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2019年2月

2019年2月28日 (木)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十六

JR静岡駅北口から歩いて5分、伝馬町の通りにある「ペガサートビル」の前に、江戸無血開城の記念碑がある。高さは約1.5メートル、横幅は約1メートルの御影石で、向かって右側に山岡鉄舟、左側に西郷隆盛の顔が銅版で嵌め込まれ、下に≪西郷 山岡 会見之史跡 ここは慶応四年三月九日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります 明治百年を記念して 昭和四十三年三月九日建之 六鵬 沖和書丹≫と刻字されている。

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官軍による正式な江戸攻撃中止は、慶応4年(1868)3月14日、芝田町の薩摩屋敷における、第二回目の西郷・勝海舟会談で決定したが、その前に駿府における鉄舟・西郷会見で江戸無血開城が事実上決まったことを、静岡・伝馬町の石碑史跡が物語っている。
 伝馬町の石碑が建立された背景には、親子二代23年にわたる奔走物語がある。戦後の昭和20年(1945)、松崎屋源兵衛宅跡で鮮魚業を営み始めた原田鐡雄氏が、この地の重要性を知り、史跡とすべく活動し始めたが、志半ばで病に倒れ、その遺志を継いだ娘婿の原田勇氏の熱誠・執念によって建立された。

その後「静岡市文化財指定」を受け、静岡市教育委員会によって平成16年9月に石碑説明文が掲示されたが、そこには≪勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎≫とあった。
この説明文言は正しくない。事実は「海舟からでなく、徳川慶喜から直接に命を受けた」である。

そこで、文言修正を平成25年3月5日に開催された望嶽亭・藤屋における「市長とのお茶カフェトーク」で、静岡・山岡鉄舟会の故松本検顧問(前会長)が申し入れを行い、以後、機会を見つけては教育委員会に同会が要望してきた。
その結果、平成29年9月に≪徳川慶喜の命を受けた旧幕臣山岡鉄舟の会見≫と正しく直され、併せて≪三月十四日、江戸・芝田町の薩摩藩邸で山岡鉄舟も同席した西郷隆盛と勝海舟との会談により最終的に決定≫と加筆された。

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前号で歴史的説明板が、一度、掲示されると正しい内容への訂正変更と、撤去は大変難しいと述べたが、今回の静岡市伝馬町石碑は稀なる事例で、静岡市教育委員会へ、熱意もって積極的に働きかけを続けた静岡・山岡鉄舟会に深く敬意を表する次第である。

円朝を検討してきて、落語についていろいろ分かってきた。その一つが落語を「ラクゴ」と音読するようになったのは文献上では「明治24、25年」であるという。
 これは暉峻康隆氏が述べたことで(参照『三遊亭円朝と歌舞伎』高野実貴雄著)、それまでは「落語」と書いて「おとしばなし」と訓読されていたという。
 一方、『三遊亭圓朝の明治』(矢野誠一著)は、≪圓朝の活躍していた時代を伝える文献のなかに、たまたま「落語」という文字を見出すと、そのほとんどに「はなし」とルビを打っていることからも、「落語イコールはなし」という認識がふかく浸透していたのが見てとれる≫という。
両者の見解に共通しているのは、人前で上手に話して見せるプロとしての「落語家」を、「噺家」であると認識していることであろう。

 円朝は、鉄舟によって禅に大悟、「無舌(むぜつ)居士(こじ)」境地となり、民衆集合心理の様相を描き出す噺を創作し続け、寄席を通じて人々に直接語り、それが受け入れたのであるから、時の時勢・時流をつかんでいたことになる。
 しかし、ここで不思議なことに気づいた。それは時勢・時流をつかんでいた円朝の創作噺に、時の政治上の大事件が登場しないことである。

