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2018年3月

2018年3月29日 (木)

2018年4月例会は、明治神宮「正式参拝」

2018年4月例会は、明治神宮「正式参拝」と「明治天皇と山岡鉄舟」の講演です。ご参加者は「平服」にてお願いいたします。
まだ、ご参加申し込みをされていない方は、このメールでの返信でご連絡お願いいたします。

日程    2018年4月8日(日)
集  合  10:30 <神楽殿>
正式参拝  10:45 <本 殿>
昇殿参拝  11:00 <神楽殿>
講  演  11:40~12:20 <文化館>
      「明治天皇と山岡鉄舟」            
明治神宮国際神道文化研究所
主任研究員 打越孝明氏
直会(昼食)12:20~13:50 <文化館>
参加費   3500円(初穂料、昼食代)

*講演者の打越氏は、現在、明治天皇の研究者として最も名高い方ですので、ご期待いただきたいと思います。

2018年5月16日(水)例会は、喜多村園子氏のご出版『小林二郎伝』についてご発表いただきます。
 小林二郎は鉄舟門下で、江戸での活躍後、新潟に戻り印刷業を開業、『良寛歌集全』や『良寛詩集全』を約四十年にわたり出版、泥舟、村山半牧、青山延壽、南摩綱紀などとの交流を通して、新潟の文人として名を馳せました。だが、没後、その活動を伝え遺す文献がない中、喜多村氏が長年渡り研究され、出版にこぎつかれた労作です。

2018年3月例会開催結果

2018年3月例会は3月22日(木)、水野靖夫氏の新著『勝海舟の罠』についてご発表いただきました。

Img_20180327_0001

毎日新聞3月26日で大きく広告が掲載され、今後、各紙でも広告されます。

326


まだご購入されていない方は、ご一読をお勧めいたします。

鉄舟が影響を与えた円朝 その六

 ベルダ読者から山岡鉄舟研究会に投稿があった。
≪本日(2017年1月25日)、テレビで桂歌丸さんのことを見ました。動けない体で弟子達が高座へ運び、正座しているような姿となる隠し椅子に座らせ、酸素吸入器を外してから幕が開いて歌丸の落語が始まります。 
そこまでして高座に上がるのは何故と質問され、歌丸は「落語の演目は3千以上あります。私の枕元には常に円朝の落語集があり、勉強できるよう努めています。それは、後世に何とかしてこの演目を伝えたい。更には円朝のような落語が出来ないかと思っています」 と答えていました。歌丸の話から伝わってきたのは、いかに円朝が凄いか、落語家の目標が円朝にあるということでした。 
鉄舟は禅の達人ですから、鉄舟が円朝に教えたのは、落語は口でやってはダメで、聴衆の心へ、お前の心で伝えよということだったのではないかと思っています。それをヒントに落語を至高の芸術の極致に高めたのは円朝の努力と才能だろうと考えています。
鉄舟に落語のことがわかる筈は有りません。円朝の人格、人生を大きく変えた何きっかけとなる大衝撃を、鉄舟が与えたということかと思っています≫

桂歌丸師匠は『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜(おおぎ)利(り)メンバーとして活躍し、2006年(平成18年)5月21日から2016年(平成28年)5月22日まで同番組の5代目司会者を務め、今の司会者である春風亭昇太に譲った。名実共に落語界のリーダーである歌丸師匠の、今でも円朝を目標に努力しているという発言は、円朝が明治33年(1900)没後117年経ても、落語の世界に大きな影響を及ぼしていることの証左である。

円朝の偉大さを改めて桂歌丸師匠から教えられた思いである。
本連載は、円朝が大師匠と称されるまでの歩みを通じ、そこに鉄舟がどのように関与したのか、それを確認し解明をするのを目的としているが、まだその目途まで至らず研究途上で、これからもしばらく検討を続けていきたい。
さて、改めて落語ブームを見てみると、そのすそ野はますます広がっている。「500円握って落語へ行こう」(日経新聞2017年2月3日)が次のように伝える。

