筆者の手許に、亡父50回忌法要を営んだ際の集合写真がある。家族・親戚・縁者が40名以上集まって盛大であったことをおぼえている。これが平成9年(1997)の時であるが、以後、既に21年経過しているが、亡父の法要はなされていない。
一般的にこのような事例が多いようである。亡くなった父や母など親族を追悼する法要は33回忌や50回忌あたりで終り、その後は「先祖代々の霊」として集合霊化される。
そうなる背景としては、通常の死者は大きな権力を持たず、または特別な大事件で亡くなるわけでないから、死者の死を哀しみ追悼するのは、家族や親戚・友人たちになる。葬式を執り行い、埋葬し、墓をつくり、以後、家族による墓参りと、自宅の仏壇前で手を合わせる毎日が続く。
50回忌に集まった人々も年齢を重ね、次第に亡くなっていくので、追悼の想いや記憶は風化し、死者は最後には忘れ去られることになる。記憶の切れ目が縁の切れ目になって、それが33回忌や50回忌あたりで法要が営まれなくなる理由であろう。
社会学者の副田義也氏が、弔辞を考察した『死者に語る』(ちくま新書)で、次のように述べている。(参照『神になった人々』小松和彦著)
≪死者は死ぬことによって、その肉体も意識も亡んだ。かれの本質は不在である。しかし、かれを知る人びとが生きているかぎり、かれらはかれの記憶をもちつづけることができる。死者は生者の記憶のなかに存在しつづけるのである。現代のわれわれが死者の記憶とみているものは、古代・中世の人びとにとっての死者の霊魂に限りなく近いのではないか。ここから、生きている人間が死者にしてやれるもっとも大切なことは、死んだ人間をおぼえていてやることだという考えかたがでてくる≫
同様なことを、民俗学者で国際日本文化研究センター所長の小松和彦氏が『神になった人々』(光文社知恵の森文庫)のなかで述べている。
≪『死者のたましい』とは『死者についての記憶』と置き換え可能なものではないか。つまり『死者についての記憶』の限界が『死者のたましい』の限界ではないか。・・・慰霊とは『死者のたましい』を慰める行為であるが、それは同時に『死者についての記憶』を風化させないようにするための方法でもある。したがって、『死者についての記憶』がある限り、『死者のたましい』も存続するであろう。しかし、『死者についての記憶』が薄れていけば『死者のたましい』も消滅していく。つまり、『記憶』の限界が、『たましい』の限界でもあるわけである≫
その通りである。記憶は時間とともに風化する。戦争や大災害を体験した人々は、その苦しさと悲惨さを記憶しているが、その記憶を後世に伝えるためには、そのために何かの装置が必要となり、それが特別な墓や慰霊碑とかが築かれるようになった理由であろう。
平成30年(2018)7月14日、戊辰戦争殉難者の「合同慰霊祭」が「白河戊辰150年記念事業」として福島県白河市で開催され、筆者もこれに参加した。実行委員会の人見光太郎会長がパンフレットで開催趣旨を述べている。
≪ここ白河の地は古来奥州への関門として重要視されてきました。それ故戊辰戦争では白河を巡って100日にも及ぶ大攻防戦があり、一戦場では他に類を見ない両軍合わせて1000名を超す戦死者が出た、一大決戦の地でした。白河での戦いはその後の奥羽越の戦争の帰趨を決したともいわれております。
私達の先祖は、死者は全て仏様に成るとの強い信仰心と、また、打ち捨てにはできないとの深い同情心から、東西両軍の別なく手厚く埋葬し、今日まで供養を続けてまいりました。現在市内には60カ所を超す墓や慰霊碑がございます。
我が国近代化のための尊い礎となった両軍兵士や殉難者の御魂に心から哀悼の誠をささげるに、この地ほど相応しい場所はないとの強い思いから、本日の合同慰霊祭を企画実施するに至りました≫

この日は安倍首相からもビデオメッセージが届き「白河の地から近代日本を形づくる『一体感』と『融和の精神』が育まれ、全国に広まった」と、東西両軍を弔った白河の先人を称え、福島県知事、白河市長、萩市長、国会議員等の挨拶もあった。
