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2019年1月26日 (土)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十五

昨年は明治維新から150年。各地で盛んに記念行事が行われた。
 明治維新は江戸無血開城によってなされたことは、多くの人が熟知している。だが加えて、無血開城経緯について、諸見解が世に喧伝されていることも知られている事実である。
 先日、東急池上線の洗足池駅に降り、洗足池公園の勝海舟別邸跡(洗足軒)を訪ねてみた。ちょうど大田区によって公園工事が行われており、別邸を見ることができなかったが、史跡説明板が道路わきに立っていた。

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 この説明板の中ほどに記された、池上本門寺における海舟と西郷の会見で江戸無血開城がなされたと明示され、社団法人・洗足風致協会によって平成11年(1999)3月に掲示されている。
 従来、通説として広く認知理解されているのは、港区・田町駅近くの旧薩摩藩邸跡に設置された記念碑に書かれた内容で、昭和29年(1954)4月に本芝町会設立15周年記念として建立されている。本芝町会とは、港区芝4丁目の全域と芝5丁目の一部区域の会員で成る町会であると、本芝町会のホームページに記されている。

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 洗足池の説明板は、本芝町会が建立した45後に設置されている。ということは、田町の記念碑の存在を承知の上で、池上本門寺で西郷・勝が会見して江戸無血開城を決めたと説明していることになる。
維新から150年経過したが、その始まりの江戸無血開城について、見解が異なる説明が、それも堂々と一般民衆に目が触れるように掲示されている。これが現実の実態である。

鉄舟の生誕地も墨田区教育委員会が、「山岡鉄舟旧居跡」として墨田区亀沢4丁目の墨田区立堅川中学校内に「山岡鉄舟の生家小野家がこの中学校の正門の辺りにありました」と説明板を設置している。
これは全くの誤りであるので、教育委員会に申し入れした。回答は「理解したので、再度、教育委員会内で整理確認し、説明板が設置されている地元の亀沢町会と調整し進めたいが、説明板の撤去期日については明確に約束できない」であった。(参照2017年4月号)

こういう歴史的な看板、一度、掲示されると正しい内容への訂正変更と、撤去は大変難しい。理由は「地元民の反対」である。地元の人々は居住している地域が、重要な歴史に関わっていることに誇りに思っているから、史実の妥当性を超越させた地元愛が優先し、結果として歴史を阻害する説明板はそのまま遺って、その場にたたずむ人に誤解を与えていくことになる。

さて、円朝が活躍した背景について述べていきたい。
円朝は明治10年(1877)、陸奥宗光の父親である伊達千廣の禅に接し、続いて鉄舟に禅を学び「無舌(むぜつ)居士(こじ)」と号を受け、民衆集合心理の様相を描き出す噺を創作し続け、寄席を通じて民衆に直接語り、それが受け入れたのであるから、時の時流をつかんでいたことになる。
では、この当時の社会はどういう状態であったか。国民生活は常に時の政治によって影響される。そこで、明治新政府が打ち出した政策を見ていきたい。

明治4年(1871)7月の廃藩置県によって、旧大名は完全にその地位を奪われ、大名が持っていた軍事力や徴税権は新政府に移管された。

明治6年(1873)1月の徴兵令布告は、武士が担っていた軍事力を、原則として国民全体が担う国民皆兵という近代的軍隊にした。
経済的に重要な政策は、明治6年7月の地租改正条例公布である。この背景にはいくつかの必要要件が横たわっていた。
① 幕末維新時に要した戦費を、商人からの借金と、不換紙幣の発行で対応したが、それの返済が必要
② 新たなる国家づくりへの投資としての工業力や軍事力への投資が必要
③ 職業を失った旧武士への生活保証としての家禄支給が必要
等であったが、諸外国とは不平等条約を締結していたため、関税収入は期待できなく、工業化も進んでいない実態下では、税収確保のターゲットは農業と、個人が保有する土地からの税収しかなく、地租改正条例公布を決定した。
 これは江戸時代に幕府・大名が現物で受け取った年貢を、新政府が金銭で地租として徴収するという制度であって、昔は納入する単位が村(村請制)であったが、個人を納税者にする大改革変更である。

