2019年6月例会開催結果
2019年6月例会は永冨明郎氏から「鉄舟に投げ飛ばされた男 雲井龍雄」について以下のようにご発表いただきました。
米沢藩の下級武士だった雲井龍雄、もとは中島龍三郎、のち小島家に養子入りし、更に明治初年から雲井を自称する。
慶応元年から江戸勤務の際に安井息軒塾で陽明学に傾く。
慶応2年以降の混沌とした京都情勢に、願い出て情報収集役として京に上り、政治活動に加わるが、この間、薩摩藩の「変節」に強い疑念を抱く。
息軒塾当時の人脈から土佐の後藤象二郎や長州の広沢真臣とも接触を深める。しかし王政大復古のクーデターなどを経て、自身の情報が限られていたことを反省し、奥羽列藩同盟に傾いていく。そして「討薩の檄」を発表し、これが列藩同盟諸藩にも配布される。
慶応4年6月、既に政府軍は白河攻防まで北上していることから、逆に二毛(栃木・群馬)で挙兵して政府軍を挟み撃ちする策を藩に上げ、運動することを許される。
しかし群馬では逆に前橋藩士らの襲撃をうけ、作戦遂行できず、その間に米沢藩は政府側に降伏していることを知る。会津陥落のひと月前であった。
明治2年、集議院に出仕することになるが、特に薩摩の動きを批判する言動はますます激しくなり、ひと月で辞職に追い込まれる。
東京の雲井の周囲に不満浪士たちが身を寄せるようになり、明治3年2月、高輪の二本榎にある円真寺に「帰順部局点検所」なる看板を挙げて、浪士たちを保護する行動に出る。
その点検所の運営資金を集めるため、長州の広沢真臣や土佐・佐々木高行などに接触する一方、静岡藩となった徳川家にも援助の要請をするため、山岡鉄舟を訪ねて来るが、鉄舟は雲井の話を聞いて、逆にその否を示すため、庭に投げ飛ばして追い返す。
その間、点検所の周囲や集まった浪士に対する官憲の目が厳しくなる。実際には雲井が頼りとしていた一人、広沢真臣(参議)などがその思想、行動に疑念を持っていたためである。
浪士らから、農民一揆を策していたことや、反政府騒乱を計画していたような話が官憲の知るところとなり、雲井は、一旦は米沢藩での禁固となるが、7月には再び東京に呼び出されて小伝馬牢獄に投じられる。
その年末(明治3年12月28日)、政府転覆を図ったとの罪状で、斬首梟首という極刑となる。享年27歳。部局の主だった者20名以上も併せて獄死、刑死している。
梟首に至った背景には、明治2-3年当時、大村益次郎(当時、実質的な兵部省のトップ)の暗殺、長州の奇兵隊の叛乱などに、新政府が神経を尖らせていたさ中のことだけに、そのような厳刑となったものと推測される。
なお、一時は雲井が信頼を寄せていた広沢真臣は、雲井の処刑のわずか11日後、自宅で暗殺される。真犯人については迷宮入りだが、同じ長州の木戸孝允は終生、雲井一統の犯行を疑っていたという。
その墓碑は最初に遺体が捨てられた千住小塚原(現・千住回向院)にあり、後に郷里米沢に遺骨が移されて墓ができている。
また谷中霊園には明治14年に建立された「龍男雲井君之墓表」と表記された顕彰碑もあるが、現時点ではこれが誰のどのような意図で建立されたのか、調査できていない。
いつもながら、永冨氏の講演はパワーポイントを駆使され、複雑な歴史事件構造を簡潔明解に、かつ、格調高く論述され、雲井龍雄という人物像を浮き上がらせていただきましたこと、感謝申し上げます。
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