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2019年5月

2019年5月24日 (金)

2019年6月例会開催について

2019年6月例会は6月19日(水)に以下のように開催いたします。

   発表    永冨明郎氏 
   テーマ   「鉄舟に投げ飛ばされた男 雲井龍男」   
   時間    18時30分~20時
   会費    1500円
   会場    東京文化会館・中会議室2(通常月と異なります)

(テーマの背景)
 米沢藩士・雲井龍雄(本名・小島龍三郎)は幕末から強く薩摩藩の動きに嫌悪感を抱き、戊辰戦争時には「討薩の檄」を記して奥羽越列藩同盟でもこれが採用される。
戦後には世の浪士再出発の手助けをするという名目で東京に「帰順部局点検所」なる施設を立ち上げる。
これへの支援を求めて静岡藩にも来訪し、山岡鉄舟に申し入れするも、鉄舟はこれを強く批判し、庭に投げ飛ばされる。
一方、新政府は雲井の動き、点検所に集まる浪士らの動きを警戒し、その一部が農民一揆、あるいは騒乱の計画をしているとして、雲井は捉われ、明治3年12月、小伝馬牢獄にて斬首され、その首は小塚原に梟された。
果たして雲井龍雄の生涯はいかなるものだったのか。そしてなぜ鉄舟は雲井を投げ飛ばしたのか、それらを振り返ります。

 

2019年7月例会は7月17日(水)に山本紀久雄が発表いたします。


 

2019年5月例会開催結果

2019年5月例会は喜多村園子氏からご発表いただきました。

喜多村氏は平成30年5月に『小林二郎伝』を出版、「山岡鉄舟研究会」や「越佐文人研究会」で講演されましたところ、小林二郎に関係する多くの資料や情報が寄せられ、それらについて研究し考察された内容を、今回「続編」として以下のようにお話しされました。

まず、最初に、数多くの資料や情報から「新たなる二郎」の人物像が浮かびあがった。特に、兄省介の冤罪時の様子が、この度解読した自筆訴状の行間から、いかに二郎が兄・省介を懸命に助けようとしたかが、窺われ読み取ることが出来、これが屠腹しようとした二郎の「明治七年血書錦絵」に繋がっていることを再確認できた。

また、二郎は出版人としても並々ならぬ業績を残しており、膨大な出版物を考えると、昼夜を分かたず出版し続けたのではないかとも推測できる。

さらに、こうした出版業の傍ら、明訓學校の設立・良寛堂建立の協力者・郵便局長など事業家として、各界の錚錚たる人々と交流し、新潟の文化を高めていった功績は計り知れない。

特に強調したいのは、良寛研究者として、また『僧良寛歌集』『僧良寛詩集』の出版を通して、良寛に対する敬慕の情は格別であったことと、その結果が須磨での客死へと推察している。

加えて強調できるのは、小林二郎が、出版人や各方面に多大の功績を遺したが、終生トップ の座を占めることはなく、常に事務局やNO2として困難且つまた苦労の多い難儀な仕事を引き受け、真摯に仕事を貫いたことである。その生き様は、二郎の師高橋泥舟や山岡鉄舟の生き方に重なると思う。

新潟に小林二郎という出版人・良寛敬慕者・文化人が存在したことを、出版を通じて知らしめることができたこと、今、喜んでいるところである。

今回のご発表は、昨年ご発表後一年間の小林二郎研究でありましたが、見事に考察を深められたプロセスを表明されたもので、鉄舟の教えに通じる「長期にわたって目標を持ち続けることの大事さ」を実践行動されました。
喜多村氏から学ぶこと多く敬意を表します。

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十九

明治5年(1872)、素噺一本に転じた円朝、明治10年(1877)に、伊達千廣から禅の教えを受け、続いて鉄舟門下となって、禅修行に打ち込んだ。
禅に向かった背景に、自らを煩わす悩みと、明治維新による外部環境の変化があった。
円朝が思い煩うのは、当時の芸人の社会的立場で、それは円朝の泣きどころともいえた。『三遊亭円朝子の傳』がこう伝える。
≪千廣翁はいと詳かに其の意義を説明されるゝにぞ、それより円朝は我が過去になせし事にて、悪しゝと思ひし事を悔い、謹しみの心を起しづゝ、芸人には珍らしき順良の人なりと噂を立てらるゝに至りたり≫

この「芸人には珍らしき」という千廣発言の言い方から、当時の芸人に対する世間的評価がどのようなものだったかを窺い知ることができる。
その千廣翁が病に倒れ、逝去した際も円朝はこう言いながら葛藤している。再び『三遊亭円朝子の傳』からの引用。

