2018年1月例会開催結果
Ⅰ.昨年12月例会でご講演をいただいた東洋大学・岩下哲典教授の江戸無血開城に関わる論文が、産経新聞デジタル版に発表されましたのでご案内いたします。
http://ironna.jp/article/8610
Ⅱ.2018年1月例会開催結果
●永冨明郎氏「幕末の幕府の外交能力を問う」
今年、最初のご発表は永冨明郎氏から以下のように解説をいただきました。
(前提)
そもそも幕末とは、二百数十年不要だった「外交」という新たな政治要素にどう対処するか? の混乱であり、突き詰めれば、幕府はちゃんと「日本を代表する外交能力」を有していたか? という視点を忘れてはならない。その一例として、薩英戦争と下関戦争の経緯を振り返ってみたい。
1.生麦事件と薩英戦争
生麦事件は文久2年(1862)8/21、生麦村にて島津久光の行列に英国人4名が闖入、これを薩摩藩士が殺傷した事件である。
この対応についての英本国・ラッセル外相からの訓令が日本に届くのは文久3年(1863)1/15である。
訓令では、幕府への賠償金10万£(約241千両)と、それとは別に薩摩藩への犯人処刑と賠償金25千£(約60千両)と必要なら蒸気船の拿捕、というものであった。
この訓令には罠が潜んでいた。徳川幕府が一国を代表する姿勢ならば、薩摩藩への要求も一括して幕府が対応するであろう、しかし薩摩藩との直接交渉を幕府が放置するならば、幕府の統治力も疑われる、その試金石だった。
訓令通りの要求を受けた老中・小笠原長行は5/08に横浜に出向き、独断で支払いを回答、翌日10万£(約241千両)全額支払いを行った。併せて薩摩との直接交渉には触れなかった。即ち暗黙の了解をしたことになる。
そのため英国艦隊が6/27に鹿児島湾に至り、薩摩藩と交渉開始した。7/02から陸と海との砲撃戦に及ぶ。双方決定的な状態に至らず、2日間の交戦で英国艦隊は鹿児島湾を退去した。
9月末から横浜英国公使館にて薩・英交渉が行われ、10/05に講和が成った。即ち25千£(約60千両)の支払いで合意された。ただ薩摩藩側は同時に、以後の蒸気船購入斡旋を申し入れ、これを機会に英国と接近していくことになる。併せて薩摩では、長年の慣例にそって起きた事件の賠償をせねばならなかったことから、幕府への不信感が醸成されることになる。
2.下関戦争(下関攘夷砲撃と四カ国艦隊の下関攻撃)
文久3年(1863)4/20、上洛中の家茂ら幕府側が朝廷に「5月10日をもって攘夷決行」と回答する。
これを受けて長州藩は5/10~5/26、下関で米、仏、蘭船を砲撃する。以後、下関海峡は事実上、封鎖状態になる。
6/01と6/05に米、仏がそれぞれ下関を報復攻撃するが、下関海峡封鎖で最も影響を受けているのは英国であるため、以後は英国が対日交渉の中心になる。
同年8/18、京にて8・18クーデターにより長州勢の京都排斥されたが、これで攘夷問題が収まった訳ではなく、以後も朝廷から再三の「攘夷実行」が幕府側に要求される。具体的には①異人排斥、②通商条約の破棄、③横浜鎖港(再閉鎖)、である。
そのような中、長州が汚名返上に武備上京し、7/19の禁門の変に至る。そして長州は「朝敵」となる。
それより先の6/19、四カ国が幕府に「20日以内の下関封鎖解除、不可なら戦闘行為に」と通告するが幕府は「あれは長州が勝手にやったこと」と放置する。
7月末に四カ国艦隊が横浜出航するが、一部幕閣には「朝敵となった長州を外国も攻めてくれるのは一石二鳥」という空気があった。8/5から下関にて交戦に入り、長州側はすべての砲台を破壊された。
その後下関沖にて長州側と講和会議が開かれ、賠償金要求に対して長州側は幕府通達書などを開示して「砲撃は幕府指示によるもの、よって賠償金は幕府に」と回答。併せて今後は独自貿易も希望する旨を回答した。英国と交流も希望した。
長州内部では、そもそも幕府の指示によって砲撃したことから甚大な報復攻撃を受けたことで、対幕府不信感、独立割拠論が醸成されることになる。これが倒幕に繋がっていく。
9/6-7、英公使オールコックが江戸にて老中・水野忠精、外国奉行・竹本正雅らと会談し、以下を決めた。
1)下関での砲撃被害、出兵への賠償金支払い(300万$) ⇒幕府が了承し支払い。
2)安政五カ国条約の未勅許状態の解消 ⇒これが翌慶応元年9-10月の兵庫沖集結事件に繋がる。
3)外人追放令の解除 ⇒元々、幕府としては本気でやる気はなかったのでなし崩しに。
4)横浜での生糸輸出制限の撤廃 ⇒制限を否定するも、実際には翌月以降、貿易量が回復した。
3.まとめ
両事件において、幕府は「日本の代表」という立場を示さず、それぞれ薩摩藩、長州藩との直接の外交交渉を許した(放置した)。その結果、諸外国側(とりわけ英国)に、幕府不信感を持たせた。
一方の薩摩、長州は両事件をきっかけとして、幕府への不信感が醸成され、また英国と直接接触のチャンネルを形成した。その結果、特に薩摩藩が「倒幕」論に大きく傾くことになる。
●山本紀久雄「三遊亭円朝の幕末動乱認識」
1. 明治維新150年を期する今年、多くの歴史出版物が世間を賑わしている。だが、そのすべて(といっても過言でない)が、武士階級としての支配者同士で争った事件・紛争・戦争をテーマに語られている。一般民衆が時の政治事件を、どのように見ていたか、という視点からの問題提起はなく、仮にあったとしても埋もれている。
その最大の理由は、民衆は自身を語らず、史料も遺さないからである。個人史として遺せる人とは、それを書くことができた、または、時代の中で突出して登場する限られた人物、つまり、時の為政階級に位置する者たちで、これが「歴史上の人物」として登場し遺されていくのである。
したがって、これ等の人物を追い求め、考察し、研究し、著されるものが一般的な歴史書籍であるから、人口の94%を占める民衆心理が抜け落ちていくことになりやすく、往事の全体実態を過つ危険性があるだろう。
2. ところが民衆心理考察には史料がなく、あっても少なく、事実上不可能に近い。ならば、民衆集合心理の様相を描き出す噺を創作し続け、人々に語り、受け入れられていた円朝作品の分析から考察可能ではないか。
3. この仮説で円朝作品を追及してみると、『蝦夷錦古郷の家土産』において「天狗党の乱」を次のように語っている。
≪これがあの時分の戦争の初めで、わたくしどもは江戸にいてその話を聞いても、あまりよい心持ちはいたしませんでございました≫
この文言が意味するところは、天狗党の乱を「一連の内乱の始まりと位置付けている」わけで、天狗党の乱発生以前の政治的大事件は、円朝を代表とする江戸一般民衆には、あまり大きな関心事でなかったと推察される。
4. では何故に、江戸っ子の民衆集合心理は、幕末維新動乱を天狗党の乱からだととらえているのか。それを語るには「お江戸」と「お」が敬される江戸の成り立ちから考察しなければならない。京都、大坂には「お」は敬されない。
これらの解明は、後日、「鉄舟から影響受けた円朝」の総括を行う中でお伝えいたします。
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