≪ワンコイン500円で鑑賞できる落語会が人気だ。1月中旬、東京都千代田区にある演芸場、神田連雀亭の「ワンコイン寄席」には平日昼にもかかわらず、20人ほどの客が集まっていた。「寒いのによくいらっしゃいました。食費を入場料に回してまで…」。落語家の桂夏丸さんが軽口をたたくと、客席がどっと沸いた。
この日出演したのは夏丸さんのほか、桂竹千代さん、林家つる子さんの計3人で、上演時間は合わせて1時間ほど。3人とも「二ツ目」と呼ぶ、「真打ち」になる前の身分にある若手落語家だ。
会場は38席と小さく、演者との距離はほんの数メートル。「ホールと違って演技を間近で楽しむことができ、とても新鮮」と来場女性が話す。 
神田連雀亭は2014年10月、神田須田町にある雑居ビルの2階で開業した。ビルのオーナーが街おこしのため何かできないかとベテラン落語家の古今亭志ん輔さんに相談したところ、空きフロアを改装して二ツ目専用の寄席を作ることになった。「二ツ目はとにかく出演機会が少ない。連雀亭は芸を磨く貴重な場になるうえ、収入面でもありがたい」と夏丸さんは話す。
500円で鑑賞できる落語会は各地で開催されている。人気の火付け役といわれるのが、東京都新宿区の新宿末広亭で開かれる「深夜寄席」だ。
毎週土曜日の午後9時前。新宿三丁目の飲食店街に数十メートルの列ができる。お目当ては9時半開演の落語会。二ツ目が4人出演し、上演時間は合わせて1時間半ほど。200ほどある座席が全て埋まり、立ち見が出ることも珍しくない。
東京都台東区上野にある鈴本演芸場でも毎週日曜日の午前10時から「早朝寄席」が開かれている。深夜寄席と同様に二ツ目が4人出演する。こちらは座席数が285と広めだ。
関西では大阪府和泉市の文化施設、和泉シティプラザが毎月第3土曜日に「和泉ワンコイン寄席」を開いている。
地方都市にもワンコイン寄席はある。富山市中心部の商店街にある演芸場、てるてる亭では、富山で活動する芸能人らの有志の会「三楽会」が5年ほど前から寄席を開いている≫

2月のはじめ、地元の公共図書館に行くと、「気になる三人かい・・・柳家喬太郎・桃月庵白酒・春風亭一之輔」4月公演ポスターが貼ってあった。公演は4月。すぐにチケット予約したのだが、公演2か月前なのに、1200席もの大ホールで残りは3席のみ。この3人はいずれも人気若手真打で特別なのかもかも知れないが、落語ブームの一貫であることは間違いなさそうだ。

そう思っているところに、今度は親しい不動産会社から「落語で学ぶ相続とアパート経営」というセミナー案内が届いた。これも落語ブームにのろうという企画なのだろう。

話は変わるが、トランプ大統領旋風が吹き荒れている。トランプの得意はディールDeal、取引でTPPを止めて二国間交渉で物事をすすめようとする主張だが、取引を広辞苑で繙くと

「商人と商人、または商人と顧客との間の売買行為。営利のためになす経済行為。相互の利益になるような交換条件で事を処理すること」とある。

鉄舟が西郷との駿府会談で成し遂げた「江戸無血開城」、これは明らかに取引ではないが、本連載ではこれを会見と説明していた。
その理由は、JR静岡駅北口から歩いて5分、伝馬町の通りにある一つの石碑からである。向かって右側に山岡鉄舟、左側に西郷隆盛の顔が銅版ではめ込まれ、両者の顔銅版の下方に「ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります」と刻字されているからであった。
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しかし、先般、改めて鉄舟が明治15年3月に書き示した、慶応4年3月9日の駿府での西郷との記録を確認すると「慶應戊辰三月駿府大總督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」となっており、「会見」ではなく「談判」と自筆している。

「会見」とは「一定の場所で対面すること」(広辞苑)とあり、「談判」とは「ある事件の始末、または取決めについて、立場の異なる相手と意見をたたかわすこと」(広辞苑)とあるので、「談判」と表現する方が妥当であり、修正したい。

この筆記で最も重要な談判は「慶喜の命を守り江戸総攻撃を取り止めさせる」という主目的に対し、西郷からは以下の五箇条の条件が出されたことへの反論である。
1. 城を明け渡すこと
2. 城中の人数を向島へ移すこと
3. 兵器を渡すこと
4. 軍艦を渡すこと
5. 徳川慶喜を備前に預けること

鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れず、以下のように強く鋭く反駁した。

≪余(鉄舟)曰く主人慶喜を独り備前へ預る事。決して相成らざる事なり。如何となれば。此場に至り徳川恩顧の家士。決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き。空く数万の生命を絶つ。是、王師のなす所にあらず。果して然らば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰く。朝命なり。
余曰く、たとひ朝命なりと雖も。拙者に於て承伏せざるなりと断言す。
西郷氏又強いて朝命なりと云う。
余曰く。然らば先生と余と其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公。若し誤りて朝敵の汚名を受け。官軍征討の日に当り。其君恭順謹慎の時に及んで。先生余が任に居り。主家の為尽力するに。主人慶喜の如き御処置の朝命あらば。先生其命を奉戴し。速に其君を差出し。安閑として傍観する事。君臣の情。先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鉄太郎決して忍ぶ事能はざる所なりと激論せり。
西郷氏黙然暫ありて曰く。先生の説最然り。然らば徳川慶喜殿の事に於ては。吉之助屹と引受取計ふ可し。先生必ず心痛する事なかれと誓約せり≫

 この談判における鉄舟の決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士として強固で真摯な抵抗精神であって、後年「真の武士道体現者」と謳われた鉄舟ならではの働きで、ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

 つまり、西郷との一対一の談判、それは組織力とかマスコミのバックアップとかを期待したものでなく、鉄舟個人の力量により西郷の見解を変えさせた。鉄舟の「個」としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

 この「個」による働きという状況について、山岡鉄舟研究会の水野靖夫氏が「ピンチヒッター」というたとえ話を述べられているので紹介したい。同氏は、ベルダ2016年6月~9月号でアーネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』を取り上げ、その引用について重大な過失があると問題提起した方である。

≪現実にはあり得ないが、分かりやすい例を挙げてみよう。野球の日本シリーズ、3勝3敗で迎えた最終戦の第7戦。味方は3対0で負けており、すでに9回裏となり満塁としたが、2アウトという絶体絶命のピンチ。監督は代打を出し尽してしまっており、もう頼れる選手が残っていない。
すると球団オーナーが、側近のアドバイスで監督と相談もせずに、いきなり今日2軍から引き上げベンチに入れた無名選手を代打に指名した。監督はこの選手を全く知らなかったが、オーナーの命令なのでやむなく代打に送り出した。
ところがこの選手がホームランを打ったのである。代打逆転サヨナラ満塁ホームランである。そしてそのチームは優勝した。
さて殊勲者は誰であろう。もちろんこの代打の選手である。もしくはこの選手を指名したオーナーである。少なくとも監督ではない。オーナーの名は徳川、代打選手は山岡、監督は勝であった。付け加えればオーナー側近は高橋≫

鉄舟の働きを簡潔に、分かりやすく述べている。剛腕投手・西郷が繰り出す荒れ球の球筋を、剣・禅で鍛えぬいた鉄舟が咄嗟に球筋を見極め、情理を尽くし説得、方針を転換させたのである。

ところが、世に風評として誤って伝えられているのは「鉄舟は海舟の使者として駿府に赴いた」というものだ。しかし、鉄舟は前述の談判筆記で明記しているように、高橋泥舟の推挙で、上野寛永寺大慈院一室で徳川慶喜から直接指示されている。その指示を受けた後、時の幕閣首相格であった軍事総裁の海舟を訪ねたというのが事実であるから、「海舟の使者」という解釈は成り立たない。全くの間違いである。

もっとひどいのは隅田区観光協会が発行している『両国エリアマップ』なるものである。マップで表示されている「21山岡鉄舟旧居跡」の位置が、亀沢4丁目の墨田区立堅川中学校の前として示されているが、こんな所に鉄舟は居を構えたことはない。明らかに誤記である。さらにひどいのは解説内容で≪師の勝海舟と並び「幕末三舟」と呼ばれる≫と、いつの間にか海舟が鉄舟の師匠になっている。どこにこの解説の根拠となる史料があるのか、唖然とするばかりで、全く鉄舟を知らない学芸員が書いたものか。隅田区観光協会の名が廃るのではないかと思えるほどで、近いうちにお訪ねし誤りについてお伝えするつもりである。

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 さて、鉄舟と円朝、二人に共通するものは何であろうか。それは人間「個」としての力を磨いたということではないだろうか。
 鉄舟は、大悟を求める道筋について、武士道をたとえとして、次のように述べている。(『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編)

 ≪その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻(こう)徳(とく)を報謝することに躊躇(ちゅうちょ)しないであろう。これすなわち武士道の発現地である≫

即ち、厳しい修行という道を定め、道に迷わず、道を外さず、道を極めることで、自らの「個」を磨き、「大悟」すれば、世の真理を理解し「境地」に達するというのである。

だからこそ、西郷との駿府会談でも「西郷氏黙然暫ありて曰く。先生の説最然り。然らば徳川慶喜殿の事に於ては。吉之助屹と引受取計ふ可し。先生必ず心痛する事なかれと誓約せりし」という談判成果を得ることができたのである。鉄舟の「個」力量が江戸無血開城を成り立たせたのである。

