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2019年1月

2019年1月26日 (土)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十五

昨年は明治維新から150年。各地で盛んに記念行事が行われた。
 明治維新は江戸無血開城によってなされたことは、多くの人が熟知している。だが加えて、無血開城経緯について、諸見解が世に喧伝されていることも知られている事実である。
 先日、東急池上線の洗足池駅に降り、洗足池公園の勝海舟別邸跡(洗足軒)を訪ねてみた。ちょうど大田区によって公園工事が行われており、別邸を見ることができなかったが、史跡説明板が道路わきに立っていた。

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 この説明板の中ほどに記された、池上本門寺における海舟と西郷の会見で江戸無血開城がなされたと明示され、社団法人・洗足風致協会によって平成11年(1999)3月に掲示されている。
 従来、通説として広く認知理解されているのは、港区・田町駅近くの旧薩摩藩邸跡に設置された記念碑に書かれた内容で、昭和29年(1954)4月に本芝町会設立15周年記念として建立されている。本芝町会とは、港区芝4丁目の全域と芝5丁目の一部区域の会員で成る町会であると、本芝町会のホームページに記されている。

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 洗足池の説明板は、本芝町会が建立した45後に設置されている。ということは、田町の記念碑の存在を承知の上で、池上本門寺で西郷・勝が会見して江戸無血開城を決めたと説明していることになる。
維新から150年経過したが、その始まりの江戸無血開城について、見解が異なる説明が、それも堂々と一般民衆に目が触れるように掲示されている。これが現実の実態である。

鉄舟の生誕地も墨田区教育委員会が、「山岡鉄舟旧居跡」として墨田区亀沢4丁目の墨田区立堅川中学校内に「山岡鉄舟の生家小野家がこの中学校の正門の辺りにありました」と説明板を設置している。
これは全くの誤りであるので、教育委員会に申し入れした。回答は「理解したので、再度、教育委員会内で整理確認し、説明板が設置されている地元の亀沢町会と調整し進めたいが、説明板の撤去期日については明確に約束できない」であった。(参照2017年4月号)

こういう歴史的な看板、一度、掲示されると正しい内容への訂正変更と、撤去は大変難しい。理由は「地元民の反対」である。地元の人々は居住している地域が、重要な歴史に関わっていることに誇りに思っているから、史実の妥当性を超越させた地元愛が優先し、結果として歴史を阻害する説明板はそのまま遺って、その場にたたずむ人に誤解を与えていくことになる。

さて、円朝が活躍した背景について述べていきたい。
円朝は明治10年(1877)、陸奥宗光の父親である伊達千廣の禅に接し、続いて鉄舟に禅を学び「無舌(むぜつ)居士(こじ)」と号を受け、民衆集合心理の様相を描き出す噺を創作し続け、寄席を通じて民衆に直接語り、それが受け入れたのであるから、時の時流をつかんでいたことになる。
では、この当時の社会はどういう状態であったか。国民生活は常に時の政治によって影響される。そこで、明治新政府が打ち出した政策を見ていきたい。

明治4年(1871)7月の廃藩置県によって、旧大名は完全にその地位を奪われ、大名が持っていた軍事力や徴税権は新政府に移管された。

明治6年(1873)1月の徴兵令布告は、武士が担っていた軍事力を、原則として国民全体が担う国民皆兵という近代的軍隊にした。
経済的に重要な政策は、明治6年7月の地租改正条例公布である。この背景にはいくつかの必要要件が横たわっていた。
① 幕末維新時に要した戦費を、商人からの借金と、不換紙幣の発行で対応したが、それの返済が必要
② 新たなる国家づくりへの投資としての工業力や軍事力への投資が必要
③ 職業を失った旧武士への生活保証としての家禄支給が必要
等であったが、諸外国とは不平等条約を締結していたため、関税収入は期待できなく、工業化も進んでいない実態下では、税収確保のターゲットは農業と、個人が保有する土地からの税収しかなく、地租改正条例公布を決定した。
 これは江戸時代に幕府・大名が現物で受け取った年貢を、新政府が金銭で地租として徴収するという制度であって、昔は納入する単位が村(村請制)であったが、個人を納税者にする大改革変更である。

 ご存知の通り、江戸時代の年貢は、領主が各耕地の生産力を米に換算した石高で評価し、それを村ごとに現物納付というシステムであった。年貢率が50%ならば「五公五民」、40%ならば「四公六民」である。この制度は一度検地されたら原則として変更されず、その後の生産力上昇があっても農民が得するだけで、領主から見ると矛盾があり、さらに現物を金銭に替えるのに手間がかかるというマイナス要件もあった。

 そこで新政府は、土地を評価し直し、現物納付でない地租改正を行ったのである。その際の地価の決め方算式は次の通りであった。
   地価=(収穫-種籾・肥料代-地租-村入用)÷利子率
 これは収穫から必要経費と地租などを差し引いた粗利益に、金利で資本還元する収益方式で地価を決めるという、一見、近代的な税制といえた。
 上式の種籾・肥料代は収穫の15%、地租は地価の3%、村入用は地価の1%、利子率は6%とされた。これで計算すると地価は8.5年分の収穫となり、地租は地価の3%であるから、8.5×0.03=25.5%になる。
これに更に地方税としての地租が、地価の1%(8.5×0.01=8.5%)が上乗せされる。したがって合計地租は地価の34%(25.5%+8.5%=34%)になる。つまり、国の税収は理論的に考えて一年間の収穫の約三分の一となる。細かい計算内容は『日本経済史』(慶應義塾大学出版会)を参照願いたい。

 しかし、ここで問題なのは、江戸時代は収穫の現物納付であったので、市場の価格変動の影響は領主に帰属していたが、新制度では納税者が収穫物を販売し、現金で納付することになったので、日々相場が変動するリスクという市場経済の影響を個人が受けることになるわけで、この地租税率では負担が多くて大変だと各地で反対一揆が持ち上がった。

地租改正反対一揆で最大のものは、明治9年(1876)の三重県伊勢暴動と、茨城県真壁騒動であったが、明治10年新年の4日、天皇による「民衆負担軽減のため、地租を地価百分の三から、百分の二分五厘にする」と発表され減額となった。いわゆる当時「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれた騒動である。

このような状況下で、明治10年の西南戦争が勃発した。これ以前から各地で士族の反乱が続き、その最大級が西郷隆盛の西南戦争で、これを鎮圧したのは明治6年に西郷が主導してつくった徴兵制による軍隊であったというから皮肉である。

しかし、この西南戦争によって新政府は経済的に大きな打撃を受けた。それは戦費調達のために発行した不換紙幣の大増発であった。不換紙幣とは本位貨幣(正貨たる金貨や銀貨)との兌換が保障されていない法定紙幣で、 政府の信用で流通するお金で、信用紙幣とも呼ばれる。
この大増発で、日本全体に貨幣量が急増して、貨幣価値が下がって、大変なインフレーションになった。結果として、物価は西南戦争が勃発した明治10年から明治14年(1881)までの、たったの4年間で2倍となった。

ここで不思議に思われかもしれない。今の世の中、黒田日銀が2013年4月から、圧倒的ボリュームの金融緩和政策をとって既に4年を過ぎ、日本中にお金が溢れている状態なのに、物価上昇目標2%は全く達成できず、政府・日銀・経済アナリスト全員が頭をひねっている。
物価が上がらないのはアメリカも同様であるから、今の時代は金融緩和が物価に影響しないのではないかと考えられる。
ところが、今から140年前、当時の大蔵大臣で大蔵卿の大隈重信によって、紙幣の大増発が実行され、物価は4年で2倍になった。大隈は積極財政派として明治14年の政変で退くまで財政政策を担当した。
明治14年の政変とは、この当時の自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法か、イギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。

