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2018年3月 1日 (木)

鉄舟が影響を与えた円朝 その五

東京国立近代美術館のMOMATコレクションで、鏑木清方(1878~1972)が描いた「三遊亭円朝像」の実物をはじめて見た。

この絵は鏑木清方が昭和5年、第11回帝展に「三遊亭円朝」と題し出品したもので、平成15年に重要文化財に指定されている。
清方は明治11年生まれ、昭和47年没であるから、明治、大正、昭和と三世代を生き、上村松園、伊東深水と並び称せられる近代日本の美人画家である。
美人画で著名な清方が、円朝像という壮年男性肖像画を描いたのはなぜか。

背景には、清方の父親である条野採菊が関係している。条野採菊が明治19年に「やまと新聞」を創刊し、その創刊号から円朝が自作「松操美人生理」を連載したことからはじまる。

その経緯を岡鬼太郎が次のように述べている。(参照 『三遊亭円朝』永井啓夫著)
《日刊やまと新聞発行の初、円朝の続き話は、速記となって、珍しくも日毎日毎の紙上に載せられた。挿絵は年方氏であったと思ふ。木版彫刻は銀座の山本であったか。何しろ紙面の縦半分ほども段を抜いた大挿絵が、惜気もなく、円朝の話と一緒に出るのである。速記物連載の評判、円朝の評判、挿絵の評判、やまと新聞が軟か向に売れた事は、実に目覚ましい物であった。
やまとの主幹は、作家としての山々亭有人、後の条野採菊翁であった。採菊翁は円朝の贔屓客でもあり、友人でもあり、而して其の採菊翁は、日日新聞に在社時代から、福地桜痴氏とは友人である。円朝は福地先生から西洋種を与えられた。芸人として、好い御贔屓を有ったものである。(円朝雑観)》

やまと新聞は明治19年(1886)創刊、その号から連載された「松操美人生理」は福地桜痴から聞いた外国種の翻案で高評を得て、続いて「蝦夷錦古郷家土産」を連載したように、やまと新聞は「円朝物」の連載によって売れたといわれている。

だが、円朝もやまと新聞によって、この後、多くの作を発表することができ、芸人というよりむしろ作家に近づいたともいえる。
後に条野採菊の息子である清方は、当時の思い出を次のように語っている。
《速記は以前私が木挽町ら居りました頃、私の宅でやったり、尾張町にもと鶴仙と云ふ寄席があって、其の向うに寿鶴といふ鳥屋があってそこでもよくやりました。挿絵をかく芳年さんが大きな眼鏡の下からボロボロ涙をこぼしながら師匠の話を聴いてゐた姿が眼に残ってゐます。(円朝遺聞)》

明治28年(1895)、円朝は18歳の健一(条野の息子・清方)を連れて野州方面の旅に出ている。健一は軽い脚気を患っていたが、旅に出れば癒るという円朝のすすめに従ったのである。この旅行は健一のはじめての旅でもあり、また一世の名人と称される人の随行でもあったので印象深く胸に刻まれ、「初旅」(『清方随筆選集』昭和19年)と、「円朝と野州を旅した話」(雑誌『寄席風流』第五号 昭和30年)で、足利、栃木、佐野、田沼を歩き、田沼の宿・柳屋で泊った際の思い出を述べている。

《田沼では柳屋といふ宿に泊った。昔は柳橋に居たといふ、小鬢の禿げ上がった内芸者が、客を円朝とも知らないらしく、東京の人ときく懐しさに、あれはこれはと東京の噂をききたがる。ここは潯陽江(注 現在の江西省九江市の北を流れる川)ではないけれども、時は楓葉荻花(ふようてきか)(注 楓の葉や荻の花が色づき秋風が吹いてものさびしい)の秋、どこか芭蕉の越後の宿にも似て、世の中を知りつくして、禅僧のやうに枯淡の境に入った名人と、漂泊の旅芸者との応対はちょっと戯曲にもなりさうだが、少年のセンチメンタルと違って師匠は一向興味もなかったらしく、刺身や塩焼のお膳を眺めて、「姐さん、あなたの今夜のお菜は何です、いいえ、ほんたうにさ、・・・・え、親芋の煮つけ、そりあ結構、それとこれを取り換へっこをしようぢゃあありませんか、いや、ほんとうに、冗談ぢゃない、健ちゃん、あなたもどうです、かういふところはお芋の煮たものに限りますぜ、さあさあ」とうとう芋の煮つけを徴発して了った。白楽天、御茶人だけに意地が汚い。》(昭和7年8月)

