円朝は天保10年(1839)に生まれ、明治33年(1900)年に62歳で没した。明治元年(慶應4年1868)時は30歳、従って前半生は徳川幕府、後半生は明治政府で過ごしつつ、一大変革期における時世時節を巧みに取り込み、自らのイメージを刷新・創りあげて生きた。
若き日の円朝は「円朝髪」と称される、大たぶさに結った髪に、黒羽二重の着物から赤い襦袢をちらちらのぞかせた姿で歩き、その後を芸者、後家、娘たちが何十人とついていくという、かなりキザな芸人であった。
だが、のちには禅に惹かれ、鉄舟の知遇を得、やがて「無舌の悟り」を得てからは、寝そべったり、あぐらをかいて聴けないという堅苦しい、高潔な精神性をもつ噺家となって、三遊亭一門の隆盛を図り、明治政府とも関係するオルガナイザー指導力を発揮する変身をみせた。
その人間改造に鉄舟がどのような影響を与えたのか、というのが本稿の主題である。
人は誰しも、幼少期の体験が、その後の人生に反映していく。
円朝も同様であるはずで、というより一般的でない特異な明け暮れ日常が、落語家で唯一〞大〟の一字を冠する大師匠(おおししょう)と称される骨格を創ったに違いない。
そこで、まず、円朝はいかなる環境下で幼少・少年期を過ごしたのかについて検討する。
円朝の出自についての出典は、朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』(世界文庫版)、これは円朝が50歳という全盛時になした口述によるもので、これを参照して述べていきたい。
円朝の父親は二代目三遊亭圓生の門に入り、橘屋円太郎として諸所の寄席に出入りしているところに、円朝となる次郎吉が生まれた。
円太郎は真打が勤まるほどの落語家になり、弟子も四五人できた。この弟子たちが、朝やってきては円太郎に落語を教わる。それをそばで聞くともなく聞き覚え、五つ六つの次郎吉が、まわらぬ舌でませたことを言い、稽古のある時は、その中に入って一緒に習う。
母のすみは、父親のような芸人にはならないよう意見をするが、円太郎は妻の反対を押し切って、師匠の圓生のところに連れていき、一席やらせてみた。
「うまい、うまい」と師匠が褒め、
「このくらいできれば、よかろう。円太郎の子供だから、小円太にしよう」
と言い、弘化2年(1845)3月3日の雛祭りに、日本橋の土手蔵にあった寄席で初看板を挙げた。7歳である。結果は、さしもの広き江戸でも、子供の落語家は珍しく、その評判が高く受けいれられた。
小島政二郎著『圓朝』に面白い記述がある。小島政二郎の祖父は円朝と幼友達で、山口という寺子屋に一緒に通っていたといい、この寺子屋が明治になって青海(せいかい)学校と名を改め、樋口一葉(夏子)がそこの生徒で、小島政二郎の父もここで学び、一葉のお夏ちゃんと同級生だったという。
祖父は円朝の子供時分の話をする時、次郎ちゃんとか、次郎とか呼び捨てにしていたくらい親しかった。祖父は円朝である小円太の初席が聞きたくってたまらなかったが、まだ子供、夜分、下谷から江戸橋まで行くことは、とても父親が許さず、とうとう聞かずじまいだったが、次郎の話で、相当手が来て、受けたと聞いているという。
ここで当時の落語家の収入の仕来りを説明したい。(参照『圓朝』小島政二郎著)
分かりやすくするため木戸銭を円換算で一人1000円、映画入場券のシニア料金と同額にして試算することにする。因みに上野の鈴本演芸場は一般料金2,800円である。
この1000円を7分3分に分けて、寄席がまず3分とる。あとの7分を出演者の頭数に分配する。ただし、真打、二枚目とか、三枚目とか、切り前とか、いろいろ階級があるので、上の階級ほど余計取る権利がある。
仮に円太郎が250円取るとする。そうすると、この250円にその日の客の数を掛けただけ、その日の収入になる。
江戸時代は、その日の上がりを、その晩真打が袋に入れてわが家へ持って帰る。そうしてキチンと勘定をして、翌晩に出演者にそれぞれ渡してやるのだ。
その日の客が100人あったとすると、円太郎の懐には30日間興行したとして、250円×100人×30日=750,000円入る。結構な金額である。
しかし、その日の天気具合で、当然ながら入りの良い日と悪い日がある。また、天気がよくても、近くの寄席に人気ある芸人が掛かったりすると、そのアオリを食って、入りがガタ落ちすることも珍しくない。
もし70人しか入らない日、さらに50人、30人しか入りがなくても、真打は100人が入ったとして、出演者に割りを払わなければならない仕来りになっていた。
