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2019年6月

2019年6月26日 (水)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その二十

明治17年(1884)、円朝は『怪談牡丹燈籠』の速記本を出版した。
出版は、速記者若林玵蔵のすすめによるといわれているように、円朝は速記本にすることにある懸念があった。
自らの芸を、出版物という媒体で伝えられるのか、という疑問である。
落語は寄席に来る客に直接語りかけ、噺の強弱、メリハリ、場面状況の情景つくりなどによって感情移入していき、聞く側に感動を与えていくものであるから、速記出版では真の芸を伝えることができないのでは・・・。当然の疑念だろう。

実際、今日に至っても円朝本に対する批判は残っている。確かに円朝は、速記に合わせて故意に演出を変えている。
変えた理由は、ひとつは円朝が「芸を盗まれることを嫌ったこと」と、もうひとつは「高座を見ることができない読者のために編集し直した」ためである。

この当時、円朝の話芸は広く世間に噂されていたが、実際に聴ける者は、寄席を中心にした僅かな人数に過ぎなかった。
そこで、円朝が目指す、江戸期からの客層にも、また新時代の客層にも合わせ、上流・中流・下層が輻輳する社会に合わせていくためには、時代に合致した方法を講じる必要があって、若林玵蔵のすすめに乗ったのである。

結果は、円朝はさらに多くの読者を得ることになり、その創作活動はこの年から新しい飛躍がはじまった。
同年の新聞が以下のように報じる。(参照 『三遊亭円朝』永井啓夫)

≪『7月29日付 時事新報』怪談牡丹燈籠 〇同書は有名なる落語家三遊亭円朝が演述せし怪談を若林玵蔵氏が例の傍聴筆記法にて書取り、円朝の口気を其儘に写出したるものにて、其第一編(一編の定価7銭5厘)を京橋南伝馬町3丁目東京稗史出版社より発売し、尚引き続き、土曜日毎に一編を発売し、13編に至て局を結ぶと云ふ≫

日本の速記術は、明治15年(1882)に田鎖(たくさり)綱紀(こうき)が、ピットマン系のグラハム式に基づいて「時事新報」紙上に「日本傍聴記録法」を発表し、同年10月に東京で第1回講習会を開き30名の修了者を出し、その後、若林玵蔵、林茂淳らにより田鎖式符号に改良が加えられ、速記は実用化に向けて大きく踏み出し、特に、三遊亭円朝の講談を速記した『怪談牡丹燈籠』に始まる講談速記が有名となった。
左の『怪談牡丹灯籠』初版本の表紙には、円朝の名前と並んで「若林玵蔵筆記」と明記されている。

若林玵蔵が『若翁自伝』で出版効果を語っている。
≪当時、円朝の出席する人形町の寄席末広亭へ毎夜通って、速記することにした。円朝の人情話は15日間に一種の話を纏めることになって居るから、円朝も15日間欠かさず出席し、こちらも欠席しないことを約した≫
≪「牡丹燈籠」は一席を一回とし、毎土曜日に発行したところ、「円朝の牡丹燈籠」で十分売込んであるのを話の儘に読めるといふことが評判になって、雑誌は非常な売行であった。「牡丹燈籠」の雑誌の表紙にも、裏面にも、速記文字で書いたものを掲載したから、速記の広告にもなった。円朝の話は速記によって世間に紹介され、速記は円朝の話に依って紹介された結果を得たのである≫

この当時、大衆のための読物が出版されていなかったこともあり、『牡丹燈籠』は世人から広く受け入れられたが、思わぬ成果も生んだ。日本の近代小説文体への影響である。

当時の文章は、いわゆる文語文だった。これは古文や平安時代にみられる言葉遣い和文・和漢混淆文・漢文書き下し文・候文などが主で、維新後に取り入れられた欧米の新しい思潮をもとに創作された文芸作品も、すべて江戸期の文語文であって、公的にも私的にも口語による文章というものが全然用いられていなかった。
そのため口演がそのまま文章になる速記本の文体は、今日から見ればかなり難しい漢字や当て字などを用いていたが、誠に斬新な表現内容であった。

