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2019年9月

2019年9月25日 (水)

2019年10月例会

2019年10月例会は、17日(木)に開催いたします。例月の第三水曜日の16日は東京文化会館が休館日で、翌日の17日になりますので、よろしくお願い足します。ご発表は斉藤剛氏です。

        発表者   斉藤剛氏

       テーマ   「尊皇思想の系譜」   

       日程    20191017()

       時間    1830分~20

   会費    1500

  会場    東京文化会館・中会議室1

斉藤氏から以下のコメントをいただいております。

「山岡鉄舟は勤王の武士であった。幕末、欧米列強が日本の周辺に現れるようになった時、尊皇の志士たちは危機感を強め、『尊王攘夷』をスローガンとして幕府を倒しました。天皇を敬うという意味では「尊皇」ですが、スローガンは「尊王」です。そこで、このスローガンの元となった尊皇思想がどのような系譜により創られたかを明らかにすることとする」

ご期待いただきたいと思います。

Ⅲ. 2019年11月例会は16日(土)に、以下のように開催いたします。

2019年4月例会で、堀越直子氏が『台東区観光ボランティアガイドが案内する ~上野から谷中~「西郷どんコース」』をテーマに、ご自分が台東区の公認ガイドとしてご活躍の美声と、明確でわかりやすい「堀越節」で語り、例会参加の皆さんを魅了いたしました。

皆さんから堀越さんのガイドで実際に史跡めぐりしたいという希望が多く、11月は史跡現場にて「堀越節」をたっぷりお聞きできる機会をつくりましたので、お楽しみにお待ちください。

日程    20191116()

時間    1330分~20時頃まで(懇親会含む)

集合場所  東京文化会館楽屋口前

 詳しくは来月に再度ご案内いたします。

2019年9月例会開催結果

2019年9月例会は、「聖徳記念絵画館」の壁画鑑賞、次に本年11月末完成予定の「新国立競技場」外郭を見てから、明治記念館でコーヒータイムをいたしました。

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絵画館で皆さんから出されたいくつかのご質問にお答えすることで、例会報告とさせていただきます。

  • ここは絵画館と称しているが、どうして美術館と言わないのか

調べた範囲では日本の絵画館は現在二つあるようです。一つが「聖徳記念絵画館」、もう一つが長野県東御市にある梅野記念絵画館です。

美術館や博物館は既にコレクションが存在する場合の施設として設立されるが、絵画館は設置を決定したときに、展示公開する絵画をこれから制作しようという手順で出来上がったため、絵画館と称しているようです。

聖徳記念絵画館建物の竣工は大正15年。最終壁画奉納は昭和11年。絵画館本公開は昭和12年です。

  •  館内の壁画は日本画と洋画が左右に配置されているが、日本画も洋画のように感じるわけは

絵画館の内部空間は、中央の大広間から左右両翼に回廊がのび、正面向って右翼側(東側)の第一画室と第二画室に日本画40点、左翼側(西側)の第三画室と第四画室に洋画40点、計80点の壁画が縦3m・横2.7mと統一され整然と並んでいる。大正10(1921)1月に80画題が決定。ここで画家の選定に入り、洋画家の黒田清輝を責任者として、河合玉堂や横山大観などの日本画家の意見も取り入れ、天皇が伝統世界に生きておられた前半生を日本画で、近代化する明治の後半生を洋画ということに決した。

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洋画の人選は順調に進んだが、日本画の方は奉納者から推薦が多く、例えば旧大名からはその藩出身の画家を推薦するなどしたため、芸術性を追求する専門委員と理事会の間で紛糾し、怒った横山大観は委員を辞任、河合玉堂、竹内梄鳳も手を引いてしまった。

その結果、日本美術院系の大半を除いた画家たちによって描かれることになった。つまり、いわゆる矇朧(もうろう)的な画風ではなく、西洋風の写実を日本画に摂り入れ、観念の表現をきらう主張の作者が選定されたので、一見すると日本画と洋画の区別が明確でないと思われるきらいもある。

 

  • 特に洋画の方にパノラマ的の絵が多いのはなぜか?