インフレ時代は農民等の生産者には有利であった。同じ土地で農業を営み支払う税金は一定なのに、作物は高く売れるのである。地主や自作農には好都合であり、この自作農層の経済的ゆとりが、自由民権運動の活発化につながったともいう。

大隈の後を継いで大蔵卿に就任したのが松方正義である。松方は、まず不換紙幣の回収を行った。手段は歳入を増やし、歳出を減らすことで財政を黒字化させ、市中の紙幣を買い入れ消却するというものであった。
歳入を増やすために行ったのは、地租以外の税、酒税、煙税、醤油税、菓子税の増税または新税の新設である。これらの税に共通しているのは、嗜好品や調味料であって、生活の根本を揺るがす恐れのない物品を取り上げた。

もう一つの歳入増対策は、官業の払い下げである。明治7年(1874)から明治29年(1896)までの間、主な払い下げは26件あるが、このうち松方時代に実施されたのが24件と全体の92%を占めている。
こうした一連の政策により、社会の貨幣量は急減した。すると貨幣の価値が相対的に上昇し、物価が下がるデフレーション状態になっていく。この状態は政府にとっては、同じ額の税収でも実質的価値が高まるので有利となり、都市における消費的側面の強い給与生活者にとっては、物価の値下がりは好都合であった。
だが、当時、人口の圧倒的多数を占めていた農民や商工業者にとっては、物価の下落は販売額の減少であるから極めて苦しい状況になっていく。

大隈によるインフレが明治10年から明治14年までの4年間に2倍物価上昇したのが、松方になって明治19年(1886)までの4年間に、物価が二分の一になった。つまり、前後8年間で物価は正反対の動きを示したわけで、人々の生活に全く安定感はなかった。
特に農村では、固定して支払わなくてはならない地租に対して、作物販売額の減少により、現金収入減となり生活が難しく、困窮する農民は、現金を確保するため農地を売却するケースが相次ぎ、結果的に地主層に集積され大地主化が進んだ。

一方で、売却した農民は小作農に転化するか、工業化などの過程で生れはじめた賃金労働者になるほかなかった。そうした人々が都市に流入し、前号で述べた「下等社会」を構成したのである。
いずれにしても、前月に紹介した『絵入朝野新聞』(明治19年)が、≪落語は「其筋の注意行き届くに依り」改善されたので、下等社会を教導するのに有益である≫と、明治半ばの東京に、下等社会の存在を認めているのである。

明治という時代は、国学や儒教に代わって、啓蒙思想を唱えられ、理性や合理主義にもとづく社会を求め、経済力を高め、軍事力を強化し、富国強兵国家へ向かった時代であった。
啓蒙思想は福沢諭吉の『学問のすゝめ』などによって、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」と人間は本来平等であると、国民に説いた。
さらに「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」とも福沢は同書で説き、これは「よく学べば地位や財産を獲得でき、学ばなければ貧しく、地位も低い人間になる」と国民教育を行ったのである。

ということは、貧人・下人という存在は、資本主義形成期では負け組となり、それは個人の怠惰の結果だと見なしていることに通じる。
度々NHK朝ドラ「わろてんか」で恐縮であるが、寄席経営を志すてんと藤吉に、鈴木京香さん演じる母の啄子が「一カ月で新しい寄席を探せ」と期限を切る場面があった。何気ない啄子の一言だが、これを聞くてんと藤吉には共通する背景がある。

それは、てんも藤吉も立派な商店で育てられた子供という同質性があるから、当時の教育を受けていて、暦を理解しているからこそ、一か月という区切りを「へい」と承知したわけである。
ところが、この3人以外の芸人長屋住民は、太陽暦の内容も理解していなく、当然に暦なぞは所有していないだろう。
これは「芸人長屋」の住民だけでない。暦を所有する世帯数の割合は約31%に過ぎない(2017年11月号参照)のであるから、国民の大多数は「今日という日」が明確でないままに生活していたのである。
だが、政府は明治6年から太陽暦に変更しているのであるから、諸官庁から公布され通達される内容は新暦で実施される。

これを正しく受け止め、それに基づいて行動するには、政府・諸官庁と民衆と理解しあう土台・プラットホームとして「今日は何月何日である」という共通した基盤が整っていなければ、物事は進まないであろう。
今は、時計、テレビ、ラジオ、新聞などで、毎日「今日は何月何日、何曜日」と頻繁に教えてくれるので、日にちに対する心配はない。
ところが、時計を持たず、マスコミからの報道が少ないか、無き時代は、ある日、その日が何月何日であるかを忘れたら最後、全く今日という日が何日であるかわからなくなってしまうのが太陽暦であるから、人々には不便で非合理的な存在であった。

加えて、旧暦には歴注が記され、そこには祝言とか葬式の日にち、祝い事や建て前、引っ越し、旅立ちの日などが書かれており、それを見て日を選んで決めていたのに、これが全くの迷信であるから、直ぐにやめなさいと、一通の太政官布告で一方的に全面否定されたのである。

その結果は何を意味するか。今までと生活の習慣・仕方を変えなければならない。太政官布告が出されるまでは、歴注で今日が「良い日」か「悪い日」を決めてくれていた。雨が降ろうが、台風が来ようが、自然条件に関係なく「良い・悪い」が決まっていて、それに従って生活するのが「真っ当な常識」と思い込んでいたのである。

ところが、この判断基準は一瞬に消え、突然、すべては「よい日・悪い日の判断は自分で考えなさい」ということになった。今の時代に生きる我々には当たり前のことであるが、当時に生きていた人々には、何百年と歴注にもとづいて暮らしてきたのであるから、想像できないほどの精神的ダメージを受けたであろう。
そのような困った精神状態の中でも、政府官庁は新暦で諸政策を進めていくのであるが、多数の国民は太陽暦の暦を所有していないのであるから、旧暦状態で生活する、つまり、月の運行で日にちを判断し対応していく。
結果はどうなるか。明らかに生活にズレが生じ、そのズレは微妙なる心の変化に深化していって、何となく意味不明の不安感が漂い、進む方向の社会状況をよく理解できない人たちが多いのであるから、何事もスムースには運ばれない国家運営であっただろうと推測する。

しかも、そこに大隈インフレと、松方デフレが襲来。物価が4年で二倍に騰がり、再び4年で以前の価格に戻る。急激なインフレとデフレに翻弄された農民たちは、土地を失い都市に集積したが、まともな仕事に就く教育も受けていないわけであるから、下等社会という層を構成していく。
では、このような社会状況下に円朝はどう対応したのであろうか。
ここで円朝が出演していた寄席はどこであったのかが問題として挙がってくる。
明治18年(1885)5月13日『東京絵入新聞』には、東京の噺家の数として
  上等 1名
  中等 57名
  下等 200名
とある。勿論、円朝は上等であり1名であった。

明治14年(1881)9月29日『東京曙新聞』に次の記事が掲載された。
≪三遊亭円朝は、昨日其の筋へ是れまで受け居りし中等鑑札と書換へを願ひ出しと、是まで落語師にかぎり一人も上等鑑札を受けるものなしと、いかなるゆゑにや、謙退か抑もまた吝か≫
記事は、上等鑑札が少ないことを、謙遜なのか吝嗇なのかと皮肉っている。背景に噺家の節税対策があったと述べているのである。多くの噺家たちは政府が付与する肩書なぞに興味を持たない。
しかし、円朝は中等から上等へ変更届を提出している。自分が東京の噺家を代表していると、強く自覚した示威行為であると同時に、政府の行政方針に積極的に賛同していくと、意思表明であった。
では、自ら上等を名乗る円朝、果たして下等社会の人々が行く寄席に出演したであろうか。円朝が出演したのは「一流」の寄席であり、それらは日本橋区(現中央区)に集中していたのであるから、いわゆる下等社会の人々に伝わるような寄席メデイアではなかった。