続いて、祭文を白河藩阿部家22代当主の阿部正靖氏、大祓が福島県神社庁西白河支部、読経が白河仏教界によってなされ、全国各地から参列した約千人が、御霊に恭しく拝礼する儀式が、厳かに盛大に挙行された。
ここで興味深いことは、神道による大祓と、仏教による読経が並行されていることである。人見会長は「仏様」と述べたが、「神様」としても儀式がなされ、「仏様」=「神様」になっている。
白河では、今回の「合同慰霊祭」開催とは別に、平成27年(2015)8月29日に「白河口の戦い記念碑」を建立しており、その除幕式にも筆者は参加している。戦死者に対する白河の人びとの情は実に深いものがある。
「白河口の戦い記念碑」
慶応4年(1868)閏4月25日から始まり、7月28日まで100日弱、この間1000人以上の犠牲者を出した白河口の戦いとは、どのようなものであったのだろうか。概略振り返ってみたい。
新政府軍は閏4月18日~20日に大田原(現栃木県大田原市)に集結し、白河城の奪回作戦に出た。大田原に進出したのは薩摩4番隊と長州1小隊、大垣1中隊と忍1小隊約250人と砲5門。
この時、会津藩は白河の南5キロの白坂に関門を設け、兵を収めて警戒に当たった。戦闘は閏4月25日暁天から始まった。この日、いまだ会津藩総督・西郷頼母と副総督・横山主税は前線に到着していなかったが、新政府軍の襲来を知った新選組の山口次郎(斉藤一)を先鋒に、遊撃隊、純義隊、朱雀隊が側面から攻撃を加え、白河の外で新政府軍を迎撃撃破、新政府軍は戦死16、負傷51を出して那須に敗走し、緒戦で大戦果をあげた。
山口次郎は歴戦の強者であり、総督がいなかったので伸び伸びと戦うことができ、これが勝利につながったという。
緒戦で勝利を収めた会津、仙台の同盟軍の士気は旺盛だった。だが、以後、敗戦が続く。
特に5月1日の戦いは圧倒的軍勢を持つ東北軍が、新政府軍に一方的に敗れている。会津藩は総督西郷頼母の下1500人余、仙台藩は参謀坂本大炊の下約1000人、兵数は両藩で2500人、対する新政府軍は700人であるから、東北軍は3.5倍の軍勢で圧倒的に有利であったのに負けている。敗因は実戦経験なき西郷頼母を総督に任命した門閥人事であるといわれている。
では、白河口での戦いにおける西郷の指揮ぶりはどうであったか。それについては記録「浮世迺夢(うきよだいむ)」が残っている。機密御用を預かっていた野田進が書きのこしたものである。(参照「幕末会津藩士銘々伝」小桧山六郎、間島勲編著 新人物往来社)
≪27日、敵は白河から1里28丁ほど離れた白坂を占領した情報が入った。敵地探索のために急行すると、守備は固く、交代で休みを取り、夜は山野にひそんで会津勢の夜襲に備えて袋の鼠作戦が取られていた。
このころの会津は大軍勢に驕りたかぶっているように見え、29日に見るに見かねて西郷総督に意見と状況を申し上げようとして参上した。
『兵を引き締めて早く白坂の敵を撃破するか、または本陣を1里ほど離して精鋭のみを、この地に残して対処すべきである。このままでは必ず敵軍は夜襲して、わが軍は離散する恐れがあります』
と申し上げた。そばにいた軍事奉行鈴木多門(慶応年間200石御蔵奉行)が『身分をわきまえぬ言論』として私を怒鳴りつけた。
『会津藩の危急存亡の秋、どうして上下にこだわるのか』
と激論になったが、総督は私の意見を採りあげようとしなかった。同席していた原源三郎、井深為五郎らは嘆息して、もはやこれまでと落胆して帰りについた。
予想通り5月1日、夜明けとともに敵の大軍が三方から襲いかかり、わが軍は苦戦につぐ苦戦の連続で、とうとう横山主税副総督が壮絶な死を遂げられた。総督は長沼まで退き、私は牧の内まで退却した。総督は、この大敗で帰国して家老職罷免蟄居謹慎を命じられた≫
戦争とは勝つことが最大目的。ならば指揮官には最も優れ有能な人物を配するのが鉄則なのに、それを会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主)の松平容保は怠ったのである。
話を「仏様」=「神様」になる背景に戻そう。前出・小松和彦氏の『神になった人々』を参考にしてみたい。
