明治5年(1872)、素噺一本に転じた円朝、明治10年(1877)に、伊達千廣から禅の教えを受け、続いて鉄舟門下となって、禅修行に打ち込んだ。
禅に向かった背景に、自らを煩わす悩みと、明治維新による外部環境の変化があった。
円朝が思い煩うのは、当時の芸人の社会的立場で、それは円朝の泣きどころともいえた。『三遊亭円朝子の傳』がこう伝える。
≪千廣翁はいと詳かに其の意義を説明されるゝにぞ、それより円朝は我が過去になせし事にて、悪しゝと思ひし事を悔い、謹しみの心を起しづゝ、芸人には珍らしき順良の人なりと噂を立てらるゝに至りたり≫
この「芸人には珍らしき」という千廣発言の言い方から、当時の芸人に対する世間的評価がどのようなものだったかを窺い知ることができる。
その千廣翁が病に倒れ、逝去した際も円朝はこう言いながら葛藤している。再び『三遊亭円朝子の傳』からの引用。
≪遂に此世を去られしにぞ、円朝は我知らず涙を催ほしつゝ、傍の人に打向ひ、芸人風情の我々を贔屓なし下さるゝ有難きに・・・≫
自ら「芸人風情」と述べる件に、円朝の複雑な思い、そして当時の芸人に対する蔑視、差別感が表れている。
現代でも≪芸人とは軽い、侮蔑を含意して用いられる≫(新明解国語辞典)とあるが、当時は今より強い感覚で見下されていたのだろう。維新後の生き方を模索していた円朝にとって、「芸人風情」からの脱皮は大いなる課題であった。
外部環境の変化は、東京における住人口の変成である。具体的には地方から東京への流入混成による人口増である。江戸期を通じて町民は〞江戸っ子〟のみで構成されていたが、そこに〞地方人〟が混入された。
支配階層は、徳川幕府の大名・旗本に代わって、公家と地方藩の出身者になり、戦闘要員であった武士が消え、軍隊は一般人で構成されるようになった。こうなると江戸の商人たちも客商売対象を変えざるをえない。
慶応4年(1868)、無血開城によって官軍が江戸に入って、兵隊たちは5月15日の上野戦争以外は戦いがなかったので暇がある。精力を持てあます兵隊たちは料理茶屋や遊郭へ繰り込む。
江戸で長く構えている店側は「この芋侍どもめ」と思うものの、そこは商売である。それまでの得意先だった旗本たちは来ないのであるから、新規客として芋侍を相手にせざるを得ない。
歌まで変わった。それまで遊び唄われたのは、長い徳川治世で磨きぬかれた粋で皮肉で軽妙な江戸小唄であったが、芋侍には通じない。
仕方なしに唄ったのは「宮さん 宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは何じゃいなトコトンヤレ」だった。慶応4年頃に作成された軍歌・行進曲で、トコトンヤレ節もしくはトンヤレ節ともいう。作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎とされているが確証はない。だが、日本初の軍歌であり、最初の流行歌ともいわれている。(『明治以後の歴史』高野澄著)
流行歌は時勢を反映する。江戸っ子には敗戦でも、時代の勝者には気分の良い歌であったろう。
芋侍は明治政府の警察関係者にも多く、寄席にも来たが、その田舎風の発言や行為を芸人が面白がり、舞台で軽妙な諷刺をもって揶揄し、官憲との間で悶着が発生する。
明治7年(1874)12月10付の『郵便報知』にこんな記事が載っている。
≪去月八日、有名な落語家円朝、第一大区十三小区屯所に牽(ひか)れたり。是は廿七日夜、米沢町立花屋といふ寄場にて茶番狂言に巡査に扮せるを出し、徽章の黄線ある服を着たりしに因(より)てなり。菊五郎といひ、円朝といひ、盛なる者は跌(つまず)くを免れず≫
拘引されたのは円朝であるが、巡査に扮したのは一門の誰かであったろう。弟子の不始末として責任を追及され出頭を命じられたのである。
しかしながら、寄席は地方人にとって大事な場所でもあった。寄席は東京風のことばや遊びや笑いの世界がくりひろげられ、東京という都会の生活様式や人々の感情を知ることができ、教えられるところでもあったので、従来の観客に新しい客が加わって寄席は盛況であった。
