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2018年9月25日 (火)

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十一

円朝の作品は、ほとんどが高座で口演されたもので、創作、改作をふくめて非常に多く、高座での声が終わると消える運命だったが、速記によって記録化され出版されたので、幸いにして今日まで伝わっている。

昭和2年に春陽堂より『円朝全集』全13巻が刊行された。この全集には短文、書簡、資料なども含まれているが、それらを除いた代表的作品31篇と落語を、『三遊亭円朝』(永井啓夫著)が以下の7項に分類している。

1. 芝居噺 2.怪談噺 3.伝記物 4.人情噺 5.翻案物 6.北海道取材作 7.落語

円朝は生前、幽霊掛け軸を百幅も集めたといわれ、これは柳橋のさる料亭で百物語の趣向による怪談会を催したことにちなんで所有していたもので(参照『三遊亭円朝の明治』矢野誠一著)、円朝没後、藤原家に遺され、それを藤原富太郎によって全生庵に寄贈され、毎年8月11日の円朝忌引を中心に何日間か、幽霊画が一般公開されている。

怪談噺は7項に分類された中で4本。円朝といえば怪談ものと受け取るむきも少なくないが、意外にすくない。しかし、4本とも劇化され、怪談狂言の名作として度重なる上演がなされている。その4本とは、真景(しんけい)累ヶ淵(かさねがふち)、怪談牡丹燈籠、鏡ヶ池操松影)(江島屋騒動)、怪談乳房榎である。真景累ヶ淵や怪談牡丹燈籠は、15日間の連続口演として創られた噺で、文庫本300頁規模になり、落語の新たなるスタイルと称されている。

ここで真景累ヶ淵の「真景」と「累ヶ淵」について少し解説を加えたい。円朝が安政6年(1859)につくった時の演題は「累ヶ淵後日の怪談」であった。これは師円生の演目「累草子」に遠慮し、その続編という意味で「後日」と入れたが、明治初年に漢学者である信夫恕軒)の助言で「真景累ヶ淵」と「真景」を加えた。

≪怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、余り寄席で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経症だと云ふことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌ひなさる事でございます≫(速記本『真景累ヶ淵』冒頭掲載)

開化の世に怪談でもあるまいと「神経」を利かして「真景」と冠したのである。

では「累ヶ淵」とは何か。累ヶ淵は、茨城県常総市羽生町の法蔵寺裏手辺りの鬼怒川沿岸の地名。江戸時代、この地を舞台とした累(るい、かさね)という女性の怨霊とその除霊をめぐる物語が広く流布しており、法蔵寺には「累の墓」もある。

四代目鶴屋南北作の『色彩間苅豆』をはじめとした累(かさね)ものと呼ばれる一群の歌舞伎作品がうまれ、円朝もこれを参考に創作したもので、噺は複雑に入り組んでおり、登場人物も大勢である。

この創作は、安政6年円朝21歳時の作品であるが、当時、毎夜の興行に芝居噺の道具を用意すると、助演の師円生が先にその演目を口演してしまうので困りはてて、自ら工夫、創作したものであり、芝居噺当時はさほど複雑な構成ではなかったが、その後、素噺に変更してから現地調査をし、創作の幅と奥行きを広げ、長編としたものである。

 ≪円朝が創りあげた因果関係噺は、単なる血縁の結びだけに止まらず、人間すべて――読者にも通ずる人間絵図であったところに特徴があり、それは、殆ど天才的ともいうべき円朝の名人芸によって、舌三寸から語りだされていったのである≫(前出『三遊亭円朝』)

この現地調査は、その後も行ったが、次第に実在の一人の人物を取り上げる伝記物となっていく。

円朝が浜町に住んでいた34、35歳の頃、画家・飯島光峨の夫人から、「榛名梅吉」という上州の侠客の話を聞き、創作のヒントを得、講釈の伯円が演じていた「あんもの草三」という短い読物を取り入れ、さらに上州伊香保の福田屋竜造という親分から聞いた話も加えてつくりあげたのが伝記物の「後開榛名梅ヶ香」(安中草三郎)である。

この時の現地調査行きは、新聞(『郵便報知』明治8年8月7日付)で報道されるほどで、円朝の行動は世間から関心持たれていた。
伝記物として最も著名なのは「塩原多助一代記」である。このための上州沼田への調査は、明治9年(1876)8月から9月にかけて行っている。この作品のヒントは知り合いの柴田是真から、本所相生町(現・墨田区両国)の炭屋塩原屋の子孫に起こった怪談話を聞いたことからである。

