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2018年2月

2018年2月22日 (木)

山岡鉄舟の禅について

山岡鉄舟の禅について 
                           山岡鉄舟研究会 末松正二
1、 はじめに

鉄舟の禅はどういうものであったか? 鉄舟の禅の深さはどうであったか? 鉄舟の禅界への貢献はどうか? このような問いかけにより鉄舟禅を眺めてみたい。

2、 禅とは

釈尊はブッダガヤの菩提樹の下で座禅し深い瞑想に入り、遂に悟りを得た。この釈尊の座禅を真似て瞑想し、悟りを得ようとするのが禅である。釈尊は悟りを得た時、「奇なるかな、寄なるかな、全ての物に仏性が宿っている」と言った。当然、人にも初めから仏性が備わっている。出生後に分別を覚え、自分と他を区別する差別感、こうしたものが邪魔をして、人の心の奥底にある仏性を覆い隠している。そこで座禅し、瞑想を深めることで、心の奥底にある仏性を見ることが最も重要とされる。

禅は座禅により、仏性を見る、これを見性という。見性を体験するには座禅により、無我、無心の境地に入らねばならない。修行が必要なのである。

この見性を体験させる為の禅修行、伝え方が禅宗の特徴となっている。即ち、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏である。禅は文字では伝えられない。

教科書も経文も使わない。人の心に直接ズバっと指し示す。そして自分の本性を見るのである。自分の本性に気づき無心の世界に入れば大いなる智恵が出る。

この智恵を般若という。禅とは見性体験をし、無我、無心になることで般若の智恵を得ることをいう。

禅も仏教であるので、仏教の基本的課題である四句誓願の第一番目、「衆生無辺誓願度」が必須である。自分だけが悟りの中で楽しむことは許されない。弟子の養成と庶民の苦しみの救済が必要である。

禅は釈尊から十大弟子の魔訶迦葉に伝えられた。(拈華微笑)それから菩提達磨に伝えられ、達磨はこの禅を中国に持ち込んだ。中国に伝えられた禅は六祖となった天才、慧能禅師が南方に逃げ、そこで広まった。

そして、特徴のある南宗禅となった。(五祖の弘忍が寺小僧の慧能を六祖に選ぶと共に、身の危険を案じて南方へ逃がしたことから、北宗禅と南宗禅とに二分した。)釈尊の禅を如来禅、中国で発展した禅を祖師禅という。

中国で発展した禅は、弟子への伝え方、禅の機鋒の差異から分派した。5家7宗と言われ、臨済宗(臨済)、潙仰宗(潙山)、雲門宗(雲門)、曹洞宗(洞山)、法眼宗(法眼)の5つと臨済宗が黄龍派と楊岐派とに分かれたことから5家7宗とされた。

それから多くの流派が生まれた。そして平安時代の末期から禅は日本へと流出した。日本へは24流の禅が導入されたが、うち3流が曹洞宗、21流が臨済宗で1流だけが黄龍派、20流が楊岐派であった。臨済禅を導入した栄西は黄龍派の禅であった為、中国から高僧が正当な禅と信じる楊岐派禅を伝えるため鎌倉に渡来したのである。結果、日本には3つの宗派が残った。臨済宗(楊岐派)、曹洞宗、黄檗宗である。

臨済宗は栄西(1141~1215)が1200年頃に中国より持ち込み、お茶も同時に導入した。曹洞宗は道元(1200~1253)が、黄檗宗は中国人の隠元劉埼(1592~1673)が持ち込み、本山をそれぞれ永平寺、萬福寺においた。

3、 臨済宗について

(1)応・燈・関
鉄舟の禅は臨済宗である。臨済宗は中国から既述のとおり、栄西が日本へ導入したが、その後中国から高僧が渡来し鎌倉に伝えた。建長寺開山蘭渓道隆(1213~1278)と円覚寺開山の無学祖元(1226~1286)である。

