練が十分ではなかったため、徳川幕府はアメリカ人の海軍将校を咸臨丸に任命するよう依頼した。アメリカの東インド艦隊の司令官、ジョシュア・タットノール准将 Josiah Tattnall は、天文学者、水路学者として長い経験を持つジョン・マーサー・ブルック大尉を選んだ≫
≪ブルックは打診されたアメリカへの航海任務を喜んで受け入れた。そして、出航への最終準備をしているときにジョン万次郎に出会った。万次郎は難破船に乗り合わせた人間としてはブルックの先輩ということになる。万次郎は、公式通訳として咸臨丸に任命されていて、二人は長時間にわたって打ち合わせをしているが、その内容についてはブルック大尉の日誌に詳述されている。
ブルックの日誌は「死後50年間公開しない」という遺言によって公表されることなく、ブルックの孫に当たるジョージ・M・ブルック・ジュニア博士(バージニア州立軍人養成大学の歴史学教授)が保管してきた。しかし、1960年、日米友好通商100周年記念協会に提供され、日本で「万延元年遣米使節史料集成第五巻」として刊行された。
1860年1月の中旬、咸臨丸とポーハタン号は江戸港からアメリカに向けて出航した。さほどの日数がたたないうちにブルック大尉の日誌には、咸臨丸の日本人乗組員たちについて、訓練がよくできていないことだけでなく、(仕事に対する)無気力さについての不満が書き込まれることになった。しかし、ただ一人、ジョン万次郎にだけはブルックも尊敬の念を持ち続けた。そんな状況ではあったが、不安な気持ちの中にも、ブルックは日本人の生来の能力がなんとか安全に航海をやり遂げるだろうと信じていた。
しかし、ブルックにとって計算外だったのは、日本人乗組員が本当に気まぐれだということだった。出航後、ほどなくして二隻の船は台風に見舞われた。ポーハタン号に乗船していた経験豊かな航海士が「太平洋上で遭遇した最悪の嵐」と言うほどのものだった。
しかも、悪いことに咸臨丸の艦長(勝海舟)は船酔いでまったく指揮が取れなくなってしまった。そのため、ブルックが代わって指揮を取らざるを得ない。しかし、さいわいだったのは、ブルックが航海士として経験豊かな万次郎を頼りにできたことだった。ブルックと万次郎の二人と、難破したフェニモア・クーパー号からのアメリカ人乗組員たちがいなかったら、咸臨丸はとっくに沈没していたかもしれないのだ≫
ところが勝海舟は『氷川清話・日本海軍の基礎』で次のように述べている。
≪また万延年間に、おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行ったのは、日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ。咸臨丸は、オランダで製造した船だ≫
ブルックの咸臨丸日記とはまったく異なる記述内容だが、これについて『勝海舟の罠』(水野靖夫著 毎日ワンズ)は以下のように論説している
≪「外国人の手は少しも借らないで」というのは大ウソで、咸臨丸には日本人だけでなく、ブルック海軍大尉以下11名のアメリカ人水兵が乗り組んでいた。勝部真長氏は『勝海舟』に、「ブルック大尉の公開日記は、日本人初の太平洋横断なるものが実は名目的なもので、ブルック以下11名の米人乗組員の助力なしにはほとんど不可能であったことを証明するものである」と書いている。つまり日本人の力だけで航海したというのは、ホラ話と言うか自慢話なのである≫
さすが海舟だけのことはある。事実を簡単に曲げて、自己中心にしてしまう。
だが、ここで疑問が生じる。手許にある『氷川清話』(勝海舟全集21 講談社)は昭和48年(1973)に出版されている。
ということは、この『氷川清話』が出版された時は、既に「昭和36年(1961)に『遣米使節史料集成』が発刊されて12年経過しているのであるから、ブルック大尉の「咸臨丸日記」に基づき『氷川清話』の咸臨丸に関する記述・発言内容は訂正されるか、または、問題点ありと注記されるべきではないか。
仮に本当に海舟が≪おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行った≫と発言していたとしたら、海舟は大嘘つきになってしまう。
海舟は、世に喧伝されているように江戸無血開城の功労者で、明治維新への道筋を開拓した人物である。この海舟が嘘つきだとしたら、維新の功労者は信用できない人物に成り下がってしまい、江戸無血開城にも傷がつくだろう。