 ご存知の通り、江戸時代の年貢は、領主が各耕地の生産力を米に換算した石高で評価し、それを村ごとに現物納付というシステムであった。年貢率が50%ならば「五公五民」、40%ならば「四公六民」である。この制度は一度検地されたら原則として変更されず、その後の生産力上昇があっても農民が得するだけで、領主から見ると矛盾があり、さらに現物を金銭に替えるのに手間がかかるというマイナス要件もあった。

 そこで新政府は、土地を評価し直し、現物納付でない地租改正を行ったのである。その際の地価の決め方算式は次の通りであった。
   地価=(収穫-種籾・肥料代-地租-村入用)÷利子率
 これは収穫から必要経費と地租などを差し引いた粗利益に、金利で資本還元する収益方式で地価を決めるという、一見、近代的な税制といえた。
 上式の種籾・肥料代は収穫の15%、地租は地価の3%、村入用は地価の1%、利子率は6%とされた。これで計算すると地価は8.5年分の収穫となり、地租は地価の3%であるから、8.5×0.03=25.5%になる。
これに更に地方税としての地租が、地価の1%(8.5×0.01=8.5%)が上乗せされる。したがって合計地租は地価の34%(25.5%+8.5%=34%)になる。つまり、国の税収は理論的に考えて一年間の収穫の約三分の一となる。細かい計算内容は『日本経済史』(慶應義塾大学出版会)を参照願いたい。

 しかし、ここで問題なのは、江戸時代は収穫の現物納付であったので、市場の価格変動の影響は領主に帰属していたが、新制度では納税者が収穫物を販売し、現金で納付することになったので、日々相場が変動するリスクという市場経済の影響を個人が受けることになるわけで、この地租税率では負担が多くて大変だと各地で反対一揆が持ち上がった。

地租改正反対一揆で最大のものは、明治9年(1876)の三重県伊勢暴動と、茨城県真壁騒動であったが、明治10年新年の4日、天皇による「民衆負担軽減のため、地租を地価百分の三から、百分の二分五厘にする」と発表され減額となった。いわゆる当時「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれた騒動である。

このような状況下で、明治10年の西南戦争が勃発した。これ以前から各地で士族の反乱が続き、その最大級が西郷隆盛の西南戦争で、これを鎮圧したのは明治6年に西郷が主導してつくった徴兵制による軍隊であったというから皮肉である。

しかし、この西南戦争によって新政府は経済的に大きな打撃を受けた。それは戦費調達のために発行した不換紙幣の大増発であった。不換紙幣とは本位貨幣(正貨たる金貨や銀貨)との兌換が保障されていない法定紙幣で、 政府の信用で流通するお金で、信用紙幣とも呼ばれる。
この大増発で、日本全体に貨幣量が急増して、貨幣価値が下がって、大変なインフレーションになった。結果として、物価は西南戦争が勃発した明治10年から明治14年(1881)までの、たったの4年間で2倍となった。

ここで不思議に思われかもしれない。今の世の中、黒田日銀が2013年4月から、圧倒的ボリュームの金融緩和政策をとって既に4年を過ぎ、日本中にお金が溢れている状態なのに、物価上昇目標2%は全く達成できず、政府・日銀・経済アナリスト全員が頭をひねっている。
物価が上がらないのはアメリカも同様であるから、今の時代は金融緩和が物価に影響しないのではないかと考えられる。
ところが、今から140年前、当時の大蔵大臣で大蔵卿の大隈重信によって、紙幣の大増発が実行され、物価は4年で2倍になった。大隈は積極財政派として明治14年の政変で退くまで財政政策を担当した。
明治14年の政変とは、この当時の自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法か、イギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。

インフレ時代は農民等の生産者には有利であった。同じ土地で農業を営み支払う税金は一定なのに、作物は高く売れるのである。地主や自作農には好都合であり、この自作農層の経済的ゆとりが、自由民権運動の活発化につながったともいう。

