今年は明治維新150年の記念すべき年であるが、維新への道は、嘉永6年(1853)6月3日、浦賀にペリー来航の4隻艦隊から始まったというのが通説である。
ペリー来航に対する当時の人々の反応を、あの有名な狂歌が伝える。
「太平の眠りをさます正喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も寝られず」。
この落書のように「江戸市中はあげて大混乱に陥った」といわれ「軍馬のひづめの響き、武装したサムライのわめき声、ひしめき合う荷馬車の騒音、隊をなして走る火消し組、乱打される半鐘の音、女たちの金切り声に混じって、泣き叫ぶ子どもたち」などと語られることがあるが、はたして本当にそうだつたのか。
6月9日、幕府が久里浜でアメリカ大統領の国書を受領した後に、ペリーは江戸湾内海へ測量目的で二度目の侵入をし、その時の記録が『ペルリ提督日本遠征記』に残されている。
≪翌早朝、測量船が下ろされ、湾の奥を測量する。入江があり、漕ぎ上る。そこへ外国人を見たいと住民が集まってきた。「人民の或る者はあらゆる身振り手真似で歓迎の意を表してボートに挨拶をし、ボートへ喜んで、水と、すばらしい梨を幾個か提供してくれた」。たがいに友情がわいて、「煙草を交換し合って喫(の)んだ」。士官が短銃を見せ、「それを発射して、初めてそれを見た群衆を面白がらせ、日本人をいたく驚かせ喜ばせた」。帰還した水兵たちは、「日本人の親切な気質と国土の美しさに、有頂天になっていた。実際、眼の向くどこでも、風光絵の如く、それ以上美しい風景は他になかった。艦上に居る者さえ、周囲の海岸を眺めて飽くことを知らなかった」≫(『開国と幕末変革』井上勝生著)
この記述からは、幕末期の一般民衆が、アメリカ人を怖がるどころか、親切であり、社交的であり、快活な振る舞いをみせていたことがわかる。
ところで、住民が差し出した「すばらしい梨」に疑問が残る。嘉永6年6月は西暦で7月になる。梨は通常秋に収穫されるのであるから、果たして遠征記に記されたように、梨が7月に収穫されていたのかどうか。
この件について、『開国と幕末変革』の著者井上勝生氏が、2006年12月に開催された「山岡鉄舟全国フォーラム」の講演の中で次のように語ってくれた。
≪神奈川県の農業技術センターに問い合わせた結果、ペリー側の水兵がもらった梨は、江戸後期に栽培されていた「わせろく」で、6月下旬から収穫できた青い梨です≫
住民が提供したすばらしい梨が、当時、間違いなく収穫されていたのであるから『ペルリ提督日本遠征記』の記述内容は妥当で事実であろう。
翌年の安政元年(1854)3月3日、日米和親条約が締結された。条約がまとまったので、ポーハタン号において、日本の委員たちを招いてレセプションが開いた。その様子を随行画家のヴィルヘルム・ハイネが描いた絵が有名である。(『ペルリ提督日本遠征記』)

絵には、巨砲を囲んでアメリカ人と武士が入り交じって座についており、アメリカ側が全員立ち上がって乾杯をしている様子が描かれている。
アメリカ人と立ち話で交歓する武士が見える。手前の武士は酒瓶を後ろに置き、椅子に落ちついて、まさにパイプをくゆらせている。以下、『遠征記』の記述である。
≪武士たちは「素晴らしい大食振りを発揮し」、乾杯する際には「先に立ち上がって健康を祝し乾杯して、それ等の酒を飲むことを決して控え目にしなかった」。「声高で叫び続け、その叫声は活発で」、軍楽隊の音よりも大きかった。「大いに楽しんでいた」。食べ残りを包んで袂(たもと)に入れてアメリカ人を驚かせる。(中略)退艦にあたって目付の松崎は「腕を提督の頸にまきつけて」、「涙ぐましい感情で」、「日本とアメリカは同じ心である」と繰り返した。そして「陽気な一行全部が艦隊を去」り、サラトガ号が礼砲を打ち、「艦隊は再び、何時ものような静けさのうちに残されて、平常の艦務につくことになった」と結ばれている≫(『開国と幕末変革』)