明治19年(1886)、二葉亭四迷は口語体小説『浮雲』を書くため、坪内逍遥に相談したところ、即座に「円朝の牡丹燈籠の速記本をあげて、その文章を参考にするよう」と教えられたと、四迷は当時を回顧して次のように記している。(『三遊亭円朝』永井啓夫)
≪もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いてみたいとは思ったが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで坪内先生の許へ行って、何うしたらよかろうかと話して見ると、君は円朝の落語を知ってゐよう。あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。で仰せの儘にやって見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京弁だ、即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持って行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち、礑(はた)と膝を打って、これでいい、その儘でいい、生じっか直したりなんぞせぬ方がいい、とかう仰有る。(中略)これが自分の言文一致を書き初めた抑(そもそも)である。(「余が言文一致の由来」明治35年「文章世界」所載)

また、明治19年4月に四迷が冷々亭杏雨という別名で記した自著『虚無党気質』の広告文に円朝速記本との関係にふれている。
≪加之言文一致の主義に基いて、紳士社会に行われまする上品な東京語を以て翻訳してございますから、至極面白く出来てをりまして、悪く申せば円朝子の猿真似ですが、賞めて申せば、此小説などが日本の新文章の嚆矢に相成りませうか≫

これは円朝も若林玵蔵も全く予期していなかった波及効果で、近代日本文学の基部に大きな影響を与えたのである。
この事実を円朝がどの段階で知ることになったのか不明だが、このような影響力を発揮した円朝は、この頃には自らを「芸人風情」と貶める感覚から既に脱皮し始めていたであろう。

『怪談牡丹燈籠』出版の翌年の明治18年(1885)に、7年前の明治11年(1878)に完成していた『塩原多助一代記』が速記法研究会から出版された。体裁は半紙判、柴田是真の表紙、奥原晴湖の見返し、口絵は芳年・芳幾、挿絵に芳幾・国峯という豪華なものであった。

この背景には、『怪談牡丹燈籠』で成功したはずの東京稗史出版社が、他の予約出版で事業を拡大しすぎたため、速記出版を続けることが難しくなっていたことと、円朝は印刷や製本にも粗末すぎると不満があり、体裁をすっかり改めて、速記法研究会から発行することにしたのである。

18年は『塩原多助一代記』に続いて、相次いで円朝物が新旧とりまぜ速記本として出版され、目ざましい売行きを示した。
『英国孝子ジョージスミス伝』(速記法研究会)
   半紙判12葉  毎月4回ずつ、8冊で完了 定価1冊9銭(全冊56銭)
  題字 市川団十郎 挿絵 歌川国峯、尾形月耕
『業平文治漂流奇談』(速記法研究会)
   半紙判   序 若林玵蔵 口絵 歌川年貞、揚州周延、歌川国松、水野年方
『鏡ヶ池操松影』(牡丹屋)
  半紙判 序文 円朝
『後開榛名梅ヶ香』(朝香屋)
  半紙判 挿絵 歌川芳春

外国種の物語を翻案し、新時代にふさわしい人情噺『英国孝子ジョージスミス伝』には、「或る洋学先生」から教えられたとある。文学者で新聞人の福地桜痴等を中心にした学者、文人からと推定されるが、円朝の交友範囲は広く、これらの人脈から時代の動きを取り入れて創作活動に活かしていた。

出版社が速記法研究会、牡丹屋、朝香屋と経済上の理由等で変っていくが、全国的に普及され、円朝の名はますます知れ渡って行った。
講談も松林伯円の『安政三組杯』が若林玵蔵の速記で出版され、以後、講談物も多く出版された。

このような読物刊行に刺激されたのか、文壇も活況を呈し、2月に尾崎紅葉を中心に文学結社・硯友会が発足、6月には逍遥の『当世書生気質』、つづいて9月に『小説真髄』が発表されたように文芸も活気づいた。

