鉄舟から影響受けた円朝・・・その九
落語家・立川談四楼が「本当に落語ブーム?」(日経新聞2017年4月30日)と疑問を呈し、「一部の落語家だけが忙しく」ことと、「地域寄席に限った」落語ブームであると述べたことは前号でお伝えした。
そこでもう少し落語界の実情を見てみようと、5月13日(土)の雨の日、上野の定席「鈴本演芸場」へ行ってみた。
定席だから混んでいるだろうと早めに入口に行きチケットを求めようとしたら、今日は大丈夫ですよとの答え。要するに空いているのである。
ではと松坂屋へ行き、地下で弁当を買い、コンビニでビールと日本酒を手当てし、「鈴本演芸場」内に入ると「ガラン」としている。開演時間の17時30分なっても、入りは三割くらい。団体客が20名ほど入っていたが、これがいなければ閑古鳥状態である。
一日だけの客席で判断するのは危険とは思うが、これでは定席経営も厳しいのではないかと推察する。そこで、別の定席「浅草演芸ホール」に6月12日(月)に行ってみた。窓口でチケット買うと「昼の部がもうすぐ終わりますが、中で立ち見できます」とのこと。ドアを開けてびっくりした。何と「昼の部」は満席である。
しばらく立ち見して「夜の部」との入れ替え時間に、ゴミを集めに来た係の若者に「すごいですね。満席で・・・」と尋ねると「人気者が出ていますから」とニコッと笑う。プログラムで確認すると、やはり春風亭一之輔が演じている。これが要因かと思いつつ、「夜の部」の観客席を見回すと、これも七割がた埋まっている。プログラムを見ると大相撲で大関に昇進した高安そっくりの丸顔・桃月庵白酒の名がある。前月お伝えした4月11日のめぐろパーシモンホールの「気になる三人かい・・・柳家喬太郎・桃月庵白酒・春風亭一之輔」の中の二人が昼夜と出演しているのだ。
この日のマジック出演者「アサダ二世」が「月曜日の夜の部は大体ヒマですが、今日は入っていますね」と壇上から解説したが、人気者登場で観客数は変化するので、一概に定席が閑とか、忙しいとはいえないのが実態であると、当たり前であるが判断した次第。
ところで、先日、「渋沢史料館」を訪れ、開催中の「渋沢栄一、パリ万国博覧会へ行く」について桑原功一副館長から詳しく解説をいただき、渋沢の活躍について理解したが、その際、円朝と渋沢の関係についても説明があった。
それは、15代将軍徳川慶喜が、幕府崩壊後、駿府にて過ごしていた明治26年1月2日、渋沢が、その妻と共に、円朝を連れて駿府まで年始に訪れているとのこと、早速『徳川慶喜家扶日記』(前田匡一郎編著)でこの事実を確認した。
駿府の慶喜公のもとには鉄舟が度々訪れているが、鉄舟亡き後「日本資本主義の父」ともいわれる渋沢が、鉄舟の禅弟子である円朝を駿府まで案内していた・・・。
渋沢、鉄舟、円朝の関係は大変興味深く、この経緯について後日お伝えしたい。
天皇陛下の退位を実現する特例法が成立し、政府内の準備がこれから本格化するが、中でも国民生活に様々な形で影響するのが新元号の制定である。天皇一代につき一つの元号を定める「一世一元」の制度を定めた明治以降、退位による改元は初めてである。
一世一元の改元は、明治天皇が即位した慶応四年(1868)8月27日の翌月9月8日になされた。「明治」という出典は「易経」の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとったもので、聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まるという意味である。
この元号提案者は松平春嶽(慶永)とも、または、清原(儒学の家柄)、菅原(学者の家系)両家堂上の勘文、これは朝廷の質問に答えて吉凶を占って提出する意見書であるが、新しい元号が公表される前日、天皇は自ら内侍所(ないしどころ)(賢所)に赴き、二・三の候補の中から、クジで決めたといわれている。
江戸を東京と改称したのは7月17日である。
「江戸ハ東国第一ノ大鎮、四方輻輳ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ」
の勅書が発せられ決定され、10月13日、明治天皇が東京に入った。
将軍様のもとで暮らしてきた江戸市民にとって、東京という新名称と共に、街中を闊歩する官軍と新政府の官員たちに馴染めないものがあった。