この情景描写は、武士たちが「大いに飲み、楽しむという日本人マナーを西洋人の前でも発揮している」わけで、幕末期の武士が持つとされた「嫌悪と警戒心、虚勢と恐怖によるコンプレックス」が全くなく、外国人対する一般的「武士のイメージ」を変える姿であって、冒頭に示した「有名な狂歌」状況とは全く異なる。
また円朝もこの狂歌に触れていない。嘉永6年時、円朝15歳、兄が住寺する谷中長安寺に母とともに住み、落語の修業に明け暮れ、兄玄昌から本堂で稽古する時は、座禅を組んでから行うべしと諭され、それを日夜実行し17歳まで過ごしている。
さらに、品川の寄席にも通って、谷中に帰ってくるのが午前2時を過ぎることもしばしばという生活であったから、品川界隈でペリー来航が大きく話題となっていれば耳に入っているはずで、民衆が「大混乱に陥った」という実態ならば、必ず、そのことに触れたであろう。
円朝50歳の時口述した自伝『三遊亭円朝子の傳』にも、ペリー来航について何らの記述がない。
これらから推し量ると、当時の人々は、初めて見る外国船や外国人であるから、驚いたであろうが「慌てふためく」状態でなく、かえってペリー来航を何らかの情報で知っており、来航を予期・予測していたのではないだろうかと思われる。
そのことを指摘するのが『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』(岩下哲典著)である。
≪吉田松陰は長州浪人。その松陰が、ペリー艦隊が停泊中の浦賀から江戸の長州藩邸に住む同藩士の道家竜助に宛てた手紙がある。「僕四日の夜、船を発候処、甚遅し。且風潮共に不順」≫
松陰は浦賀に直行しようとしたが、天候不順で船で行くことをあきらめ、品川から陸路で浦賀に5日に着き、この日は夜遅かったので、6日の朝に≪高処に登り賊船の様子相窺≫ってペリー艦隊を見た。
松陰は割注で本文に注記するかたちで≪船は北アメリカ国に相違無之、願い筋は昨年より風聞の通りなるべし≫と書き、≪アメリカ合衆国の船と認識し、驚くべきことに、アメリカの「願い筋」は昨年よりうわさになっていた通り≫と述べている。
≪要するに松陰ら長州藩につながる浪人らの間では、「北アメリカ国」が通商を願うために来航するということが、嘉永5年(1852)の段階でうわさになっていたというのだ。彼らにとって「北アメリカ国」船は来るべくして来たのであって、けっして「泰平のねむりをさま」したものではなかったのである。つまり、青天の霹靂ではなかったのだ≫と断定し、さらに、≪この狂歌は、現在どんなに遡っても、明治期までしか出典を遡れない≫、≪明治11年(1878)に刊行された『増訂武江(ぶこう)年表』には、「泰平の」狂歌が存在した≫と論じている。
明治11年はペリー来航から25年後に当る。この頃に狂歌が歌われたとすれば、その理由は≪明治は江戸を否定した時代だった。だからこそ、この狂歌は人々の言の葉にのぼり有名になったのだろう≫と述べ、≪ペリー来航当時、この狂歌は謳われていなかった可能性が高い≫と結論付けしている。
この指摘は、多分、的を射ていると考える。松陰のような浪人は、各地を歩き回り、その過程で様々な情報を入手し、それを手紙等で各方面に伝えることを通じて、多分野に広がっていたと考えるのが妥当であろう。
一方、ペリー艦隊と実際に交渉した浦賀奉行所も、事前に来航情報をつかんでいた。浦賀奉行所支配与力香山栄左衛門は直接交渉をした責任者で、ペリーが去った後に、上申書を老中に提出している。
これも『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』からみてみる。
香山栄左衛門の上申書は以下のように始まる。
