本テーマの三遊亭円朝に入る前に、2017年3月30日に放映されたBS日テレ「片岡愛之助の解明! 歴史捜査」について触れたい。タイトルは「江戸無血開城 勝海舟を支えた三本の矢の真相に迫る!」で、鉄舟、篤姫・和宮と江戸焦土作戦を取り上げた。
放送前に、鉄舟に関して取材をさせてもらいたいと、同番組のディレクターとお会いしたが、持参した企画書には「勝の命を受け西郷との事前交渉において、決死の覚悟で臨んだ山岡鉄舟」とあるではないか。
これを目にしてすぐに「鉄舟は海舟から指示を受けていない。慶喜公から直接に駿府に行くよう命を受けたのだ」と指摘し、その証明史料として鉄舟自筆の『慶應戊辰三月駿府大總督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記』が全生庵に保存されていると伝えたところ、「わかりました。海舟からの使者説は取りやめます」と帰って行った。
放映当日の30日、果たして、鉄舟がどのように描かれているか興味津々でテレビを見たところ、「鉄舟は慶喜公から指示を受け・・・」と述べ、全生庵の平井住職から『談判筆記』の原本史料の説明を受けている場面も放映された。
これを見て、やはり一次史料の重要さを改めて認識したのであるが、もうひとつ鉄舟の江戸無血開城功績を示す一次史料としては『正宗鍛刀記』がある。これが従来、写本でしか遺っていないといわれていたが、前号でお伝えしたように刀剣博物館に保存されていることが分かった。
そこで、この『正宗鍛刀記』の原本を実際に確認すべく、刀剣博物館に伺い、実際に手に取って見てきた。鉄舟は自己PRを一切しなかった人物であったので、自らの功績を遺す史料は『談判筆記』と『正宗鍛刀記』の二つしかなく、この二つの史料を確認でき大変喜んでいるところである。
もうひとつ、落語に関してお伝えしたい。
先日、林家木久蔵師匠から講演(1時間半)と落語(30分)を伺う機会があった。講演は、落語界とは関係ない聴衆であったのか、落語家になるまでの過程を話してくれた。
落語家は歌舞伎役者と違って、二世芸人はせいぜい40名程度で、その一人が自分だとう。木久蔵師匠の父親は先代の林家木久蔵、現・林家木久扇師匠である。
落語家を志望する者は、一般的には高校または大学卒業してから師匠に弟子入りする。
まず、最初は「見習い」を1年間、次に「前座」が4年、都合5年が修業期間であり、この間は自分のことは何もしなく、師匠に尽くすことだけに集中する。つまり、師匠が何をしたいのか、どのように動くのか。それを事前に察知する「気働き・気遣い」を徹底的に身につけることだと強調された。
これは2016年12月号で、桂三輝(サンシャイン)が次のように述べたことと一致する。
≪「師匠の空気を読めるようになれ。それができれば高座に上がったときに、お客さんの空気も読めるようになれる」と言い、「落語の修業では、空気を読め!が大事で、これはRead the air!だ」であり、「落語は〞見る〟と、〞気づく〟仕事」であって、観客一人ひとりの反応を見て計算しながら、対応を合わせていくリアクションの芸だ≫
林家木久蔵師匠の講演にもどるが、前座の次は「二つ目」で、これが大体10年。そしていよいよ「真打」に昇進すると、師匠と呼ばれ、弟子を持つことができる。今は江戸時代以降でも空前の落語ブームで、弟子入り志願者も多いとも強調した。
この落語ブーム、実際にはどのくらいのファンがいるのであろうか。空前の人気なのであるから相当数であろうと思っていたところ、立川志らく師匠が次のように述べたので、これまたびっくりしているところである。(日経新聞2017年4月8日プロムナード「芸術論」)
