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2019年1月26日 (土)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十四

 円朝は『塩原多助後日譚』で、鉄舟からの教えを次のように語っている。
≪円朝(わたくし)が深くご贔屓を戴いた山岡鉄舟先生が常/\ご教訓のうちに、人の幸福はともに喜び、人の困難はともに憂ひ、自他の別なく心の平等なる人を神とも仏ともいふと仰せられました≫

 明治10年(1877)39歳から、鉄舟逝去の明治21年(1888)50歳までの11年間、円朝は鉄舟に師事した。鉄舟は円朝より3歳上である。
二人が出会った機縁は、陸奥宗光が円朝贔屓であったところから、しばしば陸奥邸に招じられ、そこで開かれていた陸奥宗光の父親である伊達千廣の禅講義を聞き、関心を持ち、千廣の住まいである深川六間堀に通いつめ、そこで高橋泥舟と知り合い、泥舟から義弟鉄舟を紹介されたことからであった。伊達千廣は新政府の会計官権判事であり、国学者である。
伊達から禅の指導を受けたのは明治10年はじめ、伊達が亡くなったのが同年の5月であるから、伊達と円朝の関係は半年に足らない。以後は鉄舟に禅を学んだ。

 禅との交わりは、小円太を名乗っていた時代に遡る。嘉永7年(1854)16歳時、義兄玄昌が臨済宗妙心寺派・谷中長安寺の住職で、その寺門脇に母と住んでいて、落語の稽古はいつも本堂に独座して行っていた。
それを見ていた玄正が小円太に、
「何事もすべて稽古をする時、心を外に移さぬよう、座禅を組みて、一念これを勉めれば、その業は上達するであろう」と諭され、稽古をする時は必ず座禅を組み、修行に励んでいたことが、伊達千廣と鉄舟から禅を学ぼうとする素因にあつた。

鉄舟は当初、大変な円朝嫌いであったという。『圓朝遺聞』(鈴木古鶴著)が述べる。
≪山岡鉄舟は、初め円朝と聞いても胸が悪くなると云ふ程な円朝嫌ひであった≫
鉄舟は、キザな芸人・円朝の噂を聞いていたのであろう。芝居噺で人気があった頃の円朝、「円朝髪」と称される、大たぶさに結った髪に、黒羽二重の着物から赤い襦袢をちらちらのぞかせた姿で歩き、その後を芸者、後家、娘たちが何十人もついて歩いていた。このような気取った嫌味な行動をとる人間を、鉄舟は最も嫌う。ところが続いて『圓朝遺聞』に、
≪一度(ひとたび)円朝を見るに及んで、これ凡物に非ずと嗟(さ)嘆(たん)し≫、以後、鉄舟は≪活作略を以て遂に此名玉をして大光明を放たしむるに至った≫とある。
鉄舟は何を円朝に見たのであろうか。

円朝は明治5年(1872)に芝居噺をやめて、素噺、いわゆる道具、身振り、声音などを使わず、扇一本で表現する正統の話法に転向した。この意図を朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が伝える。
≪ふと心に考ふるに、斯く時勢の変遷なし、物事は追々開くる上、人の知恵さへ進み行くに、我は依然と昔を守り、華美(はで)なる事を演じなば人の笑(わらひ)種(ぐさ)とやならん、されば爰(ここ)にて思ひ止まり、我は世と共に遷(うつ)りゆかんと≫

要するに、文明開化に対応すべく、素噺に転向したのだと述べている。以降、客受けする噺を創作し、それを寄席で語り続けたわけであるから、当然ながら、時の民衆社会がもつ集合心理を洞察していたのであろうし、それを言葉で表す能力をもっていたはず。 
このところ、つまり、円朝は時流を見通す力を持っていると、鉄舟が瞬時に見抜き「凡物に非ず」と評価したと推察したい。

 『おれの師匠』(小倉鉄樹著)に、鉄舟と円朝の出会いについて興味深い内容がある。
≪円朝が師匠(鉄舟)に初めて会ったとき、師匠が「君は講釈がうまいそうだが、一つやって聞かせないか」と云った。円朝は承知して「何をやりましょうか」と訊いた。「そうだな、おれの家に子供等がいるから、みんなに桃太郎の話をしてきかせてくれ」と山岡が注文した。
 円朝は困った。今まで随分講釈もしたが、まだ桃太郎の話は高座でしたことがないし、それにあまりに話題が平凡なので困ってしまった。けれども山岡の注文なので思いきって、得意の弁舌を振って兎も角も一席話し終わった。ところが師匠は少しも面白がらないで、「おまへの噺は口で話すから肝心の桃太郎が生きて来ない」と云った≫
 

