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2018年6月

2018年6月25日 (月)

山岡鉄舟研究会発行資料が参照・引用されました

水野靖夫氏が記述作成され、2016年2月例会でご発表された『英国公文書などから読み解く江戸無血開城の真事実』が、原田伊織著『虚像の西郷隆盛 虚構の明治150年・明治維新という過ち・完結編』 (講談社文庫)の第四章7項「江戸城無血開城という美談」の338・339頁に、下記のように参照・引用されました。

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水野靖夫氏に感謝申し上げるとともに、山岡鉄舟研究会の存在意義と活動状況が、認識されたものと判断いたします。

2018年7月例会

7月例会は、山本紀久雄が「鉄舟が三遊亭円朝に影響を与えたこと」の総集編を発表いたします。

天保10年(1839)江戸湯島生まれの円朝、30歳までを江戸期、62歳で亡くなるまでを明治期、前半と後半の時代大変化の中、聴衆が持つ好み感覚がスピーディーに変っていく過程で、オルガナイザーとしての指導力を発揮し、「江戸期からの客層、新時代の客層、上流・中流・下層社会層にも合わせる」活躍を続け、速記本による出版もあり、自らが目標としていた「芸人風情心情からの脱皮」を図り、落語界において円朝のみが「大師匠」(おおししょう)と称されるように、不動の地位を築きました。

その背景には明治10年(1877)に鉄舟の禅弟子となって、鉄舟からの影響が大きく影響しています。

では、鉄舟から何を学び、取り入れたのか。鉄舟と円朝の核心に迫ります。
 
      日程     2018年7月18日(水)    
      時間    18時30分~20時
   会費    1500円
   会場    東京文化会館・中会議室1

2018年8月例会は夏休みで、9月例会は19日(水)に東洋大学・岩下教授による新著『江戸無血開城・本当の功労者は誰か?』(吉川弘文館)について、ご講演をいただきます。

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吉川弘文館から届いた出版要旨に、

「戊辰戦争では、幕臣の勝海舟が官軍総大将格の西郷隆盛と会談を行ない、江戸は戦火から救われたと言われています。
しかし、最大の功労者は海舟ではありませんでした。会談前に駿府の敵中に乗り込んだ山岡鉄舟と、将軍徳川慶喜の絶対的な信頼をもとに、鉄舟を推薦した高橋泥舟。
開城前後の2人の動向を当時の情勢とともに追い、知られざる江戸無血開城の真実に鋭く迫ります」

とあります。ご期待ください。
 

2018年6月例会開催結果

2018年6月20日(水)例会は、日野市の佐彦会会長・松崎勇二氏から「多摩と周辺地域での新選組」についてご発表いただきました。

松崎氏は、都内で唯一残る江戸時代に建てられた『日野宿本陣』で、年間1.5万人以上、外国人も多い観光客にガイドもされています。

例会資料は17頁に及び、新選組に関わる豊富な知見に加えて、現場調査による古地図や写真等を使われ、主に以下の4項目について展開されました。
①幕末の京都でその名を広めた新選組の剣術、天然理心流
②日野剣士が薩摩浪士と乱闘となった壺伊勢屋事件
③甲陽鎮撫隊として戊辰戦争で最初の東の戦い、勝沼戦争
④土方歳三の菩提寺である高幡不動や多摩周辺地域に遺された史跡

この4項目に加えて松崎氏が特に強調されたのは「戊辰の役で幕府は敗れ瓦解、近藤勇も処刑され新選組の剣術・天然理心流も隠されたこと、新選組に入らなかった日野剣士の戦いぶり、戦国以来の戦略上の要地である勝沼の柏尾地区での戦い状況、最後に高幡不動に設置された近藤・土方を讃える碑の背景」についてです。。

今回、松崎氏のご発表をお聞きしているうちに、『明治精神史』(色川大吉著)の記述を思い出しました。

「四面山に囲まれた五日市は、民権運動の一拠点として、十代、二十代の指導者によって町政から学校までが一時、統制された。二十歳そこそこの内山安兵衛と深沢権八がその中心であった。
内山家の土蔵をひらいたときに再び確認された。数十枚の和紙を綴じあわせて、毛筆でたんねんに書き込んであるかれらの手製のテキスト、これらはかれらによって作られ、手から手へ回覧され、討論され、研究されたものであろう。そうした政治的な学習の集会や結社が、この時期には、ふつう一郡に十数社、多いところでは数十社もつくられていたのである。
近藤・土方をうんだ南・北多摩郡には、このような篤学の民権家が続けて多数現れている」
多摩地区は、昔から時流感覚に鋭く反応する民衆が多く、その結果として