円朝が出版物によって評価されていく傍ら、寄席はどのような状況であったのだろうか。
明治18年の「東京案内」によれば、この当時の劇場入場料は以下であった。
  大劇場(新富、久松、猿若、市村の4座)
       大入場 8銭―17銭
   一幕見 2銭
  中劇場(春木、中島、相生、寿の4座)
       大入場 7銭
   一幕見 1銭5厘
  小芝居(戸山、倭、浄瑠璃、栄喜、喜升の5座)
       5銭

これに対し寄席は87軒が経営されており、端席まで数えると120軒以上あつたという。寄席の入場料は3銭から3銭5厘、劇場より安く、不況下での娯楽は寄席に向かった。

東京には地方人の流入によって客筋も多様化しており、旧来の「江戸前の芸」のみでなく、新しい自由な刺激の強い娯楽を求める層も増え、前号でも紹介した円遊の「ステテコ」、万橘の「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした派手なものが喜ばれていた.
加えて、関西からも東京に高座に迎えられた。明治18年、19年頃、大阪8人芸の西学坊明学などが人気を博していた。
寄席芸人だけでなく、上方歌舞伎も上京し本郷春木座に出勤し、この一座はたちまち東京の観客の支持を受けて、後日、円朝作品もこの一座で上演され、これが端緒となって、円朝物が演劇の中にも入ってゆく。

明治19年、東京新富座の1月興行は円朝の「英国孝子伝」を劇化し、「西洋噺日本写絵」として九代目市川團十郎、市川左団次等によって上演された。
円朝の欧米翻訳物の珍しさと、速記本が普及していることからの企画であった。「英国」といっても、内容は日本化されており、明治の東京、旧士族、開化風物などが点綴された、いわゆる「散切物」である。また、「活歴物」も登場した。
「散切物」とは、髷を切り落とした短髪を散切りといい、明治の新風俗を劇中で描く、明治期の現代劇ともいうべきもの。
「活歴物」とは史実にこだわらない自由な発想で作られた江戸時代の時代物に対し、人物の歴史通りの行動を描き、正しい時代考証に基づく扮装をするなど、写実的で史実を重視した歴史劇も作られ、「活きた歴史」という意味から「活歴」と呼ばれた。九代目市川團十郎が主導し、新時代になり各界の専門家や黙阿弥の協力のもとで実現させた。なお、九代目市川團十郎も鉄舟に直接大感化を受けたと、『おれの師匠』(小倉鉄樹)が述べている。
 

明治19年8月、円朝が大臣のお供で北海道を旅行した。外務大臣・井上馨、内務大臣・山縣有朋が共に妻を連れ、益田孝、大倉喜八郎、小室信夫、馬越恭平など実業界やジャーナリスト、芸人を含む総勢数十名。行程は、横浜から船で函館へ、余市、小樽、札幌、幌内を回って、帰りは上州磯部温泉で休養、40日を超える大旅行であった。
 

この旅行中、井上馨は民情視察と開拓促進へ見せた熱意と努力は非常なもので、開拓民の不便と困難さに耳を傾け、慰撫激励する姿が北海道各地に多大な反響を与えた。
この当時の円朝、明治政府の高官から殊遇を受けていたが、間近に接した井上の熱性溢れる態度に深く感じるところがあったという。
後年、兄弟のような交わりをもった井上馨と円朝の結びつきは、この北海道旅行を契機として深まったといえよう。

この北海道の見聞を題材にして帰京後『椿説蝦夷なまり』、『蝦夷錦古郷の家土産』を書いている。作品としては、大きな反響を得られなかったが、この両著は重要な円朝の幕末維新事件への考えを示している。

特に『蝦夷錦古郷の家土産』のなかで、元治元年(1864)3月の天狗党の乱について≪これがあの時分の戦争の初めで、わたくしどもは江戸にいてその話を聞いても、あまりよい心持ちはいたしませんでございました≫と述べていることは重要である。

元治元年の前年は文久3年(1863)、5月に長州が下関で外国船を砲撃し、7月には薩英戦争があり、8月は八月十八日と、大政変が発生しているのに、円朝作品では表現されず、翌年3月の天狗党の乱が、維新戦争の始まりだと意識している。

