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2019年9月25日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その一

昭和20年(1945)8月15日の玉音放送、始めて聞いた昭和天皇の肉声によって、その意味する敗戦の事実を知った日本国民は、ショックで一瞬にして虚脱状態に陥り、町中異常な静けさに覆われたことを、当時まだ幼子だった筆者は、心に確り強く記憶している。

これと同様の悲哀を江戸市民も今から150年前に味わった。今まで将軍様より偉い人は知らなかった江戸っ子にとって、京に天子様がいるなぞということは、ずっと長い間意味のない存在だった。

その身近で最も偉い将軍様であった十五代将軍・徳川慶喜が、突然大坂から戻ってきて、江戸城で喧々諤々の大評定をしていると思っていたら、突然、上野の山に隠れてしまって、代わりに京の天子様の命令で、薩長の輩が官軍という名分で江戸城に攻めてくるという。

官軍に攻撃されると江戸市中は火の海になって、壊滅するかもしれない。店や住まいが燃えてしまう。これは大変だ。どうしたらよいのか。町中大騒ぎになって、ただ右往左往、今まで考えたこともなかった事態で、混乱の極に陥ったが、山岡鉄舟が駿府に赴き、西郷隆盛と談判、江戸無血開城が成り立ち、江戸は火の海にならずに済んだ。

その鉄舟登場について、歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎(1906~75)が、『山岡鉄舟・日本史探訪・第十集』(角川書店)で次のように述べている。
≪山岡鉄舟先生は、江戸城総攻めの始末がついてからのち、それでなくとも忙しいからだを、つとめて人に会うようになすった。それも庶民階級、まあ、出入りの植木屋さんから大工さん、畳屋さんから相撲取りから、話し家、役者、あらゆる階級の人たちに会って、鉄舟さんのおっしゃった言葉は「おまえたちが今、右往左往したってどうにもならない。たいへんな時なんだけれども、いちばんかんじんなことは、おまえたちが自分の稼業に励み、役者は舞台を努め、左官屋は壁を塗っていればよいのだ。あわてることはない。自分の稼業に励めばまちがいないんだ」と言うのです。このいちばん何でもないことを言ってくださったのが、山岡鉄舟先生で、これはたいへんなことだと思うんです。
今度の戦争が済んだ終戦後に、われわれ芝居をやっている者は、進駐軍がやってきて、これから歌舞伎がどうなるかわからなかった。そのような時に、私たちに山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでしたね≫

さすがに歌舞伎界の故事、先達の芸風に詳しく、生き字引と言われ、随筆集『戯場戯語』(中央公論新社1968年)で第17回日本エッセイストクラブ賞を受賞している八代目坂東三津五郎である。

鉄舟についても詳しい。それもそのはずで「慶喜命乞い」の芝居を演じた際に鉄舟を随分研究している。前述の『日本史探訪・第十集』は、当時の鉄舟研究の第一人者である大森曹玄先生との対談で語られたものであるが、鉄舟の子ども時代から江戸無血開城の経緯、明治天皇の侍従時代、さらに剣・禅・書についても詳しくふれている。さすがに人間国宝と認定された人物である。

しかし、八代目が「山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでした」と述べたが、実際には同様のことを発言した人物はいたはず。日本人はそれほど愚かではない。敗戦と言う事実に直面し、混乱している殆どの人たちの中にあって、冷静に明日以降の日本について考察した人物が日本各地でいたと思う。

だが、鉄舟と同様のことを述べたとしても、周囲に与えた影響力という点で、鉄舟とは比較にならない程度にとどまったのであろう。鉄舟ほど一般大衆に対して大きな感化力を持つ傑人が、敗戦直後の日本には存在しなかった。仮にいたとしても人間の器が違っていたと推察する。

180度転換する価値観激変社会状況下にあって、一般大衆に、それぞれが持つ自らの仕事と関係付けて、分かりやすい言葉をもって語りかけ、それが素直に納得され、受け入れられていくように教え諭しができる人物が本物ではないかと思うが、そのような傑物がいなかったという事実を八代目が述べたのだと思う。つまり、鉄舟の偉大さを語るために8月15日と江戸無血開城をつなげて語ったのだ。