同様に、円朝を研究していると、鉄舟と同じく「個」を磨くことで大師匠に位置付けられたと感じる。それは「円朝は落語家であって、落語家でない」と判じられるからである。

勿論、広く世に知られている円朝は、桂歌丸師匠が尊敬する落語界の先達、それも類まれなる名人としての評価である。

だが、これは円朝の一面に過ぎない。円朝のすごさは落語以外にも一流人であったことである。『新版三遊亭円朝』永井啓夫著が次のように述べている。

≪円朝の書は、京都の書家松本研斎の風を学んだものだという。研斎は唐の書家薫其昌の筆意を学び、独自の風を作った人で、天保3年、65歳で没している。
円朝の筆跡について、藤原富太郎は松花堂風の影響が多いとされているが、古くは綾岡輝松、市川門之助らに学んだ筆意に、更に独習を重ねて独自の風としたものであろう。その自由で風雅な筆致については定評があり、多くの書も残されていたらしいが、震災、戦災によって失われ、今日に伝えられている数は少ない≫

以下が、円朝自筆である。(『新版三遊亭円朝』)

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 また、俳句は狐山堂卓郎について学んだという。
≪円朝の俳句は、紀行日記、書簡などに書き留められものが多い。これは円朝が、その時、その時の感想を17文字に託して、ひとり言のように句作を楽しんでいたことのあらわれであろう。
 例えば、「加茂川にすべり落るな涼み台」は、愛弟子円喬が京へ行ったとき与えた書簡に書き添えたもので、弟子を思う心情が一句の中にこめられている≫(『新版三遊亭円朝』)

  茶道につても、表千家に学び、器物の鑑識にも造詣が深かった。
 明治21年(1888)11月、新宿北裏町48番地の家を買って移り住んだ時は、円通堂という茶室を造った。住居の別棟に廊下続きに行けるように建てられた離れで、茅葺で2畳と3畳の二間。庭の方からは玉石を敷いた細い道を通って行けるようになっていて、植込みの間に「是より円朝道」と彫った石塚が立ててあった。

 藤原氏の記憶によると、正面は茅葺の切妻で欄間には小窓があって、そこに「円通堂」と記した額が掲げてある。入口は一間で取付きの2畳には、右手に仏壇があって観音像が置いてあり、奥の3畳には机があってそこで作をしていたということである。

 この建物は転々して、今は小泉策太郎氏の屋敷、南部坂の柯䕃精舎の庭園一隅に、図ヘトの線から切放されて全然独立した建物として保存されている。(参照『円朝遺聞』鈴木古鶴)
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  この円通堂、今はどこに位置しているか。それはドイツ大使公邸の庭にある。その解説を『東京人』2007年6月号の「誌上公開ドイツ大使公邸」で鈴木博之氏が次のように記している。

 ≪大使館になる前、この屋敷は戦前の政友会の政治家、小泉策太郎(三甲と号した)の住むところであったという。小泉策太郎は伊豆子浦出身の政治家で、若い頃村上浪六に師事した文士でもあり、大逆事件で刑死する幸徳秋水と親交があり、鎌倉の屋敷の近くに菊池寛らの文士を集め、鎌倉文士村の創成にも影響を与えたといわれる人物である。庭園に残る武家門をはじめとする建物や石造物は、彼が収集してこの庭に持ち込んだものだという≫
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このように述べ、「庭園の南にある茶室(禅室)は、明治の落語家である三遊亭円朝ゆかりのもの」であると写真を掲載している。
 
 円朝は、このほか造園にも有識であるように、多分野で専門家としの域に到達しており、これらを考えるとやはり単なる落語家ではない。自らの「個」を磨き続けることで、大師匠と称される境地に達したからこそ、世の真理を理解し得、そこから各分野に造詣をもちえたと思う。
鉄舟の「剣・禅・書」三位一体と相通じるところがある。
次号でも円朝の実像を分析していきたい。

2018年3月 1日 (木)

2018年3月例会案内

20183月例会は322()、水野靖夫氏の新著『勝海舟の罠』の

出版についてご発表いただきます。321()は祭日のため22()に変更です。

 

   日程    2018322()   

時間    1830分~20

   会費    1500

   会場    東京文化会館・中会議室1

 

20184月例会は、明治神宮「正式参拝」と「明治天皇と山岡鉄舟」の講演です。

日程    201848()

