前号でお伝えした「落語ブーム」状況を受けての報道と推測するが、戦後日本初外国人落語家の活躍を、AGORA(2016年11月号)が特集掲載した。
報道されたのは、六代桂文枝(当時は桂三枝)に2008年弟子入りし、桂三輝(サンシャイン)と命名されたカナダ人である。
記事の中で三輝が強調し、最も身につけた事だと力説するのは、兄弟子から「極端に言えば、修業中に落語を一つも習わなくてもいい。そのかわり、三年使って師匠の空気を読めるようになれ。それができれば高座に上がったときに、お客さんの空気も読めるようになれる」と言われ続けたことで、これが実際には「ウケる話」の一つになり、「落語の修業では、空気を読め!が大事で、これはRead the air!だ」と言えば外国人からも日本人からも笑いが起こる。
Read the air――文字通り訳せば、まるで超能力だが、「空気を読む」は、落語においては、必須の要素。≪「落語は〞見る〟と、〞気づく〟仕事」であって、観客一人ひとりの反応を見て計算しながら、対応を合わせていくリアクションの芸だと解説する。
さらに「理解してもらえていないようなら、繰り返し伝えるし、理解してもらえるように工夫もする。空気を読んで、思いやり、気を遣って楽しんでもらう。つまり落語は、日本人が持つ素晴らしい特性から成り立っている」と語り、これがどこへ行っても落語が理解される背景理由だとも言う。
「いつかアルファベットの〞RAKUGO〟が、〞KIMONO〟のように英語の辞書に載り、世界で通用する言葉になるのが夢」と語り、2014年から落語ワールドツアーを行って、2017年9月には、演劇の本場ロンドン・ウエストエンドの「レスタースクエア・シアター」で公演を予定している。
果して、三輝が描く世界的な存在に落語が成れるか。その予測は難しいが、落語の持つ基本的特徴から思い巡らすと可能性は無くもない。
≪この前の戦争で民衆芸能は何らかの形で傷ついた。歌謡曲・浪曲・講談etc、しかし落語は利用されようがなかった。金語楼の『兵隊落語』なども好戦というよりも、兵隊の悲しさを笑うものになってしまう。現代小さんが、二・二六の反乱軍に兵として参加させられたとき、反乱軍の上官から戦意昻揚のため落語をやれ、といわれて、やったら全然士気が昻らなくなったという話は有名である。どんな好戦的な話も落語家にかかるとばかばかしいものになってしまう≫(『夢幻と狂死 三遊亭圓朝を求めて』新田直著)
現在、世界中がイスラム国との戦いや、難民問題でぎすぎすしている状況下であるから、落語が持つ「何事も笑いにしてしまう」という特色が、三輝の活躍によって、時間はかかるだろうが、世界中に受け入れられるかもしれない。それを期待したいと思う。
さて、落語には「まくらに振る」という言葉がある。まくらは「枕詞」のように、ものの頭につくというところからきた言葉だが、落語家は「まくらをしゃべる」「まくらを話す」とは言わない。「まくらを振る」と言う。
例えば、≪小朝は相変わらずまくらに振る漫談が面白い。小朝のセンスがそのまま表出したもので、若手では群を抜いている。意地の悪い人は、小朝は漫談の部分は面白くて笑えるが、落語の本題に入るとあまり笑えない、だからはなしは面白くない、という。その人は全く落語を理解していないのだ。
ばかばかしいまくらと違って、落語というものは、そうのべつ幕なしに笑えるネタなぞありはしないのだ。特に古典落語はそうで、ひとつのはなしで数カ所笑うところがあればいい方だ。それを始めから終りまで笑わすのが落語だ、と勘違いして、あくどいくすぐりを当て込む人が多いが、そんなのは下の下だ≫(『三遊亭円朝の遺言』藤浦敦著)
今年の正月に筆者が聞いた小朝の落語では、「まくらに振る」漫談は、NHK紅白歌合戦出場したある歌手の装いで、具体的な内容を正確には思い出せないが、会場の2500人が一斉に笑ったので面白かったという記憶が残っている。
ところで、この「まくらに振る」漫談。メディアが発達した現在では映像や音声で記録するこが可能だが、三遊亭円朝が活躍した時代、記録として残るのは、内容が決まっている「本題」だけだった。「まくらに振る」漫談はその場で咄嗟に出す話芸だから、聞き流すだけで終わるきまりだった。
