鉄舟から影響受けた円朝・・・その十
今は「落語ブーム」といわれている。その背景を検討しようと「鈴本演芸場」「浅草演芸ホール」「地域寄席」等を巡ってみた結果、観客数は人気者登場で変化するので、落語界をひとまとめにして、一言で「落語ブーム」とはいえないのではないかと思えてきた。
人気者で思い出すのが、一昨年の1月3日である。地元の新聞販売店から届いた春風亭小朝と三遊亭円楽の「落語会」開催チラシに申し込みし、会場ホールに行ってみると、人気の二人効果で2500席がほぼ満席だった。
つまり、今の「落語ブーム」とは、「落語家ブーム」のことではないかと思えてきたところ、小朝が次のように談じていた。(『円朝の女』松井今朝子著・「小朝と著者の対談」)
≪今、落語ブームといわれるんですけど、そうじゃなくて落語家ブームなんです。人気のある噺家の独演会にお客が集まっているだけで、母体である寄席の客がさほど増えていない≫
これは、落語家・立川談四楼が「本当に落語ブーム?」(日経新聞2017年4月30日)で述べたものと一致する。
≪東京の落語家は約500人、そのうち300人以上が真打で、仕事の奪い合いは熾烈を極めるようだが、実は、一部の落語家だけが忙しく、「オレはヒマだぞ」と宣言する落語家も数多くいる≫
小朝と松井今朝子の対談は今から8年前の『オール読物2009年』であるから、当時から今の「落語ブーム」は、「落語家ブーム」であると見抜いていたわけで、さすが小朝と思っているところ。
明治5年(1872)円朝34歳、自ら工夫し、長い間馴染んできた芝居噺をやめ素噺、いわゆる道具、身振り、声音などを使わず、扇一本で表現する正統の話法に転向した。
この意図を朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が伝える。
≪ふと心に考ふるに、斯く時勢の変遷なし、物事は追々開くる上、人の知恵さへ進み行くに、我は依然と昔を守り、華美(はで)なる事を演じなば人の笑(わらひ)種(ぐさ)とやならん、されば爰(ここ)にて思ひ止まり、我は世と共に遷(うつ)りゆかんと≫
時流変化に対応すべく、転向したと述べているが、実は以下の事情もあった。(参照『三遊亭円朝』永井啓夫著)
明治2年(1869)以来、円朝は日本橋南茅場町の宮松亭の昼席のトリをつとめていた。宮松亭はその当時、市内有数の席であったが、ここから遠からぬ両国に、新しく寄席立花家が開席することになったのが明治5年のこと。
ここに新内(浄瑠璃の一流派)の富士松紫朝、三味線の鶴澤紋左衛門(のち義太夫に転じた竹本播磨太夫)、落語の円朝という三人会で口開けすることになっていた。
円朝は、この招きに応じたものの、宮松亭の真を打っていたので、立花家の真打は富士松紫朝に譲ろうとした。
紫朝は、久留米表田町の旅籠屋の息子、新内界に入り名人といわれたが、偏狭な性格であり、円朝の意向を逆に解し、給金のことなどで苦情を申し出た結果、三人会から抜けてしまった。
責任上、対応に窮した円朝、急遽、弟子の円楽に三遊派最高の名跡である円生(三代目)の名を継がせ、円朝が売り物としていた芝居噺でもって宮松亭に看板をあげさせた。
三遊派の勢力が再興しつつあったとはいえ、六代桂文治、初代禽語楼小さんなどの排出する当時、三遊派から円朝の他に大看板を出すとすれば、円生の名と円朝の芝居噺という二つのものを冠さなければならなかったのである。
素噺への転向は、こうした事情もあったわけだが、もちろん、本質的には『三遊亭圓朝子の傳』がつたえるように、芝居噺で軽薄な人気を誇っていた自分に、不満を持ち始めていたことも潜在的にあり、転向のタイミングを狙っていたのであろう。
また、時代の変化を見るに敏感な円朝のひらめき判断でもあったが、筆者は、当時の落語界がおかれた状況、そちらの要因の方が円朝には大きかったと推測する。
素噺に転向して後、初めての口演は、両国・寄席山二亭での「累ヶ淵(かさねがふち)」だといわれ、人情噺の手法による正当な話芸で見事に演じた。
