実は、鉄舟が禅修行に本気に取り組みだしたのは、清川八郎との因縁からといえる。
鉄舟と同じく虎尾の会の発起人である清川が暗殺されたのは文久3年(1863)4月13日、その日、麻布の出羽3万石上山藩上屋敷を退去し、屋敷前の一の橋を渡り、大和郡山藩15万石下屋敷の前に差し掛かったところで刺客に襲われ命を落とした。享年わずか34。
その翌日、幕府は関係者処分の一環として、高橋泥舟と鉄舟を御役御免の上蟄居とした。高橋泥舟に謹慎宥免の沙汰が下りたのは、文久3年12月10日で「二の丸留守居役席、槍術師範を命ず」と元の職務に復帰し、続いて12月25日鉄舟にも謹慎宥免の沙汰が下った。
この謹慎の日々は、剣を振うこともできず、一室に座り、座る目の前には書見台があるのみ。そういう環境に陥って、書見台を稽古相手として集中し没頭していくと、自然に今までの人生を問い質すことにつながり、己の奥底には何が存在しているのだろうかという問いになり、結果として「やはり自分が向かう道は剣だ」と改めて確認できたのである。
ところで鉄舟は、清川をどのように思っていたか。石井宗吉氏(元明治大学教授)が『明治宮廷秘話』(弁論53 昭和27年)で、鉄舟の娘から聞いた話として次のように書いている。
≪山岡鉄舟は、いま上野谷中の禅寺全生庵に眠っている。彼が世に在りし日の愛娘、一老女がつい先年まで、この寺の境内に庵室を構えて父の墓守をしていた。わたしは、いくたびかそこを訪ねては、よく昔話をきいたものである。老婦人は、すでに八十に近い齢であったが、しっかりした口の達者な人で、わたしと感興にのっては、語り合い、秋の日の傾くのをわすれることもあった。
鉄舟の恩顧をうけたもの、また親しく交わったものは、数多いが、その中で、父の話としてごく印象にのこっているのは、清水次郎長と清川八郎のことであるといって、老女はよくこの二人の話をしたものである≫
この老女が、鉄舟の長女・松子さんか、三女の島子さんであるかは不明だが、全生庵の庵にお二人が住んでいたことは事実である。
石井氏が、清川が無礼な振舞いをする町人を斬ったときの腕のすごさについて、
≪伊藤痴遊 (注 明治、大正、昭和初期に活躍した講釈師)はこういっています・・・無礼もの! という声と共に其奴の首は鞠を投げたように傍らの瀬戸物屋にとび込み、ガチャンと音がして、棚にある皿の上にのった。これ全くの腕の冴えである。・・・」
と話すと、老女は声をあげて笑った。「それは痴遊さんの作り話ですよ」といって、実際はこうであったと話し出す。それがまた振るっている。
「清川が、エッと叫んで斬り下げる。町人風の男は真二つになって、その片身がかたわらの建具屋の店先に入った・・・」
これも、大分勢いがつきすぎている≫
この話、鉄舟は清川と関係が深かったことを裏づけるものであろうが、清川が暗殺されたことから謹慎宥免となり、一室に籠って思考し続けた結果「己は剣の道だ」と改めて気づき、高山以来の師である井上清虎の導きにより、小野派一刀流の浅利又七郎と出会えたのである。
鉄舟と立ち合った当時、浅利は四十二歳の男盛りであった。
鉄舟と浅利の立ち合い、浅利が下段につけて構え、鉄舟は正眼に構え、得意の突きで打ち込もうとした、その瞬間、浅利の竹刀の先がさっと上り、鉄舟の喉元に向けられ、その形のままに、浅利は、
「突き・・・」
と言った。
実際に突きを受けたわけでない。だが、鉄舟は一歩も前に出られなくなっていた。喉元に竹刀が食らいついていて、切っ先を外そうと右に回ると、右についてくる。左に避ければ左についてくる。後ろに退くと、またもぴったりついてくる。
いつの間にか、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない。
「参った」
鉄舟が叫んだ。
面当てを取ると、実際には竹刀が全く当たっていないのに、喉首が激しい突きを喰ったかのように痛む。
これは、到底、自分なぞが敵う相手でない。20歳で山岡静山に完膚なき敗北を期して以来の完敗である。上には上があるものだ。鉄舟は完全に頭を下げ、
「弟子にしていただきたく、入門をお許し願います」
