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« 2019年5月例会開催 | トップページ | 鉄舟から影響受けた円朝・・・その十九 »

2019年5月24日 (金)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十八

江戸無血開城によって日本の近代は進み歩んで、今年は維新150年となった。
 その無血開城の功績者は誰か。という議論になると、現在、圧倒的に「西郷隆盛と勝海舟による慶応4年3月14日の会見で決した」という説が流布され、史跡が港区田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡に立っている。
 東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸無血開城をめぐるおもな動き」が図示されている。
これによると鉄舟の役割は海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。この文面からは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。
 

そこで、2016年10月に江戸東京博物館学芸員に対し、「全生庵で保存されている鉄舟直筆の『慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記』には、西郷との交渉・談判の内容と、西郷から『慶喜の命保障』、『徳川の家名存続』の確約を引き出したことが明確に記され、その結果を江戸にて大久保一翁、海舟に報告し、慶喜が欣喜したと書かれている」が、これと江戸東京博物館の図示とはあまりに違い過ぎるのではないか、と問い合わせしたところ、次のような回答が届いた。
「『談判筆記』などの資料研究を深め(他の同時代資料とのつき合わせなど)、当館のパネルや展示に反映させていければと存じます」と。
2018年1月20日、読売新聞西部版に「維新150年」記事が掲載された。テーマは「江戸無血開城」で、筆者にも取材がありコメントしたが、江戸東京博物館学芸員も「私見史論」として同紙で次のように述べている。
≪江戸城無血開城は幕末維新史のハイライト。ドラマや映画で描かれるように勝と西郷が演じた役割は大きいが、2人だけで成し遂げられたわけではない。敵だらけの中、果敢に西郷との面会に赴いた山岡鉄舟や、徳川家の存続を切に願った2人の御台所――薩摩藩出身の天璋院(篤姫)と皇族出身の静寛院宮(和宮)らがそれぞれの思惑で動いた結果、実現したことを忘れてはならない≫
この掲載内容、異論が残るが、鉄舟を「勝の手紙を届ける単なるメッセンジャー役」という図示から、かなり変化させている。認識転化したのか。

2018年1月5日の産経新聞デジタル版に、岩下哲典氏(東洋大文学部史学科教授)が「知られざる『江戸無血開城』 勝海舟を凌ぐ幕末ヒーローはこの人だ!」を掲載した。
この中で岩下教授は、≪「江戸無血開城」の幕府側の最大の功労者は、海舟では断じてない。山岡鉄舟である。そして二番目の功労者は、鉄舟の義兄、高橋泥舟である。海舟は三番手である。むろん、西郷は新政府側の最大の功労者であることは変わりがない。あえて言えば「江戸無血開城」の功労者は西郷と鉄舟・泥舟である。海舟は、徳川家の表向きの代表者として追認したにすぎない≫

≪「江戸無血開城」前夜の4月10日、慶喜は主だった幕臣を集めて別れを惜しんだ。その時、鉄舟に自らの助命と徳川家の存続、すなわち「江戸無血開城」に果たした役割は、鉄舟が「一番槍」であると称賛して愛刀を与えた(全生庵所蔵の断簡史料)。鉄舟・泥舟の苦労が報われた瞬間である≫

≪「江戸無血開城」の新政府側の功労者は確かに「西郷どん」である。徳川方の功労者は、鉄舟・泥舟・海舟・和宮の使者である。これまたあえて比率でいえば、西郷:鉄舟:泥舟:海舟:和宮の使者=3・5:3・5:2:0・5:0・5であろう≫

上記見解を詳しく述べた『江戸無血開城の真実』(吉川弘文館)が出版されたので読んで頂きたい。

いずれにしても、岩下教授も筆者も「江戸無血開城は、駿府における西郷・鉄舟談判で事実上成されたもので、慶応4年3月14日の西郷・勝会見ではない」という見解である。

因みに、岩下教授が「一番槍」と記した鉄舟書状の全生庵所蔵断簡史料は左であり、これを読み解き、書き直すと次のようになる。
「十一日出立前夜、御前へ被召、御手つから来国俊之御短刀拝領被仰付、是迠度々骨折候、官軍の方へ第一番ニ至り候事一番鎗だと上意有之、あり難き事ニ御座候」。