 昨年は明治維新150年の記念すべき年だった。維新までの道筋には多くの変事・難事が連発した。ペリー来航、安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、伏見寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争、八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征討、四国艦隊下関攻撃、薩長連合、徳川慶喜大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、江戸開城、上野戦争、江戸を東京と改称、明治元年(1868)9月明治と改元、会津藩降伏、東京遷都、五稜郭の戦いで戊辰戦争が終結。

ペリー来航が嘉永6年(1853)、戊辰戦争の終結が明治2年(1869)であるから、この間16年。円朝は明治元年時で30歳であるから、この動乱期にずっぷり身を置いていたはずなのに、これら大事件が「ほとんど」円朝の作品に登場しない。

 この「ほとんど」という意味は、わずかに触れている作品があることを意味する。そのひとつが五稜郭の戦いであり、『椿説(ちんせつ)蝦夷なまり』(明治28年(1895)『やまと新聞』連載)で取り上げている。

Photo_2          (版元表紙『三遊亭円朝全集3』角川書店)

上野彰義隊の隊士で、上野を落ちのびて函館に向い、五稜郭に立てこもって命を落とした春日左衛門の遺児お嘉代の物語である。
この作品は明治19年8月、円朝が大臣のお供で北海道を旅行した際の見聞にヒントを得て創られた。外務大臣・井上馨、内務大臣・山縣有朋が共に妻を連れ、益田孝、大倉喜八郎、小室信夫、馬越恭平など実業界やジャーナリスト、芸人を含む総勢数十名。行程は、横浜から船で函館へ、余市、小樽、札幌、幌内を回って、帰りは上州磯部温泉で休養、40日を超える大名旅行であった。今日では公私混同で国会紛糾、間違いない。

この作品の中で、北海道の便船や、札幌、登別、室蘭、函館等、当時はまだほとんど紹介されていない北海道の珍しい風俗や自然が、円朝の見聞で語られているが、冒頭、次のように幕末政治事件をまとめている。

≪嘉永の丑年に初めて相州の浦賀にアメリカ船が渡来いたしてから、例の勤王攘夷の論ということが起こり、徳川将軍様の御上洛となりました。これが百事紛乱の基(もとい)で、ついに慶喜(けいき)公(こう)の御代に将軍家は御政事を朝廷へお返しなされ、慶喜公はいったん京都より大阪の城に御退去になりましたが、慶応辰年正月3日に再び御入洛の途中、伏見において兵端を開くというたいへんな騒動となり、慶喜公は軍艦で江戸へ御退去にあいなる、間もなく京都より西郷隆盛先生を先鋒の大将として大兵を関東に差し向けられ、慶喜公には尊王の誠意を表わし、すみやかに江戸のお城を開き、武器や軍艦を献じて、水戸へ御閉居とあいなりましたが、徳川譜代恩顧の面々のなかには公の御帰順に承服せず、ついに奥羽北陸の戦争となり、続いて海軍奉行の榎本釜次郎氏を頭として幕兵の脱走とあいなりました≫

このまとめ方を敢えて紹介したのは、森まゆみ氏が『円朝ざんまい』で、以下のように称賛しているからである。
≪円朝の整理はじつに手際よく歴史の教科書を書く先生方に見習わせたいくらい。やっぱり同時期を生き現場を見てた人は強い≫
円朝にはもう一作、北海道物がある。それが明治19年(1886)に『やまと新聞』に連載された『蝦夷(えぞ)錦(にしき)古郷(こきょう)の家(いえ)土産(づと)』である。
 ≪さて、お聞きに入れますお話はせんだって大臣がたが北海道へ御巡回の節、はからずお供をいたしました。そのおり函館で聞いてまいりましたおみやげのお話でございまして、初めのほどは北海道のところはさらにございませんが、だんだん末は北海道のお話にあいなります≫
タイトルが蝦夷であるから北海道が主役と思うと違って、北海道が出て来るのは最後の数行に過ぎない。だが、やまと新聞読者の世評は高かったという。
 

2_2           (『三遊亭円朝全集3』角川書店)