「上方のゼイ六どもがやってきて、トンキョウなどと江戸をなしけり」
「上からは明治などというけれど、治まる明(おさまるめい)と下からは読む」
という落首などが当時の東京市民の本音で、必ずしも歓迎ムードではなかった。
そこで11月4日、天皇は東京行幸の祝いとして東京市民に大量の酒をふるまった。下賜された酒は、約二千九百九十樽で、加えて、各町に錫瓶子(銀製の徳利)と、するめが下賜され、市民は6日7日の2日間にわたって家業を休んで楽しんだ。
この振る舞いに対する、漢詩人・大沼枕山の七言絶句がある。
≪天子遷都寵華(ちょうか)ヲ布ク 東京ノ児女美花ノ如シ
須(すべから)ク知ルベシ鴨水(おうすい)ハ鷗渡(おうと)ニ輸スルモ 多少ノ簪紳(しんしん)家ヲ顧ミズ ≫
(天子が遷都し寵華を賜った。東京の子女は花のごとく美しい。鴨水が鷗渡に及ばぬことを知って。公家たちは家のことなぞどうでもよくなった)
「寵華」とは天皇が賜った酒のこと、「鴨水(京都の鴨川)」は今や、京都の公家たちにとって「鷗渡(東京の隅田川)」ほど魅力がなくなり、先祖伝来の京都の家を忘れてしまった、というのである。(参照『明治天皇』ドナルド・キーン著)
明治元年、円朝30歳。世相の変化はあったが、寄席興行は幾分控えめであるものの変わりなく続き、円朝はこの年の秋、父の知人である茶船乗の親分武蔵屋徳松のすすめで、大代地(浅草旅籠町―台東区柳橋2丁目)へ移転し、徳松が経営する浅草茅町の寄席武蔵野に出て、両国に劣らぬ盛況を得ていた。
大代地にはこの頃、文人画人が多く住み、和やかな交際の場をつくっていた。例えば、山々亭有人(条野採菊)、黒船町(代地)の仮名垣魯文、諏訪町(代地・黒船町のつづき)の一恵斎芳幾、梅素玄魚らで、円朝もその仲間に入って、多くの知友を持つことができた。(参照『三遊亭円朝』永井啓夫著)
時代の世相変化が影響したのか、円朝の「まくらに振る」内容に少し変化が見られてきた。
一例が、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)の娘・陸のことである。渋江抽斎とは弘前藩津軽家の家臣で学者、劇通としても知られていたが、維新後、四女陸が本所緑町稲葉家門脇の空き地に小屋を建て、独力で砂糖屋を開業、これを円朝が高座で取り上げたと、森鷗外の『渋江抽斎』(その百十三)に書かれている。
≪或日また五百(いお)(注・抽斎の妻)と保(注・末子)とが寄席に往った。心打(しんうち)は円朝であったが、話の本題に入(い)る前に、こういう事を言った。『この頃緑町では、御大家のお嬢様がお砂糖屋をお始になって、殊の外御繁盛だと申すことでございます。時節柄結構なお思い立(たち)で、誰もそうありたい事と存じます』といった。話の中にいわゆる心学を説いた円朝の面目が窺われる。五百は聴いて感慨に堪えなかったそうである≫
砂糖屋は、士族の商法と噂が広まり、両国橋詰に下屋敷があった元大名藤堂家の夫人が女中大勢を連れて店に来て、氷砂糖、金平糖などを買って、陸に言った。
≪士族の娘で健気にも商売を始めたものがあるという噂を聞いて、わたしはわざわざ買いに来ました。どうぞ中途で罷(や)やめないで、辛棒をし徹(とお)して、人の手本になって下さい≫と激励したと『渋江抽斎』にあるが、ここで上記の≪いわゆる心学を説いた円朝の面目が窺われる≫について考えてみたい。
鷗外が『渋江抽斎』を『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載したのは大正5年(1916)のこと。維新初年の円朝高座について「心学云々」と書いているが、この当時の円朝は、まだそこまでの境地には達していなかったはず。後年、芸風を完成させたした後の円朝高座に照らし書いたのではないかと考える。
だが、円朝が語ったその当時の心理を推測するならば、「士族出の若い娘の商法」というキーワードが心に響き入ってきたのだろう。大きな時流変化が押し寄せている時、それに対応すべく、懸命に努力している若き士族の娘ビジネスを知り、そのことを世間一般大衆に向かって伝えることで、時代への感覚を磨くことが必要だという、当時の円朝にとって素直で自然な言の葉だったと思う。
それはまた、変わりゆく時代を生きて行かねばならぬ旧江戸人である自分、それへの励ましであったのかもしれないが、結果として、この「まくらに振る」話が渋江一家にとって力強い激励となって、鷗外を通じて後日に語り伝えられるようになったのであるから、後年の世相を語る円朝高座につながってゆくひとつの起点であったと思いたい。