つまり、江戸っ子の円朝は、ペリー来航から始まった一連の政治上の大事件には、あまり関心を持たず、ようやく天狗党の乱あたりから「どうも徳川将軍様に影響を及ぼす問題になりそうだ」と心配しだして、≪これがあの時分の戦争の初めで≫と認識しているのである。

この円朝の見解と感覚は重要である。時の人々の感応を直感的につかみ作品化しているのであるから、円朝は民衆集合心理の様相を描き出していたのである。でなければ寄席を通じ、速記本となって全国的に受け入れるわけはない。時の民衆集合心理をつかむところが円朝の才能であって、ここから推測できることは、時の民衆はペリー来航から続く幕末維新の政治的大事件に対して、特別に大きく関心を持たなかった、という既に述べた通りの結果に辿りつく。

明治19年3月1日、永田町の鍋島侯爵の私邸に明治天皇が行幸され、その際、講談師松林伯円が御前口演の光栄に浴した。
市井の芸能が、上層部に位置付けられる御耳に達することができるようになったことは、高官との交友関係もさることながら、芸人たちにとって改めて自らの立場の向上を思いはせたであろう。

この年の10月に、「やまと新聞」が創刊され、円朝の「松操美人生理」を連載し高評を博した。
その経緯を岡鬼太郎が次のように述べている。
《日刊やまと新聞発行の初、円朝の続き話は、速記となって、珍しくも日毎日毎の紙上に載せられた。挿絵は年方氏であったと思ふ。木版彫刻は銀座の山本であったか。何しろ紙面の縦半分ほども段を抜いた大挿絵が、惜気もなく、円朝の話と一緒に出るのである。速記物連載の評判、円朝の評判、挿絵の評判、やまと新聞が軟か向に売れた事は、実に目覚ましい物であった。
やまとの主幹は、作家としての山々亭有人、後の条野採菊翁であった。採菊翁は円朝の贔屓客でもあり、友人でもあり、而して其の採菊翁は、日日新聞に在社時代から、福地桜痴氏とは友人である。円朝は福地先生から西洋種を与えられた。芸人として、好い御贔屓を有ったものである》(円朝雑観)

やまと新聞は明治19年(1886)創刊、その号から連載された「松操美人生理」は福地桜痴から聞いた外国種の翻案である。
円朝は、この作品に当って、パリ―ロンドン間の便船時間まで研究したらしいが、翻案された舞台は相州三浦辺りに舞台を選んでいる。だが、地理・風俗にこだわる円朝の一面がパリ―ロンドン間時間調査でわかる。

新派の伊井蓉峰がこの作を上演しようとした際、そのシナリオを見た円朝が「これはいけない。私が一つ話して見ましょう」といい、漁船のくだりを口演したところ、聞いていた者が皆船に酔ったような気持ちになったという。

「松操美人生理」に続いて「蝦夷錦古郷家土産」を連載したように、やまと新聞は「円朝物」の連載によって売れたといわれている。
だが、円朝もやまと新聞によって、この後、多くの作を発表することができ、芸人というよりむしろ作家に近づいたともいえる。
この時代の聴衆が持つ好みがスピーディーに変っていくことを認識していた円朝、活字を通しての創作活動へ非常に熱意を見せたのである。
以上のように、円朝は「江戸期からの客層、新時代の客層、上流・中流・下層社会層にも合わせる」という時代を読み込んだ創作を行い、速記本による出版も加え、自らが目標としていた「芸人風情心情からの脱皮」も図ったのであるが、これは鉄舟からの影響が大きい。
では、鉄舟から何を学び、取り入れたのか。それを次号で考察したい。

2019年7月例会開催

 2019年7月例会は717()に山本紀久雄が発表いたします。

      発表者   山本紀久雄 

      テーマ   「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』壁画の怪」   

      時間    1830分~20

      会費    1500

      会場    東京文化会館・中会議室1

(テーマの背景)

   1912年(明治45)730日明治天皇崩御。明治神宮内苑を国費により造営、神宮外苑は財団法人明治神宮奉賛会により、様々な献金によって造営され、聖徳記念絵画館も同様で、絵画館内には80枚の歴史壁画が掲示されている。