集  合  1030 <神楽殿>

正式参拝  1045 <本 殿>

昇殿参拝  1100 <神楽殿>

講  演  11401220 <文化館>

      「明治天皇と山岡鉄舟」 

明治神宮国際神道文化研究所

主任研究員 打越孝明氏

直会(昼食)12201350 <文化館>

参加費   3500(初穂料、昼食代)

*講演者の打越氏は、現在、明治天皇の研究者として最も名高い方ですので、ご期待いただきたいと思います。

2018年2月例会開催結果

20182月例会は、末松正二氏から「鉄舟禅のエピソード」についてご発表いただきました。

  末松氏からお話しいただいた内容、普段、禅とは無縁な社会に身を置いているので、難しいという感想を述べられた方が、しかし、このような勉強ができたことはとても有意義で、感謝申し上げますとも発言されました。

これがご参加された大方の見解であったと推察いたします。

そこで、末松氏にご依頼し、ご発表の要旨をHPに掲載いたしましたので、鉄舟禅について「知りたい」「調べたい」などの際は、これを一読されますようお勧めいたします。

http://bushido-kyoffice.cocolog-nifty.com/blog/

禅の発祥から日本へたどり着いた経緯と、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三派についてと、全生庵の成り立ち、剣道界への影響などが述べられております。

このような素晴らしい「まとめ」、大変なご苦労をおかけいたしました。

末松氏のご配慮とご協力に感謝し、御礼申し上げます。

鉄舟が影響を与えた円朝 その五

東京国立近代美術館のMOMATコレクションで、鏑木清方(1878~1972)が描いた「三遊亭円朝像」の実物をはじめて見た。

この絵は鏑木清方が昭和5年、第11回帝展に「三遊亭円朝」と題し出品したもので、平成15年に重要文化財に指定されている。
清方は明治11年生まれ、昭和47年没であるから、明治、大正、昭和と三世代を生き、上村松園、伊東深水と並び称せられる近代日本の美人画家である。
美人画で著名な清方が、円朝像という壮年男性肖像画を描いたのはなぜか。

背景には、清方の父親である条野採菊が関係している。条野採菊が明治19年に「やまと新聞」を創刊し、その創刊号から円朝が自作「松操美人生理」を連載したことからはじまる。

その経緯を岡鬼太郎が次のように述べている。(参照 『三遊亭円朝』永井啓夫著)
《日刊やまと新聞発行の初、円朝の続き話は、速記となって、珍しくも日毎日毎の紙上に載せられた。挿絵は年方氏であったと思ふ。木版彫刻は銀座の山本であったか。何しろ紙面の縦半分ほども段を抜いた大挿絵が、惜気もなく、円朝の話と一緒に出るのである。速記物連載の評判、円朝の評判、挿絵の評判、やまと新聞が軟か向に売れた事は、実に目覚ましい物であった。
やまとの主幹は、作家としての山々亭有人、後の条野採菊翁であった。採菊翁は円朝の贔屓客でもあり、友人でもあり、而して其の採菊翁は、日日新聞に在社時代から、福地桜痴氏とは友人である。円朝は福地先生から西洋種を与えられた。芸人として、好い御贔屓を有ったものである。(円朝雑観)》

やまと新聞は明治19年(1886)創刊、その号から連載された「松操美人生理」は福地桜痴から聞いた外国種の翻案で高評を得て、続いて「蝦夷錦古郷家土産」を連載したように、やまと新聞は「円朝物」の連載によって売れたといわれている。

だが、円朝もやまと新聞によって、この後、多くの作を発表することができ、芸人というよりむしろ作家に近づいたともいえる。
後に条野採菊の息子である清方は、当時の思い出を次のように語っている。
《速記は以前私が木挽町ら居りました頃、私の宅でやったり、尾張町にもと鶴仙と云ふ寄席があって、其の向うに寿鶴といふ鳥屋があってそこでもよくやりました。挿絵をかく芳年さんが大きな眼鏡の下からボロボロ涙をこぼしながら師匠の話を聴いてゐた姿が眼に残ってゐます。(円朝遺聞)》

明治28年(1895)、円朝は18歳の健一(条野の息子・清方)を連れて野州方面の旅に出ている。健一は軽い脚気を患っていたが、旅に出れば癒るという円朝のすすめに従ったのである。この旅行は健一のはじめての旅でもあり、また一世の名人と称される人の随行でもあったので印象深く胸に刻まれ、「初旅」(『清方随筆選集』昭和19年)と、「円朝と野州を旅した話」(雑誌『寄席風流』第五号 昭和30年)で、足利、栃木、佐野、田沼を歩き、田沼の宿・柳屋で泊った際の思い出を述べている。