円朝は鉄舟の言葉が不思議でならなかった。口で話さないで、何で話すのか。絶えず考え続けた。どうしてもわからない。とうとう円朝は鉄舟のもとに来て、座禅をしたいと申し出た。そうすると鉄舟は今日からやるようにと命じ、二階の一間に入れられ、屏風で囲まれてしまった。『おれの師匠』の記述を続ける。

≪円朝は大小便の用の外、一歩も、二階から出ることを禁じられた。三度の食事は下から女中が二階に運んでやった。円朝の家では、主人が出たきり帰ってこないので、心配して、何か山岡に不調法なことでもしたのではないかと、門人どもが集まって詫びに来て、「どうか師匠をもどして貰いたい」と嘆願した。寄席からは「なぜ休むか」と叱るように頼みに来た。円朝が閉口して泣ッ面すると、山岡が恐い顔して睨みつける。進退全く谷(きわ)まって、どうにもならぬ窮地に陥り、「まゝよ、どうでもなれ!」と捨身で無字(むじ)に参じたところ、僅か一週間ばかりで、豁然大悟の域に達した」
 之を見て師匠は即座に、円朝に命じて、また桃太郎の話をさせ、円朝は直ぐ之に応じて一席弁じたてた。ところが今度の桃太郎は前日の桃太郎ではなかった。元気旺盛な溌剌たる桃太郎が、躍り出(い)で鬼退治をするのであった。
 師匠は喜んで、「今度の桃太郎は活きている。この気持でやり抜ければ屹と名人になれる。役者が其身を無くし、剣術使いが剣を無くし、講釈師が口を無くしなけりや、ほんとの名人にはなれぬものだ。おまえも今の気持を忘れないで、進むようにすれば、大成すること請合である」と諭した。
 円朝はこうして生れ変ったのであった。円朝の妙技に人が恍惚として身を忘れるようになったのも、彼が大悟徹底してからのことである。
 円朝が無舌(むぜつ)居士(こじ)と名乗ったのも、こうした師匠との因縁話からで、この居士號は師匠が滴(てき)水(すい)さんと相談して、撰んでやったのである≫
 

鉄舟が建立し、円朝の墓もある谷中全生庵が出版した『鐵舟居士の真面目』にも興味深い記述があるので紹介する。
 ≪以来円朝は、世人がその落語にヤンヤと騒いで呉れるに係らず、なんだか自分に物足らぬ気がしてならぬので、一日居士邸へ罷出て、具に其実を明し、私如き者にでも出来る事なれば、禅をやりたく存じますといふと、居士はソハ然(さ)うあるべき筈だ、今の芸人は兎角人さえ喝采すれば、直ぐ自惚れて名人気取になるが、昔の人は自分の芸を始終自分の本心に問ふて修行したものだ。併し幾許(いく)程(ら)修行しても、落語家なればその舌を無くせぬ限り本心は満足せぬ。又俳優(やくしゃ)なれば其身をなくせぬかぎり本心は満足せぬものだ。而してその舌や身を無くする法は、禅を措いて他にはない≫

 と伝え「趙州(じょうしゅう)無字(むじ)」の公案を授けた。「趙州無字」とは「狗子(くす)仏性(ぶっしょう)」ともいい「趙州従諗(じゅうしん)(中国唐末の禅僧)に一僧が「狗子(犬)に仏性ありや」と問うたのに対して「無」と答えた故事により、有無に関わらぬ仏性の当体を直接に示したもの。禅の修行の最初の関門とされる公案」である。(参照『三遊亭円朝の明治』矢野誠一著)

この公案について、円朝は寄席への出勤途上、楽屋、自宅と、時と所を選ぶことなく、公案に没入した。その状況を『圓朝雑観』(岡鬼太郎著)が次のように述べている。
≪楽屋入りせし円朝は、人々に言葉少なの挨拶をして後は、一人静座して、茶席にでも通った人の如くであった。或時は我が芸に就いて考へ、或時は高座の芸に耳を側(そばだ)てた。前座の話も他山の石、以て我が伎(わざ)を攻(みが)くべしとした彼は、此の楽屋での僅か時間をも、決して下らなく費やさなかった≫

『鐵舟居士の真面目』では桃太郎について、『おれの師匠』と異なる記述がなされている。
≪それより円朝2年間辛苦の結果一旦無字に撞着し、趨(わし)って居士に参見した。居士は桃太郎を語ってみよと云われ、円朝直に之を演じた、すると居士はウン今日の桃太郎は活きているぞといわれた、其後千葉立造氏(鉄舟門弟)宅で、滴水老師が居士に相談して、無舌居士の號を附與された、此因縁によって円朝は其門弟を稽古するに、専ら桃太郎の話を以てしたと≫