明治30年代の日本で流行したのがパノラマで、これは特に日清日露戦争などスペクタクルを現前化することにあったためと、壁画作者に「画題考証図」が与えられたが、これを描いた二世五姓田芳柳がパノラマ的大画面の制作に秀でていたことも一因といわれている。

まだいろいろご質問もありましたが、山本紀久雄が「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』壁画の怪 その二」を2019年12月に発表いたしますので、その際にご指摘の程お願いいたします。

ところで、『江戸開城談判』壁画について「この壁画は結城素明が昭和10年(1935)4月の制作49歳時である」と絵画館での説明書きとなっておりました。

これは明らかに間違いで、結城素明は明治8年(1875)12月生まれですから、昭和10年(1935)4月ですと59歳となります。

この件、聖徳記念絵画館の副館長に連絡いたしましたところ、早速に「ご指摘ありがとうございます。訂正いたします」との返事が参りました事、報告いたします。

絵画館の後は、「新国立競技場」の外郭を見てから、明治記念館でコーヒータイムをいたしました。絵画館壁画『枢密院憲法会議』(二世五姓田芳柳画)の場となった「金鵄の間」を予定しましたが、この日は結婚式があり、喫茶室でのコーヒータイムとなり、最後に花婿・花嫁が居並ぶ中庭で、大昔に花婿・花嫁だった参加者で記念写真を撮りました。

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 雨も降らず、暑さもなく、無事、聖徳記念絵画館視察を終えることが出来ました。ご参加の皆さんに感謝申し上げます。

神にならなかった鉄舟・・・その一

昭和20年(1945)8月15日の玉音放送、始めて聞いた昭和天皇の肉声によって、その意味する敗戦の事実を知った日本国民は、ショックで一瞬にして虚脱状態に陥り、町中異常な静けさに覆われたことを、当時まだ幼子だった筆者は、心に確り強く記憶している。

これと同様の悲哀を江戸市民も今から150年前に味わった。今まで将軍様より偉い人は知らなかった江戸っ子にとって、京に天子様がいるなぞということは、ずっと長い間意味のない存在だった。

その身近で最も偉い将軍様であった十五代将軍・徳川慶喜が、突然大坂から戻ってきて、江戸城で喧々諤々の大評定をしていると思っていたら、突然、上野の山に隠れてしまって、代わりに京の天子様の命令で、薩長の輩が官軍という名分で江戸城に攻めてくるという。

官軍に攻撃されると江戸市中は火の海になって、壊滅するかもしれない。店や住まいが燃えてしまう。これは大変だ。どうしたらよいのか。町中大騒ぎになって、ただ右往左往、今まで考えたこともなかった事態で、混乱の極に陥ったが、山岡鉄舟が駿府に赴き、西郷隆盛と談判、江戸無血開城が成り立ち、江戸は火の海にならずに済んだ。

その鉄舟登場について、歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎(1906~75)が、『山岡鉄舟・日本史探訪・第十集』(角川書店)で次のように述べている。
≪山岡鉄舟先生は、江戸城総攻めの始末がついてからのち、それでなくとも忙しいからだを、つとめて人に会うようになすった。それも庶民階級、まあ、出入りの植木屋さんから大工さん、畳屋さんから相撲取りから、話し家、役者、あらゆる階級の人たちに会って、鉄舟さんのおっしゃった言葉は「おまえたちが今、右往左往したってどうにもならない。たいへんな時なんだけれども、いちばんかんじんなことは、おまえたちが自分の稼業に励み、役者は舞台を努め、左官屋は壁を塗っていればよいのだ。あわてることはない。自分の稼業に励めばまちがいないんだ」と言うのです。このいちばん何でもないことを言ってくださったのが、山岡鉄舟先生で、これはたいへんなことだと思うんです。
今度の戦争が済んだ終戦後に、われわれ芝居をやっている者は、進駐軍がやってきて、これから歌舞伎がどうなるかわからなかった。そのような時に、私たちに山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでしたね≫

さすがに歌舞伎界の故事、先達の芸風に詳しく、生き字引と言われ、随筆集『戯場戯語』(中央公論新社1968年)で第17回日本エッセイストクラブ賞を受賞している八代目坂東三津五郎である。

鉄舟についても詳しい。それもそのはずで「慶喜命乞い」の芝居を演じた際に鉄舟を随分研究している。前述の『日本史探訪・第十集』は、当時の鉄舟研究の第一人者である大森曹玄先生との対談で語られたものであるが、鉄舟の子ども時代から江戸無血開城の経緯、明治天皇の侍従時代、さらに剣・禅・書についても詳しくふれている。さすがに人間国宝と認定された人物である。

