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2019年1月25日 (金)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十三

 明治新政府は矢継ぎ早に改革を推し進めたが、これらの改革で一般人の生活に大きく影響を及ぼしたものは、太陽暦の採用であろう。しかし、このような大改革を何故に突然、しかもその年も押し迫ったタイミングで実行したのであろうか。

それにはいくつかの理由があった。(参照『最後の江戸暦問屋』寺井美奈子著)
一つ目は、徳川幕府を倒し、王政復古を成し遂げたのであるから、一日も早く旧幕時代の旧暦社会慣習から離脱することが必要だという、強い新政府政権内の自意識であった。

二つ目の理由は、外交上の問題であった。明治維新によって諸外国との付き合いが始まると、欧米のように太陽暦に変更すべきだという意見が、急速に政府内に出ていた。現状では、他国との条約締結で、相手の太陽暦と、日本の旧暦日付の両方を併記しなければならない。
明治4年(1871)10月出発の欧米視察団、その最も大きな目的は、幕末に締結された不平等条約の改正であったが、欧米諸国が採用している太陽暦でない日本を、相手国は後進未開国とみなしてくる。従って、視察団に加わったメンバーは太陽暦を採用しなければ、外交上大きな不利益を被るという認識に至っていた。

だが、三つ目の理由が最も大きく、それは明治政府の財政問題であった。明治5年(1872)、大蔵卿の大隈重信が翌明治6年(1873)の太陰太陽暦を手に取って見て、来年は閏月で、一年が13カ月であることに気づき、これは大変だと慌てふためいた。
狼狽えたのには背景があった。明治4年9月、官吏・公務員の給料をそれまでの年俸制から、月給制に改定していたので、閏年は13ヵ月であるから、月給を1ヵ月余分に支払わなければならない。

加えて、廃藩置県が明治4年7月に実施され、3府302県(11月に72県)となり、県令(明治19年から県知事と改称)は旧藩主から中央政府の任命と変わり、結果的に官吏の人数は増え、必然的に人件費が増加していたのに、新政府には財源が枯渇していた。

そこで大隈が考えたのは、太陽暦に改暦すれば明治6年は、12カ月の給料で済むということであり、さらに、明治5年(1872)の12月3日を、明治6年の元旦にするから、2日しかない12月の給料は支給しなくてもよい。つまり、2か月分政府は得するということ、これが一番強い改暦理由であった。

本来、暦は一般人日常生活に密着しており、人々は毎日暦をみて行動しているわけであるから、太陽暦へ改暦するためには、その仕組みを社会全体にきちんと説明し、時間をかけ、理解を得てから実行しないと大混乱に陥る。そのことは政府内でも分かっていて、実行タイミングをどうするかについて、政府内で検討していたところに、大隈は財政面から即実施を強行したのである。
この改暦は、11月21日(旧暦)にフランスにいた欧米視察団へ電信で報告され、了承されている。

さらに、大隈は官吏の休日まで少なくする改革まで行った。現在、日本で検討されている「働き方改革」とは真逆の「労働強化」であるが、その経緯を『大隈伯昔日譚』(円城寺清著)で次のように述べている。
「其のころは一、六の日を以て、諸官省の休暇定日と為せしを以て、休暇の日数は月に六回、年に七十二回の割合と為り、加ふるに五節句あり、大祭祝日あり、寒暑に長き休暇あり、其の他、種々の因縁ある休暇日あり。総て是等を合すれば、一百数十日の多きに上り、而して其の頃の一年は平均三百五十余日なりしを以て、実際執務の日数は僅々百六七十乃至二百日に過ぎざりし。是れ乃ち一年の半か、少くも五分の二は、休暇日として消過し去りしなり。かゝる事情なるを以て、懶惰遊逸(らんだゆういつ)の風は自然に増長し、一般社会にまで及ぼし、且つ政務渋滞の弊も日一日と多きを加へ、ついには国家の禍患を構ふに至るべし。其の上、当時は外交漸く盛んにして、諸国との往復交渉頗る繁劇に赴きたるを以て、其の執務を休暇の定日と彼我一致せざれば、諸般の談判往々に渋滞するを免かれず」
「休暇日は一週中に一日、即ち日曜日を以て之れに充つることゝ為りしを以て、七十二回の休暇は減じて五十二回と為り、且つ朔望と云ひ、五節句と云へるが如き、旧来の休暇日は尽く之れを廃し、其の上に一年は三百六十五日、乃至、三百六十六日と為り、而して別に閏月を置くの要なきことゝ為りしより、独り政務処理の上に渋滞なからしむるのみならず、財政上も亦二三年毎に平年の十二分の一を増額して支出せざるべからざるの困難なし。之れを陰陽両暦制より生ずる結果を比較すれは、其の利害得失は固より同日の談にあらざりしなり」