≪嘉永5年秋ごろのことだったが、明くる6年3月にアメリカ国より石炭置き場を借用すべく、軍艦を派遣するというもっぱらの噂があった。そこで、外国のことは容易ならざることだから、浦賀でどう対処するのか心配になり、浦賀在勤の奉行水野筑後守忠篤殿に噂の真偽を内々に問い合わせた≫
香山のような与力は地付きの者が多く、実務の責任者で、いわば現代の国家公務員のノンキャリア組にあたる。松陰は嘉永5年末に噂を聞いているが、香山はそれより早く同年秋につかみ水野奉行に問い合わせたのである。
≪水野奉行も「わたしも心配していたが、真偽はわからない」とのことで、江戸在勤の戸田伊豆守へ問い合わせたが、戸田においてもはっきりわからず、老中の阿部正弘に伺ったところ「これらの噂の出処としては、今年長崎に着任したオランダ商館長が提出した世界諸国の風説書の中に、アメリカ国より軍艦を差し向けるという情報が確かにあった」≫
戸田の求めに応じて阿部は情報そのものを開示した。
≪阿部老中はその風説書を戸田奉行に下付したので、戸田は早速水野に伝達し、嘉永5年12月になってようやく事実がわかるようになった。すなわちその段階で、風説書を一覧できた≫
このように阿部から戸田・水野を経由して香山に風説書が届いたので、来航の可能性があると判断し、来航時の取り扱いとして「長崎表に回り、そこで申し立てよ」と伝えることを、水野に進言したところ「その通り心得よ」との申し渡しがあったと香山は上申書に記している。
ここで推測にはなるが、香山のような地付き与力は、その土地に昔から住んでいる土着の武士であるから、当然に地元人と接触が頻繁のはず。ということは浦賀の住民にも、香山などの与力から、アメリカの軍艦が来航する可能性があるとの情報が漏れていたとも考えられる。
『ペルリ提督日本遠征記』に記された住民たちの行動も、来航を事前に予測していたと考えると合点がいく。
さらに、松陰などの浪人が噂として知っていたということは、江戸でも同様の情報が流布されていたとも考えられるので、実際に来航し、当時の日本にない大艦艇を見て、大変驚きはしたが、「有名な狂歌」に謳われるように混乱にまでに至らない可能性の方が高い。
それよりもペリー来航から2年4か月後の、安政2年(1855)10月2日に発生した大地震の方が江戸の民衆生活に大問題を与えたので、円朝も『蝦夷錦古郷の家土産』で地震の混乱噺を多く展開している。
重ねて推し量れば、江戸の人々にとって、ペリー来航はさしたる事件でかったのではないかと思う。その理由は、遠く離れた浦賀での出来事であって、日常生活に直接影響を与えず、江戸っ子の今日明日の暮らしには何ら関係がない。
ここで少し、江戸とはどういう場所だったか検討したい。
江戸は徳川将軍家のお膝元であって、江戸っ子は「お江戸」と「お」をつけて呼称する。「お江戸日本橋」等である。当時の三都である京都や大坂は「お」がつかない。
その背景を『将軍の世紀』(山内昌之著 文芸春秋2018年1月号)が述べる。
≪お江戸や江戸っ子という呼び名は、ひとえに徳川家康が八朔に江戸の小城へ入り、孜孜(しし)(熱心に努め励む)として町々を開発しなければ生れなかった。八朔とは、天正18年(1590)8月1日(朔日)のことであり、家康入部の日は正月三が日と並ぶ幕府の重要な式日として、大名や旗本が登城する≫

≪家康は、日比谷の東、隅田川(大川)河口の西にあたる江戸前島という砂州以外に、十分な平地のなかった江戸で、幾度も繰り返した城地拡大と埋立てによって町割りをつくったのである≫