≪重要なことは、人を死後なんらかの理由で神格化し、その結果、その人物のための祭祀施設を設けるということなのであって、その「神格」を「神」と呼ぼうと、「仏」と呼ぼうと、あるいは「霊」とか「霊神」と呼ぼうと、いっこうにかまわないのである。神道系の宗教者がその祀り上げに深く関与すれば「神」ということになるが、仏教系の宗教者の場合には「仏」(つまり大日如来とか毘沙門天の化身)ということになって「仏堂」に祀られることになるわけである≫
前号で参照した『神道の逆襲』(菅野覚明著、講談社現代文庫)にはこうある。
≪人々は確実に神のおとずれを知ることができた。というのは、神さまがやって来る時には、必ず何らの仕方でそのことを示し現すものであるという共通了解が、人々の間にあったからである。神さまが自らを何かの形にあらわすことは、古来「たたり」と呼ばれてきた≫
このように、我々の住む日本列島では「祟り神」を鎮める思想がもともと存在する。
そこで、この「祟り神」を「社」を建てて、つまり、「祀り上げる」ことで鎮めようとする信仰の延長上に「人」を「神」に祀り上げる信仰が生まれ、その祭祀者の延長上に「神職」とか「社家」と呼ばれる神道系の宗教者がいることになる。
では、ここに仏教がどう絡んで「仏様」=「神様」になったのか。『神になった人々』は次のように述べる。
≪「祟り神」の「鎮魂」(祀り上げ)の思想のなかに、外来の思想である仏教がしだいに浸透していった。仏教は古来、神祇(じんぎ)思想の排除・撲滅ではなく、協調・融和を追及することで勢力の拡大・浸透をはかった。それが「神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)」という思想実践だった。
仏教は、死者の霊の行方からその霊の管理、葬送儀式にまで関与し、死者のすべてを「ホトケ」化するまでになった。さらに「祟り神」系の「神社」にも深く関与することになった。その名目は、祀られている「神格」を「鎮魂」――仏教的な用語では「供養」――するというもので、「供養塔」から「供養堂」、さらには「寺院」まで建立されるに至ったのである。すなわち、仏教は「供養」という仏教的な方式による「祀り上げ」を展開していったわけである。「祟り神」(祟る神)に対して建立された「供養の卒塔婆」や「仏堂」などは、神道における「祠」や「神社」に相当するものであった≫
≪このように死後に「神」として祀られる「霊」、それは大きな権力を持つ人か、特別な大事件に絡んだ人であるから、その反対側には死後「神」に祀り上げられない、その他大勢の「霊」が存在していることになる。
普通の人生を過ごして亡くなった人は、死後に「神」にはならず、特別の人生を送った人のみが「神」に祀り上げられる資格を有していたので、その資格とは、死後に祟るかどうかで決まったのである≫
≪柳田國男は『人を神に祀る風習』という論文で指摘している。「死者を神として祀る慣行は、確かに今より昔の方が盛んであった。しかしそれと同時に、今ではもう顧みない一種の制限が、つい近い頃までは全国的に認められて居た。支那で祠堂と謳ひ我々が御霊屋と名づけた一家専属の私廟は別として、弘く公共の祭を享(う)け、祈願を聴容した社の神々の、人を祀るものと信ぜられる場合には、以前には特に幾つかの条件があった。即ち年老いて自然の終りを遂げた人は、先ず第一に之にあづからなかった。遺念余執(いねんよしつ)といふものが、死後に於いてもなほ想像せられ、従って屡々タタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることになるのであった≫
この中で遺念余執という意味は、遺念が「亡霊」のことであり、余執とは「心に残って離れ去ることがない執着」と理解される。
白河の「合同慰霊祭」は正に、戊辰戦争の白河激戦の記憶を後世に伝えるために、東西両軍の戦死者を「神」と崇め奉る儀式だったのである。
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