≪遂に此世を去られしにぞ、円朝は我知らず涙を催ほしつゝ、傍の人に打向ひ、芸人風情の我々を贔屓なし下さるゝ有難きに・・・≫
自ら「芸人風情」と述べる件に、円朝の複雑な思い、そして当時の芸人に対する蔑視、差別感が表れている。

現代でも≪芸人とは軽い、侮蔑を含意して用いられる≫(新明解国語辞典)とあるが、当時は今より強い感覚で見下されていたのだろう。維新後の生き方を模索していた円朝にとって、「芸人風情」からの脱皮は大いなる課題であった。

外部環境の変化は、東京における住人口の変成である。具体的には地方から東京への流入混成による人口増である。江戸期を通じて町民は〞江戸っ子〟のみで構成されていたが、そこに〞地方人〟が混入された。

支配階層は、徳川幕府の大名・旗本に代わって、公家と地方藩の出身者になり、戦闘要員であった武士が消え、軍隊は一般人で構成されるようになった。こうなると江戸の商人たちも客商売対象を変えざるをえない。

慶応4年(1868)、無血開城によって官軍が江戸に入って、兵隊たちは5月15日の上野戦争以外は戦いがなかったので暇がある。精力を持てあます兵隊たちは料理茶屋や遊郭へ繰り込む。

江戸で長く構えている店側は「この芋侍どもめ」と思うものの、そこは商売である。それまでの得意先だった旗本たちは来ないのであるから、新規客として芋侍を相手にせざるを得ない。
歌まで変わった。それまで遊び唄われたのは、長い徳川治世で磨きぬかれた粋で皮肉で軽妙な江戸小唄であったが、芋侍には通じない。
仕方なしに唄ったのは「宮さん 宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは何じゃいなトコトンヤレ」だった。慶応4年頃に作成された軍歌・行進曲で、トコトンヤレ節もしくはトンヤレ節ともいう。作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎とされているが確証はない。だが、日本初の軍歌であり、最初の流行歌ともいわれている。(『明治以後の歴史』高野澄著)

流行歌は時勢を反映する。江戸っ子には敗戦でも、時代の勝者には気分の良い歌であったろう。
芋侍は明治政府の警察関係者にも多く、寄席にも来たが、その田舎風の発言や行為を芸人が面白がり、舞台で軽妙な諷刺をもって揶揄し、官憲との間で悶着が発生する。

明治7年(1874)12月10付の『郵便報知』にこんな記事が載っている。
≪去月八日、有名な落語家円朝、第一大区十三小区屯所に牽(ひか)れたり。是は廿七日夜、米沢町立花屋といふ寄場にて茶番狂言に巡査に扮せるを出し、徽章の黄線ある服を着たりしに因(より)てなり。菊五郎といひ、円朝といひ、盛なる者は跌(つまず)くを免れず≫

拘引されたのは円朝であるが、巡査に扮したのは一門の誰かであったろう。弟子の不始末として責任を追及され出頭を命じられたのである。
しかしながら、寄席は地方人にとって大事な場所でもあった。寄席は東京風のことばや遊びや笑いの世界がくりひろげられ、東京という都会の生活様式や人々の感情を知ることができ、教えられるところでもあったので、従来の観客に新しい客が加わって寄席は盛況であった。

他にも地方人増加要因として、松方デフレの影響が大きかった。農民の作物販売額がデフレにより減額、現金収入減となり、固定地租料を支払うと生活が苦しく、現金を確保するため農地を売却するケースが相次ぎ、それらの人々が工業化などの過程で生れはじめた賃金労働者として都市に流入したのである。

加えて、明治5年(1872)の戸籍法施行も大きく影響した。いわゆる壬申戸籍で、身分も皇族、華族、士族、卒族、平民、神官、僧侶、尼僧と定められ、平民戸籍に身分と苗字が記された。
苗字は、明治3年(1870)の「平民苗字許可令」を経て、明治8年(1875)の「平民苗字必称義務令」により、国民は皆、公的に苗字を持つ、つまり「家」という単位になった。この「家」という概念変化が、その後の東京という都会社会に大きく反映した。