松崎氏の解説に登場する歴史上の人物が多く輩出したと推察いたします。

松崎氏の丁寧かつ詳細な資料にもとづく解説に深く感謝申し上げます。

鉄舟から影響受けた円朝・・・その八

落語ブームであるという。ところが、落語家・立川談四楼が「本当に落語ブーム?」(日経新聞2017年4月30日)と疑問を呈し、ブームではあるが「偏ったブーム」であると述べた。

記事を要約する。
①東京の落語家は約500人、そのうち300人以上が真打で、仕事の奪い合いは熾烈を極めるようだが、実は、一部の落語家だけが忙しく、「オレはヒマだぞ」と宣言する落語家も数多くいる。
②東京には「落語協会」「落語芸術協会」「円楽一門会」「立川流」と4団体あって、定席の「浅草演芸ホール」「鈴本演芸場」「新宿末広亭」「池袋演芸場」には落語協会から脱退した「円楽一門会」「立川流」は出られないので、その代わりに地域寄席に向かうことになる。
③地域寄席とは「お寺の本堂」「神社の参集殿」「蕎麦屋」「寿司屋」「居酒屋」「公民館」「民家」等で、首都圏だけで月間1000を超す公演数、そこに「円楽一門会」「立川流」に加えて、定席からあぶれた真打と、定席に高座を与えられない二つ目が参入する。
④したがって、地域寄席に限っては飽和状態であり落語ブームといえる。

この解説を裏付けるのが2017年4月11日、めぐろパーシモンホールの「気になる三人かい・・・柳家喬太郎・桃月庵白酒・春風亭一之輔」で、1200席もの大ホールが満席となって、地域寄席は落語ブームであると頷く。

だが、この3人はいずれも「落語協会」所属であり、人気者だから、当然に定席での公演もあるわけで、あぶれた真打ではない。それなのに地域寄席に進出しているのである。

特に春風亭一之輔は、前日の4月10日、NHK総合テレビの「プロフェッショナル」に登場しているので、客席の関心は高い。その雰囲気を察したのであろう、「まくらに振る」で取材撮影方法をこきおろし、会場を盛り上げ、観客と掛け合うという芸達者振り。
さすがと思ったが、何とこの一之輔、年間350日、およそ900席もの高座に立ち、落語界一多いと「プロフェッショナル」が伝える。
立川談四楼が述べる「一部の落語家が忙しい」「地域寄席の拡大」が「落語ブーム」の実相だという見解に、なるほどと思った次第。

さて、円朝の父円太郎が、師匠の円生に代わって中入前をつとめ、意気の合った親子の熱演と、毎晩工夫を凝らした新しい道具噺は評判となり、円朝の人気は高まっていった。

安政6年(1859)21歳の5月、深川門前仲町(江東区門前仲町)にあった侠客源太が営む席に出勤することとなり、艶っぽい人情噺である「おみよ新助」を創作し上演したところ、好評で客数も二百余と、はじめて大入りをとることができた。

「累草紙」(越後親不知の因縁噺)や「おみよ新助」は創作とはいえ、その題材はいずれも昔から写本として世の中に広く伝わっている物語である。だがこれに工夫を加えて「15日読物」に纏め上げ、一夜ごとにクライマックスを作り、少年時代に画工として修業した経験を活かし自ら下絵を描き、大道具を作り、絵の具を塗り、鳴物や道具替りで演じたのである。

時は安政の時代、元年(1854)ペリー再来航、日米和親条約締結、安政5年(1858)井伊直弼大老、日米修好条約調印と安政の大獄、安政7年(1860)3月桜田門外の変等と騒然とした世相が続いた。
だが、江戸庶民生活は事件とは関係なく、「夜と昼朝とに落ちる日千両」と川柳でうたわれた通り、夜は吉原遊郭、昼は三座(中村座、市村座、森田屋)、朝は日本橋の魚河岸、この三ヶ所は一日に千両の金が落ちるというほどの賑わいを見せていた。
また、安政度の「江戸都合荒増勘定」にも、江戸には「軍談の席220軒、はなしの席272軒」と演芸場が多く盛んであったと伝えている(参照『新版三遊亭円朝』永井啓夫著)。

