水野靖夫氏と北村豊洋氏のお二人から2018年11月21日(水)にご発表いただきました。
このところの山岡鉄舟研究は、皆様のご研鑽により多角度に及び、内容も充実しており、11月の水野氏、北村氏のご発表も洞察力に富んだ素晴らしい研究結果でありました。お二人の研究姿勢に深く感謝申し上げます。
●水野靖夫氏 テーマ「前回(2018年3月)発表後の研究内容」
「江戸無血開城」に関わる勝海舟については多くの「定説」があるが、今回は以下の2つの「定説」を検証する。
第一は、益満休之助が鉄舟に同行したのは勝の指示によるという「定説」である。従来「益満同行」を言い出したのは鉄舟か勝か両説があった。しかし『海舟日記』の「言上を経て其事を執せしむ」という文言が、「鉄舟派遣」ではなく、「益満同行」のことであると解釈すれば、その前後の記述と整合性が取れ、「益満同行」を言い出したのは鉄舟ということになる。従来多くの識者はこの文言を「鉄舟派遣」と考えていたようだが、すると「鉄舟派遣」という慶喜の命令をその下位の若年寄が許可することになり、筋が通らない。
一方「益満同行」は、益満は重罪人であるため、若年寄の許可を得るため言上が必要である。そして言上を「益満同行」と解釈すれば、鉄舟の駿府派遣が勝の指示ではないことがいっそう明確になる。
第二は、勝は徳川方の総責任者、トップであったという「定説」である。これは勝が2月25日の日記に、陸軍総裁を免じられ「軍事取扱」になったと書いているため、陸・海両軍の上に立つ総責任者になったように解釈されているが、それは間違いである。
なぜなら「軍事取扱」なる職務は『柳営補任』や諸武鑑に載っておらず、正式な職務(ポスト)ではないからである。また勝が越前藩家老の本多修理に、自分は総督(軍事司令官、軍のトップ)ではないと語っており、勝自身徳川のトップという認識を持っていなかったからである。
勝は慶応2年の「会薩調停」「宮島会談」のように、薩長に顔が利く困ったときの便利屋として使われ、3月14日西郷に対し降伏条件緩和の嘆願が終わった直後、白戸石介に陸軍総裁の座を取って代わられ、その後は「軍事取扱」という曖昧な任務で、軍事に関わってはいたものの、実質お役御免になったと思われる。
●北村豊洋氏 テーマ「山岡鉄舟の魅力 下総と江戸そして飛騨」
鉄舟の人間形成に役だった飛騨には、歴史上二つの大きなポイントがある。それは「飛騨匠」と「大原騒動」である。
律令時代の労役で、毎年100人が都へ行き宮殿等の建築に従事したのが「飛騨匠」で500年も続いた。
労役と賄いを10人単位で行い、1年交代で順番が来て仲間の食事も作る。お互いが支えて自立しなければできない。当たり前に何代も引き継がれ「飛騨人気質」の原点となる。個人は目立たず、自立と誇りと謙虚さが生まれた。
後年の「大原騒動」はそのDNAの表れであろう。
皆の為に結束し合法的に訴え続けて18年、この時代、多くの犠牲者が出たが最後は農民の勝利となった。飛騨での鉄舟の師匠は「大原騒動」の生き字引の人達である。
鉄舟は、会読で儒学、国学、などの講義を受けたが、優等生的に鵜呑みした訳でない。むしろ生々しい飛騨の歴史を具体的に加味して教えられた事に意味が有る。飛騨のリベラルアーツカレッジに留学したといっていい。
明治15年宮内庁を辞して、仏教復活に精を出していた頃、鉄舟は下総の手賀沼開拓に顔を出す。
あの利根川東遷の犠牲になり苦労した下総の手賀沼周辺は、東京に近く私利私欲の江戸の山師達の開拓の草刈り場であった。地元民は爆発の寸前であり、大原騒動の二の舞になる予感が有ったのである。
鉄舟は石坂、松岡と相談して仏教復活の「教田院」設立を理由にして、山師たちの前へ立ちはだかった。
明治2年の下総開墾が失敗し、東京の飛び地になる等の経過を知っての行動である。住民は信頼して歓迎した。
その結果が大正、昭和の時代になって実を結ぶ。地元の有志、技術者が率先して開拓に成功するのである、先を見越していた鉄舟の行動であった。
「地域アイデンティ」を守り、手を差しのべた鉄舟の行動に、開墾人石塚与兵衛や湖北村誌編纂者菅井敬之助は慕い感動したという。飛騨での学習が役立った。民主主義の源流が飛騨にあったと言っていいだろう。
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