そのひとつが『江戸開城談判』(結城素明画)で、教科書にも掲載されている有名な作品である。

だが、果たして  

  • これは「正史」なのか、それとも「作られた歴史」なのか、
  • または「ノンフィクシヨン」なのか、それとも「フィクション」なのか

 様々な観点から分析・研究した結果を発表いたします。

2019年6月例会開催結果

2019年6月例会は永冨明郎氏から「鉄舟に投げ飛ばされた男 雲井龍雄」について以下のようにご発表いただきました。

 

米沢藩の下級武士だった雲井龍雄、もとは中島龍三郎、のち小島家に養子入りし、更に明治初年から雲井を自称する。

慶応元年から江戸勤務の際に安井息軒塾で陽明学に傾く。

慶応2年以降の混沌とした京都情勢に、願い出て情報収集役として京に上り、政治活動に加わるが、この間、薩摩藩の「変節」に強い疑念を抱く。

息軒塾当時の人脈から土佐の後藤象二郎や長州の広沢真臣とも接触を深める。しかし王政大復古のクーデターなどを経て、自身の情報が限られていたことを反省し、奥羽列藩同盟に傾いていく。そして「討薩の檄」を発表し、これが列藩同盟諸藩にも配布される。

慶応4年6月、既に政府軍は白河攻防まで北上していることから、逆に二毛(栃木・群馬)で挙兵して政府軍を挟み撃ちする策を藩に上げ、運動することを許される。

しかし群馬では逆に前橋藩士らの襲撃をうけ、作戦遂行できず、その間に米沢藩は政府側に降伏していることを知る。会津陥落のひと月前であった。

明治2年、集議院に出仕することになるが、特に薩摩の動きを批判する言動はますます激しくなり、ひと月で辞職に追い込まれる。

東京の雲井の周囲に不満浪士たちが身を寄せるようになり、明治3年2月、高輪の二本榎にある円真寺に「帰順部局点検所」なる看板を挙げて、浪士たちを保護する行動に出る。

その点検所の運営資金を集めるため、長州の広沢真臣や土佐・佐々木高行などに接触する一方、静岡藩となった徳川家にも援助の要請をするため、山岡鉄舟を訪ねて来るが、鉄舟は雲井の話を聞いて、逆にその否を示すため、庭に投げ飛ばして追い返す。

その間、点検所の周囲や集まった浪士に対する官憲の目が厳しくなる。実際には雲井が頼りとしていた一人、広沢真臣(参議)などがその思想、行動に疑念を持っていたためである。

浪士らから、農民一揆を策していたことや、反政府騒乱を計画していたような話が官憲の知るところとなり、雲井は、一旦は米沢藩での禁固となるが、7月には再び東京に呼び出されて小伝馬牢獄に投じられる。

その年末(明治3年12月28日)、政府転覆を図ったとの罪状で、斬首梟首という極刑となる。享年27歳。部局の主だった者20名以上も併せて獄死、刑死している。

梟首に至った背景には、明治2-3年当時、大村益次郎(当時、実質的な兵部省のトップ)の暗殺、長州の奇兵隊の叛乱などに、新政府が神経を尖らせていたさ中のことだけに、そのような厳刑となったものと推測される。

なお、一時は雲井が信頼を寄せていた広沢真臣は、雲井の処刑のわずか11日後、自宅で暗殺される。真犯人については迷宮入りだが、同じ長州の木戸孝允は終生、雲井一統の犯行を疑っていたという。

その墓碑は最初に遺体が捨てられた千住小塚原(現・千住回向院)にあり、後に郷里米沢に遺骨が移されて墓ができている。

また谷中霊園には明治14年に建立された「龍男雲井君之墓表」と表記された顕彰碑もあるが、現時点ではこれが誰のどのような意図で建立されたのか、調査できていない。

 

いつもながら、永冨氏の講演はパワーポイントを駆使され、複雑な歴史事件構造を簡潔明解に、かつ、格調高く論述され、雲井龍雄という人物像を浮き上がらせていただきましたこと、感謝申し上げます。

 

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