ところが、師匠の円生は次第に落ち目となりつつあった。万延元年(1860)の頃と思われるが、『円朝異聞』(鈴木古鶴著)は次のように伝える。
≪円生が服部坂の寄席で道具噺をした時なども、道具は粗末であり、入りも少なかったので、円朝は此時目白の寄席で大入りを続けていたが、師匠を訪ねて「お師匠さん、道具がお入用なら弟子に担がせてよこしますから」と云った位で、飽くまで師匠思いであった≫

この頃の円生、盛りを過ぎた芸人の常として貯えもなく、3人の娘を抱えて病気がち、円朝は円生を見舞い、金品の仕送りを続けた。
円生の病気は文久元年(1861)末には癒えて、文久2年(1862)正月には円朝のもとを訪ねて謝意を表したが、帰宅した円生が、その日のうちに再び発病、円朝は直ちに見舞った。

朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が記している。
≪円生は床の上にありて、我、其方の庇護によりて一旦は全快なしたりしに、未だ病魔の離れざるにや、又々身体を苦しめられぬ。最早全快とて覚束なければ、我亡き後は三遊の門派は其方取締りて、他門に優りて盛大になすやう計ひ呉れと≫

その年の8月12日に円生は亡くなった。『三遊亭圓朝子の傳』が円生の遺言を伝える。
≪葬式は仮に是を行ひ、本葬は我が門派の盛大なりし時を待ち、3月21日は元祖の忌日なるをもて、此の日にこれを行ひてよと≫
円朝は遺言通りに仮葬を行い、遺児3名を自宅に引き取って明治初年頃まで養育した。24歳という若さでの養育引き受け、苦労もあったであろうが、なかなかできるものではない。円朝の弟子である一朝の思い出によれば、3人の遺児のうち1人は唖だったという。

このような円生に対する対応を見ると、やはり円朝は前号で述べた「円生に中入前援助出演を乞い、真打としての看板を挙げたが、円朝が鳴物噺として諸道具を準備用意した演目を先に演じてしまう」という「師でありながら狭量」な行動に対して、それを恨むのではなく、「師恩の辱(かたじけ)なきを謝し」(『三遊亭圓朝子の傳』)と述べている背景には、やはり円朝の人間特性があったのだと頷きたい。
つまり、「師匠から教わったものへ、道具を飾り、鳴物を使って演じようとするから、いつも師匠に先くぐりされてしまうのだ。やはり師匠は新作噺を創作することが必要だと、先回りして演じて教えてくれたのだ」と前向きに受け止めたのである。

しかし、このような心情となれる前提条件としては、円朝が持つ本来の良質な人間本性があったと考えたいし、それが円生の遺児を養育したことに顕れたと判断したい。
さらに、このような人柄であったからこそ、明治10年(1877)に鉄舟と知り合い、指導を受け、一段と禅修行に励み、人間力を一層高めた結果、大師匠と称されるまでになったと推察している。

ここで話が横道にそれるが、先日、千葉市在住の潮見佳世乃さんから一通の手紙をいただいた。
≪今回は、父が歌物語創作40年の記念に書きました作品「山岡鉄舟貧乏噺し」に初挑戦!鉄舟の極貧青春時代を語ります。 江戸情緒溢れたハードルが高い作品ではありますが、今年は大政奉還150周年! 幕末が生んだ日本の巨人 鉄舟の平和への情熱を多くの方々に伝えたいと語り部の使命に燃えて全力で取り組んでまいりますので、是非、来場願います≫

潮見さんはシンガーソングライターで、お父上は日本の吟遊詩人・高岡良樹氏、1987年に「朱鷺絶唱」で文化庁芸術祭賞を受賞されている。
10年ほど前に高岡氏の創作「山岡鉄舟貧乏噺し」を拝聴し、同氏と人間鉄舟について語り合ったことがある。

5月3日、千葉市文化センターの「潮見佳世乃・歌物語コンサート・山岡鉄舟貧乏噺し」は、期待に違わず素晴らしかった。鉄舟を語る声量に圧倒され、中でも、駿府における西郷との談判場面、迫力に満ち、江戸無血開城を決めた鉄舟を叙情的に表現している。「貧乏噺し」ではなく「江戸無血開城駿府談判」とタイトルを変えた方がよいのではないかと思ったほどで感動したが、これは多分、潮見さんが「鉄舟を知れば知るほどすごい人」と評価する感受性豊かな人間性が影響しているだろうと推察し、今後も鉄舟を語っていだきたいと思う。

