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2018年10月24日 (水)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十二

明治新政府は矢継ぎ早に改革を推し進めた。次表が明治6年(1873)までに進められた主な改革である。(参照『新編日本史図表』第一学習社)

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 これらの改革で一般人の生活に大きく影響を及ぼした改革は何か。それは廃藩置県であり、戸籍調査、学制の交付という教育改革、徴兵制などが挙げられるが、太陽暦採用が最も甚大な問題を引き起こしたと推察する。

 従来、歴史史実として語られるのは、江戸無血開城に始まる政治体制の変化を中心とし、どちらかといえば為政者から見た改革内容が多く議論されてきた。
しかし、国家全体から見れば、圧倒的に一般人が多数派であり、それらの日常生活が脅かされ、崩されることは、人々のライフサイクルが狂わされるわけであるから、ここに視点を当てた実態史実の分析は重要である。

 結論から述べると、太陽暦採用は人々に「今日の日にちを判らなくした」のである。現代人は考えてみたことがないだろう。「今日が何月何日であるか」という当たり前で、当然であることが、判別できないという異常事態を。それが発生したのである。

 出張を頻繁に行っている方は、朝ホテルで目覚めた瞬間、今、自分がどこにいるのか、それを思い出すのに、慌てて机のホテル名を印字されたものを見て、ああ、今はこの町にいるのかと安心し、にわかに今日の予定が浮かんでくる経験をしていると思う。

 この場合はホテル名が印刷されたものがあるので問題ないが、今のカレンダーに見るごとく、日にちだけが並んでいる暦になってしまうと、新聞やテレビとかラジオがない時代であるから、昨日までの日にちを記憶するか、記録化していないと、今日を認識できなかったであろう。

 さらに、もっと強烈な一発は、「歴注」として暦に書かれたもの、これは当時の一般人が昔からずっと習慣的に信じてきた「生きるための行動指針」であるが、太陽暦採用によって「インチキきわまる迷信だつた」と国家から断定され、即座に忘れ去るよう命令が出されたことである。

 このような太陽暦採用改革によって、一般人が陥った心理的恐怖については、殆どの歴史書が述べておらず、それが三遊亭円朝によって提言された「新しい時代の生き方」に結び付くことも、誰も語っていない。

太陽暦採用決定は、太政官布告第337号によって明治5年(1872)11月9日、突然通告された。(下記参照 『国立公文書館』蔵)

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それまで長い間親しみ、身近な日常習慣となっていた太陰太陽暦を廃止し、欧米諸国が使用している太陽暦(グレゴリオ暦)に変更、つまり、1年を365日とし、それを12月に分け、4年毎に閏年をおき、1日を24時間とし、旧暦の明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日としたのである。 

 この改暦結果は、明治5年の12月3日から12月30日まで28日間という日にちが消えた上に、布告から実施まで一カ月足らずという唐突な改暦であったが、詔書の出た日に知っていたのは、役人の中でも上層部のほんのわずかな者だけだったという。また、旧暦の12月は1日と2日しかないのであるから、正月への準備もできなかったし、当時はほとんどが盆暮れ勘定であったから、それらへの対応も大混乱であった。
 

なお、改暦の通達が東京府になされたのは9日の翌日10日であったが、『東京日日新聞』が9日付で号外を出しているので9日が通達日とみなしているのである。
 上記の詔書文言を以下に記してみる。
「明治5年壬申11月9日
今般改暦ノ儀、別紙詔書ノ通り、仰セ出ダサレ候、ユエニ此ノ旨相違達シ候事
   詔書
  朕惟フニ、我邦通行ノ暦タル太陰の朔望ヲ以テ月ヲ立テ、太陽ノ纏度(てんど)(注 太陽の軌道上の運動)ニ合ス。故ニ二、三年間必ズ閏月ヲ置カザルヲ得ズ、置閏ノ前後時ニ季候ノ早晩アリ、終ニ推歩ノ差ヲ生ズルニ至ル。殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率(おおむ)ネ妄誕無稽(もうたんむけい)(注 偽り)ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセズ。 (途中略) 依テ自今旧暦ヲ廃シ、太陽暦ヲ用ヒ、天下永世之ヲ遵(じゅん)行(こう)セシメシ。百官有司其レ斯(この)旨(むね)ヲ体セヨ。」