人情噺とは、おとし咄(小咄、笑咄)から発した落語が、やがて笑いのみを目的とせず、登場人物の描写を中心としつつ、世相風俗を取り入れることで、あるストーリーを持ち、大衆に迎合しつつも、文学的な要素を併せ持つ一連の作品へと構成するものであるが、主眼はあくまで写実的な人材描写におかれる。
幕末期には、既に人情噺が落語の本道、最高の境地とされ、滑稽なおとし咄のみに終始するのは、たとえ人気を集めたとしても、大真打とはいわれない。つまり、芝居噺でも人情噺の本質を身につけた上でのものと、単なる物真似芸としての芝居噺とでは、その芸質で格段の相違を持つことを、演じる者も、目利き観客にも明白にわかっていた。
円朝は、幼少期からの落語修行生活で、この区別を明らかに理解していただけに、芝居噺で軽薄な、表面的な人気を集めていた自分に、不満を持っていたことは容易に推察できる。
そこへ追い打ちをかけたのが、明治5年4月の政府による「三条の教則」である。
1. 敬神愛国ノ旨ヲ体ス可キコト
2. 天地人道ヲ明ニス可キコト
3. 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシム可キコト
国民教化政策として、教部省が教導職に達した教化の基準であり、三条の教憲ともいい、天皇崇拝と神社信仰を基軸とする近代天皇制国家の宗教的、政治的イデオロギーを集約し、明確に示したものである。
いわゆる儒教精神にもとづいた尊王、忠孝の教えであるが、こうした思想が「三条の教則」発布以来、それの普及につくした知識人のはたらきもあって、おのれの思惑をおおきく超えたところで急速に世間に浸透していくことに、円朝は目を見張った。(参照『三遊亭円朝の明治』矢野誠一著)
この年には陸海軍省が設置され徴兵、国民皆兵制度が定められ、学制が制定され、義務教育発足、太陰太陽暦から太陽暦に切替えも行われた。この改暦は国民生活に重大な影響を与え、それが円朝の作風にも大きく反映されたと考えており、改めて詳細に検討していきたい。
このような新政策は芸能界にも当然に及んでくる。演劇界では、2月に猿若三座が東京府庁から御諭を受け、8月には劇場に対し観覧税が課せられることになった。その代わりとして江戸以来限定されていた三座以外の劇場も9月に公認された。従来、娯楽の場であった劇場を民衆教化、文化向上の場として利用するための政策であった。
当時の『東京日日新聞』(5月25日付)に、一流芸人が教部省に呼び出されたとの報道があって、一流芸人として「噺家・京橋弓町斉藤柳橋」の名がある。これは、当時柳派統領だった三代麗々亭柳橋のことで、このように噺家までも芸能政策の対象とされたのである。
また、この年、教部省は芸能各界に「由来書」の提出を求めた。それまでは、由緒を考え、記録を保存することなど全く顧みなかった芸人にとっては、大きな事件であり、対応策として急遽、同業者間で組合をつくり、代表者を決め、それまで語り伝え程度であった各芸能の由来を統一し、文書にまとめ政府に提出した。
例えば、それまで「でろれん祭文」と呼ばれ、大道芸人にすぎなかった浪花節も、この時団結して由来書を提出したので、これを起点に、長い伝統をもつ他の芸能と同じような地位を占めることができ、以来、浪花節は明治、大正、昭和、平成まで大衆芸能として目覚ましい発展を遂げることができたのである。さらに、「里神楽」も同様に職業芸能として地位を占めることができた。
落語界も、三代麗々亭柳橋を代表者として団結し、六代桂文治、円朝などが柳橋を補佐し由来書の提出を行った。
このように由来書を作成し、提出するということの意義は何か。それは芸能史上において、明確に江戸期と明治期で位置づけが画され、文化的な存在として認識されたことを意味する。
さらに、同年10月5日に寄席取締に関する布告がなされ、以下の三項目が禁止として打ち出された。
① 男女打交ること
② 音曲物真似等
③ 歌舞伎同様の所作