『蝦夷錦古郷の家土産』では、元治元年(1864)3月の天狗党の乱が取り上げられているが、それより9年前の安政2年(1855)10月2日の大地震に関する記述が多く出て来る。
 ≪火事は悪いものに違いございませんが、また大きに陽気なもので、半鐘がジャアンジャアン、板木(ばんぎ)はポンポン鳴る、太鼓をドンドン叩く、拍子木をカチカチ鳴らす、提灯をつけて、みなアリャリャンリュウトとまことに陽気なものでございますが、どうも地震は陰気なもので、ズシングラグラというとそのままではい出しますので、なんとなく陰々といたします。≫

続いて大地震に慌てた江戸市民の状況が、具体的で面白い表現で縷々述べられる。
≪安政の大地震、これは実に気が転倒いたしますわけで、わたくしどもは存じておりますが、そりゃ地震というと、母親が乳呑児をおいて駆け出します、旦那様にお三(さん)どんがかじりつく、奥様は飯炊き男におぶさって逃げ出す、十二、三の娘は向鉢巻をして、大屋根をこわして大工を引き出す、大病人が看病人をおぶってはいだす、あんまさんがお堀へ駆け込むやら、火の見番が火の見から飛び下りて屋台店の下になり、天ぷら屋が橋から舟へ飛び込みますと、船頭が飛び上がって引っぱり女(夜鷹)を踏みつぶすやら、瀬戸物問屋の御亭主はあわてて駆け出すとたんに、看板の大土瓶へ突き当って、やかん頭へ漏れをこしらえ、酒屋の御亭主は駆け出すはずみに、吞口を残らずぶっこ抜いて滝(たき)水(すい)(四方(よも)酒店の銘酒)の泉を流し、しるこ屋はあん鍋でやけどする、御殿女中ははだかで駆け出す、相撲取りは夜着を着てはい出す、・・・≫
この後も16行にわたって当時の人々の慌てぶりが続く。

 『蝦夷錦古郷の家土産』のストーリーは、安政大地震の日、主人公であるお録が倒壊家屋の下になってもがいているのを助けたのが、谷中日暮の重助の配下、喜三郎である。年は24歳、人格の好い、色の白い、目元の可愛らしい男。

 お録は幕府御用達の娘、助けてくれた男に「お名前とお住所を」と尋ねても答えはない。喜三郎は「小屋者」なので名乗れないのである。江戸において小屋者とは非人の別称。享保期(1716~1736)以降、弾左衛門の支配下に車善七ら非人頭が置かれ、さらにその配下に小屋頭がつき非人を個別に管理していて、この一人が谷中道灌山の小屋頭重助であった。

 お録と喜三郎は3年後再会し、深い中になって、喜三郎は身分を打ち明ける。お録は「お前さんともうこうなってみれば、ほかへ縁付(かたづ)く気はありません」と、身分より愛を選び、二人は江戸から離れ、信州の塩尻に着いたが、喜三郎が病に倒れ、お録は遊女屋へ身を売ってまで薬代を整えて看病したが喜三郎は亡くなってしまう。

 その後、お録は旅女郎をやめ、常陸筑波下高道祖村の同愛社病院で看病女となるのが、元治元年3月であった。
 この同年同月に、水戸藩天狗党が田丸稲之衛門を総帥とし、藤田東湖の子である藤田小四郎を中心として、幕府に攘夷実行を迫るため筑波山で挙兵、11月までの8カ月間、北関東地域を横断し、村や町に金銭・食糧・人足・人馬の強要を行い、さらには幕府軍と交戦、北関東地域は戦場になった様子を円朝が語る。

 ≪元治元年の3月が閏で、改元あって慶応元年とあいなります、その年5月には御案内のとおり、水戸の浪士・田丸稲之右衛門が筑波山と大平山に立籠って、近国の諸藩へ軍資金を借用したいとか、あるいは武器を借受けたいという強談でございまして・・・・≫