このように鉄舟が桃太郎噺を使って、円朝に対した対応、両書のニュアンスは少し異なるが、いずれも円朝を鍛え上げたプロセスとして語られている。
元々鉄舟は、門下人に「座禅しろ」とは勧めないし、剣も同様で、決して無理やりにではなく、本人任せであったともいう。
しかし、気根のある人物と見込むと手厳しく指導したが、その最適例が「桃太郎」を語らせた円朝であって、これが円朝を「大師匠(おおししょう)」と称される名人に迫り上げた要因であろう。

それにしても大師匠とは妙な尊称である。『三遊亭円朝の遺言』(藤原敦著)が次のように述べている。
≪明治になって三遊派の落語家(約二百人くらい)を束ねてその統領になったが、家元とも宗家とも呼ばせなかった。それで人は円朝を大師匠と称した。もともと落語家の尊称は〞師匠〟であり、これは真打になってはじめて許される。一般に大師匠というのはない。すべて師匠だ。それに〞大〟の一字を冠して称されたのは円朝だけだが、それはちょうど、徳川の将軍家のなかで家康のみが〞大御所〟と尊称されるのに似ている≫

鉄舟は『圓朝遺聞』がいう≪一度円朝を見るに及んで、これ凡物に非ずと嗟嘆し≫と見抜いたわけだが、そこには自らとの同質性を見出したのではないかと考えたい。

鉄舟が明治天皇の侍従を辞任した明治15年(1882)、天皇は「宮内省御用掛」として生涯勅任の二等官に鉄舟を遇した。この職位は天皇の御前に取次を待たずして参進できる資格である。取次なく参進できるのは、当時総理大臣だけであったから、信任の度合いがわかる。
だが、天皇だけでなく、鉄舟の人気は一般民衆からも高かった。
この当時、路上で子どもたちが手まり歌として唄っていた。
 下駄はピッコで
 着物はボロで
 心錦の山岡鉄舟
民衆の口には戸を立てられない。お天道様が見ているように、鉄舟という人間像を民衆はよく分かっていたのである。

同様に円朝も、寄席で客に受けていた。寄席芸人だから客受けするのは当然だと考えるのは誤った見方である。寄席に来る民衆集合心理の様相を描き出す噺をしなければ、人気は出ない。円朝はこの客受けする噺を創作し続け、寄席で民衆に直接語り、それを人々が受け入れたのであるから当時の時流をつかんでいた。

さらに、円朝は明治24年(1891)に、井上馨邸に行幸された明治天皇の前で塩原多助を演じているように、一般民衆だけでなく、最上級階層やそれに次ぐ政財界層からも支持される存在になっていた。
つまり、鉄舟と円朝はこの時代の人びとに、それは天皇から一般民衆まで、幅広く受け入れられていたというところに同質性をみる。
円朝の人気を証明するのに、当時の寄席の数が参考になる。なぜなら、寄席は当時のメディアだからである。(参照『三遊亭円朝と民衆世界』須田努著)

≪フィクションであるメデイア(浄瑠璃・歌舞伎・落語)は江戸時代の民衆にとって最もポピュラーな娯楽であり、時代に応じて新たな趣向や新機軸を取り入れ、観客にうける作品を提供していた。現在、テレビなどマス・メディアや、インターネットのWEBサイトに、現在のわたしたちの社会が投影されているように、これらのメディアには江戸時代に生きた人びとの集合心性が表象されている≫

明治に入ってから寄席が増え続けていたのは、寄席がメディアとして民衆の集合心性を表象しており、そこで人気を得ることは、その芸人がこの時の時代性を持っていたということになる。
寄席の数は東京府内で、明治7年(1876)に221席、明治11年(1878)に380席、明治40年(1907)では493席と、増え続けている。
明治7年から明治11年の4年間だけで160席、70%強も増え、東京府各区内に「少なくとも3,4軒」あったという。
対する歌舞伎を興行できる劇場は、東京府内でわずか8から10カ所程度であったが、寄席は東京のほとんどの町内にあり、木戸銭も安かった。巡査の初任給が4円、ソバが1杯1銭から1銭5厘であった当時、寄席の木戸銭は2銭5厘程度であるから、立ち食いソバ2杯分程度で入れたわけで、歌舞伎と異なり、寄席は東京庶民にとって身近な存在であった。