因みに、東京市に区が設置されたのは、明治11年(1878)のことで、皇居のある麹町区を起点として、時計回りに「の」の字を書くように区の順番が定められた。麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川という15区になり、昭和22年(1947)に日本橋区と京橋区が合併して中央区になっている。

だが、円朝は一筋縄ではいかぬ人物である。円朝は一流寄席に出演しながらも、下等社会の人々への対応も図っていた。次号で触れたい。

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十四

 円朝は『塩原多助後日譚』で、鉄舟からの教えを次のように語っている。
≪円朝(わたくし)が深くご贔屓を戴いた山岡鉄舟先生が常/\ご教訓のうちに、人の幸福はともに喜び、人の困難はともに憂ひ、自他の別なく心の平等なる人を神とも仏ともいふと仰せられました≫

 明治10年(1877)39歳から、鉄舟逝去の明治21年(1888)50歳までの11年間、円朝は鉄舟に師事した。鉄舟は円朝より3歳上である。
二人が出会った機縁は、陸奥宗光が円朝贔屓であったところから、しばしば陸奥邸に招じられ、そこで開かれていた陸奥宗光の父親である伊達千廣の禅講義を聞き、関心を持ち、千廣の住まいである深川六間堀に通いつめ、そこで高橋泥舟と知り合い、泥舟から義弟鉄舟を紹介されたことからであった。伊達千廣は新政府の会計官権判事であり、国学者である。
伊達から禅の指導を受けたのは明治10年はじめ、伊達が亡くなったのが同年の5月であるから、伊達と円朝の関係は半年に足らない。以後は鉄舟に禅を学んだ。

 禅との交わりは、小円太を名乗っていた時代に遡る。嘉永7年(1854)16歳時、義兄玄昌が臨済宗妙心寺派・谷中長安寺の住職で、その寺門脇に母と住んでいて、落語の稽古はいつも本堂に独座して行っていた。
それを見ていた玄正が小円太に、
「何事もすべて稽古をする時、心を外に移さぬよう、座禅を組みて、一念これを勉めれば、その業は上達するであろう」と諭され、稽古をする時は必ず座禅を組み、修行に励んでいたことが、伊達千廣と鉄舟から禅を学ぼうとする素因にあつた。

鉄舟は当初、大変な円朝嫌いであったという。『圓朝遺聞』(鈴木古鶴著)が述べる。
≪山岡鉄舟は、初め円朝と聞いても胸が悪くなると云ふ程な円朝嫌ひであった≫
鉄舟は、キザな芸人・円朝の噂を聞いていたのであろう。芝居噺で人気があった頃の円朝、「円朝髪」と称される、大たぶさに結った髪に、黒羽二重の着物から赤い襦袢をちらちらのぞかせた姿で歩き、その後を芸者、後家、娘たちが何十人もついて歩いていた。このような気取った嫌味な行動をとる人間を、鉄舟は最も嫌う。ところが続いて『圓朝遺聞』に、
≪一度(ひとたび)円朝を見るに及んで、これ凡物に非ずと嗟(さ)嘆(たん)し≫、以後、鉄舟は≪活作略を以て遂に此名玉をして大光明を放たしむるに至った≫とある。
鉄舟は何を円朝に見たのであろうか。

円朝は明治5年(1872)に芝居噺をやめて、素噺、いわゆる道具、身振り、声音などを使わず、扇一本で表現する正統の話法に転向した。この意図を朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が伝える。
≪ふと心に考ふるに、斯く時勢の変遷なし、物事は追々開くる上、人の知恵さへ進み行くに、我は依然と昔を守り、華美(はで)なる事を演じなば人の笑(わらひ)種(ぐさ)とやならん、されば爰(ここ)にて思ひ止まり、我は世と共に遷(うつ)りゆかんと≫

要するに、文明開化に対応すべく、素噺に転向したのだと述べている。以降、客受けする噺を創作し、それを寄席で語り続けたわけであるから、当然ながら、時の民衆社会がもつ集合心理を洞察していたのであろうし、それを言葉で表す能力をもっていたはず。 
このところ、つまり、円朝は時流を見通す力を持っていると、鉄舟が瞬時に見抜き「凡物に非ず」と評価したと推察したい。

 『おれの師匠』(小倉鉄樹著)に、鉄舟と円朝の出会いについて興味深い内容がある。
≪円朝が師匠(鉄舟)に初めて会ったとき、師匠が「君は講釈がうまいそうだが、一つやって聞かせないか」と云った。円朝は承知して「何をやりましょうか」と訊いた。「そうだな、おれの家に子供等がいるから、みんなに桃太郎の話をしてきかせてくれ」と山岡が注文した。
 円朝は困った。今まで随分講釈もしたが、まだ桃太郎の話は高座でしたことがないし、それにあまりに話題が平凡なので困ってしまった。けれども山岡の注文なので思いきって、得意の弁舌を振って兎も角も一席話し終わった。ところが師匠は少しも面白がらないで、「おまへの噺は口で話すから肝心の桃太郎が生きて来ない」と云った≫
 

円朝は鉄舟の言葉が不思議でならなかった。口で話さないで、何で話すのか。絶えず考え続けた。どうしてもわからない。とうとう円朝は鉄舟のもとに来て、座禅をしたいと申し出た。そうすると鉄舟は今日からやるようにと命じ、二階の一間に入れられ、屏風で囲まれてしまった。『おれの師匠』の記述を続ける。

≪円朝は大小便の用の外、一歩も、二階から出ることを禁じられた。三度の食事は下から女中が二階に運んでやった。円朝の家では、主人が出たきり帰ってこないので、心配して、何か山岡に不調法なことでもしたのではないかと、門人どもが集まって詫びに来て、「どうか師匠をもどして貰いたい」と嘆願した。寄席からは「なぜ休むか」と叱るように頼みに来た。円朝が閉口して泣ッ面すると、山岡が恐い顔して睨みつける。進退全く谷(きわ)まって、どうにもならぬ窮地に陥り、「まゝよ、どうでもなれ!」と捨身で無字(むじ)に参じたところ、僅か一週間ばかりで、豁然大悟の域に達した」
 之を見て師匠は即座に、円朝に命じて、また桃太郎の話をさせ、円朝は直ぐ之に応じて一席弁じたてた。ところが今度の桃太郎は前日の桃太郎ではなかった。元気旺盛な溌剌たる桃太郎が、躍り出(い)で鬼退治をするのであった。
 師匠は喜んで、「今度の桃太郎は活きている。この気持でやり抜ければ屹と名人になれる。役者が其身を無くし、剣術使いが剣を無くし、講釈師が口を無くしなけりや、ほんとの名人にはなれぬものだ。おまえも今の気持を忘れないで、進むようにすれば、大成すること請合である」と諭した。
 円朝はこうして生れ変ったのであった。円朝の妙技に人が恍惚として身を忘れるようになったのも、彼が大悟徹底してからのことである。
 円朝が無舌(むぜつ)居士(こじ)と名乗ったのも、こうした師匠との因縁話からで、この居士號は師匠が滴(てき)水(すい)さんと相談して、撰んでやったのである≫
 