《田沼では柳屋といふ宿に泊った。昔は柳橋に居たといふ、小鬢の禿げ上がった内芸者が、客を円朝とも知らないらしく、東京の人ときく懐しさに、あれはこれはと東京の噂をききたがる。ここは潯陽江(注 現在の江西省九江市の北を流れる川)ではないけれども、時は楓葉荻花(ふようてきか)(注 楓の葉や荻の花が色づき秋風が吹いてものさびしい)の秋、どこか芭蕉の越後の宿にも似て、世の中を知りつくして、禅僧のやうに枯淡の境に入った名人と、漂泊の旅芸者との応対はちょっと戯曲にもなりさうだが、少年のセンチメンタルと違って師匠は一向興味もなかったらしく、刺身や塩焼のお膳を眺めて、「姐さん、あなたの今夜のお菜は何です、いいえ、ほんたうにさ、・・・・え、親芋の煮つけ、そりあ結構、それとこれを取り換へっこをしようぢゃあありませんか、いや、ほんとうに、冗談ぢゃない、健ちゃん、あなたもどうです、かういふところはお芋の煮たものに限りますぜ、さあさあ」とうとう芋の煮つけを徴発して了った。白楽天、御茶人だけに意地が汚い。》(昭和7年8月)

この時、円朝は57歳。清方が旅先で身近に円朝と接した体験から、後年、円朝50歳代をイメージし高座姿で描いた「三遊亭円朝像」、東京国立近代美術館4階ハイライトコーナーに展示され、そこで次のように解説されている。
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《鏑木清方による肖像画の第一作。モデルは明治時代の大噺家、三遊亭円朝(1839-1900)です。芸の大きな名人は実際よりも大きく感じられるといいますが、この作品の円朝が大きいと指摘されるのもやはり、清方の記憶のなかにある高座姿を描いているからなのでしょう。一方、調度や着物は、実物にあたって細かく再現的に描かれます。記憶に刻まれたよく知る人物の姿を、現実感のある道具立てとともに描く。清方はこの手法によって「文字に依らない伝記」としの肖像画に新しい領域を開きました》

確かに痩身の円朝が大きく見え、威厳がある。日経新聞(2016年12月18日)の「美と美・落語の楽しみ 上」で、中沢義則記者は「三遊亭円朝像」を取り上げ、次のように感想を述べている。
《格子縞の座布団にきちんと座り、その前に扇子が丁寧に置かれている。几帳面な人なのだろう。だが、やはり芸に生きた人だ。襟元はやや開いていて、猫背気味の白い首筋が露わになっている。両手で包み込むようにして持つ湯飲み茶碗から白い両腕も大きく露出して粋な雰囲気を醸し出す。それなのに、姿や顔貌に緩みはまったく感じない》

この所感、さすが記者らしいと思う。全体を網羅的に適切に表現していて同感ではあるが、筆者は眼差しが気になった。像の写真では明確にわからないが、目つきが上向きなのである。高座姿なのであるから、落語一席を語る場面を描いたのであろうが、視線が観客に向いていない。講演などでもそうだが、語り手は聞く側の反応を見て対応していくもの。だから、常に観客・観衆を意識しているから、会場内を見まわして手ごたえを探ることになる。
その点、円朝の眼差しは会場内を意識していないように見え、ここが清方の最も強調したかったのではないか推察する。

つまり、円朝は観客・観衆の反応などは測る必要がないのではないか。熟達した名人の境地に至っている円朝、自らの語りに入り込み、そこから引き出してくる言葉の数々、それを信じて噺を続ける。そのためには目線を会場内遠く全体に見据えるところに置く。そこを円朝と旅したほど親しかった清方がしっかりと見抜いていたのであろう。

いずれにしても、清方が50歳代の円熟した「三遊亭円朝像」を描き、その筆致が伝える強烈な印象は、近代肖像画の代表作として高く評価され、昭和5年(1930)作であるから、まだ100年経過していないのに重要文化財として指定されている名画である。