他にも地方人増加要因として、松方デフレの影響が大きかった。農民の作物販売額がデフレにより減額、現金収入減となり、固定地租料を支払うと生活が苦しく、現金を確保するため農地を売却するケースが相次ぎ、それらの人々が工業化などの過程で生れはじめた賃金労働者として都市に流入したのである。
加えて、明治5年(1872)の戸籍法施行も大きく影響した。いわゆる壬申戸籍で、身分も皇族、華族、士族、卒族、平民、神官、僧侶、尼僧と定められ、平民戸籍に身分と苗字が記された。
苗字は、明治3年(1870)の「平民苗字許可令」を経て、明治8年(1875)の「平民苗字必称義務令」により、国民は皆、公的に苗字を持つ、つまり「家」という単位になった。この「家」という概念変化が、その後の東京という都会社会に大きく反映した。
平民の大多数を占めた農民を事例にとると、江戸時代の農家は「本家」「総本家」というものが先頭に立ち、「分家」や「一家(いっけ)」をまとめ、農耕も一族を単位として行うのが普通だった。
血縁は重要な糸であったが、それだけで一族がつながっていたのではなく、何百年か前に耕地を分け合った仲であったとか、苦しいときに助け合った関係であるとか、特に証拠などが明らかでなくても、記憶や言い伝えが一族をつなぐ役割を果たしていた。集団農耕、集団生活であり、ただ寝起きする家が別々であったという意味合いでもあった。
この場合、総本家の長は一族の指導者であるから、彼の能力が一族の生活安定・安全を左右する。そこで、一族の長選びは、談合と習慣をミックスさせるという長年の知恵で、その歴史を長くつないできた。
ところが、明治の旧民法は男系長子という、長男が戸主になって家督を相続する法律にした。長男が家督相続者であるから、長年の談合と習慣ミックス方式は少なくなった、一族としてのつながりも薄くなっていく。
また、一族と離れて独立した農家は、当然ながら小規模となって、長男は生れた時から家督相続者であるが、次男や三男、女の子は他家へ嫁に行くとしても、相手の男が耕地所有者である割合は次第に少なくなっていく。
結局、農村で余った次男・三男・女の子は都会に出て、工場労働者になっていく。旧民法が都会人をつくったともいえる。結果として多種多様な階層階級が住む東京になった。
一派の統領としての円朝、「芸人風情」心情からの脱皮と、文明開化によって大きく移り変わった東京人との関係をどう構築していくか。
つまり、江戸期からの客層にも、明治新時代の客層にも合わせ、新時代に発生した上流・中流・下層社会層という輻輳化し、入り込んだ社会に合わせた噺づくりが必要だと認識したはず。そしてテーマとしては、時代と社会を階層ごとに読み込んだものと考えたであろう。
具体的には、①新政府が求めた民衆教化イデオロギーへ対応し、②社会の中で新しく生れた諸階層への対応を行うことで、③三遊派一門の復興を成し遂げ、④芸人の社会的地位の向上を図るである。
これ等を共に成し遂げるためにはどうするのか。一言でいえば、時勢に即する生き方の発現であり、そのためにも鉄舟から教示された禅を、自らに取り入れようとしたのであり、それには自己革新するしか方策はない。
そこで、その自己改革過程を論じることになるが、そのためには、明治に入ってから円朝が展開した行動内容を、既述したものも含めて、ここで一度整理してみる必要があるだろう。
明治3年(1870)、明治政府(東京府)は寄席演目を、軍書・講談・昔噺に限定するよう通達した。寄席演芸を猥雑なものとみていたのであろう。
明治5年(1872)3月、政府は教部省を設置、4月に「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」を旨とする「三条の教則」を出し、この教則を民衆に伝える役目として教導職が設置され、円朝を任じた。