 主人公のお録、同愛社病院で看病女として働き始めるという設定がある。病院が所在したとする常陸筑波下の高道(たかさ)祖(い)村(むら)は、天狗党と幕府軍監・永見貞之丞が指揮する幕府軍との最初の戦闘が行われた地である。
 勿論、同愛社なる病院なぞ無い。そもそもこの時代に病院という存在は無い。明治11年(1879)に民間の貧民救療施設として、高松凌雲が設立したものが同名の同愛社である。

 同愛社はフランスで医学を学んだ高松凌雲と、その賛同者13名の開業医により明治11年に設立され,医療保護が十分でなかった明治期に開業医を中心として組織的に施療を東京郡区に広めた慈善団体である。その設立動機と趣旨は高松凌雲の思想的な影響が大きく,その運営に関しては渋沢栄一や福地源一郎の考えが反映されている。同愛社の特徴は,医療を施す「救療社員」と金銭的支援の「慈恵社員」に分け,救療社員の近傍に限って施療が受けられ地域医療に重点が置かれていた。また,施療のみならず災害救助においても活動した先駆的な組織であった。

 さらに、高松凌雲は、函館五稜郭の戦いでは、函館病院の頭取として敵味方の区別なく戦傷者の治療を行っている。

 このように円朝作品に表れる幕末維新の政治的事件は、元治元年の天狗党と明治2年の五稜郭の戦いだけである。

 既に何度となく触れているが、円朝は民衆集合心理の様相を描き出す噺を創作し続け、寄席を通じて人々に直接語り、それが受け入れていたのであるから、時の民衆集合心理をつかんでいたことになる。

 という意味は、時の民衆はペリー来航から続く幕末維新の政治的大事件に対して、特別に大きく関心を持たなかったのでは、という疑問が生ずる。

または、円朝は天狗党と、上野戦争から逃れた脱走兵を五稜郭の戦いに登場させているのであるから、円朝にとっての幕末維新大事件とは、この二つなのかということになる。

それよりも安政大地震を大きく噺の中で展開しているのであるから、民衆にとっては、恐怖として体験した大地震の方が、政治的大事件より身近であったのではないかという推測も成り立つ。

また、慶應元年(1865)は、師円生の三周忌あたり、初代祥月命日である3月21日に盛大な本葬を行っているから、幕末史上の大事件が相次ぐこの時期でも、円朝にとってはさしたる変調なく、順調な落語業を続けていたと推定できる。

だが、その後の慶応3年(1867)、15代徳川将軍慶喜によって、大政奉還という徳川幕府開闢以来の大事件が起き、将軍様のお膝元として繁盛してきた江戸での生活に慣れ親しんできた江戸庶民も、一転、時代の変化を深刻に感じるようになっていたはず。

特に、倒幕のきっかけをつかみたい薩摩藩が、浪士をつかい江戸市中で強盗などの破壊活動を活発化し、対抗して江戸市中取締の庄内藩と新徴組らが、慶応3年12月25日、三田の薩摩藩江戸藩邸を砲撃焼き討ちする事件が勃発すると、江戸の治安状態は一気に険悪となった。

そこへ慶應4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦い、慶喜追討令、江戸開城、諸大名の帰国等が続き、5月15日の旧幕府軍上野彰義隊への攻撃がおこなわれ、江戸の街は騒然となったが、実際に江戸で生活していた落語家たちはどういう状況であったのであろうか。

円朝は上野戦争前日の5月14日、日本橋瀬戸物町(中央区日本橋室町)の寄席・伊勢本に出勤しようと出かけている。上野で戦いがあるとは思っていない証拠であるし、寄席も開いていた。しかし、官軍の兵によって浅草見附が閉ざされ、通行できず休席し、家に戻って、不穏な雰囲気を心配していると、弟子のぽん太が帰って来た。

