三遊亭円朝を検討している過程で、現在は、どうも「落語ブーム」らしいということがわかってきた。
前号で紹介したが、今年から祝日となった「山の日」は、円朝祥月命日でもあり、円朝の墓がある谷中の全生庵において、以前から「圓朝座」が開催されており、今年も鈴々舎馬桜師匠が名作「牡丹燈籠」を演じられ、多くの円朝ファンを魅了したが、その席で、馬桜師匠が次のように述べられた。
「職業としての落語家が誕生してから200年の歳月が流れ、現在は歴史上一番多くの人数の落語家が居るそうです」と。
この馬桜師匠は、立教大学文学部非常勤講師でもあり、古典落語をより楽しむため、江戸・明治初期の東京の風俗や習慣、例えばお金・重さ・長さ・尺慣法や、江戸文化を語る上でかかせない廓(くるわ)・歌舞伎(しばい)と落語の関係等を教えているとのこと。
というわけで全生庵の「圓朝座」前座は、春風亭一花で立教大学卒の女性、なかなか達者な噺ぶりに「落語ブーム」を感じる。
落語の常設小屋「寄席」とは、歌舞伎座のように一年中落語の公演をしているところをいう。大阪では1軒「天満天神繁昌亭」、東京には4軒、新宿の「末廣亭」、上野の「鈴本演芸場」、浅草の「浅草演芸ホール」、池袋の「池袋演芸場」、そして20日間昼だけの興行で国立演芸場の寄席がある。
この「落語ブーム」を『AERA STYLE MAGAZIN』(31号2016年夏号)が次のように伝える。
「いま、東京のアフターファイブに異変が起きている。落語ブームだ。近年、落語には何度かブームの波があった。落語家を主人公にしたテレビドラマ『タイガー&ドラゴン』『ちりとてちん』などのヒットでそれまで落語に縁のなかった若い人たちが寄席や落語会を訪れるようになった。しかしここ1、2年の落語ブームはいままでのとはちょっと違う。勤め帰りの女性たちまでが落語を聴きに押しかけているのだ。
かつては見受けられなかった光景が出来(しゅったい)している。若手の落語界では、終演後、高座を終えて汗だくの着物姿で落語家たちが客を『お見送り』する。出口で握手、撮影、サインなどのファンサービスに応じ、追っかけのファンはプレゼントを抱えて「出待ち」する。さながらアイドルのコンサート風景だ。
小さな小屋(会場)も飛躍的に増えた。寄席形式の小さな会場がいくつか誕生し、狭いバーや小さなレストランの中、そば屋の2階の座敷に至るまで、座布団さえ置けばどこでも落語会場となる。ワンコイン寄席と呼ばれる500円の落語会も人気で、定席(常設の寄席)で夜9時半から11時まで開かれる『深夜寄席』には毎回200人を超える若い客たちが並ぶ。
〞初心者でも楽しめる〟を謳った『渋谷らくご』や、〞成りあがり〟を目指す若手ユニットの落語会『成金』は毎回満員札止めだ。
現在、落語家は東西合わせて約700人。東京在住の約500人の落語家たちが、東京の定席をはじめとして1000人収容の大ホールから、20人も入れば満杯になるような小さな会場までを埋め尽くす。居酒屋の小さな座敷なども含めると、1カ月間で東京周辺で開かれる〞落語会〟はなんと700席を超えるのだ。これは単純なブームなどではない。ハンサムでクールなサブカルチャーの誕生といっていい。いま、新しい落語ムーブメントが起きている」
毎月、約700回ということは年間換算で1万回開催に近い。すごいと思う。
その事実をNHKが2016年10月8日(土)7時のニュースで報道していた。一人の若き女性が登場し、月に一回は寄席に行くと発言。寄席では飲食自由だから、デパ地下で買った「弁当」と「つまみ類」と「缶ビール」が必需品三点セットだと見せる。
寄席でのお気に入りは、入り口で叩かれる太鼓の音。これを聞くと楽しくなるし、寄席に来たという実感が湧く。上野の鈴本演芸場経営者も登場し「一番太鼓」を説明する。
最初に太鼓の縁をカラカラカラと叩き、これは木戸口が開く音を表し、次にどんどんどんと来い、ドンドンドントコイ、金持ってどんと来いと「お客様、大勢さんいらして下さい」との願いを込めて打ち込み、打ち上げ一番太鼓では、長バチを〔入〕という字の形にして太鼓の表面をおさえる縁起をかつぐ様子も放映された。
そういえば、地元の新聞販売店から今年の1月3日に「落語会」を開催するとチラシを郵便受けに入り、希望者は電話してくれというので申し込みし、当日、会場の大宮ソニックシティホールに行ってみると、2500席がほぼ満席。この時は、人気者の春風亭小朝と三遊亭円楽ということだから、これだけおおぜい集まったのかと推測していたが、どうも何か「お金の楽しみへの使い方」が変わってきているのではないかと思えてきた。