したがって、円朝がどのような「まくらに振る」話をしたのかは、残念ながら正確にお伝えすることはできない。ただし、円朝の作品そのもの中には残っていなくとも、円朝の話を直接聞いた人が書き残したものはある。
円朝の「まくらに振る」話が、森鷗外の『渋江抽斎』(その百十三)に書かれている。
≪或日また五百(いお)(注・抽斎の妻)と保(注・末子)とが寄席に往った。心打(しんうち)は円朝であったが、話の本題に入(い)る前に、こういう事を言った。『この頃緑町では、御大家のお嬢様がお砂糖屋をお始になって、殊の外御繁盛だと申すことでございます。時節柄結構なお思い立(たち)で、誰もそうありたい事と存じます』といった。話の中にいわゆる心学を説いた円朝の面目が窺われる。五百は聴いて感慨に堪えなかったそうである≫
『渋谷抽斎』については、今年の文化勲章受章者・中野三敏氏が同書で解説しているものと本文から要約すると以下である。
「渋江抽斎とは、文化2年(1805)生まれ、弘前藩の医官で、邸は神田弁慶橋にあり、知行は3百石。鷗外が『渋谷抽斎』を書いたのは大正5年(1916)55歳。61歳で没するのでまさに晩年である。この時、鷗外は陸軍省医務局長から解放され、抽斎風に考えれば幕府医官の取締りとでもいうような職から解放され、翌年末には帝室博物館長に任じられるまでの間、新聞の連載に没頭するが、その皮切りが本書である。内容は、抽斎やその妻五百の生涯を活写しているものだ」
さて、この円朝の「まくらに振る」話の、砂糖店開店云々を理解するためには、同書の前段に書かれているところを知らないとわからないので引用したい。
≪渋江氏が一旦弘前に徙(うつ)って、その後東京と改まった江戸に再び還った時、陸(くが)(注・抽斎の四女)は本所緑町に砂糖店を開いた。これは初め商売を始めようと思って土著(どちやく)したのではなく、唯稲葉という家の門の片隅に空地があったので、そこへ小家を建てて住んだのであった。さてこの家に住んでから、稲葉氏と親しく交わることになり、その勧奨に由って砂糖店をば開いたのである≫
≪稲葉の未亡人のいうには、若いものが坐食していては悪い、心安い砂糖問屋があるから、砂糖店を出したが好かろう、医者の家に生れて、陸は秤目(はかりめ)を知っているから丁度好いということであった。砂糖店は開かれた。そして繁盛した。品も好く、秤も好いと評判せられて、客は遠方から来た。汁粉屋が買いに来る。煮締屋が買いに来る。小松川あたりからわざわざ来るものさえあった。
或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、金平糖などを買って、陸に言った。『士族の娘で健気にも商売を始めたものがあるという噂を聞いて、わたしはわざわざ買いに来ました。どうぞ中途で罷(や)やめないで、辛棒をし徹(とお)して、人の手本になって下さい』といった。後に聞けば、藤堂家の夫人だそうであった。藤堂家の下屋敷は両国橋詰にあって、当時の主人は高猷(たかゆき)、夫人は一族高崧(たかたけ)の女(じょ)であったはずである≫
この件について、墨田区の学芸員から次の見解をお聞きした。
「陸が開いた砂糖店は、現在の墨田区緑町3丁目の日の本ビル辺りではないかと思う。円朝が全盛時代の明治9年(1876)~20年(1887)までは本所南二葉町(現在・墨田区石原町2丁目南側付近か? 『新版 三遊亭円朝』永井啓夫著)に住んだ。
この本所住いでの円朝は、旧津軽邸跡に大寄席を設け、その周辺に茶屋や矢場など沢山配して、賑わいを見せようとした。それが読売新聞の明治14年(1881)10月14日に掲載されたが、この記事の背景意味は、明治時代に武家が生きた苦労を背負う状況を、同じく武家の血が流れる円朝から『頑張れ!!』というメッセージであったと思われる」と。
さらに円朝の話について、『明治人物夜話』(森銑三著)が、次のように述べている。
≪円朝の話の結構だったことは、その在世中から定評があったのであるが、それは今でいう大衆受けのするものではなかったことも知って置くべきであろう。それについて、喜多翁の『六平太芸談』の中に、次の一節があるのである。