と、浅利道場に通うことになったが、その後もどうしても勝てない。浅利が大きな壁として聳え立ち、それを克服するためには何をしたらよいのか。
人は悩んだ時、相談する相手は、やはり信頼する人物になる。今まで鉄舟が最も敬愛した師は山岡静山、その弟で義兄となる高橋泥舟は隣家に住んでいて、静山亡き後の最も近しく親しい仲であり、何事も話せる。ある日、苦しい胸中を、正直に伝えてみた。
「義兄上、どうした訳でしょう」
「うーむ。鉄さんがそれほどになるのだから、浅利又七郎は本物だ」
「自分の何かが、欠けているのだと思っているのですが」
「剣の技を磨くだけでは無理かもしれない」
「剣の稽古だけではダメということですか」
「そう思う。心の修行で立ち合うしかないだろう」
「そうですか。そうか・・・。やはり修禅によって立ち向かうしかないのか」
鉄舟は頷き、なるほどと思い、今までの禅修行を思い起こし、剣に比べ、追究が甘く未だしだったこと、それが、浅利を打ち崩せない理由だとすぐに飲み込む。
こういうところが鉄舟という人物の素晴らしさである。気づきが素直で、問題解決に向かって決して逃げず、前向きに対応する。
以後、鉄舟の禅修行は明治13年(1880)まで続き、大悟へのきっかけをつかんだのは、平沼銀行を設立した豪商の平沼専蔵のビジネス体験話からであり、それを一言でまとめれば、「損得にこだわったら、物事は返ってうまくいかないという、心の機微を実践の中から学び、この実践を通して事業を成功させた」というものであった。
これに鉄舟は深く頷き、「専蔵、お主は禅の極意を話している」というと同時に「解けた」と叫んだのである。
平沼専蔵からヒントを受け、それから5日間、昼は道場で、夜は自室で座禅三昧に明け暮れた。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。
肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった3月29日の夜、ふっと三昧からわれに帰ると、ホンの一瞬かと思ったのに、すでに夜は明けなんとする頃になっている。気持はいつになく爽やかで、清々しく、すっきりしている。
鉄舟は座ったままで、剣を構えてみた。すると、昨日まで際(きわ)やかに山のような重さで、のしかかってきた浅利又七郎の幻影が現れてこない。
「うむ、これはつかみ得たか」と頷きつつ、道場に向かい、木刀を握った。
すると、立つは己の一身、一剣のみ、浅利の姿は全く消えている。四肢は自由に伸び、気は四方に拡がって、開豁(かいかつ)無限である。
ついに浅利の幻影を追い払い、「無敵の極意」を得ることができたのだ。
この瞬間を鉄舟は次のように表現している。
「専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。時既に夜を徹して三十日払暁(ふつぎょう)とはなれり。此時、余猶坐上にありて、浅利に対し剣を振りて試合をなすの形をなせり。然るに従前と異なり、剣前更に浅利の幻身を見ず。是(ここ)に於いてか、窃(ひそか)かに喜ぶ、我れ無敵の極処を得たりと」
鉄舟が自らの剣において、極意をつかみ得た瞬間を書き述べた「剣法と禅理」の感動場面であり、この大悟によって明治13年(1880)に無刀流を開いたのである。
無刀流と称する意味を『剣術の流名を無刀流と称する訳書』(『山岡鐵舟』全生庵編)は、
「心が自由自在かつ無尽蔵」で動くことだと述べている。この無刀流極意から論じれば、尊王攘夷派であったとしても、その時代の変化、時流に基づいて行動することは可能になる。
さらに、『山岡鉄舟の武士道』(勝部真長編)で、次のようにも語っている。
≪世人はあるいは勤皇主義とか、開国主義とか、攘夷主義とか、討幕主義とか種々名づけているが、拙者は総合一括してみな勤皇というのだ。元来、わが国の人士は勤皇が本(もと)である。だからその枝葉も勤皇に違いない≫
このところを正確につかむ必要があるだろう。鉄舟は上位概念を常に考えに入れて行動しているのである。つまり、物事を解決するためには、目先の出来事や考え方を整理することが一般的だが、その前に、眼前で行動し、主張していることが「何のためにしているのか」を検討する。一度、立ち止まって、その本質を問うことをすべきと述べているのである。また、これをできる人物が時代を見通せるのだとも語っている。
