円朝は、文明開化という構造変化の中で、新政府が求めた民衆教化イデオロギーに対応し、社会の諸階層に対するという、機を見るに敏をふまえた柔軟性を発揮し、三遊派一門の復興と、芸人の社会的地位の向上を実現した。
だが、維新当時、江戸っ子を任ずる円朝は、単純な徳川贔屓の心情から逃れられなかったという。(『三遊亭圓朝の明治』矢野誠一)
しかし筆者は、当時の時代認識で、円朝は戸惑っていたと察する。円朝が『真景累ヶ淵』の創作を始めたのは安政6年(1859)という幕末期、ご存知の通り江戸時代は仏教が支配していたので、この作品も「めぐる因果の恐ろしさ」をテーマにした作品であった。
だが、新政府による廃仏毀釈・通称「神仏分離令」によって仏教は迫害され、江戸人はその変化に戸惑い、続けて四民平等、帯刀禁止、断髪令等が実施され混乱したが、最も影響が大きかったのは、欧化主義であったろう。
高山樗牛が≪げに当時の社会に最も勢力ありしは、一言すれば欧化主義なりき。是主義は其現れたる形の上より見れば種々あれども、其根本の目的は我邦一切の文物を西洋化するにあり(中略)かくて所謂皇学者流の些細の反対を蹴倒して、欧化主義は一瀉千里の勢を以て進行せり≫(太陽、奠都三十年記念増刊)
このように誰もが時流対処に悩んで、円朝も同様であって、どうすればよいのか、確固たる方針は持ちえないまま、寄席で噺家として活動を続けていた。
この状態の円朝が、維新以降の半生を、時勢に即して生きなければならぬと指針化出来、多層・多角的な成功を成し遂げ得ることができたのは、鉄舟から教示を受けたからであった。では、その教えとはどういうものであったのか。
円朝が知りあったときの鉄舟、既に明治天皇の侍従であり、政府の要人であって、広く世間に知られた人物になっていた。
世に認められたきっかけは、いうまでもなく江戸無血開城の功績である。無事、江戸が戦禍を被らなかったことは、江戸っ子へ何にもまさるプレゼントで、それが西郷と鉄舟による駿府会談で成されたことは、広く江戸庶民の知るところだった。
ところで平成30年は明治維新から150年にあたり、関係する書籍が多く発刊されている。そのひとつに2月に刊行された『1868明治が始まった年への旅』(加来耕三著)がある。
≪明治元年はどんな年だったのだろうか。歴史家の著者が約100点の文献などを基に、旧暦1月から12月までの出来事を解説交えて物語風に描いた≫(日本経済新聞 2018/4/7 読書面)と紹介され、その第三章「慶応4年月」には次のように書かれている。
≪5日、東海道を進軍して来た新政府の軍勢が、駿府城(静岡県静岡市)に入城しました。西郷隆盛は大総督・有栖川宮の静岡着を鞠子(丸子)宿(静岡市駿河区丸子)で迎えます。
同日、江戸では勝海舟が山岡鉄舟と会っていました。鉄舟を勝の元へ送り込んだのは、徳川慶喜の信任厚い幕臣・高橋泥舟でした。このとき泥舟は寛永寺で慶喜の警護をしつつ、旧幕臣が慶喜を担いで暴発することがないよう目を光らせていたのです。
勝は泥舟を使者として駿府にいる西郷の元へ向かわせ、和睦交渉の席に着かせようと考えました。しかし彼が慶喜の元を離れると、旧幕臣たちがどのような暴挙に出るか予測がつきません。そこで泥舟は、自分の義弟に当たる鉄舟を勝に推挙したのです。
勝は剛胆な鉄舟の性格を一目で見抜き、その印象を、
「旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人となりに感ず。同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う」(海舟日記)