鉄舟が建立し、円朝の墓もある谷中全生庵が出版した『鐵舟居士の真面目』にも興味深い記述があるので紹介する。
 ≪以来円朝は、世人がその落語にヤンヤと騒いで呉れるに係らず、なんだか自分に物足らぬ気がしてならぬので、一日居士邸へ罷出て、具に其実を明し、私如き者にでも出来る事なれば、禅をやりたく存じますといふと、居士はソハ然(さ)うあるべき筈だ、今の芸人は兎角人さえ喝采すれば、直ぐ自惚れて名人気取になるが、昔の人は自分の芸を始終自分の本心に問ふて修行したものだ。併し幾許(いく)程(ら)修行しても、落語家なればその舌を無くせぬ限り本心は満足せぬ。又俳優(やくしゃ)なれば其身をなくせぬかぎり本心は満足せぬものだ。而してその舌や身を無くする法は、禅を措いて他にはない≫

 と伝え「趙州(じょうしゅう)無字(むじ)」の公案を授けた。「趙州無字」とは「狗子(くす)仏性(ぶっしょう)」ともいい「趙州従諗(じゅうしん)(中国唐末の禅僧)に一僧が「狗子(犬)に仏性ありや」と問うたのに対して「無」と答えた故事により、有無に関わらぬ仏性の当体を直接に示したもの。禅の修行の最初の関門とされる公案」である。(参照『三遊亭円朝の明治』矢野誠一著)

この公案について、円朝は寄席への出勤途上、楽屋、自宅と、時と所を選ぶことなく、公案に没入した。その状況を『圓朝雑観』(岡鬼太郎著)が次のように述べている。
≪楽屋入りせし円朝は、人々に言葉少なの挨拶をして後は、一人静座して、茶席にでも通った人の如くであった。或時は我が芸に就いて考へ、或時は高座の芸に耳を側(そばだ)てた。前座の話も他山の石、以て我が伎(わざ)を攻(みが)くべしとした彼は、此の楽屋での僅か時間をも、決して下らなく費やさなかった≫

『鐵舟居士の真面目』では桃太郎について、『おれの師匠』と異なる記述がなされている。
≪それより円朝2年間辛苦の結果一旦無字に撞着し、趨(わし)って居士に参見した。居士は桃太郎を語ってみよと云われ、円朝直に之を演じた、すると居士はウン今日の桃太郎は活きているぞといわれた、其後千葉立造氏(鉄舟門弟)宅で、滴水老師が居士に相談して、無舌居士の號を附與された、此因縁によって円朝は其門弟を稽古するに、専ら桃太郎の話を以てしたと≫

このように鉄舟が桃太郎噺を使って、円朝に対した対応、両書のニュアンスは少し異なるが、いずれも円朝を鍛え上げたプロセスとして語られている。
元々鉄舟は、門下人に「座禅しろ」とは勧めないし、剣も同様で、決して無理やりにではなく、本人任せであったともいう。
しかし、気根のある人物と見込むと手厳しく指導したが、その最適例が「桃太郎」を語らせた円朝であって、これが円朝を「大師匠(おおししょう)」と称される名人に迫り上げた要因であろう。

それにしても大師匠とは妙な尊称である。『三遊亭円朝の遺言』(藤原敦著)が次のように述べている。
≪明治になって三遊派の落語家(約二百人くらい)を束ねてその統領になったが、家元とも宗家とも呼ばせなかった。それで人は円朝を大師匠と称した。もともと落語家の尊称は〞師匠〟であり、これは真打になってはじめて許される。一般に大師匠というのはない。すべて師匠だ。それに〞大〟の一字を冠して称されたのは円朝だけだが、それはちょうど、徳川の将軍家のなかで家康のみが〞大御所〟と尊称されるのに似ている≫

鉄舟は『圓朝遺聞』がいう≪一度円朝を見るに及んで、これ凡物に非ずと嗟嘆し≫と見抜いたわけだが、そこには自らとの同質性を見出したのではないかと考えたい。

鉄舟が明治天皇の侍従を辞任した明治15年(1882)、天皇は「宮内省御用掛」として生涯勅任の二等官に鉄舟を遇した。この職位は天皇の御前に取次を待たずして参進できる資格である。取次なく参進できるのは、当時総理大臣だけであったから、信任の度合いがわかる。
だが、天皇だけでなく、鉄舟の人気は一般民衆からも高かった。
この当時、路上で子どもたちが手まり歌として唄っていた。
 下駄はピッコで
 着物はボロで
 心錦の山岡鉄舟
民衆の口には戸を立てられない。お天道様が見ているように、鉄舟という人間像を民衆はよく分かっていたのである。

同様に円朝も、寄席で客に受けていた。寄席芸人だから客受けするのは当然だと考えるのは誤った見方である。寄席に来る民衆集合心理の様相を描き出す噺をしなければ、人気は出ない。円朝はこの客受けする噺を創作し続け、寄席で民衆に直接語り、それを人々が受け入れたのであるから当時の時流をつかんでいた。

さらに、円朝は明治24年(1891)に、井上馨邸に行幸された明治天皇の前で塩原多助を演じているように、一般民衆だけでなく、最上級階層やそれに次ぐ政財界層からも支持される存在になっていた。
つまり、鉄舟と円朝はこの時代の人びとに、それは天皇から一般民衆まで、幅広く受け入れられていたというところに同質性をみる。
円朝の人気を証明するのに、当時の寄席の数が参考になる。なぜなら、寄席は当時のメディアだからである。(参照『三遊亭円朝と民衆世界』須田努著)

≪フィクションであるメデイア(浄瑠璃・歌舞伎・落語)は江戸時代の民衆にとって最もポピュラーな娯楽であり、時代に応じて新たな趣向や新機軸を取り入れ、観客にうける作品を提供していた。現在、テレビなどマス・メディアや、インターネットのWEBサイトに、現在のわたしたちの社会が投影されているように、これらのメディアには江戸時代に生きた人びとの集合心性が表象されている≫

明治に入ってから寄席が増え続けていたのは、寄席がメディアとして民衆の集合心性を表象しており、そこで人気を得ることは、その芸人がこの時の時代性を持っていたということになる。
寄席の数は東京府内で、明治7年(1876)に221席、明治11年(1878)に380席、明治40年(1907)では493席と、増え続けている。
明治7年から明治11年の4年間だけで160席、70%強も増え、東京府各区内に「少なくとも3,4軒」あったという。
対する歌舞伎を興行できる劇場は、東京府内でわずか8から10カ所程度であったが、寄席は東京のほとんどの町内にあり、木戸銭も安かった。巡査の初任給が4円、ソバが1杯1銭から1銭5厘であった当時、寄席の木戸銭は2銭5厘程度であるから、立ち食いソバ2杯分程度で入れたわけで、歌舞伎と異なり、寄席は東京庶民にとって身近な存在であった。

話は変わるが、NHK朝ドラ「わろてんか」は、吉本興業の創設者・吉本せいさんをモデルに描かれて展開していくが、この中で女義太夫リリコを広瀬アリスさんが演じて、リリコは東京に出て、娘義太夫で一躍人気を博しスターとなるストーリーらしい。これは当時の状況をよく表現している。
文明開化期の東京では娘義太夫が盛んであった。明治8年(1875)に「近頃女浄瑠璃」が流行っているとの新聞記事が掲載された。この頃はまだ娘義太夫という名称が定着していないが、明治11年(1878)9月5日『朝野新聞』に
≪竹本子亀太夫は、10歳にたらぬ女子なれども、浄瑠璃は妙を得て」とあり、芸は二の次で、美人がもてはやされ、書生たちは「どうする連」という徒党をつくり、寄席から寄席へと贔屓の娘義太夫を追っかけていた≫
と報道されている。「わろてんか」のリリコの舞台で、若い客が一番前に大勢座り囲んで、リリコが髪にさしていた花を落とすと、争って拾いあう場面が放映されたように、「わろてんか」は当時の状況を表しているので興味深い。