柴田是真とは、幕末明治期の蒔絵師で、王子稲荷神社に伝わる「源頼光の家臣・渡辺綱が、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、鬼女の腕を切り落とした」という「鬼女図」で知られているが、河鍋暁斎と並ぶ日本の近代美術家として、むしろ欧米での評価が高い人物である。

柴田是真は、塩原屋には金にあかせた銘石を用いた内井戸があり、その井戸に嫁が身を投じたり、二代目、三代目が発狂のあげく家がつぶれてしまったという、初代没後における番頭や二代目の奸計が招いた怪談で、円朝好みの作品に仕上げるに十分な題材だった。

そこで当初は「塩原多助一代記」を怪談噺にするつもりだったという。しかし、現地調査した結果、怪談噺から立身出世譚に作り直し、明治11年(1878)に完成させている。

何が円朝をして怪談噺を断念させたのであろうか。それは明治という新時代の時流が影響している。

既に述べたように、円朝の怪談噺の「真景累ヶ淵」は、「累もの」という言葉があったことからわかるように、ストーリーそのものは、幕末時当時の芝居や浮世絵、噺で広く知られていた。

「怪談牡丹燈籠」も同様で、当時、一般的に流布されていたものであったので、この時代の人々に怪談噺は馴染みのジャンルだった。
だからこそ、円朝作品は元の噺の影を止めないほど脚色し、複雑にし、緻密化し、幻覚を入り組ませた内容に組み立て直し、それを舌三寸の名人芸で語ることで人気を得たのだが、その背景にはこの時代の人びとが、怪談噺を受け入れるという素地があったのである。

だが、明治10年以降、円朝が≪怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして≫と枕で述べているように、このような観客は少数派になっていく。「塩原多助一代記」を怪談噺ではなく伝記物に作り直したのはこれが一因であろう。

この状況は時流をつかまないといけないという意味で、現代にもあてはまるだろう。

先日、このところ、ヒット出版を続けている出版社の社長とお会いしたが、その際、今の読者は日露戦争や第二次世界大戦をテーマに取り上げても関心をそれほど寄せない。
社長は東郷平八郎元帥に心酔しているので、東郷本を出版しようと、原宿で数百人にアンケートを行ったところ、東郷元帥を知っている人はわずか数パーセントしかいなかったという。これは乃木希典将軍や山本五十六元帥も同様だと断定する。

では、現代人はどの時代に関心を共通して持っているのか。それも併せて原宿で聞いてみると、多くの発言が「幕末維新」という回答であったので、これにヒントを得て、加えて、今年は明治維新150年であるから、今は「維新物」に全力投入しており、結果は出版本が数万部の発行部数となっていると力説する。

つまり、時代の変化とともに、人々の関心事も変っていくのであるから、それに合わせていかないとヒット作品は生まれないというのである。当然の見解と思う。

徳川幕府という封建制度から、近代社会構築へと急ピッチで改革を矢継ぎ早にうっていく明治新政府。天皇を中心とした中央集権的国家体制を確立すべく、様々な対策を矢継ぎ早に打ち出した。例えば、士農工商という身分差別はなくなったが、人々は、一気に押し寄せた身の回りの大変化に「これからいったいどうやって生きていけばよいのか」と戸惑い、この大変革時代に生きる指針を求めようとしていたのである。

そこに登場したのが円朝の代表作、「塩原多助一代記」である。

この作品について中村隆英氏が『圓朝の世界』(『文学』増刊号・岩波書店)で、以下のように解説しているので紹介する。

≪物語の前半、多助の幼少期は、偶然が多すぎるうえ、多助がいじめ抜かれるところもいかにもくどい。家出をして、愛馬青に別れを告げて江戸に出てからはテンポが快調になる≫

≪多助は江戸に出て、神田佐久間町の山口屋善右衛門という炭薪問屋に奉公した。思い切って江戸に出たものの、進退きわまって、身投げしようとしたところを、山口屋の主人に救われたのが縁なったのである≫

≪山口屋に奉公してから、人が変わったように頭角を現したのである。いくつかの例を引いておこう。

その一。主人に申し出て、給金はいらないかわり、切れた草履わらじ、縄切れ、紙屑、すべて空いている納屋にためておいて売ることを許された。売上は主人に預けて、利をつけてもらうことにした。