円朝の芝居噺などは当然に、この取締対象となるが、この示達寸前に素噺に転向した行動をとったことは、新政府が打ち出す諸政策を、本能的に予測していたのかもしれないが、この寄席取締は翌6年(1873)にも重ねて達しられた。
しかし、この円朝の機を見るに敏の素噺転向は、芝居噺を譲り受けた弟子の円楽改め三代目円生の立場から考えると、政府の進める政策に反するものを受け取ったことになる。
結果的に、弟子に迷惑を押し付け、自分は時流変化を巧みに乗りきったともいえ、今までの徳川贔屓の看板をおろし、官軍の明治御旗をかつぐという打算の色濃き行動に当たるともいえるが、果たして、これが円朝の本当の姿であろうか。
大師匠といわれ別格の落語家となった円朝である。変化激しく、社会が混乱し、次なる新たな生き方方向性を模索し始めた当時の一般人へ、何かの提言をなすべきではないかという問題意識を、無意識的に持っていたに違いない。
それを、以後の円朝作品と行動から判断すべきと考え、今後、検討していくが、その前に当時の社会状況を『三遊亭円朝』を参照して見ていきたい。
明治6年(1873)4月、教部省に新しく教導職制度が設置され、教部省より任命された者が「皇道に基づく教化」を担当することになった。
教導職に任命される範囲は広く、「新聞心得草」によれば、俳諧師、講釈師や噺家も教導職として、神職の服を用いて高座にあらわれたという。
そのいくつか事例を紹介する。この夏、神田伯円他四、五名の講釈師が浅草寺内で、諸新聞の「緊要の箇条」及び菊地容斎の「前賢故実」や忠臣孝子の列伝等を講じたといい、またこの頃、新門辰五郎の世話になっていた湖水渡という京都の書生が、浅草寺内に小屋掛けし、勤王の道を無料で講じたという。
この年、征韓論に敗れて、西郷、板垣、江藤ら要人が野に下った世相を反映してか、芸能界も、江戸の爛熟文化を母胎とした昔日の姿を、そのまま温存していくことが、許されなくなっていった。
明治7年(1874)8月、新橋――雷門間に鉄道馬車が開通、12月には京橋から金杉までガス灯が完成した。
この頃の円朝の評判を当時の新聞記事から見てみる。
●明治7年12月10日付 郵便報知
≪去月8日、有名な落語家円朝、第一大区13小区屯所に牽れたり。是は27日夜、米沢町立花屋といふ寄場にて茶番狂言に巡査に扮せるを出し、徽章の黄線ある服を着たりしに因てなり。菊五郎といひ、円朝といひ、盛なる者は跌くを免れず≫
当時の警察関係者は地方出身が多く、ともすれば軽妙な諷刺をもてあそびがちな東京の市井人と感情的に交流できない点が多かった。
芸人側に官憲を故意に嘲笑するような態度があったわけではあるまいが、結果として厳重に取り締まられることになった。
拘引されたのは円朝であるが、巡査に扮したのは一門の誰かであったかもしれない。弟子の不始末について、その責任を負って円朝が出頭を命ぜられたのかもしれない。
●12月23日付 東京日日新聞
≪三遊亭円朝、近頃、朝野新聞紙ヲ話ス。夜々大入りナリ。然ルニ報知社ノ連中ヨリ、両国ノ口利キナルヲ頼ミ、頼リニ円朝ニ報知新聞ヲ話セシムルノ談判アリ。進物モ甚ダ厚シ。円朝云フ。私ハ自分ノ勝手デ朝野ヲ話シマス。猶、伯円ガ報知ヲ談ズルト、イツナリト云ヘドモ彼ノ連中承知セズ。円朝大イニ困却スト。新聞読ミノ喧嘩、実ニ傍観一笑ス可シ。戯レニ投ズ。好奇生≫
この中で「朝野新聞紙ヲ話ス」とある意味は、同新聞の記事を話材にしたわけで、新聞と落語家との結びつきがこの頃から出来ていたと考えると、後の円朝と新聞速記掲載につながるので興味深い。
●明治8年(1875)2月15日付 朝野新聞
≪去る11日、柳橋の柳屋にて三遊亭円朝が怪談会あり。其盛開なること実に比倫なし、名画の真に逼り、奇談の妙を極むるは固より、我輩の贅賛を要せず。唯、我輩が最も驚く可く、恐る可き真の怪物を此席上に多く見出したるを以て左に掲ぐ。