このような寄席人気を新政府が見逃すはずはなかった。
明治19年(1886)3月の『絵入朝野新聞』に次の記事が掲載された。
≪又我が邦には此の講談師の外に落語家なる者あり、専ら諧謔滑稽の言を以て巧みに人情世態を穿ち、聴客をして頤を解き、腹を抱え鬱を散じ、楽みを覚えしむるを旨とする者なり。世人或は之を評して云ふ「落語家は其言、動もすれば猥褻に渉り、風教を害するの傾きあれば、其の盛に行はるるは我々の好まざる所なり」と、成程猥褻に渉り風教を害するは怪しかる次第なれど、近頃は其筋の注意行き届くに依り、其等の弊風次第に減じたり(中略)、其面白味十分なれば、自ら下等社会に一種の快楽を与え(中略)、たとい講釈師が落語家の真似をするも、落語家が講釈師を気取るも更に頓着すべきにあらず(中略)、早晩講釈師と落語家との区別を廃し(中略)、講談師と落語家と相一致し、更に新奇の材料を探求し、欧米諸国の義人・烈士や其の他高名なる人々の伝記を雄壮に講説し、又は或る時世に於て、志士の困厄せし情態を始め、感奮開語すべき有益なる事物を面白可笑しく話すに至らば、彼の下等社会の人々をして独り弁慶の事歴を熟知せしむるのみ止まらず、亦ラファイエットの何人たり、ワシントンの何人たるを暗知するに至るべし(中略)、講談・落語は、実に此の社会の人々に取りては豈亦貴重なるものに非ずや≫

これは今の文明開化や欧化の様相を是とし、従来の猥褻で風教を害する落語は「其筋の注意行き届くに依り」改善されたので、下等社会を教導するのに有益であると述べており、さらに、落語と講談、噺家と講談師との差異を認めつつも、その区別を廃すべきとも指摘している。
政府は庶民の娯楽の場であり、当時急増した寄席を、国民教導の場に利用しようと意図したのである。

ここで下等社会という表現が述べられているが、これは具体的にどのような人々を指していたのであろうか。『三遊亭円朝と民衆世界』で次のように説明している。
≪横山源之助『日本の下層社会』(明治32年<1899>刊行)には、職人・人足・日雇等の「下等労働者」=都市下層民の多くは本所(本所区)・深川(深川区)に居住していたとあり、職人の日当として、大工38銭、左官37銭9厘であったともある。また『内地雑居後之日本』(明治32年刊行)を見ると「鉄工業もしくは紡績業の如き機械工業に従へる職工」として、彼らの日当平均は30から35銭であった、とある。子供をもった職人・職工の家庭では、食費・家賃などの必要経費が嵩み、生きていくためには「女房」の内職が必要であった≫
さらに、「東京の貧民窟は各種雑芸能のるつぼ」であったともいう。明治25年(1892)から翌年まで『国民新聞』に掲載された松原岩五郎による「最暗黒の東京」には、貧民窟の住民として、祭文語り、辻講釈、傀儡(かいらい)遣い(あやつり人形)、縁日的野師、角頭獅子、軽業師といった芸能民が登場している。
NHK朝ドラ「わろてんか」で、主人公のてんと藤吉及び母啄子の3人が米問屋倒産で、移り住んだところが「芸人長屋」。そこには寄席から声がかからないレベルの芸人たちが、屯って住んでいる場面が放映された。これは多分、都市に流入した没落農民たちが、雑業・雑芸能にたずさわっていたことをヒントにしているのではないかと推測している。

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上表の如く明治10年の東京の寄席は、深川区に5カ所、本所区に2カ所に寄席がある。『絵入朝野新聞』によれば、深川と本所には下等社会の人々が多く、この寄席に来る人々を教導しようとしたわけで、そこに円朝が協力したことは容易に推測できる。
円朝の協力活動がどのようなものであったかの前に、都市に人々が集まってきて、下等社会を構成した背景、そこには当然、当時の社会状況が存在している。
そこで、少々遠回りになるが、明治時代の経済状況と、そこで暮らしていた民衆意識と社会状況について、少し詳しく検討してみる必要があり、それを次号で述べたい。

2019年1月25日 (金)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十三

 明治新政府は矢継ぎ早に改革を推し進めたが、これらの改革で一般人の生活に大きく影響を及ぼしたものは、太陽暦の採用であろう。しかし、このような大改革を何故に突然、しかもその年も押し迫ったタイミングで実行したのであろうか。

それにはいくつかの理由があった。(参照『最後の江戸暦問屋』寺井美奈子著)
一つ目は、徳川幕府を倒し、王政復古を成し遂げたのであるから、一日も早く旧幕時代の旧暦社会慣習から離脱することが必要だという、強い新政府政権内の自意識であった。

二つ目の理由は、外交上の問題であった。明治維新によって諸外国との付き合いが始まると、欧米のように太陽暦に変更すべきだという意見が、急速に政府内に出ていた。現状では、他国との条約締結で、相手の太陽暦と、日本の旧暦日付の両方を併記しなければならない。
明治4年(1871)10月出発の欧米視察団、その最も大きな目的は、幕末に締結された不平等条約の改正であったが、欧米諸国が採用している太陽暦でない日本を、相手国は後進未開国とみなしてくる。従って、視察団に加わったメンバーは太陽暦を採用しなければ、外交上大きな不利益を被るという認識に至っていた。

だが、三つ目の理由が最も大きく、それは明治政府の財政問題であった。明治5年(1872)、大蔵卿の大隈重信が翌明治6年(1873)の太陰太陽暦を手に取って見て、来年は閏月で、一年が13カ月であることに気づき、これは大変だと慌てふためいた。
狼狽えたのには背景があった。明治4年9月、官吏・公務員の給料をそれまでの年俸制から、月給制に改定していたので、閏年は13ヵ月であるから、月給を1ヵ月余分に支払わなければならない。

加えて、廃藩置県が明治4年7月に実施され、3府302県(11月に72県)となり、県令(明治19年から県知事と改称)は旧藩主から中央政府の任命と変わり、結果的に官吏の人数は増え、必然的に人件費が増加していたのに、新政府には財源が枯渇していた。

そこで大隈が考えたのは、太陽暦に改暦すれば明治6年は、12カ月の給料で済むということであり、さらに、明治5年(1872)の12月3日を、明治6年の元旦にするから、2日しかない12月の給料は支給しなくてもよい。つまり、2か月分政府は得するということ、これが一番強い改暦理由であった。

本来、暦は一般人日常生活に密着しており、人々は毎日暦をみて行動しているわけであるから、太陽暦へ改暦するためには、その仕組みを社会全体にきちんと説明し、時間をかけ、理解を得てから実行しないと大混乱に陥る。そのことは政府内でも分かっていて、実行タイミングをどうするかについて、政府内で検討していたところに、大隈は財政面から即実施を強行したのである。
この改暦は、11月21日(旧暦)にフランスにいた欧米視察団へ電信で報告され、了承されている。