この2大禅師は鉄舟と関係が深い。鉄舟が戊辰の犠牲者を弔う為、寺の建立を計画、用地を探し求め、見つけた土地が蘭渓道隆が一時居住した全生庵の跡地であった。そこで鉄舟は寺を建設、名称を全生庵とした。

また、無学祖元は中国で元の兵士に首を斬られようとした際に唱えた「乾坤、弧筇を卓つるも地無し。喜び得たり、人空にして法もまた空なることを。珍重す、大元三尺の剣、電光影裏に春風を切る」の臨刃偈がある。鉄舟は悟後に無刀流の道場を開いたが、道場の名前を春風館と名づけた。

蘭渓道隆に学んだ南浦紹明(1235~1309)はその後、京都で禅を広めた。後宇多上皇に信仰され大応国師となった。大応国師の弟子が宗峰妙超(1282~1338)である。彼は悟後に五条大橋下で乞食と共に暮らし聖胎長養の修業を行った。花園上皇に探し出され大徳寺の開山となり大燈国師となる。禅風を大いに広めた。

妙超は臨終の際、花園上皇の願いに応えて、我が弟子に関山慧玄あり、美濃の山村で修行中であるが今後は彼に教えを乞うて欲しいと遺言した。そして迎えられたのが妙心寺開山の関山である。かれの禅の悟境はすこぶる高いものがあり、弟子になりたいと多くの雲水が参集、天龍寺管長の夢想礎石(1275~1351)は「禅は関山に奪われた」と嘆き、また来日した隠元隆埼は妙心寺に入ろうとして関山の語録がないかと尋ねた折、妙心寺側の回答は語録無し、唯一「柏樹子の話に賊機あり。どうじゃどうじゃ」という話ぐらいしか残っておりません。という回答を聞いて隠元は震え上がり、足早に妙心寺を後にしたというエピソードが残っている。

また、大燈、関山の死に臨んだ姿勢が有名である。大燈はリウマチの為、晩年は結跏趺坐が出来なかったが、両足をボキボキと折り、結跏趺坐して坐亡した。血の付いた座布団と袈裟が、現在も大切に保管されている。また、大燈が関山に与えた印記が国宝となっている。関山は臨終の際、弟子の授翁に引き継ぎを終え、修行の旅に出ると言って、風水泉の傍らにて亡くなった。立亡という。

この室町期の京都の臨済禅が圧倒的人気を誇り、応・燈・関の時代と言われる。 これ以降は、臨済禅は全て関山の門下により伝えられてゆく。

しかし、臨済禅も衰退を始め、妙心寺管長(137世)の愚堂東寔(1577~1661)の次の頌がある。「24流日本の禅、惜しいかな大半その伝を失う。関山、幸いに児孫の在るあり。続焔聯芳三百年」、日本の禅は全てその伝を失ってしまったが、関山は幸い愚堂がいて、伝を保持している。という意味である。

この愚堂東寔の弟子が至道無難(1603~1676)でその弟子が道鏡慧端(正受老人)(1642~1721)、そしてその弟子が白隠(1686~1769)であり、関山の禅はかろうじて相続されたのであった。

(2)白隠(1686~1769)
現在の臨済宗師家は全て白隠門下である。

臨済宗の中興の祖と言われる白隠は1700の公案を5段階に体系化し、公案禅(看話禅)を確立した。禅は悟りを得ることが極めて困難である。

しかし公案が体系化されたことで、禅の悟りを得る手段が確立、悟りを得る人数も増え、今後も臨済宗は維持されてゆくと期待される。

臨済禅でも盤珪永琢(1622~1693)や鈴木正三(1579~1655)のように公案にこだわらず悟りを開いた禅師はいるが、その禅は伝わってゆかない。(盤珪は不生禅、正三は仁王禅)、唯一、曹洞宗が道元からは変形しつつも伝わっている。