平民の大多数を占めた農民を事例にとると、江戸時代の農家は「本家」「総本家」というものが先頭に立ち、「分家」や「一家(いっけ)」をまとめ、農耕も一族を単位として行うのが普通だった。
血縁は重要な糸であったが、それだけで一族がつながっていたのではなく、何百年か前に耕地を分け合った仲であったとか、苦しいときに助け合った関係であるとか、特に証拠などが明らかでなくても、記憶や言い伝えが一族をつなぐ役割を果たしていた。集団農耕、集団生活であり、ただ寝起きする家が別々であったという意味合いでもあった。
この場合、総本家の長は一族の指導者であるから、彼の能力が一族の生活安定・安全を左右する。そこで、一族の長選びは、談合と習慣をミックスさせるという長年の知恵で、その歴史を長くつないできた。

ところが、明治の旧民法は男系長子という、長男が戸主になって家督を相続する法律にした。長男が家督相続者であるから、長年の談合と習慣ミックス方式は少なくなった、一族としてのつながりも薄くなっていく。

また、一族と離れて独立した農家は、当然ながら小規模となって、長男は生れた時から家督相続者であるが、次男や三男、女の子は他家へ嫁に行くとしても、相手の男が耕地所有者である割合は次第に少なくなっていく。

結局、農村で余った次男・三男・女の子は都会に出て、工場労働者になっていく。旧民法が都会人をつくったともいえる。結果として多種多様な階層階級が住む東京になった。

一派の統領としての円朝、「芸人風情」心情からの脱皮と、文明開化によって大きく移り変わった東京人との関係をどう構築していくか。
つまり、江戸期からの客層にも、明治新時代の客層にも合わせ、新時代に発生した上流・中流・下層社会層という輻輳化し、入り込んだ社会に合わせた噺づくりが必要だと認識したはず。そしてテーマとしては、時代と社会を階層ごとに読み込んだものと考えたであろう。

具体的には、①新政府が求めた民衆教化イデオロギーへ対応し、②社会の中で新しく生れた諸階層への対応を行うことで、③三遊派一門の復興を成し遂げ、④芸人の社会的地位の向上を図るである。

これ等を共に成し遂げるためにはどうするのか。一言でいえば、時勢に即する生き方の発現であり、そのためにも鉄舟から教示された禅を、自らに取り入れようとしたのであり、それには自己革新するしか方策はない。

そこで、その自己改革過程を論じることになるが、そのためには、明治に入ってから円朝が展開した行動内容を、既述したものも含めて、ここで一度整理してみる必要があるだろう。

明治3年(1870)、明治政府(東京府)は寄席演目を、軍書・講談・昔噺に限定するよう通達した。寄席演芸を猥雑なものとみていたのであろう。
明治5年(1872)3月、政府は教部省を設置、4月に「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」を旨とする「三条の教則」を出し、この教則を民衆に伝える役目として教導職が設置され、円朝を任じた。

円朝は自らを「教導師」と語ってはいたが、伝記や創作噺の内容からは「敬神愛国・皇上奉戴」を積極的に取り上げたという事実は確認できない。ただし、「天理人道」は「塩原多助一代記」の中で、忠孝・律儀という伝統的徳目に置き換えて語っていた。(『三遊亭円朝と民衆世界』須田努著)

同年、長らく精進してきた芝居噺をやめ、素噺に転向し、弟子の円楽に三遊派最高の名跡である円生(三代目)を襲名させ、工夫をこらしてきた大道具一式を譲った。

この年の10月5日に寄席取締に関する布告がなされ、以下の三項目が禁止として打ち出された。
① 男女打交ること
② 音曲物真似等
③ 歌舞伎同様の所作
円朝の芝居噺などは当然に、この取締対象となるが、この示達寸前に素噺に転向した行動をとったことは、新政府が打ち出す諸政策を、本能的に予測していたのかもしれない。

明治6年か7年の頃、数年間、住みなれた大代地から浜町梅屋敷へ移転し、そこで画家の飯島光峨の夫人と知り合い、「榛名梅吉」という上州の侠客の話を聞き、明治8年(1875)に後開榛名梅ヶ香(安中草三郎)を完成させた。
これは夏の休みを利用して実地に上州へ、風雨の中を20日間余かけた。円朝の現地調査について、『郵便報知』明治8年(1875)8月7日付が次のように報道した。
≪有名なる落語家三遊亭円朝は、新作榛名梅吉の後案を稿する為め、近日上州辺へ向て出立せる由なれば、定て帰京の後は早速其新稿を講述するなるべしと三遊亭贔屓の連中は今より指を屈して待つなるべし≫
この報道に「後案」とあるので、既に前編にあたるものが発表されていたかもしれないが、土地での見聞をそのまま創作へ生かす作品作りの始まりであった。