しかし、八代目が「山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでした」と述べたが、実際には同様のことを発言した人物はいたはず。日本人はそれほど愚かではない。敗戦と言う事実に直面し、混乱している殆どの人たちの中にあって、冷静に明日以降の日本について考察した人物が日本各地でいたと思う。

だが、鉄舟と同様のことを述べたとしても、周囲に与えた影響力という点で、鉄舟とは比較にならない程度にとどまったのであろう。鉄舟ほど一般大衆に対して大きな感化力を持つ傑人が、敗戦直後の日本には存在しなかった。仮にいたとしても人間の器が違っていたと推察する。

180度転換する価値観激変社会状況下にあって、一般大衆に、それぞれが持つ自らの仕事と関係付けて、分かりやすい言葉をもって語りかけ、それが素直に納得され、受け入れられていくように教え諭しができる人物が本物ではないかと思うが、そのような傑物がいなかったという事実を八代目が述べたのだと思う。つまり、鉄舟の偉大さを語るために8月15日と江戸無血開城をつなげて語ったのだ。

なお、八代目三津五郎は美食家としても有名だったが、昭和50年(1975)1月16日 京都南座の初春興行『お吟さま』に出演中、好物のトラフグの肝による中毒で68歳急死した。

この急死は、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず例に挙げられるようになるほどの大事件だった。この事件は、危険を承知の上で毒性の高い肝を実に四人前も平らげた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っているはずの板前の包丁捌きがいけなかったのかで、従前にはなかった大論争を引き起こしたことでも名高い。
法廷では、「もう一皿、もう一皿」とせがむ三津五郎に板前が渋々料理を出したことが争点となった。当時はまだフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったが、結局この事件では「渋った」板前が調理を「しくじった」ことに変わりはないとして、業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付の禁固刑という有罪判決が出て、世間を騒がせた。

だが、このように日頃からあらゆる美食を楽しんでいたが、庶民の味には疎かったらしく、孫の十代目三津五郎がまだ少年だった頃、一緒にはじめて札幌ラーメンを食べて、「世の中にはこのような美味い物があるのか」と驚いていたという。

平成30年(2018)7月の日本経済新聞『私の履歴書』連載は歌舞伎俳優の中村吉右衛門で、その中で歌舞伎は戦時中も受難したとある。終戦の前年である昭和19年(1944)に、決戦の非常措置で「高級享楽」とされた歌舞伎座など大劇場は閉鎖され、終戦後も進駐軍が、「歌舞伎が日本人の封建的忠誠心を助長する」として、仇討ち物を中心に時代物の多くを上演禁止としている。

この状況下、八代目坂東三津五郎も歌舞伎の先行きに危機感を持ち、こういう時に鉄舟のような存在がいれば・・・・と希ったのであろうが、言葉を代えて述べれば、この現象は「神様・仏様」の到来を祈願したわけで、困ったときの神だよりであろう。

ところで現在は「御朱印ガール」ともいわれる御朱印ブームとなっている。このはじまりは、1990年代から霊的な力が満ちている場所とされる「パワースポット」を訪れるブームが徐々に高まり、今では「パワースポットめぐり」はすっかり一つのアクティビティとして定着した感があるが、そのようなパワースポットの一つである神社や寺院を訪れ、御朱印を集める「御朱印ガール」が急増している。
筆者の知人女性にも「御朱印ガール」がいて、先日、集めている御朱印帳写真を参考までに送ってもらったが、確かにブームと感じる。
 
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 御朱印とは、神社や寺院が実施している参拝者向けの押印である。僧侶や神職が寺院・神社やご本尊の名称・日付などを墨書することが多く、それを収集する女性が増えていて、神社や寺院に行くと「御朱印はこちら」といった看板を立てているところもあり、目にしたことがある人も多いだろう。

先日、明治神宮に参拝したが、やはり御朱印を頂くところに多くの人がいる。本来、御朱印は納経した証しとして頂くものだったといわれているが、現在では無料もしくは300円ほどで書いてもらえる気軽さもあり、「御朱印帳」を持ち歩いて集めている人が増えている。実際、多くの寺社では10年前に比べて御朱印を求める女性が5~10倍に増えているともいわれている。

御朱印は江戸時代に始まり、元は巡礼の際に納経した証しとして授与されていたようで、明治以降、納経なしでも参拝したことでいただけるようになり、参拝記念となって、御朱印が参拝記念として注目され始めたのはここ数年のこと。