『三遊亭円朝子の傳』の記述を要約する。
≪師匠円朝が休席したので、同門の仲間達とそろって寄席「伊勢本」を退席して浅草見附まで来たが、通行できないので、柳橋を回ったところ、ここも通行止となっていた。そこで、同門の勢朝の家に泊めてもらった。今朝になって浅草見附の方をみると、刀・槍・鉄砲で武装し、「赤い毛」をかぶった「軍人」のような人が大勢いたので、「おもしろそう」なので、近寄ると、怖い顔で誰何されたので、自分は噺家で円朝の弟子であると答えると、「一人おとなしそうな人」が、彼は円朝の弟子で「ぽん太という愚かな者」なので、通行させても問題はないだろう、というので、どうにか帰ることができた≫

これ聞き、円朝も市中に出かけたと記している。
≪円朝も「話の種」になるだろうと思い、父・円太郎の止めるのも聞かず、浅草見附から柳橋の方へ様子を見に出かけました。円朝は、浅草見附の橋詰めに、青竹で囲いをした中に、幕臣の「血汐に染まりたる生首」が晒してあるのを目撃しました。彼は「大いに話を利せし」と思った≫

『三遊亭円朝子の傳』は、円朝50歳の時口述したものだが、この語り口から察するに、上野戦争は当初、下町の江戸庶民にとっては他人事であったのではないか。

天狗党についても、『蝦夷錦古郷の家土産』で次のように書かれている。
≪これがあの時分の戦争の初めで、わたくしどもは江戸にいてその話を聞いても、あまりよい心持ちはいたしませんでございました≫

この文言、何となく幕末の政局を傍観的にとらえているように思える。動乱に直接関与した当事者でないのだから、当然とも考えられるが、江戸の人々はいま一つ何か今に生きる我々とは、とらえ方が違っているのではないかと感じる。

もうひとつ指摘したいのは、幕末維新動乱発生への契機である。円朝は天狗党の乱について≪これがあの時分の戦争の初めで≫と語っている。
という意味は、天狗党の乱を「一連の内乱の始まりと位置付けている」わけである。つまり、天狗党の乱発生以前の政治的大事件は、円朝を代表とする江戸一般民衆には、あまり大きな関心事でなかったのではないか。

 このような仮定に立つと、江戸っ子の脳細胞記憶における、幕末維新動乱の始まりは、天狗党の乱からであるから、当然に円朝の創作噺に「ほとんど」時の政治上の大事件が登場しないことになる。

明治維新150年を期する昨年、多くの歴史出版物が世間を賑わした。だが、そのすべて(といっても過言でない)が、武士階級としての支配者同士で争った事件・紛争・戦争をテーマに語られている。一般民衆が時の政治事件を、どのように見ていたか、という視点からの問題提起はなく、仮にあったとしても埋もれている。

その最大の理由は、民衆は自身を語らず、史料も遺さないからである。個人史として遺せる人とは、それを書くことができた、または、時代の中で突出して登場する限られた人物、つまり、時の為政階級に位置する者たちで、これが「歴史上の人物」として登場し遺されていくのである。

したがって、これ等の人物を追い求め、考察し、研究し、著されるものが一般的な歴史書籍であるから、そこには民衆心理が抜け落ちていくことになりやすく、往事の全体実態を過つ危険があるのではないだろうか。

『三遊亭円朝と民衆世界』(須田努著)は次のように指摘する。
≪浄瑠璃、歌舞伎、落語は江戸時代の民衆にとって最もポピュラーな娯楽であり、時代に応じて新たな趣向や新機軸を取り入れ、観客にうける作品を提供していた。現在、テレビなどのマス・メディアや、インターネットのWEBサイトに、現在のわたしたちの社会が投影されているように、これらのメディアには江戸時代に生きた人びとの集合心理が表象されている≫

明治維新を妥当に問い見いだすとしたら、民衆集合心理に向かって問い語った円朝作品も加えて検討し、考察することも大事で、重要ではないだろうか。次号も検討を続ける。

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