今の時代、現地調査による写実的な話し方が、人々の好みに合うのではないかと想定し始めたのである。
これは今までの幕藩体制という江戸幕府の支配下では、独立の領地をもつ諸藩が統治する封建的な政治体制であったので、自由に行き来できなかったが、それが「旅行」として解禁され、今まで行けなかった地方の状況を知りたいという欲求を持つ人々が増えたこと、これが時勢だと気づいたのである。

 明治9年(1876)8月29日に、車夫酒井伝吉を連れて出立し、宇都宮から日光、湯本、奥日光の山岳地帯を経て沼田に抜け、帰途は前橋、足利の知人を訪ねた後、9月14日に戻るという17日間にわたった。この間の内容は『上野下野道の記』としてのこされている。
奥日光、尾瀬沼付近の状況を物語る、当時の数少ない文献としても、この旅行記は珍重すべき価値がある。草深い上州路の初秋を楽しみつつ、俳句、狂歌に興じながら、塩原多助という過去の人物の面影を形成しようとする円朝、その努力と苦心は想像に余るものがあった。(『三遊亭円朝』永井啓夫著)

同年10月22日の『朝野新聞』に漢学者・信夫恕軒が漢文で綴った「三遊亭円朝伝」が掲載された。この伝は翌10年(1877)発行の「恕軒文鈔」第一篇下にも改訂の上採録された。

文中、よく円朝の技風と、師父母に対する孝養、向学心、更に兄永泉和尚以来の禅への関心などが述べられ、成島柳北、塩谷青山等の評も加えられている。

明治10年(1877)、禅の鉄舟門下となって、たえず禅の公案に没入、とうとう「無舌居士」の号を授けられた。

明治11年(1878)、円朝40歳。軍医総監松本順主催の西南戦争鎮定記念祝賀会が両国中村楼で盛大に開催された。
円朝はこの祝宴で浄瑠璃「双蝶々曲輪日記」の主人公の一人で、大坂相撲の人気力士の濡髪長五郎を演じた。振付は初代花柳寿輔で後見もつとめてくれた。

松本順は、将軍徳川家茂の侍医となり、戊辰戦争では各地に赴き、東北軍のために治療につとめたので幽囚の身となったが、赦免され早稲田に病院を開いた。その後、陸軍の山縣有朋に乞われ兵部省に出仕、軍医総監となった。
公務の傍ら、長野県湯田中温泉において、温泉入浴法を示し、同温泉を長寿の湯と褒め称え、牛乳の摂取や海水浴などの普及も行うなど、世間一般にもその名をよく知られ、遊芸などの趣味にも広い通人であった。

円朝は、新知識を松本順から得て、作中でよく使った。明治19年(1886)作の『蝦夷錦古郷の家土産』で、主人公であるお録が常陸筑波下高道祖村の同愛社病院で看病女となる場面があって、≪其の院長は鳥居丹波守の抱医者で榊原養庵といふ人で、こりゃア江戸の大医松本良順先生の弟子で高名な人だ≫というように、創始期の病院や看護婦などの様子を描いている。

明治11年(1878)、円朝は3年の歳月を費やし『塩原多助一代記』、誠実な一商人の出世譚を完成させた。
円朝が得意とする上州訛りを駆使し、篤実な主人公多助を中心に武家、町人、百姓、無頼の徒など、多数各層の人物を配し、善悪二道の栄枯盛衰を描く新しい形式の人情噺。
有名な愛馬「青」との別れなどは、人語を解する名馬の心情を心にくいまでに描いているが、こうした場面も当時、馬術の名人といわれた草刈庄五郎との親交から得た内容であった。
いずれにしても、地方人を主人公とし、人倫道、勤倹貯蓄、立身出世を説くストーリーは、今までの落語人情噺からは想像できない新機軸作品であった。

これが受け入れられたのは、地方から東京へ人口流入し、多層的客層という社会状況に合致していた上に、新政府が求める民衆教化イデオロギーという方針にも沿うものであった。

結果は、明治21年(1888)に春木座上演、明治22年(1889)に大阪浪速座で上演、明治24年(1891)井上馨邸で明治天皇御前にて口演、明治25年(1892)歌舞伎座上演、続いて修身教科書に掲載されるに至った。

明治年代の時代背景に戻る。明治10年(1877)の西南戦争勃発により、戦費調達不換紙幣の大増発によって大変なインフレーションになって、物価は明治10年から明治14年(1881)までの4年間で2倍となった。