この時、円朝は57歳。清方が旅先で身近に円朝と接した体験から、後年、円朝50歳代をイメージし高座姿で描いた「三遊亭円朝像」、東京国立近代美術館4階ハイライトコーナーに展示され、そこで次のように解説されている。
Photo

《鏑木清方による肖像画の第一作。モデルは明治時代の大噺家、三遊亭円朝(1839-1900)です。芸の大きな名人は実際よりも大きく感じられるといいますが、この作品の円朝が大きいと指摘されるのもやはり、清方の記憶のなかにある高座姿を描いているからなのでしょう。一方、調度や着物は、実物にあたって細かく再現的に描かれます。記憶に刻まれたよく知る人物の姿を、現実感のある道具立てとともに描く。清方はこの手法によって「文字に依らない伝記」としの肖像画に新しい領域を開きました》

確かに痩身の円朝が大きく見え、威厳がある。日経新聞(2016年12月18日)の「美と美・落語の楽しみ 上」で、中沢義則記者は「三遊亭円朝像」を取り上げ、次のように感想を述べている。
《格子縞の座布団にきちんと座り、その前に扇子が丁寧に置かれている。几帳面な人なのだろう。だが、やはり芸に生きた人だ。襟元はやや開いていて、猫背気味の白い首筋が露わになっている。両手で包み込むようにして持つ湯飲み茶碗から白い両腕も大きく露出して粋な雰囲気を醸し出す。それなのに、姿や顔貌に緩みはまったく感じない》

この所感、さすが記者らしいと思う。全体を網羅的に適切に表現していて同感ではあるが、筆者は眼差しが気になった。像の写真では明確にわからないが、目つきが上向きなのである。高座姿なのであるから、落語一席を語る場面を描いたのであろうが、視線が観客に向いていない。講演などでもそうだが、語り手は聞く側の反応を見て対応していくもの。だから、常に観客・観衆を意識しているから、会場内を見まわして手ごたえを探ることになる。
その点、円朝の眼差しは会場内を意識していないように見え、ここが清方の最も強調したかったのではないか推察する。

つまり、円朝は観客・観衆の反応などは測る必要がないのではないか。熟達した名人の境地に至っている円朝、自らの語りに入り込み、そこから引き出してくる言葉の数々、それを信じて噺を続ける。そのためには目線を会場内遠く全体に見据えるところに置く。そこを円朝と旅したほど親しかった清方がしっかりと見抜いていたのであろう。

いずれにしても、清方が50歳代の円熟した「三遊亭円朝像」を描き、その筆致が伝える強烈な印象は、近代肖像画の代表作として高く評価され、昭和5年(1930)作であるから、まだ100年経過していないのに重要文化財として指定されている名画である。

日経新聞・中沢義則記者は「美と美・落語の楽しみ 上」記事の最後に「落語家の始祖」に触れている。
《「落語家の始祖」と称されるのは安楽庵策伝という人で、美濃に生れた僧侶だ。茶人、文人でもある教養人という。「醒睡笑(せいすいしょう)」と名付けた笑話集を編んだことから始祖の名が付いた。京都の警護などを司る京都所司代に話を聴かせたという。
 「醒睡笑」は元和9年(1623)に完成したとされる(1628年の説もある)。世間に流布する1039編の「笑える話」や「面白い話」を集めた大著で、「子ほめ」など落語の前座噺の原型のような話も収録されているという。
 策伝の肖像画が本人が第55世法主をつとめ、菩提寺でもある京都の浄土宗、誓願寺にある。策伝を顕彰するため、1967年に始まった策伝忌に合わせて描かれた。原画は江戸初期の学僧で書画家の松花堂昭乗作「安楽庵策伝像」。袈裟をまとい、引き締まった理知的な風貌で優しそうだけれど、おかしみのようなものは伝わってこない。
 落語は江戸時代中期から江戸と上方を中心に隆盛を迎え、庶民の芸能として発展していく》