≪手前味噌だが落語ほど素晴らしい芸能は世界中を見てもそうはない。勿論演じ手が酷けりゃどうにもならないが。落語の存在を知らない日本人は殆どいないだろうが落語の凄さを知っている人間となるとどうだろうか。落語ファンなんてものはたかだか10万人程度ではないか。つまり人口の0.1%しか落語を知らずに死んでいくのである≫
落語が好きだという人は多いし、寄席に通う人もたくさんいると思うが、本当に落語を理解しているのはたかだか10万人程度という。改めて、この数字の意味を考えているところである。
さて、三遊亭円朝が「大師匠」と称されるようになった背景には、明治10年に鉄舟に弟子入りしたことが素因であると考え、その因果関係について解明をすべく本連載を続けているのであるが、その前に円朝自らの心構え、「個」を磨こうという姿勢も大きく係わっている。
それは安政2年(1855)17歳時にはじまる。所属する三遊派が寂れており、それを再び引き起こさんと、師匠が決めた「小円太」名を捨て、まだ誰も門派で名乗っていない「円朝」へ改名して、独立を決意したことである。
「小円太」への命名は、円朝の父親である橘屋円太郎が、師匠の2代目円生のところで、息子に一席やらせてみたところ、
「うまい、うまい」と師匠が褒め、
「このくらいできれば、よかろう。円太郎の子供だから、小円太にしよう」
と決め、弘化2年(1845)3月3日の雛祭りに7歳でデビュー、広き江戸でも、子供の落語家は珍しく、評判が高く受けいれられたのである。
だが、それから10年後の17歳、「三遊派を再興させる」という命題を持つに至り、従来三遊派で用いられていない「円朝」の名を選んだ。
今でもそうだが、歌舞伎や落語の世界では、人気や業績のあった先輩の名を襲名することは名誉とされ、由緒ある名を継ぐべく一段と修業に励むものである。林家木久蔵師匠も父親の名を継いでいる。
しかし、円朝は違った。三遊派に伝わる名を継がない一方で、派の再興を念頭に置く行動。そこに円朝の「個性」をうかがわせるが、その心理を推測するならば、流派の再興というのは表面上の目標であって、本音のところでは、三遊派を盛り上げると言いつつ、実は自分の「個」を主張する。つまり、自らの力量を磨くためにこそ、三遊派再興を名分としたのではないかと推量したい。
勿論、まだ若き円朝の心理には、このような複雑な考えを、確たる意識として持ち、具体的に整理をしていなかったと思うが、結果的に、業界の伝承や流派の意識と、自己の主張とを矛盾させないように行動しているのであって、ここに円朝の賢明さ、後に鉄舟に傾倒していく背景を感じる。
また、こうした形式をとらなければ、二つ目の円朝の独立は許されない時代であったのだろうとも推測したい。
いずれにしても円朝の努力は続き、当時の噺家は15種ほどの落語が演じられれば一人前とされていたが、円朝は50余種の演目を持ち、同業者を驚かせ、出勤の前後には成田不動尊に願いを込めて「水垢離」までとったという。
こうした精進が認められ、真打に昇進することができた。といっても17歳の身では下町の大きな寄席に出演する機会はなく、音曲で人気があった二代桂文楽に従って、その中入り前に出演していた。
円朝より10歳年上で、当時、非常な人気を博していた文楽から直接教えを乞うことは少なかったが、素噺を本領としていた円朝に大きなヒントを与えてくれた。それは鳴物噺の創作である。
安政5年(1858)20歳、この秋頃から鳴物噺という新しい演出を試み始めた。鳴物噺とは、『三遊亭圓朝子の傳』(朗月散史編 円朝全集巻の13)に次のように説明されている。
≪芝居の世話狂言を模擬りて、高座の後には書割の道具を飾り、その噺の模様によりて或は台拍子、宮神楽、或は雙盤(そうばん)(注 寺院で法会のときなどに,打ち合わせて鳴らす金属の盤)、駅路鈴(注 駅の鈴)、山下し、浪の音等の鳴物を入れ、俳優の声音を遣はねど、話に自と愛嬌ありて、聴客(ききて)をして芝居を見る如く喜ばせ≫とある。
