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2018年3月29日 (木)

鉄舟が影響を与えた円朝 その六

 ベルダ読者から山岡鉄舟研究会に投稿があった。
≪本日(2017年1月25日)、テレビで桂歌丸さんのことを見ました。動けない体で弟子達が高座へ運び、正座しているような姿となる隠し椅子に座らせ、酸素吸入器を外してから幕が開いて歌丸の落語が始まります。 
そこまでして高座に上がるのは何故と質問され、歌丸は「落語の演目は3千以上あります。私の枕元には常に円朝の落語集があり、勉強できるよう努めています。それは、後世に何とかしてこの演目を伝えたい。更には円朝のような落語が出来ないかと思っています」 と答えていました。歌丸の話から伝わってきたのは、いかに円朝が凄いか、落語家の目標が円朝にあるということでした。 
鉄舟は禅の達人ですから、鉄舟が円朝に教えたのは、落語は口でやってはダメで、聴衆の心へ、お前の心で伝えよということだったのではないかと思っています。それをヒントに落語を至高の芸術の極致に高めたのは円朝の努力と才能だろうと考えています。
鉄舟に落語のことがわかる筈は有りません。円朝の人格、人生を大きく変えた何きっかけとなる大衝撃を、鉄舟が与えたということかと思っています≫

桂歌丸師匠は『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜(おおぎ)利(り)メンバーとして活躍し、2006年(平成18年)5月21日から2016年(平成28年)5月22日まで同番組の5代目司会者を務め、今の司会者である春風亭昇太に譲った。名実共に落語界のリーダーである歌丸師匠の、今でも円朝を目標に努力しているという発言は、円朝が明治33年(1900)没後117年経ても、落語の世界に大きな影響を及ぼしていることの証左である。

円朝の偉大さを改めて桂歌丸師匠から教えられた思いである。
本連載は、円朝が大師匠と称されるまでの歩みを通じ、そこに鉄舟がどのように関与したのか、それを確認し解明をするのを目的としているが、まだその目途まで至らず研究途上で、これからもしばらく検討を続けていきたい。
さて、改めて落語ブームを見てみると、そのすそ野はますます広がっている。「500円握って落語へ行こう」(日経新聞2017年2月3日)が次のように伝える。

≪ワンコイン500円で鑑賞できる落語会が人気だ。1月中旬、東京都千代田区にある演芸場、神田連雀亭の「ワンコイン寄席」には平日昼にもかかわらず、20人ほどの客が集まっていた。「寒いのによくいらっしゃいました。食費を入場料に回してまで…」。落語家の桂夏丸さんが軽口をたたくと、客席がどっと沸いた。
この日出演したのは夏丸さんのほか、桂竹千代さん、林家つる子さんの計3人で、上演時間は合わせて1時間ほど。3人とも「二ツ目」と呼ぶ、「真打ち」になる前の身分にある若手落語家だ。
会場は38席と小さく、演者との距離はほんの数メートル。「ホールと違って演技を間近で楽しむことができ、とても新鮮」と来場女性が話す。 
神田連雀亭は2014年10月、神田須田町にある雑居ビルの2階で開業した。ビルのオーナーが街おこしのため何かできないかとベテラン落語家の古今亭志ん輔さんに相談したところ、空きフロアを改装して二ツ目専用の寄席を作ることになった。「二ツ目はとにかく出演機会が少ない。連雀亭は芸を磨く貴重な場になるうえ、収入面でもありがたい」と夏丸さんは話す。
500円で鑑賞できる落語会は各地で開催されている。人気の火付け役といわれるのが、東京都新宿区の新宿末広亭で開かれる「深夜寄席」だ。
毎週土曜日の午後9時前。新宿三丁目の飲食店街に数十メートルの列ができる。お目当ては9時半開演の落語会。二ツ目が4人出演し、上演時間は合わせて1時間半ほど。200ほどある座席が全て埋まり、立ち見が出ることも珍しくない。
東京都台東区上野にある鈴本演芸場でも毎週日曜日の午前10時から「早朝寄席」が開かれている。深夜寄席と同様に二ツ目が4人出演する。こちらは座席数が285と広めだ。
関西では大阪府和泉市の文化施設、和泉シティプラザが毎月第3土曜日に「和泉ワンコイン寄席」を開いている。
地方都市にもワンコイン寄席はある。富山市中心部の商店街にある演芸場、てるてる亭では、富山で活動する芸能人らの有志の会「三楽会」が5年ほど前から寄席を開いている≫