その上、明治12年(1879)にコレラが発生し大流行となって、東京には維新後最大の不況が訪れ、例年なら最も収入の増える正月にも拘らず、芸人の生活は厳しい状況であった。

生活苦の市民は当然に娯楽への足は遠のく。その市民を誘うには、必然的に興味本位の刺激的な演目が多く取り入れられていった。
維新以来、厳しい抑制を続けてきた治安当局の示達も、不況の前には効果が出ず、寄席はただ客足の多きを求める興行を選び、演芸の内容を堕落させていった。

この時期、高座で人気を博していたのは三遊亭円遊と万橘であった。円朝門下であったが、円遊は「ステテコ」、万橘は「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした人気であった。
円遊がはじめてステテコを演じたのは、明治13年(1880)11月の浅草並木亭で、「アンヨをたたいてしっかりおやりよ」などと歌いながら、鼻をつまんだり、足を打ったりする単純な踊りだったが、これが巧まない円遊の愛嬌となって人気を得た。
万橘のヘラヘラは、赤い手拭い、赤地の扇子を手にして、ヘラヘラ節なる他愛無い唄を歌い、奇妙な手つきで踊った珍芸である。
不況下、圧倒的な人気を集めていた円遊と万橘、そして、興味本位な興行に流れていく寄席、この傾向を円朝はどう思っていたのか。

円朝の芸風は、禅によって高められ、独自な境地をひらいていた。しかし、これを一門の弟子すべてに教えられるものではなく、弟子も世間も円朝が持つ高い芸境には近づけない。明治の新時代とはいえ、所詮、落語は落語であり、芸人は芸人にすぎなかった。

殊に世間の不況下では、正当な芸、高度な芸などは一般から敬遠されやすく、見栄も外聞もなく、ただ娯楽本位に観客に媚びようとする芸人が、人気を博するのは当然といえよう。

円朝もこの状況をよく理解していた。決して自己の芸境を門下に強制しようとはしなかった。
明治14年(1881)6月、父の十三回忌と、母の三回忌を合わせた法事を営んだ。不況ではあったが、既に名人と称される円朝を施主に、いま人気絶頂の円遊と万橘を従えた三遊一門の挙っての法事は盛況をきわめた。

ここでさらなる改革を円朝が打ち出した。それは明治17年(1884)の『怪談牡丹燈籠』の速記本出版である。それは円朝が仕掛けた読者層拡大のための一大作戦であった。次号へ。

 

 

 

 

 

 

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十八

江戸無血開城によって日本の近代は進み歩んで、今年は維新150年となった。
 その無血開城の功績者は誰か。という議論になると、現在、圧倒的に「西郷隆盛と勝海舟による慶応4年3月14日の会見で決した」という説が流布され、史跡が港区田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡に立っている。
 東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸無血開城をめぐるおもな動き」が図示されている。
これによると鉄舟の役割は海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。この文面からは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。
 

そこで、2016年10月に江戸東京博物館学芸員に対し、「全生庵で保存されている鉄舟直筆の『慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記』には、西郷との交渉・談判の内容と、西郷から『慶喜の命保障』、『徳川の家名存続』の確約を引き出したことが明確に記され、その結果を江戸にて大久保一翁、海舟に報告し、慶喜が欣喜したと書かれている」が、これと江戸東京博物館の図示とはあまりに違い過ぎるのではないか、と問い合わせしたところ、次のような回答が届いた。
「『談判筆記』などの資料研究を深め(他の同時代資料とのつき合わせなど)、当館のパネルや展示に反映させていければと存じます」と。
2018年1月20日、読売新聞西部版に「維新150年」記事が掲載された。テーマは「江戸無血開城」で、筆者にも取材がありコメントしたが、江戸東京博物館学芸員も「私見史論」として同紙で次のように述べている。
≪江戸城無血開城は幕末維新史のハイライト。ドラマや映画で描かれるように勝と西郷が演じた役割は大きいが、2人だけで成し遂げられたわけではない。敵だらけの中、果敢に西郷との面会に赴いた山岡鉄舟や、徳川家の存続を切に願った2人の御台所――薩摩藩出身の天璋院(篤姫)と皇族出身の静寛院宮(和宮)らがそれぞれの思惑で動いた結果、実現したことを忘れてはならない≫
この掲載内容、異論が残るが、鉄舟を「勝の手紙を届ける単なるメッセンジャー役」という図示から、かなり変化させている。認識転化したのか。