円朝は自らを「教導師」と語ってはいたが、伝記や創作噺の内容からは「敬神愛国・皇上奉戴」を積極的に取り上げたという事実は確認できない。ただし、「天理人道」は「塩原多助一代記」の中で、忠孝・律儀という伝統的徳目に置き換えて語っていた。(『三遊亭円朝と民衆世界』須田努著)
同年、長らく精進してきた芝居噺をやめ、素噺に転向し、弟子の円楽に三遊派最高の名跡である円生(三代目)を襲名させ、工夫をこらしてきた大道具一式を譲った。
この年の10月5日に寄席取締に関する布告がなされ、以下の三項目が禁止として打ち出された。
① 男女打交ること
② 音曲物真似等
③ 歌舞伎同様の所作
円朝の芝居噺などは当然に、この取締対象となるが、この示達寸前に素噺に転向した行動をとったことは、新政府が打ち出す諸政策を、本能的に予測していたのかもしれない。
明治6年か7年の頃、数年間、住みなれた大代地から浜町梅屋敷へ移転し、そこで画家の飯島光峨の夫人と知り合い、「榛名梅吉」という上州の侠客の話を聞き、明治8年(1875)に後開榛名梅ヶ香(安中草三郎)を完成させた。
これは夏の休みを利用して実地に上州へ、風雨の中を20日間余かけた。円朝の現地調査について、『郵便報知』明治8年(1875)8月7日付が次のように報道した。
≪有名なる落語家三遊亭円朝は、新作榛名梅吉の後案を稿する為め、近日上州辺へ向て出立せる由なれば、定て帰京の後は早速其新稿を講述するなるべしと三遊亭贔屓の連中は今より指を屈して待つなるべし≫
この報道に「後案」とあるので、既に前編にあたるものが発表されていたかもしれないが、土地での見聞をそのまま創作へ生かす作品作りの始まりであった。
今の時代、現地調査による写実的な話し方が、人々の好みに合うのではないかと想定し始めたのである。
これは今までの幕藩体制という江戸幕府の支配下では、独立の領地をもつ諸藩が統治する封建的な政治体制であったので、自由に行き来できなかったが、それが「旅行」として解禁され、今まで行けなかった地方の状況を知りたいという欲求を持つ人々が増えたこと、これが時勢だと気づいたのである。
明治9年(1876)8月29日に、車夫酒井伝吉を連れて出立し、宇都宮から日光、湯本、奥日光の山岳地帯を経て沼田に抜け、帰途は前橋、足利の知人を訪ねた後、9月14日に戻るという17日間にわたった。この間の内容は『上野下野道の記』としてのこされている。
奥日光、尾瀬沼付近の状況を物語る、当時の数少ない文献としても、この旅行記は珍重すべき価値がある。草深い上州路の初秋を楽しみつつ、俳句、狂歌に興じながら、塩原多助という過去の人物の面影を形成しようとする円朝、その努力と苦心は想像に余るものがあった。(『三遊亭円朝』永井啓夫著)
同年10月22日の『朝野新聞』に漢学者・信夫恕軒が漢文で綴った「三遊亭円朝伝」が掲載された。この伝は翌10年(1877)発行の「恕軒文鈔」第一篇下にも改訂の上採録された。
文中、よく円朝の技風と、師父母に対する孝養、向学心、更に兄永泉和尚以来の禅への関心などが述べられ、成島柳北、塩谷青山等の評も加えられている。
明治10年(1877)、禅の鉄舟門下となって、たえず禅の公案に没入、とうとう「無舌居士」の号を授けられた。
明治11年(1878)、円朝40歳。軍医総監松本順主催の西南戦争鎮定記念祝賀会が両国中村楼で盛大に開催された。
円朝はこの祝宴で浄瑠璃「双蝶々曲輪日記」の主人公の一人で、大坂相撲の人気力士の濡髪長五郎を演じた。振付は初代花柳寿輔で後見もつとめてくれた。
松本順は、将軍徳川家茂の侍医となり、戊辰戦争では各地に赴き、東北軍のために治療につとめたので幽囚の身となったが、赦免され早稲田に病院を開いた。その後、陸軍の山縣有朋に乞われ兵部省に出仕、軍医総監となった。
公務の傍ら、長野県湯田中温泉において、温泉入浴法を示し、同温泉を長寿の湯と褒め称え、牛乳の摂取や海水浴などの普及も行うなど、世間一般にもその名をよく知られ、遊芸などの趣味にも広い通人であった。