さらに、大隈は官吏の休日まで少なくする改革まで行った。現在、日本で検討されている「働き方改革」とは真逆の「労働強化」であるが、その経緯を『大隈伯昔日譚』(円城寺清著)で次のように述べている。
「其のころは一、六の日を以て、諸官省の休暇定日と為せしを以て、休暇の日数は月に六回、年に七十二回の割合と為り、加ふるに五節句あり、大祭祝日あり、寒暑に長き休暇あり、其の他、種々の因縁ある休暇日あり。総て是等を合すれば、一百数十日の多きに上り、而して其の頃の一年は平均三百五十余日なりしを以て、実際執務の日数は僅々百六七十乃至二百日に過ぎざりし。是れ乃ち一年の半か、少くも五分の二は、休暇日として消過し去りしなり。かゝる事情なるを以て、懶惰遊逸(らんだゆういつ)の風は自然に増長し、一般社会にまで及ぼし、且つ政務渋滞の弊も日一日と多きを加へ、ついには国家の禍患を構ふに至るべし。其の上、当時は外交漸く盛んにして、諸国との往復交渉頗る繁劇に赴きたるを以て、其の執務を休暇の定日と彼我一致せざれば、諸般の談判往々に渋滞するを免かれず」
「休暇日は一週中に一日、即ち日曜日を以て之れに充つることゝ為りしを以て、七十二回の休暇は減じて五十二回と為り、且つ朔望と云ひ、五節句と云へるが如き、旧来の休暇日は尽く之れを廃し、其の上に一年は三百六十五日、乃至、三百六十六日と為り、而して別に閏月を置くの要なきことゝ為りしより、独り政務処理の上に渋滞なからしむるのみならず、財政上も亦二三年毎に平年の十二分の一を増額して支出せざるべからざるの困難なし。之れを陰陽両暦制より生ずる結果を比較すれは、其の利害得失は固より同日の談にあらざりしなり」

現在、遺されている改暦に関する最初の史料は、早稲田大学図書館にある当時文部卿であった大木喬任から大隈にあてた手紙である。
≪太陽改暦の儀、過日仰せ聞され候次第もこれ有り、掛りの者へ尚また督責に及び候処、別紙の通り申し出候、就いては不日(まもなく)出来仕るべく候と存じ奉り候。御含み迄に一寸申し上げ置き候                         頓首
  十月十日
出来次第早々差し出し申すべく候
                      大木
大隈様≫
 
この書簡からわかることは、改暦1か月前である10月10日時点で、まだ太陽暦の準備が完了していなかったことと、この後、間もなく出来上がってきたが、官吏や一般人への影響が極めて大きいので、準備は秘密裡に進めていたことである。

 この進め方は当然に大問題である。国民が日常生活の中心としている暦、それを改暦しようとするなら、太陽暦の仕組み説明資料や啓蒙書などを発行し、数年かけて各地で説明会を行うなどをしてから、改暦実施というのが当たり前であろう。

ところが既に述べたように、明治5年11月9日付の太政官布告という突然の蛮行お達しで改暦を決め、太陽暦の仕組みを説明する資料や啓蒙書などは一切発行しなかったのであるから、一般人は太陽暦といわれても何が何だかわからない。

この当時、東京では江戸時代から暦の頒暦業者は11人と決まっていた。その11人は幕府に一定の冥加金を納めることで頒暦権利を確保していた。
この11人に改暦について、太政官布告の翌日に知らされていたが、管轄の文部省から何も連絡がないので「嘘」だろうと高をくくっていたところ、13日になって事実だと判明し大騒ぎとなった。
京都では知事の名で改暦の布令が市中に出されたのが17日。大阪も同じころであり、名古屋では14日に新聞号外が出されている。
主要な都市でさえ、このような状況であったから、日本全国民が知るようになったのは、翌年の明治6年に入ってからだろうといわれている。

この混乱実態から政府は11月26日に、明治6年に限り、各地方で略歴(一枚摺)の板刻を許すので、草稿を管轄官庁にて許可を受けるように、ただし、旧暦にあった歳徳、金神、日の善悪をはじめ、中下段に掲載されていたもの、いわゆる歴注は一切書き入れてはいけないと通告した。
この布告によって、略歴は頒暦業者以外からも多く出版されたが、一般人は長年、旧暦に慣れ親しんでいたので、歴注が書かれていなく、太陽暦の日付だけの暦には関心を寄せず、不人気で大量の売れ残りが生じた。

このような政府の改暦への進め方を補ったのは、民間から出版された啓蒙書である。
例えば、福沢諭吉著『改暦弁』、黒田行元著『新暦明解』、福田理軒閲正・花井静庵編著『頒暦詳註・太陽暦俗解』、杉浦次郎右衛門著『太陽暦和解』、島村泰著『勧農新暦』などであるが、最も早く出版され、一番簡潔なものが福沢諭吉の『改暦弁』であり、これがベストセラーになった。20数万部が売れたといわれているほどであるが、この販売数の背景には、官庁が官吏の教育のために大量に買い上げたということもあった。

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福沢は『改暦弁』で分かりやすく解説しているので、それをいくつか紹介する。
「太陽とは日輪のことなり。太陰とは月のことなり。暦(れき)とはこよみのことなり。故に太陽暦とは日輪を本(もと)にして立(たて)たるこよみ、太陰暦とは月を本にして立たるみよみと云ふ義なり」
「此世界は地球と唱へ円きものにて自分に舞ひながら日輪の周囲を回ること、これを譬(たと)えれば独楽の舞ひながら丸行燈の周囲を回るが如し」

「行燈を一回(ひとまわり)まはりて本の場所へ帰る間に、春夏秋冬の時候を変じ、一年を為すなり」

「日輪の周囲に地球の回る道は六億の里数あり。この六億里の道程を三百六十五と六時の間に一回して本の処に帰るなり」

「太陽暦は日輪と地球とを照らし合せて其互に釣合ふ処を以て一年の日数を定たるものゆへ、春夏秋冬、寒暖の差、毎年異なることなく何月何日といへば丁度去年の其日と同じ時候にて、種を蒔くにも、稲を刈るにも態々暦を出して節を見るに及ばず」

この他に一週間の曜日の名と読み方、一年の月の名称と読み方、時計の見方も解説しているが、次の問題文章もある。

「日本国中の人民此改暦を怪む人は必ず無学文盲の馬鹿者なり。これを怪しまざる者は必ず平生学問の心掛ある知者なり。されば此度の一条は日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といふも可なり」

この福沢の見解、これは言い過ぎであろう。当時の人びとの大半は寺子屋の教育、それも中途半端に受けていた人も多かった時代、突然、江戸時代を通じ昔から慣れ親しんできた太陰暦を捨てろと布告通告され、新しい太陽暦を直ちに理解せよ、できないのは馬鹿者だという福沢の主張は厳しすぎるし、ひどすぎる。

当時の一般日本人は、お天道さま、お日さまと太陽に親しんでいて、漢語である太陽なぞという言葉からして知らなかった。だから、太陽暦といわれてもピンと来なく、何が何だか得たいがしれない。時刻も、現在我々が柱・置き・腕時計によって簡単に確認できる仕組みであるが、当時の人びとは、時計なぞは見たこともないし、持ってもいない。

読書も。一般人が通常に親しんでいたのは草双紙や洒落本であり、太陽のまわりを地球が回っているという天文学的知識はなく、福沢の『改暦弁』を読み下すだけの読書習慣はなかったであろう。だから、ベストセラーにはなったが、一般人の間での理解は難しかった。

その証明が太陽暦の売れ行きである。人々は新暦を「天朝様の暦」と称していたが、一向に馴染んでいかなかった。
明治初年の人口は左図であり、人口を合計すると33,298,286人で(『新編日本史図表』)、この頃の一家族は平均4人程度(『歴史人口で見た日本』速水融著)であるから、全人口を4人で割ると8,324,570世帯となる。

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全国の暦売上部数は『最後の江戸暦問屋』によると、江戸時代には最高時四百数十万部、明治5年には五百数十万部と売れ行きが伸びていたといわれている。大体一家族に一部の暦があったと推定し、五百数十万部を550万部と仮定し計算すると、暦を所有していたのは550万÷832万=66%の世帯となる。
これが明治7年(1874)には、売上部数が2,705,013部、これは略歴(一枚摺)を含むものであるが、翌明治8年(1875)でも2,618,807部と減少した。
世帯数の割合で見るならば、全世帯832万に対し、暦数は明治8年が262万であるから、暦所有世帯は262万÷832万=31%となり、半分以下に減少している。ということは総人口約3330万人のうち、半数以上の人びとが太陽暦を受け入れなかったか、最初から所有していなかったと推測できる。