実は『氷川清話』の記述は、一般的に論じられているように、咸臨丸の事例のように、多くの誤謬や誤りがある。
『氷川清話』は、晩年の海舟のところに出入りしていた吉本襄が、海舟から聞いた話と、他の多くの人々の手によって新聞や雑誌に発表された海舟談話を、吉本が明治30年(1897)11月『海舟先生氷川清話』として発行、これが非常に好評であったので、気を良くした吉本は翌31年(1898)に『続海舟先生氷川清話』を、さらに同年11月には『続々海舟先生氷川清話』を発行している。いずれも、海舟生存中のことである。
したがって、記述の責任は勿論、全て吉本襄にあるが、史実に照らし、明らかに誤りである箇所は、後世の識者が訂正する必要があるだろう。
勝海舟全集刊行会の代表は文芸評論家の故・江藤淳氏であるが、江藤氏ほどの知識人がブルック大尉の「咸臨丸日記」を知らないわけはない。
是非共、妥当な『氷川清話』にして欲しいものである。
ここで再び東善寺に戻りたい。
小栗父子の墓の手前に、二人の胸像が立っている。

左が小栗、右が栗本鋤(じょ)雲(うん)である。栗本は小栗家の屋敷内を借り開いていた安積艮斎塾に入り、小栗と知り合い生涯の盟友となり、横須賀製鉄所(造船所)建設の現地責任者を命じられた。
東善寺のホームページ「栗本鋤雲の事績」によると、≪ヴェルニーを上海より呼び寄せて総裁とし、横須賀湾にツーロン製鉄所の3分の2の規模として、製鉄所1ヶ所、ドック大小2ケ所、造船場3ヶ所、武器廠共に4年で完成する。費用はおよそ1年60万ドル、4年で総計240万ドルを要することを契約した≫とある。
小栗の胸像は、神奈川県横須賀市汐入町のヴェルニー公園内の開明広場にもある。この公園はフランス庭園様式を取り入れた造りで、対岸にフランス人技師ヴェルニーが建設に貢献した横須賀製鉄所が望め、ヴェルニー・小栗祭りとして二人の功績をたたえる式典も毎年開催されている。

胸像の説明として以下が書かれている。
「日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと横須賀製鉄所(造船所)建設を推進しました。軍政の改革、フランス語学校の設立など日本の近代化に大きく貢献したが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解かれ、領地の上野国権田村(群馬県倉渕村)で官軍により斬首された」
横須賀市内にある小栗の胸像はこれだけでない。「横須賀市自然・人文博物館」(神奈川県横須賀市深田台)の入口前にもあり、さらに同博物館の人文館2展示室「17~19世紀の和洋船と浦賀」にも、以下の記述とともに胸像が設置されている。
≪海を切り拓いた人々として、安針塚駅で知られるウィリアム・アダムス、横須賀製鉄所を成功に導いた小栗上野介忠順とフランソワ・レオンス・ヴェルニーの胸像を入り口に展示して、皆様をお出迎えしています≫

さらに、「横須賀市自然・人文博物館」に隣接している「横須賀市中央公園」にも小栗の胸像が設置されている。
このように小栗の胸像はいくつも存在することからわかるのは、横須賀市が小栗の業績を高く評価していることである。
小栗についてヴェルニー公園の事務所でもらった小冊子『小栗上野介と横須賀』に以下のように業績が書かれている。
≪「日米修好通商条約」が調印され、翌年この批准書の交換がアメリカで行われることになり、幕府はその使節団を送り込むことになりました。当初、幕府が決めていた人たちがさまざまな理由で行かれなくなり、9月になって正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗正順と決まりました。
新見や村垣はすでに幕府の要職にありましたが、小栗は大抜擢といってよいでしょう。小栗はこの拝命の前日に幕府の目付に任命され、さらにこの年の11月豊後守に叙せられました≫
写真は、ワシントン海軍造船所における遣米使節団一行で、前列右から二人目が小栗である。

≪この大抜擢の陰で、小栗には一つの大きな密命が課せられました。それは通貨の交換比率の不公平を是正することでした。当時、「日米修好通商条約」により、諸外国の貨幣は日本の貨幣と「同種同量」をもって通用すると決められ、例えば「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という交換比率でした。ところが、金と銀の交換比率は、海外では金の価格が日本よりも3倍も高いものでした。この比価の違いが、日本からの金(金貨)の大量流出を招いていたのでした≫