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さらに、「明治維新150周年鹿児島県講座」(2018年2月24日よみうりカルチヤー)で、NHK大河ドラマ「西郷どん」の時代考証を担当した原口泉氏が「江戸無血開城は山岡鉄舟と西郷隆盛とで成し遂げた。その後の会談はその後始末のようなもの」と解説したと、出席した山岡鉄舟研究会員から連絡を受けた。原口氏も鉄舟の功績と明言したのである。

もうひとつ証明となる史料に『正宗鍛刀記』がある。鉄舟が徳川宗家16代の徳川家達から賜った太刀「武蔵正宗」の経緯が記されているもので、無血開城が鉄舟の業績であると証明するものであるが、その経緯を『おれの師匠』(小倉鉄樹著)から要約する。

≪明治14年(1881)、明治政府は維新の功績調査を行って、関係者を召還または口述や筆記を徴した。
鉄舟は「別に取り立ていう程のことはない」と賞勲局の呼び出しに応じなかったが、何度も呼び出しがあるので出頭すると「先刻、勝さんが来て斯様なものを出されましたが・・・」と鉄舟に見せた。
それを見ると「勝が西郷との談判を行ったと書いてあり、鉄舟の名はない」ので「変だと思ったが、嘘だと言うと勝の顔を潰すことになる。勝に花を持たせてやれ」と「この通りだ」と海舟の功績を肯定した。
賞勲局員も無血開城の経緯を知っているので鉄舟に反問した。
「それであなたの功績はどうしたのですか」
「おれか。君主に臣民が為すべきことを為したまでで手柄顔は出来ないさ」
賞勲局員は困って、賞勲局総裁の三条実美公に報告したところ、三条は岩倉具視公に連絡、岩倉公も「それは変だ」と鉄舟を呼び出し尋ねた。
鉄舟も岩倉公の前では嘘も言えず「実は、勝からあのような書類が出ていたので、勝の面目のため自分は手を退いた」と答えた。
岩倉公は鉄舟の人格高潔さに感服しつつも、正しい史実を遺すべく、鉄舟から当時の談判事実を詳しく聞き取って、漢学者の川田剛に漢文で書かせ、明治の三筆の一人である巌谷修が六朝楷書でしたためた≫

現在、名刀「武蔵正宗」と史料『正宗鍛刀記』は、「刀剣博物館」に保管されている。その経緯は、鉄舟から岩倉具視へ贈呈され、岩倉家から藤澤乙安氏へ売り渡され、その後、藤澤家が「刀剣博物館」へ寄贈し現在に至っている。

では『正宗鍛刀記』に記された内容と異なり、世間で「西郷と海舟によって無血開城が成された」という説が流布されているのはなぜであろうか。

そのひとつの大きな要因として挙げられるのが、海舟自ら≪ナアニ、維新の事は、己と西郷でやったのサ≫(『勝海舟全集』第20巻「海舟語録」講談社・「明治31年1月30日」)と、書き述べていることが影響している。

多分、明治中期、鉄舟が存命中の明治21年(1888)ごろまでは、「江戸無血開城は鉄舟の功績」といのが、世間で当たり前の認識であったに違いない。
それを証明するのが、前記した明治政府の維新功績調査における賞勲局員の疑問である。この頃は誰もが鉄舟が「一番槍」であることに疑問を持たなかったのではないか。
ところが、後世の歴史家たちが、史料を集め分析していく過程で、誤った見解がつくりだされたのではなかろうか。