『三遊亭円朝といえば、今でこそやかましく、名人だとか、何だとか騒いでいるが、その時分の人が全部騒いだわけじゃない。かえって円遊のステテコなんかの方が人気があってね。真打の円朝が出る頃には、お客は半分くらいしかいないというような塩梅だった。それに第一円朝の落語なんか、寝そべったり、あぐらをかいていちゃァ聴けないような堅苦しいところがあってね。寄席のお客には、少々不向きだったんだろう。今でいう、大衆向きじァなかったんだね。しかし芸はよかった。しんみりした裡(うち)に、何ともいえない上品なところがあってね。真打というものは、こういうものだろうと思った。・・・』≫
円朝は大蔵書家であったことも『明治人物夜話』が続ける。
≪日本橋筋に、松山堂という大きな書物屋があった頃、自分(『文墨余談』著者の市島春城)もしばしば訪うたが、話のついでに、芸人で蔵書家だったのは誰かと聞いたら、落語家の二人を挙げた。
一人は円朝で、一人は燕枝である。円朝は古版の大蔵経をも蔵したし、更に意外なのは、熱心な王陽明の研究家であったとのことで、死後売払われた書物の十中八九は、王陽明に関するもので、落語の種本らしいものは、極めて僅かであった。総売上八百円といえば、格別の高でもないが、落語家としては、大蔵書家であったろう。
燕枝の旧蔵書は、今でも時おり見かけるが、円朝の旧蔵本というものは、ついぞ目にしない。あるいは蔵書印を使用しなかったために、分からなくなってしまっているのであろうか。なお後考を俟つこととしたい。しかし、いずれにもせよ、王学云々という一事には、疑問の持たれるものがある≫
『明治人物夜話』で森銑三は円朝が大蔵書家であり、王陽明の研究家であるということに対し疑問を持ちつつも、≪円朝は仲間の芸人たちと較べたら、教養のあった方かも知れない≫と述べているが、教養というより時代の趨勢・時勢を鋭く見つめる力があったのであろう。
その一例が、「時節柄結構な思い立で、誰もそうありたい事と存じます」と、武家の娘が砂糖屋開いたことを、困窮する武士階級への応援の声として「まくらに振る」にしたと考えるが、この背景には、円朝の出自が大きく影響している。
円朝は本名を出渕(いずぶち)次郎吉、天保10年(1839)4月1日江戸湯島切通町、通称根性院横丁で生まれた。父は音曲師橘屋円太郎こと長蔵、母はすみと言った。
ところで、生涯や事績について円朝くらい多くの人に記され、語られてきた落語家もちょっとないらしい。
例えば、永井啓夫『新版 三遊亭円朝』、新田直『夢幻と狂死 三遊亭円朝を求めて』のような伝記、研究、考証ばかりでなく、正岡容、小島政二郎が長編、長部日出雄が短編と、それぞれ小説に仕立てているし、安藤鶴夫、福田善之、吉永仁郎によるいずれも上演された戯曲や、興津要による児童向きに書かれた読物まである。山田風太郎の小説のように、たまたま作中に円朝の登場するものまで数え出したらきりがない。そして、それらの文章のすべてが、なんらかのかたちで三遊亭円朝の生涯と、その生きた時代とのかかわりに焦点をあてている。
これらの諸作に見られる円朝の出自についての出典は、朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』によるものと思われる。
この『三遊亭圓朝子の傳』は、円朝が50歳という全盛時になした口述によるもので、明治22年(1889)三友舎なる版元から刊行、大正15年(1926)から昭和3年(1928)にかけて春陽堂が刊行した『圓朝全集』全13巻および昭和50年(1975)に角川書店から出た『三遊亭圓朝全集』全7巻の巻末資料として再録されているほか、筑摩書房刊の「明治文學全集」第10巻『三遊亭圓朝集』にも抄録されている。(参照『三遊亭圓朝の明治』矢野誠一著)
筆者の手許には、矢野誠一が挙げたリストにはない『圓朝全集・巻の13』(世界文庫版)があり、朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が掲載され、朗月について次のように書かれている。
≪この傳の筆者朗月散史は、或は採菊散人かと云われ、或は朗月亭蘿文かと疑はれて居りましたが、實はもとやまと新聞社に永く居た水澤敬次郎といふ人で、三友舎鈴木金輔氏が、向島で圓朝から其の傳を聞き、當時同舎の編輯員であった水澤氏が筆記したものだと云ふことであります≫