2月のはじめ、地元の公共図書館に行くと、「気になる三人かい・・・柳家喬太郎・桃月庵白酒・春風亭一之輔」4月公演ポスターが貼ってあった。公演は4月。すぐにチケット予約したのだが、公演2か月前なのに、1200席もの大ホールで残りは3席のみ。この3人はいずれも人気若手真打で特別なのかもかも知れないが、落語ブームの一貫であることは間違いなさそうだ。

そう思っているところに、今度は親しい不動産会社から「落語で学ぶ相続とアパート経営」というセミナー案内が届いた。これも落語ブームにのろうという企画なのだろう。

話は変わるが、トランプ大統領旋風が吹き荒れている。トランプの得意はディールDeal、取引でTPPを止めて二国間交渉で物事をすすめようとする主張だが、取引を広辞苑で繙くと

「商人と商人、または商人と顧客との間の売買行為。営利のためになす経済行為。相互の利益になるような交換条件で事を処理すること」とある。

鉄舟が西郷との駿府会談で成し遂げた「江戸無血開城」、これは明らかに取引ではないが、本連載ではこれを会見と説明していた。
その理由は、JR静岡駅北口から歩いて5分、伝馬町の通りにある一つの石碑からである。向かって右側に山岡鉄舟、左側に西郷隆盛の顔が銅版ではめ込まれ、両者の顔銅版の下方に「ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります」と刻字されているからであった。
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しかし、先般、改めて鉄舟が明治15年3月に書き示した、慶応4年3月9日の駿府での西郷との記録を確認すると「慶應戊辰三月駿府大總督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」となっており、「会見」ではなく「談判」と自筆している。

「会見」とは「一定の場所で対面すること」(広辞苑)とあり、「談判」とは「ある事件の始末、または取決めについて、立場の異なる相手と意見をたたかわすこと」(広辞苑)とあるので、「談判」と表現する方が妥当であり、修正したい。

この筆記で最も重要な談判は「慶喜の命を守り江戸総攻撃を取り止めさせる」という主目的に対し、西郷からは以下の五箇条の条件が出されたことへの反論である。
1. 城を明け渡すこと
2. 城中の人数を向島へ移すこと
3. 兵器を渡すこと
4. 軍艦を渡すこと
5. 徳川慶喜を備前に預けること

鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れず、以下のように強く鋭く反駁した。

≪余(鉄舟)曰く主人慶喜を独り備前へ預る事。決して相成らざる事なり。如何となれば。此場に至り徳川恩顧の家士。決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き。空く数万の生命を絶つ。是、王師のなす所にあらず。果して然らば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰く。朝命なり。
余曰く、たとひ朝命なりと雖も。拙者に於て承伏せざるなりと断言す。
西郷氏又強いて朝命なりと云う。
余曰く。然らば先生と余と其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公。若し誤りて朝敵の汚名を受け。官軍征討の日に当り。其君恭順謹慎の時に及んで。先生余が任に居り。主家の為尽力するに。主人慶喜の如き御処置の朝命あらば。先生其命を奉戴し。速に其君を差出し。安閑として傍観する事。君臣の情。先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鉄太郎決して忍ぶ事能はざる所なりと激論せり。
西郷氏黙然暫ありて曰く。先生の説最然り。然らば徳川慶喜殿の事に於ては。吉之助屹と引受取計ふ可し。先生必ず心痛する事なかれと誓約せり≫