つまり、それだけ自分の割り(収入)を食うわけである。そのような場合、いくらかでも手取りが残ればいい方で、悪くすると、全然無収入のこともある。もっとひどい時は、真打の割りが足りなく、借金して出演者に払わなくてはいけないこともある。
そのような日が5日も10日も続くと、真打はたまったものでなく、その月の興行を中止したいと思う。ところが、中止できないようになっている。
例えば、近所の寄席に、ライバル流派が興行していたとする。そうすると、
「なんでえ、円太郎のやつ、ライバル流派のために叩かれ、看板をおろしゃがった。ざまァねえ」
こう言って、はやし立てられるのだ。芸人として、これ以上の恥はないとされていた。そこで、歯を食いしばっても、見す見す損の行く興行を続けなければならないのである。従って、750,000円の収入なんて、夢の夢の話となる。
このような財政状態だから、母親のすみは内職をしないで済んだ日は一日もなかったので、いくら可愛い次郎吉が「うまい、うまい」と師匠が褒められても、こんな危険な、先の見込みが立たない生活をさせたくない。
ここで思い浮かべたのが、すみが先夫との間に産んだ徳太郎である。徳太郎は、禅寺で修業し、今や谷中日暮里の臨済派南泉寺の役僧を務め、玄正と名乗り18歳になっていた。
次郎吉の義兄に当たる玄正も、次郎吉が芸人になることを殊の外憂いており、すみの頼みを聞き入れ、円太郎に次郎吉を落語家にすることをやめさせるよう度々説得した。
「行く行く私が一カ寺の住職になりましたら、次郎吉に与力の株か、それが力に余るようでしたら、せめて名主の株でも買って、ともかくも人の上に立つ人間になってもらいたいと思っていますので、今のうちから後日役立つ勉強をさせたいと考えますが・・・」
円太郎も噺家の生活がよくて、子供に跡を継がせたいと思っていたわけでなく、まして遠い将来のことなぞ考えたわけでない。
玄正の言い分を聞き、円太郎は次郎吉の寄席出席を取りやめ、寺子屋へ通うようになった。
一方、円朝が噺をした寄席では、円太郎と弟子たちに、小円太はどうしたのか。折角あれほど上手なのに、出ないのは惜しいと問い合わせ多く、円太郎もその気になってきたが、玄正の手前と、読書(よみ)習字(かき)は身のためになるわけで、なかなか言い出しにくい。
だが、小円太にもしきりに寄席や弟子たちの声が入ってくると、元来、読書習字よりは寄席の方に興味があるから、再び噺をしたいということになった。
円太郎はそうならばと、小円太を本格的な落語家にしようと、師匠の圓生の四谷の家に住み込み修行することにさせた。
そのころの仕来りは、弟子は藁草履以外の履物を履くことを許されなかった。だから、雨の日や雪の日には草鞋で師匠の伴をし、帰りは木戸銭のアガリを入れた麻の袋を背負って、提灯さげて遠道をトボトボ歩いて帰ることになる。
師匠が品川の寄席に掛かったとき、品川は江戸時代では市外だから、寄席泊まりということになる。小円太は少しでも給金を残して、母を喜ばせたいと思うと、食うものを節するしかない。
品川は東海道の親宿、うまい物屋が軒を並べている。師匠や弟子たちは、そこへ行くが、小円太は来る日も来る日も三度三度焼き芋で済ませる。
とうとう席亭から、楽屋で焼き芋を食べるので、客席に焼き芋の匂いが流れてくるのは色消しだ。焼き芋だけは御法度と願いたいね。と釘を刺されてしまい、小円太は懐に焼き芋を突っ込むと、あわてて楽屋から飛び出し、貧乏ほどつらい悲しいものはないと涙する。
しかし、この「貧ほどつらいものはない」、くやしいと思う一念が、話のタネを増やすことに向かわせた。大抵の落語家は十五も話のタネを知っていれば、一人前として通用した。真打でも二三十知っていれば、よしとされたが、小円太はまたたくうちに五十以上の話を覚えてしまった。
圓生から教えてもらったほかに、暇さえあれば寄席に行き、流派に関係なく、面白いと思った話を、片っ端から覚えてしまったのだ。
加えて、小円太は工夫を続けた。声の出し方、間の取り方、師匠に教わった通りではなく、自分のものにしようと努力していった。
ちょうどそのころ、圓生が四谷より湯島に移転したので、これを機に小円太も自宅に戻り、間もなく前座から「二つ目」に昇進した。11歳である。
そのタイミングに再び玄正が、小円太の次郎吉を芸人から堅気の商いの道に向けさせれば、母のおすみも安心であろうと、次郎吉を説得し、下谷池之端仲町の葛西屋という紙屋で質屋を兼ねた大店に、奉公へ行くことになった。