鉄舟は三島の龍択寺の星定禅師のもとに参禅し、東京から徒歩で通った。龍択寺は白隠が一番弟子の東領の為に購入した寺である。そして東領の法嗣が星定禅師であった。鉄舟の禅は、正に白隠の臨済禅であった。星定は鉄舟の見性を認めたが、鉄舟は納得しなかった。浅利又七郎の剣を未だ越えられなかったからである。

(3)白隠の悟入について
白隠は沼津近郊の原にて出生、子供の頃から地獄を恐怖しており、15歳で念願の出家を果たした。24歳の時、越後の英巌寺で大悟した。300年来自分ほど痛快に悟った者はいないであろうと自信満々であった。我が機鋒に当たりうる者はいるかと全国の高僧を渡り歩いたが白隠の悟りを認める高僧はいなかった。

白隠は自分にかなう高僧がいないことを嘆いていたが、同僚の雲水が我が師匠を越える禅僧はいないとの言を聞いて、長野県飯山の山村にいる正受老人を尋ねた。

面会し問答を始めるや、正受老人は「この穴倉坊主め」とののしって白隠を蹴倒した。白隠は訳が分からないまま正受老人の下で修行することとなった。そして南泉遷化の公案を与えられ探求、苦心した。ある時、托鉢に出かけた時、老婆からこの乞食坊主と竹帚でぶん殴られ気絶した。意識を回復した時、忽然として大悟した。喜びいさんで正受老人の元へ帰ると正受は微笑んで白隠の大悟を認めてくれた。

そして、臨済禅の無相心地戒をさずけ、更に洞山五位偏正の真訣を伝えてくれた。更に正受より、諸々の臨済宗の極秘事項を授かった。入門から8ケ月が過ぎていた。白隠は更に全国を回って修行したいと申し出、正受の元を去ることにした。正受は別れを惜しんで何処までもついてきて、白隠に一人でよいから法嗣を作れと懸命に諭してくれた。

白隠は全国の高僧を巡ったが、今度は誰もが悟りを認めてくれた。そこで故郷の原の松陰寺に戻り、弟子の養成を始めた。33歳であった。そして42歳の時、法華経を読んでいた時、コオロギの鳴き声を聞いて大悟した。

正受老人の禅がはっきり理解出来たのである。落涙しつつ白隠は香を焚いて嗣法の儀式を行った。既に、正受は死去していた。それまで白隠は一度も正受のもとへ帰っていなかった。

謎とされているが、白隠は正受が一人山村に籠って母親と暮らしていることに批判を持っていたのだと思う。コオロギの鳴き声を聞き、この問題が一気に消失し、正受の自分にかけた法の相続の気持ちが痛いほど分かったのだと思う。正受こそ大乗禅の師だと痛感したのだと思う。

その後。白隠は雲水、村人、全ての人に対して、禅を伝授すべく説きに説き、書きに書いた。おびただしい白隠の教科書ともいえる書き物を見る時、そのエネルギーのすさまじさが理解できよう。

初心者に向けての公案を作成(隻手音声)、和讃の作成、般若心経の漫画訳、それから南無地獄大菩薩、これは白隠が恐れた地獄に落ちている人を救うべく自分が地獄へ行って救ってやるとの願いから唱えた。また、禅病の治療法としてナンソの法を文章化した。

これは白隠が京都の山中で仙人と出会い病気の治療法を教わったことを纏めたものである。夜閑船話という書物であるが、これは頭の上にナンソという香料薬剤を置いたと想定し座禅し、このナンソの成分が溶け出して、臍下丹田に留まり、更に足の先まで浸み渡ってゆくことを瞑想するものである。非常に効果があり、現在でも活用されている。

