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2019年9月25日 (水)

2019年9月例会開催結果

2019年9月例会は、「聖徳記念絵画館」の壁画鑑賞、次に本年11月末完成予定の「新国立競技場」外郭を見てから、明治記念館でコーヒータイムをいたしました。

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絵画館で皆さんから出されたいくつかのご質問にお答えすることで、例会報告とさせていただきます。

  • ここは絵画館と称しているが、どうして美術館と言わないのか

調べた範囲では日本の絵画館は現在二つあるようです。一つが「聖徳記念絵画館」、もう一つが長野県東御市にある梅野記念絵画館です。

美術館や博物館は既にコレクションが存在する場合の施設として設立されるが、絵画館は設置を決定したときに、展示公開する絵画をこれから制作しようという手順で出来上がったため、絵画館と称しているようです。

聖徳記念絵画館建物の竣工は大正15年。最終壁画奉納は昭和11年。絵画館本公開は昭和12年です。

  •  館内の壁画は日本画と洋画が左右に配置されているが、日本画も洋画のように感じるわけは

絵画館の内部空間は、中央の大広間から左右両翼に回廊がのび、正面向って右翼側(東側)の第一画室と第二画室に日本画40点、左翼側(西側)の第三画室と第四画室に洋画40点、計80点の壁画が縦3m・横2.7mと統一され整然と並んでいる。大正10(1921)1月に80画題が決定。ここで画家の選定に入り、洋画家の黒田清輝を責任者として、河合玉堂や横山大観などの日本画家の意見も取り入れ、天皇が伝統世界に生きておられた前半生を日本画で、近代化する明治の後半生を洋画ということに決した。

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洋画の人選は順調に進んだが、日本画の方は奉納者から推薦が多く、例えば旧大名からはその藩出身の画家を推薦するなどしたため、芸術性を追求する専門委員と理事会の間で紛糾し、怒った横山大観は委員を辞任、河合玉堂、竹内梄鳳も手を引いてしまった。

その結果、日本美術院系の大半を除いた画家たちによって描かれることになった。つまり、いわゆる矇朧(もうろう)的な画風ではなく、西洋風の写実を日本画に摂り入れ、観念の表現をきらう主張の作者が選定されたので、一見すると日本画と洋画の区別が明確でないと思われるきらいもある。

 

  • 特に洋画の方にパノラマ的の絵が多いのはなぜか?

明治30年代の日本で流行したのがパノラマで、これは特に日清日露戦争などスペクタクルを現前化することにあったためと、壁画作者に「画題考証図」が与えられたが、これを描いた二世五姓田芳柳がパノラマ的大画面の制作に秀でていたことも一因といわれている。

まだいろいろご質問もありましたが、山本紀久雄が「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』壁画の怪 その二」を2019年12月に発表いたしますので、その際にご指摘の程お願いいたします。

ところで、『江戸開城談判』壁画について「この壁画は結城素明が昭和10年(1935)4月の制作49歳時である」と絵画館での説明書きとなっておりました。

これは明らかに間違いで、結城素明は明治8年(1875)12月生まれですから、昭和10年(1935)4月ですと59歳となります。

この件、聖徳記念絵画館の副館長に連絡いたしましたところ、早速に「ご指摘ありがとうございます。訂正いたします」との返事が参りました事、報告いたします。

絵画館の後は、「新国立競技場」の外郭を見てから、明治記念館でコーヒータイムをいたしました。絵画館壁画『枢密院憲法会議』(二世五姓田芳柳画)の場となった「金鵄の間」を予定しましたが、この日は結婚式があり、喫茶室でのコーヒータイムとなり、最後に花婿・花嫁が居並ぶ中庭で、大昔に花婿・花嫁だった参加者で記念写真を撮りました。

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 雨も降らず、暑さもなく、無事、聖徳記念絵画館視察を終えることが出来ました。ご参加の皆さんに感謝申し上げます。

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