2018年1月5日の産経新聞デジタル版に、岩下哲典氏(東洋大文学部史学科教授)が「知られざる『江戸無血開城』 勝海舟を凌ぐ幕末ヒーローはこの人だ!」を掲載した。
この中で岩下教授は、≪「江戸無血開城」の幕府側の最大の功労者は、海舟では断じてない。山岡鉄舟である。そして二番目の功労者は、鉄舟の義兄、高橋泥舟である。海舟は三番手である。むろん、西郷は新政府側の最大の功労者であることは変わりがない。あえて言えば「江戸無血開城」の功労者は西郷と鉄舟・泥舟である。海舟は、徳川家の表向きの代表者として追認したにすぎない≫

≪「江戸無血開城」前夜の4月10日、慶喜は主だった幕臣を集めて別れを惜しんだ。その時、鉄舟に自らの助命と徳川家の存続、すなわち「江戸無血開城」に果たした役割は、鉄舟が「一番槍」であると称賛して愛刀を与えた(全生庵所蔵の断簡史料)。鉄舟・泥舟の苦労が報われた瞬間である≫

≪「江戸無血開城」の新政府側の功労者は確かに「西郷どん」である。徳川方の功労者は、鉄舟・泥舟・海舟・和宮の使者である。これまたあえて比率でいえば、西郷:鉄舟:泥舟:海舟:和宮の使者=3・5:3・5:2:0・5:0・5であろう≫

上記見解を詳しく述べた『江戸無血開城の真実』(吉川弘文館)が出版されたので読んで頂きたい。

いずれにしても、岩下教授も筆者も「江戸無血開城は、駿府における西郷・鉄舟談判で事実上成されたもので、慶応4年3月14日の西郷・勝会見ではない」という見解である。

因みに、岩下教授が「一番槍」と記した鉄舟書状の全生庵所蔵断簡史料は左であり、これを読み解き、書き直すと次のようになる。
「十一日出立前夜、御前へ被召、御手つから来国俊之御短刀拝領被仰付、是迠度々骨折候、官軍の方へ第一番ニ至り候事一番鎗だと上意有之、あり難き事ニ御座候」。

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さらに、「明治維新150周年鹿児島県講座」(2018年2月24日よみうりカルチヤー)で、NHK大河ドラマ「西郷どん」の時代考証を担当した原口泉氏が「江戸無血開城は山岡鉄舟と西郷隆盛とで成し遂げた。その後の会談はその後始末のようなもの」と解説したと、出席した山岡鉄舟研究会員から連絡を受けた。原口氏も鉄舟の功績と明言したのである。

もうひとつ証明となる史料に『正宗鍛刀記』がある。鉄舟が徳川宗家16代の徳川家達から賜った太刀「武蔵正宗」の経緯が記されているもので、無血開城が鉄舟の業績であると証明するものであるが、その経緯を『おれの師匠』(小倉鉄樹著)から要約する。

≪明治14年(1881)、明治政府は維新の功績調査を行って、関係者を召還または口述や筆記を徴した。
鉄舟は「別に取り立ていう程のことはない」と賞勲局の呼び出しに応じなかったが、何度も呼び出しがあるので出頭すると「先刻、勝さんが来て斯様なものを出されましたが・・・」と鉄舟に見せた。
それを見ると「勝が西郷との談判を行ったと書いてあり、鉄舟の名はない」ので「変だと思ったが、嘘だと言うと勝の顔を潰すことになる。勝に花を持たせてやれ」と「この通りだ」と海舟の功績を肯定した。
賞勲局員も無血開城の経緯を知っているので鉄舟に反問した。
「それであなたの功績はどうしたのですか」
「おれか。君主に臣民が為すべきことを為したまでで手柄顔は出来ないさ」
賞勲局員は困って、賞勲局総裁の三条実美公に報告したところ、三条は岩倉具視公に連絡、岩倉公も「それは変だ」と鉄舟を呼び出し尋ねた。
鉄舟も岩倉公の前では嘘も言えず「実は、勝からあのような書類が出ていたので、勝の面目のため自分は手を退いた」と答えた。
岩倉公は鉄舟の人格高潔さに感服しつつも、正しい史実を遺すべく、鉄舟から当時の談判事実を詳しく聞き取って、漢学者の川田剛に漢文で書かせ、明治の三筆の一人である巌谷修が六朝楷書でしたためた≫

現在、名刀「武蔵正宗」と史料『正宗鍛刀記』は、「刀剣博物館」に保管されている。その経緯は、鉄舟から岩倉具視へ贈呈され、岩倉家から藤澤乙安氏へ売り渡され、その後、藤澤家が「刀剣博物館」へ寄贈し現在に至っている。