話は変わるが、NHK朝ドラ「わろてんか」は、吉本興業の創設者・吉本せいさんをモデルに描かれて展開していくが、この中で女義太夫リリコを広瀬アリスさんが演じて、リリコは東京に出て、娘義太夫で一躍人気を博しスターとなるストーリーらしい。これは当時の状況をよく表現している。
文明開化期の東京では娘義太夫が盛んであった。明治8年(1875)に「近頃女浄瑠璃」が流行っているとの新聞記事が掲載された。この頃はまだ娘義太夫という名称が定着していないが、明治11年(1878)9月5日『朝野新聞』に
≪竹本子亀太夫は、10歳にたらぬ女子なれども、浄瑠璃は妙を得て」とあり、芸は二の次で、美人がもてはやされ、書生たちは「どうする連」という徒党をつくり、寄席から寄席へと贔屓の娘義太夫を追っかけていた≫
と報道されている。「わろてんか」のリリコの舞台で、若い客が一番前に大勢座り囲んで、リリコが髪にさしていた花を落とすと、争って拾いあう場面が放映されたように、「わろてんか」は当時の状況を表しているので興味深い。

このような寄席人気を新政府が見逃すはずはなかった。
明治19年(1886)3月の『絵入朝野新聞』に次の記事が掲載された。
≪又我が邦には此の講談師の外に落語家なる者あり、専ら諧謔滑稽の言を以て巧みに人情世態を穿ち、聴客をして頤を解き、腹を抱え鬱を散じ、楽みを覚えしむるを旨とする者なり。世人或は之を評して云ふ「落語家は其言、動もすれば猥褻に渉り、風教を害するの傾きあれば、其の盛に行はるるは我々の好まざる所なり」と、成程猥褻に渉り風教を害するは怪しかる次第なれど、近頃は其筋の注意行き届くに依り、其等の弊風次第に減じたり(中略)、其面白味十分なれば、自ら下等社会に一種の快楽を与え(中略)、たとい講釈師が落語家の真似をするも、落語家が講釈師を気取るも更に頓着すべきにあらず(中略)、早晩講釈師と落語家との区別を廃し(中略)、講談師と落語家と相一致し、更に新奇の材料を探求し、欧米諸国の義人・烈士や其の他高名なる人々の伝記を雄壮に講説し、又は或る時世に於て、志士の困厄せし情態を始め、感奮開語すべき有益なる事物を面白可笑しく話すに至らば、彼の下等社会の人々をして独り弁慶の事歴を熟知せしむるのみ止まらず、亦ラファイエットの何人たり、ワシントンの何人たるを暗知するに至るべし(中略)、講談・落語は、実に此の社会の人々に取りては豈亦貴重なるものに非ずや≫

これは今の文明開化や欧化の様相を是とし、従来の猥褻で風教を害する落語は「其筋の注意行き届くに依り」改善されたので、下等社会を教導するのに有益であると述べており、さらに、落語と講談、噺家と講談師との差異を認めつつも、その区別を廃すべきとも指摘している。
政府は庶民の娯楽の場であり、当時急増した寄席を、国民教導の場に利用しようと意図したのである。

ここで下等社会という表現が述べられているが、これは具体的にどのような人々を指していたのであろうか。『三遊亭円朝と民衆世界』で次のように説明している。
≪横山源之助『日本の下層社会』(明治32年<1899>刊行)には、職人・人足・日雇等の「下等労働者」=都市下層民の多くは本所(本所区)・深川(深川区)に居住していたとあり、職人の日当として、大工38銭、左官37銭9厘であったともある。また『内地雑居後之日本』(明治32年刊行)を見ると「鉄工業もしくは紡績業の如き機械工業に従へる職工」として、彼らの日当平均は30から35銭であった、とある。子供をもった職人・職工の家庭では、食費・家賃などの必要経費が嵩み、生きていくためには「女房」の内職が必要であった≫
さらに、「東京の貧民窟は各種雑芸能のるつぼ」であったともいう。明治25年(1892)から翌年まで『国民新聞』に掲載された松原岩五郎による「最暗黒の東京」には、貧民窟の住民として、祭文語り、辻講釈、傀儡(かいらい)遣い(あやつり人形)、縁日的野師、角頭獅子、軽業師といった芸能民が登場している。
NHK朝ドラ「わろてんか」で、主人公のてんと藤吉及び母啄子の3人が米問屋倒産で、移り住んだところが「芸人長屋」。そこには寄席から声がかからないレベルの芸人たちが、屯って住んでいる場面が放映された。これは多分、都市に流入した没落農民たちが、雑業・雑芸能にたずさわっていたことをヒントにしているのではないかと推測している。

201712
上表の如く明治10年の東京の寄席は、深川区に5カ所、本所区に2カ所に寄席がある。『絵入朝野新聞』によれば、深川と本所には下等社会の人々が多く、この寄席に来る人々を教導しようとしたわけで、そこに円朝が協力したことは容易に推測できる。
円朝の協力活動がどのようなものであったかの前に、都市に人々が集まってきて、下等社会を構成した背景、そこには当然、当時の社会状況が存在している。
そこで、少々遠回りになるが、明治時代の経済状況と、そこで暮らしていた民衆意識と社会状況について、少し詳しく検討してみる必要があり、それを次号で述べたい。

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