と書き記しています。
この日の会見は、いわば勝による「使者の面接試験」でした≫
この加来氏が主張する「泥舟が勝へ鉄舟を推薦した」という記述、これが何の史料を基に述べているのか明示していないので、その真否を論じられないが、今までの鉄舟研究の中で、はじめて出合った記述内容である。
一方で、3月に『勝海舟の罠』(水野靖夫著)も刊行された。その第三章が「江戸無血開城」で、
≪第一の史料は、鉄舟が書いた、『慶應戊辰三月駿府大總督府において西郷隆盛氏と談判筆記』である≫と述べている。
これは明治15年(1882)3月に鉄舟が自ら書き述べ谷中・全生庵に保存されている文書である。続いて、その内容を以下のように概略引用している。
≪戊辰の年、官軍側が我が主徳川慶喜を征討しようというとき、官軍と徳川の間が途絶していて、これを解決する道がなくなってしまっていた。家臣たちの議論は紛糾し、官軍に抵抗しようという者もあれば、脱走して事を計ろうとする者もあり、その混乱ぶりは言語に尽くせないほどであった。旧主徳川慶喜は、朝廷に対しては、全く偽りのない真心をもって恭順謹慎しており、家臣等にも恭順を厳守するよう達した。私(*鉄舟)は慶喜に、謹慎とは偽りではないか、何か企みでもあるのではないか、と尋ねたところ、慶喜はどんなことがあっても朝命には決して背かないという。それが真実であるならば、私はその気持ちをきっと朝廷に伝え、朝廷の疑念を払って見せます。私の目の黒いうちは、ご心配致しますな、と述べた。
そして、死を決して大総督宮へ慶喜の衷情を言上するつもりで、一、二の重臣に謀ったが、それは不可能だといって賛成しない。そこで軍事総裁の勝安房守が、前から知己であった訳ではないが、胆略あると聞いていたので、相談に行った。ところが私が粗暴であるという評判を聞いて、かねて不信の念を抱いていた勝は、『お前はどうやって官軍の営中に行くのか』と問う。私は『官軍の営中に行けば、斬られるか捕縛されるでしょう。その時私は抵抗せず、相手のするに任せます。斬ろうとするなら、私の主旨を一言大総督宮に言上します。しかし、敵とはいえ、理由もなくいきなり斬りはしないでしょう。何も難しいことではありません』と答えた。勝は私の精神不動の様子を見て納得し、私の希望に任せた。薩摩の益満休之助がやってきて同行したいというので、承知し、直ちに駿府に急行した≫
どうも加来氏の記述と、水野氏とでは内容が噛み合わない。加来氏は「泥舟が鉄舟を勝へ派遣」と述べ、水野氏は「慶喜から命を受け駿府に行くに前に勝を訪ねた」という。
さらに、水野氏は引用した前記鉄舟直筆史料について≪よく知られた史料であるにもかかわらず、「無血開城」、勝海舟関係の書ではまず取り上げられていない≫とも書いているから、加来氏も同様に無視しているかもしれない。しかし、鉄舟直筆記録文書は全生庵に現存しているのであるから、これを無視するのは歴史研究家としてはいかがなものだろうか。
水野氏は続ける。≪鉄舟は勝の部下でもなければ、メッセンジャーでもない。鉄舟は、徳川慶喜の警護をしていた義兄の高橋泥舟に推挙され、慶喜の直接の命令を受けて西郷に会いに駿府へ行ったのである≫
≪慶喜は最初、泥舟に駿府への使者を命じたが、泥舟が行ってしまうと、慶喜を護衛する者がいなくなってしまう。そこで誰か泥舟に代わる者はいないかと尋ねたので、義弟の鉄舟を推挙したのである。その経緯は『高橋泥舟先生詩歌』(高橋泥舟著、小林二郎編)に載っている。以下にその触りの部分を紹介する。