 この談判における鉄舟の決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士として強固で真摯な抵抗精神であって、後年「真の武士道体現者」と謳われた鉄舟ならではの働きで、ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

 つまり、西郷との一対一の談判、それは組織力とかマスコミのバックアップとかを期待したものでなく、鉄舟個人の力量により西郷の見解を変えさせた。鉄舟の「個」としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

 この「個」による働きという状況について、山岡鉄舟研究会の水野靖夫氏が「ピンチヒッター」というたとえ話を述べられているので紹介したい。同氏は、ベルダ2016年6月~9月号でアーネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』を取り上げ、その引用について重大な過失があると問題提起した方である。

≪現実にはあり得ないが、分かりやすい例を挙げてみよう。野球の日本シリーズ、3勝3敗で迎えた最終戦の第7戦。味方は3対0で負けており、すでに9回裏となり満塁としたが、2アウトという絶体絶命のピンチ。監督は代打を出し尽してしまっており、もう頼れる選手が残っていない。
すると球団オーナーが、側近のアドバイスで監督と相談もせずに、いきなり今日2軍から引き上げベンチに入れた無名選手を代打に指名した。監督はこの選手を全く知らなかったが、オーナーの命令なのでやむなく代打に送り出した。
ところがこの選手がホームランを打ったのである。代打逆転サヨナラ満塁ホームランである。そしてそのチームは優勝した。
さて殊勲者は誰であろう。もちろんこの代打の選手である。もしくはこの選手を指名したオーナーである。少なくとも監督ではない。オーナーの名は徳川、代打選手は山岡、監督は勝であった。付け加えればオーナー側近は高橋≫

鉄舟の働きを簡潔に、分かりやすく述べている。剛腕投手・西郷が繰り出す荒れ球の球筋を、剣・禅で鍛えぬいた鉄舟が咄嗟に球筋を見極め、情理を尽くし説得、方針を転換させたのである。

ところが、世に風評として誤って伝えられているのは「鉄舟は海舟の使者として駿府に赴いた」というものだ。しかし、鉄舟は前述の談判筆記で明記しているように、高橋泥舟の推挙で、上野寛永寺大慈院一室で徳川慶喜から直接指示されている。その指示を受けた後、時の幕閣首相格であった軍事総裁の海舟を訪ねたというのが事実であるから、「海舟の使者」という解釈は成り立たない。全くの間違いである。

もっとひどいのは隅田区観光協会が発行している『両国エリアマップ』なるものである。マップで表示されている「21山岡鉄舟旧居跡」の位置が、亀沢4丁目の墨田区立堅川中学校の前として示されているが、こんな所に鉄舟は居を構えたことはない。明らかに誤記である。さらにひどいのは解説内容で≪師の勝海舟と並び「幕末三舟」と呼ばれる≫と、いつの間にか海舟が鉄舟の師匠になっている。どこにこの解説の根拠となる史料があるのか、唖然とするばかりで、全く鉄舟を知らない学芸員が書いたものか。隅田区観光協会の名が廃るのではないかと思えるほどで、近いうちにお訪ねし誤りについてお伝えするつもりである。

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 さて、鉄舟と円朝、二人に共通するものは何であろうか。それは人間「個」としての力を磨いたということではないだろうか。
 鉄舟は、大悟を求める道筋について、武士道をたとえとして、次のように述べている。(『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編)

 ≪その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻(こう)徳(とく)を報謝することに躊躇(ちゅうちょ)しないであろう。これすなわち武士道の発現地である≫

即ち、厳しい修行という道を定め、道に迷わず、道を外さず、道を極めることで、自らの「個」を磨き、「大悟」すれば、世の真理を理解し「境地」に達するというのである。

だからこそ、西郷との駿府会談でも「西郷氏黙然暫ありて曰く。先生の説最然り。然らば徳川慶喜殿の事に於ては。吉之助屹と引受取計ふ可し。先生必ず心痛する事なかれと誓約せりし」という談判成果を得ることができたのである。鉄舟の「個」力量が江戸無血開城を成り立たせたのである。