巡礼をするのは今まで高齢者が多かったが、パワースポット巡りのブームから若年層や女性にも人気が広がって、女性に受けるようなオシャレで可愛い御朱印帳も登場してきた。現在では御朱印の種類も増え、お花や紅葉の印が押されていたり、カラフルな色紙が登場したりと、御朱印そのものが女性向けになってきたような感もする。

コレクションするという意味では男性ファンも多い御朱印だが、女性の巡り方には特徴があるようだ。ハマりだすとどんどん欲しくなり、居住地の近くだけでなく“御朱印をいただくための旅”がしたくなってくる。

ひとりで黙々と御朱印集めだけに専念しがちなコレクタータイプの男性に対して、同じ趣味の友人と御朱印談義をしながら巡るのが“御朱印ガール”。目的は御朱印だけでなく、その土地の名物を食べたり買い物したり、美しい花や景色を堪能したりして“癒し”を感じること。日付が入った御朱印を旅の記録とする傾向があるのも女子ならではのこと。

女性の参拝者が目立つようになってからは、御朱印帳だけでなく、お守りなどの授与品も華やかになり、寺社が集まるエリアにはおしゃれなカフェも登場。寺社参拝だけでない楽しみがある場所に女性は集まってくる。
新しい旅のスタイルとして定着し始めた御朱印巡り。外国人観光客が納経所に並ぶ姿も見られるようになって、漢字が好きな外国人にとって、墨で書かれたダイナミックな筆遣いの御朱印はお土産にピッタリ。

仏教から始まった御朱印だが、インドや中国にはないという。キリスト教では巡礼した教会でスタンプを押すというところもあるらしいが、墨で書かれるということはもちろんない。台湾に西国三十三カ所巡礼を模した巡礼があるようだが、これは日本人が持ち出したもの。つまり、御朱印は日本独自の文化である。

見た目のアーティスティックさだけでなく、日本の伝統をさらに深く知りたくなって興味を持つ。最近は、修学旅行生や小学生までもが御朱印収集している姿を見かけるようになってきた。女性だけでなく世代を超えて、人種を超えて注目が集まる御朱印の人気はまだまだ続くだろう。
このような御朱印ブーム、それはお寺や神社が存在するからであるが、ここでは神社に絞って考えてみたい。

いったい神社に祀られている神様とはどういう存在なのだろうか。それを定義しておかないと、本稿の「神にならなかった鉄舟」は進まない。
実は、本居宣(もとおりより)長(なが)が神を定義している。『神道の逆襲』(菅野覚明著)を参照してみてみよう。
≪本居宣長(1730~1801)の定義はこうである。「さて凡て迦微(かみ)とは、古(いにしえ)御典(のみふみ)等(ども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐(ます)御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり。)」(『古事記伝』三之巻)
宣長のいうところは、それが人であれ、動植物であれ、自然現象であれ、ともかくもそのものが、私たちにとって「可畏き物」、すなわち身の毛もよだつような異様なものとして出会われれば、それが神だということである。この定義は、今日私たちが、名人・達人・奇人・変人の類を「~の神様」と呼んではばからない、日本語の「カミ」という言葉のニュアンスをよく言い当てている≫

≪人々は確実に神のおとずれを知ることができた。というのは、神さまがやって来る時には、必ず何らの仕方でそのことを示し現すものであるという共通了解が、人々の間にあったからである。神さまが自らを何かの形にあらわすことは、古来「たたり」と呼ばれてきた。今日では、たたりといえば何か悪しき霊のもたらす災いとばかり考えられているが、もともとは、神さまがその威力をあらわすこと一般をさしている。「たたり」という語も、「虹がたつ」などというときの「たつ」、つまり、「あらわれる」という意味の「たつ」と関係があるとも言われている。
そういうわけで、神さまの出現(たたり)には、さまざまな形がありえた。しかし、とくに顕著なのは、やはり何といっても、地震・噴火・豪雨・落雷・疫病といった災害・災厄の類であった。そうした大規模な災いと共にあらわれる神さまの威力は特に絶大なものと感じられたから、その経験は多くの人の記憶に深い印象を残したとみられるのである≫

八代目坂東三津五郎は、敗戦という未曾有の出来事に遭遇し、助けてくれる神様が顕れることを期待し、出て来るならば鉄舟のような人物がほしい、と名指したのであろう。

なお、人を神に祀る習俗には二つあるという。一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」である。

「祟り神」タイプは中世以前の人を神に祀った神社に多く、「顕彰神」タイプは「人神神社」で近世以降につくられており、為政者が創建したものばかりでなく、民衆の側から積極的に建立されている。(参照 『神になった人々』小松和彦著)