というのも、最近、知人、友人から誘われるのはコンサートや試写会等の催し物が多くなっている。以前は「いっぱいやらないか」であったから、消費動向に変化がみられるような気がしてきてならなかった。
それを裏付ける記事が日経新聞(2016年10月13日)に掲載された。
「音楽ライブやミュージカルなど舞台パフォーマンスに足を運ぶ人も増えている。野外ステージで複数のアーティストが出演する『野外フェス』などが人気。ぴあ総研(東京・渋谷)は、コンサートや演劇などの2015年の市場規模は5119億円と前の年から約2割伸びて過去最高を記録。初めて5千億円の大台を超えた。
『歌舞伎をみる若い世代が増えてきた』として松竹は12日に3~8月期の連結純利益を上方修正し、東宝も映画『シン・ゴジラ』のヒットで業績が上振れた。
スポーツでも『体験したい』というニーズが強まっている。日本野球機構(NPB)によると16年の公式戦入場者数はセ・リーグが前年比3%増の1384万人、パ・リーグが4%増の1113万人とともに過去最高を記録。東京ドームは開催したコンサートなども人気で、16年2~7月期の営業利益は67億円と5%増えた」
つまり、消費の軸が体験に移りつつあると述べているのだが、多分、落語も、この消費動向時流に対応し、ブーム化してきたのだろうと、今ようやく分かったところ。
ところで、この現代「落語ブーム」を、円朝は泉下でどのように眺めているだろうか。
円朝は当時「新作派の旗頭」であり、それを門弟たちが継承し、またその門弟たちが継いできて、今日にいたって隆盛を誇っているのだが、不思議なことに今の時代「円朝」を名乗る落語家は存在しない。
大体、師匠の名跡を継いでいくのが、落語に関わらず多数の芸能分野の仕(し)来(きた)りではないかと推察するが、現在700名もの落語家がいても、誰も円朝を名乗る者は存在していない。現在、円朝名跡はどうなっているのか。
その経緯を『三遊亭円朝の遺言』藤原敦著が次のように述べている。
「落語三遊派宗家、についてだが、円朝が宗家になったことはないらしい。明治になって三遊派の落語家(約二百人くらい)を束ねてその統領になったが、家元とも宗家とも呼ばせなかった。それで人は円朝を大師匠(おおししょう)と称した。もともと落語家の尊称は〞師匠〟であり、これは真打になってはじめて許される。一般に大師匠というのはない。すべて師匠だ。それに〞大〟の一字を冠して称されたのは円朝だけだが、それはちょうど、徳川の将軍家のなかで家康のみが〞大御所〟と尊称されるのに似ている。円朝自身は〞大師匠〟と呼ばれるのを嫌った。そのため、一般に大師匠と呼ばれたのは彼の死後である。
さて宗家だが、何時、何処で、誰れが、どういう風に、きめたのか判(はつ)きりしない。これについての書き残しはない。円朝も藤原周吉(著者である藤原敦の祖父=筆者注)も、そういう仰々しいことは好まなかった。おそらく、円朝や周吉、伊藤博文、井上薫、山県有朋、黒田清隆、西郷従道といった人たちが話し合っているうちに、藤原周吉を宗家にしてしまったのにちがいない。このことについては伊藤博文の実子で自分もアマチュア奇術の名人だった伊藤真一さんが父親(博文)から聞いた、といって私にはなしてくれたことがある。『宗家はなんとなくきまったらしい』という。このなんとなく、というところがこの連中らしくて面白い。私の父が少年のころ、円朝から周吉へとどいた手紙に『三周宗家様』とあるのを見た。三周とは私の家の屋号の三河屋の
〞三〟と名前の周吉の〞周〟を縮(ちぢ)めて称したものだ。これは円朝と宗家とは別であり、円朝は三遊派の落語家の総領で、三遊派の宗家は藤原周吉、ということになっていたのだ。それが円朝の死後、その名跡である〞円朝〟も宗家であずかり、藤原家は名実ともに、宗家と円朝名跡継承者、とを兼ねたのである。そのため、しばしば円朝宗家ともいわれた。以上は私の父が周吉や円朝、そして明治の大官たちの言葉を記憶していて私に話したことである」
著者の藤原敦氏は周吉の孫であることが分かったが、この記述内容、分かったようで、よく分からない。それは円朝と藤原周吉の関係のはじまりが明確でないからである。もう少し『三遊亭円朝の遺言』を見てみたい。