さて、この年の秋、円朝の一子、朝太郎が生れた。不肖の息子として円朝の生涯の枷となり重荷となったせいかわからないが、『円朝遺聞』と『三遊亭円朝』でも、朝太郎の誕生日について触れていない。
母は御徒町の同朋倉岡元庵の娘お里である。同朋とは剃髪姿で江戸城内に勤め諸雑役を司る役目で、軽役ながら「御同朋」と呼ばれ、かなりの権威をもっていた。
これより前、円朝には魚河岸の島金茶屋の娘ひでと婚約していたが、ふとしたことからお里との間に朝太郎を授かり、このことを両親に隠していたものの、次第に弟子の口から判明し、両親に打ち明け、両親が谷中のお里の方の家を訪ねてみると、円朝にそっくりの男の子で、大喜びですぐに家に迎いいれたが、お里を島金に対する遠慮から妻にはしなかった。
朝太郎が長ずるにつれて、母親ゆずりの性格を見せ始め、円朝の苦労の種になって行ったが、そのことを『円朝遺聞』が伝える。
≪このお里は女に似合わぬ大酒であったが、円朝と別れてから芸者になり、終に吉原の梶田楼の娼妓となって愛人(あいひと)と名告ってゐた。朝太郎が七、八歳の時、円蔵(一朝)が或朝、朝太郎の手を引いて梶田楼の前を通ると、愛人が花魁姿で二階の手摺に寄ってゐたが、円蔵に「何処へ往ったの」と声をかけた。円蔵が「昨夜晩くなったもんだから寄席に泊りました」と云ふと、「さう、大人しくするんだよ。世話をやかしてはいけませんよ」と云ったので、円蔵が「朝ちゃん、お母さんだ、お母さんだ」と云ったが、朝太郎は見知らぬ人をお母さんだと云われたので、けげんな顔してゐると、愛人は小じょくを呼んで二分金を二ツか三ッ紙に包んで朝太郎に与えた。朝太郎は此時、物心ついて初めて母を見たのである。愛人は後幇間露八の女房となって、円朝より五、六年前にしんだといふことである≫
お里の源氏名が愛人とは、さすがに明治初年の時代だと思うが、結婚した幇間松廼家露八は、本名土肥庄次郎、一橋藩士近習頭取土肥半蔵の長男として天保4年(1833)江戸小石川小日向武島町で生れた。文武両道に秀でて嘱望されたが、放蕩に身を崩した。禁門の変の頃は、京阪で幕府のため隠密として活躍したが、維新後幇間となり吉原でその後半生を過ごし、異色ある芸人として多くの人に愛され、岡本綺堂『東京の昔話』の主人公(参照『三遊亭円朝の明治』矢野誠一著)であり、吉川英治も『幕末維新小説名作選集』の中で『松のや露八』(昭和9年6月~10月にかけてサンデー毎日連載)を書いている。71歳没。
お里について永井啓夫は『三遊亭円朝』で、以下のように述べている。
≪自分に対しても、他人に対してもきびしかった円朝が、何故このような女性と結ばれるようになったか不明だが、この情事が円朝の生涯における最も大きな過失だったのではあるまいか。お里とは世間の義理という口実により遠ざかることはできたが、残された朝太郎は、長ずるに従って母親ゆずりの性格を見せ始め、円朝の苦労のたねになっていったのである》
円朝の結婚は、明治2年(1869)か3年(1870)といわれている。妻に迎えたのは柳橋の芸者お幸である。『円朝遺聞』に≪客の席に出ても三味線を持たずに三日でも四日でも話し相手が出来たといふから、頗る才物であったに違いない≫とあり、三代田之助の妻であったともいわれている。
田之助とは、五代沢村宗十郎の次男で、はじめの由治郎から三代田之助を襲名し、女形として最高の人気を集めた歌舞伎俳優で、後年脱疽により四肢を切断したが、それでもなお舞台に立ちつづけた悲劇の名優。明治11年(1878)34歳で夭折。
矢田挿雲の『沢村田之助』に田之助を巡る女性の一人としてお幸を書き、文化勲章受章者の杉本苑子も『女形の歯』で登場させている。田之助は、女性関係が多く、お幸もその一人とされた時期があったのであろう。しかし、正式に田之助の妻として迎えられた事実はないが、戸板康二の『泣きどころ人物誌』で≪円朝のまわりに女性関係で出て来るのが、それぞれ著名な人物なのも、まるでたくみに仕組まれた伝奇のようである≫(『三遊亭円朝の明治』)と述べているのが円朝の一面を表していると感じる。
円朝は家のことは万事お幸にまかせきりで、お幸もよく仕えたが、第三者にはあまり評判がよくなかった。弟子の扱い方などに当をえなかったことが不評判の原因となった。