円朝は、新知識を松本順から得て、作中でよく使った。明治19年(1886)作の『蝦夷錦古郷の家土産』で、主人公であるお録が常陸筑波下高道祖村の同愛社病院で看病女となる場面があって、≪其の院長は鳥居丹波守の抱医者で榊原養庵といふ人で、こりゃア江戸の大医松本良順先生の弟子で高名な人だ≫というように、創始期の病院や看護婦などの様子を描いている。
明治11年(1878)、円朝は3年の歳月を費やし『塩原多助一代記』、誠実な一商人の出世譚を完成させた。
円朝が得意とする上州訛りを駆使し、篤実な主人公多助を中心に武家、町人、百姓、無頼の徒など、多数各層の人物を配し、善悪二道の栄枯盛衰を描く新しい形式の人情噺。
有名な愛馬「青」との別れなどは、人語を解する名馬の心情を心にくいまでに描いているが、こうした場面も当時、馬術の名人といわれた草刈庄五郎との親交から得た内容であった。
いずれにしても、地方人を主人公とし、人倫道、勤倹貯蓄、立身出世を説くストーリーは、今までの落語人情噺からは想像できない新機軸作品であった。
これが受け入れられたのは、地方から東京へ人口流入し、多層的客層という社会状況に合致していた上に、新政府が求める民衆教化イデオロギーという方針にも沿うものであった。
結果は、明治21年(1888)に春木座上演、明治22年(1889)に大阪浪速座で上演、明治24年(1891)井上馨邸で明治天皇御前にて口演、明治25年(1892)歌舞伎座上演、続いて修身教科書に掲載されるに至った。
明治年代の時代背景に戻る。明治10年(1877)の西南戦争勃発により、戦費調達不換紙幣の大増発によって大変なインフレーションになって、物価は明治10年から明治14年(1881)までの4年間で2倍となった。
その上、明治12年(1879)にコレラが発生し大流行となって、東京には維新後最大の不況が訪れ、例年なら最も収入の増える正月にも拘らず、芸人の生活は厳しい状況であった。
生活苦の市民は当然に娯楽への足は遠のく。その市民を誘うには、必然的に興味本位の刺激的な演目が多く取り入れられていった。
維新以来、厳しい抑制を続けてきた治安当局の示達も、不況の前には効果が出ず、寄席はただ客足の多きを求める興行を選び、演芸の内容を堕落させていった。
この時期、高座で人気を博していたのは三遊亭円遊と万橘であった。円朝門下であったが、円遊は「ステテコ」、万橘は「ヘラヘラ」という珍芸を売り物にした人気であった。
円遊がはじめてステテコを演じたのは、明治13年(1880)11月の浅草並木亭で、「アンヨをたたいてしっかりおやりよ」などと歌いながら、鼻をつまんだり、足を打ったりする単純な踊りだったが、これが巧まない円遊の愛嬌となって人気を得た。
万橘のヘラヘラは、赤い手拭い、赤地の扇子を手にして、ヘラヘラ節なる他愛無い唄を歌い、奇妙な手つきで踊った珍芸である。
不況下、圧倒的な人気を集めていた円遊と万橘、そして、興味本位な興行に流れていく寄席、この傾向を円朝はどう思っていたのか。
円朝の芸風は、禅によって高められ、独自な境地をひらいていた。しかし、これを一門の弟子すべてに教えられるものではなく、弟子も世間も円朝が持つ高い芸境には近づけない。明治の新時代とはいえ、所詮、落語は落語であり、芸人は芸人にすぎなかった。
殊に世間の不況下では、正当な芸、高度な芸などは一般から敬遠されやすく、見栄も外聞もなく、ただ娯楽本位に観客に媚びようとする芸人が、人気を博するのは当然といえよう。
円朝もこの状況をよく理解していた。決して自己の芸境を門下に強制しようとはしなかった。
明治14年(1881)6月、父の十三回忌と、母の三回忌を合わせた法事を営んだ。不況ではあったが、既に名人と称される円朝を施主に、いま人気絶頂の円遊と万橘を従えた三遊一門の挙っての法事は盛況をきわめた。
ここでさらなる改革を円朝が打ち出した。それは明治17年(1884)の『怪談牡丹燈籠』の速記本出版である。それは円朝が仕掛けた読者層拡大のための一大作戦であった。次号へ。
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