頭髪を振り乱し、爛酔狼藉なる酒呑童子有り。愛婢を携へ得意の鼻を衆くに示せる木葉天狗有り。手伝半分野太鼓の狸有り。贔屓定連ウヌ惚れの狸有り。説教を仕舞て三ツ目の入道覗きに来り。人込みに押されて一ツ目小僧ワット泣く。男に手を引かれたる古狐や尻をネラフ河童はさしたる害も無けれども、人の持ち物を切って行く鎌鼬も有りて、実に危々怪々の化け物多くさすがの会主もおどろきたることなり≫
怪談にはふさわしくない、季節はずれのこととて、料亭の広間を借り、特定の客を対象とした催しだと思われる。筆者の文章がやや興奮に走り、逸脱の気味もあるが、円朝の芸に一同が感動している様子は推察できよう。
●8月7日付 郵便報知
≪有名なる落語家三遊亭円朝は、新作榛名梅吉の後案を稿する為め、近日上州辺へ向て出立せる由なれば、定て帰京の後は早速其新稿を講述するなるべしと三遊亭贔屓の連中は今より指を屈して待つなるべし≫
これは飯島光峨夫人より聞いてヒントを得た後開榛名梅ヶ香(おくれざきはるなのうめがか)(安中草三郎)のモデル榛名梅吉を調査するため、夏の休みを利用して実地に上州へ旅行したのである。「後案」とあるので、既に前編にあたるものが発表されていたかもしれない。
飯島光峨夫人とは、画家の飯島光峨の妻で、明治6年か7年の頃、数年間、住みなれた大代地から浜町梅屋敷へ移転し、そこで飯島夫妻と知り合ったのである。
梅屋敷とは通称で、正しくは第一大区13小区に属する浜町2丁目11番地であって、ふとしたことから飯島光峨夫人から「榛名梅吉」という上州の侠客の話を聞き、創作のヒントを得て後開榛名梅ヶ香を完成させた。
この現地調査は風雨の中を20日間余かけたといわれ、土地での見聞をそのまま創作へ生かす作品作りは、後の塩原多助などで世に知られているが、既にこの頃から行われていたのである。
●9月25日付 東京曙新聞
≪三遊亭円朝、府下咄家の第一等にて評判頗る高く、既に両国橋なる立花亭にて当る子の1月1日昼時より三遊亭円朝出席と大書したものを張出すは、げにも第一等の芸人丈けとおどろきいりました≫
9月から既に初席(1月上旬の10日間)の看板を出していた両国の立花亭の話題で、八丁あらしと称された円朝の一枚看板で市中の人気を集めていた様子が推察できる。
円朝が第一等の噺家であることを証明するのが、寄席の入場料である。当時の寄席は通常一人5銭であったが、円朝が出演する場合は倍の10銭であったことからもわかる。
明治8年1月、東京府は演芸人税制度を定め、芸人の格付けを行い、上等、中等、下等の3段階とし、税額も分けていた。
俳優 上等一カ月5円 中等一カ月2円半 下等一カ月1円
劇場芸人 一カ月1円
音曲諸芸 一カ月50銭
その他 上等一カ月50銭 中等一カ月25銭 下等一カ月12銭5厘
芸妓等酌女幇間 一カ月各3円
この規準を明確化するため、諸芸人名簿が作成されたが、これによって芸人の地位が社会的に認められたことになった。
同年4月には、噺家を中心にした寄席芸人統一団体「睦連」が結成され、代表責任者の頭取に三代麗々亭柳橋が就き、桂文治、円朝が相談役となった。
この頃、相変わらず地方出身者が多い官憲から、取り締りが続いていた。
●明治9年(1876)10月5日付 東京曙新聞
≪南鍋町の鶴仙という寄席にて才賀文馬など云へる芸人が釣狐とふ踊をやらかし、お引立の上お調べになり、始末書を差出したるに(以下省略)≫
滑稽洒脱を身上とする寄席の演芸にとって、無理解な制約が次第に厳しくなっていく状況がうかがえる。
江戸以来の一般庶民観客に加え、新たに東京の支配階級として住みはじめた地方人が加わって、演芸の世界は活況を呈していた。だが、江戸っ子芸人が舞台で演ずる軽妙な諷刺ものを地方出身の官憲が侮辱と受けとめることも少なくなかった。官憲の弾圧に、今度は芸人がおびえていく。
加えて、一連の政府改革によって一般人の生活も大きく影響受け、特に改暦では日常的な混乱が発生した。
これらの世相の動きを感じた円朝は、これからの将来に向けてあるべき演芸の姿を模索し始め、これが塩原多助一代記につながっていくのである。
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