この実態から考察できることは、一般社会では相変わらず旧暦を使うか、月の状態で日付を判断していたと考えられる。正月の行事について、明治22年(1889)、東京天文台が新暦の普及状態をアンケート調査した結果が興味深い。
「スデニ全ク旧暦ヲ廃シ、単ニ新暦ヲ以テ年始ノ手数ヲ行フ部落」という問いを出したところ、殆どの県から「全クナシ」という回答であった。

もうひとつの証明はご存知『金色夜叉』(尾崎紅葉著)で、これは読売新聞に明治30年(1897)~明治35年(1902)まで連載され、お宮の松絵で著名である。

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左の絵が描くストーリーは「間貫一が鴫沢(しぎさわ)家の娘、宮、と結婚の約束していた。だが大富豪の富山が宮を見染め嫁に求め、鴫沢夫婦も宮もそれを了承。熱海の海岸で、貫一は宮をなじり、翻意を乞うが、宮は富山と結婚すると伝えたので、宮を蹴飛ばし、『来年の今月今夜、再来年の今月今夜、10年後の今月今夜、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから』という名せりふ」である。
この名文句は、毎年同じ月の同じ日は、月が同じ大きさで出るから成り立つ、つまり、旧暦で表現しているのである。ということは明治中期から後半なっても、人々は旧暦によって生活していた実態を示している。

では、現在、我々が日常目にしているカレンダーが、常態的に日常使用されるようになったのはいつ頃なのであろうか。それは大東亜戦争後に、ようやく新暦が全国的に定着したという驚くべき実態である。
旧暦は明治42年(1909)までは官暦に記載されており、また、明治16年(1883)に官暦の出版が伊勢神宮に移ってからは、一枚刷りの略暦の出版は誰にでも許可が与えられるようになって、これにはずっと旧暦が記載されていた。
しかし、昭和12年(1937)に日中戦争がはじまってからは、内務省の禁令で旧暦記載が禁じられ、次第に旧暦使用が減ってきたが、ほとんど姿を消すのは大東亜戦争後という。

現代人は新暦に対して、何ら問題を感ぜず、疑問も持たず、かえって毎年同じ暦ルールが繰り返されているので便利で、諸外国とも一致しているので受け入れているが、この状態に至るまでには、何と、明治6年から72年以上という年数を要していたのである。
だが、今のこの状態は当時と条件が異なるから受け入れているのである。今は、時計、テレビ、ラジオ、新聞などで、毎日「今日は何月何日、何曜日」と頻繁に教えてくれるので、日にちに対する心配はない。

ところが、時計を持たず、マスコミからの報道が少ないか、無き時代は、ある日、その日が何月何日であるかを忘れたら最後、全く今日という日が何日であるかわからなくなってしまうのが太陽暦であるから、人々には不便で非合理的な存在であった。
旧暦では、陽が昇る前の明るくなった時が明け六つ、陽が沈んであたりが薄暗くなってきた時が暮れ六つで、日にちは月の位置である程度わかるので、この方が当時は合理的であったのである。
時代が持つ背景によって、合理的、非合理的への判断が異なるので、福沢の言う「馬鹿者」発言は、インテリの傲慢文言であると指摘したい。

ここで、大隈の「休日を少なくする改革」の、その後の社会への影響についてふれたい。
大隈は改暦をチャンスとばかりに明治9年(1876)、官吏の出勤体系を「土曜半日、日曜休日」に変更した。官吏の休みを削ることで、それが一般社会にもひろがり、明治時代の国家方針「富国強兵」の旗印のもと、一斉に「働き蜂」化となって、欧米から異種人種ではないかと称されるほどの残業天国へと進み、行きついたところは電通の新入女子社員の自殺。
ここまでおい込まれた厳しい働き方の時代になって、ようやく反省し、今までと反対方向に舵をとろうと、現在は「働き方改革」を政府主導で進めているから皮肉なものである。

大体、江戸時代は今ほど金銭的に豊かでなかったが、生活には余裕があった。農民はさまざまな祭りや行事があって、その日は働いてはいけないきまりになっていた。
商家の奉公人の休日は、正月と盆の藪入りの時だけであったが、適当に遊べた。照明のない時代であるから、暗くなれば業務遂行は無理であった。だから、芝居小屋も陽があるうちにしか営業をしていないのは、その時間帯に客がいたということなのである。
加えて、花見にいくのも適当に仕事を休むわけで、でなければ「長屋の花見」の落語が生れるはずもない。花見は桜だけでない、菖蒲や藤、菊人形など季節ごとに花を見ながら酒を飲む遊びは盛んであった。平安時代は「憂世」であったが、江戸時代は「浮世」に変化している。
これが江戸時代に華やかな諸文化を興隆させ、職人が優れた芸術品や工芸品など広く発展させたからこそ、今の時代のインバウンド外国人が日本に来て、各地を回って「エキゾチックだ」と称賛するのである。全て、江戸時代の余裕ある働き方から生れていたのである。

現在、東京で最もインバウンドを集客するのはどこか。多分、浅草であろう。浅草に江戸文化が集積したからこそ、外国人から見て「日本的」だと訪れるのである。
『成熟する江戸』(吉田伸之著 講談社)によると、寛政10年(1798)の浅草観音境内「諸見世・小屋掛軒数」は、浅草寺境内の中枢部分、いわゆる仁王門内境内に、本堂や諸堂舎・末社の間をうめるように数多くの「見世・小屋」が充満配置され、何と274か所にも及ぶのである。

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更に上図は、274か所には数えられていない「新規」である。図のa~iであるが、a・c・eは「新規浄瑠璃」、f・h・iは「新規子供狂言」、bは「新規小見世物」、dは「新規軽業」、gは「新規碁盤人形」で、これら11か所が上表に加わるという。
今の浅草は外国人が多く訪れるが、いうまでもなく江戸時代は日本人のみが集まったわけで、いかに当時の生活に余裕があったのかということを証明している。

このような文化を創りあげた日本人の生活スタイルを、今の繋がる「働き蜂」化にしたのは大隈の改暦に伴う「働き方改革」からであるが、それらを支え、世に認識させたバックボーン的なものは何であったのだろうか。

そのひとつが、修身教科書に採り上げられた三遊亭円朝の「塩原多助一代記」だろう。その中に次の記述がある。
「多助は善右衛門を命の親と心得、有り難く思ひ、寝ても寤(さ)めても恩義の程を忘れず、萬事に氣を利かして、骨身を惜まず一生懸命にくれ/\と働き、子(ね)に臥し寅に起るの誡めの通り、子と云えば前の九ッ(0時)で、寅は七ッ時(4時)でございますから寝る間も何も有りはしません。朝は暗いうちから起きて先ず店の前を竹箒で掃き、犬の糞などがあつても穢いとも思はず取除けて川へ投げ捨て、掃除をしてしまふと臺所のおさんどんが起きて釜の下を焚附けると、多助は水(みず)甕(がめ)へ水を汲み込んで遣り、其のうち店の者が漸く起きて臺所へ顔を洗ひに来ると一々手水盥(たらい)へ水を汲んで遣り、店の土間を掃いて居る中(うち)に店の者がお飯(まんま)を喰べてしまふから、自分が食事を致し、それから直ぐ納屋へ往つて炭を擔(かつ)いで、奥蔵の脇の納屋に積み込む何や彼や少しの隙もなく働きますゆゑ、主人は素より店の者まで皆な感心致して居ります」