白隠には四大弟子が育った。東領(微細)、遂翁(大機)、大休(悟り)、峨山(道力)の4人である。

そして峨山の二人の弟子の養成に4人が力を尽くした。この二人が隠山と卓州である。

この二人から白隠禅は続いてゆく。即ち、隠山派と卓州派である。

鉄舟は後術するが天龍寺派の滴水の下で嗣法したので滴水門下である。よって隠山派である。関山→白隠→隠山→儀山→滴水→鉄舟がその系譜となる。

白隠は大悟18回、小悟その数を知らずと言ったが、鉄舟は大悟数回、小悟その数を知らずと言っている。

白隠の悟りの最初の目的が地獄へ落ちる恐怖であったが、鉄舟は剣の無敵の極意を得ることであった。白隠は師の正受への理解が大悟のポイントであった。鉄舟は浅利又七郎の剣を越えることであった。

二人共、見性してからおよそ10年程度の修行の結果に達成した。いずれも臨済宗であるので臨済の禅が下地にある。これは激しいものと言えるであろう。徳山の棒、臨済の喝といわれるように臨済の激しい機鋒が特徴である。

臨済の大悟が黄檗三打として有名である。臨済(~867)は黄檗希運(~850)の弟子であった。よく学んでいたが、師の元へ参禅しなかった。同僚の雲水が参禅を勧め、仏とは?程度の質問でよいから問答しなさいと励ました。そこで臨済は黄檗の元へ参禅した。黄檗は中国禅宗の第十祖であり、特別に有名であった。臨済は恐る恐る仏とは?と質問した。途端に黄檗は棒で3回連続して叩いた。

このような参禅を臨済は3回行ったが、3回とも打たれた。そこで落担して同僚に報告した。同僚は黄檗の弟分の大愚和尚に参禅してみたらと助言してくれた。臨済は大愚の元へ行き、3回打たれた話をした。大愚は黄檗は何と親切なことか、3回もぶってくれたかと言った。その時、臨済は大悟した。すぐに、黄檗のところへ帰り参禅した。またも黄檗は臨済を打とうとしたが、臨済は棒を取り上げて黄檗を逆に打ち返した。黄檗は大喜びで臨済の大悟を認めてくれた。

これが黄檗三打の有名なエピソードである。仏とはお前自身だということを気付かせる為の三打であった。臨済の激しさの始りであった。

4、鉄舟の禅

実父の教えに「武芸を講じ禅理を修練すること」とあり、鉄舟は剣と禅の修行に励んだ。19歳の頃、川口市の長徳寺、願翁和尚に参禅した。与えられた公案は「本来無一物」であった。

鉄舟は武士であり、早くから生死の問題は超越していた。それで願翁は早い時期に鉄舟の悟境を認めたと思われる。

しかし鉄舟にとってははっきりせず、不満足であった。明治5年(1872)の37歳の時に龍択寺の星定和尚に参禅した。和尚は龍択寺の東領禅師の法嗣で住職であり、当然、禅界で有名であった。願翁の紹介状や有力者の推薦を得て参禅が許されたものと思われる。

鉄舟は無字の公案を与えられ江戸から三島の龍択寺まで徒歩で通った。ある日、星定は鉄舟の悟りを確認、辞して江戸へ出発した鉄舟が今に戻ってくると予見した。

予見どおり鉄舟は戻ってきて富士の山の歌を詠んだ。「晴れて良し、曇りても良し富士の山、元の姿は変わりざりけり」という有名な歌である。

星定は鉄舟の見性を認めたが、本人は満足出来なかった。当時、鉄舟は浅利又七郎の剣に悩まされており、これの解決が出来なかったからである。

また、鉄舟は戊辰戦争や廃仏毀釈の為、各地の寺院が崩壊しており、書により金銭を稼ぎ修理の援助を懸命に尽くした。天皇の侍従でもあり、当然に鉄舟は有名な存在となっていた。

それで、各地の高僧と面識があった。(この明治初期には教導職として各地の高僧が専任され上京していた。それで鉄舟との面識が相当数あった。)鉄舟はこの中から有名な今北洪川円覚寺管長や萩野独園相国寺管長、南隠禅師等に相談していたと思われる。