この詔書にあるように「殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ妄誕無稽」と断定している。つまり、出鱈目で、迷信であると国家が決めつけたものは「歴注」といい、当時は暦の中でも中心をなしていたもので、これを正しく読み、それに従った暮らしをすることが大切なのだというのが、一般社会常識であった。これが突然全面否定されたのであるから、人々は混乱した。

 つまり、当時は歴注によって祝言とか葬式の日を決め、祝い事や建て前、引っ越し、旅立ちの日も決めていたわけで、これがすべてやめて太陽暦では何も書かれないことになった。

このところを理解しないと当時の混乱背景がわからないが、その前に太陽暦の変わる前の旧暦という太陰太陽暦についてつかんでおかないと、さらにわからないことになるので、少し解説したい。

当時の暦事例として嘉永6年(1853)の天保歴を下に示してみる。(参照『現代こよみ読み解き事典』柏書房 『最後の江戸暦問屋』筑摩書房)

どの年の暦も、まず巻頭に暦師名と年紀が記述された。年紀には、年号の年次・平仮名書きの年干支・依拠する暦法名・その年の星宿(二十八宿)・一年の日数が記される。
次に、太歳神・大将軍・大陰神といった、その年の諸神の方位を円盤上に書き込んだ図(方位吉凶図)が描かれていた。

各月とも、月初めに記される月建(月首)を幅広く取り、そこには月次・月の大小・月建干支・月の星宿(値月)・朔日の七曜(値朔日)が記された。

暦の本表に入ると、一段目の日付だが、正月三が日だけは「日」の字を配し、それ以外は簡単な記号で代用したが、その形は地方ごとに特色がある。

二段目は干支十二支の呼称、三段目は十二直、四段目は納音(なつおん)五行、五段目が雑節の一部等、六段目に歴注が記されている。

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 参考のために上の暦を以下に書き直してみる。
 「京都 大経師降屋内匠
嘉永6年みつのとのうし乃天保壬寅元暦觜宿値年凡三百五十五日
大さいうしの方       此方ェむかいてよし但木をきらす(木を伐らず)
大しやうくんとりの方 ことしまで三年ふさがり(三年塞がり)
大おんいの方         此方ェむかいてさんをせす(産をせず)
   としとくあきの方(歳徳明の方) ねうし 金神 さるとり
   みむまの間(巳午の間)万よし 
さいけういぬの方 むかひてたねまかす(種蒔かず)
 土公 春はかま夏はかと 秋は井冬はには
さいはひつしの方 むかひてわたしまします(引越せず)ふねのりはしめす 
正月大 二月小 三月大
さいせつたつの方 此方よりよめとらす(嫁とらず) 四月大 五月小 六月大
わうはんうしの方 むかひて弓はしめよし(弓始めよし) 七月小 八月大 九月小
へうひひつしの方 むかひて大小へんせす(大小便せず)ちくるいもとめす(畜類求めず)
十月大 十一月小 十二月大
正月大建甲寅 星宿値月室宿火曜値朔日
一日 ひのえむま さたむ  水 吉事始 はかためくらひらきひめはしめきそはしめ(歯固め、蔵開き、姫始め、着初始め)
ゆとのはしめこしのりそめ万よし (湯殿始め、興行初め)
二日 ひのとのひつし とる 水馬のりそめふねのりそめ弓はしめ
                                        (船乗初め、弓始め)
あきなひはしめすきそめ万よし (商初め、鋤初め)
三日 つちのえさる やふる  わうまう(往亡 注 出行を忌む)