「明治天皇と鉄舟」「鉄舟と清水次郎長」「鉄舟と三遊亭円朝」「鉄舟と天田愚庵」等、歌物語への材料は多くあり、今後を待ち望みたい。

さて時代は、安政、万延が過ぎ、文久2年(1862)には坂下門外の変、伏見寺田屋事件、生麦事件、文久3年(1863)には長州による外国船砲撃、薩英戦争、八月十八日の変と大事件が続き、尊王攘夷運動が幕府を揺さぶりつつあつたが、円朝の生活にはあまり関係はなかった。

この当時の円朝について、その評判を『新版三遊亭円朝』から参照して述べたい。
文久3年円朝25歳の春、山々亭有人の編により「粋興奇人伝」が出版された。
山々亭有人とは、重要文化財「三遊亭円朝」を描いた鏑木清方の父親である条野採菊で、明治19年(1886)に「やまと新聞」を創刊し、その創刊号から円朝が自作「松(まつの)操(みさお)美人(びじん)の生理(いきうめ)」を含め連載を続け、円朝の創作が読み物として普及したのであるが、これには山々亭有人の協力が大きかった。
「粋興奇人伝」は、それ以前からあった「奇人伝」の形式を踏み、山々亭有人をめぐる風雅同好の士を紹介している。
「瀬川如皐(せがわじょこう)、木しら雪、河竹其水(のちの黙阿弥)、仮名垣魯文、山々亭有人、山閑人交楽、綾岡輝松、歌川芳幾、立川談志、三遊亭円朝など」23名である。

円朝の項には、高座で仕方噺を演ずる円朝の絵に、
三遊亭円朝「御馳走にあふがれてなほあつさかな」
の句が書かれ、その上段に小伝が記されている。
「幼名じろ吉と云し頃、国よしの門弟に入りてうきよ絵を学べり。父は橘屋円太郎とて落語家なれば、其身も終に業をつぎ、幼名小円太と号し、近来円朝と改名せり。此人うきたる業に似ず、父母に仕えて孝順ひとかたならず、殊に風雅にたづさはりて専ら有名の徒に交り、因縁つづき物語を自作なし、自ら道具の書割に工夫をこらすに其業大に行れて毎度諸所に大入をなしひいきの定連ひきもきらず、父の師円生長病のみぎり、介抱なおざりならず、円生没して家族を引きとり、扶助の信切其志ざす処、芸人の所為にあらず」

 この紹介、芸人ではあるが、それにとどまらず、新分野を拓く創作者であることを強調し、加えて、円生の子供まで面倒見ていたことまで触れ、随分と円朝を好意的に紹介している。さすがに「やまと新聞」に円朝創作読み物を掲載した、山々亭有人ならではと考えるが、この「粋興奇人伝」に登場した黙阿弥、如皐、魯文、輝松、芳幾等と交誼の機を得たことは、以後の円朝に大きな影響を与えた。

 例えば、現在も話されている人情噺「鰍沢」は、深川木場の近江屋喜左衛門の出題を三題噺として円朝が作ったもので、その続編ともいうべき「鰍沢二席目」は黙阿弥の作、または円朝と黙阿弥の合作とも言われているくらいである。

 幕末の大通(だいつう)(人情・世事、特に遊興の道に、よく通じている人)、津藤大尽こと細木香以(ほそきこうい)の豪遊ぶりを刷った版画にも、円朝が描かれた。
森鷗外が『細木香以』を著しているが、このような著名人との交流も円朝の名を高め、円朝人気はいよいよ上がって行った。

元治元年(1864)、26歳の円朝は、両国垢離場の席で昼席の真を打つことになった。当時、昼席を興行する寄席は少なく、浅草奥山と並ぶ江戸最大の盛り場だった両国でも「林屋」「山二亭」「垢離場」の3軒のみであった。

「林屋」は両国橋の橋手前にあり、きやり師音右衛門の経営する席、「山二亭」はに組の鳶頭長左衛門の席、いずれも一流であった。

「垢離場」ももちろん一流であって、この名前は石尊垢離場近くにあったことから名付けられた。 
石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことで、山頂の阿不利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけた。
出発前に水垢離を取り、体を清めたが、その垢離場が旧両国橋の南際にあり、川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流した場所。