一方、鈴木古鶴の『円朝遺聞』(円朝全集巻の13)には次のように書かれている。なお、この遺聞とは、円朝の生前に直接円朝に接し親交のあった人々を歴訪して聞き得たものであると注釈があり、その中の「若い頃の事」に「初めて真打になった時のこと」として次が記されている。
≪円朝が初めて真を打ったのは、品川橋向う字天王寺前の寄席で此時は中入り前に、自画の写絵を自分で写し、中入後に背後に道具を飾って怪談噺をしたのである。その背景などは皆自分で書き、浅草から品川まで道具の藪畳を自分で担いで出かけるという程な奮闘ぶりであったにも拘らず、不入りであった。其の次は目白の初鳥亭でやはり同じ事をしたが、この時は大入りだったので、他の席へ相談してみたけれども何処でも相手にしてくれず、万長などは剣もほろろの挨拶であった。折角旗上げをした円朝も茲に至って大に当惑したが、試に池の端の吹ぬき亭に頼んでみた所、此の席の亭主はわ組の頭で侠気ある人だったので、快く承知してくれた。円朝は非常に喜んで師匠の円生を助に頼んで、伸るか反るかの初興行の蓋をあけると存外の大入りで、連夜客止めの好成績だったので、これから円朝の看板が到る所歓迎され始めたのである≫
このようにわ組頭の好意で、頭が経営する吹ぬき亭へ出演できた21歳の春、今度は三枡屋勝蔵を助演、中入前には師の円生に援助出演を乞い、真打としての看板を挙げた。
ところが円生は、円朝が鳴物噺として諸道具を準備用意した演目を先に演じてしまうという行動に出たのである。もともと同門であるから師弟には共通の演目が多いので、円朝が演じようと準備しているものを、素噺として先に口演できるのである。
唖然とする円朝、円生と同じ噺をするわけにいかず、急遽、用意した道具類で間に合うような題材噺へ変更し初日を終えた。
初日は円生が何か勘違いしたのであろうと、次の日も別の鳴物噺を諸道具準備用意したところ、またしても円生は円朝が行うはずの演目を口演する。その後も毎夜、円生は円朝が用意した道具噺を先に演じてしまうのであった。
『三遊亭圓朝子の傳』には次のように書かれている。
≪斯くの如き事、毎夜なれば、後には円朝も余りの事に席をば止めんとしたりしが、是れこそ師円生が我をして励まさんとの心より態と計られしものなるべしと、図らず心附きしにぞ、師恩の辱(かたじけ)なきを謝しつつ、此の上は師匠の未だ知らざる話を、我力の及ぶだけ自ら作り、客足をば引くに如かずと、それより筆を採りて初めて累草紙といへる怪談噺を七冊ほど作りける。是れ円朝が抑も作をなせし始めなりき≫
この師円生の仕業、それを円朝が「己を励ますため」と、むしろありがたがっているが、果たして本心だろうか。
そのことに触れる前に、『三遊亭圓朝子の傳』に書かれた「累草紙といへる怪談噺」の部分は誤りであると永井啓夫が『新版 三遊亭円朝』で次のように指摘している。
≪「累草紙」は師二代目円生の創作した怪談噺で今日にも伝えられているから誤りで、円朝がこの時創作した話としては「累ヶ淵(かさねがふち)後日怪談」が正しい。この「後日怪談」が明治以後、完成されて「真景(しんけい)累ヶ淵(かさねがふち)」となり、円朝の代表作の一つとして今日に伝えられているのである≫
さて円生の行動、一般的には「師でありながら狭量」と考えるのが妥当だろう。弟子の円朝に援助出演を乞われ快諾したが、高座に上がってみると、自分の地位を脅かし、凌ぎ、伸びていく弟子に強い嫉妬を感じ、その気持ちを抑えることができなかったのではないだろうか。