≪家康は後北条時代に原型のあった本町通りとその周辺を整備し、徳川御用達を務める職人や伝馬業者を旧領の駿河や遠江ひいては上方や遠国から呼び寄せて、神田と日本橋の周辺に住まいを与えた。日本橋や尾張町(銀座)の呉服屋、日本橋魚河岸で「江戸前」の魚介で儲けた大旦那、浅草・本所(いわゆる蔵前)の御蔵米問屋と札差、駿河町などの本両替、木場の材木商、神田の青物問屋、霊岸島と新川の酒問屋や荷受商人。これらの職業は、長いこと町名に名残りをとどめていた。大工町、木挽町、白壁町、畳町、大伝馬町、小伝馬町、等等といった塩梅である。江戸を関東の中心地から日本の政治的中心に成長させた徳川家康は、幕府の経済力を多様にしただけでなく、江戸の膨大な住民の消費生活を支え、雇用を生み出した歴史への貢献者でもあった。東京の原型ひいては日本発展の中心地を創り出した家康の功績は計りしれぬほど大きい≫
『銀河鉄道の父』で第158回直木賞受賞の門井慶喜氏に『家康、江戸を建てる』という著書があり、この中で江戸に家康がはじめて足を踏み入れた時の情景を次のように書いている。
≪灰色の土地。としか、言いようがなかった。江戸城の東と南は、海である。いまは干潮のため砂地が露出しており、竹の棒が何十本も立てられている。網で巻きつけて魚をとるのか、あるいは棒そのものに付着した海苔のたぐいを集めるのか。いずれにしても、沿岸のところどころに藁葺の民家がさびしそうにかたまっているのは、漁師町にちがいなかった。
西側は、茫々たる萱原。北は多少ひらけている。みどり色にもりあがった台地にそって農家がぽつぽつならんでいるのは、唯一、心なごませる光景だった。
とはいえ、百軒あるだろうか。せいぜい七、八十軒くらいではないか。駿府や小田原の城下町とくらべると、五百年、六百年も発展をわすれたような古代的な集落でしかなかった。
「ここを、わしの大坂にしたい」と、家康は、途方もないことを言った≫
家康が最初に取り組んだのは伊奈忠次を代官頭に任用し、治水対策をさせたこと。即ち、利根川対策であった。
≪利根川は上野国の北部、水上の山ふかくを水源としている。はじめ南東へ、やがて南に流れて江戸湊にそそぐ、というのが大ざっぱな流路だった≫

21世紀の利根川とはまったく異なり、東京湾に注いでいた。したがって、
≪河口は江戸城の北東方、関屋(足立区千住関屋町付近)にある。周囲はいちめん湿地となり、海の水とまじりあい、人のあゆみを拒んでいる。米も、みのらぬ。畑にもならぬ。江戸で雨がふらずとも、北関東でふれば手のつけられぬ水が押し寄せる。この問題を解決せねば、江戸は永遠に未開のままじゃ≫
≪ならば、河口を移せばよい。川が江戸へ入る前、まだ武蔵国(埼玉県)あたりを南流しているうちに川そのものを東へ折る。そうして河口を上総か下総へしりぞけてしまう。江戸の地ならしは、きわめて容易になるじゃろう≫
つまり、利根川をほぼ21世紀の河道にするもので、これを伊奈一族に命じたのである。
次に行ったのは飲み水の確保であった。
≪ただでさえ泥質地だらけで良質な地下水が得がたいところへもってきて遠浅の海がざぶざぶ江戸城のふもとを洗っており、埋め立て工事をしなければ街そのものが造れない。造ってもそこで掘る井戸の水は塩からくて飲めたものでないだろう。「だから、清水がほしいのじゃ」そう家康は説明した≫
その結果見つけたのが「七井の池」。今の「井の頭恩賜公園」である。
家康は貨幣にも改革を行った。
≪関ヶ原の戦いの翌年、家康は、あらたな小判を発行した。いわゆる、慶長小判である。楕円形の薄延べ金で、縦約七センチ、横三・五センチ、金位は八十五パーセント前後。基本的には、武蔵小判をそのまま踏襲した。額面も、むろん一両で、全国にひとしく流通することのできる単なる小判にほかならなかった。家康は日本史上はじめて、貨幣の面で、天下統一をはたしたのだった≫
それまでは貨幣の乱世であった。
≪江戸の市ではあいかわらず取引のたびに天秤や分銅がひっぱり出され、金銀の重さが量られた。十匁だの、一匁五分だのというその重さに応じて永楽通宝のような円形方孔の輸入銅銭と交換された。人々がふだん買いものに使うのは、この輸入銭が多かったのだ。
むろん市場には、このほか、鐚(びた)銭と呼ばれる粗悪な国産品もたくさん出まわっている。手続きやら善悪やらがごちゃごちゃになった貨幣の乱世にほかならなかった≫