お幸はまた、円朝とちがって和敬清寂といった風流の方面には関心がうすかったが、料理を作ることにかけては天才的な技倆をもっていた。井上馨は「東京で板前の第一番は栗山善四郎(八百膳)、第二はお幸だ」と激賞していたという。
この間、明治政府は欧米の文化水準を目標に、近代国家への興隆へと急いでいた。多くの芸人たちは社会の動き、政治の変化について無関心だったが、中には政治犯として吟味中獄死を遂げる落語家もいた。四代目三笑亭可楽である。
可楽は本名榊原謙三郎といい旗本だったが放蕩の末、噺家になり、二代目三笑亭可楽の養子となり、三代翁家さん馬を名乗り、のち三代朝寝坊むらくを継いだ。その後に、丸屋宇兵衛という商家の婿になり、離縁され四代三笑亭可楽となった。
維新に際して元幕臣として官軍の江戸入りに反感を持ち、会津藩の重臣と図って抗戦の陰謀を企て、市内の寄席高座に爆薬を仕掛けようとした。
この計画が事前に発覚したため地方に逃れ、別名で興行を行っていたが、再び東京に立ち戻り浅草弁天山の火事を見物していたところを逮捕され吟味中、明治2年9月獄中で死亡した。この経緯は仮名垣魯文の『松竹梅操競』(『三遊亭円朝の明治』)に書き残されている。
可楽は獄中から円朝に一書を送り、愛弟子夢助の将来を円朝に託し、円朝は門下に加え、これが後に座り踊りの名手といわれた橘屋円三郎である。
円朝は、公然と明治政府に歯向かった政治犯であり、門派が異なる芸人に対しても関与していくのだが、ここにも時代の世相に関心を持つ何かの心情があったと推察したい。
明治3年(1870)、平民に苗字の使用を許されることになった。それまでは特別に名字帯刀を許された者以外は名前のみで、商人の屋号も通称に過ぎなかった。すべての人々に苗字をつけさせるのは、「家」をひとつの単位として人民を統轄させるためであったという。
このように新しい政府の方針が一般庶民の生活に次第に及んできて、円朝も、天下晴れて父祖の家名出淵を名乗ることになった。
この名前の苗字、世界中の国であると思っていたが、制度として苗字が存在しない国があることをはじめて知った。
先般、エチオピアを訪ねた所、現地人ガイドが筆者に向かって「KIKUOさん」と呼びかけてきた。名前を呼ぶことで親しみを増そうとしているのかと思ったが、よく聞いてみるとエチオピアには苗字がないという。
ガイドの説明によると、日本の報道でアトランタオリンピック女子マラソン金メダルのファツマ ・ロバについて「ロバ選手」と伝えているが、これは正しくない。ロバ名を苗字と思って日本のマスコミは使っているのだ。
エチオピアでは「自分の名前+父親の名前+祖父の名前」が名前であって、一切苗字はなく、これは結婚しても変わらない。だから、ロバは「ファツマ選手」と報道すべきだという。
世界にはエチオピア以外でも姓を持たない国は以外に多く、ミャンマー、アイスランド、モンゴル、アラブ諸国などである。日本も147年前では苗字は一般的でなかったわけであるから、日本の常識で世界を判断してはいけないと思う。
苗字に続いて、明治4年(1871)4月に戸籍法が定められ、明治5年(1872)1月に沖縄を除く全国の戸籍調査が行われた。この調査による総人口は33、110、825万人であった。この戸籍法の施行を前にして明治4年10月に幕府時代から戸籍の役割をしていた宗門人別帳(寺請制度)が廃止された。
また、明治4年5月に新貨幣条例が定められ、一両を一円とする日本で最初の金本位制となり、十進法で、円、銭、厘の呼称が決められ、一円金貨が発行された。
明治5年(1872)11月9日、突如として、それまでの太陰太陽暦から太陽暦に切替える旨の太政官布告が発せられ、同年12月2日(天保暦)の翌3日を太陽暦(グレゴリオ暦)に基づき明治6年(1873年)1月1日とした。
なお明治6年以降、天保暦の暦法による太陰太陽暦は「旧暦」と呼ばれ、現在でも神宮暦やカレンダーに記されることがあるが、これは何ら公的な裏付けのない暦法となった。
この明治5年、円朝も自ら工夫し、長い間馴染んできた芝居噺をやめ素噺、いわゆる道具、身振り、声音などを使わず、扇一本で表現する正統の話法に転向したのである。
この時から人情噺に変っていき、これから円朝の真骨頂を発揮することになっていく。
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