Photo_2

 この記事、突然、円朝から落語家の始祖である安楽庵策伝へつなげているが、果たして、策伝から円朝までつながる系譜はどうなっているのであろうか。

円朝の実態を探るためにも、改めて安楽庵策伝について見ていきたい。(参照 『安楽庵策伝』関山和夫著)
 安楽庵策伝は、後奈良天皇の天文23年(1554)生まれ、明正天皇の寛永19年(1642)89歳の生涯。
策伝の前半生は安土桃山時代、信長が足利氏を滅ぼし安土城に移った天正4年(1576)は策伝23歳、29歳時には本能寺の変、その8年後の37歳の時に秀吉が天下を統一し、関白となって大阪を中心として君臨している。
策伝の後半生は、慶長3年(1598)秀吉逝き、翌々年の慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで家康が天下を掌握、慶長8年(1603)江戸幕府開設した江戸時代に生きた。
このように策伝は、前後半生共に戦乱動乱時代に生涯を過ごしたが、これが策伝の生き方に大きく影響したはずである。
策伝は、飛騨高山城主金森長近の弟として出生、7歳の時に美濃浄音寺で出家、11歳に上洛、その後各地の寺にて修行、43歳に美濃浄音寺25世となり、60歳で京都大本山誓願寺法主(55世)となる。62歳から「醒睡笑」起筆し、70歳の元和9年に完成させ、誓願寺塔頭竹林院をつくり隠居、境内の茶室・安楽庵に入り、以後、自らを安楽庵と号した。

寛永19年に没するまでの19年間、竹林院を訪れる風流人は絶えなかった。松花堂昭乗、小堀遠州、烏丸大納言光弘、木下長嘯子、松永貞徳、金地院崇伝、近衛信尋等々当代各界一流文化人との交流が続いた。
策伝は不世出の咄上手であった。以下、それを表する文献を紹介する。

●安楽庵策伝は、おとしばなしの上手なり。元和9年70の年醒睡笑といふ笑話本8冊をつくる。万治元年上木(じょうぼく)(注 版木に彫ること)せり。この人茶道に於て名高しといへども、おとしばなしの上手なる事を知る人まれなり。世に称する所の安楽庵の裂は此人より出ぬ。(山東京伝『近世奇跡考』巻之二)

●安楽庵策伝は稀世の咄上手にて板倉候(注 京都所司代板倉重宗)のために醒睡笑若干巻を著せり。(喜多村信節『嬉遊笑覧』巻之九の中「言語」)

●安楽庵策伝、曽呂利新左衛門と同席の折は、新左衛門狂歌を詠て出すに夫に笑話を述べて興じたり。いはゞ狂歌を題にして落し咄を即席に案じて述べし也、又、曽呂利がをかしき物語は多く策伝の事にして、今に板木にて世に行はれし曽呂利狂歌咄は策伝の作なり。(『瀬貞筆記』)
このように何れも策伝が卓越した機智頓才の持ち主であったことを伝えている。

ところで、日本では古くから咄は発達していて、太古時代には口から口へと語り伝えられる語部がずっと続き、中古には咄職に類したものが別に存在したかもしれない。
『古事記』にも既に語源解説的な洒落が見られ、続いて『竹取物語』『伊勢物語』が笑話的要素を持ったものが古く、以後、歌物語――諺物語――狂歌咄――落し咄とつながり、この「落し咄」がはじめてできたのが策伝の「醒睡笑」である。

ところで、室町時代には同朋(どうぼう)(注 足利将軍に近侍し取次・お伽などの役に当たった者・広辞苑)がいて、戦国時代には「御咄の衆」「御伽衆」と呼ばれる人々がいた。
「御伽」とか「御咄」とは、主君に対する敬称で、「伽」とは「人が加わる」こと、人が大勢集まるを意味する。人が集まれば「咄」が出る。「伽」をするのは多く庚申侍とか武士ならば夜警等であり、「伽」を遂行するには「咄」を必要とし、これが「御咄の衆」とか「御伽衆」を発生させた。