では『正宗鍛刀記』に記された内容と異なり、世間で「西郷と海舟によって無血開城が成された」という説が流布されているのはなぜであろうか。

そのひとつの大きな要因として挙げられるのが、海舟自ら≪ナアニ、維新の事は、己と西郷でやったのサ≫(『勝海舟全集』第20巻「海舟語録」講談社・「明治31年1月30日」)と、書き述べていることが影響している。

多分、明治中期、鉄舟が存命中の明治21年(1888)ごろまでは、「江戸無血開城は鉄舟の功績」といのが、世間で当たり前の認識であったに違いない。
それを証明するのが、前記した明治政府の維新功績調査における賞勲局員の疑問である。この頃は誰もが鉄舟が「一番槍」であることに疑問を持たなかったのではないか。
ところが、後世の歴史家たちが、史料を集め分析していく過程で、誤った見解がつくりだされたのではなかろうか。

その一つの事例として、江藤淳氏の『海舟余波』の記述を取り上げたい。その一節にこうある。
≪鉄舟山岡鉄太郎が、駿府に到着して西郷吉之助と会見したのは、3月9日のことであった。(中略)しかし、この同じ日、江戸でひそかにおこなわれていたもうひとつの重要な会談については、人は意外と知るところが少ないのである。それは軍事取扱勝安房守義邦と、英国公使館通訳官アーネスト・サトウとの秘密会談である。サトウはそのメモアールに記している≫

江藤氏が言う≪そのメモアール≫とは、アーネスト・サトウの著書『一外交官の見た明治維新』(岩波新書)の190頁の文言である。
≪3月8日に私は長官と一緒に横浜に帰着し、3月9日には江戸へ出て、同地の情勢を探ったのである。私は野口と日本人護衛6名を江戸へ連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であった勝安房守であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた≫
この記述から、ほとんどの学者・作家・評論家等識者は、この3月9日江戸派遣時に、サトウが直ぐに海舟に会ったと錯覚してしまう。
ところが、これは完全なる誤りであることを、当誌2016年7月号で次のように指摘した。

≪『一外交官の見た明治維新』の原文“A Diplomat In Japan”には、3月9日江戸派遣時について、“used to visit”と書かれている。“used to”は過去の習慣(よく〇〇したものだ)を表す文法である。つまりここに書かれている「訪問」は、3月9日の派遣時に訪問したという特定の事実ではなく、この時期にサトウがおこなっていた情報収集の方針・やり方一般をいっているのである≫

恐ろしいことに江藤氏は、サトウの原文意味を確認せずに、海舟がサトウと会談したと断定している。さらに、横浜開港資料館に行けば、イギリス公使のハリー・パークスが本国に報告した文書のコピーが保管されているので、これを読み解けば3月9日にサトウが勝と会っていないことが判明する。だが、横浜開港資料館史料云々との記述もない。

江藤氏といえば、日本を代表する著名な文芸評論家であり、江戸城無血開城に際し敗れた幕府側の人間でありながらも、理想的な治者として勝海舟を見出し、評伝『海舟余波』を著して海舟を世に喧伝した。また、松浦玲氏と共に前記の『勝海舟全集』(講談社)の編纂に参画した。『氷川清話』と『海舟語録』は何度も重版されている。

江藤氏は何故に3月9日に拘っているのか。それは海舟が3月13・14日の西郷・勝会談以前の9日に、通訳官アーネスト・サトウに会い、パークスへ工作し、パークスから西郷に江戸攻撃を止めるよう圧力をかけたという説にしたいがためであろう。

つまり、鉄舟が駿府で西郷と談判している時に、海舟が既に江戸無血開城を止めさせるべく、イギリスに協力を得て交渉をしていたことになるわけで、これが事実ならば勝の功績は大きい。だが、この事実はない。

このような歴史研究家の史料読み込み誤りと、解釈違いは恐ろしい。結果として、江戸無血開城は「西郷と勝による慶応4年3月14日の会見で決した」という説が多数説として流布され、史跡が港区田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡に立ち、加えて、平成15年(2003)に海舟生誕の地に近い隅田川河畔、それも墨田区役所の脇に海舟像が建てられた。

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筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で「墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である」と述べた。北斎と王さんはわかるが、海舟が世界的な評価を受けているとは思えない。 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか。