その一つの事例として、江藤淳氏の『海舟余波』の記述を取り上げたい。その一節にこうある。
≪鉄舟山岡鉄太郎が、駿府に到着して西郷吉之助と会見したのは、3月9日のことであった。(中略)しかし、この同じ日、江戸でひそかにおこなわれていたもうひとつの重要な会談については、人は意外と知るところが少ないのである。それは軍事取扱勝安房守義邦と、英国公使館通訳官アーネスト・サトウとの秘密会談である。サトウはそのメモアールに記している≫

江藤氏が言う≪そのメモアール≫とは、アーネスト・サトウの著書『一外交官の見た明治維新』(岩波新書)の190頁の文言である。
≪3月8日に私は長官と一緒に横浜に帰着し、3月9日には江戸へ出て、同地の情勢を探ったのである。私は野口と日本人護衛6名を江戸へ連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であった勝安房守であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた≫
この記述から、ほとんどの学者・作家・評論家等識者は、この3月9日江戸派遣時に、サトウが直ぐに海舟に会ったと錯覚してしまう。
ところが、これは完全なる誤りであることを、当誌2016年7月号で次のように指摘した。

≪『一外交官の見た明治維新』の原文“A Diplomat In Japan”には、3月9日江戸派遣時について、“used to visit”と書かれている。“used to”は過去の習慣(よく〇〇したものだ)を表す文法である。つまりここに書かれている「訪問」は、3月9日の派遣時に訪問したという特定の事実ではなく、この時期にサトウがおこなっていた情報収集の方針・やり方一般をいっているのである≫

恐ろしいことに江藤氏は、サトウの原文意味を確認せずに、海舟がサトウと会談したと断定している。さらに、横浜開港資料館に行けば、イギリス公使のハリー・パークスが本国に報告した文書のコピーが保管されているので、これを読み解けば3月9日にサトウが勝と会っていないことが判明する。だが、横浜開港資料館史料云々との記述もない。

江藤氏といえば、日本を代表する著名な文芸評論家であり、江戸城無血開城に際し敗れた幕府側の人間でありながらも、理想的な治者として勝海舟を見出し、評伝『海舟余波』を著して海舟を世に喧伝した。また、松浦玲氏と共に前記の『勝海舟全集』(講談社)の編纂に参画した。『氷川清話』と『海舟語録』は何度も重版されている。

江藤氏は何故に3月9日に拘っているのか。それは海舟が3月13・14日の西郷・勝会談以前の9日に、通訳官アーネスト・サトウに会い、パークスへ工作し、パークスから西郷に江戸攻撃を止めるよう圧力をかけたという説にしたいがためであろう。

つまり、鉄舟が駿府で西郷と談判している時に、海舟が既に江戸無血開城を止めさせるべく、イギリスに協力を得て交渉をしていたことになるわけで、これが事実ならば勝の功績は大きい。だが、この事実はない。

このような歴史研究家の史料読み込み誤りと、解釈違いは恐ろしい。結果として、江戸無血開城は「西郷と勝による慶応4年3月14日の会見で決した」という説が多数説として流布され、史跡が港区田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡に立ち、加えて、平成15年(2003)に海舟生誕の地に近い隅田川河畔、それも墨田区役所の脇に海舟像が建てられた。

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筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で「墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である」と述べた。北斎と王さんはわかるが、海舟が世界的な評価を受けているとは思えない。 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか。

鉄舟の禅弟子である円朝は、無血開城が鉄舟業績であることが、当時では常識としていたから、何も作品の中で述べていないし、円朝を含む当時の江戸っ子は、150年後、歴史研究関係者間で、江戸無血開城が「誰によって成されたのか」ということが、これほどまでに議論されていることは予測できなかったであろう。
150年経過し、日本が先進国として世界に冠たる地位を占めているがゆえに、そのスタートである無血開城に、現代人が強い関心を持って、縷々語られ、研究がなされているわけだが、往事の当事者である鉄舟は「君主に臣民が為すべきことを為したまで」という海舟とは真逆の淡泊さである。
この爽やかさを鉄舟はどのように身につけたのであろうか。
それは禅修行によって辿りついた境地に尽きるであろう。また、円朝も鉄舟の姿から学んだからこそ、その境地・奥義を己の生き方に取り入れたに違いない。