桃山時代以降は、「御咄の衆」は咄上手で古老又は教養、地位等実力ある人物を言い、単に咄上手で芸人である人物を「御伽衆」と呼んで区別した。
戦国時代の「御伽衆」は、神官、僧侶、検校、宗匠等が大部分占め、咄そのものはさしたる巧者もいなかったと推定される。

しかし、桃山時代に入ると秀吉の趣味と相俟って俄然茶人が「御咄の衆」として著しく台頭してきた。
また、この時代の仏教のあり方も注目する必要がある。動乱の時世、布教は難解な教義より、娯楽的な要素を持つ絵解風教学が採られ、これがまた話術の訓練を促した。

この事象下、策伝が持つ深い仏教理解を背景に、洗練された弁舌の冴えによる滑稽諧謔談、加えて、風刺、教訓、啓蒙的要素も入れ、そこに咄の落ちを重要視する語り、これが秀吉や板倉重宗に招かれる「御咄の衆」となり、そこで語られたものが「醒睡笑」に収められていき、「落語家の始祖」名が付いたのである。

このように安楽庵策伝という不世出の話術者が出現することで、日本芸能史に新たに「落語」というジャンルが生れ、「醒睡笑」の完成をみた元和9年を落語の成立年といわれている。

策伝は、大本山誓願寺法主大僧正日快策伝上人という高い地位を得ていた。だが、策伝はその位から想定される「学徳兼備の高僧」ではなかった。あくまでも人間味豊かな大人物であり、時代の現実・実態を見つめつつ、そこに笑いの落ちを付け加え、人々を惹きつけていったことが、「醒睡笑」の果実となって、今日まで続いている落語を誕生させたのである。

なお、策伝が7歳で出家した美濃浄音寺、その後各寺で修行後、再び浄音寺にもどり43歳で25世に就いた経緯から、浄音寺のある岐阜市では、「岐阜市笑いと感動のまちづくり事業」の一環として「野球に甲子園があるように、落語に全国大会があっても良いじゃないか」という桂三枝(現・六代桂文枝)の提案により、2004年からNHK岐阜放送局との共催で、「全日本学生落語選手権・策伝大賞」を毎年開催している。

落語がこのように盛況となっている始まりは策伝からであるが、その後はどのような系譜で円朝までつながってきたのだろうか。

当然に円朝までには多くの歴史が横たわっているし、策伝により京都で発生した落語は元禄(1688~1704)頃、京の五郎兵衛、大阪の彦八の出現により職業化し、やがて大衆芸能「上方ばなし」として完成する。

五郎兵衛、彦八没後は適切な後継者なく、ひとまず落語は文芸としての咄本に座を譲っていたが、寛政(1789~1801)頃になって桂文治が出て、上方落語中興の祖となった。
桂文治は上方ではじめて寄席を開き、上方で新しく「芝居咄」というジャンルを創始、創作力にも優れ「昆布巻芝居」等多くの傑作を残した。

一方、江戸では元禄の頃、鹿野部左衛門が「座敷しかた咄」を演じて活躍、天明(1781~1789)年間に烏亭焉馬(うていえんば)が出て江戸落語中興の祖となるが、もう一人桜川慈悲成(さくらがわじひなり)もいることを忘れてはならない。

焉馬、慈悲成が中興の祖であるが、注目すべき落語家として三笑亭可楽がいる。可楽こそが寄席興行を確立した人物である。

安永・天明・寛政・享和(1772~1804)の頃には落語に三系列があった。
1. 料亭における咄の会
2. 座敷噺
3. 寄席興行
であって、焉馬は1に属し、慈悲成は2、可楽が3に属した。
この可楽の門人に十哲として、朝寝坊むらく、林屋正蔵、山遊亭(さんゆうてい)猿生(えんしょう)、三笑亭可上、うつしゑ都楽、翁家さん馬、猩々亭左楽、佐川東幸、石井宗叔、船遊亭扇橋の10人を掲げる。

この中で山遊亭猿生が三遊亭圓生と名を改め、弟子に二代目圓生がいて、この二代目に円
朝こと7歳小円太が弟子入りしたわけで、ここでようやく円朝とつながったのである。
明治22年、円朝は墨田区・木母寺境内に三遊派始祖初代圓生、2代目圓生の業績を追善記念する三遊塚を建立した。書は鉄舟。
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