現在、遺されている改暦に関する最初の史料は、早稲田大学図書館にある当時文部卿であった大木喬任から大隈にあてた手紙である。
≪太陽改暦の儀、過日仰せ聞され候次第もこれ有り、掛りの者へ尚また督責に及び候処、別紙の通り申し出候、就いては不日(まもなく)出来仕るべく候と存じ奉り候。御含み迄に一寸申し上げ置き候                         頓首
  十月十日
出来次第早々差し出し申すべく候
                      大木
大隈様≫
 
この書簡からわかることは、改暦1か月前である10月10日時点で、まだ太陽暦の準備が完了していなかったことと、この後、間もなく出来上がってきたが、官吏や一般人への影響が極めて大きいので、準備は秘密裡に進めていたことである。

 この進め方は当然に大問題である。国民が日常生活の中心としている暦、それを改暦しようとするなら、太陽暦の仕組み説明資料や啓蒙書などを発行し、数年かけて各地で説明会を行うなどをしてから、改暦実施というのが当たり前であろう。

ところが既に述べたように、明治5年11月9日付の太政官布告という突然の蛮行お達しで改暦を決め、太陽暦の仕組みを説明する資料や啓蒙書などは一切発行しなかったのであるから、一般人は太陽暦といわれても何が何だかわからない。

この当時、東京では江戸時代から暦の頒暦業者は11人と決まっていた。その11人は幕府に一定の冥加金を納めることで頒暦権利を確保していた。
この11人に改暦について、太政官布告の翌日に知らされていたが、管轄の文部省から何も連絡がないので「嘘」だろうと高をくくっていたところ、13日になって事実だと判明し大騒ぎとなった。
京都では知事の名で改暦の布令が市中に出されたのが17日。大阪も同じころであり、名古屋では14日に新聞号外が出されている。
主要な都市でさえ、このような状況であったから、日本全国民が知るようになったのは、翌年の明治6年に入ってからだろうといわれている。

この混乱実態から政府は11月26日に、明治6年に限り、各地方で略歴(一枚摺)の板刻を許すので、草稿を管轄官庁にて許可を受けるように、ただし、旧暦にあった歳徳、金神、日の善悪をはじめ、中下段に掲載されていたもの、いわゆる歴注は一切書き入れてはいけないと通告した。
この布告によって、略歴は頒暦業者以外からも多く出版されたが、一般人は長年、旧暦に慣れ親しんでいたので、歴注が書かれていなく、太陽暦の日付だけの暦には関心を寄せず、不人気で大量の売れ残りが生じた。

このような政府の改暦への進め方を補ったのは、民間から出版された啓蒙書である。
例えば、福沢諭吉著『改暦弁』、黒田行元著『新暦明解』、福田理軒閲正・花井静庵編著『頒暦詳註・太陽暦俗解』、杉浦次郎右衛門著『太陽暦和解』、島村泰著『勧農新暦』などであるが、最も早く出版され、一番簡潔なものが福沢諭吉の『改暦弁』であり、これがベストセラーになった。20数万部が売れたといわれているほどであるが、この販売数の背景には、官庁が官吏の教育のために大量に買い上げたということもあった。

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福沢は『改暦弁』で分かりやすく解説しているので、それをいくつか紹介する。
「太陽とは日輪のことなり。太陰とは月のことなり。暦(れき)とはこよみのことなり。故に太陽暦とは日輪を本(もと)にして立(たて)たるこよみ、太陰暦とは月を本にして立たるみよみと云ふ義なり」
「此世界は地球と唱へ円きものにて自分に舞ひながら日輪の周囲を回ること、これを譬(たと)えれば独楽の舞ひながら丸行燈の周囲を回るが如し」