だが、鉄舟は江戸無血開城という偉大な業績を遺したのに、どこにも「鉄舟神社」は存在しない。その疑問持ちつつ、神の検討を次号でも続けたい。

鉄舟から影響受けた円朝・・・その二十二

実は、鉄舟が禅修行に本気に取り組みだしたのは、清川八郎との因縁からといえる。

鉄舟と同じく虎尾の会の発起人である清川が暗殺されたのは文久3年(1863)4月13日、その日、麻布の出羽3万石上山藩上屋敷を退去し、屋敷前の一の橋を渡り、大和郡山藩15万石下屋敷の前に差し掛かったところで刺客に襲われ命を落とした。享年わずか34。

その翌日、幕府は関係者処分の一環として、高橋泥舟と鉄舟を御役御免の上蟄居とした。高橋泥舟に謹慎宥免の沙汰が下りたのは、文久3年12月10日で「二の丸留守居役席、槍術師範を命ず」と元の職務に復帰し、続いて12月25日鉄舟にも謹慎宥免の沙汰が下った。

この謹慎の日々は、剣を振うこともできず、一室に座り、座る目の前には書見台があるのみ。そういう環境に陥って、書見台を稽古相手として集中し没頭していくと、自然に今までの人生を問い質すことにつながり、己の奥底には何が存在しているのだろうかという問いになり、結果として「やはり自分が向かう道は剣だ」と改めて確認できたのである。

ところで鉄舟は、清川をどのように思っていたか。石井宗吉氏(元明治大学教授)が『明治宮廷秘話』(弁論53 昭和27年)で、鉄舟の娘から聞いた話として次のように書いている。
≪山岡鉄舟は、いま上野谷中の禅寺全生庵に眠っている。彼が世に在りし日の愛娘、一老女がつい先年まで、この寺の境内に庵室を構えて父の墓守をしていた。わたしは、いくたびかそこを訪ねては、よく昔話をきいたものである。老婦人は、すでに八十に近い齢であったが、しっかりした口の達者な人で、わたしと感興にのっては、語り合い、秋の日の傾くのをわすれることもあった。
鉄舟の恩顧をうけたもの、また親しく交わったものは、数多いが、その中で、父の話としてごく印象にのこっているのは、清水次郎長と清川八郎のことであるといって、老女はよくこの二人の話をしたものである≫

この老女が、鉄舟の長女・松子さんか、三女の島子さんであるかは不明だが、全生庵の庵にお二人が住んでいたことは事実である。
石井氏が、清川が無礼な振舞いをする町人を斬ったときの腕のすごさについて、
≪伊藤痴遊 (注 明治、大正、昭和初期に活躍した講釈師)はこういっています・・・無礼もの! という声と共に其奴の首は鞠を投げたように傍らの瀬戸物屋にとび込み、ガチャンと音がして、棚にある皿の上にのった。これ全くの腕の冴えである。・・・」
と話すと、老女は声をあげて笑った。「それは痴遊さんの作り話ですよ」といって、実際はこうであったと話し出す。それがまた振るっている。
「清川が、エッと叫んで斬り下げる。町人風の男は真二つになって、その片身がかたわらの建具屋の店先に入った・・・」
これも、大分勢いがつきすぎている≫

この話、鉄舟は清川と関係が深かったことを裏づけるものであろうが、清川が暗殺されたことから謹慎宥免となり、一室に籠って思考し続けた結果「己は剣の道だ」と改めて気づき、高山以来の師である井上清虎の導きにより、小野派一刀流の浅利又七郎と出会えたのである。

鉄舟と立ち合った当時、浅利は四十二歳の男盛りであった。
鉄舟と浅利の立ち合い、浅利が下段につけて構え、鉄舟は正眼に構え、得意の突きで打ち込もうとした、その瞬間、浅利の竹刀の先がさっと上り、鉄舟の喉元に向けられ、その形のままに、浅利は、
「突き・・・」
と言った。
実際に突きを受けたわけでない。だが、鉄舟は一歩も前に出られなくなっていた。喉元に竹刀が食らいついていて、切っ先を外そうと右に回ると、右についてくる。左に避ければ左についてくる。後ろに退くと、またもぴったりついてくる。
いつの間にか、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない。
「参った」
鉄舟が叫んだ。