日経新聞・中沢義則記者は「美と美・落語の楽しみ 上」記事の最後に「落語家の始祖」に触れている。
《「落語家の始祖」と称されるのは安楽庵策伝という人で、美濃に生れた僧侶だ。茶人、文人でもある教養人という。「醒睡笑(せいすいしょう)」と名付けた笑話集を編んだことから始祖の名が付いた。京都の警護などを司る京都所司代に話を聴かせたという。
 「醒睡笑」は元和9年(1623)に完成したとされる(1628年の説もある)。世間に流布する1039編の「笑える話」や「面白い話」を集めた大著で、「子ほめ」など落語の前座噺の原型のような話も収録されているという。
 策伝の肖像画が本人が第55世法主をつとめ、菩提寺でもある京都の浄土宗、誓願寺にある。策伝を顕彰するため、1967年に始まった策伝忌に合わせて描かれた。原画は江戸初期の学僧で書画家の松花堂昭乗作「安楽庵策伝像」。袈裟をまとい、引き締まった理知的な風貌で優しそうだけれど、おかしみのようなものは伝わってこない。
 落語は江戸時代中期から江戸と上方を中心に隆盛を迎え、庶民の芸能として発展していく》

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 この記事、突然、円朝から落語家の始祖である安楽庵策伝へつなげているが、果たして、策伝から円朝までつながる系譜はどうなっているのであろうか。

円朝の実態を探るためにも、改めて安楽庵策伝について見ていきたい。(参照 『安楽庵策伝』関山和夫著)
 安楽庵策伝は、後奈良天皇の天文23年(1554)生まれ、明正天皇の寛永19年(1642)89歳の生涯。
策伝の前半生は安土桃山時代、信長が足利氏を滅ぼし安土城に移った天正4年(1576)は策伝23歳、29歳時には本能寺の変、その8年後の37歳の時に秀吉が天下を統一し、関白となって大阪を中心として君臨している。
策伝の後半生は、慶長3年(1598)秀吉逝き、翌々年の慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで家康が天下を掌握、慶長8年(1603)江戸幕府開設した江戸時代に生きた。
このように策伝は、前後半生共に戦乱動乱時代に生涯を過ごしたが、これが策伝の生き方に大きく影響したはずである。
策伝は、飛騨高山城主金森長近の弟として出生、7歳の時に美濃浄音寺で出家、11歳に上洛、その後各地の寺にて修行、43歳に美濃浄音寺25世となり、60歳で京都大本山誓願寺法主(55世)となる。62歳から「醒睡笑」起筆し、70歳の元和9年に完成させ、誓願寺塔頭竹林院をつくり隠居、境内の茶室・安楽庵に入り、以後、自らを安楽庵と号した。

寛永19年に没するまでの19年間、竹林院を訪れる風流人は絶えなかった。松花堂昭乗、小堀遠州、烏丸大納言光弘、木下長嘯子、松永貞徳、金地院崇伝、近衛信尋等々当代各界一流文化人との交流が続いた。
策伝は不世出の咄上手であった。以下、それを表する文献を紹介する。

●安楽庵策伝は、おとしばなしの上手なり。元和9年70の年醒睡笑といふ笑話本8冊をつくる。万治元年上木(じょうぼく)(注 版木に彫ること)せり。この人茶道に於て名高しといへども、おとしばなしの上手なる事を知る人まれなり。世に称する所の安楽庵の裂は此人より出ぬ。(山東京伝『近世奇跡考』巻之二)

●安楽庵策伝は稀世の咄上手にて板倉候(注 京都所司代板倉重宗)のために醒睡笑若干巻を著せり。(喜多村信節『嬉遊笑覧』巻之九の中「言語」)

●安楽庵策伝、曽呂利新左衛門と同席の折は、新左衛門狂歌を詠て出すに夫に笑話を述べて興じたり。いはゞ狂歌を題にして落し咄を即席に案じて述べし也、又、曽呂利がをかしき物語は多く策伝の事にして、今に板木にて世に行はれし曽呂利狂歌咄は策伝の作なり。(『瀬貞筆記』)
このように何れも策伝が卓越した機智頓才の持ち主であったことを伝えている。

ところで、日本では古くから咄は発達していて、太古時代には口から口へと語り伝えられる語部がずっと続き、中古には咄職に類したものが別に存在したかもしれない。
『古事記』にも既に語源解説的な洒落が見られ、続いて『竹取物語』『伊勢物語』が笑話的要素を持ったものが古く、以後、歌物語――諺物語――狂歌咄――落し咄とつながり、この「落し咄」がはじめてできたのが策伝の「醒睡笑」である。

ところで、室町時代には同朋(どうぼう)(注 足利将軍に近侍し取次・お伽などの役に当たった者・広辞苑)がいて、戦国時代には「御咄の衆」「御伽衆」と呼ばれる人々がいた。
「御伽」とか「御咄」とは、主君に対する敬称で、「伽」とは「人が加わる」こと、人が大勢集まるを意味する。人が集まれば「咄」が出る。「伽」をするのは多く庚申侍とか武士ならば夜警等であり、「伽」を遂行するには「咄」を必要とし、これが「御咄の衆」とか「御伽衆」を発生させた。