「行燈を一回(ひとまわり)まはりて本の場所へ帰る間に、春夏秋冬の時候を変じ、一年を為すなり」

「日輪の周囲に地球の回る道は六億の里数あり。この六億里の道程を三百六十五と六時の間に一回して本の処に帰るなり」

「太陽暦は日輪と地球とを照らし合せて其互に釣合ふ処を以て一年の日数を定たるものゆへ、春夏秋冬、寒暖の差、毎年異なることなく何月何日といへば丁度去年の其日と同じ時候にて、種を蒔くにも、稲を刈るにも態々暦を出して節を見るに及ばず」

この他に一週間の曜日の名と読み方、一年の月の名称と読み方、時計の見方も解説しているが、次の問題文章もある。

「日本国中の人民此改暦を怪む人は必ず無学文盲の馬鹿者なり。これを怪しまざる者は必ず平生学問の心掛ある知者なり。されば此度の一条は日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といふも可なり」

この福沢の見解、これは言い過ぎであろう。当時の人びとの大半は寺子屋の教育、それも中途半端に受けていた人も多かった時代、突然、江戸時代を通じ昔から慣れ親しんできた太陰暦を捨てろと布告通告され、新しい太陽暦を直ちに理解せよ、できないのは馬鹿者だという福沢の主張は厳しすぎるし、ひどすぎる。

当時の一般日本人は、お天道さま、お日さまと太陽に親しんでいて、漢語である太陽なぞという言葉からして知らなかった。だから、太陽暦といわれてもピンと来なく、何が何だか得たいがしれない。時刻も、現在我々が柱・置き・腕時計によって簡単に確認できる仕組みであるが、当時の人びとは、時計なぞは見たこともないし、持ってもいない。

読書も。一般人が通常に親しんでいたのは草双紙や洒落本であり、太陽のまわりを地球が回っているという天文学的知識はなく、福沢の『改暦弁』を読み下すだけの読書習慣はなかったであろう。だから、ベストセラーにはなったが、一般人の間での理解は難しかった。

その証明が太陽暦の売れ行きである。人々は新暦を「天朝様の暦」と称していたが、一向に馴染んでいかなかった。
明治初年の人口は左図であり、人口を合計すると33,298,286人で(『新編日本史図表』)、この頃の一家族は平均4人程度(『歴史人口で見た日本』速水融著)であるから、全人口を4人で割ると8,324,570世帯となる。

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全国の暦売上部数は『最後の江戸暦問屋』によると、江戸時代には最高時四百数十万部、明治5年には五百数十万部と売れ行きが伸びていたといわれている。大体一家族に一部の暦があったと推定し、五百数十万部を550万部と仮定し計算すると、暦を所有していたのは550万÷832万=66%の世帯となる。
これが明治7年(1874)には、売上部数が2,705,013部、これは略歴(一枚摺)を含むものであるが、翌明治8年(1875)でも2,618,807部と減少した。
世帯数の割合で見るならば、全世帯832万に対し、暦数は明治8年が262万であるから、暦所有世帯は262万÷832万=31%となり、半分以下に減少している。ということは総人口約3330万人のうち、半数以上の人びとが太陽暦を受け入れなかったか、最初から所有していなかったと推測できる。

この実態から考察できることは、一般社会では相変わらず旧暦を使うか、月の状態で日付を判断していたと考えられる。正月の行事について、明治22年(1889)、東京天文台が新暦の普及状態をアンケート調査した結果が興味深い。
「スデニ全ク旧暦ヲ廃シ、単ニ新暦ヲ以テ年始ノ手数ヲ行フ部落」という問いを出したところ、殆どの県から「全クナシ」という回答であった。