面当てを取ると、実際には竹刀が全く当たっていないのに、喉首が激しい突きを喰ったかのように痛む。
これは、到底、自分なぞが敵う相手でない。20歳で山岡静山に完膚なき敗北を期して以来の完敗である。上には上があるものだ。鉄舟は完全に頭を下げ、
「弟子にしていただきたく、入門をお許し願います」
と、浅利道場に通うことになったが、その後もどうしても勝てない。浅利が大きな壁として聳え立ち、それを克服するためには何をしたらよいのか。

人は悩んだ時、相談する相手は、やはり信頼する人物になる。今まで鉄舟が最も敬愛した師は山岡静山、その弟で義兄となる高橋泥舟は隣家に住んでいて、静山亡き後の最も近しく親しい仲であり、何事も話せる。ある日、苦しい胸中を、正直に伝えてみた。
「義兄上、どうした訳でしょう」
「うーむ。鉄さんがそれほどになるのだから、浅利又七郎は本物だ」
「自分の何かが、欠けているのだと思っているのですが」
「剣の技を磨くだけでは無理かもしれない」
「剣の稽古だけではダメということですか」
「そう思う。心の修行で立ち合うしかないだろう」
「そうですか。そうか・・・。やはり修禅によって立ち向かうしかないのか」

鉄舟は頷き、なるほどと思い、今までの禅修行を思い起こし、剣に比べ、追究が甘く未だしだったこと、それが、浅利を打ち崩せない理由だとすぐに飲み込む。

こういうところが鉄舟という人物の素晴らしさである。気づきが素直で、問題解決に向かって決して逃げず、前向きに対応する。

以後、鉄舟の禅修行は明治13年(1880)まで続き、大悟へのきっかけをつかんだのは、平沼銀行を設立した豪商の平沼専蔵のビジネス体験話からであり、それを一言でまとめれば、「損得にこだわったら、物事は返ってうまくいかないという、心の機微を実践の中から学び、この実践を通して事業を成功させた」というものであった。

これに鉄舟は深く頷き、「専蔵、お主は禅の極意を話している」というと同時に「解けた」と叫んだのである。
平沼専蔵からヒントを受け、それから5日間、昼は道場で、夜は自室で座禅三昧に明け暮れた。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。
肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった3月29日の夜、ふっと三昧からわれに帰ると、ホンの一瞬かと思ったのに、すでに夜は明けなんとする頃になっている。気持はいつになく爽やかで、清々しく、すっきりしている。

鉄舟は座ったままで、剣を構えてみた。すると、昨日まで際(きわ)やかに山のような重さで、のしかかってきた浅利又七郎の幻影が現れてこない。
「うむ、これはつかみ得たか」と頷きつつ、道場に向かい、木刀を握った。
すると、立つは己の一身、一剣のみ、浅利の姿は全く消えている。四肢は自由に伸び、気は四方に拡がって、開豁(かいかつ)無限である。
ついに浅利の幻影を追い払い、「無敵の極意」を得ることができたのだ。

この瞬間を鉄舟は次のように表現している。
「専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。時既に夜を徹して三十日払暁(ふつぎょう)とはなれり。此時、余猶坐上にありて、浅利に対し剣を振りて試合をなすの形をなせり。然るに従前と異なり、剣前更に浅利の幻身を見ず。是(ここ)に於いてか、窃(ひそか)かに喜ぶ、我れ無敵の極処を得たりと」

鉄舟が自らの剣において、極意をつかみ得た瞬間を書き述べた「剣法と禅理」の感動場面であり、この大悟によって明治13年(1880)に無刀流を開いたのである。

無刀流と称する意味を『剣術の流名を無刀流と称する訳書』(『山岡鐵舟』全生庵編)は、
「心が自由自在かつ無尽蔵」で動くことだと述べている。この無刀流極意から論じれば、尊王攘夷派であったとしても、その時代の変化、時流に基づいて行動することは可能になる。

さらに、『山岡鉄舟の武士道』(勝部真長編)で、次のようにも語っている。
≪世人はあるいは勤皇主義とか、開国主義とか、攘夷主義とか、討幕主義とか種々名づけているが、拙者は総合一括してみな勤皇というのだ。元来、わが国の人士は勤皇が本(もと)である。だからその枝葉も勤皇に違いない≫