この嘉永6年天保歴では、正月三日間のみ例示したが、勿論、4日以降30日まで中段(五段目)の雑節一部等、下段(六段目)の歴注が記されているので、この二項目を10日まで列記してみたい。
(日付)  (中段)                 (下段)
四日             十し(十死・きわめて危険な日)
五日             ●(大凶日)
六日             天おん母倉月とくちう日かくもんはしめよし
               (天恩、月徳、重日、学問始め)
七日 八せん(専)のはしめ       神よし天おん母倉天火らうしやく(神吉、狼藉)
八日 ま日(間日・ひまな日)  天おんきこ日ちいみ(帰忌日、血忌)
九日             くゑ日ふく日(凶会日、復日・重なる日)
十日             神よしけんふくものたちよし(元服、物裁ち)

 以上が詔書に妄誕無稽と断じられた「殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キ」という内容である。確かに迷信であって、今の時代には受け入れられないであろう。

 だが、当時の人びとは大変困ったのである。
「歴注は昔から天子さまが定めたもので、幕府の天文方では扱われず、京で書かれたものであるのに、それを、今度はまた、天子さまが出鱈目だから載せてはいけないとは、どういうことなんだろう」(暦の天文学的な部分、これは月の満ち欠けや日月食などは幕府が担当し、日時・方角の吉凶、禍福、禁忌などの歴注は、朝廷の陰陽頭である土御門家が担当していた)

「暦の中で中心をなしているのが歴注であるから、それを正しく読み、それに従った暮らしをすることが大切だと、ずっと教えられてきていたのに、それが妄誕無稽とはいったいどうしてなのか」

「歴注が出鱈目なら、祝言とか葬式の日にち、祝い事や建て前、引っ越し、旅立ちの日は、昔から歴注を見て、ちゃんと日を選んで決めていたのに、これがダメだというのでは、暮らしのけじめがつかなくなるのでないか」

「太陽暦とかで、閏月は4年に一回の2月に一日で、今までのように13カ月ある年は無くなって、一年は12カ月となって、大小の月は毎年変わらないということは、暦には何も書かれずに、ただ月と日がずらっと並ぶだけなら、暦は頼りのないものなってしまった」

「時の数え方が昼と夜とを同じ長さにして、これを12刻(とき)ではなく、24に分けて、子(ね)の刻から午(うし)の刻までを午前、午の刻から子の刻までを午後となってしまうので、冬なんぞは夜の明けないうちに6時になって、夏はお天とさまが高くなってから6時になるということになると、長唄の<宵や待ち>気分も出なくなってしまう」(<宵や待ち>とは、一夜を男と過ごした女が鶏の啼き声、夜明けを知らせる明け六つの鐘が鳴ると、男が帰ってしまうので、その鐘を聞かせたくないといって耳に手を当てるというものだが、江戸の音曲や芝居はすべて不定時法の鐘を使っている。それが定時法になったら、伝統的なものはみな合わないことになる) 11月29日(旧暦明治5年11月の最後の日

 最も困ったのは、前述したように「今日の日にちが判らなくなった」ことだった。
 旧暦では、新月から三日月へと徐々に月が丸くなり、15日にはだいたい満月となった。(月の運行は季節によって違うので、必ず満月とは限らないが)  したがって、満月から
十六夜月、立待月と欠けていく月の形で、今日が何日ということがおおむね分かった。

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ところが、太陽暦に改革された明治6年1月の左暦をみると、日にちが並んでいるだけなので、毎日、一日が終わったところで印でもつけていない限り、今日が何日であるかが判断不能となってしまった。
多くの人は、最初は旧暦の12月3日が新暦の元旦という特別な日なので意識していたが、二、三ケ月経つと印をつけなかった多くの人々は、日にちはまったくわからなくなってしまった。
 現代のようにラジオ、テレビ、新聞によって、簡単に「今日の日にち」がわかる状況ではないのである。いかに困ったであろうか。
その点、太陰太陽暦は、月によって概略の日にちを知ることができたのである。
結果は明治6年、7年、8年と年数が経っても暦の販売数は減って行ったのである。いかに新暦の太陽暦が不評であったことがわかる。
さらに問題なのは、国民を無視して改暦したのに、政府は太陽暦の「説明責任」を全く行わなかったことである。
代わりに民間人によって何冊かの啓蒙書が出され、そのうち最も早かったのが福沢諭吉の『改暦弁』であった。

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