その二。切れた藁草履を人足が川に捨てるのを拾って修繕しておいて、二年で三千足にもなった。買ってやろうというと、もともと主人のものだから金はいらないというのである。

その三。下野飛駒村の炭荷主吉田八右衛門が、ゴマの灰道連れ小平のために受取証文を奪われ、小平は山口屋に乗り込んで80両をかたり取ろうとした。多助は小平の悪事を見破り、八右衛門の危機を救う。八右衛門は20両を礼として多助に与えようとしたが、多助はこれを断わり、将来自分が炭家を開いたとき、千両の荷を送ってほしいと申し出て、承諾書を受け取った。開業に当り、この約束は実行された。

その四。青山信濃殿町の青山家に炭を運んでゆくとき、手前の押島横町に荷車を置いて、その後の七、八町(1キロ足らず)を炭を担いで歩かねばならない。二月ごろには霜解でぬかるみすべるし、そのあと砂利道なので、草履やわらじが日に二足も切れてしまう。石屋にたのんで石畳を敷けば、歩き易く、はきものもいたまない。諸人のためというので、主人から20両借りて石畳を整備した。

その五。11年の奉公の後、主人の許しを得て多助は独立する。この間に拾ったものを売って主人に預けた金が142両余、主人からの100両等をあわせて300両になっていた。多助は本所相生町に20両の売家を買い、炭家を開業する。10年の間粉炭を拾い集め、空俵に詰めて700俵の余になっていたのを、貧しい裏店住いの家族などに、味噌こし一杯五文か七文に売る商売をはじめて繁盛した。御用達藤野屋杢左エ門の娘花が、多助の働き振りに惚れ込んで妻となり、故郷の田畑を買い戻して沼田の家を再興し、江戸の炭屋も巨大な身代を築いた。

この主筋に、多助の真の父母、沼田の養家、悪党の小平その他をからめて、長編の人情話が組みたてられ、高座に舞台に大好評を博したのである。この話がこれほど有名になり、明治天皇の御前で講演したとさえいわれ、五代目菊五郎が舞台で大当たりをとったのはなぜであろうか。

明治前期の社会では、江戸時代以来の身分差、たとえば、地主と小作人、店主と奉公人、お邸やお店と出入の商人、職人などの差別が厳然と存在していた。当時農工商の人びとは先祖からの家業を守り、子孫に伝えるのを美徳として大過なきを期していたのである。一度没落した家を再興し、あるいは低い身分から上層に成りあがるのは容易なことではなかった。二宮尊徳が「手本は二宮金次郎」とうたわれたのはまず生家を再興し、報徳の教えを説き、さらに農政を指導したからである。

塩原多助の物語も、この背景のなかから生れた。円朝は、その事実を精査し、多助の立志談を軸とし、人情話にふさわしい脇役を配して、この物語を創作した。速記本の結びに、多助が大分限者になって、
「其の家益々富み栄えましたが、只正直と勉強の二つが資本(もとで)でありますから、皆様能く此の話を味って、只一通りの人情話とお聞取りなされぬやうに願ひます」
と付言しているのも、勧善懲悪と勤倹力行を鼓吹する発想からであろう。塩原多助こそは幕末明治の農工商の理想像だったのである≫

この「塩原多助一代記」には、続編「塩原多助後日譚」があることは知られていたが、その発見は、円朝の没後であった。

円朝が没した明治33年(1900)8月11日、葬儀が一段落したあと、條野採菊(鏑木清方の父)は円朝遺品の中から「塩原多助後日譚」を見つけ出し、これを『日(や)出国(まと)新聞』に掲載しだしたが、明治34年(1901)1月17日に日出国新聞社は類焼し、円朝遺稿も焼失した。

 ところが平成11年(1999)に至って、芸能史研究家の倉田喜弘氏が手許にある新聞のコピー、これは東京大学明治新聞雑誌文庫(明治時代に発行された全国各地の新聞・雑誌を専門に収蔵している)の黒ずんだ湿式コピーで、昭和40、50年代に複写したものであるが、それを整理していたところ「塩原多助後日譚」が現れ、読んでみるとあまりに素晴らしいので、当然、円朝全集に収録されているはずと調べたが、どこにも掲載されていない。そこで、この新出遺稿を『圓朝の世界』(『文学』増刊号)を出版し掲載したわけで、倉田氏が見つけなければ世に出なかったのである。