もうひとつの証明はご存知『金色夜叉』(尾崎紅葉著)で、これは読売新聞に明治30年(1897)~明治35年(1902)まで連載され、お宮の松絵で著名である。

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左の絵が描くストーリーは「間貫一が鴫沢(しぎさわ)家の娘、宮、と結婚の約束していた。だが大富豪の富山が宮を見染め嫁に求め、鴫沢夫婦も宮もそれを了承。熱海の海岸で、貫一は宮をなじり、翻意を乞うが、宮は富山と結婚すると伝えたので、宮を蹴飛ばし、『来年の今月今夜、再来年の今月今夜、10年後の今月今夜、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから』という名せりふ」である。
この名文句は、毎年同じ月の同じ日は、月が同じ大きさで出るから成り立つ、つまり、旧暦で表現しているのである。ということは明治中期から後半なっても、人々は旧暦によって生活していた実態を示している。

では、現在、我々が日常目にしているカレンダーが、常態的に日常使用されるようになったのはいつ頃なのであろうか。それは大東亜戦争後に、ようやく新暦が全国的に定着したという驚くべき実態である。
旧暦は明治42年(1909)までは官暦に記載されており、また、明治16年(1883)に官暦の出版が伊勢神宮に移ってからは、一枚刷りの略暦の出版は誰にでも許可が与えられるようになって、これにはずっと旧暦が記載されていた。
しかし、昭和12年(1937)に日中戦争がはじまってからは、内務省の禁令で旧暦記載が禁じられ、次第に旧暦使用が減ってきたが、ほとんど姿を消すのは大東亜戦争後という。

現代人は新暦に対して、何ら問題を感ぜず、疑問も持たず、かえって毎年同じ暦ルールが繰り返されているので便利で、諸外国とも一致しているので受け入れているが、この状態に至るまでには、何と、明治6年から72年以上という年数を要していたのである。
だが、今のこの状態は当時と条件が異なるから受け入れているのである。今は、時計、テレビ、ラジオ、新聞などで、毎日「今日は何月何日、何曜日」と頻繁に教えてくれるので、日にちに対する心配はない。

ところが、時計を持たず、マスコミからの報道が少ないか、無き時代は、ある日、その日が何月何日であるかを忘れたら最後、全く今日という日が何日であるかわからなくなってしまうのが太陽暦であるから、人々には不便で非合理的な存在であった。
旧暦では、陽が昇る前の明るくなった時が明け六つ、陽が沈んであたりが薄暗くなってきた時が暮れ六つで、日にちは月の位置である程度わかるので、この方が当時は合理的であったのである。
時代が持つ背景によって、合理的、非合理的への判断が異なるので、福沢の言う「馬鹿者」発言は、インテリの傲慢文言であると指摘したい。

ここで、大隈の「休日を少なくする改革」の、その後の社会への影響についてふれたい。
大隈は改暦をチャンスとばかりに明治9年(1876)、官吏の出勤体系を「土曜半日、日曜休日」に変更した。官吏の休みを削ることで、それが一般社会にもひろがり、明治時代の国家方針「富国強兵」の旗印のもと、一斉に「働き蜂」化となって、欧米から異種人種ではないかと称されるほどの残業天国へと進み、行きついたところは電通の新入女子社員の自殺。
ここまでおい込まれた厳しい働き方の時代になって、ようやく反省し、今までと反対方向に舵をとろうと、現在は「働き方改革」を政府主導で進めているから皮肉なものである。

大体、江戸時代は今ほど金銭的に豊かでなかったが、生活には余裕があった。農民はさまざまな祭りや行事があって、その日は働いてはいけないきまりになっていた。
商家の奉公人の休日は、正月と盆の藪入りの時だけであったが、適当に遊べた。照明のない時代であるから、暗くなれば業務遂行は無理であった。だから、芝居小屋も陽があるうちにしか営業をしていないのは、その時間帯に客がいたということなのである。
加えて、花見にいくのも適当に仕事を休むわけで、でなければ「長屋の花見」の落語が生れるはずもない。花見は桜だけでない、菖蒲や藤、菊人形など季節ごとに花を見ながら酒を飲む遊びは盛んであった。平安時代は「憂世」であったが、江戸時代は「浮世」に変化している。
これが江戸時代に華やかな諸文化を興隆させ、職人が優れた芸術品や工芸品など広く発展させたからこそ、今の時代のインバウンド外国人が日本に来て、各地を回って「エキゾチックだ」と称賛するのである。全て、江戸時代の余裕ある働き方から生れていたのである。