同様に、円朝を研究していると、鉄舟と同じく「個」を磨くことで大師匠に位置付けられたと感じる。それは「円朝は落語家であって、落語家でない」と判じられるからである。

勿論、広く世に知られている円朝は、桂歌丸師匠が尊敬する落語界の先達、それも類まれなる名人としての評価である。

だが、これは円朝の一面に過ぎない。円朝のすごさは落語以外にも一流人であったことである。『新版三遊亭円朝』永井啓夫著が次のように述べている。

≪円朝の書は、京都の書家松本研斎の風を学んだものだという。研斎は唐の書家薫其昌の筆意を学び、独自の風を作った人で、天保3年、65歳で没している。
円朝の筆跡について、藤原富太郎は松花堂風の影響が多いとされているが、古くは綾岡輝松、市川門之助らに学んだ筆意に、更に独習を重ねて独自の風としたものであろう。その自由で風雅な筆致については定評があり、多くの書も残されていたらしいが、震災、戦災によって失われ、今日に伝えられている数は少ない≫

以下が、円朝自筆である。(『新版三遊亭円朝』)

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 また、俳句は狐山堂卓郎について学んだという。
≪円朝の俳句は、紀行日記、書簡などに書き留められものが多い。これは円朝が、その時、その時の感想を17文字に託して、ひとり言のように句作を楽しんでいたことのあらわれであろう。
 例えば、「加茂川にすべり落るな涼み台」は、愛弟子円喬が京へ行ったとき与えた書簡に書き添えたもので、弟子を思う心情が一句の中にこめられている≫(『新版三遊亭円朝』)

  茶道につても、表千家に学び、器物の鑑識にも造詣が深かった。
 明治21年(1888)11月、新宿北裏町48番地の家を買って移り住んだ時は、円通堂という茶室を造った。住居の別棟に廊下続きに行けるように建てられた離れで、茅葺で2畳と3畳の二間。庭の方からは玉石を敷いた細い道を通って行けるようになっていて、植込みの間に「是より円朝道」と彫った石塚が立ててあった。

 藤原氏の記憶によると、正面は茅葺の切妻で欄間には小窓があって、そこに「円通堂」と記した額が掲げてある。入口は一間で取付きの2畳には、右手に仏壇があって観音像が置いてあり、奥の3畳には机があってそこで作をしていたということである。

 この建物は転々して、今は小泉策太郎氏の屋敷、南部坂の柯䕃精舎の庭園一隅に、図ヘトの線から切放されて全然独立した建物として保存されている。(参照『円朝遺聞』鈴木古鶴)
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  この円通堂、今はどこに位置しているか。それはドイツ大使公邸の庭にある。その解説を『東京人』2007年6月号の「誌上公開ドイツ大使公邸」で鈴木博之氏が次のように記している。

 ≪大使館になる前、この屋敷は戦前の政友会の政治家、小泉策太郎(三甲と号した)の住むところであったという。小泉策太郎は伊豆子浦出身の政治家で、若い頃村上浪六に師事した文士でもあり、大逆事件で刑死する幸徳秋水と親交があり、鎌倉の屋敷の近くに菊池寛らの文士を集め、鎌倉文士村の創成にも影響を与えたといわれる人物である。庭園に残る武家門をはじめとする建物や石造物は、彼が収集してこの庭に持ち込んだものだという≫
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このように述べ、「庭園の南にある茶室(禅室)は、明治の落語家である三遊亭円朝ゆかりのもの」であると写真を掲載している。
 
 円朝は、このほか造園にも有識であるように、多分野で専門家としの域に到達しており、これらを考えるとやはり単なる落語家ではない。自らの「個」を磨き続けることで、大師匠と称される境地に達したからこそ、世の真理を理解し得、そこから各分野に造詣をもちえたと思う。
鉄舟の「剣・禅・書」三位一体と相通じるところがある。
次号でも円朝の実像を分析していきたい。

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