このところを正確につかむ必要があるだろう。鉄舟は上位概念を常に考えに入れて行動しているのである。つまり、物事を解決するためには、目先の出来事や考え方を整理することが一般的だが、その前に、眼前で行動し、主張していることが「何のためにしているのか」を検討する。一度、立ち止まって、その本質を問うことをすべきと述べているのである。また、これをできる人物が時代を見通せるのだとも語っている。

鉄舟が謹慎蟄居を解かれたのが文久3年の年末、それから慶応4年(1868)3月の駿府行きまでの約4年間、鉄舟は浅利に勝つため、日夜、厳しい禅修行を続けていたが、その過程で上記の「本質を問う思考と行動」を身につけた。つまり、慶喜の命で駿府談判に赴いた駿府で西郷隆盛を納得させるだけの力量が身に備わっていた。

言いかえれば、幕末時における鉄舟の人間力が、官軍の実質的リーダーとして最強の権限者であった西郷をも、説得できるほどになっていたという意味を持つ。

その修行過程の明治10年(1877)、円朝は鉄舟に弟子入りしたのである。
明治維新当時、円朝は江戸っ子であることにこだわっていたし、同じ落語家にも政治犯として獄中死した四代目三笑亭可楽のような人物もいた。
可楽は本名を榊原謙三郎といい旗本だったが、放蕩の末、噺家となり二代三笑亭可楽の養子となって三代翁家さん馬を名のり、のちに三代朝寝坊むらくを継いだ。
豪商などの贔屓にもなったが、丸屋宇兵衛という商家の婿になり、それも間もなく離縁となって四代目三笑亭可楽を名のった。
離縁に際し、元幕臣としての血が官軍の江戸入りを見るにしのびず、抗戦の陰謀を企て、寄席の高座に爆薬を仕掛けようとした。
この計画が事前に発覚したため地方に逃れ、滝川鯉かんの名で興行しつつ日を送っていたが、再び、東京に立ち戻り浅草弁天山の火事を見物していたところを逮捕され吟味中、明治2年(1869)9月、獄中で死亡した。

可楽は獄中から円朝に一書を送り、愛弟子の夢助の将来を円朝に託した。円朝はこの要望を聞き届け、夢助を弟子に加えた。これが後に座り踊りの名手となった円三郎である。

このように新政府に歯向かう落語家もいたが、時代の感覚を鋭くとらえて、新時代の客層を取り込むことに成功する噺家もいた。その代表が、円遊の「ステテコ」、万橘の「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした派手な芸で、新しい自由な刺激の強い娯楽を求める層と合致し人気を博していた。

しかし、当然に江戸期の感覚で演ずる噺家もいるし、文明開化の姿に接していながらも、旧態を脱することのできない人々も多く、これらは新しい社会生活になじまずに悶々と過ごすことになる。

円遊、万橘の珍芸に拍手を送り、単なる娯楽として満足を示す観客層は、新しい東京人であった。

一方、伝統的な人情噺の陰影に江戸期の風俗や生活の残りを求めていたのは、旧江戸人を中心にした観客層であって、ここに焦点を当てた芸を売り物にしていたのが三代目円生であった。特に「累(かさね)の怪談」、これは元禄3年(1690)刊の『死霊解脱物語聞書』と題する勧化本(かんげぼん)、読者を仏教の教えに導くために書かれた、累の怪談噺はこれから始まったといわれ、その後、累の亡霊を登場させる類似作が歌舞伎や浄瑠璃で上演され、円朝の『真景累ヶ淵』にも引き継がれているが、それらはすべて目には見えない、先の世からの因果の図式にもとづくもので、めぐる因果の恐ろしさを感じさせるものである。

この円生、三遊派最高の名跡を受け取っていたが、次第に江戸期感覚のままで幽霊・祟りも芸を続けることと、新時代になっても自らを変えられない芸との間で悩みはじめ、とうとう神経病に追い込まれていき、明治14年(1881)8月46歳の若さで死去し、それが「9月9日付朝野新聞」で次のように報道された。
≪売り出しの落語家円生は此の程病没したるが、此の円生は義母マツの存命中、兎角不幸の仕業あり、又、其妻も似たもの夫婦の諺の如く、義母に邪見なりしゆえ、マツは、私が死ねば二人に取付くなどと云ひたることもありたる由。然るに先頃、マツが死去せし後、或る日円生夫婦の居る処へ一羽の蝶が舞込み、円生に取り付くを追い払えば、また円生に取り付き、妻が追い払えばまた円生に取り付き、離れざるより、例の疑心暗鬼にて、扨ては養母の怨念ならんと、夫より円生は神経症を発し、終に黄泉の客となり、其の後、妻も同病にて今に枕も上らぬとのこと≫