また、『三遊亭圓朝子の傳』の始まる前ページに、円朝が書いた句が掲示されている。

読み下してみると以下のようになる。
「 長安寺の本堂に
自音声を試んと
寒中修行の
折に
樹の包む
観音堂や
鐘氷る
三遊圓朝㊞ 」
長安寺とは後で述べるが、円朝の母すみの長子・徳太郎が僧職として在籍した寺である。
さて、朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』では、≪出淵という姓は、世に甚だ稀にして≫と始まって、円朝の出自はかなり複雑な家系と家庭環境にあったが、以下、『三遊亭圓朝子の傳』を参照し、出自のあらましを示したい。
出淵なる姓氏は、遠く伊予の河野の支族に求められるというが、円朝の父出淵長蔵は、加賀大聖寺藩前田家の江戸留守居役の長子に生れながらも庶腹のため、葛飾新宿村で農業を営んでいた、円朝の祖父にあたる大五郎の長子である。
大五郎は、武士になることがかなわなかった自分の志を長蔵に託し、出淵家の当主となっていた義弟の十郎右衛門盛季の許にあずける。盛季は男子がなかったので、将来娘のとめと結婚させる約束で屋敷に引き取ったが、長蔵の持って生まれた性格は、武士の堅苦しさを嫌い、放埓無頼な生活を送ったあげく、芸人仲間に投じ、二代三遊亭圓生門の音曲師橘屋円太郎となったもので、背中にはらくだの彫物があったという。その時分の芸人で彫物をしているのは珍しくはなかったが、らくだとはあまり聞かない図柄である。
のちの橘屋円太郎の出淵長蔵が、円朝の母となる妻すみを娶ったのは、何年かの放浪ののち、幼児時代を過ごした葛飾新宿村と中川ひとつへだてた青戸村で、左官の職人になっていた頃のことで、すみは葛飾青戸村の加藤文吉の妹であった。
すみは、下谷広徳寺前(台東区稲荷町辺)の旗本金田家に奉公したのち、深川富吉町(江東区深川永代1丁目)の糸商、藤屋七兵衛に一度嫁して、徳太郎という一子をもうけている。
七兵衛は火事が原因で左前になり、病に倒れ夭折したので、すみは徳太郎を連れて谷中三崎の寺多きところで借家住まいした。
そこで寺の賃仕事や洗濯なぞを手伝いながら生活していたところ、徳太郎は僧侶に関心持ち、常に僧侶の真似をして遊んでいたのを見出され、とうとう日暮里南泉寺で修行し、その後16歳で京都東福寺に上るようになった。
修行の後、南泉寺に戻って役僧となり、のち谷中長安寺(台東区谷中)、小石川是照院(文京区白山)を転住、僧位を進め玄昌と名乗った。円朝より9歳年上である玄昌は、後日、円朝の教育について深い関わりを持っていくが、33歳で没している。
徳太郎を寺に預けたすみは、青戸村の実家に戻り、縁あり出淵長蔵に嫁し、二人は田舎に居るより、江戸に出て稼ごうと、湯島の切通にあつた根性院という寺の横町に住居を定め、長蔵は諸種の仕事に従事し始めたが、いずれもうまくいかず、とうとう落語家にならんと二代目三遊亭圓生の門に入り、橘屋円太郎として諸所の寄席に出入りしているところに、円朝となる次郎吉が生まれた。
永井啓夫は『新版 三遊亭円朝』で次のように円朝の作品創作思考過程を推察し、「円朝の創作による人情噺の多くが、複雑な人間関係の綾をおりなしているのは、決して荒唐無稽な作りごとでなく、作者が自分の家系より抱いていた実感」と述べ、また、この時代の家庭についても以下のように考察している。
≪円朝が生れた頃の家庭は父の経歴、性向によって形づくられた『血統―姻戚―義理―名誉』という意識と『怠惰―貧困―遊蕩―放浪』という現実とが交錯した不安定な状態にあったと思われる。父円太郎にとっても、家庭にとっても、家族にとっても、希望のないその日暮らしの毎日であったが、人々は更に深刻に考えることもなく、それが<芸人の世界>と割りきって、比較的楽天的に毎日を過ごしていたのであろう。もっとも、このような根無草のような享楽的、楽天的生活態度は、芸人の家庭に限らず、この時代の江戸の小市民が抱いていた共通の生活感情――いわゆる江戸っ子気質そのものだった≫と。
次号でも円朝の複雑な家系、家庭環境の触れ、それが人情噺へと織りなす過程の考察を続けたい。
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