星定も鉄舟に協力、結果、「悟後の滴水」として有名であった天龍寺の滴水禅師に参禅することとなった。滴水は洞上五位の兼中至の頌、「両刃鋒を交えて避くるをもちいず。好手還って火裏の蓮に同じ、宛然として自ずから衝天の気あり」の公案を与えた。

この公案は白隠が5段階に整理し、その後更に3段階を付加し9段階としたが、その6段階目の公案で最も困難な公案ではあった。洞山良介が悟りの心境を5段階のカテゴリーに整理し、洞山五位といわれた。この洞山五位の4段階目の悟境の頌をそのまま公案とした。この頌は剣を例としており、鉄舟にはすこぶる的確な公案だったと思われる。

そして鉄舟は明治13年(1880)3月に遂に大悟し、浅利の剣を越えた。更に、その4年後には色情の問題も超越出来たと言っている。

鉄舟は剣の無敵の極意を得て、無刀流を開いた。鉄舟の禅はどのようなものであったかということの回答として、「臨済宗の白隠禅に取組み、悟後の滴水に認められ師家分上となった。」非常に激しい禅であり、大森曹玄氏は鈴木正三の「仁王禅」であると断言している。鉄舟は僧侶では無いので弟子は養成しなかったが、三遊亭円朝、清水次郎長、天田愚庵等に大きな影響を与えた。

5、鉄舟の禅界への貢献

三大業績があると思う。

① 有名古刹の再建、整備
戊辰戦争、廃仏毀釈により、有名古刹が崩壊、半壊して傷付いたが鉄舟は書によって金銭を稼ぎ再建、修理に努めた。有名な寺としては国泰寺、全生庵、鉄舟寺などがある。(滴水が上京して天龍寺修理の協力を鉄舟に懇願したのが、鉄舟の参禅のきっかけとなった。)
数多くの寺院の再建、修理により鉄舟は仏教界の庇護者、恩人として名声が高かった。

② 明治天皇が関山、白隠に対し国師号を宣下した。
これは鉄舟なければ、実現していない。関山、白隠共に、国師号を受けることは嫌悪したに違いない。従って、誰も言い出せなかったのだ。しかし、日本臨済宗の第一人者の関山と中興の祖の白隠に国師号が無かったら、国師号は全く意味を持たない。鉄舟だからこそ出来た重要事実である。 (無相国師と正宗国師)

③ 釈宗演のセイロン修行
今北洪川が鉄舟に素晴らしい法嗣を得たと自慢した。それで、鉄舟は彼を見に行った。洪川の言う通り素質の素晴らしい若者であった。鉄舟は洪川の下で甘やかされるのを心配して関係者と相談し、彼をセイロンに修行に出させた。若者の名前は釈宗演という。

帰国後、明治後期のNO1の傑僧となり、門下に鈴木大拙、西田幾多郎を打ち出した。鈴木大拙は世界禅の創始者としてノーベル賞候補にも上がった人物で、英語で海外に禅を説きに説いた。西田幾多郎は京都大学で西田哲学を打ち出す。彼の散歩した道は「哲学の道」として観光地になっている。また、西田哲学は最近、マインドフルネスという精神病療法の根拠となっている。鉄舟なかりせば、釈宗演は生まれなかったかもしれないし、世界禅も西田哲学も無かったかもしれない。

6、鉄舟の禅のエピソード

①鉄舟は親しい知人から臨済禄の提唱を依頼された。今北洪川に提唱してもらうよう断ったが、洪川の提唱は既に聞いた。鉄舟先生の提唱が聞きたいと粘られた。そこで鉄舟は道場へ案内し、竹刀を取って稽古を見せた。そして「私の提唱はどうでしたか」と聞いた。
驚く相手に「禅は言葉ではない。実践である。それが分からなければ禅を知ろうとしても不可である。」と諭したという。