家康は、こういう煩瑣きわまる経済情況から江戸の人々をすくいだし、利根川の水利管理、上水の確保など、江戸という都市を苦労して創りあげた家康と徳川将軍家に対して、江戸っ子は「将軍様」と尊称し、敬意を強く持ち、特別の感情をもっていたゆえに「お」をつけたのである。
円朝も『椿説(ちんせつ)蝦夷なまり』冒頭で≪嘉永の丑年に始めて相州の浦賀にアメリカ船が渡来いたしてから、例の勤王攘夷の論ということが起こり、徳川将軍様の御上洛となりました≫とあるように「将軍様」と敬わって呼称している。
このように尊崇の念が厚い結果は、何を意味することになるのだろうか。それは将軍家と江戸に直接関係し影響することには、高い関心を示すが、そうでない事件、それが江戸で起きた安政の大獄や、桜田門外の変という、政治的に重要な大事件であっても、円朝には興味がないし、円朝の読者として寄席というマスメディアの背後に存在する江戸一般民衆も、あまり興味を持たないということにつながるだろう。
『蝦夷錦古郷の家土産』で、元治元年(1864)3月の天狗党の乱について≪これがあの時分の戦争の初めで、わたくしどもは江戸にいてその話を聞いても、あまりよい心持ちはいたしませんでございました≫と語った。
元治元年の前年は文久3年(1863)で、5月に長州が下関で外国船を砲撃し、7月には薩英戦争があり、8月は八月十八日と、大政変が発生しているのに、円朝作品で表現されず、翌年3月の天狗党の乱が、維新戦争の始まりだと意識している。
つまり、江戸っ子たちにとっては、ペリー来航から始まった一連の政治上の大事件には、あまり関心を持たず、ようやく天狗党の乱あたりから「どうも徳川将軍様に影響を及ぼす問題になりそうだ」と心配しだしので、≪これがあの時分の戦争の初めで≫と述べているのである。
明治25年(1892)の『八景隅田川』(『やまと新聞』連載)でも、天狗党の乱について記述がなされている。
≪殊に筑波の戦争からして金の有る人は皆恐怖で、金子は皆別荘の方へ送った方が宜かろう、いっそ田舎住居が宜い抔(など)と云って、皆近い処は向島或は目黒、王子辺に別荘を買ひ、土蔵を建て、金銀・重器を持運ぶ抔と云う≫(『三遊亭円朝と民衆世界』須田努著)
天狗党の乱以降、江戸で金銀を強奪されるという恐怖が書かれており、それは実際に江戸市民に被害が発生したからであって、直接の受難を受けない事件は、いくら歴史的大問題であっても江戸っ子には関係ないのである。
その証明が『蝦夷錦古郷の家土産』の安政2年(1855)大地震の詳細な描写である。これが書かれたのは明治19年(1886)で、大地震から31年も過ぎて、遠く昔のことなのに、当時17歳であった円朝が直接経験したので詳しく述べている。
これはやはり江戸民衆が受けた被害が大きかったからであって、江戸の人々にとっては、被災した大地震の方が、ペリー来航より強固な記憶として生々しいのである。
現在、歴史認識上の常識では、近代の幕開けを告げたペリー来航が詳しく華々しく伝えられ、大地震の記述はわずかであるが、江戸民衆の立場に立てば、大地震の方が大事件なのである。したがって、民衆集合心理へ的をおく円朝作品では、ペリー来航から連なる政治上の大事件は無視されることになる。
これが円朝の常識であり、円朝人気の理由である。
歴史の検討を、①特定の時代、②特定の人物、③特定の事件から論ずることが多い。だが、円朝に関しては、その作品を検討することを通じて、当時の民衆をつかみ、集合心理を理解するという④民衆集合心理から論ずることが必要であろう。
以上の検討から冒頭の「有名な狂歌」は、ペリー来航当時の江戸で唄われていない。後作であろう。これが結論となる。
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