 読後感として倉田氏は「慕わしい人・塩原多助」と題し以下のように記述している。

 ≪三遊亭円朝が遺した「塩原多助後日譚」。読んでいくうちに、作品の中へぐいぐい引っ張り込まれた。物凄い力である。巻を措(お)く能(あた)わずとでもいうのであろうか。一気呵成に読み終えたとき、主人公の塩原多助をこよなく慕わしく、また懐かしい人だと感じた。こんな経験は初めてである。誠実ひとすじの生き方に、いたく感動した≫
 

≪読み終えたのち、再び多助に会いたいという欲求にかられた。そんな気持になるのも滅多にないことだが、再読後はやはり誠実さに打たれ、心が清らかになった。多助の奉公先であった問屋の山口屋にしても、妻の実家である駕籠御用達の藤野屋にしても、人を見る目が鋭く、じつによく描かれている。こうした実業家がいたからこそ、明和から文化に至る江戸の経済が、よく持ちこたえたのだとさえ思い込まされる。もちろん、現地調査や史実の考証によるドキュメンタリー・タッチも強みだ≫

 ≪「塩原多助後日譚」を読んで、円朝観は一変した。主人公の多助は、円朝その人ではないのか。山岡鉄舟に禅を学んだ円朝が晩年に到達した境地、それが「後日譚」に結実している。理屈はさておき、まず読んで頂きたい。円朝は凄い。そう叫びたい衝動にかられるのは、わたくし一人ではあるまい≫

 今まで鉄舟と円朝の関係で「塩原多助後日譚」を引用されたのは倉田氏のみで、鉄舟の影響によって円朝の人間性が確立したと述べられた。

筆者が≪理屈はさておき、まず読んで頂きたい≫という「塩原多助後日譚」を読み感激した部分を紹介したい。

 ≪さて塩原屋の店は年々商法は手広になり随って利益もあるので身代もおひおひ好都合になりますのはまったく多助が百折撓(せつたわ)まぬ勉強の効と慈善心に富む所以でありましょう≫

 ≪さりながら商人間には商売忌(いみ)敵(かたき)きとかいふことがございまして、炭問屋社会では多助が薄利で商ひをいたすので、それが邪魔でならん、かつ他人の繁盛を見て羨ましくなり嫉ましくなり、つひにその人を憎むといふ浅(あさ)猿(まし)いことだが、落語家などでもやっぱり小さな了簡から自分の持席が不入りで他の席が大入であると偏執心を起こしまして、ナーニあいつは技は未熟だが運がよいので、詰りこの辺は聴く客に耳がないのだなどと愚痴を申しますが、これは落語家ばかりでなく、かなりなご商人衆でも隣の店で立派な煉瓦か土蔵造りでもできますと例のチンチンを起して、コケおどしにアンな物を建てやァがって南を塞(ふさげ)たから風入りが悪くッてなどと口小言タラタラでございます≫

 ここまで読んできて、とうとう円朝自ら、鉄舟の指導を受けたことを述べている文章に出あうことができた。

 ≪円朝が深くご贔屓を戴いた山岡鉄舟先生が常常ご教訓のうちに、人の幸福はともに喜び、人の困難はともに憂ひ、自他の別なく心の平等なる人を神とも仏ともいふと仰せられましたが、この塩原多助は奉公人でも主人でも自他の別なくその憂ひはともに憂ひますので不識(しらず)不識天の恵を得て僅のうちに名高い金持になりました≫

 この当時の一般人は、維新の大改革で日常生活習慣が変わり、新しい時代での生き方をどう組み立てればよいのか戸惑っていた。
円朝は、維新政府の改革変化にクレームをつけるのではなく、それらを包み込む「新しい時代の生き方」を、鉄舟教訓まで持ち出し「塩原多助一代記」と「塩原多助後日譚」で語ることによって示したのである。それは当時の人々に広く受け入れられ、かつ、明治政府からも支持されたのである。

では、当時の人々の日常習慣を混迷に陥れさせた改革とは何であったのか。それを具体的に検討し、旧時の一般人生活状況をみつめないと、円朝が多助に語らせた「新しい時代の生き方」につながらない。次号で考察したい。

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