だが、奉公に行って一年半もするうちに、激しい頭痛に悩まされた。奉公先では、頭痛ぐらいでは医者に診せてくれない。無理して起きていたが、とうとう起床できなくなって寝込んでしまった。寝込めば、実家に帰されるのが、そのころの一般の風習だった。
不思議なことに、家に帰ると、その日から頭痛はせず、食欲も出て、すぐに元気になってしまった。
おすみは「この子には、奉公が無理なんだね」と思いつつも、遊ばせておくわけにもいかず、いろいろ相談の上、次郎吉の希望も取り入れ、浮世絵師・国芳の内弟子に住み込みさせた。
ところが、ここでの生活も葛西屋と大差なく、明けても暮れても雑巾掛けと使い走りばかりで、絵を描かせてくれず、教えてもくれない。
一年経ったかのうちに、またもや激しい頭痛が発生、親のもとに帰されることになった。
帰った家には父の円太郎がいない。旅に出て稼ぐと出かけたが、音信なく、お金も送ってこない。他の女と世帯を持ったらしいと伝わってくる。おすみと次郎吉は父親に捨てられたのである。
ちょうどこの頃、玄正の身の上に変化が生じた。近くの臨済宗妙心寺派・長安寺の住職に出世したのである。玄正は「禅寺だから、女を寺内に入れるわけにはいかないが、門脇に部屋が二つある。そこへおっかさんと次郎吉も引っ越しなさい」という申し出。
働き者のおすみは、内職以外に、ご参拝客に花やお線香を売るなどし、小円太のもらってくる割りも増え、二人は楽しみが増えて、顔の表情が明るくなってきた。
長安寺での円太郎は、落語の稽古をする場所は常に本堂に独座し、本尊を相手としていた。それを見ていた玄正が円太郎に向かって、
「何事もすべて稽古をする時は、心を外に移さぬよう、座禅を組みて、一念これを勉めれば、その業は上達するであろう」と諭し、
「芸人になること反対したが、その方の性質は芸人に適っており、もはや止めはしない。だから、天晴なるものとなるべく覚悟して、決して人に劣らぬよう勉めなさい」と言い含めた。
これより小円太は、大いに肝に銘じて、稽古を成す時は必ず座禅を組みつつ、修行に励んだ。ここに後日、鉄舟による禅修行への伏線が存在する。
さて、この当時の三遊派を束ねる師匠の圓生は、人気がなかった。従って入りもわずかで、弟子のなり手も少なく、圓生を含めてたったの4人という目も当てられない状態であった。
それに引き換え、柳派には名人上手が大勢いた。流橋、柳枝、文治、玉輔、文楽、小さん、人の頭に立つ人だけでもこれだけいた。そこにおのおの十何人ずつの弟子を持っていた。
こんな落ち目になっている三遊派、昔のように柳派を圧倒していた状態に戻したいと考えたが、それをできるのは周囲を見ても自分しかいない。自分だって、できるかどうかはわからないが、少なくともそのようなことを思っているのは自分しかいない。
ある日、三遊派を起こした初代圓生のお墓、浅草森下の金龍寺にお参りに行った。
三遊派の元祖で初代三遊亭圓生は、落語の名人と称され、初めは山遊亭猿松と名乗っていたが、落語界では猿を嫌うので三遊亭圓生と変え、弟子には古今亭新生、金原亭馬生、司馬龍生、三升亭小勝、並びに今の二代目圓生など、盛大を極めていた。
その初代の墓に向かって、自分の覚悟を語り、その助力を乞うた。これが安政2年(1855)3月21日で、21日が忌日であった。小円太17歳の時であった。
これより21日ごとに参詣し、願ったが、ここに三遊亭派を引き起こさんとするならば、小円太を改めることが大事と決断し、まだわが門派で名乗られていない芸名、ここに「円朝」と自ら名付けたのである。
玄正にもこの「円朝」名付け経緯を報告したところ、よき名であり、文字もよしということ、師匠の圓生にも届け、至極よろしからんと許しを得て、ここに遂に「円朝」が誕生したのである。
(朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』挿絵)
円朝は独立する決意をしたのだが、覚悟と改名くらいで、大きな寄席から買いが来るはずがない。それくらいのことは円朝も嫌になるほど分かっている。
従って、三流の小さな寄席である早稲田、駒込・焙烙(ほうろく)地蔵(じぞう)前、下谷・広徳寺前に出たりして、時の来るのを待つ作戦に出た。つまり、この辺りから攻めだし、せかず、焦らず、自らの実力を磨くことで、江戸の真中に位置する寄席を制しようと心中に秘めていたのである。
いよいよ江戸末期の円朝活躍場面に入って行く。
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