≪小栗は、フィラデルフィアの造幣局の一室で、日米貨幣の金含有量をそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し、周囲を驚かせるとともに、こうした不公平さをアメリカ側に納得させたのでした。
これで小栗のアメリカ側の評価が一躍高まります。それまでの目付を直訳した「スパイ」から、小柄ではあるが威厳と知性と信念が不思議に混ざっている男として、また「NO」をはっきり言える人として見直されたのでした≫
しかし、小栗はアメリカ側に金貨(小判)の価値は認めさせることができたものの、是正交渉の権限は遣米使節に与えられておらず、アメリカ側もそのような交渉はなるべく避けたい意向が働いて、本格的な是正交渉にまでは至らなかったが、小栗の鋭い思考を持つ人物だと評価できる。
さらに『小栗上野介と横須賀』は小栗の功績を以下のようにまとめている。
≪小栗は横須賀製鉄所のほかにも、鉄道建設(江戸~横浜間)、国立銀行、電信・郵便制度、郡県制度の創設や、また商工会議所や株式会社組織など近代的な経営方法をも発案していました。
これらは明治以降、新政府の手で次々に実現され、急速に近代国家としての形を整えていきましたが、その陰には小栗が旧弊を打破し、近代国家に向けて推進しようとしていたことが、浸透し始めていたことを忘れてはなりません≫
≪明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。
現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています≫
この讃えた結果が、横須賀市内にいくつもある小栗の胸像なのである。
これは小栗の死が「祟る」と考えて胸像化したのではなく、明らかに製鉄所建設を推進した行為に対する「顕彰」として作られたのであろう。
近代以前、特定の人物を神に祀り上げるという習俗には、二つの類型があって、一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプであると『神になった人々』(小松和彦著、知恵の森文庫)は述べ、次のように解説する。
≪「祟り神」タイプは古代から現代まで連綿として続くもので、祟る者の「たましい」を神社などの信仰施設を作って、そこに「神」として祀り上げることで、その祟りを鎮めようとしたものである。
これに対して、「顕彰神」の方は、比較的新しいタイプで、中世末から近世初頭あたりに始まった信仰形態で、天寿をまっとうした者であれ、不慮の事故などで人生半ばで亡くなった者であれ、その生前の偉業を顕彰し後世に伝えたいという思いから、神社などの信仰施設を作ってその人の「たましい」を神に祀り上げたのである。
前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプのそれは徳川家康を祀った「東照宮」である≫
「顕彰神」タイプは「人神神社」で、これは近世以降に生み出されたものがほとんどで、為政者だけでなく、民衆の側からも建立されているので、その数も多い。
『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社 1981年出版)には、民衆からその偉業を称えられ、その記念・記憶のために神として祀られた人物を祭神とする120社におよぶ大小の神社が紹介されている。また、神社本庁の「人臣神社」(人を神として祀った神社)の調査によれば、全国に四千にも及ぶ人を神に祀った大小の神社があるという。
小栗を「顕彰神」として、横須賀市は胸像を建てたが、『小栗上野介と横須賀』に記されたように、その功績は日本全体の近代化に大きく貢献しているし、司馬遼太郎も「明治という国家」(NHKブックス)の中で、小栗を「明治の父」と讃えている。
ならば小栗の生前の偉業を顕彰するためには、横須賀市に止まるのではなく、日本国家としての「顕彰神」にすべきではないか。
しかし、現実は一地方行政下での功績扱いにとどまっているが、鉄舟と比較すると胸像によって「顕彰神」になっているだけ「まし」である。
鉄舟の2大功績は「江戸無血開城」と「明治天皇の教育」であるが、現状としては全国的な「顕彰神」として祀られていない。なぜなのか。これについても次号以降も検討していきたい。
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