「芸人の面倒を見るということは大変なことで、よほどの財力がないとできない。これは今も昔も変わらない。だが、私の家で円朝の面倒を見たのは想像を絶するものだった。円朝は老いぼれて寄席を休んだのではない。常に最高の芸を心がけていた彼は、まだ充分にできるけれど、少し調子が落ちて来たと自分で悟ったとき休養を申し出た。これを聞いて三周は円朝に『自分で納得できない芸は慎むべきだ』といって休ませた。その代り『これからの面倒はすべて私が取り仕切る』といった。これが大変なことで、たとえばどこかの旦那が芸者を落籍せて妾宅を与えて毎月の生活費を援(たす)ける、なんていう、しみったれたはなしではない。なにしろ円朝は門人が二百名で、しかも彼自身が現役だ。毎日、円朝が仕事をすれば幾何の銭が入って(これが莫大)自分の一家や弟子の世話、諸方との交際(つきあい)などをすべてこれでまかなう。それで、私の家では、そういう次第の円朝の収入から出銭(でせん)から一切合財の面倒を見た。こういうのを円朝を丸抱えにするというのである。私の父は『親父のあの真似は私にはとうていできない』と、自分の親ながら感心していた。そして『円朝はまるで親父を兄貴のようにしてなついていたよ』と笑っていたが、この『なついている』というのは言い得て妙だった。いつか吉井勇がどこからか美術品の売立帳を見つけて持ってきた。父が見ると『藤原家所蔵美術品目録』とある。それをみると、遠くは丸山応挙から酒井抱一、与謝野蕪村などの絵画や、仁(にん)清(せい)・乾山(けんざん)のやきものなど、重要文化財級の銘品がずらりと並んでいる。『大変なもんだね、一体なんでこれを』と吉井勇がいうと、父は『これをみんな円朝が食っちゃったんだよ』といった。円朝の丸抱えにはそれほど莫大な入費がかかった。だが、私の父が周吉の後を継いだときには、使いきれないくらいの身代だったらしい。父が『大事にします』というと、周吉は笑って『俺は五貫六百の元手から商売を始めたんだ。ここまで太ったが、なに、お前さん全部つかってもいいよ。ただし元手の五貫六百(五十六銭のこと)だけは残しといてくんなよ』といった。それで父は自分が身代を大事にしますといった言葉を恥じた。そして『勇さん、俺は一生懸命に財産を減らすようにきめたよ』というと、吉井勇は『円朝が聞いたら、さぞ喜んだことだろうね』といった」
このように藤原周吉は徹底的に円朝の面倒を見たのだが、それに至る経緯がはっきりしない。これだけ円朝に尽くしたのだから、相当の理由があったのだろうと思う。
一説に、円朝の名跡が藤浦家のものになったのは、藤浦周吉が円朝の名跡を借金の担保にして、円朝を経済的に支援した縁によるものいう。
『新版三遊亭円朝』永井啓夫著では次のように述べている。
「明治十八年に建碑した藤原家の墓碑銘は、山岡鉄舟の筆になるものであるから、この頃には三河屋も経営の基礎を固め、円朝の紹介によって鉄舟とも親しく接することができたのであろう。周吉はまた三周の号で通人としてもよく知られ、俳優芸人等の出入りも多かった。
円朝の死後、その名跡をあずかったのをはじめとして、俳優大谷友右衛門の名跡をあずかるなど、芸能界に対する隠れた功績も大きい」
この内容でも、円朝と周吉の関係の発端、切っ掛けがはっきりしていないが、円朝と周吉は時の大物政治家たちとも深いつきあいがあったと『三遊亭円朝の遺言』が述べる。
「円朝と祖父は塩せんべいと汁粉をたべていた。これが京橋は大根河岸の三周こと三河屋周吉、すなわち元徳川家御直参旗本藤原周吉が維新ののち開いた青物問屋の店先で、汁粉を大きな鍋でつくり、塩せんべいをそれこそせんべい屋の店が開けるくらい買ってきて皆(み)んなしてたべていた。すると、そこへ当時、政府の大臣になっていた黒田清隆と伊藤博文が酒徳利を沢山ぶらさげてやって来た。『何んだい藤浦、せんべいか』と伊藤。「師匠、おはん汁粉を食うちょるけ、いかん」と黒田。しかし円朝は『酒の肴にせんべいなぞ乙でげすよ』というと、『よか、よか』と黒田はせんべいを十枚くらい積んで、うん、と声かけて割って『これをくらって酒じゃ、茶わんの方がよかよ』と、そのまま店先で四人の宴会となった。もう祖父の周吉も商売どころではなくそのまま話しこんでいたら、黒田清隆が酔っぱらって剣術の話を始めた。周吉と二人で自慢くらべして、しまいには立ち上がって棒っ切れを振り廻しての大立ち廻りを演じだした。止めに入った円朝は、くそぢからのある黒田清隆を羽交締めに抱きとめ微動もさせなかった。伊藤博文もゲンコを固めて振り廻して二人をなだめた。