この「塩原多助」を円朝は明治天皇の前で口演したという。明治24年(1891)4月24日、井上馨邸での園遊会であって、『圓朝遺聞』にこう記されている。
≪四月井上候の邸へ、高貴な方々の御臨幸があった時、特に候から余興として其行列(花咲爺の趣向)をお目にかけるやうと命があった。当日は池を隔てゝ高貴の御姿を拝し、御笑顔をさへ拝されたので一同恐懼措く所を知らなかったが、兎も角無事に余興を済ませた。それから円朝一人御前に召されて塩原多助を御聴に入れ上々の首尾で退出した≫

この記述の意味は「塩原多助」が、その時代に受け入れられていたこと、つまり、多助の働き振りが政府に認められ、「働き蜂国民」になることへ、円朝が率先協力していたことにつながるのではないかという推理が成り立つ。

そうすると以前に紹介した、芸能史研究家の倉田喜弘氏の次の見解とは矛盾が生じるのではないか。
≪「塩原多助後日譚」を読んで、円朝観は一変した。主人公の多助は、円朝その人ではないのか。山岡鉄舟に禅を学んだ円朝が晩年に到達した境地、それが「後日譚」に結実している。理屈はさておき、まず読んで頂きたい。円朝は凄い。そう叫びたい衝動にかられるのは、わたくし一人ではあるまい≫
 円朝の本源を訪ねる旅はまだ続く。

2019年3月例会は静岡地区研修旅行です

2019年3月例会は以下の日程で静岡地区研修旅行です。

日時:2019年3月16日(土)

東京 08:03発<ひかり463> 静岡09:03着  改札にて集合
<徒歩>
1.09:20~09:30(10)  西郷・山岡会見の碑
2.09:40~10:00(20)  慶喜居宅跡(浮月楼)
 <以下、レンタカー>
3.10:40~11:00(20)  鉄舟寺
4.11:10~11:30(20)  梅蔭禅寺(次郎長菩提寺)
5.11:40~11:50(10)  次郎長生家(旧高木家)
6.12:00~12:20(20)  壮士墓(咸臨丸犠牲者の墓)
12:40~13:50     <昼食=清水魚市場おさかなセンター河

                 岸の市>
                 
7.14:20~14:50(30)  清見寺(咸臨丸碑)
8.15:10~16:20(70)  望嶽亭  
 

*以上の時間設定は概略で、その場の状況で適宜行動しますので目安です

17:30頃~清水区にて「静岡・山岡鉄舟会」との交流会
 清水 20:14発 東海道線普通  静岡20:27着
 静岡 20:38発<ひかり480> 東京21:40着  解散

2019年2月例会開催案内

2月例会のご発表は清水明氏で、テーマは「鉄っつぁん新ちゃんの東海道中膝栗毛」。

鉄舟居士と益満休之助がどこを通って、どんな風景を見て、何を喰い、どこに泊まり、どんな温泉に入ったかなど、慶応436日を中心に展開いただきます。

 

 日程    2019220()

 発表    清水明氏

テーマ   「鉄っつぁん新ちゃんの東海道中膝栗毛」

時間    1830分~20

   会費    1500

   会場    東京文化会館・中会議室1

2019年1月16日例会開催結果

1.2019年1月例会は『月刊武道2018年10月号』(公益財団法人日本武道館)の表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」を描いたアトリエ麻美乃絵・中村麻美先生から「月刊『武道』表紙絵より~維新の英傑たち「駿府談判」ほか」について以下の解説とともにご講演をいただきました。
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「1868年3月9日、幕臣・山岡鉄舟は、駿府に陣を構える官軍参謀・西郷隆盛に会談を申し込みました。江戸決戦は目前、駿府への道中は命がけの旅でした。
西郷は江戸総攻撃を中止する条件の一つとして「徳川慶喜を備前に預ける事」と提示しました。しかし鉄舟はこれに応じず抗弁します。「朝命なり」と凄む西郷に対し、鉄舟は毅然と問いただしました。「立場が逆ならば、あなたは主人である島津の殿様を差し出しますか」。激論の末、しばらく考えた西郷は「先生の言うことはもっともだ。慶喜殿のことはこの吉之助が必ず取り計らう」と約束します。江戸無血開城は、鉄舟のこの命がけの尽力により成ったのでした。
のちに西郷は、江戸の民を守り、主君への忠義も貫いた鉄舟を評します。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
剣・禅・書の三道を極めた鉄舟は、1880年に無刀流の開祖となります。「敵と相対する時、刀に依らずして心を以って心を打つ」と修養を重んずる鉄舟の理念は、今日あらゆる武道に受け継がれ、今に活かされています」
的確な鉄舟の捉え方をされています。

また、表紙絵には鉄舟しか描かれていません。それは鉄舟ひとりで薩摩軍に対したという意義を、島津の陣幕を大きく描くことで強調し、鉄舟武士道精神を見事に表現されているのです。

鉄舟以外の表紙絵、「井伊直弼 雪の日の覚悟」、「白虎隊」、「榎本武揚 蝦夷地にかけた思い」、「江川太郎左衛門と韮山反射炉」、「福井藩士 由利公正 馬脅し」、「鍋島直茂と接ぎ木」、「鉢の木」、「山中鹿之助 我に七難八苦を与え給え」、「明智光春 誉れの湖水渡り」、「城戸俊三 名誉を捨てて愛馬を救う」などについても武士道に基づき解説をしていただきました。

『月刊武道』表紙絵は『伝えたい日本のこころ』(日本武道館発行)として出版されていますので、皆さんに推薦いたします。
ご多忙の中、ご講演賜った中村麻美先生に深く感謝申し上げます。

2.山本紀久雄からは、
① 2019年3月16日(土)に予定している「静岡地区研修旅行計画」をご案内しました。まだご参加登録されていない方はお申込みをお願いいたします。

② 次に「墨田区の鉄舟旧居跡の説明板撤去経緯」を説明いたしました。墨田区教育委員会が平成20年(2008)2月に墨田区亀沢4−11−15竪川中学校校門際に、「ここで鉄舟が天保7年(1836)御蔵奉行だった旗本小野朝右衛門高福の五男として生まれた」との説明板を設置いたしました。

しかし、これは明らかに誤っておりますので、2017年3月13日墨田区教育委員会に出向き、史料に基づき説明し、撤去を求めていたものが、2018年12月19日墨田区教育委員会事務局から「山岡鉄舟の説明板は、本日、板面交換を行い、別内容の説明板となりました」と連絡受けた事を報告いたしました。

山岡鉄舟が誕生した屋敷は、松島茂氏による研究によって、御蔵橋を渡って御蔵の入堀に沿って右に入る道の曲がり角、松平伯耆守屋敷と隣接する御蔵奉行御役屋敷(現:墨田区横網1—12の一部:旧安田庭園東南角地を含むL字路付辺)が小野朝右衛門の役宅であったと推定されています。

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③ 続いて「神にならなかった鉄舟・・・その一」を発表いたしました。
鉄舟の弟子松岡萬(よろず)は「神」として、磐田市の松岡神社(写真)と、藤枝市の「松岡神社」に祀られています。

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特定の人を神に祀り上げる習俗には二つの類型があり、一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」である。(参照『神になった人々』(小松和彦著 知恵の森文庫)

「祟り神」タイプは中世以前の人を神に祀った神社に多く、「顕彰神」タイプは「人神神社」で近世以降につくられており、為政者が創建したものばかりでなく、「松岡神社」のように民衆の側から積極的に建立されています。

弟子の松岡が神として祀られているのに、鉄舟は江戸無血開城という偉大な業績を遺したが、どこにも「鉄舟神社」は存在しない。
その疑問持ちつつ、神の検討を今後も研究し報告してまいります。

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