この記事は、一片の現象を書き述べたものであろうが、一方で開化の世を謳歌し、陋習、迷信を破って新時代に力強く生きていこうとする人たちが増加する反面、依然として仏教的な因果観に固執して、自己の人生を考える人も少なくなく、それが円生でもあったが、己の殻を己が破るという自己革新できない層も大勢いたのである。

円生が亡くなったのを円朝は上州で知ったという。これも幕藩体制の崩壊で旅行が解禁され、それまで自由に行けなかった地方の状況を知りたい、という人々への欲求に応えるよう円朝が取材という行動をしていたことを示している。

円朝の特性は鋭い観察力であり、時代を取り込む感性である。創作した作品を分類してみると、それがよくわかる。
「怪談噺」「伝記物」「翻案物」「芝居噺」「人情噺」「北海道取材作」「落語」と大きく7項に分類でき、単なる落語家としての域を超えているが、この中から代表的な三つを選んで説明したい。

一つは「怪談噺」である。安政6年(1859)から創作し始めたのが『真景累ヶ淵』をはじめ、江戸期の人々に深く入り込んでいる因果関係を、明治に入ってからも『怪談乳房榎』などを人間絵図として創り、それを天才的ともいうべき舌三寸から語り続けた。

二つめは「伝記物」である。維新の大改革で江戸っ子は日常生活習慣を変えさせられ、地方からの移住による人口増加もあり、江戸は「雑多な東京」となり、その中で多くは、新しい時代の生き方をどう組み立てればよいのか戸惑っていた。
特に地方出身者は、慣れない環境で、いかに生活を成り立たせ、豊かになれるのか。その方策や指針を求めていた。
そのような情勢下、円朝は、維新政府の改革変化にクレームをつけるのではなく、それらを包み込む「新しい時代の生き方」として「塩原多助一代記」と「塩原多助後日譚」に代表される立身出世物語を示したのである。それは当時の人々に広く受け入れられただけでなく、政府からも支持され、ついに明治25年(1892)には修身教科書に取り上げられた。

三つめは「翻案物」である。明治16年(1883)に鹿鳴館が開館されたことで示された時の欧化政策、その影響から外国に関心を持つ新しい読者層が増える動き、これを素早く取り入れ出版したのが明治18年(1885)の『英国孝子ジョージ・スミス伝』である。その冒頭部分を紹介する。
≪御免を蒙りまして申上げますお話しは、西洋人情譚(ばなし)と表題をいたしまして、英国の孝子『ジョージ・スミス伝』の伝、之を引続いて申上げます。彼(あち)国(ら)のお話しではどうもちと私の方にもできかねます。又お客様におわかりにくいことがありますから、地名人名を日本にしてお話しをいたします。
英国のリバプールと申しますところで、英国の竜動(ロンドン)より三時間で往復のできるところ、日本でいえば横浜のような繁盛な港で、東京(とうけい)で申せば霊岸嶋鉄砲洲などの模様だと申すことで、その世界にいたしてお話しを申上げます。スマイル・スミスと申しまする人は、あちらでは蒸気船の船長でございます。
これを上州前橋立(たつ)町(まち)の御用達で清水助右衛門と直してお話しをいたします。その子ジョージ・スミスを清水重二郎という名前にいたしまして・・・≫
≪これはある洋学先生が私に口うつしに教えて下ったお話しを日本の名前にしてお和かなお話しにいたしました≫

臨機応変といおうか、縦横無尽といおうか、正に、鉄舟の『剣術の流名を無刀流と称する訳書』に書かれた世界、
≪過去・現在・未来の三世から一切の万物に至るまで、何一つとして、心でないものはない。心というものは痕跡を残さないものであり、自由自在かつ無尽蔵である。東に現れ出るかと思えば西に消え、南に現れれば北に消える。まさに神変自在、天も予測することはできない≫

この境地に、鉄舟から受けた禅修行によって、円朝も到達したのであろう。
結果として、時代の機微をとらえ、機敏さと柔軟性を発揮し、三遊派一門の復興と、芸人の社会的地位の向上を実現したのである。

これで「鉄舟から影響受けた円朝」編を終え、次号からは「神にならなかった鉄舟」を論じて参ります。

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