「垢離場」は500人も入れる当時最高の席で、若い真打円朝は、ここで慶應3年(1867)まで4年間、昼席の真を打ち続けたのである。

山々亭有人は、後年円朝について次のように記している。
≪東両国の垢離場の昼場は業と人気と相兼る者にあらざれば能はず、採菊が廿歳代には初代柳枝が持席で前は左楽、談志、勝治郎といふ大看板で年中相当の客を呼び居りしに、文久年間柳枝の死去せしより此昼場を預る人に乏しく、誰彼との人撰中遂に円朝と極りたるは何れも予想の外なりき、円朝も自己の一座のみでは手に余る事を知り居れば、入舟米蔵(玉輔の倅)をスケ看板に頼み・・・(中略)・・・以来明治の始め同所取り払ひ迄、円朝の持席にてありたり≫(『新版三遊亭円朝』)

垢離場出演の翌年の慶應元年(1865)は、師円生の三周忌あたり、遺言のとおり、初代祥月命日である3月21日に盛大な本葬を行った。

元治元年から慶應3年までの4年間は、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征討命令、四国艦隊下関砲撃等、幕末史上の大事件が相次いだが、円朝にはさしたる影響もなく、順風な落語業を続けていた。

だが、慶應3年(1867)3月14日、15代徳川将軍慶喜が大政奉還という徳川幕府開闢以来の大事件が起き、将軍様のお膝元として繁盛してきた江戸での生活に慣れ親しんできた江戸庶民も、一転、時代の変化を深刻に感じるようになった。

特に、倒幕のきっかけをつかみたい薩摩藩が、浪士をつかい江戸市中で強盗などの破壊活動を活発化し、対抗して江戸市中取締の庄内藩と新徴組らが、慶応3年12月25日、三田の薩摩藩江戸藩邸を砲撃焼き討ちする事件が勃発すると、江戸の治安状態は一気に険悪となり、芝居寄席への客足もすっかり寂れてきた。

そこへ慶應4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦い、慶喜追討令、江戸開城、諸大名の帰国等が続き、5月15日の旧幕府軍上野彰義隊への攻撃がおこなわれ、江戸の街は騒然となった。

その前日の14日、円朝は日本橋瀬戸物町(中央区日本橋室町)の寄席・伊勢本に出勤しようと出かけたが、官軍の兵によって浅草見附が閉ざされ、通行できず休席し、家に戻った。不穏な雰囲気を心配していると、弟子のぽん太が帰って来た。

ぽん太とは、出入りの髪結いの下剃り職人で、勝公といい、また、ぽん太と愛称され、愚直ながら憎めない性格が、円朝に愛され弟子となり、谷中・全生庵の円朝墓地内に並んで墓石があるほどである。

そのぽん太が当時の状況を次のように述べている。(参照『三遊亭円朝と江戸落語』須田努著)
≪師匠円朝が休席したので、同門の仲間達とそろって寄席「伊勢本」を退席して浅草見附まで来たが、通行できないので、柳橋を回ったところ、ここも通行止となっていた。そこで、同門の勢朝の家に泊めてもらった。今朝になって浅草見附の方をみると、刀・槍・鉄砲で武装し、「赤い毛」をかぶった「軍人」のような人が大勢いたので、「おもしろそう」なので、近寄ると、怖い顔で誰何されたので、自分は噺家で円朝の弟子であると答えると、「一人おとなしそうな人」が、彼は円朝の弟子で「ぽん太という愚かな者」なので、通行させても問題はないだろう、というので、どうにか帰ることができた≫

これが事実であったとすると、薩長の兵にまで円朝一門のことが知られていた、ということになる。      

さて、円朝はこの頃、浅草の裏門代地(浅草茅町1丁目――台東区浅草橋1丁目)にある、元札差の隠居所だった大きな家に転居した。畳数は60畳で広い庭もあったという。
それ以前は、文久元年に浅草中代地(浅草新片町――台東区浅草柳橋1丁目)の表店に住み、またその前の住まいは、安政5年(1859)に引っ越した浅草茅町で、そこの関口という小間物屋の路地を入った裏店、この小間物屋が「牡丹燈籠」関口屋のモデルとも言われているところに住んでいた。

このように円朝は住まいを頻繁に変えている。
慶應4年7月17日、江戸は東京と改称され、9月8日に明治と改元された。ここに徳川幕府時代から、明治時代へと変化し、円朝もいよいよ明治での活躍場面に入って行く。

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