なお、八代目三津五郎は美食家としても有名だったが、昭和50年(1975)1月16日 京都南座の初春興行『お吟さま』に出演中、好物のトラフグの肝による中毒で68歳急死した。

この急死は、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず例に挙げられるようになるほどの大事件だった。この事件は、危険を承知の上で毒性の高い肝を実に四人前も平らげた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っているはずの板前の包丁捌きがいけなかったのかで、従前にはなかった大論争を引き起こしたことでも名高い。
法廷では、「もう一皿、もう一皿」とせがむ三津五郎に板前が渋々料理を出したことが争点となった。当時はまだフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったが、結局この事件では「渋った」板前が調理を「しくじった」ことに変わりはないとして、業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出て、世間を騒がせた。

だが、このように日頃からあらゆる美食を楽しんでいたが、庶民の味には疎かったらしく、孫の十代目三津五郎がまだ少年だった頃、一緒にはじめて札幌ラーメンを食べて、「世の中にはこのような美味い物があるのか」と驚いていたという。

平成30年(2018)7月の日本経済新聞『私の履歴書』連載は歌舞伎俳優の中村吉右衛門で、その中で歌舞伎は戦時中も受難したとある。終戦の前年である昭和19年(1944)に、決戦の非常措置で「高級享楽」とされた歌舞伎座など大劇場は閉鎖され、終戦後も進駐軍が、「歌舞伎が日本人の封建的忠誠心を助長する」として、仇討ち物を中心に時代物の多くを上演禁止としている。

この状況下、八代目坂東三津五郎も歌舞伎の先行きに危機感を持ち、こういう時に鉄舟のような存在がいれば・・・・と希ったのであろうが、言葉を代えて述べれば、この現象は「神様・仏様」の到来を祈願したわけで、困ったときの神だよりであろう。

ところで現在は「御朱印ガール」ともいわれる御朱印ブームとなっている。このはじまりは、1990年代から霊的な力が満ちている場所とされる「パワースポット」を訪れるブームが徐々に高まり、今では「パワースポットめぐり」はすっかり一つのアクティビティとして定着した感があるが、そのようなパワースポットの一つである神社や寺院を訪れ、御朱印を集める「御朱印ガール」が急増している。
筆者の知人女性にも「御朱印ガール」がいて、先日、集めている御朱印帳写真を参考までに送ってもらったが、確かにブームと感じる。
 
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 御朱印とは、神社や寺院が実施している参拝者向けの押印である。僧侶や神職が寺院・神社やご本尊の名称・日付などを墨書することが多く、それを収集する女性が増えていて、神社や寺院に行くと「御朱印はこちら」といった看板を立てているところもあり、目にしたことがある人も多いだろう。

先日、明治神宮に参拝したが、やはり御朱印を頂くところに多くの人がいる。本来、御朱印は納経した証しとして頂くものだったといわれているが、現在では無料もしくは300円ほどで書いてもらえる気軽さもあり、「御朱印帳」を持ち歩いて集めている人が増えている。実際、多くの寺社では10年前に比べて御朱印を求める女性が5~10倍に増えているともいわれている。

御朱印は江戸時代に始まり、元は巡礼の際に納経した証しとして授与されていたようで、明治以降、納経なしでも参拝したことでいただけるようになり、参拝記念となって、御朱印が参拝記念として注目され始めたのはここ数年のこと。

巡礼をするのは今まで高齢者が多かったが、パワースポット巡りのブームから若年層や女性にも人気が広がって、女性に受けるようなオシャレで可愛い御朱印帳も登場してきた。現在では御朱印の種類も増え、お花や紅葉の印が押されていたり、カラフルな色紙が登場したりと、御朱印そのものが女性向けになってきたような感もする。

コレクションするという意味では男性ファンも多い御朱印だが、女性の巡り方には特徴があるようだ。ハマりだすとどんどん欲しくなり、居住地の近くだけでなく“御朱印をいただくための旅”がしたくなってくる。