「公(*慶喜)既に居士(泥舟)に命じたれば、居士其命を奉じて公前を退き、将(まさ)に発せんとす。公又遽(にわ)かに居士を召し返して、即ち曰く。汝去らば、豈(あ)に麾下の士を大に煽動する者なきを知らんや。汝にあらざれば予が命を全ふするものなく、今汝去らば麾下の士を鎮定するものなし。嗟噫(ああ)此時に当りて予汝が身体の二(ふたつ)なきを憂ふるなり。今汝に代りて此の使命を全ふするもの、予に於て誰を指さす所なし。汝が見る所これあるや否やと。公愁然として涕泣(ていきゅう)交々(こもごも)下る。是に於て居士即ち曰。諺に曰く。子を見ること親に如(し)かずと。今麾下の士を見るに、尊命を全ふする者、臣が愚弟山岡鉄太郎に如くものなし。知らず、公之に命ずるや否やと。公漸く涙を拭ふて曰く。汝の言既に如此。余豈命ぜざらんや」
このようにして、慶喜は鉄舟を召し、直接駿府行きを命じたのである。決して勝の指示・命令で西郷との談判に赴いたのではない≫
このように『勝海舟の罠』は、史料に基づき議論を展開している。
ここで重要なポイントを指摘したい。それは当時の鉄舟の立場・役職である。
鉄舟は、慶応4年(1868)3月時、寛永寺に謹慎する慶喜を護衛する精鋭隊頭に過ぎなかった。現在で言えば要人警護係主任といった職務で、幕府政治に参画できる地位ではない。
そのような身分・職位の鉄舟が、突然に義兄で慶喜警護頭の任にあった高橋泥舟の推挙を受け、慶喜から直接の命を受け、勝を訪ね、益満をともなって、駿府に赴き西郷と談判し、江戸無血開城を成し遂げたのである。
つまり、明治維新の始まりである江戸無血開城実現は、徳川方では役職も身分も低き鉄舟という「一個人」の力量によってなされたのである。この事実は重要である。
西郷が『南州翁遺訓』で≪命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう≫と記したように、正に鉄舟の一個人の働きが新時代を切り拓いたのであるが、そこまで西郷から評価される人物になるには、己をどのように鍛えることでなりえたのだろうか。
若き時代の鉄舟は「尊皇攘夷」を唱えていて、安政6年(1859)または万延元年(1860)に、清河八郎等と尊皇攘夷党「虎尾の会」を結成している。
尊皇攘夷の「尊皇」は「天皇」を敬い、「攘夷」は外敵(外国の侵略)を撃退しようとする思想であるから、鉄舟は徳川幕府の開国方針とは反対の攘夷を唱えていたことになる。
虎尾の会正式メンバーは14名という。全生庵に所蔵されている一巻「尊攘遺墨」と題字された中に「尊皇攘夷発起」書があり、それには15名と記されているが、最後から3人目の大脇某と読める人物が棒線で消されているので14名になる。(『幕臣尊攘派』日野市立新選組のふるさと歴史館)


この虎尾の会正式メンバーに薩摩藩の益満休之助がいたことの事実に注目したい。鉄舟と益満はこの時からの仲間であって、慶応4年3月、二人は東海道を駿府へ向って急いでいた。東征軍参謀西郷隆盛と会見するためであったが、その道中は官軍で満ち溢れていた。
その中を駿府まで通過する通行手形は、薩人益満の薩摩弁であった。独特の薩摩訛りは他国者に真似できない。益満がいたからこそ通行を邪魔されずに、3月9日西郷との駿府談判が出来たのであった。
このように安政6年(または万延元年)頃の鉄舟は幕臣尊攘派であったが、その後の西郷との駿府談判や、上野彰義隊に恭順を説く姿などをみると、転身と受け取れないこともない。鉄舟は相矛盾する思想を持っていたのだろうか。
このところを『おれの師匠』(小倉鉄樹)が次のように解説する。