桃山時代以降は、「御咄の衆」は咄上手で古老又は教養、地位等実力ある人物を言い、単に咄上手で芸人である人物を「御伽衆」と呼んで区別した。
戦国時代の「御伽衆」は、神官、僧侶、検校、宗匠等が大部分占め、咄そのものはさしたる巧者もいなかったと推定される。

しかし、桃山時代に入ると秀吉の趣味と相俟って俄然茶人が「御咄の衆」として著しく台頭してきた。
また、この時代の仏教のあり方も注目する必要がある。動乱の時世、布教は難解な教義より、娯楽的な要素を持つ絵解風教学が採られ、これがまた話術の訓練を促した。

この事象下、策伝が持つ深い仏教理解を背景に、洗練された弁舌の冴えによる滑稽諧謔談、加えて、風刺、教訓、啓蒙的要素も入れ、そこに咄の落ちを重要視する語り、これが秀吉や板倉重宗に招かれる「御咄の衆」となり、そこで語られたものが「醒睡笑」に収められていき、「落語家の始祖」名が付いたのである。

このように安楽庵策伝という不世出の話術者が出現することで、日本芸能史に新たに「落語」というジャンルが生れ、「醒睡笑」の完成をみた元和9年を落語の成立年といわれている。

策伝は、大本山誓願寺法主大僧正日快策伝上人という高い地位を得ていた。だが、策伝はその位から想定される「学徳兼備の高僧」ではなかった。あくまでも人間味豊かな大人物であり、時代の現実・実態を見つめつつ、そこに笑いの落ちを付け加え、人々を惹きつけていったことが、「醒睡笑」の果実となって、今日まで続いている落語を誕生させたのである。

なお、策伝が7歳で出家した美濃浄音寺、その後各寺で修行後、再び浄音寺にもどり43歳で25世に就いた経緯から、浄音寺のある岐阜市では、「岐阜市笑いと感動のまちづくり事業」の一環として「野球に甲子園があるように、落語に全国大会があっても良いじゃないか」という桂三枝(現・六代桂文枝)の提案により、2004年からNHK岐阜放送局との共催で、「全日本学生落語選手権・策伝大賞」を毎年開催している。

落語がこのように盛況となっている始まりは策伝からであるが、その後はどのような系譜で円朝までつながってきたのだろうか。

当然に円朝までには多くの歴史が横たわっているし、策伝により京都で発生した落語は元禄(1688~1704)頃、京の五郎兵衛、大阪の彦八の出現により職業化し、やがて大衆芸能「上方ばなし」として完成する。

五郎兵衛、彦八没後は適切な後継者なく、ひとまず落語は文芸としての咄本に座を譲っていたが、寛政(1789~1801)頃になって桂文治が出て、上方落語中興の祖となった。
桂文治は上方ではじめて寄席を開き、上方で新しく「芝居咄」というジャンルを創始、創作力にも優れ「昆布巻芝居」等多くの傑作を残した。

一方、江戸では元禄の頃、鹿野部左衛門が「座敷しかた咄」を演じて活躍、天明(1781~1789)年間に烏亭焉馬(うていえんば)が出て江戸落語中興の祖となるが、もう一人桜川慈悲成(さくらがわじひなり)もいることを忘れてはならない。

焉馬、慈悲成が中興の祖であるが、注目すべき落語家として三笑亭可楽がいる。可楽こそが寄席興行を確立した人物である。

安永・天明・寛政・享和(1772~1804)の頃には落語に三系列があった。
1. 料亭における咄の会
2. 座敷噺
3. 寄席興行
であって、焉馬は1に属し、慈悲成は2、可楽が3に属した。
この可楽の門人に十哲として、朝寝坊むらく、林屋正蔵、山遊亭(さんゆうてい)猿生(えんしょう)、三笑亭可上、うつしゑ都楽、翁家さん馬、猩々亭左楽、佐川東幸、石井宗叔、船遊亭扇橋の10人を掲げる。

この中で山遊亭猿生が三遊亭圓生と名を改め、弟子に二代目圓生がいて、この二代目に円
朝こと7歳小円太が弟子入りしたわけで、ここでようやく円朝とつながったのである。
明治22年、円朝は墨田区・木母寺境内に三遊派始祖初代圓生、2代目圓生の業績を追善記念する三遊塚を建立した。書は鉄舟。
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