ひとりで黙々と御朱印集めだけに専念しがちなコレクタータイプの男性に対して、同じ趣味の友人と御朱印談義をしながら巡るのが“御朱印ガール”。目的は御朱印だけでなく、その土地の名物を食べたり買い物したり、美しい花や景色を堪能したりして“癒し”を感じること。日付が入った御朱印を旅の記録とする傾向があるのも女子ならではのこと。

女性の参拝者が目立つようになってからは、御朱印帳だけでなく、お守りなどの授与品も華やかになり、寺社が集まるエリアにはおしゃれなカフェも登場。寺社参拝だけでない楽しみがある場所に女性は集まってくる。
新しい旅のスタイルとして定着し始めた御朱印巡り。外国人観光客が納経所に並ぶ姿も見られるようになって、漢字が好きな外国人にとって、墨で書かれたダイナミックな筆遣いの御朱印はお土産にピッタリ。

仏教から始まった御朱印だが、インドや中国にはないという。キリスト教では巡礼した教会でスタンプを押すというところもあるらしいが、墨で書かれるということはもちろんない。台湾に西国三十三カ所巡礼を模した巡礼があるようだが、これは日本人が持ち出したもの。つまり、御朱印は日本独自の文化である。

見た目のアーティスティックさだけでなく、日本の伝統をさらに深く知りたくなって興味を持つ。最近は、修学旅行生や小学生までもが御朱印収集している姿を見かけるようになってきた。女性だけでなく世代を超えて、人種を超えて注目が集まる御朱印の人気はまだまだ続くだろう。
このような御朱印ブーム、それはお寺や神社が存在するからであるが、ここでは神社に絞って考えてみたい。

いったい神社に祀られている神様とはどういう存在なのだろうか。それを定義しておかないと、本稿の「神にならなかった鉄舟」は進まない。
実は、本居宣(もとおりより)長(なが)が神を定義している。『神道の逆襲』(菅野覚明著)を参照してみてみよう。
≪本居宣長(1730~1801)の定義はこうである。「さて凡て迦微(かみ)とは、古(いにしえ)御典(のみふみ)等(ども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐(ます)御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり。)」(『古事記伝』三之巻)
宣長のいうところは、それが人であれ、動植物であれ、自然現象であれ、ともかくもそのものが、私たちにとって「可畏き物」、すなわち身の毛もよだつような異様なものとして出会われれば、それが神だということである。この定義は、今日私たちが、名人・達人・奇人・変人の類を「~の神様」と呼んではばからない、日本語の「カミ」という言葉のニュアンスをよく言い当てている≫

≪人々は確実に神のおとずれを知ることができた。というのは、神さまがやって来る時には、必ず何らの仕方でそのことを示し現すものであるという共通了解が、人々の間にあったからである。神さまが自らを何かの形にあらわすことは、古来「たたり」と呼ばれてきた。今日では、たたりといえば何か悪しき霊のもたらす災いとばかり考えられているが、もともとは、神さまがその威力をあらわすこと一般をさしている。「たたり」という語も、「虹がたつ」などというときの「たつ」、つまり、「あらわれる」という意味の「たつ」と関係があるとも言われている。
そういうわけで、神さまの出現(たたり)には、さまざまな形がありえた。しかし、とくに顕著なのは、やはり何といっても、地震・噴火・豪雨・落雷・疫病といった災害・災厄の類であった。そうした大規模な災いと共にあらわれる神さまの威力は特に絶大なものと感じられたから、その経験は多くの人の記憶に深い印象を残したとみられるのである≫

八代目坂東三津五郎は、敗戦という未曾有の出来事に遭遇し、助けてくれる神様が顕れることを期待し、出て来るならば鉄舟のような人物がほしい、と名指したのであろう。

なお、人を神に祀る習俗には二つあるという。一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」である。

「祟り神」タイプは中世以前の人を神に祀った神社に多く、「顕彰神」タイプは「人神神社」で近世以降につくられており、為政者が創建したものばかりでなく、民衆の側から積極的に建立されている。(参照 『神になった人々』小松和彦著)

だが、鉄舟は江戸無血開城という偉大な業績を遺したのに、どこにも「鉄舟神社」は存在しない。その疑問持ちつつ、神の検討を次号でも続けたい。

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