大隈の後を継いで大蔵卿に就任したのが松方正義である。松方は、まず不換紙幣の回収を行った。手段は歳入を増やし、歳出を減らすことで財政を黒字化させ、市中の紙幣を買い入れ消却するというものであった。
歳入を増やすために行ったのは、地租以外の税、酒税、煙税、醤油税、菓子税の増税または新税の新設である。これらの税に共通しているのは、嗜好品や調味料であって、生活の根本を揺るがす恐れのない物品を取り上げた。

もう一つの歳入増対策は、官業の払い下げである。明治7年(1874)から明治29年(1896)までの間、主な払い下げは26件あるが、このうち松方時代に実施されたのが24件と全体の92%を占めている。
こうした一連の政策により、社会の貨幣量は急減した。すると貨幣の価値が相対的に上昇し、物価が下がるデフレーション状態になっていく。この状態は政府にとっては、同じ額の税収でも実質的価値が高まるので有利となり、都市における消費的側面の強い給与生活者にとっては、物価の値下がりは好都合であった。
だが、当時、人口の圧倒的多数を占めていた農民や商工業者にとっては、物価の下落は販売額の減少であるから極めて苦しい状況になっていく。

大隈によるインフレが明治10年から明治14年までの4年間に2倍物価上昇したのが、松方になって明治19年(1886)までの4年間に、物価が二分の一になった。つまり、前後8年間で物価は正反対の動きを示したわけで、人々の生活に全く安定感はなかった。
特に農村では、固定して支払わなくてはならない地租に対して、作物販売額の減少により、現金収入減となり生活が難しく、困窮する農民は、現金を確保するため農地を売却するケースが相次ぎ、結果的に地主層に集積され大地主化が進んだ。

一方で、売却した農民は小作農に転化するか、工業化などの過程で生れはじめた賃金労働者になるほかなかった。そうした人々が都市に流入し、前号で述べた「下等社会」を構成したのである。
いずれにしても、前月に紹介した『絵入朝野新聞』(明治19年)が、≪落語は「其筋の注意行き届くに依り」改善されたので、下等社会を教導するのに有益である≫と、明治半ばの東京に、下等社会の存在を認めているのである。

明治という時代は、国学や儒教に代わって、啓蒙思想を唱えられ、理性や合理主義にもとづく社会を求め、経済力を高め、軍事力を強化し、富国強兵国家へ向かった時代であった。
啓蒙思想は福沢諭吉の『学問のすゝめ』などによって、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」と人間は本来平等であると、国民に説いた。
さらに「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」とも福沢は同書で説き、これは「よく学べば地位や財産を獲得でき、学ばなければ貧しく、地位も低い人間になる」と国民教育を行ったのである。

ということは、貧人・下人という存在は、資本主義形成期では負け組となり、それは個人の怠惰の結果だと見なしていることに通じる。
度々NHK朝ドラ「わろてんか」で恐縮であるが、寄席経営を志すてんと藤吉に、鈴木京香さん演じる母の啄子が「一カ月で新しい寄席を探せ」と期限を切る場面があった。何気ない啄子の一言だが、これを聞くてんと藤吉には共通する背景がある。

それは、てんも藤吉も立派な商店で育てられた子供という同質性があるから、当時の教育を受けていて、暦を理解しているからこそ、一か月という区切りを「へい」と承知したわけである。
ところが、この3人以外の芸人長屋住民は、太陽暦の内容も理解していなく、当然に暦なぞは所有していないだろう。
これは「芸人長屋」の住民だけでない。暦を所有する世帯数の割合は約31%に過ぎない(2017年11月号参照)のであるから、国民の大多数は「今日という日」が明確でないままに生活していたのである。
だが、政府は明治6年から太陽暦に変更しているのであるから、諸官庁から公布され通達される内容は新暦で実施される。