≪戸田忠恕(ただゆき)(注 幕末の宇都宮藩主)がある時山岡と攘夷論をやった。戸田は開国止むなき形勢を覚っていたので、山岡に「攘夷々々というが、ほんとに攘夷を断行するならまづ、幕府を移して、江戸を焼いて背水の陣を敷いてかからなけりゃだめだ」と云ったら、山岡が「そりゃそうだ。けれどもそんなことは実行出来る話じゃない」といってあきらめていた。この話を何時か戸田さんがおれに話してきかせて「出来ぬことと知りながら攘夷を唱えていたところをみると、師匠は攘夷論を以て、過激な不穏分子の抑に使っていたのではなかっただろうかとも思われる≫
さらに、小倉鉄樹は同書で、鉄舟も攘夷が無理なことは分かっていたが、江戸に集まった危険分子を抑えるために攘夷を主張したわけで、これは徳川家に対する大きな報恩であったと加えて解説しているが、果たしてどうだろうか。
筆者には、鉄舟が尊皇攘夷党である「虎尾の会」に属し活動していたその背景を、すっきり説明することができない。今後の課題として研究したいが、無刀流との関係で推察することは可能だろう。
鉄舟は明治13年(1880)に無刀流を開いた。この無刀流と称する意味を『剣術の流名を無刀流と称する訳書』で次のように解説している。(『山岡鐵舟』全生庵編)
≪無刀とは、心それ以外に刀はない、ということであり、三界にあるのは我一心ということである。内にも外にも本来無一物であるが故に、敵に対する時、前に敵はなく、後ろに我はなく、妙応無方(優れた対応に限りはなく)で跡を留めない。わたしが無刀流と称するのはこういう理由からである≫
≪過去・現在・未来の三世から一切の万物に至るまで、何一つとして、心でないものはない。心というものは痕跡を残さないものであり、自由自在かつ無尽蔵である。東に現れ出るかと思えば西に消え、南に現れれば北に消える。まさに神変自在、天も予測することはできない。(中略)日用のあらゆる事物・現象においても同様であり、その働きは自在であって滞ることなく、坐ろうと思ったなら坐り、行こうと思ったなら行く。語る時も黙する時も、動く時も静かなる時も、いちいち真の自分でない時はない。心刀の働きとはかくも素晴らしいものなのである≫
無刀流とは「心が自由自在かつ無尽蔵」と鉄舟は述べている。したがって、この『無刀流と称する訳書』から論じれば、尊王攘夷派であったとしても、その時代の変化、時流に基づいて行動することは可能になる。
だが、無刀流を開いたのは明治13年である。西郷との駿府談判はその13年前である。無刀流極意を開く前から、鉄舟には「何かが備わっていたのではないか」。
それを鉄舟20歳、師である山岡静山の娘英子に見込まれ婿養子に入った際に表れていると『街場の天皇論』(内田樹著 東洋経済新報社)が述べる。
≪妻となった英子は静山の弟子中抜群の器量である鉄太郎の人物を見込んで、「この人でなければ死ぬ」と言い切ったので、鉄太郎は「そんなら行こう」と快諾したと弟子小倉鉄樹の記した『おれの師匠』にはある。そういう人なのである。物事の損得や当否について判断するとき逡巡がない。人から真率に「頼む」と言われたら、事情にかかわらず「諾」と即答する。それは彼の剣風とも禅機とも通じている≫
将軍慶喜から上野寛永寺において、直接駿府に行くよう命じられ、「頼む」という慶喜の願いを「諾」として引き受け、即座に行動に移したのも、英子との結婚と同じでないか。
自分が必要とされるのならば、一瞬の躊躇もせず、自らが持っているものを引き出す。西郷との駿府談判では「理と情」を使い分け、慶喜の命を守り、江戸無血開城へつなげたのである。
単純な徳川贔屓の心情と、時代の変化で戸惑っていた円朝も、これを禅機として取り込んでいったのではないか。次号へ続く。
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