②鉄舟は明治14年(1881)2月に国泰寺再建の祝宴を湯島の麟祥院で開催した。20名の芸を持つという乞食を客として招いた。乞食の一人がゲロを吐いた。鉄舟は浄穢不二の修行のチャンスであるとして臨席の禅師方にゲロを食べるよう勧めたが、誰も手を出さなかった。そこで、鉄舟はお先にご免と言って自ら食べてしまった。禅は、あくまでも実践にあることを示したかったのである。

③ 明治18年(1885)に鉄舟は戊辰の戦没者慰霊の為、千僧会を開催した。この催しはものすごい人気で会場の墨田川河畔に群衆が駆け付け川止めとなった。この時の参加僧侶は1,500名、大導師は妙心寺管長の無学禅師であった。

④ 南天棒の宗匠検定法
明治の傑僧の一人に中原南天棒がいる。全国を回って高僧の悟りを点検したのだ。鉄舟のアドバイスを得て、妙心寺本山に師家の悟りを点検する「宗匠検定法」を提出した。

しかし、この検定を受けようとの希望者は誰もいなかった。南天棒は明治18年(1885)に鉄舟と会った。鉄舟は南天棒が全国の師家を点検しているとの噂を聞いていて5年前に滴水に通った洞上五位の公案を持ち出した。南天棒は鉄舟の公案回答に「末だし、まだ工夫が足りない」とやっつけ喧嘩となった。

また、ある日南天棒が鉄舟を訪ねてきた。鉄舟は昨日文殊菩薩がやってきた夢を見たと言った。南天棒は文殊は俺様の機鋒に驚いていただろうと言った。鉄舟は「いいや、文殊は南天棒が麻三斤の公案を理解できていない」と言った。そこで言い争いとなり、鉄舟は南天棒に蹴倒されて障子が倒れて大騒ぎとなった。

鉄舟は市谷の廃寺道林寺を再建し、住職に南天棒を頼んだ。南天棒は次期管長候補の位の高い僧侶であったが、鉄舟の依頼に従って貧乏寺の道林寺の住職に就いた。鉄舟は南天棒の為に出来るだけの米と酒を届け続けたという。その後、南天棒は松島の瑞巌寺住職となる。また、鉄舟の葬儀の際は脇導師を務めた。

鉄舟は仏教の庇護者として感謝されるとともに、居士の身ながら禅の修行が進み、達人として恐れられた。鉄舟の禅は実践を中核とし悟境すこぶる高いものがあったので、師家分上となっている。

星定禅師に出した富士山の歌は公案にも取り入れられている。

また、全生庵には昭和第一の禅僧である山本玄峰老師が居住し、四元義孝や田中清玄の右翼の指導、鈴木貫太郎や昭和天皇実母の指導など大いに活躍した。この玄峰老師の一番弟子が平井玄恭氏であり、全生庵の住職であった。現在の平井正修住職の実父である。

7、おわりに

鉄舟の禅は、誰もが師家分上と認める最高峰の臨済禅である。

出家していないので、雲水指導は行なわなかったが、これはという信念を持った人物には禅的指導を実践している。また、今日の臨済宗発展に居士の身のまま大きな貢献をした。

鉄舟の剣は武士道の人格形成、その完成を目指した活人剣である。鉄舟の禅はこれと同一軌道にあり、補完している。鉄舟の禅も人間形成を目標としている。

鉄舟の剣は、そのままには継承されなかったが、現在の剣道界において八段以上の高段者の養成に生きている。かつ、鉄舟の門下が日本の近代剣道を構築した。現代の剣道家は鉄舟が憧れの目標であり、誰もが鉄舟を知っている。

鉄舟の禅はどうか? 鉄舟にとっては、あくまで剣を補完するものにとどまっている。なぜなら、鉄舟はどこまでも剣士であり、僧侶ではない。即ち、鉄舟は剣道界において、現代剣道の創始者、目標となっているが、禅については明治の達人に留まっていると思う。

                                         以上

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