これを正しく受け止め、それに基づいて行動するには、政府・諸官庁と民衆と理解しあう土台・プラットホームとして「今日は何月何日である」という共通した基盤が整っていなければ、物事は進まないであろう。
今は、時計、テレビ、ラジオ、新聞などで、毎日「今日は何月何日、何曜日」と頻繁に教えてくれるので、日にちに対する心配はない。
ところが、時計を持たず、マスコミからの報道が少ないか、無き時代は、ある日、その日が何月何日であるかを忘れたら最後、全く今日という日が何日であるかわからなくなってしまうのが太陽暦であるから、人々には不便で非合理的な存在であった。

加えて、旧暦には歴注が記され、そこには祝言とか葬式の日にち、祝い事や建て前、引っ越し、旅立ちの日などが書かれており、それを見て日を選んで決めていたのに、これが全くの迷信であるから、直ぐにやめなさいと、一通の太政官布告で一方的に全面否定されたのである。

その結果は何を意味するか。今までと生活の習慣・仕方を変えなければならない。太政官布告が出されるまでは、歴注で今日が「良い日」か「悪い日」を決めてくれていた。雨が降ろうが、台風が来ようが、自然条件に関係なく「良い・悪い」が決まっていて、それに従って生活するのが「真っ当な常識」と思い込んでいたのである。

ところが、この判断基準は一瞬に消え、突然、すべては「よい日・悪い日の判断は自分で考えなさい」ということになった。今の時代に生きる我々には当たり前のことであるが、当時に生きていた人々には、何百年と歴注にもとづいて暮らしてきたのであるから、想像できないほどの精神的ダメージを受けたであろう。
そのような困った精神状態の中でも、政府官庁は新暦で諸政策を進めていくのであるが、多数の国民は太陽暦の暦を所有していないのであるから、旧暦状態で生活する、つまり、月の運行で日にちを判断し対応していく。
結果はどうなるか。明らかに生活にズレが生じ、そのズレは微妙なる心の変化に深化していって、何となく意味不明の不安感が漂い、進む方向の社会状況をよく理解できない人たちが多いのであるから、何事もスムースには運ばれない国家運営であっただろうと推測する。

しかも、そこに大隈インフレと、松方デフレが襲来。物価が4年で二倍に騰がり、再び4年で以前の価格に戻る。急激なインフレとデフレに翻弄された農民たちは、土地を失い都市に集積したが、まともな仕事に就く教育も受けていないわけであるから、下等社会という層を構成していく。
では、このような社会状況下に円朝はどう対応したのであろうか。
ここで円朝が出演していた寄席はどこであったのかが問題として挙がってくる。
明治18年(1885)5月13日『東京絵入新聞』には、東京の噺家の数として
  上等 1名
  中等 57名
  下等 200名
とある。勿論、円朝は上等であり1名であった。

明治14年(1881)9月29日『東京曙新聞』に次の記事が掲載された。
≪三遊亭円朝は、昨日其の筋へ是れまで受け居りし中等鑑札と書換へを願ひ出しと、是まで落語師にかぎり一人も上等鑑札を受けるものなしと、いかなるゆゑにや、謙退か抑もまた吝か≫
記事は、上等鑑札が少ないことを、謙遜なのか吝嗇なのかと皮肉っている。背景に噺家の節税対策があったと述べているのである。多くの噺家たちは政府が付与する肩書なぞに興味を持たない。
しかし、円朝は中等から上等へ変更届を提出している。自分が東京の噺家を代表していると、強く自覚した示威行為であると同時に、政府の行政方針に積極的に賛同していくと、意思表明であった。
では、自ら上等を名乗る円朝、果たして下等社会の人々が行く寄席に出演したであろうか。円朝が出演したのは「一流」の寄席であり、それらは日本橋区(現中央区)に集中していたのであるから、いわゆる下等社会の人々に伝わるような寄席メデイアではなかった。

因みに、東京市に区が設置されたのは、明治11年(1878)のことで、皇居のある麹町区を起点として、時計回りに「の」の字を書くように区の順番が定められた。麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川という15区になり、昭和22年(1947)に日本橋区と京橋区が合併して中央区になっている。

だが、円朝は一筋縄ではいかぬ人物である。円朝は一流寄席に出演しながらも、下等社会の人々への対応も図っていた。次号で触れたい。

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