鉄舟の禅弟子である円朝は、無血開城が鉄舟業績であることが、当時では常識としていたから、何も作品の中で述べていないし、円朝を含む当時の江戸っ子は、150年後、歴史研究関係者間で、江戸無血開城が「誰によって成されたのか」ということが、これほどまでに議論されていることは予測できなかったであろう。
150年経過し、日本が先進国として世界に冠たる地位を占めているがゆえに、そのスタートである無血開城に、現代人が強い関心を持って、縷々語られ、研究がなされているわけだが、往事の当事者である鉄舟は「君主に臣民が為すべきことを為したまで」という海舟とは真逆の淡泊さである。
この爽やかさを鉄舟はどのように身につけたのであろうか。
それは禅修行によって辿りついた境地に尽きるであろう。また、円朝も鉄舟の姿から学んだからこそ、その境地・奥義を己の生き方に取り入れたに違いない。

では、鉄舟が禅から得た境地とは何か。鉄舟は僧侶ではなく、武士である。だから、鉄舟は武士道の体現者として理解すべきである。
鉄舟は亡くなる前年の明治20年(1887)、門人の前滋賀県知事・籠手田安定らの求めに応じ、何回かにわたって武士道を講じている。(参照『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編)

その講義の冒頭で、≪拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである≫と述べている。ここでいう仏教とは禅を意味しており、続いて、≪それもその教理が真に人間の道を教え尽されているからである。まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・知・信とか、節義・勇武・廉恥とか(中略)、これらの道を実践躬行する人をすなわち、武士道を守る人というのである≫と述べ、その当然の結果として≪日本の武士道ということは日本人の服膺践行すべき道というわけである≫と論定している。

さらに論を進め≪その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻徳を奉謝することに躊躇しないであろう。これすなわち武士道の発現地である≫

大森曹玄氏は臨済宗の禅僧で、直心影流剣術第15代・山田次朗吉の弟子でもあり、鉄舟ゆかりの高歩院の住職を務め、著書に『山岡鉄舟』があり、その中で鉄舟の武士道講話について次のように解説している。
≪鉄舟にとって、”武士道”とは、かつての武士たちが究明し実践したところの、武士社会の倫理でもなければ、またその主従間の道徳でもない。それは時の過去と現在とを問わず、また士農工商の階級差別に関係なく、広く日本人たるものの踏み行なうべき人間の道なのである。同時にそれは、人類全般にも普遍的に妥当する「人間の道」だともいえるのである。こういうのが、鉄舟の武士道の本質である≫
≪彼も始めは父母の教訓である”忠孝”というものを、一つの徳目としてこれ何ぞと究明したことであろう。形の上では剣、心では禅によって、如何、如何と忠孝を究め来たり、究め去っていくうちに、ついにそれらの諸徳目を貫くところの”則”、別な言葉でいえば、”大道”に当面し、その”淵源”に到達したのだとおもう。彼はそこに確乎不動の”自信”を得た≫
≪鉄舟が武士道と呼んだ人間の道は、忠とか孝とか、仁とか義とかいう既存の徳目の一つ一つを対象的に実践することではない。その底を貫くというのか、それらを超えて包むというのか、とにかくそれらの相対的な一々の徳目を成り立たしめる根本原理を体得し、実践することをいっているのである。それを一言にして言うならば、その根本原理が「無我」なのである≫
≪禅に徹し、一切に自在を得た鉄舟の武士道とは、実にこのような人間としての根源的な大道を把握して、それを日常生活の上に無礙自在(捉われることなく自由自在)に実践することであった。まことに鉄舟は一介の武弁(ぶべん)(武士)ではなかったのである≫
大森曹玄氏は、見事に的確なる鉄舟武士道を解説されている。

さて、円朝は鉄舟から何を学んだのであろうか。
明治5年(1872)、素噺一本に転じた円朝、噺の根源思想を禅に求め、明治10年(1877)に鉄舟門下となった。
鉄舟は安政6年(1859)、自らが発起人となり、清河八郎等と尊皇攘夷党「虎尾の会」をつくっている。
ところが、慶応4年3月には突如、慶喜の命を受け駿府の西郷のところに交渉に行き、無血開城を成し遂げ、新政府では明治天皇の侍従という要職に就いた。
外見には、転身ともいえる生き方に見えるが、円朝は鉄舟の根本思想を理解することで、その行動に矛盾なきことを悟り学び、自らの素噺一本以後の土台を固めることができたのだが、このところは、もう少し鉄舟の生き方を掘り下げ、円朝を囲む社会環境を整理しないと理解できない。次号に続く。

 

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