黒田がもがけばもがくほど円朝の力は強くなって万力のようになった。これには黒田清隆もあきれて、『円朝師匠、おはん物凄う力強かお人じゃ、かなわん、かなわん』とかぶとを脱いだという。当時、伊藤も黒田も総理大臣級の政治家だったが、『いまの大臣のように勿体ぶったり、用心深くつまんなくしないで豪放闊達で人間味あふれていたよ』と、周吉は私の父に始終はなしていた。『それにしても大師匠の大力には恐れ入ったね。若い頃はさぞかし喧嘩が強かっただろうね』と聞くと、円朝は微笑を浮かべて『どう致しまして、なかなか』と答えたそうだが、否定はしなかったから私のうちでは円朝は強かった、となっている」
このように藤原周吉は『三遊亭円朝の遺言』では元旗本となっているが、『新版三遊亭円朝』では異なる経歴で紹介されている。
「菊五郎の風船乗りが評判になった一月の十六日(注 明治24年)、円朝とゆかり深い後援者で大根河岸三河屋こと藤原周吉――通称三周の父周介が七十七歳の高齢で逝去した。
藤原家は、円朝の死後その名跡をあずかり、三遊宗家となったことなど、円朝と最も関係の深い家である。
周助は文化十二年(1815)、三河国二本木(愛知県碧南市鷲塚)に生れ、若年の頃、結婚を許されなかったため恋人と郷里を出奔し、江戸深川で世帯を持ち、弘化四年、一子周吉をもうけた。
周吉は安政二年、九歳のとき江戸の大地震で母を失ったが、この頃より、京橋北紺屋町
――通称大根河岸(中央区八重洲六丁目、京橋二丁目付近)の青物問屋加茂屋に奉公し、長ずるに従って主家の繁盛に功があった。明治八年、二十一歳のとき、十円の手当を貰って独立し仲買人となった。のち三河屋という屋号で問屋を経営するようになったが、家計は苦しく、世帯道具一切を投じて借金するようなこともしばしばあった。
あるとき、強制執行のため執達吏が来ると知らされたが、家の中は無一物で、これでは差押えに逢うにしてもみっともないからと、親交のあった円朝にたのみ、著名な道具屋名草屋金七の家におもむき、文晁の大幅の山水画と遊環青磁の花活の二点を代金後払いの約束で購入し、家にもってかえって執達吏の訪れるのを待っていたこともあったという。このときの差押えは事前に示談が成立したので無事にすみ、二点は家の宝として後に伝えられた。
周吉のこのような豪放な気質は、やがて世間にみとめられ、やがて父子の経営する三河屋は大根河岸の問屋筋でも有力な立場を占めるようになり、市場の運営にも多くの功績を挙げた」
『新版三遊亭円朝』では9歳の頃に青物問屋に奉公したとあるから、徳川家直参旗本ではないことになるが、周吉の孫である藤原敦著の『三遊亭円朝の遺言』では元徳川家御直参旗本藤原周吉と明確に述べている。
どちらが正しいのか判断つかないが、いずれも円朝とは深い関係であることは認めつつも、その発端については触れていない。何かの理由がなければ、これほど親しくはならないはず、いずれ検討究明したい。
ところで、円朝の名跡を継ぐ者として小朝の名前が挙がったことがあったらしい。それを小朝の元妻・泰葉が、週刊文春(2008年05月22日号)で、藤浦敦から小朝に円朝襲名の話が実際にあったが、小朝本人がそれを固辞したというのだ。
確かに藤浦敦は小朝を高く評価しており、著書『三遊亭円朝の遺言』で春風亭小朝と対談した際、次のように語っている。
「落語を聞く側も勉強しなければいけないんですよ。だって、カブキを見る人はカブキのことを勉強するでしょ、じゃなきァ、カブキは理解できない。落語もそうなんですよ、落語を知るのに必要なことは勉強して覚えなくてはいけません。ただ、聞けばいいてぇもんじゃありません。また、落語家も聞く人に勉強させるくらいの良い落語を演(や)んなくてはいけません。そうすれば客と演者が一体となる。これも必要ですよ。それと、落語界の指導者ですがね、どうしても必要なら、つくればいい、貴方が指導者になりなさい。なにも明日そうなれってんじゃなく、貴方がリーダーとなって若い人たちを引っ張って行きなさい。小朝師匠、貴方にはその責任があるんですよ。また、その資格も実力もある」
これに対し、小朝は「これは大変なことになってきました」と受け答えている。
いずれにしても落語界で別格の名人・円朝については興味が尽きない。その出自を含め、鉄舟との関係をこれから見ていきたい。
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