現在、東京で最もインバウンドを集客するのはどこか。多分、浅草であろう。浅草に江戸文化が集積したからこそ、外国人から見て「日本的」だと訪れるのである。
『成熟する江戸』(吉田伸之著 講談社)によると、寛政10年(1798)の浅草観音境内「諸見世・小屋掛軒数」は、浅草寺境内の中枢部分、いわゆる仁王門内境内に、本堂や諸堂舎・末社の間をうめるように数多くの「見世・小屋」が充満配置され、何と274か所にも及ぶのである。

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更に上図は、274か所には数えられていない「新規」である。図のa~iであるが、a・c・eは「新規浄瑠璃」、f・h・iは「新規子供狂言」、bは「新規小見世物」、dは「新規軽業」、gは「新規碁盤人形」で、これら11か所が上表に加わるという。
今の浅草は外国人が多く訪れるが、いうまでもなく江戸時代は日本人のみが集まったわけで、いかに当時の生活に余裕があったのかということを証明している。

このような文化を創りあげた日本人の生活スタイルを、今の繋がる「働き蜂」化にしたのは大隈の改暦に伴う「働き方改革」からであるが、それらを支え、世に認識させたバックボーン的なものは何であったのだろうか。

そのひとつが、修身教科書に採り上げられた三遊亭円朝の「塩原多助一代記」だろう。その中に次の記述がある。
「多助は善右衛門を命の親と心得、有り難く思ひ、寝ても寤(さ)めても恩義の程を忘れず、萬事に氣を利かして、骨身を惜まず一生懸命にくれ/\と働き、子(ね)に臥し寅に起るの誡めの通り、子と云えば前の九ッ(0時)で、寅は七ッ時(4時)でございますから寝る間も何も有りはしません。朝は暗いうちから起きて先ず店の前を竹箒で掃き、犬の糞などがあつても穢いとも思はず取除けて川へ投げ捨て、掃除をしてしまふと臺所のおさんどんが起きて釜の下を焚附けると、多助は水(みず)甕(がめ)へ水を汲み込んで遣り、其のうち店の者が漸く起きて臺所へ顔を洗ひに来ると一々手水盥(たらい)へ水を汲んで遣り、店の土間を掃いて居る中(うち)に店の者がお飯(まんま)を喰べてしまふから、自分が食事を致し、それから直ぐ納屋へ往つて炭を擔(かつ)いで、奥蔵の脇の納屋に積み込む何や彼や少しの隙もなく働きますゆゑ、主人は素より店の者まで皆な感心致して居ります」

この「塩原多助」を円朝は明治天皇の前で口演したという。明治24年(1891)4月24日、井上馨邸での園遊会であって、『圓朝遺聞』にこう記されている。
≪四月井上候の邸へ、高貴な方々の御臨幸があった時、特に候から余興として其行列(花咲爺の趣向)をお目にかけるやうと命があった。当日は池を隔てゝ高貴の御姿を拝し、御笑顔をさへ拝されたので一同恐懼措く所を知らなかったが、兎も角無事に余興を済ませた。それから円朝一人御前に召されて塩原多助を御聴に入れ上々の首尾で退出した≫

この記述の意味は「塩原多助」が、その時代に受け入れられていたこと、つまり、多助の働き振りが政府に認められ、「働き蜂国民」になることへ、円朝が率先協力していたことにつながるのではないかという推理が成り立つ。

そうすると以前に紹介した、芸能史研究家の倉田喜弘氏の次の見解とは矛盾が生じるのではないか。
≪「塩原多助後日譚」を読んで、円朝観は一変した。主人公の多助は、円朝その人ではないのか。山岡鉄舟に禅を学んだ円朝が晩年に到達した境地、それが「後日譚」に結実している。理屈はさておき、まず読んで頂きたい。円朝は凄い。そう叫びたい衝動にかられるのは、わたくし一人ではあるまい≫
 円朝の本源を訪ねる旅はまだ続く。

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