鉄舟が謹慎蟄居を解かれたのが文久3年の年末、それから慶応4年(1868)3月の駿府行きまでの約4年間、鉄舟は浅利に勝つため、日夜、厳しい禅修行を続けていたが、その過程で上記の「本質を問う思考と行動」を身につけた。つまり、慶喜の命で駿府談判に赴いた駿府で西郷隆盛を納得させるだけの力量が身に備わっていた。
言いかえれば、幕末時における鉄舟の人間力が、官軍の実質的リーダーとして最強の権限者であった西郷をも、説得できるほどになっていたという意味を持つ。
その修行過程の明治10年(1877)、円朝は鉄舟に弟子入りしたのである。
明治維新当時、円朝は江戸っ子であることにこだわっていたし、同じ落語家にも政治犯として獄中死した四代目三笑亭可楽のような人物もいた。
可楽は本名を榊原謙三郎といい旗本だったが、放蕩の末、噺家となり二代三笑亭可楽の養子となって三代翁家さん馬を名のり、のちに三代朝寝坊むらくを継いだ。
豪商などの贔屓にもなったが、丸屋宇兵衛という商家の婿になり、それも間もなく離縁となって四代目三笑亭可楽を名のった。
離縁に際し、元幕臣としての血が官軍の江戸入りを見るにしのびず、抗戦の陰謀を企て、寄席の高座に爆薬を仕掛けようとした。
この計画が事前に発覚したため地方に逃れ、滝川鯉かんの名で興行しつつ日を送っていたが、再び、東京に立ち戻り浅草弁天山の火事を見物していたところを逮捕され吟味中、明治2年(1869)9月、獄中で死亡した。
可楽は獄中から円朝に一書を送り、愛弟子の夢助の将来を円朝に託した。円朝はこの要望を聞き届け、夢助を弟子に加えた。これが後に座り踊りの名手となった円三郎である。
このように新政府に歯向かう落語家もいたが、時代の感覚を鋭くとらえて、新時代の客層を取り込むことに成功する噺家もいた。その代表が、円遊の「ステテコ」、万橘の「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした派手な芸で、新しい自由な刺激の強い娯楽を求める層と合致し人気を博していた。
しかし、当然に江戸期の感覚で演ずる噺家もいるし、文明開化の姿に接していながらも、旧態を脱することのできない人々も多く、これらは新しい社会生活になじまずに悶々と過ごすことになる。
円遊、万橘の珍芸に拍手を送り、単なる娯楽として満足を示す観客層は、新しい東京人であった。
一方、伝統的な人情噺の陰影に江戸期の風俗や生活の残りを求めていたのは、旧江戸人を中心にした観客層であって、ここに焦点を当てた芸を売り物にしていたのが三代目円生であった。特に「累(かさね)の怪談」、これは元禄3年(1690)刊の『死霊解脱物語聞書』と題する勧化本(かんげぼん)、読者を仏教の教えに導くために書かれた、累の怪談噺はこれから始まったといわれ、その後、累の亡霊を登場させる類似作が歌舞伎や浄瑠璃で上演され、円朝の『真景累ヶ淵』にも引き継がれているが、それらはすべて目には見えない、先の世からの因果の図式にもとづくもので、めぐる因果の恐ろしさを感じさせるものである。
この円生、三遊派最高の名跡を受け取っていたが、次第に江戸期感覚のままで幽霊・祟りも芸を続けることと、新時代になっても自らを変えられない芸との間で悩みはじめ、とうとう神経病に追い込まれていき、明治14年(1881)8月46歳の若さで死去し、それが「9月9日付朝野新聞」で次のように報道された。
≪売り出しの落語家円生は此の程病没したるが、此の円生は義母マツの存命中、兎角不幸の仕業あり、又、其妻も似たもの夫婦の諺の如く、義母に邪見なりしゆえ、マツは、私が死ねば二人に取付くなどと云ひたることもありたる由。然るに先頃、マツが死去せし後、或る日円生夫婦の居る処へ一羽の蝶が舞込み、円生に取り付くを追い払えば、また円生に取り付き、妻が追い払えばまた円生に取り付き、離れざるより、例の疑心暗鬼にて、扨ては養母の怨念ならんと、夫より円生は神経症を発し、終に黄泉の客となり、其の後、妻も同病にて今に枕も上らぬとのこと≫