また、このような仕業に対し円朝は、猛烈に反発したと考えるのが普通で、素直な感覚だろうが、『三遊亭圓朝子の傳』に「師恩の辱なきを謝しつつ」とあるのは、あまりにきれいごとすぎると思うが、これについて『三遊亭圓朝の明治』(矢野誠一著)は次のように分析している。
≪『三遊亭圓朝子の傳』は、50歳時の圓朝の口述を元になされたものであることを考慮すれば、すでに功なり名をとげた身にとって、30年前の屈辱と怒りを「師恩」と言いかえるだけのゆとりも生まれていたということだろうか≫
矢野氏は、円朝が落語界で不動の地位を占めたことが「ゆとり」を生させたと解説しているが、そこまでの心境に至った背景には、鉄舟の影響があると筆者は判断し、その根拠を『正宗鍛刀記』が書かれた経緯から説き起こしたい。
鉄舟は慶喜公の命で駿府の西郷のところに赴き談判し、江戸無血開城を実質的に決めてきたが、一般的には勝海舟が西郷と江戸無血開城を成し遂げたといわれ、海舟も『海舟座談』(『勝海舟全集』第20巻「海舟語録」講談社)で次のように述べている。
≪ナアニ、維新のことは、おれと西郷とでやったのサ≫(明治31年11月30日)
これが流布され、今や通説となっているが、ここには鉄舟の人柄が絡んでいるのである。
明治14年(1881)、明治政府は維新の功績調査を行って、関係者を召還または口述や筆記を徴(ちょう)した。
鉄舟は「別に取り立ていう程はない」と賞勲局の呼び出しに応じなかったが、何度も呼び出しがあるので出頭すると「先刻、勝さんが来て斯様なものを出されましたが・・・」と鉄舟に見せた。
それを見ると「勝が西郷との談判を行ったと書いてあり、鉄舟の名はない」ので「変だと思ったが、嘘だと言うと勝の顔を潰すことになる。勝に花を持たせてやれ」と「この通りだ」と海舟の功績を肯定した。
賞勲局員も無血開城の経緯を知っているので鉄舟に反問した。
「それであなたの功績はどうしたのですか」
「おれか。君主に臣民が為すべきことを為したまでで手柄顔は出来ないさ」
賞勲局員は困って、賞勲局総裁の三条実美公に報告したところ、三条は岩倉具視公に連絡、岩倉公も「それは変だ」と鉄舟を呼び出し尋ねた。
鉄舟も岩倉公の前では嘘も言えず「実は、勝からあのような書類が出ていたので、勝の面目のため自分は手を退いた」と答えた。
岩倉公は鉄舟の人格高潔さに感服しつつも、正しい史実を遺すべく、鉄舟から当時の談判事実を詳しく聞き取って、漢学者の川田剛に漢文で書かせ、明治の三筆の一人である巌谷修が六朝楷書でしたためた。
それが『正宗鍛刀記』である。ここには江戸無血開城に至る経緯のほか、維新後、徳川家の第16代目宗家となった徳川家達が、徳川家と江戸市民を官軍の攻撃から救った鉄舟の功績を労うために、鉄舟に徳川家の家宝名刀「武蔵正宗」を与え、鉄舟はこれをほどなく岩倉公に贈った経緯などが記されている。鉄舟の人格・人柄が『正宗鍛刀記』を記させたということができるだろう。
このような高潔な鉄舟に、円朝は明治10年に弟子入りする。そして多大な感化を受け、一段と禅修行に励み、円朝口述『三遊亭圓朝子の傳』が編された50歳時は明治21年にあたる。
この年は、ちょうど鉄舟没年時、既に11年も鉄舟の感化を受けており、円朝は相当の禅境地に達していたであろう。
したがって、30年前の屈辱と怒りを「師恩」という、誠に美的な感謝の念に切り替えるほどの心境に到達していたと推断でき、矢野氏が言う「功なり名をとげた身」というような立身出世的な立場から述べたのではないと考える。
さて、円生のために苦労していることを知った父円太郎は、親心から円生に代わって中入前をつとめることになる。意気の合った親子の熱演と、毎晩工夫を凝らした新しい道具噺は評判となり、円朝の人気は次第に高まっていく。次号に続く。
最近のコメント