では、鉄舟が禅から得た境地とは何か。鉄舟は僧侶ではなく、武士である。だから、鉄舟は武士道の体現者として理解すべきである。
鉄舟は亡くなる前年の明治20年(1887)、門人の前滋賀県知事・籠手田安定らの求めに応じ、何回かにわたって武士道を講じている。(参照『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編)

その講義の冒頭で、≪拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである≫と述べている。ここでいう仏教とは禅を意味しており、続いて、≪それもその教理が真に人間の道を教え尽されているからである。まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・知・信とか、節義・勇武・廉恥とか(中略)、これらの道を実践躬行する人をすなわち、武士道を守る人というのである≫と述べ、その当然の結果として≪日本の武士道ということは日本人の服膺践行すべき道というわけである≫と論定している。

さらに論を進め≪その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻徳を奉謝することに躊躇しないであろう。これすなわち武士道の発現地である≫

大森曹玄氏は臨済宗の禅僧で、直心影流剣術第15代・山田次朗吉の弟子でもあり、鉄舟ゆかりの高歩院の住職を務め、著書に『山岡鉄舟』があり、その中で鉄舟の武士道講話について次のように解説している。
≪鉄舟にとって、”武士道”とは、かつての武士たちが究明し実践したところの、武士社会の倫理でもなければ、またその主従間の道徳でもない。それは時の過去と現在とを問わず、また士農工商の階級差別に関係なく、広く日本人たるものの踏み行なうべき人間の道なのである。同時にそれは、人類全般にも普遍的に妥当する「人間の道」だともいえるのである。こういうのが、鉄舟の武士道の本質である≫
≪彼も始めは父母の教訓である”忠孝”というものを、一つの徳目としてこれ何ぞと究明したことであろう。形の上では剣、心では禅によって、如何、如何と忠孝を究め来たり、究め去っていくうちに、ついにそれらの諸徳目を貫くところの”則”、別な言葉でいえば、”大道”に当面し、その”淵源”に到達したのだとおもう。彼はそこに確乎不動の”自信”を得た≫
≪鉄舟が武士道と呼んだ人間の道は、忠とか孝とか、仁とか義とかいう既存の徳目の一つ一つを対象的に実践することではない。その底を貫くというのか、それらを超えて包むというのか、とにかくそれらの相対的な一々の徳目を成り立たしめる根本原理を体得し、実践することをいっているのである。それを一言にして言うならば、その根本原理が「無我」なのである≫
≪禅に徹し、一切に自在を得た鉄舟の武士道とは、実にこのような人間としての根源的な大道を把握して、それを日常生活の上に無礙自在(捉われることなく自由自在)に実践することであった。まことに鉄舟は一介の武弁(ぶべん)(武士)ではなかったのである≫
大森曹玄氏は、見事に的確なる鉄舟武士道を解説されている。

さて、円朝は鉄舟から何を学んだのであろうか。
明治5年(1872)、素噺一本に転じた円朝、噺の根源思想を禅に求め、明治10年(1877)に鉄舟門下となった。
鉄舟は安政6年(1859)、自らが発起人となり、清河八郎等と尊皇攘夷党「虎尾の会」をつくっている。
ところが、慶応4年3月には突如、慶喜の命を受け駿府の西郷のところに交渉に行き、無血開城を成し遂げ、新政府では明治天皇の侍従という要職に就いた。
外見には、転身ともいえる生き方に見えるが、円朝は鉄舟の根本思想を理解することで、その行動に矛盾なきことを悟り学び、自らの素噺一本以後の土台を固めることができたのだが、このところは、もう少し鉄舟の生き方を掘り下げ、円朝を囲む社会環境を整理しないと理解できない。次号に続く。

 

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