この記事は、一片の現象を書き述べたものであろうが、一方で開化の世を謳歌し、陋習、迷信を破って新時代に力強く生きていこうとする人たちが増加する反面、依然として仏教的な因果観に固執して、自己の人生を考える人も少なくなく、それが円生でもあったが、己の殻を己が破るという自己革新できない層も大勢いたのである。
円生が亡くなったのを円朝は上州で知ったという。これも幕藩体制の崩壊で旅行が解禁され、それまで自由に行けなかった地方の状況を知りたい、という人々への欲求に応えるよう円朝が取材という行動をしていたことを示している。
円朝の特性は鋭い観察力であり、時代を取り込む感性である。創作した作品を分類してみると、それがよくわかる。
「怪談噺」「伝記物」「翻案物」「芝居噺」「人情噺」「北海道取材作」「落語」と大きく7項に分類でき、単なる落語家としての域を超えているが、この中から代表的な三つを選んで説明したい。
一つは「怪談噺」である。安政6年(1859)から創作し始めたのが『真景累ヶ淵』をはじめ、江戸期の人々に深く入り込んでいる因果関係を、明治に入ってからも『怪談乳房榎』などを人間絵図として創り、それを天才的ともいうべき舌三寸から語り続けた。
二つめは「伝記物」である。維新の大改革で江戸っ子は日常生活習慣を変えさせられ、地方からの移住による人口増加もあり、江戸は「雑多な東京」となり、その中で多くは、新しい時代の生き方をどう組み立てればよいのか戸惑っていた。
特に地方出身者は、慣れない環境で、いかに生活を成り立たせ、豊かになれるのか。その方策や指針を求めていた。
そのような情勢下、円朝は、維新政府の改革変化にクレームをつけるのではなく、それらを包み込む「新しい時代の生き方」として「塩原多助一代記」と「塩原多助後日譚」に代表される立身出世物語を示したのである。それは当時の人々に広く受け入れられただけでなく、政府からも支持され、ついに明治25年(1892)には修身教科書に取り上げられた。
三つめは「翻案物」である。明治16年(1883)に鹿鳴館が開館されたことで示された時の欧化政策、その影響から外国に関心を持つ新しい読者層が増える動き、これを素早く取り入れ出版したのが明治18年(1885)の『英国孝子ジョージ・スミス伝』である。その冒頭部分を紹介する。
≪御免を蒙りまして申上げますお話しは、西洋人情譚(ばなし)と表題をいたしまして、英国の孝子『ジョージ・スミス伝』の伝、之を引続いて申上げます。彼(あち)国(ら)のお話しではどうもちと私の方にもできかねます。又お客様におわかりにくいことがありますから、地名人名を日本にしてお話しをいたします。
英国のリバプールと申しますところで、英国の竜動(ロンドン)より三時間で往復のできるところ、日本でいえば横浜のような繁盛な港で、東京(とうけい)で申せば霊岸嶋鉄砲洲などの模様だと申すことで、その世界にいたしてお話しを申上げます。スマイル・スミスと申しまする人は、あちらでは蒸気船の船長でございます。
これを上州前橋立(たつ)町(まち)の御用達で清水助右衛門と直してお話しをいたします。その子ジョージ・スミスを清水重二郎という名前にいたしまして・・・≫
≪これはある洋学先生が私に口うつしに教えて下ったお話しを日本の名前にしてお和かなお話しにいたしました≫
臨機応変といおうか、縦横無尽といおうか、正に、鉄舟の『剣術の流名を無刀流と称する訳書』に書かれた世界、
≪過去・現在・未来の三世から一切の万物に至るまで、何一つとして、心でないものはない。心というものは痕跡を残さないものであり、自由自在かつ無尽蔵である。東に現れ出るかと思えば西に消え、南に現れれば北に消える。まさに神変自在、天も予測することはできない≫
この境地に、鉄舟から受けた禅修行によって、円朝も到達したのであろう。
結果として、時代の機微をとらえ、機敏さと柔軟性を発揮し、三遊派一門の復興と、芸人の社会的地位の向上を実現したのである。
これで「鉄舟から影響受けた円朝」編を終え、次号からは「神にならなかった鉄舟」を論じて参ります。
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